明治・大正期の陸軍将官総覧一覧表


 名 前  生年  出身地 明治期役職・学校 最終階級   最終担当職
山縣 有朋 天保9年 長州 内閣総理大臣 陸軍大将 第7代 司法大臣
大山 巌 天保13年 薩摩 初~7代陸軍大臣 陸軍元帥 内大臣
高島 鞆之助 天保15年 薩摩 5.8代陸軍大臣 陸軍中将 陸軍大臣,拓殖務大臣
児玉 源太郎 嘉永5年 長州 13~14代陸軍大臣 陸軍大将 内務大臣・文部大臣 「明治陸軍の三羽烏」
桂 太郎 弘化4年 長州 11.13.15内閣総理大臣 陸軍大将 各大臣      「明治陸軍の三羽烏」
寺内 正毅 嘉永5年 長州 15~17代陸軍大臣 陸軍元帥 明治期:陸軍大将
寺内 寿一 明治12年 山口 陸軍大学校(21期) 陸軍元帥 昭和期:南方軍総司令官 正毅の子
川村 景明 嘉永3年 薩摩 陸軍元帥 鴨緑江軍司令官
小松宮彰仁親王 弘化3年 皇族 奥羽征討総督 陸軍元帥 近衛師団長、参謀総長
奥 保鞏 弘化3年 小倉藩 陸軍元帥 第2軍司令官,陸軍参謀総長
長谷川 好道 嘉永3年 岩国藩 陸軍元帥 朝鮮駐剳軍司令官、参謀総長
野津 道貫 天保12年 薩摩 陸軍元帥 第4軍司令官
上原 勇作 安政3年 薩摩 陸軍士官学校 陸軍元帥 第4軍参謀長, 第19代陸軍大臣
武藤 信義 慶応4年 佐賀 陸軍大学校(13期) 陸軍元帥 教育総監、参謀総長
杉山 元 明治13年 福岡 陸軍大学校(22期) 陸軍元帥 陸軍大臣、参謀総長、教育総監
梨本宮守正王 明治7年 東京皇族 フランス陸軍大学 陸軍元帥
久邇宮邦彦王 明治6年 皇族 陸大学(16期恩賜 陸軍元帥 近衛師団長
畑 俊六 明治12年 福島 陸軍大学校(22期) 陸軍元帥 第二総軍司令官
乃木 希典 嘉永2年 長州 陸軍大将 日露戦争は第3軍司令官
 
有坂 成章 嘉永5年 長州 陸軍中将 銃砲技術
石本 新六 嘉永7年 姫路 陸軍次官 陸軍中将 第18代陸軍大臣
井上 光 嘉永4年 岩国藩 陸軍士官学校 陸軍大将 第12師団長
飯田 俊助 弘化3年 長州 陸軍中将 第1師団長
伊地知 幸介 安政元年 薩摩 陸軍士官学校 陸軍中将 第3軍参謀長,東京湾要塞司令官
茨木 惟昭 嘉永2年 紀州藩 陸軍中将 留守第4師団長
伊瀬知 好成 嘉永1年 薩摩 陸軍中将 第6師団長
上田 有沢 嘉永3年 徳島藩 陸軍大将 第5師団師団長、朝鮮駐剳軍司令官
宇佐川 一正 嘉永2年 長州 日清戦争第1軍参謀 陸軍中将 軍務局長
梅沢 道治 嘉永6年 仙台藩 大坂陸軍兵学寮 陸軍中将 後備歩兵第5旅団長
楠瀬 幸彦 安政5年 土佐 陸士官学(旧3期) 陸軍中将 満州軍重砲隊司令官、   陸軍大臣
岡 市之助 安政7年 長州 陸士官学(旧4期) 陸軍中将 陸軍省軍務局軍事課長、陸軍大臣
大島 健一 安政5年 美濃岩村 陸士官学(旧4期) 陸軍中将 大本営勤務、       陸軍大臣
小川 又次 嘉永元年 小倉藩 兵学寮生徒 陸軍大将 第4師団
川上 操六 嘉永元年 薩摩 陸軍大将 「明治陸軍の三羽烏」 参謀総長
岡沢 精 弘化元年 長州 陸軍大将 侍従武官長
岡崎 生三 嘉永4年 土佐 陸軍中将 歩兵第15旅団長、第13師団長
大久保 春野 弘化3年 静岡県 陸軍大将 第6師団長、朝鮮駐剳軍司令官
大迫 尚敏 天保15年 薩摩 歩兵第5旅団長 陸軍大将 第7師団
大島 久直 嘉永元年 秋田藩 歩兵第6旅団長 陸軍大将 第9師団長、近衛師団長、教育総監
大島 義昌 嘉永3年 長州 歩兵第9旅団長 陸軍大将 第3師団長、関東総督
沖原 光孚 嘉永元年 岩国藩 歩兵第13連隊長 陸軍中将 第15師団長
勝田 四方蔵 弘化2年 長州 第2軍工兵部長 陸軍中将 留守第12師団長
木村 有恒 嘉永4年 徳島 歩兵第3連隊長 陸軍中将 近衛歩兵第1旅団長、第18師団長
木越 安綱 嘉永7年 加賀 陸士官学(旧1期) 陸軍中将 第5師団長、       陸軍大臣
黒瀬 義門 弘化3年 岡山県 第2軍砲兵部長 陸軍中将 台湾守備隊司令官、留守第7師団長
楠瀬 幸彦 安政5年 土佐 陸士官学(旧3期) 陸軍中将 満州軍重砲隊司令官、   陸軍大臣
黒田 久孝 弘化2年 幕臣 陸軍中将 東京湾要塞司令官、東宮武官長
黒木 為楨 天保15年 薩摩 第6師団長 陸軍大将 第1軍司令官
小泉 正保 安政2年 水戸 陸軍士官学旧1期 陸軍中将 第8師団長
鮫島 重雄 嘉永2年 薩摩 近衛師団参謀長 陸軍大将 第11師団長、第14師団長
佐久間 左馬太 天保15年 長州 第2師団長 陸軍大将 東京衛戍総督、近衛師団長
佐野 延勝 嘉永2年 幕臣 陸軍中将 騎兵監、貴族院議員
佐々木 直 嘉永5年 山口 陸軍中将 歩兵第12旅団長
阪井 重季 弘化3年 土佐 陸軍中将 後備第1師団長
渋谷 在明 安政3年 和歌山 陸軍大学校(2期) 陸軍中将 輜重兵監
島村 干雄 安政3年 土佐 陸軍少将 陸軍中将 歩兵第24旅団長
塩屋 方圀 嘉永2年 石川県 第1軍兵站監 陸軍中将 東京湾要塞司令官
仙波 太郎 安政2年 愛媛県 陸軍中将 第3師団長、第1師団長
竹内 正策 嘉永4年 土佐 第1軍兵站参謀長 陸軍中将 歩兵第25旅団長
田村 怡与造 嘉永7年 甲斐国 陸士官学(旧2期) 陸軍中将 参謀本部総務部長、日露戦争前死去
森 鴎外 文久2年 石見国 東京大学医学部 陸軍医総監 陸軍省医務局長
 名 前  生年  出身地  明治期階級  最終階級   最終担当職
立見 尚文 弘化2年 桑名藩 歩兵第10旅団長 陸軍大将 第8師団長(初代)
塚本 勝嘉 弘化4年 大垣藩 歩兵第6連隊長 陸軍中将 第4師団長、第9師団長
土屋 光春 嘉永元年 岡崎藩 大阪陸軍兵学校 陸軍大将 第11師団長、第14師団長、第4師団長
東條 英教 安政2年 盛岡 陸軍大学校(1期) 陸軍中将 歩兵第三旅団長 解任 東條英機の父
豊島 陽蔵 嘉永5年 安芸国 陸士学校(旧2期) 陸軍中将 重砲兵監
豊辺 新作 文久2年 長岡藩 陸士学校(旧5期) 陸軍中将 騎兵第四旅団長
中村 雄次郎 嘉永5年 伊勢 フランス留学 陸軍中将 陸軍総務長官
長岡 外史 安政5年 周防国 陸士学校(旧2期) 陸軍中将 第13、16師団長
永沼 秀文 慶応2年 仙台藩 陸士官学(旧8期) 陸軍中将 騎兵第一旅団長
西 寛二郎 弘化3年 薩摩藩 歩兵第2旅団長 陸軍大将 第2師団長、教育総監
西島 助義 弘化4年 長州 歩兵第11連隊長 陸軍中将 歩兵第7旅団長、第2師団長、第6師団長
野津 鎮雄 天保6年 薩摩 陸軍中将 西南戦争で、第一旅団司令長官急死22
野口 坤之 万延元年 会津 陸軍大学校(4期) 陸軍中将 歩兵第一旅団長
原口 兼済 弘化4年 森藩(大分) 第4師団参謀長 陸軍中将 第13師団長
平佐 良蔵 嘉永4年 長州 歩兵第10連隊長 陸軍中将 歩兵第18旅団長、第15師団長
藤井 茂太 万延元年 兵庫県 陸軍大学校(1期) 陸軍中将 野戦砲兵監、第12師団長
古川 宣誉 嘉永2年 幕臣 沼津兵学校 陸軍中将 第4軍兵站監
前田 隆礼 嘉永元年 十津川郷士 陸軍中将 台湾守備混成第2旅団
松永 正敏 嘉永4年 熊本 陸軍戸山学校 陸軍中将 第2師団長
松村 務本 嘉永5年 加賀 陸軍中将 第1師団長 戦病死
三好 成行 弘化2年 長州 歩兵第7連隊長 陸軍中将 留守第2師団長
村田 惇 嘉永7年 幕臣 陸士学校(旧2期) 陸軍中将 陸軍築城部本部長
山沢 静吾 弘化2年 薩摩 陸軍中将 第4師団長
山田 保永 嘉永3年 紀伊国 第2軍副官 陸軍中将 歩兵第9旅団長、樺太守備隊司令官
山地 元治 天保12年 土佐 陸軍中将 第1師団長
山根 武亮 嘉永6年 長州 陸士学校(旧1期) 陸軍中将 近衛師団長
山口 素臣 弘化3年 長州 陸軍大将 第5師団長,軍事参議官
矢吹 秀一 嘉永2年 一橋家家臣 陸軍中将 留守第1師団長
柚原 完蔵 明治5年 津藩 陸軍大学校(15期) 陸軍中将 第6師団長
池田 正介 安政2年 陸軍士官学 陸軍少将 後備歩兵第17旅団長
今澤 義雄 安政5年 岡崎藩 陸士学校(旧4期) 陸軍少将 工兵部長、陸軍技術審査部工兵部長
太田 貞固 嘉永3年 信濃国 守備隊歩兵第4連隊長 陸軍少将 歩兵第30旅団長
加藤 泰久 安政元年 幕臣 陸士学校(旧2期) 陸軍少将 広島湾要塞司令官
北川 武 安政5年 三河国 陸軍士官学校旧3期 陸軍少将 電信教導大隊
可兒(可児)春淋 弘化3年 大垣藩 陸軍少将 歩兵第29連隊長
佐藤 正 嘉永2年 広島藩 陸軍少将 歩兵第18連隊長
田村 怡与造 嘉永7年 甲斐国 陸軍士官学校旧2期 陸軍少将 死去で陸軍中将に進級 長男
武田 秀山 嘉永6年 土佐 陸軍少将 歩兵第2旅団長
山川 浩 弘化2年 会津 陸軍少将  
石黒 忠悳 弘化2年 幕臣 陸軍軍医総監
石坂 惟寛 天保11年 備前国 軍医監  
土岐 頼徳 天保14年 美濃国 軍医総監 台湾総督府陸軍局軍医部長
佐藤 進 弘化2年 常陸 軍医総監
村上 正路 嘉永5年 山口 203高地 陸軍大佐 日露戦争で捕虜としてロシアにだ捕
長谷川 戍吉 慶応4年 会津 軍騎兵少佐 戦後旧部下の不祥事が原因で自決
比志島 義輝 弘化4年 薩摩 歩兵第15旅団長 陸軍中将 後備歩兵第9旅団長
山田 忠三郎 安政4年 京都 陸士官学(旧2期) 陸軍中将 歩兵第10旅団長、第14師団長

大正時代での最終階級の将官

 名 前  生年  出身地  明治期階級  最終階級   最終担当職
秋山 好古 安政6年 松山藩 陸軍大校(1期) 陸軍大将 教育総監
青木 宣純 安政6年 宮崎 陸士官校(旧3期) 陸軍中将  
明石 元二郎 元治元年 福岡 陸軍大校(5期) 陸軍大将 第7代台湾総督
浅田 信興 嘉永4年 埼玉 陸軍兵学寮 陸軍大将 教育総監、軍事参議官
阿部 貞次郎 文久2年 新潟 陸軍大校(5期) 陸軍中将 陸軍築城部本部長
新井 亀太郎 明治8年 群馬 陸軍大校(19期) 陸軍中将 第七師団長
安東 貞美 嘉永6年 信濃飯田 陸軍兵学寮 陸軍大将 第12師団長、台湾総督
石井 隼太 安政3年 宮崎 陸士官校(旧2期) 陸軍中将 野戦砲兵第2旅団長
井上 仁郎 元治元年 愛媛 陸士官校(旧7期) 陸軍中将 下関要塞司令官
井上 幾太郎 明治5年 山口県 陸士官校(4期) 陸軍大将 初代航空部本部長
井上 一次 明治6年 石川県 陸士官校(5期) 陸軍中将 第2師団長
石井 常造 明治8年 福島 陸士官校(7期) 陸軍少将 基隆要塞司令官
石光 真臣 明治3年 熊本 陸軍大校(14期) 陸軍中将 第1師団長
一戸 兵衛 安政2年 弘前藩 陸軍兵学寮 陸軍大将 第4師団長、教育総監
稲垣 三郎 明治3年 島根県 陸軍大校(13期) 陸軍中将 浦塩派遣軍参謀
井戸川 辰三 明治2年 宮崎県 陸士官校(1期) 陸軍中将 近衛歩兵第2旅団長、第13師団長
井口 省吾 安政2年 駿河国 陸士官校(旧2期) 陸軍大将 第15師団長,朝鮮駐剳軍司令官
市川 堅太郎 明治3年 石川 陸軍大校(14期) 陸軍中将 第15師団長
内野 辰次郎 慶応4年 福岡 陸軍大校(16期) 陸軍中将 第14師団留守司令官、第7師団長
神尾 光臣 安政2年 信濃国 陸軍大将  
内山 小二郎 安政6年 鳥取藩 陸軍大校(4期) 陸軍大将 第15師団長
宇都宮 太郎 文久元年 佐賀 陸軍大校(6期) 陸軍大将 第4師団長、朝鮮軍司令官
小原 伝 文久元年 愛媛 陸軍大校(5期) 陸軍中将 由良要塞司令官、第5師団長
大迫 尚道 嘉永7年 薩摩 陸士官校(旧2期) 陸軍大将 野砲兵第二旅団長、野砲兵監
大谷 喜久蔵 安政2年 小浜藩 陸士官校(2期) 陸軍大将 青島守備軍司令官、教育総監
尾野 実信 慶応元年 福岡県 陸軍大校(10期) 陸軍大将 陸軍次官、関東軍司令官
大島 健一 安政5年 美濃国 陸士官校(旧4期) 陸軍中将 陸軍大臣
大庭 二郎 元治元年 長州 陸軍大校(8期) 陸軍大将 第3師団長教育総監
落合 豊三郎 文久元年 松江 陸軍大校(2期) 陸軍中将 第2軍参謀長、東京湾要塞司令官
小野寺 重太郎 明治3年 福井 陸軍大学校(14期) 陸軍中将 第8師団長
大久保 徳明 万延元年 土佐 陸士官校(旧3期) 陸軍中将 陸地測量部長、旅順要塞司令官
岡田 重久 明治3年 土佐 陸軍大学校(15期) 陸軍中将 歩兵第1旅団長
緒方 勝一 明治8年 佐賀 陸軍士官学校(7期) 陸軍大将 陸軍造兵廠長官
奥田 重栄 明治5年 会津 陸士官学(5期) 海軍少将 台湾第2守備隊司令官
小山 満雄 明治10年 会津 陸士官校(9期) 陸軍少将 歩兵第十六連隊長
川岸 文三郎 明治15年 群馬 陸士官学(15期) 陸軍中将 東部防衛司令官
金谷 範三 明治6年 大分 陸軍大学校(15期) 陸軍大将 参謀総長
河内 礼蔵 文久2年 鹿児島 陸士官校(旧7期) 陸軍中将 第2師団長
河村 恭輔 明治16年 山口 陸軍大学校(27期) 陸軍中将 第1師団長
河村 正彦 慶応4年 山口 陸軍大学校(11期) 陸軍中将 第13師団長
神戸 次郎 慶応4年 庄内藩 陸軍士官学1期 陸軍少将 留守隊司令官
神尾 光臣 安政2年 諏訪 陸軍教導団 陸軍大将 青島守備軍司令官、東京衛戍総督
河合 操 元治元年 杵築藩 陸士官校(旧8期) 陸軍大将 軍事参議官、参謀総長
蠣崎 富三郎 文久元年 松前藩 陸軍大学校(7期) 陸軍中将 第1軍兵站監部参謀長、第11師団長
菊池 慎之助 慶応2年 水戸藩 陸軍大学校(11期) 陸軍大将 教育総監
菊池 武夫 明治8年 肥後国 陸軍大学校(18期) 陸軍中将 参謀本部付
岸本 綾夫 明治12年 岡山藩 陸軍士官学校(11期) 陸軍大将 陸軍造兵廠長官
黒河内 信次 明治5年 会津 陸軍士官学(5期) 海軍少将 基隆要塞司令官
桑木 崇明 明治18年 石川 陸軍大学校(26期) 陸軍中将 第110師団長
桑田 安三郎 明治7年 広島 陸軍大学校(17期) 陸軍中将 野戦重砲兵第1旅団長
国司 伍七 明治3年 山口 陸軍大学校(15期) 陸軍中将 第7師団長
栗田 直八郎 万延元年 三重 陸軍大学校(8期) 陸軍中将 東京衛戍総督
小池 安之 元治元年 茨城 陸軍大学校(9期) 陸軍中将 憲兵司令官
小泉 六一 明治8年 広島 陸軍大学校(17期) 陸軍中将 第11師団長、第3師団長
厚東 篤太郎 明治11年 山口 陸軍大学校(22期) 陸軍中将 第11師団長
小嶋 時久 明治14年 栃木 陸軍大学校(24期) 陸軍少将 陸軍自動車学校長
小松 八四郎 明治8年 会津 陸軍士官学(7期) 陸軍少将 工科学校長
兒玉 友雄 明治14年 山口 陸軍大学校(22期) 陸軍中将 西部防衛司令官、児玉源太郎の三男
坂部 十寸穂 明治10年 徳島 陸軍大学校(20期) 陸軍中将 第3師団長
相良 広一 明治6年 佐賀 陸軍士官学(9期) 陸軍少将 歩兵第6連隊長
佐藤 小次郎 明治5年 三重 陸軍大学校(15期) 陸軍中将 東京湾要塞司令官
斎藤 力三郎 文久元年 千葉 陸軍大学校(5期) 陸軍中将 第18師団長
榊原 昇造 安政6年 江戸 陸軍士官学旧3期 陸軍中将 由良要塞司令官
佐藤 房隆 明治2年 会津藩 陸軍士官学(1期) 陸軍少将 歩兵第六十六連隊長
柴 勝三郎 文久3年 茨城 陸軍大学校(6期) 陸軍中将 第18師団長
柴 五郎 万延元年 会津藩 重砲兵第2旅団長 陸軍大将 台湾軍司令官、軍事参議官
白井 二郎 慶応3年 長州 陸軍大学校(9期) 陸軍中将 第8師団長
白川 義則 明治元年 松山 陸軍大学校(12期) 陸軍大将 昭和2年陸軍大臣、上海派遣軍司令官
清水 喜重 明治13年 愛媛 陸軍大学校(22期) 陸軍中将 第12師団長
渋谷 伊之彦 明治14年 高知 陸軍大学校(23期) 陸軍中将 第16師団長
嶋 永太郎 明治13年 福岡 陸軍大学校(23期) 陸軍中将 歩兵第10旅団長
島川 文八郎 元治元年 津藩 陸軍士官学校(7期) 陸軍大将 陸軍技術本部長
尾高 亀蔵 明治17年 佐賀 陸軍大学校(28期) 陸軍中将 第3軍司令官
鈴木 一馬 明治6年 青森 陸軍士官学(5期) 陸軍中将 支那駐屯軍司令官
菅野 尚一 明治4年 山口県 陸軍大学校(13期) 陸軍大将 台湾軍司令官
鈴木 荘六 元治2年 越後国 陸軍大学校(12期) 陸軍大将 第2軍参謀、陸軍参謀総長
鈴木 孝雄 明治2年 関宿藩 陸軍士官学(2期) 陸軍大将 陸軍技術本部長,
曽田 孝一郎 明治5年 島根 陸軍大学校(16期) 陸軍中将 工兵監
高柳 保太郎 明治2年 石川 陸軍大学校(13期) 陸軍中将 浦塩派遣軍高級参謀
高山 公通 慶応3年 鹿児島 陸軍大学校(13期) 陸軍中将 独立守備隊司令官
谷 寿夫 明治15年 岡山 陸軍大学校(24期) 陸軍中将 第59軍司令官 BC級戦犯死刑
高島 友武 慶応3年 薩摩 陸軍士官学旧10期 陸軍中将 第19師団長
竹下 平作 元治元年 熊本 陸軍大学校(6期) 陸軍中将 歩兵第1旅団長
竹田宮恒久王 明治15年 皇族 陸軍大学校(22期) 陸軍少将 スペイン風邪のため薨去。享年37。
多田 駿 明治15年 宮城 陸軍大学校(25期) 陸軍大将 北支那方面軍司令官
武内 徹 慶応3年 福井 陸軍少将 陸軍中将 連合国軍事輸送部長
立花 小一郎 万延2年 三池藩 陸軍大学校(5期) 陸軍大将 関東軍司令官,浦塩派遣軍司令官
田村 沖之甫 慶応元年 甲斐国 陸軍大学校(13期 陸軍中将 野戦砲兵第1旅団長
田村 守衛 明治4年 甲斐国 陸軍大学校(15期 陸軍中将 満州軍参謀、騎兵第1旅団長
多門 二郎 明治11年 静岡 陸軍大学校(21期) 陸軍中将 第2師団長
田中 国重 明治2年 鹿児島 騎兵第16連隊長 陸軍大将 台湾軍司令官
田中 弘太郎 元治元年 園部藩 陸士官学旧9期 陸軍大将 陸軍科学研究所長
津野 一輔 1874年 山口県 陸軍大学校(15期 陸軍中将 陸軍次官、近衛師団長
中村 覚 安政元年 彦根藩 陸軍兵学寮 陸軍大将 東京衛戍総督
南部 辰丙 安政3年 石川 陸士学校(旧1期) 陸軍中将 第2師団長
奈良 武次 慶応4年 栃木 陸軍大学校(13期) 陸軍大将 侍従武官長
中島 今朝吾 明治14年 大分 陸軍大学校(25期) 陸軍中将 第4軍司令官
中島 正武 明治3年 高知 陸軍大学校(13期) 陸軍中将 第2師団長、近衛師団長
中島 完一 明治15年 岐阜 陸軍大学校(27期) 陸軍中将 基隆要塞司令官
長嶺 俊之助 明治8年 秋田 陸軍士官学(8期) 陸軍少将 歩兵第31連隊長
中村 緑野 明治元年 秋田藩 秋田医学校(甲種 軍医総監 関東軍軍医部長
永持 源次 明治17年 東京 陸砲工学高科(15期 陸軍中将 造兵廠大阪工廠長
二宮 治重 明治12年 岡山 陸軍大学校(22期) 陸軍中将 参謀次長、第5師団長
西 義一 明治11年 福島 陸軍大学校(21期 陸軍大将 教育総監
西川 虎次郎 慶応3年 福岡 陸軍大学校(11期) 陸軍中将 第13師団長
仁田原 重行 文久2年 福岡 陸軍大学校(4期) 陸軍大将 近衛師団長、東京衛戍総督
西尾 寿造 明治14年 鳥取 陸軍大学校(22期) 陸軍大将 支那派遣軍総司令官
芳賀 栄次郎 元治元年 会津 陸軍軍医学校校長 軍医総監 中将相当官
橋本 虎之助 明治16年 愛知 陸軍大学校(22期) 陸軍中将 近衛師団長
長谷川 直敏 明治6年 京都 陸軍大学校(19期) 陸軍中将 近衛師団長、東京警備司令官
秦 真次 明治12年 福岡 陸軍大学校(21期 陸軍中将 東京湾要塞司令官
林 弥三吉 明治9年 石川 陸軍大学校(17期) 陸軍中将 歩兵第3旅団長
林 仙之 明治10年 熊本 陸軍大学校(20期) 陸軍大将 第1師団長、東京警備司令官
原口 初太郎 明治9年 福岡 陸軍大学校(19期) 陸軍中将 第5師団長
蓮沼 蕃 明治16年 石川 陸軍大学校(23期) 陸軍大将 侍従武官長
畑 英太郎 明治5年 福島 陸軍大学校(17期) 陸軍大将 関東軍司令官
坂西 利八郎 明治3年 和歌山 陸軍大佐 陸軍中将 北京政府応聘
樋口 喜吉 慶応元年 会津 陸軍大佐 陸軍少将 第11師団参謀長
菱刈 隆 明治4年 薩摩 陸軍大学校(16期) 陸軍大将 関東軍司令官、軍事参議官
広瀬 猛 明治15年 山梨 陸軍大学校(22期) 陸軍中将 所沢陸軍飛行学校長
久松 定謨 慶応3年 静岡旗本 サンシール陸軍士官学校 陸軍中将 歩兵第1旅団長
深沢 友彦 明治13年 熊本 陸士官学校(12期) 陸軍中将 留守第10師団長
藤井 幸槌 文久4年 山口 陸軍大学校(8期) 陸軍中将 第7師団長、近衛師団長
古海 厳潮 慶応元年 愛媛 陸軍大学校(10期 陸軍中将 第17師団長
福島 安正 嘉永5年 松本藩 陸軍士官登用試験 陸軍大将 参謀本部次長、関東都督
福田 雅太郎 慶応2年 大村藩 陸軍大学校(9期) 陸軍大将 台湾軍司令官
古荘 幹郎 明治15年 熊本 陸軍大学校(21期 陸軍大将 第5軍司令官、第21軍司令官
本郷 房太郎 万延元年 篠山藩 陸士官学校(3期) 陸軍大将 青島守備軍司令官
星野 庄三郎 明治2年 新潟 陸軍大学校(14期) 陸軍中将 野戦交通部長、第9師団長
堀 丈夫 明治14年 奈良 陸士官学校(13期) 陸軍中将 第1師団長、留守航空兵団司令官
堀内 文次郎 文久3年 松代藩 陸軍士官学校旧7期 陸軍中将 歩兵第23旅団長
本庄 繁 明治9年 兵庫 陸軍大学校(19期) 陸軍大将 関東軍司令官
星野 金吾 文久3年 新潟 陸軍大学校(6期) 陸軍中将 第17師団長
本多 道純 文久元年 江戸 陸士学校(旧5期) 陸軍中将 軍馬補充部本部長
松江 豊寿 明治5年 会津 陸士学校(5期) 陸軍少将 第9代若松市長
松本 鼎 安政3年 島根 陸士官学旧2期 陸軍中将 東京湾要塞司令官
町田 経宇 慶応元年 鹿児島 陸軍大学校(9期) 陸軍大将 第4師団長、サガレン州派遣軍司
眞崎 甚三郎 明治9年 佐賀 陸軍大学校(19期) 陸軍大将 台湾軍司令官、教育総監
松井 石根 明治11年 愛知 陸軍大学校(18期) 陸軍大将 中支那方面軍司令官
松川 敏胤 安政6年 仙台藩 陸軍大学校(6期) 陸軍大将 朝鮮軍司令官
松木 直亮 明治9年 山口 陸軍大学校(19期) 陸軍大将 第14師団長
南 次郎 明治7年 大分 陸軍大学校(17期) 陸軍大将 第22代陸軍大臣
溝口 直亮 明治11年 新潟 陸軍大学校(20期) 陸軍少将 野砲兵第3連隊長
三ツ木 秀治 明治12年 福島 陸士官学校(13期) 陸軍少将 仙台輜重兵大隊長
宮田 太郎 元治元年 静岡 陸士官学旧(8期) 陸軍中将 陸軍技術本部長
武川 壽輔 明治10年 福島 陸軍大学校(18期) 陸軍少将 歩兵第39旅団長
向西 兵庫 慶応3年 広島 陸軍大学校(15期) 陸軍中将 第11師団長
村岡 長太郎 明治4年 佐賀 陸軍大学校(?期) 陸軍中将 関東軍司令官
森岡 守成 明治2年 山口 陸軍大学校(13期) 陸軍大将 朝鮮軍司令官、軍事参議官
両角 三郎 慶應3年 会津 陸士学校(1期) 陸軍中将 歩兵第18旅団長
柳川 平助 明治12年 長崎 陸軍大学校(24期) 陸軍中将 第10軍司令官、司法大臣、国務大臣
山岡 重厚 明治15年 高知 陸軍大学校(24期) 陸軍中将 善通寺師管区司令官
山梨 半造 元治元年 神奈川 陸軍大学校(8期) 陸軍大将 陸軍大臣、朝鮮総督
山口 勝 文久2年 幕臣 陸士官学旧(4期) 陸軍中将 第16師団長
山田 良水 文久元年 土佐 陸軍大学校(10期) 陸軍中将 歩兵第24旅団長
山田 隆一 慶応4年 山口 陸軍大学校(10期) 陸軍中将 第5師団長
山室 宗武 明治13年 熊本 陸士官学校(14期) 陸軍中将 砲兵監、第11師団長
矢野目 孫一 明治3年 大分 陸軍大学校(14期) 陸軍中将 東京湾要塞司令官
由比 光衛 万延元年 土佐 陸軍大学校(7期) 陸軍大将 青島守備軍司令官
吉橋 徳三郎 明治3年 愛知 陸軍大学校(?期) 陸軍中将 騎兵第4旅団長
吉田 豊彦 明治6年 薩摩 陸軍砲工学校6期 陸軍大将 陸軍造兵廠長官、陸軍技術本部長
渡辺 錠太郎 明治7年 愛知 陸軍大学校(17期) 陸軍大将 陸軍教育総監、二・二六事件で殺害
渡辺 岩之助 慶応3年 山口 陸砲工校高等科1期 陸軍中将 由良要塞司令官、砲兵監
渡辺 金造 明治7年 群馬 陸軍大学校(18期) 陸軍中将 歩兵第40旅団長、下関要塞司令官
渡辺寿 明治7年 岐阜 陸軍大学校(16期) 陸軍中将 第19師団長
岸本鹿太郎           
牧 達之            
野崎貞澄           
山田虎夫           
福田 彦助           
永山武四郎          
林太一郎           
宇都宮太郎           
渡辺 章           
渡辺 章           
大井成元           
川村宗五郎           
           

明治期の陸軍将官

   
 山縣 有朋
やまがた ありとも

  

大勲位
 菊花章頸飾 
天保9年長州藩の中間・山縣有稔(ありとし)の長男として生まれる。
長州藩士で高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となる。
戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。
明治2年(1869年)に渡欧し、各国の軍事制度を視察する。
大村益次郎の実質的な後継者として西郷隆盛の協力を得ることで軍制改革を断行、
徴兵制を取り入れた(徴兵令)。山城屋事件で陸軍大輔を辞任
明治10年に勃発した西南戦争では参軍として官軍の事実上の総指揮を執ったため、
明治16年(1883年)には内務卿に就任して、市制・町村制・府県制・郡制を制定した。
明治22年、長州出身の陸軍軍人としては初めて第3代内閣総理大臣に就任
明治31年(1898年)、第2次山縣内閣発足(第9代 内閣総理大臣)
第1次伊藤内閣・黒田内閣:第1-3代 内務大臣、
第1次伊藤内閣:第7代 司法大臣     在任期間:1892年8月8日 - 1893年3月11日
第1次山縣内閣:第3代 内閣総理大臣  在任期間:1889年12月24日 - 1891年5月6日
第2次山縣内閣:第9代 内閣総理大臣  在任期間:1898年11月8日 - 1900年10月19日
  大山 巌
 おおやま いわお

  

大勲位
 菊花大綬章
 
元帥陸軍大将
 
天保13年10月 薩摩藩士・大山綱昌(彦八)の次男として生まれた。
父の大山綱昌は西郷隆充で大山綱毅の婿養子となるが、実兄は西郷隆盛・従道の父である
西郷吉兵衛で、従弟同士である。
維新後の明治2年(1869年)、渡欧して普仏戦争などを視察。明治3年(1870年)から
6年(1873年)の間はジュネーヴに留学した。
西南戦争では政府軍の指揮官(攻城砲隊司令官)として、城山に立て籠もった親戚筋の
西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に
帰る事はなかった。特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあった。日清戦争直前には
右目を失明していたという記録が残っているが、日清戦争では陸軍大将として第2軍司令官
日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務め、ともに日本の勝利に
大きく貢献した。同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。
大正5年(1916年)、内大臣在任のまま死去した。75歳だった。12月17日の国葬
元帥陸軍大将
大警視(第2代)、陸軍大臣(初・2・3・4・6・7代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、
文部大臣(臨時兼任)、内大臣(第5代)、元老、貴族院議員を歴任した。
 川村 景明 
 
かわむら かげあき

  

大勲位
 菊花大綬章
 
元帥陸軍大将
 
嘉永3年2月薩摩藩士・野崎吉兵衛の三男とし生まれ、後に川村新左衛門景尚の養子
明治4年(1871年)4月に上京し同7月から御親兵付・陸軍軍曹として明治新政府に仕える。
明治5年(1872年)7月、陸軍少尉・近衛歩兵第2大隊付となり、翌年、陸軍中尉に進む。
明治9年)4月、歩兵第11連隊大隊長心得を拝命し萩の乱に出征する。
翌年2月から征討第3旅団隷下として西南戦争に出征、戦中の4月に陸軍少佐に進み
歩兵第11連隊大隊長となる。
明治15年2月、陸軍中佐・歩兵第4連隊長の後熊本鎮台参謀長、第6師団参謀長、
参謀本部第1局長を経験し階級は陸軍大佐に昇る。
明治23年6月、陸軍少将・歩兵第8旅団長を命ぜられ、同27年8月、近衛歩兵第1旅団長に移り
日清戦争に出征する。
明治30年(1897年)10月、陸軍中将・第1師団長に就任。
明治34年(1901年)4月、伏見宮貞愛親王の後任として第10師団長に就任する。
明治37年5月から日露戦争に出征し、この戦役の際、陸軍大将・鴨緑江軍司令官に就任し
奉天会戦に参加。戦後、軍事参議官兼東京衛戍総督となり、勲一等旭日桐花大綬章・
明治40年9月、子爵に陞爵する。大正4年(1915年)1月には元帥府に列せられる栄誉を賜る。
 奥 保鞏  
  
おく やすかた

  

大勲位
 菊花大綬章
 
元帥陸軍大将
 
弘化3年11月小倉藩小笠原家家臣の奥利右衛門保矩の長男として小倉に生まれる。
15歳のとき本家・奥保義の養子となり家督を継ぐ
明治2年1月に足軽隊長となり、翌月、東京に遊学。明治4年5月、常備4番小隊長に就任。
明治5年(1872年)4月、陸軍大尉に昇進し鹿児島分営所に配属。
明治6年(1873年)8月、熊本鎮台中隊長に異動し、佐賀の乱に出征し戦傷を受けた。
明治7年(1874年)6月、陸軍少佐に進級し歩兵第11大隊長に就任。
明治8年(1875年)2月、歩兵第13連隊大隊長となり神風連の乱の平定に参加
明治10年(1877年)2月、西南戦争に出征し、2月21日からの熊本城籠城戦に参加。
明治11年(1878年)11月、陸軍中佐に進級し歩兵第14連隊長に就任。
明治15年(1882年)2月、陸軍大佐に昇進。近衛歩兵第2連隊長を経て
明治18年(1885年)5月、陸軍少将に進級し歩兵第7旅団長に着任。近衛歩兵第1旅団長、
東宮武官長、近衛歩兵第2旅団長を歴任。
明治27年(1894年)11月、野津道貫の後任として第5師団長となり、翌月、日清戦争に出征。
明治29年(1896年)10月14日に第1師団長、明治30年(1897年)10月27日に近衛師団長に発令。
明治36年(1903年)11月、陸軍大将に進級
明治37年1月、軍事参議官に就任したが、同年3月、日露戦争開戦に伴い
      第2軍司令官として出征
明治39年1月、軍事参議官となり、同年7月、児玉源太郎の急逝を受け陸軍参謀総長に就任。
明治40年(1907年)9月、伯爵に叙せられ、明治44年(1911年)10月、元帥府に列せらる。
昭和5年(1930年)7月19日没。享年85
 長谷川 好道
 はせがわ よしみち
 
  

大勲位
 菊花大綬章
元帥陸軍大将
嘉永3年8月 長州藩支藩岩国藩士・長谷川藤次郎の子として生まれる。
戊辰戦争には精義隊小隊長として参戦する。
大阪兵学寮学生となり、1871年(明治4年)8月に陸軍少尉心得、
明治5年)4月、陸軍少佐、翌年5月歩兵第1連隊長心得、同6月中佐として西南戦争に従軍する
広島鎮台歩兵第11連隊長、同鎮台参謀、大阪鎮台参謀長、中部監軍部参謀を経て、陸軍大佐
明治19年)12月、陸軍少将・歩兵第12旅団長に昇進する。
歩兵第12旅団長時代に、日清戦争に出征して旅順攻撃で戦功を立てる。
明治29年)6月、陸軍中将に進んで第3師団長、1898年(明治31年)には近衛師団長。
日露戦争では鴨緑江会戦・遼陽会戦などに善戦した。1904年(明治37年)6月、陸軍大将に進級
同年9月には朝鮮駐剳軍司令官に就任。
明治41年)の軍事参議官を経、1912年(明治45年)1月20日、参謀総長。
大正4年)、元帥府に列せられる。
大正5年)10月16日、寺内正毅の後任として朝鮮総督に就任する
大正13年)1月28日薨去
 野津 道貫
のづ みちつら

  

大勲位
 菊花大綬章
元帥陸軍大将
天保12年11月 薩摩下級藩士・野津鎮圭の二男として生まれる。 兄に陸軍中将・野津鎮雄
明治4年(1871年)3月、藩兵3番大隊付教頭として上京し御親兵となる。
明治5年(1872年)8月、陸軍中佐に昇進し近衛局分課に勤務
明治7年)1月、陸軍大佐に進級し近衛参謀長心得に就任。
明治10年)2月、西南戦争に政府軍第2旅団参謀長として出征。
明治11年)11月、陸軍少将に昇進し陸軍省第2局長に就任。その後、東京鎮台司令長官、
同鎮台司令官を歴任。
明治17年)陸軍卿・大山巌の欧州出張に随行。同年7月、子爵を叙爵し華族
明治21年5月、第5師団長に親補され、明治27年8月、日清戦争に出征。さらに第1軍司令官
明治28年)3月、陸軍大将となり、同年8月、伯爵を叙爵。11月、近衛師団長に親補され、
東京防禦総督、東部都督、教育総監、軍事参議官を歴任。
明治37年6月、第4軍司令官に就任し、日露戦争に参戦。明治39年1月、元帥の称号
  寺内 寿毅
  てらうちまさたけ

  

大勲位
 菊花大綬章
元帥陸軍大将
嘉永5年2月:長州藩士・宇多田正輔の三男として生る。後に母方の寺内勘右衛門の養嗣子。
明治元年(1868年)、御楯隊隊士として戊辰戦争に従軍し、箱館五稜郭まで転戦した。
西南戦争最大の激戦とされた田原坂の戦いで負傷して右手の自由をなくした。
以降は実戦の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩んだ。
明治20年に陸軍士官学校長に就任。日清戦争では兵站の最高責任者である
運輸通信長官を務め第一師団参謀長や参謀本部第一局長などを歴任した後、
明治31年(1898年)より教育総監、
明治33年(1900年)より参謀次長などを務める。
第1次桂内閣(1901年6月2日 - 1905年12月21日)が成立すると陸軍大臣となり、
日露戦争の勝利に貢献した。
第15・16・17代陸軍大臣
第1次西園寺内閣や第2次桂内閣(1908年7月14日 - 1911年8月25日)でも再び陸相を務めた
明治39年(1906年)には南満洲鉄道設立委員長・陸軍大将に栄進した。
明治43年(1910年)5月30日、陸相のまま第3代韓国統監を兼任
大正5年(1916年)6月24日、元帥府に列せられる。10月16日に総督を辞任し、
10月19日には内閣総理大臣に就任。
(昭和16年)南方軍総司令官の元帥陸軍大将・寺内寿一は長男
 
小松宮彰仁親王
 こまつのみや
 あきひとしんのう

  
大勲位
 菊花章頸飾
 
元帥陸軍大将
 
 
弘化3年1月16日(1846年2月11日) - 明治36年(1903年)2月26日)
伏見宮邦家親王第8皇子である。妃は、旧久留米藩主有馬頼咸の長女頼子。
明治維新にあっては、議定、軍事総裁に任じられた。戊辰戦争では、奥羽征討総督として
官軍の指揮を執った。明治7年(1874年)に勃発した佐賀の乱においては征討総督として、また、
同10年(1877年)の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たった。
明治23年(1890年)、陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では
征清大総督に任じられ旅順に出征した。明治31年(1898年)に元帥府に列せられる。
明治19年(1886年)にイギリス、フランス、ドイツ、ロシア等ヨーロッパ各国を歴訪した。
明治35年(1902年)、イギリス国王エドワード7世の戴冠式に明治天皇の名代として臨席した。
明治36年(1903年):薨去、国葬
  上原 勇作
うえはら ゆうさく
   

  
大勲位
 菊花大綬章
 
元帥陸軍大将
安政3年11月:都城島津家重臣、龍岡資弦の次男として生まれる
明治8年)、上原家の養子となる。陸軍幼年学校を経て、
1879年(明治12年)、陸軍士官学校卒業(同期に秋山好古など)
明治14年)に渡仏、フランス陸軍に学び、1885年に帰国して工兵の近代化に貢献、
「日本工兵の父」と称される。
日清戦争においては岳父野津道貫が司令官を務める第1軍の参謀、
日露戦争においては、やはり野津が司令官を務める第4軍の参謀長など
数々の戦争に従軍して
参謀職を務め、1907年(明治40年)に軍功により男爵を授けられた。
明治45年)、石本新六の死後、第2次西園寺内閣の第19代陸軍大臣に就任
大正4年2月15日 - 陸軍大将・兼軍事参議官
12月 - 参謀総長(- 1923年3月
1921年(大正10年)に子爵、元帥
 高島 鞆之助
たかしま
  とものすけ

  



 
天保15年11月:薩摩藩士・高島喜兵衛の四男
明治元年(1868年):戊辰戦争に従軍する
明治7年(1874年):陸軍大佐に任ぜられる
明治10年(1877年):西南戦争では別働第1旅団司令長官を務める
明治16年(1883年):陸軍中将
明治17年:7月7日、子爵に叙せられる。
明治21年(1888年):大阪鎮台司令官。
明治24年(1891年):第1次松方内閣の第4・5代陸軍大臣となる
明治28年(1895年):台湾副総督
明治29年4月2日、第2次伊藤内閣の拓殖務大臣に就任
       9月20日、第2次松方内閣の第8代陸軍大臣に就任
明治32年(1899年):枢密顧問官となる
大正5年(1916年):1月11日薨去
 児玉 源太郎
 こだま
  げんたろう


  

大勲位
 菊花大綬章
 
嘉永5年閏2月長州藩の支藩徳山藩の中級武士(百石)児玉半九郎の長男として生まれる。
明治元年(1868年)に初陣。下士官として箱館戦争に参加した後、陸軍に入隊する。
明治7年(1874年)の佐賀の乱には大尉として従軍し戦傷を受けている。
明治10年(1877年)には西南戦争の熊本城籠城戦に参加。
日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務めていたが、参謀本部次長に就任する
日露戦争のために新たに編成された満州軍総参謀長をも引き続いて務めた。
日露戦争後、陸軍参謀総長に就任。また南満洲鉄道創立委員長も兼務するが、委員長就任
10日後の明治39年(1906年)7月23日、就寝中に 脳溢血で急逝した。享年55
明治16年(1883年)陸軍歩兵大佐に進級
明治22年(1889年) 8月 - 陸軍少将に進級
明治29年(1896年)10月 - 陸軍中将に進級
明治33年(1900年)12月23日 - 台湾総督のまま第4次伊藤内閣で陸軍大臣
明治36年7月15日:第1次桂内閣で内務大臣
    7月17日:文部大臣を兼任
明治37年(1904年)6月6日 - 陸軍大将に進級
 桂 太郎信
 かつら たろう 
弘化4年11月長州藩士馬廻役・桂與一右衛門(125石)の嫡男として生まれる。
日清戦争には名古屋の第3師団長として出征た。
陸軍大将
政治家に詳細参照 
 乃木 希典 
 
のぎ まれすけ

 
嘉永2年11月長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(馬廻、80石)の三男として、
江戸の長府藩上屋敷(毛利甲斐守邸跡、現・東京都港区六本木)に生まれた。
万延元年1月(1860年2月)以降、流鏑馬、弓術、西洋流砲術、槍術および剣術なども学び始めた
明治4年11月23日、大日本帝国陸軍の少佐に任官し、東京鎮台第2分営に属した
明治4年12月(1872年1月)、正七位に叙された源三は、名を希典と改めた
1875年(明治8年)12月、熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に任じられ、小倉に赴任した。
明治10年、西南戦争が勃発すると、同年2月19日、乃木は第14連隊を率いて福岡県久留米に入り、
西郷軍との戦闘に入った
1885年(明治18年)5月21日には少将に昇進
歩兵第11旅団長に任じられた。明治20年1月から明治21年6月10日までドイツ帝国へ留学
日清戦争
明治25年)12月8日、10か月の休職を経て復職し、東京の歩兵第1旅団長となった。
明治28年4月5日、乃木は中将に昇進
明治28年5月、台湾民主国が独立を宣言したことを受けて日本軍は台湾征討(乙未戦争)
に乗り出した。なお、同年4月に日清間で結ばれた下関条約により、台湾は日本に
割譲されている。乃木率いる第2師団も台湾へ出征した
1896年(明治29年)4月に第2師団は台湾を発ち、仙台に凱旋したが、凱旋後半年ほど経過
同年10月14日、乃木は台湾総督に任じられた
日露戦争
1898年(明治31年)10月3日、香川県善通寺に新設された第11師団長として復職した。
開戦の直前である明治37年2月5日、動員令が下り、乃木は留守近衛師団長として復職した。
乃木が第3軍の司令官に起用された背景について、「司令官のうち、薩摩出身者と
長州出身者とを同数にすべきである」という、藩閥政治の結果とする主張もある  
明治37年陸軍大将*日清戦争・日露戦争の詳細は別記記載参照
東京に到着後、乃木は直ちに宮中に参内し、明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読した。
乃木が指揮した旅順攻囲戦は、日露戦争における最激戦であったため、乃木は日露戦争を
代表する将軍と評価された
1907年(明治40年)1月31日、軍事参議官の乃木は学習院院長を兼任
1908年(明治41年)4月、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると、乃木は、勤勉と
質素を旨としてその教育に努力した。
明治45年)7月に明治天皇が崩御してから、乃木が殉死するまで3ヶ月ほどの間、裕仁親王は、
乃木を「院長閣下」と呼んだ。これは、明治天皇の遺言によるものである。
1912年(大正元年)9月13日、乃木は明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、
妻・静子とともに自刃して亡くなった勲一等旭日桐花大綬章
1.乃木は、大正元年9月13日午後7時40分ころの自邸居室において、明治天皇の御真影の
 下に正座し、日本軍刀によって、まず、十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、
 軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経および
 第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。
     
  水師営会見 中央二人が乃木将軍と
  ステッセリ将軍(後列左4人目松平英夫)

 
辞世: 「神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる」
    「うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり」
   昭和期に最終階級の将官
  武藤 信
 むとう のぶよし

  

 
元帥陸軍大将
勲一等旭日
  桐花大綬章
慶応4年7月 佐賀藩士・武藤信直の次男として生まれる
陸軍教導団へ入団する。卒業後、陸軍歩兵二等軍曹(後の伍長に相当する。)に任官。
卒業後、歩兵第24連隊小隊長として日清戦争に出征。戦後は陸軍大学校に入校。
明治32年、第13期の首席の成績を修めて恩賜の軍刀を授けられる。
日露戦争における鴨緑江会戦勝利の功により、鴨緑江軍参謀に進む。
明治44年1月26日に陸軍大佐、大正元年12月18日から近衛歩兵第4連隊長、
大正5年(1916年)5月2日陸軍少将、歩兵第23旅団長。
大正8年1月15日参謀本部第1部長、同年7月25日陸軍中将、総務部長に移る。
大正10年5月5日第3師団長に親補、翌年11月24日参謀次長。
大正14年5月に軍事参議官に親補、
翌年3月2日から東京警備司令官を兼ねて陸軍大将に親任。
同年7月28日に関東軍司令官に就任。
昭和2年8月26日、教育総監。昭和5年2月、参謀総長職を辞退して金谷範三に譲る。
昭和7年5月15日に五・一五事件が起った事により引責辞任
昭和7年8月8日再び関東軍司令官に就任、満州国駐在特命全権大使と関東長官を兼務。
9月15日に同国務総理・鄭孝胥との間で日満議定書を調印。
満州国内の治安維持や熱河平定の軍功により、昭和8年5月3日に元帥号を賜る。
昭和8年7月22日、黄疸に罹って新京で倒れ、8月27日午前7時50分薨去 
 杉山 元
すぎやま げん
 
  

 元帥陸軍大将
 
明治13年)1月小倉市に小倉藩士の子として生まれる。陸軍士官学校12期卒後
日露戦争に従軍。杉山は第12師団隷下の歩兵第14連隊第3大隊副官として出征
明治37年)10月8日、沙河会戦の一部として行われた本渓湖付近の戦闘で顔面を負傷した。
陸軍大学校卒業22期卒後、参謀本部・第二部(情報)勤務。
明治45年)に海軍軍令部員と共に、
昭和3年)陸軍省軍務局長、満州事変勃発時には陸軍次官として「正当防衛」声明を発表、
昭和7年)2月29日以降は久留米第12師団長、陸軍航空本部長、二・二六事件時の
参謀次長兼陸軍大学校校長などを歴任。昭和11年)の二・二六事件では青年将校らの
要求を拒否し、反乱鎮圧を指揮した。事件後に教育総監、同年陸軍大将
昭和12年)、林銑十郎内閣下の陸軍大臣に就任、続く第一次近衛内閣でも留任。
昭和15年)から1944年(昭和19年)まで参謀総長に就任し、太平洋戦争開戦の立案・指導にあたる。
昭和18年)元帥、1945年(昭和20年)、鈴木貫太郎内閣成立後、本土決戦に備えて設立された
敗戦後の9月12日に司令部にて拳銃自決。
太平洋戦争資料参照
 梨本宮守正王
なしもとのみや
 もりまさおう

  

 元帥陸軍大将

明治7年)3月 久邇宮朝彦親王の第4王子として1874年に誕生。
明治29年に陸軍士官学校卒業後、歩兵第11連隊附。明治36年にフランス留学。これに先立つ、
日露戦争では、参謀本部勤務。次いで第3軍付き武官として出征した。
日露戦争の勝利後再度フランスへ留学。フランス陸軍大学を卒業。
第一次世界大戦では第16師団長など部隊長を歴任し、陸軍大将に累進し、
元帥の称号を賜った。
昭和15年)4月29日には大勲位菊花章頸飾を受章。軍事参議官、日仏協会総裁、
在郷軍人会総裁、大日本武徳会総裁などを歴任
敗戦後、神宮祭主であったことから国家神道の主体的な頭目であったとみなされ、
皇族としてただ
1人A級戦犯容疑者に指定されて、巣鴨プリズンに拘置された。
本人も身の覚えがないと自覚しており、半年後に不起訴で釈放されたが、
宮邸に帰宅してみると、
集団強盗に襲われ家財の多くが盗難に遭っていた(犯人の一部は逮捕された)。
昭和26年)元日に、自邸で逝去。享年78。 
 畑 俊六
 はた しゅんろく

    

 元帥陸軍大将
 
明治12年7月 父は旧会津藩士・畑能賢、畑 英太郎は兄
明治33年(1900年)に陸軍士官学校(12期次席)を卒業。中尉で日露戦争に従軍し負傷
明治43年(1910年)に陸軍大学校(22期首席)を卒業する。
ドイツ大使館付武官補佐官・参謀本部作戦班長・参謀本部作戦課長兼軍令部参謀・
航空本部長など、作戦関係の要職を歴任し、参謀本部第四・第一部長、第十四師団長、
昭和11年(1936年)に台湾軍司令官。
昭和12(1937年)に陸軍大将に昇任し、軍事参議官・陸軍教育総監を兼任する。
昭和13年(1938年)には松井の代わりに中支那派遣軍司令官となり、徐州戦、武漢作戦を指揮。
昭和14年に侍従武官長に就任時も昭和天皇の信任が厚く、「陸相は畑か梅津を選ぶべし」
との言葉から侍従武官長をわずか3ヶ月で辞め、同年8月に成立した阿部内閣の
陸軍大臣に就任した
昭和16年(1941年)に支那派遣軍総司令官となる。昭和19年(1944年)に元帥となる
終戦間際の昭和20年8月14日10時、昭和天皇は御前会議の開催に先立って元帥会議を召集し、
俊六(第二総軍司令官)、杉山元(第一総軍司令官)、永野修身(元軍令部総長)の3元帥より
意見を聴取した際、杉山と永野が主戦論を張るなか、畑のみは「担任正面の防御については
敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなしと申上ぐる外ありません」と率直に現状を説明、
これが本土決戦の不可能を昭和天皇に確信させることになった
極東国際軍事裁判では畑は米内内閣倒閣などの罪状を問われてA級戦犯として起訴された。
畑は死刑を免れるも、終身禁固の判決を受けた。6年間の服役後、
昭和29年に仮釈放を受けて出所
昭和37年(1962年)、福島県棚倉町にて戦没者慰霊碑除幕式出席中に倒れ没した。82歳没 
 久邇宮邦彦王
 くにのみや
     くによしおう
    
 元帥陸軍大将
大勲位菊花大綬章
1873年(明治6年)7月23日 - 1929年(昭和4年)1月27日)
久邇宮朝彦親王の第三王子。香淳皇后(昭和天皇の皇后)の父
明治29年)陸軍士官学校を卒業し陸軍士官として勤務し、1902年(明治35年)、陸軍大学校卒業。
(明治37年)には日露戦争に出征する。戦功により歩兵少佐に進級し功四級金鵄勲章を受章する。
明治43年)歩兵第38連隊長、1917年(大正6年)第15師団長、近衛師団長、軍事参議官を歴任する。
(大正12年)8月 陸軍大将
昭和4年)1月 東京から熱海の別荘へ移動後に急性内臓疾患で薨去、元帥の位を贈られる。 
 寺内 寿一
 てらうち ひさいち

  

 勲一等旭日大綬章
 元帥陸軍大将
 
明治12年 山口県 第18代内閣総理大臣などを歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で、
皇族以外では唯一陸海軍を通して親子2代で元帥府に列せられた人物。
明治32年)11月 陸軍士官学校(11期)卒業
明治37年)3月 日露戦争に出征
明治42年)12月 陸軍大学校(21期)を卒業
大正8年)7月 大佐に昇進
大正13年)2月 少将に昇進
昭和2年) 朝鮮軍参謀長
昭和4年)8月 中将に昇進
昭和5年) 第5師団長
昭和9年) 台湾軍司令官
昭和10年)10月 陸軍大将に昇進
昭和11年3月9日 広田内閣において陸軍大臣
昭和12年)2月 教育総監
昭和12年)8月 北支那方面軍司令官
昭和16年)11月 南方軍総司令官
昭和18年)6月 元帥
昭和20年)9月12日 シンガポールで降伏文書に調印
昭和21年) マレーシアのレンガムで拘留中に病死。シンガポールの日本人墓地に記念墓がある。
昭和期の資料を参照
   以下明治・大正時代の将官
  有坂 成章
 ありさか
  なりあき


  
嘉永5年2月 周防国岩国に生まれた、長州藩(岩国領)士木部左門の二男
明治維新後、陸軍に入る。明治24年、村田銃の開発で著名な村田経芳少将の退役に伴って
陸軍砲兵工廠所属となる
明治30年、三十年式歩兵銃の開発に成功、翌年2月にそれまで使われていた村田連発銃に
代わる初の陸軍制式小銃として採用された。
明治31年には三十一年式速射砲の開発に成功した。この砲は「有坂砲」と呼ばれ
、銃砲開発者としての有坂の名を不動のものとした。日本陸軍はこの有坂砲を用いた
三十一年式野砲と三十一年式山砲を制式砲としている。
明治36年(1903年)陸軍技術審査部長となり、
日露戦争に臨むこととなる。日露戦争では、これら三十年式歩兵銃と有坂砲によって日本が
勝利したといわれるほど、これら銃砲は活躍した。三十一年式速射砲はロシア軍の1900年式
3インチ野砲に射程で劣り、駐退機(砲身後座式)付の1902年式3インチ速射砲には、発射速度・
最大射程共に劣ったが、砲弾の性能はむしろ良好であった。
また有坂は、日露戦争中最大の難戦となった旅順攻囲戦の打開策として、
時の参謀総長・山縣有朋
(参謀次長・長岡外史との説もある)に、国内の軍港(主に横須賀市周辺)等に要塞砲として
据え付けていた二十八糎砲を投入するよう進言             陸軍中将
この巨砲は旅順要塞の破壊に大いに貢献し、旅順攻撃の象徴のひとつとなった
こうした銃砲技術面における貢献が高く評価され、明治39年4月1日に功二級金鵄勲章を受章、
明治44年6月、軽い脳溢血に倒れ、待命を仰せ付けられた。大正4年1月12日没、享年64。
    

  三十年式歩兵銃 製造数:554,000(小銃)
  三十一年式速射砲
 
 石本 新六
 いしもと しんろく
  
嘉永7年1月:姫路藩士・石本勝左衛門為延の六男として生まれる
大学南校で学ぶ。陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入学。西南戦争に従軍し、
1878年12月、陸士(旧1期)を卒業した。
フランスに留学し、1881年8月、フォンテンブロー砲工校を卒業し翌年に帰国。
1898年3月、陸軍少将に進級した。
陸軍総務長官を経て、日露戦争時は陸軍次官(法務局長兼任)として寺内正毅陸軍大臣を支えた。
1904年10月、陸軍中将に昇進。1911年8月、第2次西園寺公望内閣において薩長出身者以外
では初めての第18代陸軍大臣に就任する。勲一等旭日大綬章
 井上 光
 いのうえ
 ひかる


  
 
嘉永4年11月岩国藩士・森脇兵介の次男として生まれ、のち同藩士井上光禎の養子となる。
(1971年)5月陸軍大尉に任ぜられる。6月に御親兵に配属、同第7番大隊付となる。
明治7年)7月には近衛准官参謀、1875年(明治8年)9月の陸軍士官学校生徒隊付を経
明治9年)4月広島鎮台歩兵第12連隊第3大隊長、同7月少佐に進級する。
明治10年)の西南戦争では、別働第1旅団指揮下で出征する。戦後、熊本鎮台幕僚参謀副長
名古屋鎮台参謀、西部監軍部参謀を経て、
明治18年)5月には陸軍中佐に進み、歩兵第1連隊長を任ぜられる。
明治21年)11月、陸軍大佐に進み、1889年(明治22年)9月、第3師団参謀長
明治27年10月、第2軍参謀長として日清戦争に出征。少将に進み、
明治28年)5月、歩兵第6旅団長、同8月に監軍部参謀長
明治31年)に歩兵第3旅団長、明治32年3月には陸軍中将を任ぜられて第12師団長。
明治36年)11月、勲一等瑞宝章受章。
明治37年)2月、日露戦争に出征し、戦後の1906年(明治39年)7月6日に第4師団長に移る。
日清・日露戦争での戦功により、同年4月、勲一等旭日大綬章と功二級金鵄勲章。
明治41年)8月には陸軍大将に進むが、同年12月死去する。 勲一等旭日桐花大綬 
 飯田 俊助
 いいだ
   としすけ
  
 
 
弘化3年8月 山口県出身
明治27年)11月、歩兵第20連隊長となり、翌月、歩兵大佐に昇進。
明治31年)10月、陸軍少将に進級し歩兵第11旅団長に就任。
日露戦争に出征し、遼陽会戦、沙河会戦に参加。
明治38年)2月、陸軍中将に進み、第1師団長に親補され、奉天会戦を戦った。
明治39年)2月3日、後備役に編入
明治42年)4月1日に退役した
1914年3月23日(満68歳没) 
 伊地知 幸介
 いぢち こうすけ
  
安政元年1月薩摩藩士・伊地知直右衛門の長男として生まれる
最初の妻は大山巌元帥の姪。御親兵(後の近衛兵)に抜擢されて上京。陸軍幼年学校を経て、
明治8年12月に陸軍士官学校入学。明治10年(1877年)4月から翌月まで西南戦争に出征した。
明治12年(1879年)2月、砲兵少尉に任官し、同年12月、陸軍士官学校を卒業。
明治13年(1880年)にフランス、4年後にドイツ帝国に留学。この間にドイツ参謀総長・大モルトケから
彼の信頼する参謀将校デュフェ大尉を紹介され戦略戦術の指導を受けているが、
これに乃木希典も講義を受ける事になり伊地知が通訳などの世話をしている
明治22年(1889年)11月、砲兵少佐に進級し、野戦砲兵第1連隊大隊長に就任。
日清戦争時には第2軍参謀副長として出征した。その後、大本営参謀、参謀本部第1部長、
英国駐在武官を務める。明治33年(1900年)4月、陸軍少将に昇進。
明治37年(1904年)5月、第3軍参謀長に就任し、日露戦争における旅順攻略を実施。
明治38年(1905年)1月、旅順要塞司令官に任命され、東京湾要塞司令官に転じ、
明治39年(1906年)7月、同期首席で陸軍中将に進んだ 
 茨木 惟昭
 いばらき これあき

  
嘉永2年9月 紀州藩士・茨木藤助の長男として生まれる。
1871年、陸軍大尉に任官。以後、歩兵第10番大隊取締、大坂鎮台歩兵第10番大隊長を経て、
1874年2月から翌月にかけて佐賀の乱に出征。
1877年3月から10月にかけて歩兵第10連隊長として西南戦争に出征した。
歩兵第14連隊長、大阪鎮台参謀長、参謀本部副官、近衛参謀長、陸軍戸山学校長などを歴任し、
1890年6月、陸軍少将に進級、
日清戦争には歩兵第11旅団長として、1895年1月から12月にかけて出征した。
歩兵第8旅団長を経て、1896年10月、陸軍中将となった。
第6師団長を務め、1900年4月、予備役に編入。
日露戦争勃発に伴い召集を受け、1904年3月、留守第4師団長を1906年1月の召集解除まで務めた。
1911年4月1日に後備役となる 
 伊瀬知 好成
 
いせち よしなり
  
嘉永1年10月 薩摩藩士の子弟として生まれる。
明治4年7月25日)、陸軍少尉に任官。1886年(明治19年)5月、歩兵第8連隊長となり、
明治23年6月、歩兵大佐に昇進して近衛歩兵第3連隊長に異動。明治27年9月、歩兵第2連隊長に
日清戦争に出征し、旅順攻略戦に参加。明治28年1月、第1師団参謀長となった。
翌月、陸軍少将として大寺少将後任の歩兵第11旅団長に就任。
明治31年)10月、近衛歩兵第2旅団長。明治33年)4月、陸軍中将に進み、第6師団長に親補された。
明治35年)5月に休職し、1904年(明治37年)6月、留守近衛師団長として復帰したが、
明治39年)5月14日に再び休職し、翌年11月13日、予備役に編入
1922年9月29日(満73歳没) 
 上田 有沢
  うえだ ありさわ
  
 
嘉永3年2月 徳島藩士上田吉之丞の次男として生まれる。
明治2年(1869年)2月、第6番大隊司令、明治2年8月、銃士3番大隊司令。
明治4年4月、歩兵大尉に進み、1873年(明治6年)10月、歩兵第16大隊第2中隊附、
明治8年5月、歩兵第12連隊附と移り明治9年7月に就任した歩兵第11連隊第2大隊第3中隊長の
後西南戦争に出征する。西南戦争では第2旅団に属し、戦後、参謀本部管西局員となる。
明治14年、仙台鎮台歩兵第4連隊第2大隊長に移り、明治17年3月には熊本鎮台の参謀に就任する。
明治22年)11月、歩兵中佐に進級し第3師団参謀に就任する。
明治24年)6月10日、歩兵第22連隊長に就任し、明治26年)11月1日、歩兵大佐に進む。
明治27年6月6日、野津道貫中将が師団長の第5師団参謀長に就任し、この時日清戦争に出征する。
明治30年)9月28日、陸軍少将に進み、1898年(明治31年)10月1日には陸軍大学校長に就任する。
明治35年)5月5日、陸軍中将に進み教育総監部参謀長に就任する。
明治37年)3月17日にはかつて参謀長として在籍した第5師団に師団長として赴任する。
上田が師団長の時に第5師団は日露戦争に出征し、遼陽会戦・沙河会戦に参加する。
同年11月2日、台湾守備軍司令官に就任し、1906年(明治39年)4月1日、日露戦争の戦功により
明治41年)12月21日、大島久直中将の後を受け近衛師団長に就任し、
明治44年)8月18日には朝鮮駐剳軍司令官に親補される。
明治45年)2月14日、陸軍大将進級と共に後備役編入となる 
 宇佐川 一正
うさがわ かずまさ
   
 
 
嘉永2年11月長州藩士・藤村太郎右衛門の四男として生まれ、宇佐川久平の養子となる。
1874年6月、陸軍戸山学校を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官。
1877年2月、西南戦争に出征した。歩兵第24連隊大隊副官、歩兵第1旅団参謀、同副官、
近衛歩兵第1旅団副官、第1師団参謀、歩兵第17連隊付、監軍部副官、近衛師団参謀などを歴任し、
日清戦争には第1軍参謀として出征し、田村怡与造の後任として同軍参謀副長となった。
第10師団参謀長、陸軍省軍務局軍事課長などを経て、1901年4月、陸軍少将に進級。
歩兵第20旅団長を経て、日露戦争時の軍務局長を務めた。1906年7月、陸軍中将となり、
1908年12月、予備役に編入された。1911年11月10日、後備役となる
1916年4月1日に退役した。その後、東洋拓殖会社初代総裁を務めた。 
 梅沢 道治
  うさわみちはる 

   
嘉永6年10月陸奥国仙台藩士・梅沢道貞の二男として生まれた。藩校・養賢堂で学ぶ。
明治10年)の西南戦争では歩兵第3連隊に属して従軍。
明治14年)5月、歩兵第7連隊付となり、近衛歩兵第1連隊副官、歩兵第12連隊中隊長、
近衛歩兵第2連隊中隊長を歴任。明治20年)4月、歩兵少佐に昇進し近衛歩兵第1連隊付となる。
明治21年)5月、歩兵第24連隊大隊長に就任し、歩兵第23連隊大隊長に異動
日清戦争では明治28年)1月に第2軍兵站司令官として出征。同年4月、歩兵中佐に進級。
明治29年)9月、歩兵第40連隊長に着任。1899年(明治32年)2月、歩兵大佐に昇進。
明治33年)3月、近衛歩兵第4連隊長に転じ、1904年(明治37年)3月、日露戦争に出征。
現地で同年7月、陸軍少将に進級し後備歩兵第5旅団長に発令されたが赴任せず、
同年11月、負傷後送となった近衛後備歩兵第1旅団長の後任となり、組織替えした
近衛後備混成旅団長となった。 明治39年)2月28日、近衛歩兵第2旅団長となる
明治44年9月6日、陸軍中将に進み第6師団長に就任する。大正3年5月16日付で勲一等瑞宝章受章
 日露戦争時沙河会戦で「花の梅沢旅団」として奮戦で有名
 楠瀬 幸彦
 くすのせ ゆきひこ
  
  
安政5年 3月:土佐藩士、楠瀬正志の長男として生まれる。
東京海南私塾、陸軍幼年学校を経て、1880年12月、陸軍士官学校(旧3期)を卒業。
フランス留学、陸士教官、近衛砲兵連隊中隊長、参謀本部第1局員、参謀本部副官、
ロシア公使館付などを歴任。
1895年10月8日に発生した閔妃暗殺事件(乙未事変)に係わったとして、同年10月から翌年1月まで
入獄したが、1896年1月14日、第5師団軍法会議において無罪判決を受け釈放された。
台湾総督府参謀、西部都督部参謀長、第12師団参謀長を経て、1901年6月、陸軍少将に進級。
日露戦争では、第2軍兵站監として出征した。第4軍創設時に砲兵部長となり、奉天会戦では
満州軍重砲隊司令官として参戦した
由良要塞司令官、樺太守備隊司令官、初代樺太庁長官などを経て、1907年11月、陸軍中将に進み、
第1師団司令部付、由良要塞司令官、技術審査部長を歴任。
1913年6月、軍部大臣現役武官制改正問題でもめた木越安綱の後を受け陸軍大臣 
 岡 市之助
 おか いちのすけ
   
安政7年 3月:長州藩士・陸軍1等軍吏、岡吉春(品川弥二郎の命で錦の御旗を密造)の
二男として萩で生まれる。
大阪外語学校を経て、1881年(明治14年)12月、陸軍士官学校(旧4期)を卒業。
卒業後は歩兵第8旅団副官、歩兵第20連隊中隊長、陸士教官を歴任。
日清戦争には第1師団参謀として出征。参謀本部第2部員、軍令部第2局員を歴任し、
日露戦争では陸軍省軍務局軍事課長をつとめた。1905年(明治38年)3月、陸軍少将。
歩兵第22旅団長、参謀本部総務部長、歩兵第29旅団長、軍務局長、陸軍次官などを経て、
明治45年)2月、陸軍中将に進んだ。
大正3年4月、陸軍大臣に就任し、上原勇作陸相以来の懸案であった2個師団増設を実現した。 
 大島 健一
 おおしま けんいち
  
安政5年5月:美濃国岩村藩(現岐阜県恵那市、旧恵那郡岩村町)の藩士の子として生まれる
明治14年)- 陸軍士官学校(旧4期)卒業
明治27年)- 日清戦争。山縣有朋の信任を受け、第1軍の副官を務める。
明治37年)- 日露戦争。大本営勤務。この後は参謀本部勤務となる。
大正5年)3月30日~10月9日 - 第2次大隈内閣陸軍大臣 陸軍中将
大正5年)10月9日~1918年(大正7年)9月29日 - 寺内内閣陸軍大臣
大正15年)- 大東文化学院総長(第3代)に就任 
 小川 又次
 おがわ またじ

  
嘉永元年7月24日小倉藩士・小川兼宣の長男として生まれる。
明治5年(1872年)2月に少尉に昇進。1874年(明治7年)4月、台湾征討軍に従軍。
1876年(明治9年)4月、歩兵第13連隊大隊長に就任し、西南戦争に出征。同年4月に戦傷を受け、
同月、少佐に昇進。明治11年)3月、熊本鎮台参謀副長となり、参謀本部管西局員に異動。
明治14年)2月、中佐に進級し大阪鎮台参謀長に就任
明治17年)10月、大佐に進級し歩兵第8連隊長に着任
明治23年)6月、陸軍少将に昇進し歩兵第4旅団長となる
明治27年)8月、第1軍参謀長として日清戦争に出征
明治30年)4月8日、陸軍中将に進み第4師団長となる。
明治36年)5月16日、勲一等瑞宝章を受章。日露戦争では第4師団を率いて、南山の戦いでは
敵左翼への集中攻撃を進言し攻略の糸口を作った。
明治37年)8月、遼陽会戦で負傷し、師団長を辞し帰国。翌年1月15日に陸軍大将となる
明治40年)9月、子爵に進むとともに功二級金鵄勲章を受けた。同年11月、予備役編入となる
1909年10月20日、赤痢で入院のところ急逝腹膜炎を併発し62歳で没
 功二級金鵄勲章
 岡崎 生三
 おかざき
 せいぞう
 
嘉永4年1月 土佐藩士・岡崎俊蔵の長男として生まれる。
戊辰戦争出征後の1871年(明治4年)、御親兵として上京し陸軍軍曹、権曹長と昇進し、
明治5年、陸軍中尉に進む。東京鎮台付などを歴任し、明治10年3月から10月まで西南戦争に出征
歩兵第1連隊大隊長、歩兵第6連隊大隊長、大阪鎮台参謀、近衛歩兵第4連隊大隊長などを経て、
明治28年)11月、威海衛占領軍参謀長に就任し1898年(明治31年)5月まで駐留した。
明治34年)2月、陸軍少将に進級。日露戦争では歩兵第15旅団長として出征し、沙河会戦まで
指揮を行った。歩兵第20旅団長などを経て、
明治39年)7月、陸軍中将に昇進し第13師団長に親補された。
明治40年)9月、男爵を叙爵し華族となる。1910年6月に待命となり、翌月に死去した。
1910年7月27日(満59歳没)
 岡沢 精
 おかざわ
   くわし

  
 
弘化元年7月長州藩士岡沢甚内の子として江戸長州藩邸に生まれる。
明治4年)2月に四等軍曹、4月に御親兵大隊長、6月3日には陸軍准中尉となり、
さらに同年中には中尉・大尉・少佐と昇任した。御親兵5番大隊長を経
明治6年)2月に近衛歩兵第1連隊大隊長、西南戦争では別働第1旅団参謀長として出征。
明治11年)12月に東京鎮台参謀長兼衛戍司令官、明治13年)4月、陸軍大佐に昇進
その後、西部監軍部参謀、近衛参謀長、兼参謀本部管西局長を歴任。
明治18年)5月、陸軍少将に進み歩兵第8旅団長となり、陸軍次官兼軍務局長に就任
明治25年)11月に将校学校監、翌1893年(明治26年)11月に監軍部参謀長。
日清戦争では大本営軍事内局長兼侍従武官。1895年(明治28年)1月に陸軍中将に進級
明治29年)4月、侍従武官長に就任。1904年(明治37年)6月に陸軍大将・議定官
勲一等旭日桐花大綬章
 大久保 春野
 おおくぼ
  はるの

  
  
弘化3年8月大久保家は代々式内社である県社淡海国玉神社(静岡県磐田市)祠官家で、
父の大久保忠尚もやはり宮司であった。春野は忠尚の長男として生まれる
明治3年5月、大阪兵学校内幼年校生徒となる。同10月からフランスに留学し、明治8年)7月帰国。
明治10年)4月、陸軍歩兵少佐に任官され陸軍省第2局第5課長、
明治12年)1月、第2局第1課長に移り、同10月呼称変更となり人員局歩兵課長となる。
明治13年)5月に熊本鎮台歩兵第14連隊大隊長となり、明治15年12月、参謀本部管西局員に移る。
明治18年)、中佐に進み7月24日から参謀本部編纂課長兼第2局第3課長に就任する。
明治22年)、歩兵大佐に進級する。明治24年6月15日、陸軍士官学校長、
11月24日、第2師団参謀長に明治27年)には陸軍少将に任命され歩兵第7旅団長を補され、
日清戦争に出征する。日清戦争では海城方面守備隊司令官、鳳凰城方面守備隊司令官を務め、
続く台湾出兵に参加し1897年(明治30年)12月、近衛歩兵第1旅団長に就任する。
明治33年)に陸軍中将に進級し教育総監部参謀長(後の教育総監部本部長)を経て
明治35年)5月5日、第6師団長に親補され、第2軍隷下として日露戦争に従軍する。
沙河会戦を経て第4軍隷下に移り奉天会戦に参加する。
明治41年)8月7日、陸軍大将に進み同12月から韓国駐剳軍司令官に就任する。
 大迫 尚敏
 おおさこ
  なおはる

  
 
天保15年11月薩摩藩士・大迫新蔵の長男として生まれる。
4年(1871年)3月、陸軍に入り御親兵に属す。同年少尉・中尉と進み明治6年、陸軍省八等出仕
明治7年(1874年)には陸軍大尉を命ぜられる
明治10年、西南戦争に出征し、熊本城篭城戦に参加。戦中の同年4月に陸軍少佐・熊本鎮台参謀
明治16年(1883年)6月、陸軍中佐・歩兵第6連隊長、明治18年(1885年)5月、近衛歩兵第1連隊長
明治20年には陸軍大佐に進級し、明治23年10月、第4師団参謀長
明治25年(1892年)9月、陸軍少将に進み歩兵第5旅団長に就任する。
この時、日清戦争が起こり出征する。その功により明治28年8月、男爵の爵位を授かり華族に
列せられ、功三級金鵄勲章を賜る。その後、職は参謀本部次長、階級は陸軍中将
第7師団長に就任する。第7師団の母体は北海道開拓と防衛を目的とした屯田兵で、
師団改編から4年しか経っていなかった。
明治37年2月に始まった日露戦争では、戦況が芳しくない旅順要塞攻略の為、8月に第7師団の
動員が決まった。乃木希典大将の指揮する第3軍に組入れられ、二〇三高地の攻撃に当たった。
その後も奉天会戦に参戦し明治39年(1906年)3月に帰国する。
この時の功により同年4月、功二級金鵄勲章を賜り、5月に陸軍大将に進む。
明治40年(1907年)9月、子爵に陞爵し、同年11月13日、予備役に編入となる
勲一等旭日桐花大綬章
 大島 久直
 おおしま
  ひさなお

  
 
嘉永元年 秋田藩士、槍術師範・大島久徴の次男として生まれる。
戊辰戦争に参戦後明治3年(1870年)4月、第3番大隊に配属され、
明治4年5月、陸軍中尉に初任。同11月大尉に進み、明治7年、歩兵第2連隊大隊長
少佐進級の後1875年(明治8年)12月、東京鎮台幕僚参謀副長に任ぜられる。
明治10年)の西南戦争では別働第4旅団の歩兵第1連隊大隊長として従軍する。
明治16年)6月に歩兵第11連隊長に就き、1887年(明治20年)4月、陸軍大佐に進む
明治22年)4月、近衛歩兵第3連隊長、1890年(明治23年)6月、陸軍大学校長
明治25年)には陸軍少将に進級し歩兵第5旅団長に就任する。
明治26年)11月、歩兵第6旅団長に移り、この時日清戦争に出征する。
戦後、台湾総督府参謀長兼陸軍局長官などを務める。明治28年8月20日、日清戦争の戦功により
男爵を授けられ華族に列せられる。また、同日功三級金鵄勲章を賜る。
明治31年)10月上田有沢に代わる。大島は陸軍中将に進級し新設の第9師団長に任ぜられる。
明治37年)の日露戦争では乃木希典大将の指揮する第3軍に属し旅順攻略戦・奉天会戦に参加した。
明治39年)4月、功により勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章を受章する。
同5月に陸軍大将に進み7月、近衛師団長に移る。
明治41年)、陸軍三長官の一つ教育総監に就任する。明治44年)の軍事参議官を経て、
大正2年)9月5日、後備役に編入 昭和3年)9月27日薨去。
勲一等旭日桐花大綬章
 大島 義昌
 おおしま
  よしまさ

  
嘉永3年8月 長州藩士・大島慶三郎の長男として生まれる。戊辰戦争に従軍。
明治3年(1870年)4月に大坂青年学舎生徒となり、明治4年8月、陸軍少尉心得に任官され
中尉心得・大尉と進み、明治6年(1873年)5月、歩兵第1連隊大隊長を経て
明治10年(1877年)の西南戦争では陸軍少佐・歩兵第8連隊第1大隊長として出征する。
明治19年(1886年)4月、陸軍大佐に進級する。明治20年(1887年)6月、東京鎮台参謀長に就任し、
明治21年(1888年)5月に東京鎮台が第1師団に改編されるとそのまま第1師団参謀長に就任する。
明治24年(1891年)6月には陸軍少将に進み歩兵第9旅団長に任命される。
明治27年(1894年)6月、東学党の乱が発端となる朝鮮出兵に派遣され、続く日清戦争では
第1軍隷下に移り参戦する。この時の功により明治28年8月、男爵を授けられ華族に列せられる。
対馬警備隊司令官の後、明治31年(1898年)2月、陸軍中将に進み第3師団長に親補される。
第3師団長のとき日露戦争が起こり出征する。戦後、陸軍大将に進み新設の関東総督に就任する。
明治40年(1907年)9月には子爵に陞爵し、明治44年(1911年)9月から軍事参議官を兼ねた。
明治45年(1912年)4月に関東都督を福島安正と代わり、改めて軍事参議官を補される。
1926年4月10日(満75歳没) 安倍晋三総理大臣は子孫の一人である。勲一等旭日桐花大綬章
  沖原 光孚
  おきはら こうふ

  
嘉永元年3月岩国藩士・松浦周蔵の四男として生まれ、沖原為蔵の養子となる。
1871年、陸軍中尉。御親兵第7番大隊付、第14番大隊付、東京鎮台第1大隊付などを経て、
陸軍戸山学校に学ぶ。第8大隊付、歩兵第3連隊付、歩兵第2連隊中隊長などを歴任し、
1877年3月から11月まで西南戦争に出征した。
別働第1旅団歩兵第1大隊長、歩兵第2連隊副官、歩兵第10連隊大隊長、近衛歩兵第1連隊
大隊長、陸軍省人事局次長、総務局第4課長、人事課長、第2師団参謀長、陸軍教導団長などを
などを歴任し、日清戦争には歩兵第13連隊長として出征した。
1895年4月、陸軍少将。歩兵第1旅団長を経て、歩兵第4旅団長として台湾に出征(乙未戦争)。
歩兵第8旅団長を経て、1901年5月、陸軍中将に進む。第11師団長や留守第9師団長、
第15師団長などを歴任した。1906年7月6日、予備役に編入され
1931年9月11日(満83歳没)
   
  川上 操六
 かわかみ そうろく

  
嘉永元年11月薩摩藩士・川上伝左衛門親徳の三男として生まれ、
鳥羽・伏見の戦い・戊辰戦争に薩摩藩10番隊小頭として従軍する。
明治4年(1871年)4月から陸軍に出仕。同年7月、陸軍中尉・御親兵第2大隊付に任ぜられる。
近衛歩兵第3大隊長、近衛歩兵第2連隊大隊長、参謀局出仕を経験し階級は陸軍少佐に昇る。
明治10年(1877年)に始まった西南戦争では歩兵第13連隊長心得として従軍し功を立てる。
明治11年(1878年)12月、陸軍中佐・歩兵第13連隊長。
明治13年(1880年)5月に歩兵第8連隊長、同15年(1882年)2月には大佐に進み。
近衛歩兵第1連隊長に就任する。明治17年(1884年)には陸軍卿・大山巌に随行し欧米諸国の
兵制を視察する。
明治18年(1885年)に陸軍少将・参謀本部次長、同19年(1886年)に近衛歩兵第2旅団長を務めた
明治23年(1890年)、陸軍中将に進級。
明治28年(1895年)3月には征清総督府参謀長に任命され、かねてから川上が大いに推し進めた
軍の近代化が功を奏し戦功を挙げる。その功により勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章を賜り、
子爵を授けられる。
台湾・仏印・シベリア出張を経て明治31年(1898年)1月に参謀総長に就任。
同年9月、陸軍大将に任命されるが、翌年5月に薨去する。
薨去に伴い従二位に叙され勲一等旭日桐花大綬章を賜る。
薩摩藩出身者として藩閥の中心人物と成りうる人物であったが、本人には派閥意識がまるでなく、
出身藩にこだわらず幅広く人材を登用し、教育方面でも、成城学校校長を務めるなど、
優秀な軍人育成に貢献した。勲一等旭日大綬章
  木村 有恒
  きむら ありつね
  
嘉永4年7月 徳島県(阿波国)出身
明治5年3月25日(1872年5月2日)、陸軍少尉任官。
明治27年)8月、歩兵第3連隊長に就任し日清戦争に出征、旅順口の戦い、牛荘作戦などに参戦。
明治30年10月、歩兵大佐に昇進。明治34年)5月、陸軍少将に進級し歩兵第16旅団長となる。
(明治36年)7月、台湾守備混成第1旅団長に転任。
明治37年)10月、近衛歩兵第1旅団長となり日露戦争に出征。第1軍隷下として沙河会戦以降の
諸戦に参加した。1907年(明治40年)11月、陸軍中将に進み新設の第18師団長に親補された。
明治45年)5月13日、予備役に編入された
  木越 安綱
  きごし やすつな

  
嘉永7年3月:金沢藩士・砲術師範、加藤忠直の二男として生まれる。
同藩奉行職・木越安敷の養子となる。
陸軍教導団を経て、1875年、陸軍士官学校(旧1期)に入る。士官学校在学中の明治10年に任官し、
西南戦争に出征する。1883年、ドイツに留学し、晩年のモルトケのもと最盛期を迎えていた
ドイツ参謀本部を目の当たりにする。帰国後はフランス式であった日本の陸軍をドイツ式にあらためる
日清戦争では第3師団参謀として第3師団長・桂太郎のもとで活躍、朝鮮半島から鴨緑江を渡河し
清国領内へと進撃していった。明治27年末に大佐に昇進し、明治30年に軍務局軍事課長に就した。
翌31年に陸軍少将に昇進するとともに、台湾補給廠長に任命され、
さらに台湾総督府陸軍幕僚参謀長となる。
明治33年には、軍務局長となり、内地に戻る。翌34年には歩兵第23旅団長に就任する。
日露戦争では韓国臨時派遣隊司令官として真っ先に出征した。歩兵第23旅団を率いて
佐世保を出航、仁川港に上陸して鉄道で京城に向かい、韓国駐箚隊を指揮下に入れる。
明治37年10月13日に陸軍中将に昇進、第5師団長として黒溝台会戦に参加
奉天会戦の勝利に貢献した。
1913年1月、第1次山本内閣の陸軍大臣に就任。軍部大臣現役武官制の改正に陸軍は猛反対した
したものの、最終的に木越が陸軍の意向に逆らう形で、閣僚として改正に同意する。
昭和7年(1932年)に死去。享年79
勲一等旭日大綬章
  黒瀬 義門
  くろせ よしかど

  
弘化3年1月 岡山県出身
1872年2月7日、陸軍少尉に任官。1885年(明治18年)6月、野戦砲兵第6連隊長となり、
明治21年)5月、陸軍砲兵射的学校長へ異動し、同年11月、砲兵大佐に昇進した。
明治26年)4月、陸軍砲工学校長に就任。明治27年)9月、第2軍砲兵部長となり日清戦争に出征。
明治28年)4月、陸軍少将に進級した。
明治28年)7月9日、砲工学校長事務取扱となり、同月22日、野戦砲兵監へ異動
明治34年)5月、陸軍中将に進むが、翌年5月に休職した。
明治37年)2月、台湾守備隊司令官に発令され日露戦争を迎えた。
明治38年)6月、留守第7師団長として復帰したが、1906年(明治39年)5月に休職し、
翌年3月2日、予備役に編入された
明治44年)7月、貴族院男爵議員に選出された。 大正8年)9月1日没
  楠瀬 幸彦
 くすのせ ゆきひこ

  
1858年4月28日(安政5年 3月15日) - 1927年3月20日
土佐藩士、楠瀬正志の長男として生まれる。
東京海南私塾、陸軍幼年学校を経て、1880年12月、陸軍士官学校(旧3期)を卒業。
フランス留学、陸士教官、近衛砲兵連隊中隊長、参謀本部第1局員、参謀本部副官、
1895年10月8日に発生した閔妃暗殺事件(乙未事変)に係わったとして、同年10月から翌年1月まで
入獄したが、1896年1月14日、第5師団軍法会議において無罪判決を受け釈放された。
台湾総督府参謀、西部都督部参謀長、第12師団参謀長を経て、1901年6月、陸軍少将に進級。
日露戦争では、第2軍兵站監として出征した。第4軍創設時に砲兵部長となり、奉天会戦では
満州軍重砲隊司令官として参戦した。由良要塞司令官、樺太守備隊司令官、初代樺太庁長官など
1907年11月、陸軍中将に進み、第1師団司令部付、由良要塞司令官、技術審査部長を歴任。
1913年6月、軍部大臣現役武官制改正問題でもめた木越安綱の後を受け陸軍大臣に就任した。
1917年4月16日に予備役に編入
  黒木 為楨
  くろき ためもと

  
薩摩藩士・帖佐為右衛門の三男として鹿児島城下加治屋町に生まれる
のち、黒木万左衛門為善の養子となり黒木姓を名乗る。
明治4年(1871年)4月に上京し、同年7月、陸軍大尉任官、御親兵1番大隊に配属。
明治5年(1872年)8月、陸軍少佐に昇進し近衛歩兵第1大隊長に就任。
明治8年(1875年)2月、陸軍中佐に進級し広島鎮台歩兵第12連隊長となる。
明治10年(1877年)3月、西南戦争に出征し、同年10月まで従軍。
明治11年(1878年)11月、陸軍大佐に昇進。明治12年(1879年)1月、近衛歩兵第2連隊長に転じ、
明治18年5月、陸軍少将に進級し歩兵第5旅団長に就任し、次いで近衛歩兵第2旅団長を務めた。
明治26年(1893年)11月、陸軍中将に進み第6師団長に就任
明治28年(1895年)1月、日清戦争に出征し威海衛の攻撃に参加する。
明治29年(1896年)10月、近衛師団長に親補され、西部都督に転じた。
明治36年(1903年)11月、陸軍大将に進む。
明治37年月、軍事参議官に就任。同年2月、第1軍司令官となり、翌月、日露戦争開戦に伴い出征。
鴨緑江から奉天会戦まで連戦し、ロシア軍からは、「クロキンスキー」と恐れられた。
明治42年(1909年)3月、後備役に編入
  黒田 久孝
  くろだ ひさたか

  
弘化2年12月 江戸で幕臣の家に生まれる。
沼津兵学校で教授方を勤める。同校の兵部省移管に伴い明治政府に出仕した。
明治12年)3月、陸軍士官学校次長兼学科提理となる。
明治14年)10月、東京砲兵工廠提理兼砲兵第1方面提理へ異動し、翌年2月、砲兵大佐
明治19年)3月、参謀本部海防局長を兼ね、さらに同年10月、臨時砲台建築部事務官を兼務
明治22年)12月、砲兵会議議長に就任。1890年(明治23年)9月、陸軍少将に進級し、
明治27年)9月、第1軍砲兵部長に発令され日清戦争に出征した。
明治28年)4月、東京湾要塞司令官に就任し、同年8月、日清戦争の功績により男爵を叙爵し華族
明治29年)5月、東京防禦総督部参謀長に就任し、
明治30年)4月、陸軍中将に進み東京湾要塞司令官に再任された。
同年10月、東宮武官長に就任し、在職中に死去した。
  小泉 正保
 こいずみ
  まさやす


   
安政2年3月 水戸藩士・小泉正誠の長男として生まれる。警視庁巡査を経て、
明治8年)12月、陸軍士官学校に入学。明治10年)3月、征討軍団付となり西南戦争に出征。
1877年7月、歩兵少尉に任官し、同年12月、陸士(旧1期)を卒業した。
(明治22年)10月、屯田兵副官に発令され、屯田兵参謀、屯田歩兵第4大隊長、根室大隊区司令官、
根室連隊区司令官を歴任し、1896年(明治29年)5月、歩兵中佐に昇進した。
明治30年)10月、歩兵第10連隊長に就任し、同年12月、歩兵大佐に進級。
明治36年7月、陸軍少将に昇進し歩兵第24旅団長。日露戦争で遼陽会戦、沙河会戦に参戦。
明治39年)2月、歩兵第6旅団長に就任し、台湾第1守備隊司令官を経て、
明治43年)8月、陸軍中将に進み第10師団長に親補された。次いで、第8師団長に転じ、
大正3年)5月に待命、同年8月、予備役に編入
  鮫島 重雄
  さめしま しげお

  
嘉永2年9月 薩摩藩士鮫島藤兵衛の次男として生まれる。
明治4年)、御親兵として陸軍入り。1873年(明治6年)1月から陸軍教導団に入営し、同6月陸軍伍長。
明治7年3月陸軍士官学校生徒、同9年陸軍少尉試補・東京鎮台附。台湾出兵に
明治8年)3月、陸軍工兵少尉に任官、1877年(明治10年)2月から西南戦争に出征する。
明治11年)2月から工兵第1大隊中隊長に移り、1879年(明治12年)3月参謀本部管西局員、
明治14年)4月工兵大尉、1883年(明治16年)2月には近衛師団参謀を命ぜられる。
明治18年)7月に工兵第3大隊長心得、1886年(明治19年)3月陸軍大学校副幹事心得を経
同5月工兵少佐に進んで陸軍大学校副幹事。
明治27年6月18日工兵大佐・近衛師団参謀長に進んで明治28年)4月から日清戦争に出征する。
日清戦後は中部都督部参謀長、1897年(明治30年)9月28日には陸軍少将に任官。
明治33年4月25日に由良要塞司令官に就任し、明治35年)5月5日東京湾要塞司令官に移る。
明治37年)9月5日に陸軍中将として大本営附を命ぜられて同10月日露戦争に出征する。
戦中の12月1日第11師団長を拝命し、1906年(明治39年)4月1日勲一等旭日大綬章を受章。
同7月6日第14師団長に移る。明治40年)9月21日、日清・日露戦役の軍功により男爵を授爵。
明治44年)9月6日、陸軍大将昇任と共に後備役編入となる。大正5年)4月1日に退役した
1928年(昭和3年)薨去 
  佐野 延勝
  さの のぶかつ
嘉永2年7月本籍静岡県。江戸で幕臣の家に生れる。
陸軍兵学寮青年学舎を修了し、明治4年(1871年)、陸軍少尉任官。
騎兵第1大隊長、東京鎮台騎兵隊長などを歴任し、征討軍団参謀として西南戦争に出征。
明治13年)4月、陸軍省軍馬局長に就任。明治19年)3月、騎兵大佐に昇進し騎兵局長となる。
明治20年)6月、騎兵監に発令され、明治24年)6月、陸軍少将に進級し日清戦争を迎えた。
明治31年)1月、待命となり、同年2月、陸軍中将に進むと同時に予備役に編入
明治37年)7月から1911年(明治44年)7月まで貴族院議員に在任した
 佐久間左馬太
 さくま さまた

 
天保15年10月長州藩士・岡村孫七の次男として生まれ、佐久間竹之丞の養子となる。
奇兵隊に入隊し、大村益次郎の元で西洋兵学を学ぶ
維新後陸軍軍人となり、明治5年(1872年)陸軍大尉・西海鎮台付に任命される。
明治7年(1874年)2月佐賀の乱平定後、熊本鎮台参謀長に就任し台湾出兵に従軍。
明治10年(1877年)の西南戦争には歩兵第6連隊長として参加した。
明治14年(1881年)2月、陸軍少将・仙台鎮台司令官に進み、明治18年5月には歩兵第10旅団長、
明治19年(1886年)陸軍中将に進み翌年男爵に叙せられる。
明治27年(1894年)の日清戦争では第2師団長として出征し威海衛の攻略に当った。
明治28年(1895年)5月、占領地総督に就任し、同年勲一等旭日大綬章を受章し子爵に陞爵。
近衛師団長・中部都督を経て明治31年(1898年)陸軍大将に任ぜられる。
明治37年(1904年)東京衛戍総督、明治39年(1906年)4月には台湾総督に就任し、
市街地のインフラ、縦貫鉄道の全通、博物館の開設、阿里山森林の伐採、理蕃事業などに尽力した。
大正4年(1915年)5月に退役、同年8月5日逝去。後を俊一が継ぐ。
勲一等旭日桐花大綬章
 佐々木 直
  ささき すなお 
嘉永5年12月 山口 明治5年12月17日)、陸軍中尉に初任された佐々木は歩兵将校として累進し、
明治25年)12月7日、陸軍幼年学校長に就任。1895年(明治28年)1月16日、歩兵大佐に進み、
同年9月9日、歩兵第5連隊長に移り台湾に出征。明治29年)9月29日、第6師団参謀長を経て、
明治33年)4月25日、陸軍少将に進級し、歩兵第6旅団長に就任する。
翌年5月22日、台湾守備混成第1旅団長に転出する。
明治36年4月2日、第12師団(師団長:井上光中将)隷下の歩兵第12旅団長に移り、日露戦争に出征
鴨緑江会戦に参戦。遼陽会戦直前の1904年(明治37年)8月15日に休職した。
明治39年)4月6日、陸軍中将進級と同時に予備役編入。
  阪井 重季
  さかい しげすえ
 
  
弘化3年11月 土佐藩馬廻役300石・二川周五郎の長男として生まれ、後に阪井に改姓した。
1970年、大坂兵営予備生徒となる。翌年、御親兵として上京、陸軍大尉に任官し8番大隊副官となる。
近衛6番大隊副官、広島鎮台地方司令官心得などを経て、1874年2月から翌月にかけて
佐賀の乱に出征。歩兵第24連隊大隊長、歩兵第12連隊大隊長などを歴任し、西南戦争に従軍
歩兵第13連隊長、歩兵第11連隊長、名古屋鎮台衛戍司令官、歩兵第17連隊長などを経て、
日清戦争末の台湾に近衛歩兵第2連隊長として出征。1895年10月、陸軍少将に進級し、死去した
山根信成少将の後任として近衛歩兵第2旅団長となる。歩兵第10旅団長、近衛歩兵第2旅団長
などを歴任し、1902年6月、陸軍中将となり予備役に編入。
日露戦争勃発により召集を受け、留守第1師団長の後、後備第1師団長として奉天会戦に参加、
1906年3月、召集解除となった。同年3月16日、後備役に編入され[1]、1909年4月1日に退役した
1922年3月1日没
  渋谷 在明
  しぶや ざいめい

  
安政3年6月 和歌山藩士の家に江戸で生まれる。
明治11年)12月、陸軍士官学校(旧2期)を卒業。翌年2月、騎兵少尉任官。
明治19年)12月、陸軍大学校(2期)を優等で卒業。参謀本部第2局に配属。
日清戦争末に近衛騎兵連隊大隊長として台湾に出征(乙未戦争)。
明治28年)1月、近衛騎兵連隊長に就任し、1897年(明治30年)10月、騎兵大佐に昇進。
明治33年)4月、騎兵第15連隊長に転じた。明治34年)2月、陸軍騎兵実施学校長に異動。
同年11月、陸軍少将に進級し騎兵第1旅団長に着任。1903年(明治36年)4月、騎兵監となる。
明治37年)2月、第1軍兵站監に発令され日露戦争に出征。明治39年)2月、輜重兵監に就任し、
明治41年)12月、陸軍中将に進んだ
大正3年)5月に待命となり、同年8月、予備役編入された
 島村 干雄
  しまむら たてお
  
  
 
安政3年6月 土佐国土佐郡久万村(現在の高知市)に島村重吉の次男として生まれる。
明治6年)上京し陸軍幼年学校に入学するが、放縦の故退学になる。
明治7年)3月、熊本に行き谷干城の兵士になる。佐賀の乱や台湾征伐で武功をあげ、
明治10年)6月、歩兵少尉に任官。明治12年~18年)まで、渡清し諜報任務に従う。
明治29年9月、歩兵第33連隊長に就任。明治32年3月、歩兵大佐に昇進し、8月、第3師団参謀長
明治37年8月、陸軍少将に進み歩兵第12旅団長として日露戦争に出征。
第1軍に属し遼陽会戦以降に各地を転戦
明治40年)7月、歩兵第4旅団長(弘前)となり、次いで、歩兵第24旅団長(久留米)に異動。
明治43年)11月9日に55歳で没し、同日、陸軍中将に昇進した。
 塩屋 方圀
  しおや かたくに 
嘉永2年12月 金沢藩士・堀尾治郎兵衛の息子として生まれる。
明治20年)11月、砲兵大佐に昇進し、同月、広島鎮台参謀長に就任。
明治21年)5月、広島鎮台が第5師団に改編され、引き続き参謀長を務める。
明治27年)8月、陸軍少将に進み、同月、第1軍兵站監に就任し日清戦争に出征
明治28年)7月、要塞砲兵監に就任。明治29年)10月、威海衛占領軍司令官兼歩兵第2旅団長に
明治31年)3月、対馬警備隊司令官に就任。
明治32年)3月、陸軍中将に進み東京湾要塞司令官に着任。     勲一等旭日大綬章
 仙波 太郎
  せんば たろう

  
 
安政2年 愛媛県出身。庄屋・仙波幸雄の長男として生れる。
1878年12月、陸軍士官学校(旧2期)を卒業し、翌年2月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる。
1885年12月、陸軍大学校(1期)を優等(三席)で卒業。
日清戦争に第5師団参謀として出征、平壌攻略戦などに参戦した。
第5師団参謀、第2師団参謀、陸士教官、第3師団参謀長、第10師団参謀長、第8師団参謀長、
歩兵第24連隊長などを歴任。1903年4月、義和団の乱後の清国駐屯軍司令官となり
同年7月、陸軍少将に進級した。
日露戦争中は、満洲軍総司令部と緊密な連絡を取り、清国内部における宣撫工作や情報収集活動
歩兵第31旅団長、歩兵第18旅団長、歩兵第2旅団長などを経て、1910年11月、陸軍中将に昇進。
下関要塞司令官、第17師団長、第3師団長、第1師団長を歴任。1916年8月に待命となり
翌年4月、予備役に編入された。シベリア出兵に伴い召集を受け、1918年8月から翌年4月まで
留守第12師団長を務めた。
 竹内 正策
  たけのうち せいさく

  
嘉永4年5月 高知城下で生まれ
明治8年)陸軍少尉任官。西南戦争に出征。明治25年)11月、陸軍省軍務局第2軍事課長に就任。
明治27年)9月、第1軍兵站参謀長に発令され日清戦争に出征。
明治28年)3月18日、歩兵大佐に昇進し軍務局第1軍事課長となる。
明治29年)11月から1898年(明治31年)3月まで東宮武官を務め、同月、歩兵第34連隊長に着任
明治33年)4月25日、陸軍少将に進級し歩兵第12旅団長となる。
明治37年)6月、後備歩兵第4旅団長として復帰し日露戦争に出征。第3軍隷下として旅順攻囲戦で
武功をあげた。その後、遼東守備軍に編入された。1905年(明治38年)3月、歩兵第25旅団長に転じ
明治40年)2月28日、陸軍中将へ昇進と同時に予備役編入となった
大正11年)5月、結核が発病し再起不能にいたり自ら自決して果てた。
 田村 怡与造
  たむら いよぞう












   
 田村兄弟
嘉永7年10月 甲斐国東山梨郡相興村中尾に田村義事の長男として生まれる。
明治8年(1875年)2月に上京し、東京府市谷の陸軍士官学校の旧2期生として入学。
明治11年(1878年)12月に卒業し、明治12年(1879年)2月、歩兵少尉として
熊本の歩兵第13連隊(隊長は川上操六)に配属され、新兵教育を行う。
明治16年(1883年)4月にドイツ帝国へ留学し、ベルリン陸軍大学校で学ぶ。
明治18年(1885年)10月にはドレスデンで実戦訓練に参加、6月には歩兵大尉に昇進。
明治21年(1888年)6月に帰国し、翌月、監軍部(のちの教育総監部)へ配属され参謀に就任。
明治27年(1894年)に勃発した日清戦争では、はじめ大本営兵站総監部参謀として兵站を担当し、
8月には前線での作戦指導を命じられる。歩兵中佐に昇進して第一軍参謀副長
明治28年(1895年)1月から翌月まで休職。同年2月には歩兵第9連隊長となり再び前戦へ渡航する。
明治30年(1897年)6月、参謀本部第2部員、同年10月には歩兵大佐に進級
明治33年4月に陸軍少将、参謀本部総務部長、同年4月から10月まで同第一部長を兼務。
明治35年(1902年)4月に参謀本部次長に就任
過労のため日露戦争開戦の前年に死去、享年50、同日、陸軍中将に進級。
4人兄弟で 怡与造は長男 田村沖之甫は三男で同じ陸軍中将 田村守衛は四男で陸軍中将
田村濤二郎は次男で実業家であるが子供は太平洋戦争での田村義冨陸軍中将は四男
陸軍大学校卒業(39期・恩賜)で昭和19年7月- 第31軍参謀長 陸軍少将
8月- グアム島玉砕で自決、陸軍中将に進級
  立見 尚文
  たつみ なおふみ
弘化2年7月 父は桑名藩士江戸勤番・町田伝太夫,松平定敬が桑名藩を継いだときに小姓となる。
戊辰戦争の敗戦の後は謹慎生活を送り、しばらく世間から離れて過ごしていたが、士族の反乱
が相次いで起きると指揮能力を評価され、請われて明治陸軍入りする。
西南戦争では陸軍少佐として新撰旅団一個大隊を指揮。
日清戦争では陸軍少将で歩兵第10旅団長。その後、陸軍大学校長事務取扱、台湾総督府軍務局長。
日露戦争では陸軍中将として第8師団を率い出征する。黒溝台会戦では、ロシア軍の冬季
大規模攻撃を受けた日本軍左翼の重要拠点である黒溝台を救援に向かう。数倍のロシア軍との
戦闘は激烈を極め、日本側も増援する中、立見は師団兵力の半数を失いながらも黒溝台を回復し、
会戦はロシア軍の退却で終結した。
これらの功績により、旧幕府軍出身者ながら陸軍大将に昇進。
 塚本 勝嘉
  つかもと かつよし

  
弘化4年11月大垣藩士・井道住右衛門の三男として生まれ、同藩士・塚本勝茂の養子となる。
同藩が新政府側となり戊辰戦争に従軍。1872年、陸軍少尉任官。第6番大隊付を経て、
1874年4月、台湾出兵に従軍。熊本鎮台付を経て、1877年2月から10月まで西南戦争に出征した。
歩兵第4連隊大隊長、近衛歩兵第2連隊大隊長等を歴任し、日清戦争には歩兵第6連隊長として
出征し、平壌や海城の戦いに参加した。陸軍大学校長、第6師団参謀長などを経て、
1897年9月、陸軍少将に進級。義和団の乱及び日露戦争に歩兵第21旅団長として出征。
日露戦争では、金州、南山などに転戦。1904年9月、陸軍中将となり、遼陽会戦で負傷した
小川又次中将の後任として第4師団長に就任し、奉天会戦を戦った。その後、第9師団長を勤め、
1908年12月に休職し、翌年11月20日、後備役となった。
   土屋 光春
  
つちや みつはる
嘉永元年8月岡崎藩士・渡利伝左衛門の四男として生まれる。のちに岡崎藩士・土屋光時の嗣子
大阪陸軍兵学校に入り明治3年(1870年)陸軍少尉任官。
その後、佐賀の乱、西南戦争を経て日清戦争には大本営参謀として従軍した。
第27旅団長、台湾守備混成第1旅団長、近衛歩兵第1旅団長を歴任し、
明治35年(1902年)に陸軍中将に進む。日露戦争に際しては、乃木希典大将率いる第3軍隷下の
第11師団長として、旅順攻囲戦に参加。東鶏冠山に師団を率いて攻撃中にロシア軍銃撃により
頭部に銃創を受け内地後送。治癒後、明治38年に新設の第14師団長として再度満州に渡る。
明治40年(1907年)9月に戦功により男爵となる。明治41年(1908年)12月21日に第4師団長となり、
明治43年8月26日、陸軍大将に進むと同時に後備役編入。1915年(大正4年)4月1日に退役した
大正9年(1920年)11月17日に73歳で病没
長男の土屋光金は海軍中将
 
  東條 英教
  とうじょう ひでのり

  
安政2年11月 盛岡藩士 東條英俊の嫡男として誕生。昭和期の東條英機大将の父
その後、幕末、大政奉還、明治維新などを経験、陸軍教導団に兵卒として入隊
1877年 西南戦争に従軍、少尉試補に昇進
1885年度 陸軍大学校を首席で卒業(第一期生、卒業生は10人)。
1888~1891年 井口省吾、山口圭蔵とともにドイツへ留学   明治37年? 陸軍中将
日露戦争では、歩兵第三旅団長として出征。
しかし、抗命などを理由に解任、帰国させられる。1907年11月7日、中将に名誉進級後
陸軍大第一期生を首席卒業したが中将とまりであった。その理由として盛岡藩が戊辰戦争で
明治政府と戦ったためや、当時は薩長派閥が幅を利かせていたためなどが言われている。
日露戦争での解任理由
中将で退官した直接の理由であるが、日露戦争の時に犯した作戦ミスが原因とされている。
陸軍大第一期生の同期生で旅団長であったのは英教のほか、秋山好古と山口圭蔵がいたが、
山口は免職となり英教は左遷となった。1904年6月に蓋平攻撃と連動して起きた分嶺水の戦闘で
消極策を取り独断専行気味に兵を引いたという際、師団司令部と対立したといわれている。
ついで7月の柝木城の戦闘において歩兵第三旅団長の英教は攻撃の要であったにも関わらず、
師団長川村景明に夜襲を命じられたとき、状況を判断して夜襲を行わなかったが、
その原因は偵察不足であった。そのためにロシア軍が無傷で撤収し、別の師団が敵軍を包囲する
事態となり川村の面子が潰されたからであるという。
この失敗により英教は兵学書に通じてはいたが実戦向きではなく作戦失敗を招き
「実兵指揮能力不足」という評価が下され旅団長を解任されで留守歩兵第2旅団に左遷された
予備役による退職後は、専ら戦術の研究に打ちこみ著述業に従事した。
英教は自身の挫折した夢を息子英機に託した。
  豊島 陽蔵
 
 とよしま ようぞう
  
  
嘉永5年9月安芸国矢賀(現在の広島市東区)出身。豊島文礼の二男
明治8年(1875年)2月、陸軍兵学寮に入り、同年12月、陸軍士官学校に入学。
明治12年(1879年)2月、砲兵少尉に任官し、同年12月、陸士(旧2期)砲兵科を卒業した。
明治13年5月、大阪鎮台野戦砲兵第2大隊付となり、要塞砲兵幹部練習所練習員を経て、
明治23年(1890年)5月、砲兵少佐に昇進し要塞砲兵第1連隊大隊長となる
明治27年(1894年)11月から翌年11月まで日清戦争に出征し、この間、臨時徒歩砲兵連隊長、
東京湾要塞保塁団司令官を務めた。
明治30年(1897年)10月、砲兵大佐に進級した。
明治35年(1902年)5月、陸軍少将に昇進し要塞砲兵監に就任。翌年1月、野戦砲兵監を兼務した。
明治37年(1904年)5月、攻城砲兵司令官兼第3軍砲兵部長に発令され日露戦争に
明治38年(1905年)6月まで出征。旅順攻囲戦では第3軍の全砲兵を指揮した。
明治38年(1905年)1月、独立重砲兵旅団長に転じ奉天会戦に参戦した。
明治39年2月、要塞砲兵監に就任、重砲兵監に異動し、明治41年12月、陸軍中将に進んだ。
1914年(大正3年)1月7日、予備役となる
大正3年(1914年)1月29日広島市長に就任
  豊辺 新作
  
とよべ しんさく

  
文久2年5月 越後長岡藩藩士豊辺陳善である。豊辺家は禄高八十石で、陳善は藩主側役の地位
豊辺は豊辺家の長男であり、弟は米国へ渡り農業に従事。
豊辺は陸軍幼年学校を経て1882年(明治15年)に陸軍士官学校を卒業した
騎兵第一大隊附、教導団騎兵中隊小隊長、三本木軍馬補充部勤務を経て騎兵第五大隊第一中隊長
として日清戦争に出征する。平素の豊辺は周囲に無能と思われており、大尉に進級したものの、
予備役入りは近いと考えられていた。しかし豊辺は実戦においてその評価を一変させる。
日清戦争:10月29日、豊辺は2個小隊を率いて鳳凰城に向かう。守備兵が城に火をかけたため、
豊辺は撤退と判断し城内に突入した。この際小規模ではあるが戦闘を交えている。
この鳳凰城の攻撃には1個師団以上の兵力が準備されていたが、豊辺部隊は51名で占領に成功した
豊辺部隊は51名で占領に成功した。戦後、少佐へ進級。
日露戦争豊辺支隊の沈旦堡死守は、日本軍反撃の支?となり、日本軍を崩壊の危機から救った
ったのである。晩年、沈旦堡を守った秘訣を聞かれた豊辺は「ただ苦しいのを我慢しただけ」と答えた
(明治41年)に樺太守備隊司令官に就任し、約1年在任。在職中に少将へ昇進している。
大正2年)に陸軍中将へ進級、予備役入りは1918年(大正7年)である。
  中村 雄次郎
 
なかむら
   ゆうじろうよ

  
嘉永5年2月伊勢国一志郡波瀬村大庄屋・中村一貫の二男として生まれた
明治5年7月(1872年) - フランス留学(- 1874年1月)
明治7年)2月 - 陸軍中尉・大阪鎮台付
明治12年)10月 - 大阪砲兵工廠監務
明治18年)5月 - 砲兵少佐
明治22年)12月 - 砲兵中佐・砲兵第1方面提理
明治26年)11月 - 砲兵大佐
明治30年)9月 - 陸軍少将・陸士校長     
明治31年)1月 - 陸軍次官・兼軍務局長
明治33年)5月 - 陸軍総務長官
明治35年)4月 - 陸軍中将・予備役・製鉄所長官
大正9年)6月 - 宮内大臣(- 1921年2月)
 長岡 外史
  
ながおか がいし

  
 
安政5年5月周防国都濃郡末武村出身。父は大庄屋・堀三右衛門で、徳山藩士・長岡南陽の養子。
明治11年、陸軍士官学校(旧2期)卒。明治18年(1885年)に陸軍大学校を一期生として卒業
日清戦争では大島混成旅団の参謀、明治30年(1897年)には軍務局第2軍事課長を勤め、
ドイツ派遣を経験する。明治35年(1902年)には陸軍少将となり、歩兵第9旅団長を務める。
明治37年(1904年)からの日露戦争では大本営陸軍部参謀次長として行動した。
明治41年(1908年)には軍務局長となり、翌年には陸軍中将に昇進。
臨時軍用気球研究会の初代会長を兼務した。次いで第13、16師団長を務め、
大正5年(1916年)には予備役となる。
大正13年(1924年)5月、第15回衆議院議員総選挙に山口県第7区から出馬して当選し議員となる。
 永沼 秀文
 
ながぬま ひでふみ

  
慶応2年10月父は仙台藩藩士永沼秀実である。士官学校旧8期を卒業し、騎兵少尉に任官した。
日清戦争時の永沼は宇品運輸通信部員として後方支援を行っている。
明治35年)11月、騎兵中佐に進級し、弘前に所在する騎兵第八連隊の連隊長に就任する。
在職のまま日露戦争の開戦を迎えるが、騎兵第八連隊の属す第八師団は総予備として初期の
戦闘には参加せず、戦場に至ったのは遼陽会戦の後である。
明治37年)12月、永沼は満州軍総司令部に騎兵挺進隊による奉天以北の線路爆破を提案するが、
総参謀長児玉源太郎はこの提案を受け入れなかった。しかし第二軍司令官の奥保鞏が賛意を示し、
永沼騎兵第八連隊は第二軍隷下の秋山支隊に転属となった
永沼挺進隊、長谷川挺進隊の作戦行動は奉天会戦における第三軍(乃木希典司令官)の行動を
助ける効果を挙げたのである
騎兵大佐に進級し、復員後は騎兵第十三連隊長を経て1912年(明治45年)4月、少将へ昇進。
騎兵第一旅団長に補され1917年(大正6年)8月まで在任し、6月陸軍中将、12月に予備役となった。
  南部 辰丙 
 
なんぶ しんぺい

  
安政3年4月 石川県出身
陸軍士官学校に入学。1877年(明治10年)12月、歩兵少尉に任官し陸士(旧1期)を卒業した。
明治29年)12月、歩兵第42連隊長に就任し、1897年(明治30年)10月、東部都督部参謀に異動。
明治31年)10月、歩兵第6連隊長となり、1899年(明治32年)同年2月、歩兵大佐に昇進。
日露戦争に出征。明治37年7月、陸軍少将に進級し歩兵第5旅団長に移り、奉天会戦などに参戦。
明治44年)9月、陸軍中将に進み下関要塞司令官に着任。
明治45年)2月、憲兵司令官に就任
大正4年)2月、第2師団長に親補された。
大正6年)4月、予備役に編入となった。1919年(大正8年)4月1日、後備役に編入
 西 寛二郎
  
にし かんじろう


  
 
弘化3年3月薩摩藩士、西太郎兵衛の長男として生まれ、幼少の頃から島津久光の下に仕えた。
明治4年(1871年)7月、陸軍に入る。初任は陸軍中尉で御親兵2番大隊付を命ぜられた。
同年12月、陸軍大尉に進み1873年(明治6年)12月、陸軍少佐に任ぜられる。
(明治7年)の佐賀の乱には征討参謀として出征、続く台湾出兵にも従軍し
明治10年)の西南戦争では別働第1旅団参謀として参戦するが、この時負傷する。
その後、近衛幕僚参謀・参謀本部管東局員を経て明治14年)2月、歩兵第11連隊長に就任し、
翌年、陸軍大佐に進む。名古屋鎮台参謀長、東京鎮台参謀長、参謀本部第1局長等を経験し
明治22年)8月、陸軍少将に任ぜられ歩兵第11旅団長に補される。翌年6月に歩兵第2旅団長に移り、
この時日清戦争に出征する。この戦役では山地元治中将指揮の下金州・旅順・田庄台を攻略し、
その功をもって1895年(明治28年)8月、男爵を授けられ華族に列せられる。
明治29年)5月に威海衛占領軍司令官となり、同10月、陸軍中将に進み、乃木希典の後任として
第2師団長に就任する。1904年(明治37年)2月の日露戦争に出征し功を挙げ
同年6月に陸軍大将に進級する。同年9月の遼東守備軍司令官を経て
明治38年)5月9日、陸軍三長官の一角教育総監に就任する。
明治41年)の軍事参議官の後1911年(明治44年)3月後備役となる。
明治45年)1月27日薨去。没後に勲一等旭日桐花大綬章を贈られる。
 西島 助義
  
にしじま すけよし

  
弘化4年9月長州藩士の子弟として生まれる。戊辰戦争には分隊長として出征した。
明治6年)2月、陸軍少尉に任官。1893年(明治26年)2月、歩兵第11連隊長として日清戦争に出征。
明治27年)11月に歩兵大佐、1896年(明治29年)12月に歩兵第44連隊長、
(明治30年)2月に陸軍教導団長、明治31年)3月には陸軍少将に昇進して歩兵第24旅団長、
明治33年)1月には台湾守備混成第3旅団長をつとめた。
明治35年)2月、歩兵第7旅団長として日露戦争に出征。南山の戦いや得利寺の戦い、
大石橋の戦い、遼陽会戦に参戦する。
明治37年)9月には陸軍中将に進み、西寛二郎大将に代って第2師団長として奉天会戦を戦った。
明治39年)年4月には勲一等旭日大綬章を授けられた。同年7月、第6師団長。
 野津 鎮雄
  
のづ しずお
  
天保6年9月 薩摩下級藩士野津七郎鎮圭(4石)の長男として生まれる。弟に陸軍元帥・野津道貫
維新後の明治2年(1869年)1月、藩兵4番大隊長を任ぜられる。
明治4年(1871年)3月、上京し御親兵大隊長となり、7月より陸軍に奉職。佐賀の乱では
大久保利通指揮の下、大阪鎮台隷下の歩兵2個大隊砲兵大隊を率い、佐賀城奪回に貢献した。
明治5年(1872年)9月2日 - 少将に進む
西南戦争では第一旅団司令長官をつとめた。戦後陸軍中将となる。
明治13年、明治天皇の随行を命ぜられるが、出発前に病に倒れ死去。享年44
  野口 坤之
  
のぐち こんの
 
万延元年4月陸奥国耶麻郡五十軒村(現・福島県猪苗代町)に生まれた、旧会津藩・士族である。
退職し秋月悌次郎門下となる。陸軍士官学校(旧6期)、陸軍大学校(4期)を卒業。
第一師団参謀(大尉)として、日清戦争に従軍。金州、大連、旅順、蓋平、田荘台と転戦した。
明治30年)少佐、明治35年中佐へ進級。教育総監部参謀、歩兵第三十三連隊長などを務めている。
日露戦争では第四師団参謀長として、師団長・小川又次を補佐し、大石橋、海城、沙河会戦と歴戦。
遼陽会戦において小川と共に負傷し、日本に帰国した。
出征中に大佐へ進級し、戦後は陸軍中央幼年学校長を務め、1908年(明治41年)3月少将へ昇進。
歩兵第11旅団・歩兵第三十五旅団・歩兵第一旅団の旅団長を歴任し、陸軍士官学校長に就任した
病を得、大正元年11月に待命となる。翌年8月、陸軍中将へ進級するとともに予備役編入となった。
1919年3月7日(満58歳没)
 原口 兼済
  
はらぐち けんさい

  
 
弘化4年2月 大分 森藩士・林寛吾の四男として生まれ、同藩士・原口等の養子となる。
1870年、陸軍兵学寮青年学舎に入り、1872年、陸軍少尉に任官し5番大隊付となる。
1877年3月から9月まで西南戦争に出征した。
歩兵第3連隊大隊長、陸士生徒司令官、陸軍戸山学校次長、ドイツ差遣、戸山学校長
近衛歩兵第1連隊長などを歴任し、日清戦争末に第4師団参謀長として出征したが終戦となった。
戸山学校長となり、1897年9月、陸軍少将に進級。歩兵第20旅団長、台湾守備混成第1旅団長、
歩兵第17旅団長、留守第1師団長、韓国駐剳軍司令官、大本営付、教育総監部参謀長などを経て、
1905年1月、陸軍中将となった。日露戦争では第13師団長として樺太作戦を遂行、
樺太全土を占領した。1906年7月に休職し、翌年11月13日、予備役に編入された
1910年8月から1918年7月まで貴族院議員を務めた。1919年6月18日没
 平佐 良蔵
  
ひらさ りょうぞう

  
嘉永4年7月 長門国(現在の山口県)出身
明治4年9月21日(1871年11月3日)、陸軍少尉に任官。明治25年)12月、歩兵第10連隊長となり、
治28年)2月、歩兵大佐に昇進。1897年(明治30年)10月、近衛歩兵第1連隊長に就任した。
明治33年)4月、陸軍少将に進級し歩兵第10旅団長に就任。
明治34年)7月、台湾守備混成第2旅団長に異動
明治36年)7月、歩兵第18旅団長に発令され日露戦争に出征。旅順攻囲戦、奉天会戦などを戦った。
明治39年)7月、陸軍中将に進み第15師団長に親補された。
明治40年)1月28日に退役し、同年9月21日、その功績により男爵の爵位を授爵し華族となった。
  比志島 義輝
  
ひしじま よしてる
  
  
1847年10月11日(弘化4年9月3日) - 1927年3月14日   鹿児島県
明治19年)5月、歩兵第19連隊長に転じ、1887年(明治20年)11月、歩兵大佐に昇進。
明治22年)9月、歩兵第1連隊長となり、1892年(明治25年)9月、第4師団参謀長に異動したが、
日清戦争末の1895年(明治28年)1月27日、後備歩兵第1連隊長として復帰し、
台湾混成支隊司令官に発令され、台湾に出征し澎湖諸島を占領(乙未戦争)。
同年8月、陸軍少将に進級し台湾兵站監に就任。
明治29年)3月、台湾守備混成第3旅団長に移る。1898年(明治31年)4月、歩兵第15旅団長となり、
(明治34年)2月18日、予備役に編
日露戦争勃発により1904年(明治37年)4月に召集を受け、鴨緑江軍隷下の後備歩兵第9旅団長に
就任し奉天会戦などに参加。明治39年)2月17日に後備役編入となり、同年2月27日、陸軍中将
 藤井 茂太
  ふじい しげた

  
万延元年 9月 福本藩(兵庫)公用人・藤井義柄の次男として生まれる。
外国語学校、陸軍幼年学校を経て、明治13年(1880年)12月、陸軍士官学校(旧3期)を卒業。
野砲第2大隊付などを経て、明治18年(1885年)12月、陸軍大学校(1期)を卒業。
参謀本部第2局員、清国出張、陸大教官、ドイツ留学、兵站総監部付などを歴任し、
第2軍参謀(後方主任)として日清戦争に出征。
明治35年(1902年)6月、陸軍少将に進級、陸大校長を務めた。
日露戦争では、第1軍参謀長として出征し、司令官の黒木為楨を補佐した。
以後、陸軍砲工学校長、東京湾要塞司令官などを歴任。
明治42年(1909年)8月、陸軍中将に進み、野戦砲兵監、第12師団長などを務め、
大正3年(1914年)8月、予備役に編入された。
 古川 宣誉
 
ふるかわ のぶよし 
嘉永2年3月 幕臣静岡県。江戸で星谷精四郎の息子として生まれ、古川鐘太郎の養子となった
慶応2年)7月、江戸幕府に御持小筒組として出仕し、以後、差図役下役並方当分介、
その後、慶応4年)の戊辰戦争においては、撒兵隊に属し江戸開城後も市川・船橋戦争などで
新政府軍と戦い敗北する。 明治2年)9月より沼津兵学校で資業生(第4期)として学ぶ
明治5年(1972年)5月、兵学校廃校に伴い東京に移り、大尉勤務となり陸軍教導団に編入された
明治22年11月、陸軍幼年学校長に就任し、陸軍省軍務局工兵事務課長、工兵第1方面本署長を経て
明治26年)11月、工兵大佐に昇進。同年12月、工兵会議議長に異動。
明治27年)10月、第2軍工兵部長兼兵站監となり日清戦争に出征し、同軍工兵部長に異動した。
明治30年)9月、陸軍少将に進級。1901年(明治34年)5月に休職。
明治37年)6月、第4軍兵站監に着任し日露戦争に出征。
明治39年)3月5日、陸軍中将に進むと同時に予備役に編入となった
 前田 隆礼
  
まえだ たかのり

  
 
嘉永元年8月十津川郷士・前田利一の長男として生まれる。天誅組に加わり戊辰戦争に従軍後
1872年、陸軍中尉に任官。1874年2月、佐賀の乱に出征し、続いて台湾出兵に従軍。
陸軍戸山学校付となる。1877年3月から10月にかけて西南戦争に出征した。
東京憲兵隊第2大隊長、歩兵第8連隊大隊長、同連隊長などを歴任。
日清戦争に出征し歩兵第48連隊長となる。1899年9月、陸軍少将に進級。
歩兵第18旅団長、台湾守備混成第2旅団長などを歴任し、歩兵第22旅団長として日露戦争に出征。
1905年3月、奉天会戦で負傷し戦傷死、陸軍中将に進級した。
 松永 正敏
  
まつなが まさとし

  
嘉永4年6月 熊本藩士、郡吏・松永和吉の二男として山鹿郡中富村に生まれる。
明治4年(1871年)、伏見青年学舎を経て伏見教導隊に入る。曹長と昇進し、
明治6年(1873年)5月、陸軍少尉に任官し歩兵第19大隊付となる。
明治7年5月から10月まで台湾出兵に従軍。
明治10年3月から10月まで西南戦争に出征した。
近衛局参謀、東部監軍部参謀、歩兵第4連隊大隊長、広島鎮台参謀、監軍部参謀、
近衛歩兵第4連隊大隊長、対馬警備隊司令官、広島大本営付等を歴任し、
日清戦争には歩兵第2連隊長として出征し、田庄台や営口での戦闘に参加した。第7師団参謀長など
明治33年(1900年)4月、陸軍少将に進級
日露戦争に歩兵第3旅団長として出征し、鴨緑江会戦から沙河会戦までを戦い、奉天会戦直前に
第3軍参謀長に転ずる。明治38年(1905年)3月、会戦後の追撃戦で重傷を受け帰国。
留守歩兵第3旅団司令部付を経て、同年10月、陸軍中将となる。
明治40年(1907年)9月、男爵を叙爵し華族となる。第3師団長を経て第2師団長となり、
朝鮮駐剳中の明治45年(1912年)京城にて死去した。
 松村 務本
 
まつむら かねもと

  
嘉永5年12月 金沢藩士、御膳番(300石)・松村八郎左衛門の二男として生まれる。
大阪教導大隊に入る。軍曹、曹長、少尉試補と昇進し、1873年9月、陸軍少尉任官。
陸軍戸山学校、近衛歩兵第1連隊中隊長心得などを経て、1877年3月から9月まで西南戦争に出征
近衛歩兵第2連隊副官、歩兵第18連隊大隊長、仙台鎮台副官、第2師団参謀、
歩兵第3連隊長などを歴任し、日清戦争には第6師団参謀長として出征し、威海衛攻略に従軍。
1897年9月、陸軍少将に進級、台湾守備混成第2旅団長を経て、
日露戦争に歩兵第1旅団長として出征し、南山の戦いに参戦。1904年7月、陸軍中将となり、
伏見宮貞愛親王の後任として第1師団長に就任。旅順攻囲戦の後に倒れ、
1905年2月に遼陽で戦病死した。勲一等旭日大綬章
 三好 成行
  
みよし なるゆき

  
 
弘化2年10月 長州藩士の家に生まれる。
明治維新後は陸軍に入り、1887年(明治20年)4月、歩兵大佐となる。
明治21年)6月、歩兵第7連隊長に就任し日清戦争に出征した。
明治28年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第6旅団長となる。  威海衛占領軍司令官を兼務
(明治33年)4月、近衛歩兵第1旅団長となり、明治34年)5月、陸軍中将に進むと同時に予備役編入、
日露戦争勃発に伴い召集され、1904年(明治37年)2月、留守第2師団長に就任。
明治38年)1月、後備第2師団長に発令され、韓国北部平定作戦に出征。
明治41年)4月1日、陸軍を退役
大正8年)10月17日 没
  村田 惇
  
むらた あつし

   
嘉永7年10月本籍静岡県。江戸で幕臣・高野勘四郎尹元の二男として生まれ、村田政の養子
明治3年(1870年)9月より沼津兵学校で資業生(第6期)として学び
明治4年(1871年)1月、沼津兵学校から貢進生として大阪兵学寮幼年学舎に編入。
明治8年)12月、陸軍士官学校(旧2期)に入学し、1879年(明治12年)2月、砲兵少尉に任官
明治15年)、陸士教官に就任し、参謀本部長伝令使、フランス・イタリア留学
明治30年)10月まで参謀本部副官を務め、この間、大本営管理部長、第2軍副官(日清戦争出征)
明治28年)3月、砲兵中佐に進級  明治30年)10月、砲兵大佐に進級し第4師団参謀長に就任
1902年5月、陸軍少将に昇進。参謀本部付を経て、同年12月、佐世保要塞司令官に就任。
大本営幕僚付(外国係)、韓国統監府付などを経て、1909年(明治42年)8月、陸軍中将に進み
陸軍築城部本部長となった。1914年(大正3年)5月に待命、同年8月、予備役に編入となった。
  山沢 静吾
  
やまざわ せいご

  
弘化2年12月 薩摩藩士・山沢十太夫の長男として生まれる。
戊辰戦争に参戦し、1869年、第1大隊5番小隊長となり、同年、御親兵として上京。
1871年、陸軍大尉任官。1872年、免本官となり牧畜研究のためアメリカに派遣される。
1872年、免本官となり牧畜研究のためアメリカに派遣される。1874年5月帰国し、
同年10月、陸軍中佐に任官し、陸軍省出仕・陸軍生徒取締としてフランスに派遣される。
1877年5月から翌年7月まで露土戦争の観戦武官として派遣され、プレヴェン包囲戦に従軍
ロシアとルーマニアから軍功賞牌が下賜される
歩兵第3連隊長や歩兵第1連隊長、近衛歩兵第1連隊長などを歴任し、1885年5月、陸軍少将に昇進。
歩兵第3旅団長や歩兵第10旅団長、留守歩兵第9旅団長を経て、
1895年1月、陸軍中将に昇進。留守第5師団長を経て、日清戦争に第4師団長として出征した。
1897年3月30日(満51歳没)
  山田 保永
  
やまだ やすなが

   
嘉永3年8月 紀伊国出身。山田甚五右衛門の長男として生まれる。
明治4年12月(1872年)、召集兵として陸軍に入り少尉心得に任官し大坂鎮台付となる。
明治5年(1872年)3月、陸軍少尉に昇進。1877年(明治10年)2月から10月まで西南戦争に出征。
明治16年)6月、歩兵少佐に進級し歩兵第12連隊大隊長に就任。
明治18年)5月、参謀本部管東局員となり、参謀本部第2局員、歩兵第1連隊大隊長、第4師団副官
明治25年)9月、歩兵中佐に昇進。同年11月、陸軍省副官に移るが、明治26年)8月、休職した。
1893年9月、歩兵第2連隊長として復帰。1894年(明治27年)9月、二度目の第2軍事課長となる。
第2軍副官に発令され日清戦争に明治28年)5月まで出征。この間、1895年1月、歩兵大佐に進級。
明治32年)3月、近衛歩兵第4連隊長に就任。
明治33年)3月、陸軍少将に昇進し歩兵第7旅団長を命ぜられる。
明治35年)2月、台湾守備混成第3旅団長に転ずる
明治37年)4月、歩兵第9旅団長に異動し1904年(明治37年)11月まで日露戦争に出征。
沙河会戦まで参戦。この間、1904年7月に休職、同年10月、留守歩兵第12旅団長となる。
明治38年)4月、第13師団兵站監に就任。同年7月、樺太に出征。
同年9月、樺太守備隊司令官に着任。1906年(明治39年)7月6日、陸軍中将に進級と同時に
予備役編入, 明治41年)4月1日、後備役となる。1913年(大正2年)4月1日に退役した
 山田 忠三郎
 
やまだ たださぶろう
   
1857年9月23日 - 1916年8月3日  京都府 陸軍士官学校(旧2期)
明治35年)5月、歩兵第11連隊長に就任し、同年11月、歩兵大佐に昇進。
明治36年)7月、近衛歩兵第1連隊に転じ日露戦争に出征。遼陽会戦直前の明治37年)8月17日、
第3師団参謀長に転じ、遼陽、沙河会戦、奉天会戦などに参戦。
1905年(明治38年)7月、陸軍少将に進級し鴨緑江軍隷下の歩兵第10旅団長となる。
明治40年)1月、陸軍戸山学校長に着任し、1909年(明治42年)11月、陸軍省人事局長に異動。
明治45年)4月、陸軍中将に進み第14師団長に親補された。
  山地 元治
  
やまじ もとはる

  
天保12年7月 土佐藩士(馬廻役・150石)山地元恒の長男として高知城下小高坂越前町に生まれる。
鳥羽・伏見の戦いでは独断で新政府に与して幕府側に攻撃し、戊辰戦争では迅衝隊七番隊長、
胡蝶隊長として東北各地を転戦した。明治元年(1868年)には大隊長となり、
明治4年(1871年)、御親兵として上京して陸軍中佐に昇任した。
征韓論争では、板垣や後藤象二郎ら土佐藩出身とともに下野する。
帰郷した後は、板垣等とともに自由民権運動に挺身しようと盟約を結んだものの、今後の方針を
巡って板垣と対立をした結果、陸軍に復帰した。
明治10年3月から10月まで歩兵第4連隊長として西南戦争に出征し、別働第3旅団参謀長として
戦傷を受けた。のち、歩兵第3連隊長や歩兵第12連隊長などを経、
明治14年2月には陸軍少将として熊本鎮台司令官をつとめた。
大阪鎮台司令官、歩兵第2旅団長、再度の熊本鎮台司令官を歴任し、
明治19年(1886年)12月、陸軍中将。明治20年(1887年)5月、男爵。第6師団長を経て、
第1師団長として日清戦争に出征し、金州や旅順、田庄台などを攻略した。
明治30年(1897年)10月3日)死去
13歳の時、片目を失明し「独眼竜将軍」の渾名を持つ勇将であった
   
迅衝隊(前列左から伴権太夫、板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)
山地忠七。 中列、谷神兵衛、谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)
山田清廉、吉本平之助祐雄。 後列、片岡健吉
       
  山根 武亮
  
やまね たけすけ

  
嘉永6年2月 長州藩士・山根修平の二男として生まれる。
明治11年(1878年)12月、陸軍士官学校(旧1期)を卒業する。
日清戦争に第2軍兵站参謀長として出征した。続けて台湾平定(乙未戦争)に臨時台湾鉄道隊長と
第6師団参謀長、第12師団参謀長などを歴任し、明治33年(1900年)4月、陸軍少将に進級
佐世保要塞司令官、清国駐屯軍司令官、清国公使館付、参謀本部付などを経て、
日露戦争では臨時軍用鉄道監として出征し、仁川で任務を遂行した。鉄道監、
下関要塞司令官を歴任し、
明治39年(1906年)7月、陸軍中将となる。第8師団長、第12師団長、近衛師団長を経て、
大正4年(1915年)2月、後備役に編入。
昭和3年(1928年)4月4日)死去
  山口 素臣
 
やまぐち
  もとおみ

  
弘化3年5月 山口藩士・山本芳の息子として萩に生まれ、同藩士・山口義惟の養子となる。
戊辰戦争に奇兵隊嚮導役として従軍し北陸、奥羽を転戦。維新後は陸軍に仕官する。
明治3年9月に大坂陸軍教導団第2教導隊に入り明治4年4月、陸軍軍曹に任命される。
明治6年)10月より陸軍少佐。翌年1月、近衛歩兵第1連隊が創設されると第1大隊長に就任し
佐賀の乱に参戦。続く西南戦争では3月4日の田原坂の戦いに参加。
豊岡・平原地区(現・熊本市北区)に陣取る薩軍右翼を攻撃したが、逆襲に遭い苦戦を強いられる。
戦後、歩兵第9連隊長、歩兵第7連隊長を経て1882年(明治15年)2月、陸軍大佐に進級する。
同年3月から熊本鎮台参謀長、1885年(明治18年)5月に東京鎮台参謀長、
明治19年)5月には近衛参謀長に就任する。
明治22年)9月の歩兵第10旅団長心得を経て明治23年)2月、陸軍少将・歩兵第10旅団長に進み、
明治27年)から始まる日清戦争には第2師団隷下歩兵第3旅団長として出征する。
山東半島に上陸し、右翼隊を率いて威海衛の戦いに参加。
明治29年)10月、陸軍中将に進み第5師団長に補される。
明治33年)、北清事変に出征し戦功を挙げ勲一等旭日大綬章、功二級金鵄勲章を受章する。
明治37年)3月、陸軍大将に進み軍事参議官に任命されるが同年8月に逝去し、子爵を追贈された
勲一等旭日大綬章
  矢吹 秀一
 
やぶき
  しゅういち

  
嘉永2年 静岡県。一橋家家臣の子弟として江戸浅草に生まれ家臣として徳川慶喜に仕えた。
維新後は沼津兵学校に学び、明治4年(1971年)に退校して陸軍に奉職した。
明治19年)5月、陸軍省工兵局次長となる。1887年(明治20年)6月、工兵局長に進み、
明治22年)11月、工兵大佐に昇進。1890年(明治23年)3月、軍務局工兵事務課長に就任し、
同年8月、工兵監に転じた。1894年(明治27年)9月、第1軍工兵部長に発令され
日清戦争に出征。鴨緑江架橋を成し遂げている
明治28年)1月、陸軍少将に進級し、1898年(明治31年)1月、再び工兵監に就任
明治33年)4月、陸軍中将に進んで翌年7月に休職となった。
明治37年)10月、日露戦争では留守第1師団長として復帰し、
明治39年)3月には第1師団司令部付となり、同年4月に休職。明治40年)3月2日に予備役編入
  柚原 完蔵
  
ゆはら かんぞう
明治5年 元津藩士、衆議院議員・伊東祐賢の二男として生れ、柚原具致の養子となる。
明治26年)7月、陸軍士官学校(4期)を卒業。1894年(明治27年)3月、歩兵少尉に任官
同年9月から翌年7月まで日清戦争に出征。陸軍戸山学校教官、歩兵第19連隊中隊長などを経て、
明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業。
明治35年)11月、陸士教官となり、教育総監部参謀に異動し、
明治37年)8月、歩兵少佐に昇進。明治38年)3月、第12師団参謀に着任し日露戦争に出征。
同年9月、清国駐屯軍参謀に就任し、第5師団参謀を経て、
明治41年)12月、歩兵中佐に進級し歩兵第62連隊付となる。
明治45年)3月、徳島連隊区司令官に就任し、1913年(大正2年)1月、歩兵大佐に昇進し
歩兵第12連隊長に着任、大正3年)8月、第10師団参謀長となり、1917年(大正6年)8月、
陸軍少将に進級し歩兵第13旅団長に就任した。
大正7年)8月から翌年4月までシベリア出兵に出征し満州里において居留民保護に当たる。
大正9年)8月から翌年4月までサガレン州派遣軍に属し北樺太に出征した。
大正10年)4月、第14師団司令部付となり、第8師団留守司令官を経て、
大正11年8月、陸軍中将に進む。同年11月、第6師団長に親補され、大正15年)3月、予備役に編入。
 陸軍少将  
  池田 正介
  
いけだ しょうすけ

  
安政2年
明治元年5月 - 軍艦第一丁卯艦に乗組み越後に出征
明治5年 - 兵学研究のためフランスに留学
明治23年)2月8日 - 免 歩兵第一連隊第二大隊長
明治29年)2月24日 - 山縣有朋特命全権大使のロシア出張に東條英教等と共に随行す
9月25日 - 免 軍務局付、補 歩兵第20連隊連隊長
明治30年)9月7日 - 免 歩兵第20連隊連隊長、補 台湾守備歩兵第2連隊長
明治38年)1月14日 - 任 陸軍少将
    2月1日 - 後備歩兵第17旅団長
大正3年〉9月5日 没
  今澤 義雄
  
いまさわ よしお

  
安政5年10月 (岡崎藩士今澤巌の6男として生まれる。
明治8年)6月、陸軍幼年学校入学、明治14年)12月、工兵少尉任官
明治16年)6月、陸軍士官学校(旧4期)工兵科を卒業
明治18年)5月、工兵中尉に昇進し東京鎮台 工兵第一大隊小隊長となる
日清戦争開戦に伴い、1894年(明治27年)7月、第6師団後備工兵第一中隊長として出征。
明治34年)10月、工兵中佐に昇進し陸軍技術審査部審査官に就任。日露戦争開戦に伴い、
明治37年)5月、第3軍攻城砲兵司令部攻城工兵廠長として出征。
旅順攻囲戦で手榴弾、迫撃砲などを開発。
明治38年)3月、陸軍大佐に昇進し工兵部長に就任
明治39年)1月、陸軍技術審査部工兵部長となる
明治43年)11月、陸軍少将に昇進、同時に予備役となる。
  太田 貞固
  
おおた さだもと
嘉永3年3月 松本藩士の子として生まれる。
藩校崇教館に学び、慶応年間には藩の師範代となる。
1870年藩命により大阪陸軍兵学寮に入り1872年卒業。のち西南戦争に従軍。
日清戦争では貔子窩に上陸し金州城の戦いに参戦。下関条約で日本が台湾を支配すると、
守備隊歩兵第4連隊長として嘉義城に入城。1898年に第1師団歩兵第15連隊長、
1900年に第7師団歩兵第26連隊長。
日露戦争では盛京省鳳凰城を守備し遼陽会戦、沙河会戦に参戦。
1905年後備歩兵第1旅団長となり、陸軍少将となる。
その後歩兵第30旅団長として再出征し、1906年予備役に編入され帰朝した。
明治40年(1907年)10月21日)死去
 加藤 泰久
 
かとう
  やすひさ

  
安政元年12月 幕臣・加藤泰吉の次男に生まれる。沼津兵学校6期の卒業。
明治8年)12月、陸軍士官学校(旧2期)に入学。1879年(明治12年)2月、陸軍砲兵少尉に任官
明治28年)8月、要塞砲兵第1連隊長に就任。1899年(明治32年)2月、砲兵大佐に昇進
明治37年)5月に攻城砲兵司令部徒歩砲兵第3連隊長に発令され日露戦争に出征。
旅順攻囲戦などに参戦した。
明治38年)1月、陸軍少将に昇進し教育総監部付。1906年(明治39年)4月には広島湾要塞司令官、
明治40年)、大阪砲兵工廠提理に就任。陸軍学校の出では大迫尚道とともに最古参であった。
明治44年)10月、予備役に編入された
実弟の加藤定吉は、海軍大将・男爵
  北川 武
  
きたがわ たけし
1858年(安政5年) - 1913年(大正2年)1月2日
三河国渥美郡(現在の愛知県田原市)大庭要を父として生れる
陸軍士官学校旧3期
明治35年)12月19日、大佐
明治38年)3月11日、陸軍電信教導大隊長工兵大祭北川武、工兵監事務取扱を仰付られる
明治40年)10月22日、電信教導大隊を改組した電信大隊の大隊長に任ぜられる
明治44年)9月6日、陸軍少将に昇進し、即日、予備役編入
大正2年)1月2日、脳溢血に倒れ、逝去
 可兒(可児)春淋
  
かに しゅんりん
弘化3年12月大垣藩士可兒幾平の長子として大垣田町に生まれる。
文久3年より家老付壮士となる。元治3年の禁門の変では、深草で長州軍を破り初陣を飾った。
慶応3年2月より、京都の衣棚にある赤松小三郎の英国兵学塾に入塾する。
赤松が同年9月3日、門人の薩摩藩士中村半次郎に暗殺されると、かねて薩摩藩士が自分たちを
探索しているのを感じ取っていた可兒は、「若し薩摩藩士襲来せば結束して応酬、一戦すべし」と
身構えたという。鳥羽伏見の戦いが勃発すると幕府方として勇戦するも、敗北。大垣藩が新政府軍に
謹慎処分を受けた後、北越戦争に参加。長岡の激戦で武功をあげ、戦後150石を賜った。
廃藩置県後は、陸軍軍人。日清戦争では大隊長として出征。
明治29年に大佐に昇進。 日露戦争が勃発すると、第一軍の後備歩兵13旅団後備歩兵第29連隊の
連隊長として出征。沙河会戦では蓮花山の夜襲攻撃を行いこれを占領。奉天会戦では、
歩兵第4連隊と共に紅土嶺に籠るロシア軍の攻撃を行い、正確な砲撃により攻略に成功した。
高台嶺では、ロシア軍の猛反撃を受け、可兒連隊も隊員の3分の2を失うという凄惨な戦いとなったが、
遂にこれを攻略。可兒本人も、敵弾が鼻から右頬に貫通するという重傷を負ったが、
一か月入院した後に復隊した。 第一軍司令官黒木為楨から二度に渡って感状を受け、
陸軍少将に昇進した。大正9年(1920年)7月25日没
  佐藤 正
  
さとう ただし

  
嘉永2年6月 広島藩士、勘定奉行の佐藤真五郎の四男として生まれる。
明治5年(1872年)2月、陸軍少尉に任官し東京鎮台第9番大隊小隊長に就任。
明治9年4月、歩兵第12連隊中隊長に転じ西南戦争に出征。従軍の後歩兵将校として累進
明治14年(1881年)3月、陸軍少佐に昇進し近衛歩兵第1連隊大隊長に就任。
明治19年(1886年)5月、陸軍中佐に進級。休職後 9月13日、歩兵第24連隊長として復職。
明治25年(1892年)11月1日、陸軍大佐に進級し日清戦争に従軍する。
明治28年3月4日、平壌攻略戦の最中銃弾を受け重傷を負う。この怪我が元で左足切断となり、
同年3月7日に休職し、同年10月20日、退役と同時に陸軍少将に進級する。
明治29年(1896年)1月から同年4月まで広島市長に就任。
明治31年(1898年)11月29日、宮中顧問官に就任する。
  武田 秀山
  
たけだ ひでのぶ

  
高知城下南与力町(現在の高知市)に生まれる
明治3年(1870年)、土佐藩兵伍長で御親兵に選ばれ、陸軍中尉に任官。
第1師団参謀などを経て、1893年(明治26年)2月、歩兵第21連隊長に就任。
日清戦争には混成第9旅団長・大島義昌陸軍少将の隷下として出兵。
成歓の戦い、平壌の戦いなどに従軍した。1894年(明治27年)11月、歩兵大佐に昇進し、
明治28年)1月、第1軍付となり終戦を迎えた。同年8月、再び歩兵第21連隊長に就任。
1895年12月、第1師団参謀長となり、明治31年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第2旅団長に就任。
明治35年)3月、台湾総督府陸軍幕僚参謀長として赴任したが、同年12月に死去した。
  田村 怡与造
  
たむら いよぞう
嘉永7年10月:甲斐国東山梨郡相興村中尾に宮司・田村義事の長男として生まれる
明治8年(1875年)2月に上京し、東京府市谷の陸軍士官学校の旧2期生として入学
明治12年(1879年)2月、歩兵少尉として熊本の歩兵第13連隊(隊長は川上操六)に配属され、
明治16年(1883年)4月にドイツ帝国へ留学し、ベルリン陸軍大学校で学ぶ。
明治27年(1894年)に勃発した日清戦争では、はじめ大本営兵站総監部参謀として兵站を担当
歩兵中佐に昇進して第一軍参謀副長(司令官は山縣有朋)となり、参謀長の小川又次を補佐。
明治33年4月に陸軍少将、参謀本部総務部長、同年4月から10月まで同第一部長を兼務。
田村は日露開戦には消極的であったがロシア帝国との戦争を想定して戦略を練り、過労のため
日露戦争開戦の前年に死去、享年50、同日、陸軍中将に進級。後任には児玉源太郎が降格
  山川 浩造
  
やまかわ ひろし

  
弘化2年11月父は会津藩国家老・山川重固(家禄は1,000石
明治6年(1873年)に陸軍に八等出仕する。同年陸軍少佐として熊本鎮台に移り、
明治7年(1874年)には佐賀の乱で左腕に重傷を負うものの、中佐に昇進する
明治10年(1877年)の西南戦争では、陸軍中佐・征討軍団参謀として出征する。
明治13年(1880年)には陸軍大佐に進級した。
明治18年(1885年)、森有礼の命により、東京高等師範学校(現・筑波大学)及びその附属学校
女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の校長に任じられる。
その後は陸軍少将に進級したが、陸軍省総務局制規課長を最後に予備役に編入される。
明治23年9月より貴族院議員に勅選され、谷や曾我祐準とともに院内会派・懇話会を旗揚げして
「貴族院三将軍」の異名をとった。
 陸軍軍医  
  石黒 忠悳
  いしぐろ ただのり

  
弘化2年2月父・平野順作は幕府代官の手代になり、奥州の陣屋に務めているときに庸太郎が生れ
16歳のとき、父の姉が嫁いでいた越後国三島郡片貝村(小千谷市)の石黒家の養子になった。
松代の佐久間象山に会って感銘を受けた。江戸へ出て、幕府の医学所(後の大学東校、
現在の東京大学医学部)を卒業
1871年、松本良順の勧めで兵部省に入り、軍医となった。佐賀の乱、西南戦争に従軍。
1890年、陸軍軍医総監に昇進するとともに、陸軍軍医の人事権をにぎるトップの陸軍省医務局長
(陸軍軍医・序列第一位)に就任した。日清戦争のとき、医務局長として大本営陸軍部の
野戦衛生長官をつとめており、脚気惨害の責任が指摘されている(詳細は、日清戦争での
陸軍脚気大流行を参照のこと)。戦後、台湾での脚気惨害を知る高島鞆之助が陸軍大臣に
就任すると、軍医制度を確立した功労者でありながら、1897年に医務局長を辞任した
しかし、長州閥のトップ山県有朋や薩摩閥のトップ大山巌、また児玉源太郎などと懇意で、
  石坂 惟寛
  
いしざか いかん
 
 
天保11年2月備前国出身。赤松秀の二男として生れ、岡山藩医・石坂堅壮の養子となる。
万延元年)9月、適塾に入門し西洋医学を学び、のちに岡山藩侍医となる。
明治5年)1月、陸軍軍医となり二等軍医副に任官。明治8年)11月、広島鎮台病院長に就任。
明治10年)2月から10月まで西南戦争に出征。
その後、陸軍本病院第1課長、大阪鎮台病院長、東京陸軍病院治療課長、陸軍軍医本部庶務課長、
陸軍省医務局第1課長などを歴任し、1887年(明治20年)5月、軍医監に昇進。
同年5月から翌年12月まで陸軍軍医学舎長(後の陸軍軍医学校長)を務めた。
明治27年)8月、軍医総監に進級し第1軍軍医部長に発令され翌月から日清戦争に従軍した。
明治30年)3月、制度改正により軍医監(少将相当官)となった。同年9月、医務局長となり、
翌年8月に休職した。1900年(明治33年)12月1日、後備役に編入
  土岐 頼徳
  
とき よりのりう

  
天保14年9月美濃国山縣郡下伊自良村小倉(現岐阜県山県市)の医師高井松亭の長子に生まれ
慶応2年3月)幕府の西洋医学所教授坪井芳州の塾に入り医学所に入校した
明治2年昌平学校(旧昌平校)・開成学校・医学校(旧医学所)が統合された『大学』の准少寮長となり
明治7年)2月陸軍軍医に任ぜられ、9月軍医正となり、
明治10年)新選旅団(強靭な薩摩士族に対抗するため全国の士族志願者を募集し、、「巡査」として
臨時採用して編成した旅団)医長として西南戦争に従軍した
明治24年)4月11日近衛師団軍医部長となり、明治27年第二軍軍医部長として日清戦争に従軍し、
明治28年)6月21日軍医総監(少将相当)に任じられ、同年8月勲二等旭日重光章を賜った
明治29年)台湾総督府陸軍局軍医部長に就任した
明治34年)5月10日予備役に編入され、明治44年)5月12日死去する
  佐藤 進
  
さとう すすむ

  
弘化2年11月 常陸国太田内堀で醸造業高和清兵衛の長男として生まれる。
明治2年、明治政府発行の海外渡航免状第1号を得てドイツに留学。ベルリン大学医学部で学び、
明治7年)にアジア人として初の医学士の学位を取得し帰国。
明治10年)、西南戦争が勃発すると陸軍軍医監に任じられ陸軍臨時病院長として大阪に出張した。
明治12年)10月、陸軍本病院長に就任。明治13年)に陸軍を辞め順天堂の経営に専念した。
日清戦争が始まると再び軍医監に任じられ広島予備病院長に就任。
日露戦争では三度、軍医監に任じられ、広島予備病院御用掛に就任し、休日返上でその職務を
遂行した。1905年(明治38年)12月30日、後備役に編入、明治43年)4月1日に退役した

大正期に最終階級の昇格の将官

  秋山 好古
  
あきやま よしふる

 
安政6年1月松山藩士・秋山久敬、貞の三男として生まれる。秋山 真之の兄
明治12年(1879年)12月23日:陸軍士官学校卒業。任陸軍騎兵少尉。東京鎮台に配属される。
明治13年7月2日:東京鎮台騎兵第1大隊小隊長に異動
明治16年2月28日:任陸軍騎兵中尉
4月9日:陸軍大学校(1期)入学
明治18年(1885年)12月28日:陸軍大学校卒業。参謀本部勤務
明治20年(1887年)7月25日:サン・シール陸軍士官学校に留学した
明治25年4月27日:陸軍士官学校馬術教官に異動 11月1日:任陸軍騎兵少佐
明治27年(1894年):日清戦争に従軍  明治28年(1895年)5月10日:任陸軍騎兵中佐
明治30年10月11日:任陸軍騎兵大佐 明治31年(1898年)10月1日:陸軍騎兵実施学校長に異動
明治34年(1901年) 5月30日:軍司令官・山根武亮少将の清国駐屯軍参謀長
明治35年(1902年)6月21日:陸軍少将に昇任
明治36年(1903年)4月2日:騎兵第1旅団
明治37年(1904年):日露戦争において、騎兵第1旅団長として出征し、第2軍に属して
沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦う。
明治42年(1909年)8月1日:任陸軍中将
大正2年1月15日:第13師団長に異動
大正4年(1915年)2月15日:近衛師団長
大正5年(1916年) 8月18日:朝鮮駐剳軍司令官に異動 11月16日:任陸軍大将
  青木 宣純
  
あおき のぶずみ
 
   
安政6年5月宮崎 佐土原藩士・青木新蔵の長男として生れる。
陸軍幼年学校を経て、明治10年5月、陸軍士官学校に入学。明治12年12月、砲兵少尉に任官し、
翌年12月、陸士(旧3期)を卒業。
明治17年(1894年)10月から同20年(1887年)12月、清国差遣となり、広東、北京に駐在。
明治27年8月、第1軍参謀に発令され、翌月から明治28年5月まで日清戦争に出征した。
明治35年(1902年)12月、砲兵大佐に昇進し野戦砲兵第14連隊長に就任
日露戦争では、明治37年7月に満州軍総司令部付として北京に駐在し、配下に特別任務班
と呼ばれる組織を従え、馬賊使用や鉄道・電線破壊工作に従事した。
明治40年11月、陸軍少将、さらに大正2年8月、陸軍中将に進み旅順要塞司令官に就任した。
  明石 元二郎
  あかし もとじろう

 
元治元年8月 福岡藩士・明石助九郎の次男として福岡藩の大名町に生まれる
明治16年に陸軍士官学校(旧陸士6期)を卒業し、更に同22年に陸軍大学校(5期)を卒業する。
明治34年にフランス公使館付陸軍武官となる。明治35年にロシア帝国公使館付陸軍武官に転任
日英同盟に基づいた情報協力により、イギリス秘密情報部のスパイであるシドニー・ライリー
と知り合い、友人となった、明石の依頼により、ライリーは明治36年(1903年)から建築用木材の
貿易商に偽装して戦略的要衝である旅順に移住し材木会社を開業、ロシア軍司令部の信頼を得て、
ロシア軍の動向に関する情報や、旅順要塞の図面などをイギリスおよび日本にもたらしている。
明治43年(1910年)7月、寺内正毅韓国統監の下で憲兵司令官と警務総長を兼務
大正4年10月に第6師団長を経て、同7年7月に第7代台湾総督に就任、陸軍大将に進級する。
大正8年)1919年10月26日(満55歳没)
  浅田 信興
  
あさだ のぶおき

  
嘉永4年10月 武蔵国川越藩士・坂口朗忠の三男として生まれ、同藩士・浅田順信の養子となる。
明治3年12月、陸軍兵学寮生徒となる。明治5年3月、陸軍少尉に任官し歩兵5番大隊付となる。
明治10年)、第4旅団に編入し西南戦争に出征。
明治17年)3月、陸軍少佐に進級し歩兵第2連隊大隊長に就任。
明治22年)5月、歩兵第21連隊第1大隊長となり、1891年(明治24年)6月、陸軍中佐に昇進し
第3師団参謀となる。歩兵第2連隊長、屯田兵参謀長を歴任し、明治27年)11月、陸軍大佐に進級
日清戦争には臨時第7師団参謀長として動員されたが、戦争終結のため現地に赴くことはなく復員
明治30年)9月、陸軍少将に昇進。1898年(明治31年)10月、歩兵第20旅団長に就任し、
歩兵第5旅団長を経て、日露戦争に近衛歩兵第1旅団長として出征。
明治37年)9月、陸軍中将に進級し近衛師団長に親補され、沙河会戦以降の緒戦に従軍した。
明治43年)8月26日に大阪第4師団長となり、1911年(明治44年)9月に教育総監に就任(~1914年)
大正元年)8月、陸軍大将に親任される。最終官職は軍事参議官兼東京衛戍総督
大正10年)4月に退役し、1927年(昭和2年)に77歳で死去。
  阿部 貞次郎
  あべ さだじろう

  
文久2年8月 新潟県出身。1880年(明治13年)1月、陸軍士官学校に入学。
明治15年)12月、工兵少尉任官。1884年(明治17年)7月、士官学校(旧5期)を卒業。
明治22年)12月、陸軍大学校(5期)を卒業した。
明治35年)5月、陸大幹事に就任し、同年12月、工兵大佐に昇進。
明治37年)3月、第2軍工兵部長に発令され日露戦争に出征
明治38年)2月、第2師団参謀長となる。明治41年12月21日、陸軍少将に進級し清国駐屯軍司令官
明治45年)4月、対馬警備隊司令官に就任。1913年(大正2年)8月、由良要塞司令官に転じ、
大正3年)5月、陸軍築城部本部長となり、同月、陸軍中将に進んだ。
大正5年)8月、待命となり、1917年(大正6年)1月、予備役に編入された。
  新井 亀太郎
  
あらい かめたろう

  
1875年12月8日 - 1932年11月7日   群馬県   陸軍士官学校(8期)
日露戦争の勃発に伴い修学を中絶し、原隊復帰、第一回旅順攻撃(歩兵第35連隊第12中隊長)、
第二回攻撃(歩兵第6旅団副官代理)、第三回攻撃及び奉天の会戦(同副官)に参加。
1907年陸軍大学校(第19期)を卒業
第二師団、第九師団、第十一師団の参謀、留守第十二師団、第六師団の参謀長
大正11年)陸軍少将に進級し歩兵第十七旅団長、陸軍戸山学校長などを経て、
1927年7月陸軍中将に進級。支那駐屯軍司令官の後、第七師団長
昭和6年)予備役編入
  安東 貞美
  
あんどう さだよし

  
嘉永6年8月 信濃飯田藩槍術師範・安東辰武の三男として生まれる。
明治3年)12月大阪陸軍兵学寮に入った
明治7年)11月、陸軍中尉
明治10年)3月、征討別働第2旅団に編入され西南戦争に出征する。
この戦役で負傷し、同年5月大尉に進む、明治16年2月歩兵少佐に進級し歩兵第2連隊第3大隊長
明治24年)4月歩兵中佐に進み1893年(明治26年)8月7日陸軍戸山学校長に就任する。
明治30年9月歩兵第6連隊長に移り、明治31年10月陸軍少将に任じられ、台湾守備混成第2旅団長
明治32年8月歩兵第19旅団長に移り、明治37年3月の動員下令を以って日露戦争に出征する。
明治38年)1月15日陸軍中将に進級し第10師団長に親補される。
明治43年8月第12師団長に移り、明治45年2月14日朝鮮駐剳軍司令官に親補される
大正4年)1月25日陸軍大将進級と共に待命、台湾総督に就任
大正12年)4月退役となった。 勲一等旭日桐花大綬章を受章  昭和7年)8月29日薨 満78歳
  石井 隼太
  
いしい はやた

  
安政3年8月:宮崎県出身
明治8年)12月、陸軍士官学校(旧2期)に入学。(明治10年)4月から翌月まで西南戦争に出征。
明治12年)2月、砲兵少尉に任官し、同年12月、陸士を卒業
日清戦争に野砲兵第6連隊第3大隊長として出征。旅順口の戦いなどに参戦。
明治29年12月から明治31年4月まで陸軍大臣秘書官を務め高島鞆之助・桂太郎両大臣に仕えた。
明治33年)4月、野砲兵第10連隊長に就任。1901年(明治34年)11月、砲兵大佐に昇進
日露戦争に出征し、奉天会戦などに参戦。明治39年7月、陸軍少将に進級し由良要塞司令官となる。
明治40年)11月、重砲兵第2旅団長に転じ、1909年(明治42年)8月、韓国統監付武官に異動。
明治43年)11月、野戦砲兵第2旅団長に着任
大正元年)12月、陸軍中将に進み下関要塞司令官に就任
  井上 仁郎
  
いのうえ にろう
  
元治元年5月 愛媛県出身。陸軍士官学校(旧7期)に入り、明治18年)6月、陸軍工兵少尉任官。
明治20年)に陸士を卒業。ドイツ駐在を経験した。
明治37年)3月、鉄道大隊長に就任し、日露戦争では大本営臨時軍用鉄道監督部長となった。
明治38年)3月、工兵大佐に昇進。明治43年)11月、陸軍少将に進み交通兵旅団長となる。
大正4年2月、陸軍中将に進級。1916年(大正5年)4月、臨時軍用気球研究会長を兼務した。
1916年8月、下関要塞司令官に就任。大正6年)8月、待命となり、同年12月、予備役に編入された。
  井上 幾太郎
  いのうえ いくたろう

  
明治5年1月山口県出身。農業、井上清蔵の二男として生れる。山口町開導学校を経て
1893年7月、陸軍士官学校(4期)を卒業。日清戦争では工兵第5大隊小隊長として出征。
陸軍大学校に入学。在学中の1900年7月、義和団の乱に工兵第5大隊中隊長として出征、
同年12月、陸大(14期)を卒業した。
日露戦争に第3軍参謀として出征した。旅順攻囲戦において、坑道掘りによる攻撃を献策した。
戦後、ドイツ駐在、参謀本部員(要塞課)、工兵第10大隊長、陸軍省軍務局工兵課長、
1916年8月、陸軍少将に進級。陸軍運輸部本部長、交通兵団司令部付(臨時軍用気球研究会幹事)、
初代航空部本部長を歴任。1920年8月、陸軍中将に進級し、第3師団長、軍事参議官、
航空本部長を経て、1927年2月、陸軍大将となり、1933年3月、予備役に編入された。
 井上 一次
  
いのうえ かずつぐ

  
1873年7月石川県出身。井上盛重の二男として生れる。
明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業。同年9月、陸軍少尉に任官され、日清戦争では
歩兵第20連隊付として出征。1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業。
日露戦争に鴨緑江軍参謀として出征し奉天会戦に参加。
大正3年8月、陸軍大佐に進級し歩兵第26連隊長に就任。近衛歩兵第1連隊長、
第4師団参謀長を経て
大正7年)7月、陸軍少将に進級し、青島守備歩兵隊司令官として第一次世界大戦に出征した。
大正12年)8月、陸軍中将に進級。参謀本部付を経て、大正15年3月、第2師団長に親補された。
1927年(昭和2年)7月、待命となり、同年9月、予備役編入。
  石井 常造
  
いしい つねぞう
1875年(明治8年)1月2日 - 没年不詳)   福島県   陸軍士官学校7期
陸軍大学校在校中に日露戦争開戦を迎え、第2師団砲兵隊に属し出征。
遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦と歴戦した。戦後陸大18期を卒業。
陸軍砲工学校教官、対馬警備隊参謀、参謀本部部員、第17師団参謀長を経て
大正10年)7月、陸軍少将へ昇進。同日野戦砲兵第3旅団長に補される。
基隆要塞司令官に就任。1923年(大正13年)予備役編入
  石光 真臣
  
いしみつ まおみ

  
明治3年5月9日(1870年6月7日) - 1937年(昭和12年)12月8日   熊本県
陸軍士官学校卒業(1期)
明治33年 陸軍大学校卒業(14期)
明治37年 第十連隊大隊長
明治38年 旅順要塞参謀
大正5年 陸軍少将 支那駐屯軍司令官として天津に在勤
大正7年 憲兵司令官
大正8年 陸軍中将
大正11年第1師団長  
大正12年関東大震災の際、帝都警備の為、東京南部警備司令官として活躍
大正14年 予備役
  一戸 兵衛郎
  
いちのへ ひょうえ

  
安政2年6月 弘前藩士一戸範貞の長男として生まれる
東奥義塾を経て1874年(明治7年)10月陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入り、
明治9年)3月陸軍少尉試補・歩兵第2連隊付を命ぜられる。1877年(明治10年)の西南戦争に出征
負傷する。同年5月少尉に進級する。1878年(明治11年)2月歩兵第1連隊付に移り
明治13年)5月には中尉に進級し陸軍教導団小隊長を命ぜられる。
明治16年)6月大尉に進み歩兵第8連隊中隊長、1885年(明治18年)5月歩兵第10旅団参謀
明治20年)11月の歩兵第12連隊付を経て1888年(明治21年)2月少佐に進級する。
明治22年)3月広島鎮台歩兵第11連隊大隊長に移り、明治27年)6月から日清戦争に出征する。
同年中に中佐に進級し第5師団副官を命ぜられる。明治28年)3月歩兵第21連隊長に就任し
同年7月戦役から帰還する。同8月再び第5師団副官に就き、11月には留守第4師団参謀長に移る。
明治30年)10月、陸軍大佐に任ぜられ近衛歩兵第4連隊長を拝命する。
明治34年)5月陸軍少将に進級し歩兵第6旅団長を命ぜられる。
明治37年)6月から日露戦争に出征し、この時の戦功から個人感状を受ける
明治38年)3月から第3軍参謀長に移り、1906年(明治39年)1月帰還する。
戦後第1師団司令部付・歩兵第1旅団長を経て1907年(明治40年)11月陸軍中将に任官され
第17師団長を親補される。1911年(明治44年)9月第4師団長、大正元年)12月第1師団長
大正4年)2月軍事参議官に就任し枢機を預かり、同年8月陸軍大将進級
同12月陸軍三長官の一角教育総監に就任する。1919年(大正8年)8月再び軍事参議官に就き
翌年6月後備役編入となる。
  稲垣 三郎
  
いながき さぶろう

  
明治3年5月島根県平民出身。稲垣了斎の長男として生まれる
陸士卒業後、秋山好古率いる騎兵第1大隊の配属となり、日清戦争に従軍。
明治32年)12月- 陸軍大学校卒業(13期、恩賜)・騎兵第1大隊中隊長
明治35年)3月- イギリス駐在 ,12月19日- 騎兵少佐
明治38年)4月19日 - 騎兵中佐 ,明治42年)4月 - 騎兵第1連隊長
大正5年)4月1日 - 陸軍少将
大正6年8月6日 - 騎兵第1旅団長
大正7年)8月 - 浦塩派遣軍参謀(第1課長)
大正8年7月25日 - 陸軍中将
大正12年9月1日 - 予備役
大正13年)4月 - 日本体操学校長(- 1939年10月)
 
  井戸川 辰三
  
いとがわ たつぞ

  
明治2年12月宮崎県出身。薩摩藩士・井戸川唯一の長男として生まれる。
明治23年)7月、陸軍士官学校(1期)を卒業。翌年3月、歩兵少尉に任官し歩兵第24連隊付となる。
近衛歩兵第3連隊付などを経て、1895年(明治28年)4月から11月まで台湾(乙未戦争)に出征。
明治31年)1月、参謀本部出仕となり、清国差遣、参謀本部付などを歴任。
日露戦争では兼大本営付、特別任務従軍、満州軍総司令部付、兼新民府軍務官などを務めた。
この間、1904年(明治37年)12月、歩兵少佐に昇進した
明治38年)11月、関東総督府付となり、参謀本部付、歩兵第3連隊付、歩兵第11連隊大隊長、
東京衛戍総督副官などを経て、(明治42年)6月、歩兵中佐に進級。
明治44年)まで私費でイギリスに留学。1911年6月、歩兵第59連隊付となり、清国出張、
明治45年)7月、陸軍省副官兼陸相秘書官に就任し上原勇作陸軍大臣に仕えた。
大正2年)8月、歩兵大佐に昇進し本郷連隊区司令官に着任。
大正4年)4月、歩兵第62連隊長に就任し、参謀本部付、近衛歩兵第3連隊長を歴任。
大正7年)7月、陸軍少将に昇進し歩兵第39旅団長に着任。
大正9年)5月、近衛歩兵第2旅団長となり、第1師団司令部付を経て
大正11年)8月、陸軍中将に進み由良要塞司令官に就任
大正12年)8月、第13師団長に親補された。1925年(大正14年)5月、予備役編入となった。
  井口 省吾
  
いぐち しょうご

  
安政2年8月駿河国出身
陸軍士官学校(旧2期)、陸軍大学校(1期)を経てドイツ留学。
日露戦争時には満州軍総司令部参謀となり、奉天会戦などの作戦指揮にあたった。
児玉源太郎は口癖のように、「俺には普賢菩薩と文殊菩薩がついている。」と井口と松川敏胤の
両名を頼りにしていたという。またドイツ留学の経験を生かし、いろいろな訳書を行った。
明治39年陸軍大学校長、明治42年(1909年)8月 陸軍中将
大正元年(1912年)11月27日 第15師団長
大正5年11月 
陸軍大将
  市川 堅太郎
 
ちかわ けんたろう

  
明治3年8月 石川県出身
明治23年)7月、陸軍士官学校(1期)を卒業。翌年3月、歩兵少尉任官
明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を卒業。参謀本部勤務となる
日露戦争に第4軍参謀として出征した。1908年(明治41年)12月、第2師団参謀長に就任し
明治42年)1月、歩兵大佐に昇進した。1912年(大正元年)11月、歩兵第9連隊長となる。
大正3年)11月、陸軍少将に昇進し歩兵第7旅団長に着任
大正5年)4月、歩兵第39旅団長となり、1917年(大正6年)8月、朝鮮駐剳軍参謀長に異動。
大正7年)5月、朝鮮駐剳軍が朝鮮軍と改称し引き続き参謀長を務めた。
大正7年)11月、陸軍中将に進み由良要塞司令官に就任。大正8年11月、第15師団長に親補された。
大正12年)3月、予備役に編入された。
  内野 辰次郎
  
うちの たつじろう

  
慶応4年8月 福岡県出身。医師・内野東庵の二男として生まれる。
陸軍幼年学校を経て、明治23年)7月、陸軍士官学校(1期)を卒業。
翌年3月、歩兵少尉に任官し歩兵第2連隊付となる。日清戦争に出征。
明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業した。
明治36年)12月、歩兵少佐に昇進し歩兵第22連隊付となり、第11師団参謀、陸大教官を歴任し、
明治40年)11月、歩兵中佐に進級。1909年(明治42年)12月、戸山学校教官に転じ、
明治43年)11月、歩兵大佐に昇進した。1912年(明治45年)4月、近衛師団参謀長に就任し、
大正4年)8月、陸軍少将に昇進し歩兵第20旅団長に着任
大正7年)7月、歩兵第40旅団長となり、大正8年7月、陸軍中将に進み第14師団留守司令官に就任
同年11月、第7師団長に親補され、大正12年9月、予備役に編入された。衆議院議員
1933年12月5日(満65歳没)
  内山 小二郎
  うちやま こじろう

  
安政6年10月鳥取藩士内山覚治の次男として生まれる。
明治8年6月 陸軍幼年学校入学
明治10年5月 陸軍士官学校入学。
明治12年12月22日 陸軍砲兵少尉
明治16年2月28日 陸軍砲兵中尉
明治19年1月19日 陸軍大学校入校
  同年6月1日 陸軍砲兵大尉
明治21年11月28日 陸軍大学校第4期を首席の成績で卒業
明治22年12月4日 第6師団参謀
明治24年9月16日 陸軍砲兵少佐・野砲兵第4連隊大隊長
明治27年10月 日清戦争出征
同年12月5日 陸軍砲兵中佐
明治30年10月11日 陸軍砲兵大佐
明治34年6月26日 陸軍少将、野砲兵第1旅団長
明治40年11月13日 陸軍中将・由良要塞司令官、明治42年1月14日 第15師団長
大正4年8月10日 陸軍大将
昭和4年4月1日 退役
  宇都宮 太郎  
 
 うつのみや たろう

  
文久元年3月佐賀鍋島藩士、亀川貞一の四男として生まれる。その後、宇都宮十兵衛泰源の養子
明治12年)4月に陸軍幼年学校生徒となり、1882年(明治15年)に陸軍士官学校に進学
明治18年)6月、士官学校を卒業し陸軍歩兵少尉、歩兵第5連隊附
明治21年)11月に中尉に進級し、陸軍大学校に入校する。
明治23年)12月に陸軍大学校(6期)を卒業。1892年(明治25年)4月、参謀本部附を命ぜられる。
明治26年)11月大尉に進み、同12月からインドに出張。翌年11月に帰国して参謀本部第二局員
明治27年)7月からの日清戦争では大本営陸軍参謀として、情報収集・分析業務に当たる。
明治34年)1月に駐イギリス大使館附武官に就任。ロンドンに在って1903年(明治36年)1月に中佐、
明治38年)3月には大佐に進級する。この間、日露戦争中には明石元二郎・駐スウェーデン大使館
附武官によるロシア弱体化のための工作活動(いわゆる明石工作)を支援。
明治40年)5月から歩兵第1連隊長となり、明治41年12月には参謀本部第2部長に就任する。
翌年1月には少将に進級。1911年(明治44年)に中国で起きた辛亥革命では清朝保護の立場を
取った政府方針に反し、密かに三菱合資会社社長・岩崎久弥から資金援助を受けて
革命派の支援を行う。大正3年)5月の中将進級を以って、第7師団長に親補される。
大正5年)8月には第4師団長に移り、1918年(大正7年)7月に朝鮮軍司令官となる。
大正8年11月に陸軍大将へ進み、翌1920年(大正9年)8月から軍事参議官となり在職中に死去。
  小原 伝
  
おはら つとう

  
文久元年12月愛媛県出身。小原吉継の五男として生れる。
陸軍幼年学校を経て、1880年1月、陸軍士官学校に入学。1882年12月、砲兵少尉任官。
1884年7月、陸軍士官学校(旧5期)を卒業。1889年12月、陸軍大学校(5期)を優等で卒業した。
近衛野砲兵連隊中隊長、陸軍砲工学校教官、参謀本部第1局員、ドイツ留学、
第2軍参謀、参謀本部第1局員、オーストリア公使館付、ドイツ公使館付、陸大教官などを歴任した。
日露戦争では第12師団参謀長として出征した。野砲兵第3連隊長を経て、
1908年12月、陸軍少将に進級した。
対馬警備隊司令官、砲工学校長などを歴任し、1914年5月、陸軍中将となり、
由良要塞司令官、第5師団長を勤めた。
1918年4月、予備役に編入された。
  大迫 尚道
 
おおさこ なおみち

  
嘉永7年7月薩摩藩士大迫新蔵のもとに生まれる。大迫 尚敏の弟
明治4年)4月徴兵により軍に入り、同年7月から御親兵に配属される。翌年陸軍幼年学校に入校
明治8年)12月から陸軍士官学校(旧2期)に入る。在校中に起った西南戦争では征討軍団付となり
従軍する。明治12年)2月1日陸軍砲兵少尉に初任。同年12月士官学校を卒業する。
明治21年)5月から参謀本部第1局員となる。翌年5月からドイツへ留学し、明治24年9月の砲兵少佐
明治24年12月、ドイツ公使館付を命ぜられる。これは後に駐在武官となる職で、明治26年7月まで
明治27年)2月から野砲兵第1連隊大隊長、8月には日清戦争に第1軍参謀として出征する。
同年12月砲兵中佐に進み、翌年の1895年(明治28年)7月野砲兵第3連隊長に就任する。
明治29年)10月第5師団参謀長に移り、1897年(明治30年)10月砲兵大佐に進級する。
明治31年12月から第4師団参謀長に移り、明治34年6月陸軍少将に任官され、野砲兵第2旅団長
明治37年9月から日露戦争に野砲兵第二旅団長として出征して旅順攻囲戦に参加、攻囲戦途上より
第2軍参謀長に異動する。1906年(明治39年)2月、教育総監隷下の野戦砲兵監に就き
明治40年)10月呼称変更の為、野砲兵監となる。同年11月、陸軍中将に進み、
大正4年8月歴戦の功により陸軍大将に親任される。大正7年11月29日、勲一等旭日大綬章受章。
昭和9年)9月12日薨去  勲一等旭日大綬章
 大谷 喜久蔵
 
おおたに きくぞう

  
安政2年12月小浜藩士で藩校「順造館」教授の漢学者、大谷正徳の七男として生まれる。
明治4年(1871年)10月から召集を受け大阪鎮台彦根分営所に入営する。
明治8年12月から陸軍士官学校に入校し、11年12月卒業する。翌年2月に陸軍歩兵少尉に任官
明治16年)2月、歩兵中尉に進級し、1886年(明治19年)3月、仙台鎮台参謀を命ぜられる。
明治21年11月、歩兵少佐に進級し、翌月、歩兵第8連隊大隊長に就任する。
明治27年)10月、大本営付を命ぜられ日清戦争に出征、1895年(明治28年)4月、中佐に進級する。
明治29年)9月25日、第4師団参謀長に進み、明治30年10月11日から大佐進級を以って
近衛師団参謀長に就任する。
明治33年)4月25日、教育総監部参謀、同年10月2日から陸軍戸山学校長を命ぜられる。
明治35年)6月21日、陸軍少将に進級し、歩兵第24旅団長に就任
明治38年)4月8日の韓国駐剳軍参謀長と、部隊幹部を歴任
明治42年)8月1日の陸軍中将進級の後、同年9月3日、第5師団長に親補される。
大正4年)5月4日、青島守備軍司令官に就任し、同年11月7日、勲一等旭日大綬章を受章
大正5年)11月16日には陸軍大将に進級する
大正7年)8月9日、浦塩派遣軍司令官に就任する
大正8年)8月26日にはかつて本部長として務めた教育総監部の長たる教育総監に就任
1923年11月26日(満67歳没)  勲一等旭日桐花大綬章
  尾野 実信
  おの みのぶ

  
慶応元年10月福岡県(朝倉郡甘木)出身。黒田藩士尾野実治の長男として生れる。
明治21年7月、陸軍士官学校(旧10期)を卒業し、歩兵少尉に任官、歩兵第14連隊小隊長に就任
明治29年3月、陸軍大学校(10期)を首席で卒業した。日清戦争出征のため、陸大を一時中退し
戦後に復校している。参謀本部員、ドイツ駐在、中部都督部参謀、大本営参謀などを歴任
日露戦争では、満州軍参謀兼大山巌元帥副官として出征し、さらに満州軍総兵站監部参謀となった。
参謀本部員兼大山元帥副官、陸軍省軍務局歩兵課長、ドイツ大使館付武官、歩兵第37連隊長、
中清派遣隊司令官を経て、1912年(明治45年)3月、陸軍少将に進級し、歩兵第8旅団長、
大正5年)8月、陸軍中将となり、第10師団長、第15師団長、教育総監部本部長、陸軍次官、
大正11年)5月、陸軍大将となり、関東軍司令官、軍事参議官を勤め、
昭和14年)5月に予備役に編入。
  大島 健一
 おおしま けんいち

  
安政5年5月 美濃国岩村藩(現岐阜県恵那市、旧恵那郡岩村町)の藩士の子として生まれる
明治14年)- 陸軍士官学校(旧4期)卒業
明治27年)- 日清戦争。山縣有朋の信任を受け、第1軍の副官を務める。
明治37年)- 日露戦争。大本営勤務。この後は参謀本部勤務となる。
大正5年)3月30日~10月9日 - 第2次大隈内閣陸軍大臣 陸軍中将
(大正5年)10月9日~1918年(大正7年)9月29日 - 寺内内閣陸軍大臣
(大正8年)- 予備役に編入。大正9年)- 貴族院勅任議員
大正15年)- 大東文化学院総長(第3代)に就任
1947年3月24日(満88歳没)
  大庭 二郎
   おおば じろう

  
元治元年6月 長州藩士(現在の山口県青海島)、大庭此面の長男として生れる。
明治19年6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、陸軍少尉任官。
明治25年12月、陸軍大学校(8期)を優等で卒業した。
明治28年から同33年までドイツに留学し、その後、陸大教官、大本営参謀などを歴任
日露戦争では、第3軍参謀副長として出征し、旅順攻囲戦に参戦した。
明治43年11月、陸軍少将に進級し、陸軍歩兵学校長、歩兵第11旅団長を歴任。
第一次世界大戦では観戦武官としてロシア軍に従軍した。
大正4年(1915年)2月、陸軍中将となり、第3師団長を拝命しシベリア出兵に従事。
さらに、軍事参議官、朝鮮軍司令官を歴任。
1920年12月、陸軍大将となり、軍事参議官、教育総監を勤め、
大正15年(1926年)3月に予備役に編入された。1935年2月11日(満70歳没)
  落合 豊三郎
 
おちあい とよさぶろう

  
文久元年2月 松江藩士・落合鍬蔵の三男として江戸で生まれる。
陸軍幼年学校を経て、明治13年(1880年)12月、陸軍士官学校(旧3期)工兵科を卒業。
明治19年(1886年)12月、陸軍大学校(2期)を優等で卒業した。
参謀本部第3局第1課員、参謀本部第1局員、陸大教官、ドイツ公使館付、第2軍参謀、陸大教官
イタリア公使館付、参謀本部第5部長、兼中部都督部参謀長、兼参謀本部第4部長などを経て、
明治36年(1903年)5月、陸軍少将に進級した。
日露戦争では、第2軍参謀長として出征した。その際、部下の由比光衛参謀副長と対立し、
由比は奉天会戦直前に第8師団参謀長に転出した。以後、韓国駐剳軍参謀長、満州軍参謀、
同軍総兵站監部参謀長、関東総督府陸軍参謀長、第1師団司令部付、交通兵旅団長、などを歴任し、
1910年3月陸軍中将に昇進。大正3年(1914年)5月、東京湾要塞司令官となり
翌月に待命。同年8月、予備役に編入された。
1934年3月31日(満72歳没)
 小野寺 重太郎
 
おのでら じゅうたろう
明治3年11月 福井県出身。小野寺長の長男として生まれる。
明治24年)7月、陸軍士官学校(2期)を卒業。翌年3月、砲兵少尉に任官し野砲兵第3連隊付となる。
明治29年)11月、陸軍砲工学校高等科(4期)を優等で卒業。さらに、
明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を卒業した。
明治36年)6月、砲兵少佐に昇進。1904年(明治37年)3月、第2軍参謀に発令され日露戦争に出征。
さらに大本営参謀、第13師団参謀を歴任。1906年(明治39年)2月、陸大教官に就任し、
明治40年)11月、砲兵中佐に進級。1909年(明治42年)7月、参謀本部課長に転じ、
明治44年)11月、砲兵大佐に昇進。1913年(大正2年)8月、野砲兵第13連隊長に着任。
大正4年)8月、第14師団参謀長に異動し、1917年(大正6年)8月、陸軍少将に進級し
陸軍野戦砲兵射撃学校長に就任。1919年(大正8年)4月、砲兵監部付となり、
第16師団留守司令官、第16師団司令部付を経て、
大正10年)7月、陸軍中将に進み第8師団長に親補され、シベリア出兵に派遣された。
大正13年)2月、予備役に編入された。 昭和14年2月5日 没
  大久保 徳明
 
おおくぼ のりあき
1860年9月29日(万延元年8月15日) - 1917年(大正6年)4月20日)
土佐国土佐郡小高坂村後町の土佐藩士・大久保幸策の三男として生まれた。
陸軍士官学校(旧3期)に進み1879年(明治12年)12月、工兵少尉に任官。
明治35年)5月、台湾補給廠長となり、翌月、工兵大佐に昇進。
1904年(明治37年)4月、陸軍運輸部本部長兼宇品碇泊場司令官に就任
日露戦争の後方支援を担った。明治39年)7月、陸軍少将に進級し陸地測量部長に着任。
大正元年)12月、陸軍中将に進み旅順要塞司令官に就任。
大正3年)5月、予備役に編入された。1917年(大正6年)4月、58歳で死去
笹野高史:『劒岳 点の記』
  岡田 重久
 
おかだ しげひさ
1871年1月5日(明治3年11月15日) - 1936年(昭和11年)8月8日)
土佐国香美郡立田村(現・高知県南国市)に生まれた。 陸軍士官学校(4期)
明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業。日露戦争に満州軍情報参謀として出征した。
大正元年)12月、静岡連隊区司令官となり、1913年(大正2年)2月、歩兵大佐に昇進
大正3年)5月、歩兵第40連隊長となる。第12師団参謀長を経て、
大正6年)8月、陸軍少将に進級し台湾第1守備隊司令官に着任
大正9年)8月、歩兵第1旅団長に就任し、1922年(大正11年)8月、陸軍中将に進むと同時に待命。
大正12年)3月、予備役に編入
  緒方 勝一
  おがた しょういち

  
1875年1月25日 - 1960年12月28日 佐賀県 陸軍士官学校(7期)
1900年12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。フランス駐在(軍事研究)、陸士教官を歴任。
日露戦争では第4軍副官として出征した。
第一次世界大戦における青島の戦いでは、独立攻城重砲兵第2大隊長として出征した。
陸軍歩兵学校研究部員、技術本部第1部長などを歴任し、1920年8月、陸軍少将に進級
1925年5月、陸軍中将となり、1928年3月、陸軍造兵廠長官に就任。
1931年8月、陸軍大将に進み技術本部長に着任。1934年8月、予備役に編入された。
  奥田 重栄
 
おくだ しげよし
1872年8月13日(明治5年7月10日) - 1956年(昭和31年)1月10日)
旧会津藩士・奥田鉱一郎の養子
陸軍士官学校(5期)
日清戦争の開戦を迎え出征。明治28年)1月、龍睡島へ上陸したのを皮切りに虎山、寧海州、
威衛海と転戦。全州の守備についたのち、台湾・基隆に上陸。急水渓河口、王爺頭などで歴戦した。
日露戦争では歩兵第37連隊第12中隊長として沙河会戦に参戦し、林盛堡のロシア軍を駆逐した。
奥田はこの戦いで負傷している。
歩兵第16連隊附中佐、福知山連隊区司令官を経て、大正6年)11月15日、歩兵第40連隊長に
補され同職を3年半務めた後、大正10年)4月、陸軍少将へ昇進し台湾第2守備隊司令官となる。
大正13年)2月26日予備役編入
  小山 満雄
 
おやま みつお
1877年3月9日 - 1936年12月25日   栃木県    陸軍士官学校(9期)
旧会津藩藩士小山満峻の長男として宇都宮に生まれる。満峻は戊辰戦争後に栃木県に勤務した
中尉時代に日露戦争に出征し、旅順で二〇三高地の攻略戦に加わった。
明治)37年8月大尉に進級し、奉天会戦では田義屯の戦いに功績があった
大正10年に大佐へ進級し、新発田連隊区司令官を経て翌年8月に歩兵第十六連隊(新発田)の連隊長
大正14年)5月1日、陸軍少将へ昇進。同月中に予備役編入となった。
  川岸 文三郎
 
かわぎし
  ぶんざぶろう

  
1882年1月1日 - 1957年6月16日    群馬県    陸軍士官学校(15期)
日露戦争では、歩兵第3連隊付として出征した。1911年11月、陸軍大学校(23期)を卒業。
清国駐屯軍司令部付、参謀本部付(上海)、支那駐屯軍参謀、近衛歩兵第2連隊大隊長、
第1師団参謀などを歴任し、1924年2月、侍従武官となった。
近衛歩兵第4連隊長を経て、1931年8月、陸軍少将となり再び侍従武官に就任。
独立混成第11旅団長を経て、1935年8月、陸軍中将となった。
第12師団留守司令官などを歴任し、第20師団長在任時に日中戦争が勃発し動員され、
華北地方を転戦した。東部防衛司令官などを経て、1939年12月、予備役に編入された。
  河内 礼蔵大
 
かわち れいぞう
1862年(文久2年10月) - 1927年2月10日   鹿児島県   陸軍士官学校(旧7期)
日露戦争に遼陽会戦前の明治37年8月、前任の吉田貞中佐の戦死により歩兵第4連隊長に就任。
明治38年)3月、戦傷を受け解任。1906年(明治39年)2月、歩兵第4連隊長に復帰し、
明治40年)11月、歩兵大佐に昇進。明治44年)9月、陸軍少将に進級し歩兵第15旅団長に就任。
大正4年)2月、歩兵第35旅団長に転じた。大正5年)8月、陸軍中将に進み第2師団長に親補された。
大正8年)7月に待命となる。翌年2月2日、予備役に編入された
  河村 恭輔
 
かわむら きょうすけ
1883年7月26日 - 1950年2月26日  山口県   陸軍士官学校(15期)
砲兵少尉に任官し下関重砲兵連隊付となる。日露戦争に伴い1904年(明治37年)7月から
明治39年)2月まで出征した。重砲兵第5連隊付などを経て、大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を
重砲兵第5連隊中隊長、陸軍兵器本廠付、第12師団参謀、野砲兵第12連隊付
などを経て、1920年(大正9年)10月から翌年7月まで平和条約実施委員を務めた。
陸軍重砲兵学校教導連隊大隊長、参謀本部課長などを歴任し、大正15年)7月、砲兵大佐に昇進
昭和6年)8月、陸軍少将に進み津軽要塞司令官に就任
昭和10年)8月、陸軍中将に進んだ。第16師団留守司令官を経て、二・二六事件の
昭和11年)3月、第1師団長に親補され、同師団が満州駐留となり渡満した。
昭和13年)7月、参謀本部付となり、翌月、予備役に編入
  河村 正彦
 かわむら まさひこ
1868年6月25日(慶応4年5月6日) - 1924年3月18日  山口県   陸軍士官学校(旧11期)
歩兵少尉に任官し近衛歩兵第2連隊付となる。明治30年)12月、陸軍大学校(11期)を卒業した。
日清戦争出征のため、陸大を一時中退し戦後に復校している。
明治33年)5月、ドイツ駐在となり、陸軍戸山学校教官を経て、
日露戦争では、第2軍兵站部高級副官として出征した。
明治39年)1月、教育総監部参謀となり、戸山学校教導大隊長、近衛歩兵第2連隊長、
教育総監部第1課長、ドイツ大使館付武官、参謀本部付(オランダ駐在)などを歴任し、
大正3年)9月、陸軍少将に進級。陸軍歩兵学校長(未赴任)、参謀本部付(オランダ駐在)、
歩兵第2旅団長を経て、1918年(大正7年)7月、陸軍中将となり歩兵学校長に就任。
大正10年)1月、第13師団長に親補されシベリア出兵に出征した。
大正12年)8月、待命となり、翌月、予備役に編入
  神戸 次郎
  かんべ じろう

  
慶応4年(1868年)4月 - 1933年(昭和8年)9月30日
庄内藩近習頭取・神戸善十郎の次男として、田川郡日枝村(現・鶴岡市)に生れる
陸軍士官学校(第1期)
日露戦争中、第二師団歩兵第四連隊第二大隊長として歴戦し、連隊長代理も務める
大正3年)5月11日 - 陸軍大佐・福島連隊区司令官、大正4年)8月10日 - 歩兵第41連隊長
大正7年)7月24日 - 陸軍少将・歩兵第二十旅団長、大正8年)1月15日 - 歩兵第六旅団長
大正9年)8月10日 - 第九師団司令部付のシベリア出兵中留守隊司令官
大正12年)3月23日 - 予備役編入
  神尾 光臣
 かみお みつおみ
安政2年1月 信濃国諏訪郡岡谷村(現・岡谷市)に諏訪藩士・神尾平三郎の次男として生まれ、
明治7年)10月、陸軍教導団に入る。1876年(明治9年)2月、教導団を卒業し陸軍歩兵軍曹に任官。
明治10年)1月から西南戦争に従軍し、7月曹長、10月少尉試補に進級する。
明治12年)2月1日、西南戦争の戦功により陸軍少尉に進み、明治15年4月には陸軍中尉を命ぜら
明治27年10月から第2軍情報主任参謀として日清戦争に出征する。明治28年1月、陸軍中佐に進級
明治30年)10月11日、陸軍大佐進級と共に近衛歩兵第3連隊長を命ぜられる。
明治33年)4月、第1師団参謀長に就任し、同年7月の参謀本部付を経て  、第10師団参謀長
明治35年)5月、陸軍少将に進級し歩兵第22旅団長を命ぜられる。
明治37年)8月、遼東守備軍参謀長に就任し、清国駐屯軍司令官を拝命
明治39年)11月、関東都督府参謀長に移る。1907年(明治40年)11月、近衛歩兵第1旅団長を経て、
明治41年)12月、陸軍中将に進級、第9師団長に親補される。
大正元年)12月、第18師団長に移り、第一次世界大戦では1914年(大正3年)に青島攻略を指揮
大正4年)5月、東京衛戍総督を命ぜられ、1916年(大正5年)6月、陸軍大将に進む。
大正6年)8月6日依願により予備役編入   1927年2月6日(満71歳没)
 
  河合 操
 かわい みさお

  
元治元年9月 杵築藩士、河合盛益の二男として生れる。
1886年6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、陸軍少尉任官。
1892年12月、陸軍大学校(8期)を卒業した。台湾総督府参謀として1895年8月から1897年2月まで
台湾に出征した。その後、陸大教官、ドイツ駐在、大本営参謀などを歴任
日露戦争では、満州軍参謀として出征し、遼陽会戦後に第4軍参謀、さらに第3軍参謀副長となった
ドイツ駐在、陸大教官、陸大幹事、陸軍省軍務局歩兵課長を経て、
1910年11月、陸軍少将に進級し、歩兵第7旅団長、人事局長、陸大校長を歴任。
1915年8月、陸軍中将となり、第1師団長、関東軍司令官を歴任。1921年4月、陸軍大将となり、
軍事参議官、参謀総長を務め、1926年3月に予備役に編入。1941年10月11日(満76歳没)
  蠣崎 富三郎
 かきざき とみさぶろう

  
文久元年3月松前藩家老・名古屋裁判所判事、蠣崎多浪の三男として生れる
陸軍士官学校幼年生徒、士官生徒を経て、明治16年12月、陸士(旧6期)を卒業し歩兵少尉任官、
明治19年1月、陸軍大学校に入学したが退校し、後に再入校して明治24年12月、
同校(7期)を優等で卒業した。
日清戦争では第1軍参謀として出征した。1895年(明治28年)から明治31年)までフランスに留学し、
明治32年)1月に帰国。その後、陸大教官、陸軍戸山学校教官などを歴任した。
日露戦争では、第1軍兵站監部参謀長として出征した。1905年(明治38年)3月、奉天会戦直前に
陸軍大佐に進級し第10師団参謀長に発令され奉天会戦に参戦した。
歩兵第48連隊長を経て、1909年(明治42年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第28旅団長となり、
歩兵第2旅団長を経て、1912年(大正元年)12月、ロシア大使館付武官となった。
大正3年)8月、陸軍中将となり第11師団長に就任。1917年(大正6年)8月に待命となり、
翌年4月、予備役に編入された。
  金谷 範三
  かなや はんぞう

  
1873年4月24日 - 1933年6月6日  大分県    陸軍士官学校(5期)
日清戦争では歩兵第3連隊付として出征した。1901年11月、陸軍大学校(15期)を優等で卒業。
日露戦争では、第2軍参謀として出征した。
陸大教官、ドイツ大使館付武官補佐官、参謀本部員、陸大教官、オーストリア大使館付武官、
歩兵第57連隊長、参謀本部作戦課長などを歴任。1918年6月、陸軍少将に進級
支那駐屯軍司令官、参謀本部第1部長などを経て、1922年8月、陸軍中将に進級。
第18師団長、参謀本部次長、陸軍大学校長、朝鮮軍司令官などを歴任
1928年8月、陸軍大将に進み、軍事参議官、参謀総長を歴任
参謀総長在任中、満州事変が生起し南次郎陸相と共に関東軍に事後追認という形で
引きずられることとなった。1931年12月、再度、軍事参議官となり、在任中に死去。
  菊池 慎之助
  きくち しんのすけ
慶応2年2月 水戸藩士、戸田道守の子として生れ、菊池敬之進の養子となる。
1889年7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業し、陸軍少尉任官。
1897年12月、陸軍大学校(11期)を卒業した。日清戦争出征のため、陸大を一時中退し戦後に復校
参謀本部員、東部都督部参謀、教育総監部参謀、ドイツ・ロシア駐在、第4軍管理部長などを歴任
日露戦争では、第4軍副官として出征し、同軍参謀となった。
1913年6月、陸軍少将に進級し、歩兵第5旅団長、人事局長、参謀本部総務部長を歴任。
1917年8月、陸軍中将となり、教育総監部本部長、第3師団長、参謀本部次長、朝鮮軍司令官を歴任。
1923年8月、陸軍大将となり、軍事参議官、東京警備司令官を経て、教育総監在職中に死去
  菊池 武夫
  きくちたけお
1875年7月23日 - 1955年12月1日 熊本県    陸軍士官学校(7期)
男爵菊池武臣の嗣子として生まれる
明治37年(1904年)5月:歩兵第23連隊中隊長
日露戦争に出征、陸軍歩兵大尉に進級
1904年)9月:後備第6旅団副官
1905年)8月:韓国駐剳軍兵站参謀
1906年)11月:陸軍大学校卒業(18期)・参謀本部出仕
1912年)9月:歩兵第64連隊大隊長
917年)8月6日:陸軍歩兵大佐
大正11年(1922年)8月15日:陸軍少将・歩兵第11旅団長
  岸本 綾夫
  きしもと あやお
1879年6月27日 - 1946年11月28日  陸軍士官学校(11期)
岡山藩士・小学校長、岸本美時の二男として生まれる。陸軍砲工学校で学び、
日露戦争では野砲兵第2連隊副官として出征し、徒歩歩兵第2連隊中隊長となった。
旅順攻囲戦、奉天会戦に参加。
東京帝国大学工学部造兵学科で学び、1909年7月に卒業した。
陸軍省軍務局課員、砲兵課長、野戦重砲兵第4連隊長などを歴任し、
1924年12月、陸軍少将に進級した。陸軍科学研究所第2部長、同3部長、兵器局長、
1930年8月、陸軍中将となり、陸軍造兵廠長官、技術本部長を務め、
1936年8月、陸軍大将となり予備役に編入
  黒河内 信次
  くろこうち しんじ

  
1872年(明治5年3月) ? 1923年(大正12年)2月12日 旧会津藩藩士黒河内家の出身である
陸軍士官学校(5期)兵科は野戦砲兵で、少尉任官は1894年(明治27年)10月である。
野戦砲兵第八連隊大隊長、山砲兵第二大隊長、弘前陸軍兵器廠長を歴任した。
日清、日露両戦役に出征し、金鵄勲章を授与されている。
大正元年)9月中佐、1916年(大正5年)11月に大佐へ進級
野戦砲兵第七連隊長在任中のシベリア出兵では、満州里で居留民保護にあたっている
大正9年)8月に陸軍少将へ昇進。基隆要塞司令官として要塞整備などを行った。
大正11年)に待命となり、翌年死去。
  桑木 崇明
  くわき たかあきら

  
1885年10月22日 - 1945年12月6日 石川県 陸軍士官学校(16期)(恩賜)
砲兵少尉に任官し野砲兵第14連隊付となる。明治38年)3月から明治39年)2月まで日露戦争に出征。
明治43年)11月、陸軍砲工学校普通科(恩賜)高等科(16期)を卒業。
さらに、1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を優等
昭和3年)3月、砲兵大佐に進級し野戦重砲兵第2連隊長に着任
昭和7年)12月、陸軍少将に昇進し野戦重砲兵第3旅団長に就任。
昭和11年)8月、陸軍中将に進んだ。
昭和13年)6月、新設の第110師団長に就任し日中戦争に出征。昭和14年)12月、予備役に編入
太平洋戦争開戦後、1943年(昭和18年)11月に召集され参謀本部付となり終戦を迎えた。
  国司 伍七
  くにし ごしち

  
明治3年5月 山口県出身。松岡百合松の五男として生れ、国司順正陸軍少将の養子となる。
明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業(歩兵科首席)。
日清戦争に明治28年)4月から11月まで出征。  陸軍大学校(15期)を優等
明治36年)4月から翌年4月までドイツに駐在。明治37年)6月、満州軍参謀(兵站)に発令され
日露戦争に出征した。1905年(明治38年)4月、歩兵少佐に昇進し第10師団参謀に就任。
明治39年)2月から1908年(明治41年)12月までドイツに駐在。帰国後、近衛歩兵第3連隊付となり、
明治42年)11月、歩兵中佐に進級し歩兵第42連隊付となる。大正2年)8月、歩兵大佐に進級。
大正4年8月、歩兵第23連隊長に就任し、大正7年7月、陸軍少将に進級し参謀本部第4部長に着任
大正11年)8月、陸軍中将に進み東京湾要塞司令官となった
大正12年)8月、第7師団長に親補され、1926年(大正15年)3月、予備役編入となった
 栗田 直八郎
 くりた なおはちろう

  
万延元年12月 三重県出身。1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、
明治25年)12月、陸軍大学校(8期)を卒業。ドイツ駐在を経験した。
明治37年2月、第1軍参謀に就任し日露戦争に出征。奉天会戦後の明治38年8月、第6師団参謀長に
明治39年)7月、参謀本部高級副官となり、同年12月、歩兵大佐に昇進。
明治43年)3月、邦彦王付武官に発令された。同年5月14日、歩兵第42連隊長に転じ、
   同年11月、陸軍少将に進級し歩兵第35旅団長に就任。
大正元年)11月、近衛歩兵第2旅団長に就任。1914年(大正3年)11月、教育総監部本部長に転じ、
大正4年)2月、陸軍中将に進んだ。1916年(大正5年)1月、第14師団長に親補され、
大正8年)4月、シベリア出兵に出動した。同年11月、東京衛戍総督に着任。大正10年、予備役編入
  小池 安之
  こいけ やすゆき

  
元治元年3月 茨城県出身。小池安左衛門の二男として生れる。
明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、歩兵少尉に任官、歩兵第24連隊付となる。
明治26年)11月、陸軍大学校(9期)を卒業した。
明治33年)10月、歩兵少佐に進級し第9師団参謀に就任。
明治37年)6月、満州軍参謀(情報)に発令され日露戦争に出征。同年9月、歩兵中佐に進級。
明治38年)9月、歩兵第28連隊長となり、参謀本部員に転じ、明治40年)11月、歩兵大佐に昇進。
明治41年)4月、第7師団参謀長に発令され、1911年(明治44年)9月、陸軍少将に進級し
歩兵第12旅団長に就任。独立守備隊司令官、近衛歩兵第2旅団長、憲兵司令官を歴任。
大正5年)5月、陸軍中将に進み、1918年(大正7年)6月、第6師団長に親補された。
大正10年)6月、予備役に編入された  1931年10月11日没
  小泉 六一
  こいずみ ろくいち

  
1875年3月6日 - 1945年3月1日 広島県  陸軍士官学校(7期)  
広島藩下士・士族秋山恂一の次男として生れ、小泉弥一の養子となる。
歩兵少尉に任官し、歩兵第21連隊付となる。
明治36年)11月、陸軍大学校(17期)
日露戦争時には歩兵第11連隊中隊長、第4師団参謀、第2軍参謀を務めた。
第一次世界大戦において1915年(大正4年)8月から青島守備軍副官となった。
歩兵第1連隊長、軍務局歩兵課長などを歴任し、1920年(大正9年)8月、陸軍少将に進級。
憲兵司令官となるが、1923年(大正12年)9月の関東大震災直後に起こった甘粕事件により、
大正13年)2月には歩兵第13旅団長として復帰し、1925年(大正14年)5月、陸軍中将となった。
支那駐屯軍司令官、第11師団長、第3師団長などを歴任し、昭和5年)8月、予備役に編入
  厚東 篤太郎
  こうとう とくたろう

 
1878年7月22日 - 1958年9月18日 山口県 陸軍士官学校(10期)
日露戦争に遼東守備軍副官として出征した。関東都督府陸軍副官を経て
明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を卒業し歩兵第3連隊中隊長に就任
明治44年)9月、第10師団参謀となる。1912年(明治45年)3月、歩兵少佐に昇進
大正9年)8月、歩兵大佐に昇進。大正11年)8月、歩兵第37連隊長となり、第8師団参謀長を経て、
大正13年)4月、陸軍少将に進級し歩兵第32旅団長に就任。
昭和4年)8月、陸軍中将に進み旅順要塞司令官に就任。
昭和6年)10月、第11師団長に、第一次上海事変により動員されたが、停戦に伴い帰還した。
昭和8年)3月に待命となり予備役編入
 
  小嶋 時久
  こじま ときひさ
1881年2月1日 - 1962年4月13日 栃木県 陸軍士官学校(15期)
明治37年)3月 - 輜重兵少尉任官・陸軍運輸部配属, 日露戦争に出征
大正元年)11月 - 陸軍大学校(24期)
大正15年)3月 - 輜重兵大佐昇進、輜重兵第11大隊長に就任
昭和6年)8月 - 陸軍少将進級・輜重兵監部付
昭和8年)3月 - 陸軍自動車学校長に就任
昭和9年9月 - 予備役
  小松 八四郎
  こまつ はちしろう
1875年4月20日 - 1962年10月5日 旧会津藩藩士の小池家 陸軍士官学校(7期)
兵科は砲兵である。砲工学校に学び、弘前、旭川、台湾で野砲部隊に勤務した。
日露戦争時は大尉として兵器製造工場の監督などの任にあった
明治40年)少佐、1914年(大正3年)中佐へ進級し、野砲第二連隊大隊長
山砲兵大隊長(久留米)を経て、野砲第二十二連隊長(京都)として海城に駐屯した。
大正11年)8月に陸軍少将へ昇進し、翌年3月に予備役となる。
  兒玉 友雄
  こだま ともお
1881年10月23日 - 1961年5月9日  山口県   陸軍士官学校(14期)
児玉源太郎の三男として生れる
1904年2月、日露戦争に出征。1910年11月、陸軍大学校(22期)を卒業した。
参謀本部員兼軍務局課員、近衛師団参謀、参謀本部員などを経て、
1914年5月、イギリスに私費留学し、翌年、イギリス軍に従軍した。
1929年8月、陸軍少将に進級。歩兵第2旅団長、朝鮮軍参謀長などを経て、
1933年8月、陸軍中将となった。下関要塞司令官、第3独立守備隊司令官、第16師団長、
西部防衛司令官などを歴任し、1938年7月、予備役に編入された。
同年9月、召集を受け台湾軍司令官に就任し、翌年12月、召集解除となった。
  坂部 十寸穂
 さかべ としお
1877年12月1日 - 1930年11月4日  徳島 陸軍士官学校(9期)
明治34年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。  野戦砲兵第15連隊中隊長
日露戦争勃発により明治37年)2月、陸大を中退。明治38年)8月、第4軍副官となり出征。
明治41年)11月、陸軍大学校(20期)を優等
1908年12月、砲兵少佐に昇進し参謀本部員に就任。 
大正3年)9月から1916年(大正5年)5月までロシア軍に従軍した。
大正7年)8月、浦塩派遣軍参謀に発令されシベリア出兵に出征
大正12年)8月、陸軍少将に進級し陸大幹事となった。
昭和2年)7月、野戦重砲兵第4旅団長に就任し、昭和3年)3月、陸軍中将に進み砲兵監に就任。
昭和5年)8月、第3師団長に親補されたが、同年11月に現職で死去した。
  相良 広一
  さがら ひろいち
1873年10月1日 - 1931年3月6日    佐賀県    陸軍士官学校(9期)
教育総監部にて陸軍戦術の研究、開発に従事。高級指揮官の作戦指導の補佐を務めた。
1920年8月、歩兵大佐に進み八代連隊区司令官に就任。
大正10年)7月から歩兵第6連隊長。1924年2月、第7師団司令部付となる。
同年4月、陸軍少将に進み、1925年5月1日に待命、同月25日予備役に編入
  佐藤 小次郎
  さとう こじろう
1872年8月29日)- 1928年8月21日   三重県   陸軍士官学校(5期)
明治34年)11月、陸軍大学校(15期)
日露戦争に出征し、第2軍参謀などを務めた。
大正4年)8月、砲兵大佐に昇進し野砲兵第21連隊長に就任
大正5年)4月、第9師団参謀長に転じ、さらに陸軍省軍務局砲兵課長を務めた。
大正7年)9月、シベリア出兵に第12師団兵站監として出征。
大正8年)4月、陸軍少将に進級し浦塩派遣軍憲兵隊司令官となる。
大正9年)2月、鎮海湾要塞司令官に転じた。1921年(大正10年)2月、台湾軍参謀長に就任。
大正13年)2月、陸軍中将に進み東京湾要塞司令官となり、年12月に待命、そして予備役編入
  佐藤 房隆
  さとう ふさたか
明治2年1月父は会津藩藩士佐藤房郁である。佐藤家は斗南移住後に上京
房郁は警察官から憲兵となり、東京憲兵隊小隊長などを務め、憲兵大尉まで昇進した
幼年学校を経て士官学校へ進み、1期を卒業。佐藤の兵科は歩兵で、1889年に歩兵少尉へ任官した。
中尉で日清戦争を迎え旅順口の戦い、海城、田荘台と歴戦した
明治37年)3月に少佐に進級し、日露戦争当初は近衛歩兵第四連隊の補充大隊長として召集された
人員の訓練などに従っていた。近衛歩兵第三連隊(以下「第三連隊」)の第一大隊長であった
三好兵介少佐が遼陽会戦で戦死したため、8月26日付けで後任となる
奉天に退却したロシア満州軍は反撃を企図し、10月5日から行動を開始する
連隊は引き続き唐家屯(奉天南東)付近の高地占領を命じられ、死傷者計727名の犠牲を払い、
高地の占領に成功、明治40年)11月に中佐へ進級するまで第一大隊長の任にあった。
以後歩兵第二十七連隊(旭川)附、函館連隊区司令官を務め、明治45年)3月大佐に進級。
同年9月に歩兵第六十六連隊(宇都宮)の連隊長に就任した。
1916年(大正5年)11月に陸軍少将へ昇進するまでの4年強在任し翌年4月に予備役編入となる
  斎藤 力三郎
 さいとう りきさぶろう
文久元年9月 千葉県出身。明治14年)12月、陸軍士官学校(旧4期)を卒業し、歩兵少尉に任官。
明治22年)12月、陸軍大学校(5期)を卒業。陸士勤務となる。
明治37年)3月、韓国駐剳軍参謀長に就任。同年9月、第11師団参謀長に転じ日露戦争に出征
旅順攻囲戦、奉天会戦に参戦。1905年(明治38年)3月、歩兵大佐に昇進。
明治40年12月、歩兵第9連隊長に就任。明治42年1月、陸軍少将に進級し歩兵第25旅団長となる。
明治45年)4月、歩兵第1旅団長に転じ、1913年(大正2年)5月、教育総監部本部長に異動。
大正3年)5月、陸軍中将に進んだ。同年11月、第一次世界大戦の青島の戦いに参戦後の
第18師団長に親補されたが、1915年5月に現職で死去した。
  榊原 昇造
 さかきばら しょうぞう
安政6年10月 江戸出身 明治13年12月、陸軍士官学校(旧3期)工兵科を卒業。
明治35年)6月、工兵大佐に昇進し教育総監部参謀に就任。日露戦争開戦に伴い、
明治37年)2月、宇品港の乙碇泊場司令官に発令。同年5月、第3軍工兵部長として出征。
旅順攻囲戦で坑道の開鑿などに活躍。明治38年)3月、工兵監代理に異動。
同年11月、陸軍少将に進級し築城本部長に就任。
明治42年)8月、韓国駐剳憲兵隊長に発令され、明治43年)6月、韓国駐剳軍参謀長に転ずる。
同年11月、広島湾要塞司令官となる。
大正元年)9月、陸軍中将に進み由良要塞司令官に着任。1913年(大正2年)8月に待命、
大正3年)5月、予備役に編入された。 1940年9月10日 没
  柴 勝三郎
 しば かつさぶろう
文久3年12月 茨城県出身。柴久一郎の二男として生まれる。
1885年6月、陸軍士官学校(旧7期)を卒業した。
1890年12月、陸軍大学校(第6期)を卒業
遼東守備軍参謀として日露戦争に出征。第4軍参謀副長へ転出し、奉天会戦に参加した。
教育総監部参謀、欧州差遣、教育総監部第1課長、近衛歩兵第3連隊長などを経て、
1910年11月、陸軍少将に進級。朝鮮駐剳軍参謀長、関東都督府陸軍部参謀長、軍務局長を歴任し、
1915年2月、陸軍中将に進級。第18師団長を経て、1919年2月2日、予備役に編入された
 
   柴 五郎
  しば ごろう

  
万延元年5月 会津藩士(280石)・柴佐多蔵の五男として生まれるが、会津戦争によって
祖母・母・兄嫁・姉妹が自刃し一家は主家共々に陸奥国斗南(青森県むつ市)に移住する。
明治6年(1873年)3月、陸軍幼年学校に入校。明治10年(1877年)5月、陸軍士官学校に進み、
同12年(1879年)12月、陸軍砲兵少尉に任官され、翌年12月に士官学校を卒業する。
明治17年(1884年)6月の参謀本部出仕を経て同年7月に陸軍中尉に進級し、
明治21年(1888年)5月、近衛砲兵連隊小隊長に就き、翌年3月陸軍砲兵射的学校を卒業する。
11月、陸軍大尉に進級し、近衛砲兵連隊中隊長に進む。
明治27年11月、陸軍少佐に進級し、大本営参謀。翌年4月から日清戦争に出征し、
明治35年(1902年)12月陸軍大佐に進級する。
明治37年(1904年)4月から野戦砲兵第十五連隊長として日露戦争に出征し、明治39年2月に帰還
明治42年(1909年)8月就任の重砲兵第2旅団長
大正元年9月、重砲兵第1旅団長となり、翌年8月陸軍中将に進級するが、補職は下関要塞司令官
数々の武勲を立てた柴がこうも閑職にあるのは陸軍大学校を出なかったからとも、朝敵である
会津藩の出だからとも言う。しかしその後、師団長を務めてからは大将街道に復帰する。
大正3年5月には親補職である第12師団長に栄転し、同6年5月25日に勲一等瑞宝章受章。
大正8年8月には陸軍大将に進級する。同年11月、台湾軍司令官に進み、
大正10年(1921年)5月の軍事参議官を経て
昭和5年(1930年)4月に退役
昭和20年(1945年)の敗戦後、身辺の整理を始め9月15日に自決を図る。
老齢のため果たせなかったが、同年12月13日、その怪我がもとで病死する。
  白井 二郎
  しらい じろうさ
慶応3年6月 長州藩士・陸軍中佐、白井胤良の二男として生れる。
明治14年(1881年)5月、陸軍士官学校幼年生徒隊に入る。
明治20年(1887年)7月、陸士(旧9期)を首席で卒業し歩兵少尉に任官、歩兵第8連隊小隊長となる
明治26年(1893年)11月、陸軍大学校(9期)を優等で卒業
明治27年(1894年)8月、第1軍兵站監部副官となり日清戦争に出征
明治33年(1900年)12月、歩兵少佐に昇進。明治34年(1901年)11月、フランス駐在を命ぜられた。
明治37年4月、参謀本部付、同年5月、第3軍参謀(作戦主任)に補せられ日露戦争に出征。
旅順攻囲戦、奉天会戦に参戦。この間、同年10月、歩兵中佐に進級。
明治40年(1907年)10月、第15師団参謀長に異動し、同年11月、歩兵大佐に昇進した。
明治43年(1910年)11月、歩兵第27連隊長に就任。
明治45年(1912年)2月、陸軍少将に進級し歩兵第28旅団長となる。
大正2年(1913年)8月、歩兵第6旅団長に移り、朝鮮総督府付武官、歩兵第40旅団長を経て、
大正5年(1916年)8月、陸軍中将に進み旅順要塞司令官に着任。
大正7年(1918年)7月、第8師団長に親補され、大正10年(1921年)7月、予備役に編入された。
  白川 義則
 しらかわ よしのり

  
明治元年松山藩士白川親応の三男として生まれ、松山中学校に入学する
明治17年)1月、陸軍教導団に入る。1886年(明治19年)1月、陸軍教導団を卒業し、
明治23年)7月26日に陸軍士官学校を卒業(士候)1期
明治24年)3月26日、陸軍少尉に任官。1893年(明治26年)11月に陸軍大学校に入学するが
日清戦争勃発により中退し、同年8月に中尉に進級、同年11月から出征する。
明治28年)7月に内地に帰還し、1896年(明治29年)2月に陸軍大学校に復校する。
明治31年)2月に陸軍大尉に進み、同年12月に陸軍大学校(第12期)を卒業し、
明治36年)6月に陸軍少佐に進級し、歩兵第21連隊大隊長となる。
日露戦争に出征し、戦中の明治38年)3月に第13師団参謀に補される。同年9月に内地に帰還し、
明治40年)3月に中佐に進み、明治42年)12月の陸軍大佐進級と同時に歩兵第34連隊長
明治44年)6月に第11師団参謀長、1913年(大正2年)9月に中支那派遣隊司令官
大正4年)に陸軍少将に進級し、歩兵第9旅団長を経て陸軍省人事局長に就任する。
大正8年)1月に陸軍中将に進級し陸軍士官学校長に就任、
大正11年8月に第1師団長に親補され、同年10月に山梨半造陸軍大臣の下で、陸軍次官に就任
同年11月から航空局長官を兼任し、同時に勲一等旭日大綬章を受章する。
大正14年)3月には陸軍大将に進親任される。昭和2年4月から田中義一内閣の陸軍大臣に親任
勲一等旭日桐花大綬章
  清水 喜重
  しみず よししげ

 
1880年12月20日 - 1953年8月15日   愛媛県   陸軍士官学校(14期)
歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。1904年(明治37年)3月、日露戦争に出征し戦傷を受けた。
明治43年)11月、陸軍大学校(22期) 大正5年)1月、東宮武官に就任し、同年5月、歩兵少佐に昇進。
大正8年)5月、歩兵第3連隊大隊長に転じ、青島守備軍参謀に異動。
大正12年)8月、歩兵大佐に昇進し参謀本部付となる。
昭和3年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第33旅団長に就任。
昭和8年)3月、陸軍中将に進み由良要塞司令官に就任。
昭和9年)12月、第4独立守備隊司令官に転じ、1936年(昭和11年)3月、第12師団長に親補された。
昭和12年)3月、参謀本部付となり、翌月、予備役編入
昭和13年)5月に召集を受け、第116師団長に就任し日中戦争に出征。
  渋谷 伊之彦
  しぶや いのひこ

  
1881年11月14日 - 1935年12月14日  高知県   陸軍士官学校(14期)
日露戦争に従軍。1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業後、参謀本部部員に就任。
大正11年)2月、フランス大使館付武官となり、1923年(大正12年)8月、歩兵大佐に進級。
昭和2年)7月、第4師団参謀長となり、1929年(昭和4年)8月、陸軍少将に進級し
歩兵第33旅団長に就任。次いで陸軍戸山学校長に転じた。
昭和8年)8月、陸軍中将に進む。1934年(昭和9年)5月、留守第16師団長に就任し、
昭和10年)8月、第16師団長に親補されたが、同年12月2日に参謀本部付となり、
同12月14日に55歳で病死。
  嶋 永太郎
 しま えいたろう
明治13年)2月20日 -昭和17年)3月7日)  福岡県   陸軍士官学校(第13期)
歩兵第47連隊に配属され、日露戦争に従軍した。  明治44年)に陸軍大学校(第23期)
関東軍司令部勤務を経て、歩兵第14連隊長、第7師団参謀長、などを歴任した。
陸軍中将:歩兵第10旅団長
昭和8年)3月30日、予備役編入となる。
  島川 文八郎
 しま かわ
   ぶんはちろう

  
元治元年3月 津藩士・島川宗政の八男として生まれ
明治15年)8月、陸軍士官学校生徒となり、1885年(明治18年)6月には陸軍砲兵少尉に任官
明治20年)7月、士官学校を卒業。この時、中尉に進級し、砲兵第1連隊附に移る。
明治23年)11月の大尉進級を経て1891年(明治24年)3月にはベルギーへと留学した。
明治25年)12月からはフランスに渡り、引き続き留学をする。
明治26年)12月に帰国し、明治27年)3月、東京砲兵工廠板橋火薬製造所長に就任した。
明治28年)4月には少佐に進級
明治36年)5月には大佐へと進み、野砲兵第3連隊長に就任した。
明治37年)4月、日露戦争に出征。戦役から戻った明治38年)5月、陸軍技術審査部審査官を補され
明治42年)1月28日、陸軍少将進級と共に正式な陸軍省兵器局局長に進む。
大正2年)7月3日、陸軍技術審査部長へと進み、1914年(大正3年)5月には陸軍中将に進級する。
大正8年)4月、陸軍技術本部長を拝命し、技術将校の頂点に輝いた。
大正8年)11月、陸軍大将進級と共に待命となり、1920年(大正9年)3月には予備役となった。
同年11月1日、勲一等旭日大綬章受章。1921年(大正10年)7月15日逝去。
  尾高 亀蔵
 すえたか かめぞう
1884年9月28日 - 1953年8月1日)   佐賀県   陸軍士官学校(16期)
歩兵少尉に任官し歩兵第13連隊付となる。日露戦争に出征後
1916年11月、陸軍大学校(28期)
1932年8月、陸軍少将に進級し陸軍兵器本廠付となる。
東京警備参謀長、第2独立守備隊司令官を勤め、1936年4月、陸軍中将に昇進した。
第19師団長の際、張鼓峰事件が発生しソ連軍と交戦した。新設の第12軍司令官となり、中国北部での
任務に従事。次いで第3軍司令官となり、満州東部の警備を担った。
1941年6月、予備役に編入
  鈴木 一馬
  すずき はじめ
  
1873年6月18日 - 1961年7月19日 青森県 陸軍士官学校(5期)
父は会津藩士で部将として戊辰戦争に参戦し、斗南藩において司民掛開拓課に出仕した
日露戦争においては甲碇泊場司令部員として陸軍の運輸業務に従事
野砲兵第5連隊長、近衛野砲兵連隊長を経て、1919年(大正8年)11月少将へ昇進し
野戦重砲兵第2旅団長に就任した。
大正10年)1月20日支那駐屯軍司令官に就任し2年半にわたって在任
大正13年)12月に陸軍中将進級と同時に待命となり同月予備役に編入
  鈴木荘六
  すずきそうろく
元治2年2月越後国蒲原郡三条町二ノ町に鈴木高次の三男として生まれ「庄六」と命名される。
明治10年) - 三条尋常小学校を卒業し上等科へ進む。
明治14年) - 新潟師範学校中等師範科(現・新潟大学)に進学
明治20年) - 教導団を卒業、仙台の砲兵第二連隊付として赴任
明治23年) - 士官候補生を拝命し騎兵第一大隊に入隊。7月に士官学校を卒業
明治24年)4月 - 陸軍大学校(12期)に入学
明治27年 日清戦争勃発により、第四師団付出征。
明治31年) - 善通寺の騎兵連隊中隊長(師団長:乃木希典)を拝命。
明治34年)11月 - 陸軍騎兵少佐 明治37年) - 日露戦争で奥保鞏陸軍大将の第2軍参謀を務める。
大正3年)8月8日 - 陸軍少将、騎兵第三旅団長(盛岡)
大正5年)5月2日 - 騎兵実施学校長
大正7年) - 陸軍中将
大正8年) - 第五師団長(広島) 大正9年)3月 - 尼港事件で、第五師団率いてチタ方面に出動、
大胆な戦術により作戦を敢行して出兵目的を遂行 (大正12年)8月 - 台湾軍司令官
大正13年)8月 - 陸軍大将・朝鮮軍司令官
大正15年)3月2日 - 陸軍参謀総長
昭和15年)2月20日 - 狭心症により76歳で死去   勲一等旭日桐花大綬章 
  鈴木 一馬
  すずき はじめ

  
明治2年10月 旧関宿藩士鈴木由哲の子として東京に生まれ
明治22年)11月、陸軍士官学校に入校し、1891年(明治24年)7月30日卒業する。
鈴木の士候2期の同期生には台湾軍司令官菅野尚一大将、朝鮮軍司令官森岡守成大将、
坂西利八郎中将や、侍従武官の山根一貫少将がいる。
明治27年)10月に中尉に進級した鈴木は日清戦争に出征し、その後陸軍砲工学校を卒業
明治37年)3月、野砲兵第8連隊附となり、同年6月に日露戦争の動員下令と共に野砲兵第8連隊
補充大隊長を命ぜられる。
明治40年)2月、野砲兵監部附、同年11月、砲兵中佐に進級し近衛野砲連隊附を命ぜられる。
明治45年)5月8日に野砲兵第21連隊長に任命され、7月15日、砲兵大佐に進級し、
大正3年)6年8月6日には陸軍少将に進級して野砲兵第1旅団長
大正10年)3月11日から陸軍士官学校長を務める。同年7月20日、陸軍中将に進級、
大正11年)8月15日、砲兵監を拝命する。
大正13年)2月4日、第14師団長に親補され、同年8月20日、陸軍技術本部長に移る。
昭和2年)7月26日、陸軍大将に親任される。昭和3年3月8日、陸軍技術本部長の兼勤を免じられる。
昭和13年)4月21日から靖国神社宮司を務め
昭和39年)1月29日薨去
  菅野 尚一
  すがの ひさいち

  
明治4年 山口県豊浦郡大字豊浦村にて、父尚喬(旧長府藩士、陸軍主計大尉)の長男として誕生。
陸軍幼年学校を首席で卒業。1891年(明治24年)陸軍士官学校(士官候補生2期)を卒業
陸軍少尉として日清戦争に従軍し、1899年(明治32年)12月に陸軍大学校(13期)を卒業した。
歩兵少佐として日露戦争に出征。日露戦争時では大本営参謀の一人。奉天会戦にて
乃木希典の第3軍の参謀も務める。
明治39年)3月 - イギリス駐在
(明治40年)11月 - 歩兵中佐
明治41年)1月 - 教育総監部参謀
明治43年)11月 - 歩兵大佐・軍務局歩兵課長
大正4年)8月 - 陸軍少将・教育総監部付
大正7年)7月 - 歩兵第29旅団長
大正8年)7月 - 陸軍中将
大正11年)2月 - 第20師団長
大正13年)8月 - 台湾軍司令官
大正14年)8月 -
陸軍大将
昭和2年)12月 - 予備役
当時としては最年少で大将に就任
昭和28年)に、故郷山口にて世を去る。
  曽田 孝一郎
  そだ こういちろう
明治5年11月8日- 昭和22年3月2日    島根県   陸軍士官学校(5期)
陸軍大学校(16期)  日露戦争に出征し、満州軍参謀などを務めた。
大正3年)1月、工兵大佐に昇進し参謀本部通信課長に転じた。
大正7年)8月、陸軍少将に進級し基隆要塞司令官となる。
同年11月、台湾総督府陸軍部参謀長に転じた。
大正8年)8月、同府陸軍部が台湾軍に改編され初代参謀長となる。
大正10年)2月、鎮海湾要塞司令官に就任。
大正11年)8月、工兵監に転じ、1923年(大正12年)8月、陸軍中将に進んだ。
大正15年)3月に待命、そして予備役編入
  高柳 保太郎馬
 たかやなぎ やすたろう
1870年1月10日(旧暦明治2年12月9日[1]) - 1951年(昭和26年)9月7日
 陸軍士官学校(3期) 日露戦争に第二軍司令部附参謀(作戦担当)として参加。
明治32年)12月21日 - 陸軍大学校(13期)
明治41年)12月21日 - 中佐
明治45年)4月1日 - 大佐
大正6年)7月16日 - 少将
大正8年)2月3日 - 浦塩派遣軍高級参謀
大正11年)8月15日 - 陸軍中将
大正12年3月23日 - 予備役
  高山 公通
 たかやま きみみち
1867年9月5日(慶応3年8月8日) - 1940年8月28日  鹿児島県  陸軍士官学校(旧11期)
陸軍大学校(13期)、明治33年)5月、第12師団参謀となり、清国差遣(貴州駐在)、大本営参謀を経て、
明治37年)6月、第3軍司令部付となり日露戦争に出征。歩兵第48連隊大隊長を経て、
奉天会戦直後、歩兵第32連隊長に発令された。
明治38年)6月、後備混成第8旅団参謀長に就任し、関東総督府付、第4師団参謀長を歴任
明治41年)12月、歩兵大佐に昇進。参謀本部付(奉天特務機関長)、歩兵第2連隊長を経て、
大正3年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第25旅団長に就任した。
大正5年)8月、関東都督府参謀長となり、1918年(大正7年)7月、陸軍中将に進み
独立守備隊司令官に就任。1919年(大正8年)7月、第18師団長に親補された。
大正11年)8月、待命となり、翌年3月、予備役に編入
   谷 寿夫
  たに ひさお

  
1882年12月23日 - 1947年4月26日)  岡山県   陸軍士官学校(第15期歩兵科)
明治37年)3月 近衛歩兵第1連隊付少尉として日露戦争に従軍
陸軍大学校(第24期)。師団参謀長、旅団長、師団長を歴任し、第二次上海事変、南京攻略戦に参加
大正4年)4月 イギリス大使館付武官補佐官
(大正6年)8月 第一次世界大戦でイギリス軍に従軍(観戦武官)
昭和2年)3月 歩兵第61連隊長(大佐)
昭和3年)8月 第3師団参謀長
昭和9年)8月 陸軍中将・東京湾要塞司令官
昭和10年)12月 第6師団(熊本)師団長に親補
昭和12年11月 第6師団長として第二次上海事変に参加
      12月28日 日本本土の中部防衛司令官に親補
昭和14年9月 予備役編入
昭和20年)8月 大戦末期召集され広島市への原爆投下により死亡した藤井洋治中将の後任として
          第59軍司令官兼中国軍管区司令官に親補される。
昭和21年2月 GHQによってBC級戦犯として逮捕、8月 蒋介石国民政府へ引き渡された。
昭和22年3月10日 南京軍事法廷でBC級戦犯として死刑判決、 4月 同地で銃殺刑
  高島 友武 
 
たかしま ともたけ

  
 
慶応3年3月 薩摩藩士・吉井友実の息子として生まれ、拓殖務大臣・陸軍大臣を務めた
高島鞆之助の養嗣子となる。明治21年)7月28日に陸軍士官学校(旧10期)を卒業
明治38年)5月2日に歩兵第6連隊長に就任、日露戦争に従軍する。この時の階級は陸軍歩兵中佐。
明治41年)12月、歩兵大佐・歩兵第8連隊長。近衛歩兵第1連隊長、近衛歩兵第2連隊長を経て、
大正3年)5月11日、陸軍少将・歩兵第19旅団長
大正7年)7月24日、陸軍中将に進み立花小一郎の後を受けて第19師団長に就任する。
第19師団は日露戦争後に併合した韓国の守備を目的に(大正4年)12月に羅南で編制された
新設師団で、高島は第2代師団長である。師団長在任中の1920年(大正9年)12月25日に
勲一等旭日大綬章を受章、翌年の1921年(大正10年)7月20日予備役となる
  竹下 平作 
 
たけした へいさく
元治元年12月 熊本県出身。竹下幸太郎の長男として生まれる。
明治18年)6月、陸軍士官学校(旧7期)
明治23年)12月、陸軍大学校(第6期)を卒業
台湾総督府副官、陸士教官、陸士生徒隊中隊長、第12師団参謀、など歴任
歩兵第10連隊大隊長。歩兵第14連隊大隊長、後備歩兵第20連隊長などを経て、
歩兵第14連隊長として日露戦争に出征。遼陽会戦、奉天会戦などに参戦した。
歩兵第46連隊長、台湾歩兵第2連隊長などを経て、1911年(明治44年)10月、陸軍少将に進級。
歩兵第27旅団長、歩兵第1旅団長を歴任。大正5年)8月、陸軍中将に進級し待命となり、
翌年1月、予備役に編入された
 竹田宮恒久王
 
たけだのみや
   つねひさおう
1882年9月22日 - 1919年4月23日 京都府 陸軍士官学校(第15期)
北白川宮能久親王第1王子。妃は明治天皇の第6皇女昌子内親王
明治39年)、竹田宮の称号を賜り、宮家を創設。近衛騎兵連隊に属し、
日露戦争に従軍した。
明治43年) 陸軍大学校卒業(22期)
陸軍少将大勲位功五級に昇る。
大正8年)4月23日、当時流行していたスペイン風邪のため薨去。享年37。
  多田 駿 
 
ただ はやお

  
明治15年)2月 旧伊達藩士出身  仙台陸軍地方幼年学校(1期)
陸軍士官学校(第15期成績順位35番)砲兵科、陸軍大学校(第25期成績順位12番)卒業。
明治36年)11月 - 陸軍士官学校第15期(砲兵科)卒業、乃木希典の次男乃木保典(歩兵科)と同期
明治37年)3月 - 少尉に昇進。野砲第18連隊附
7月 - 日露戦争に従軍(~1905年6月)。旅順攻囲戦に参加
大正2年)8月 - 大尉に昇進
    1月 - 陸軍大学校卒業(第25期)
大正8年)12月 - 少佐に昇進。陸軍大学校教官 大正12年)8月 - 中佐に昇進
昭和2年)7月26日 - 大佐に昇進。陸軍大学校教官  昭和3年)3月8日 - 野砲第4連隊長
昭和7年8月8日 - 少将に昇進
昭和5年)3月6日 - 第16師団(京都)参謀長
昭和11年)4月28日 - 中将に昇進
昭和10年)8月1日 - 支那駐屯軍司令官
昭和11年)4月28日 - 中将に昇進
昭和11年5月1日 - 第11師団(香川)師団長
昭和12年)8月14日 - 参謀本部次長
昭和13年)12月10日 - 第3軍司令官
昭和14年)9月12日 - 北支那方面軍司令官
昭和16年)7月7日 - 陸軍大将に昇進 軍事参議官に就任  昭和16年)9月 - 予備役に編入
昭和20年)12月2日 - A級戦犯の容疑で逮捕
昭和23年)12月16日 - 胃癌で死去
昭和23年)12月24日 - 釈放(既に死去していたが、釈放者のリストには入っていた
  武内 徹
 
たけうち とおる

  
慶応3年5月 福井県福井市)出身  陸軍士官学校
日清戦争には工兵大尉として出征した。
明治29年)、陸軍大学校を卒業
明治32年に工兵少佐に昇進し、翌年には軍事研究のためオーストリア=ハンガリー帝国に派遣
工兵中佐に昇進した。日露戦争時には線区司令官、大本営幕僚、工兵大佐に昇進した。
戦後は第一師団司令部付、参謀本部付、陸軍大学校教官、陸軍省軍務局工兵課長、
参謀本部第三部長などを歴任し、1912年(明治45年)に陸軍少将に就任した。
大正5年)に陸軍中将に昇進し、1918年(大正7年)にはシベリア出兵に派遣された。
シベリア出兵では浦塩派遣軍司令部付、野戦交通部長、連合国軍事輸送部長を歴任した
大正9年)に予備役となった、 大正10年)に福井市長に選出され、5年間在職した
  立花 小一郎 
 
たちばな こいちろう

  
万延2年2月 三池藩家老(藩主の分家)立花碩(おおい)の長男として生れる。
明治16年)12月、陸軍士官学校(旧6期)を卒業し、陸軍少尉任官。
明治22年)12月、陸軍大学校(5期)を優等で卒業した。 日清戦争では第1軍参謀として出征
明治29年)から1899年(明治32年)までオーストリアに留学し、その後、清国駐屯軍参謀、
日露戦争では、第4軍参謀副長として出征した。明治38年3月、奉天会戦直前に陸軍大佐に進級し
明治42年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第22旅団長、歩兵第30旅団長、近衛歩兵第1旅団長、
朝鮮駐剳軍参謀長、朝鮮駐剳憲兵隊司令官兼朝鮮総督府警務総長を務める。
大正3年)8月、陸軍中将となり、第19師団長、第4師団長、関東軍司令官を歴任
大正9年)8月、陸軍大将となり、シベリア出兵では、最後の浦塩派遣軍司令官を務めた。
その後、軍事参議官を務め1923年(大正12年)3月に予備役に編入。
  田村 沖之甫 
 
たむら おきのすけ

  

  
 
1865年8月27日 - 1919年4月11日  山梨県   陸軍士官学校(旧10期)
(明治32年)12月、陸軍大学校(13期)を卒業。陸軍省総務局勤務となる。
日露戦争に第4軍参謀として出征した。明治41年)12月、砲兵大佐に昇進し野砲兵第4連隊長に就任
明治43年)10月、ドイツ駐在武官に発令された。1913年(大正2年)2月、軍務局砲兵課長に転じた
大正3年)5月、陸軍少将に進級し参謀本部第4部長に就任。大正5年)8月、野戦砲兵第1旅団長
大正7年)7月、陸軍中将に進んだ。同年11月、待命となった。
兄 田村怡与造(陸軍中将)・田村濤二郎(実業家)
弟 田村守衛(陸軍中将)
甥 田村義冨(陸軍中将、田村濤二郎の四男)
  田村 守衛 
 
たむら もりえ
明治4年2月:甲斐国東山梨郡相興村中尾に宮司・田村義事の三男として生まれる
明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業。同年9月、騎兵少尉任官
明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を首席で卒業。参謀本部編制班に配属された。
日露戦争に大本営参謀として出征し、さらに満州軍参謀に転じた。
1914年(大正3年)1月、歩兵大佐に昇進し関東都督府高級参謀に就任。
大正6年)4月、陸大幹事となり、1918年(大正7年)7月、陸軍少将に進級
同年8月、騎兵第1旅団長に就任し、1921年(大正10年)7月、陸軍騎兵学校長に就任。
大正11年)2月、陸大校長となるが、1923年(大正12年)6月、在職中に病没し陸軍中将に進んだ。
  多門 二郎
  
たもん じろう
1878年9月10日 - 1934年2月15日 静岡県 陸軍士官学校(11期)
歩兵第4連隊小隊長として日露戦争に出征した。歩兵第4連隊副官、歩兵第3旅団副官などを歴任し、
1909年12月、陸軍大学校(21期)を卒業した。
陸士教官、第6師団参謀、歩兵第62連隊大隊長、陸大教官、欧州出張、歩兵第27連隊付
(尼港派遣隊長)などを歴任。尼港事件の際、多門支隊長として救援に向かった。
サガレン州派遣軍参謀、歩兵第2連隊長、第4師団参謀長を経て、
1924年2月、陸軍少将となる。歩兵第6旅団長、陸大付、参謀本部第4部長、陸大幹事などを歴任し、
1929年8月、陸軍中将となり陸大校長に就任。以後、第2師団長に親補され満州に駐屯、
満州事変が勃発し諸作戦に従軍した。1933年1月、内地に帰還し、仙台市民から熱狂的な歓迎
同年8月、待命となり予備役に編入
  田中 国重 
 
たなか くにしげ

  

  
明治2年12月 鹿児島県出身。田中国高の長男として生れる。
1893年7月、陸軍士官学校(4期)を卒業。翌年3月、騎兵少尉任官、近衛騎兵大隊付となり
日清戦争に従軍した。騎兵第6連隊付、陸士教官、中央幼年学校馬術教官を経て、
1900年12月、陸軍大学校(14期)を優等で卒業した。
騎兵第10連隊中隊長、参謀本部員、大本営参謀を経て、日露戦争に満州軍参謀として出征した。
後備混成第4旅団参謀長、アメリカ大使館付武官、騎兵第16連隊長、侍従武官、
イギリス大使館付武官などを経て、1918年7月、陸軍少将に進級
参謀本部第2部長、ワシントン会議随員、騎兵第3旅団長を歴任。
1922年8月、陸軍中将に進級し、第15師団長、近衛師団長、台湾軍司令官を務める。
1928年8月、陸軍大将となり、軍事参議官を勤め、1929年3月、予備役に編入された
  田中弘太郎
 
たなか こうたろう
  
  
元治元年9月 園部藩士、田中弘作の長男として生れる。
1887年7月、陸軍士官学校(旧9期)を卒業し、砲兵少尉任官。
1888年7月、陸士砲兵科を終えて野砲兵第4連隊小隊長、陸軍砲兵射的学校教官を歴任。
日清戦争では第5師団司令部付として出征した。
その後、陸軍砲工学校教官、東京砲兵工廠製造所長、欧州差遣(駐独審査官)、
大阪砲兵工廠技術課長などを歴任し、1913年8月、陸軍少将に進級した。
技術審査部審査官を経て、1918年7月、陸軍中将となり、陸軍科学研究所長、技術本部長、
軍事参議官を勤める。1924年8月、陸軍大将となり、翌月予備役に編入され、
  津野 一輔 
 
つの かずすけ

  
  
1874年1月28日 - 1928年2月24日  山口県  陸軍士官学校(5期)
津野成章陸軍少佐の長男として生れる。
日清戦争では近衛歩兵第2連隊付として出征。1895年8月、台湾で戦傷を受けた。
1901年11月、陸軍大学校(15期)を卒業。歩兵第39連隊中隊長、陸軍省総務局課員などを経て、
日露戦争では、第5師団参謀として出征した。
ドイツ駐在を経て、陸相秘書官・陸軍省副官兼陸相秘書官となり、再度、寺内大臣に仕えた。
1923年8月、陸軍中将に進級。教育総監部本部長、陸軍次官などを経て近衛師団長となり、
在任中の1928年(昭和3年)に死去。
  中村 覚 
 なかむら さとる


  

  

  
 
安政元年2月 彦根藩士、中村千太夫の二男として生まれる。
藩徒士を経て、陸軍教導団に入る。西南戦争に出征。
日清戦争時には東宮武官・侍従武官を務めた。
日露戦争に出征し旅順攻囲戦で「白襷隊」の指揮官として負傷し、勇名を馳せた。
明治38年7月 - 陸軍中将  明治39年(1906年)2月 - 教育総監部参謀長
明治40年1月 - 第15師団長   明治41年12月29日- 岡沢精の後を受け、第2代侍従武官長に就任
大正2年(1913年)8月 - 東京衛戍総督
大正4年(1915年)1月 -
陸軍大将
大正6年(1917年)7月 - 軍事参議官
大正14年(1925年)1月29日 - 薨去。薨去に当たり勲一等旭日桐花大綬章を追贈された。
  奈良 武次
  
なら たけじ
  
慶応4年4月農民・奈良彦一郎の次男として下野国都賀郡上南摩村(現・栃木県鹿沼市)に生れる。
明治22年7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業、砲兵少尉任官、近衛野砲兵連隊付となる。
明治26年(1893年)11月、陸軍砲工学校高等科を優等で卒業。
日清戦争では、臨時徒歩砲兵第2大隊副官として出征した。
明治32年12月、陸軍大学校(13期)を卒業した。参謀本部出仕(第3部)、陸軍省軍務局課員、
由良要塞砲兵連隊大隊長、ドイツ駐在などを歴任
日露戦争では、第3軍攻城砲兵司令部員として出征し、独立重砲兵旅団司令部員となった。
日露戦後は軍務局課員(軍事課)、ドイツ駐在、軍務局砲兵課長、陸軍省副官などを経て、
大正3年(1914年)8月、陸軍少将に進級し、支那駐屯軍司令官、青島守備軍参謀長、
軍務局長を歴任。大正7年(1918年)7月、陸軍中将となり、
第一次世界大戦講和会議に陸軍委員として派遣された。
さらに、東宮武官、侍従武官、東宮武官長、侍従武官長を歴任。
大正13年(1924年)8月、陸軍大将となり、昭和14年(1939年)3月に退役した。
  中島 今朝吾 
 
たなか くにしげ

  

  

  
1881年6月15日 - 1945年10月28日    大分県   陸軍士官学校(15期)
日露戦争に従軍。1913年11月に陸軍大学校(25期)、1918年7月フランス駐在
1932年4月に少将・舞鶴要塞司令官
1936年3月に陸軍中将昇進。
1937年8月に第16師団長となり、第二次上海事変では河北省に進軍し、
上海陥落後には南京攻略戦と武漢作戦に参加。1938年7月には第4軍司令官を歴任し、
1939年9月に予備役。終戦直後の1945年10月に病死
憲兵司令官在任時、宇垣一成大将が組閣の大命を受け参内途中の車を多摩川六郷橋で停め、
宇垣を脅迫して組閣を妨害した。
第16師団長として南京攻略戦に参加した時の日記には、本攻略戦において捕虜を取らない
方針であること、捕虜を日本刀の試し斬りに使ったこと、捕虜を一ヶ所にまとめて「処理する予定」
「そのためには大きな濠を要する」との記述がある。
  中島 正武
 なかじま まさたけ

  
  
1870年10月4日(明治3年9月10日) - 1931年2月23日)  高知県
陸軍士官学校(1期)、歩兵少尉に任官し歩兵第3連隊付となる。日清戦争に出征
陸軍大学校(13期)歩兵第3連隊中隊長、参謀本部出仕、参謀本部員などを経て、日露戦争では
大本営運輸通信長官部参謀であった。第1師団参謀、東京衛戍総督部参謀、歩兵第68連隊長、
ロシア大使館付武官、参謀本部課長などを歴任し、1915年1月、陸軍少将に昇進した。
第一次世界大戦に観戦武官としてロシア軍に従軍。歩兵第30旅団長、参謀本部第2部長、
ハルピン特務機関長、浦塩派遣軍参謀などを経て、1919年1月、陸軍中将となった。
参謀本部第2部長、兼同総務部長、第2師団長、近衛師団長を歴任。
1923年8月、待命となり、翌月、予備役に編入
  中島 完一 
 なかしま かんいち

  
  
1882年2月3日 - 1943年2月19日 岐阜県 陸軍士官学校(17期)
大正4年)12月11日 陸軍大学校卒業(27期)
昭和4年)8月1日 陸軍工兵大佐・陸軍通信学校教官
昭和9年)1月23日 基隆要塞司令官
    3月5日 陸軍少将
昭和10年)3月15日 陸軍通信学校長
昭和12年)8月2日 待命・陸軍中将
    8月22日 予備役
  長嶺 俊之助 
 ながみね
  しゅんのすけ


  

   
 
1875年1月12日 - 1945年11月29日)   秋田県   陸軍士官学校
日露戦争では歩兵第5連隊中隊長、後備歩兵第5連隊副官として黒溝台会戦に参加した。
盛岡連隊区司令官などを経て、1924年(大正13年)2月、歩兵第31連隊長に就任。
昭和2年)7月、陸軍少将昇進と同時に待命となり、同年12月、予備役に編入
猛将タイプではなく、温厚篤実で口数も少ない人物であったという。
  中村 緑野 
 
なかむら ろくや

  
1868年10月22日 - 没年不詳   秋田藩出身
秋田医学校(甲種)卒。医学校卒業後、入営までは公立秋田病院の外科医として勤務した
明治26年)に麻布の歩兵第3連隊に入り、翌年陸軍三等軍医(少尉相当官)に任官。
明治33年)に一等軍医(大尉相当官)に昇任し陸軍大学校付、陸軍省医務局御用掛、
明治37年)には日露戦争に従軍し、戦中、三等軍医正(少佐相当官)。
大正に入って一等軍医正(大佐相当官)に進み、第14師団軍医部長、陸軍省医務局衛生課長
大正9年)陸軍軍医監(少将相当官)に昇任、第5師団軍医部長に補せられ、
大正14年)には陸軍軍医総監(中将相当官)に昇任、関東軍軍医部長に補せられた。
昭和2年)に予備役
  永持 源次
 
ながもち げんじ
  
1884年7月23日 - 1978年8月18日   東京府出身   陸軍士官学校(15期)
1904年(明治37年)5月、徒歩砲兵独立大隊付として日露戦争に出征。
明治42年)11月、陸軍砲工学校高等科(15期)を優等で卒業した。
明治43年)7月から1913年(大正2年)10月までフランスに駐在
大正7年)7月、砲兵少佐に昇進。1922年(大正11年)8月、陸軍野戦砲兵学校教官に就任し、
兵器局銃砲課長に転じ、大正15年)7月、砲兵大佐に昇進。
昭和3年)8月、陸軍技術本部フランス駐在官に就任し、横須賀銃砲兵連隊長を経て、
(昭和6年)8月、陸軍少将に進級し砲工学校砲兵科長に就任。
昭和7年)4月、砲兵監部付となり、造兵廠大阪工廠長に転じ、さらに砲工学校長に就任。
昭和10年)8月、陸軍中将に進んだ。1936年(昭和11年)8月、造兵廠長官に就任し、
昭和13年)12月、予備役に編入
  二宮 治重 
 にのみや
   はるしげ


  

  

  
1879年2月17日 - 1945年2月17日   岡山県    陸軍士官学校(12期)
歩兵少尉に任官し歩兵第20連隊付となる。1904年(明治37年)5月、歩兵第20連隊中隊長となり、
明治39年)1月まで日露戦争に出征した。明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を優等で卒業。
大正元年)9月、イギリス駐在となり、1913年(大正2年)8月、歩兵少佐に昇進。
大正6年)8月、歩兵中佐に進級し陸相秘書官に発令され、大島健一陸軍大臣に仕えた
大正10年)6月、歩兵大佐に昇進し参謀本部総務部第1課長に就任した。
大正14年)5月、陸軍少将に進級しイギリス大使館付武官となった。
昭和2年)7月、歩兵第2旅団長に就任し、参謀本部付、同第2部長、同総務部長を経て、
昭和5年)8月、陸軍中将に進み、同年12月、参謀次長となる。
小磯國昭、杉山元、建川美次らとともに、二宮と同郷である宇垣一成の側近として知られる。
宇垣内閣樹立をめざすクーデター計画である(昭和6年)の三月事件の首謀者の一人でもあった。
昭和6年)11月、荒木貞夫が陸相に、1932年(昭和7年)1月に真崎甚三郎が参謀次長に就任し、
いわゆる皇道派が陸軍中央を握ると、彼等は宇垣閥の排除を開始。
二宮は昭和7年)1月、第5師団長に親補されるが、結局、1934年(昭和9年)3月、予備役に編入
昭和11年)9月、鮮満拓殖会社総裁に就任。さらに、昭和15年)6月、満州拓殖公社総裁となった。
昭和19年)7月に小磯に対し組閣の大命が降下すると、その相談役として活動。
小磯内閣の文部大臣に就任するが、翌年2月に病のため辞職、その一週間後に没した。
  西 義一
 にし よしかず

  

  
  
明治11年1月 福島県出身。旧会津藩士・西忠義の長男として生れる。忠義は日高地方の開発に
功績を挙げたことで生祀され、また臨時帝室編修局嘱託を務めている。
1898年11月、陸軍士官学校(10期)を卒業し、翌年6月、砲兵少尉任官。
1902年12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。陸士生徒隊付、第7師団弾薬大隊付を歴任。
日露戦争では第2師団後備野砲中隊長として出征した。
1909年12月、陸軍大学校(21期)を卒業し、陸軍野戦砲兵射撃学校教官、野砲第11連隊大隊長、
1923年8月、陸軍少将に進級した。野戦重砲兵第3旅団長を務め、1928年8月、陸軍中将となり、
陸軍技術本部総務部長、陸軍野戦砲兵学校長を経て、1931年8月第8師団長の職に補され、
東京警備司令官を務め、1934年11月、陸軍大将となり、東部防衛司令官を兼務した。
軍事参議官在任中に、二・二六事件が発生。その後の粛軍人事でも現役として残り教育総監に
就任したが病を得、1936年8月、予備役に編入された。
  西川 虎次郎 
 にしかわ とらじろう

  
  
1867年9月28日 - 1944年8月18日 福岡県     陸軍士官学校(旧11期)
明治24年)1月、陸軍戸山学校を卒業。1897年(明治30年)12月、陸軍大学校(11期)を卒業した。
日清戦争出征のため、陸大を一時中退し戦後に復校している。
日露戦争では、大本営兵站監部参謀となり、1905年(明治38年)1月、鴨緑江軍参謀として出征。
さらに遼東兵站監部参謀長を務めた。
大正2年)3月、陸軍少将に進級。歩兵第19旅団長、関東都督府参謀長、参謀本部第4部長を歴任。
大正6年)8月、陸軍中将となり、陸軍歩兵学校長を経て
大正7年)7月、第13師団長に親補されシベリア出兵に従軍。次いで第1師団長に就任
大正11年)8月、待命となり、翌年3月、予備役に編入された。
  仁田原 重行
 
にたはら しげゆき

  
文久2年10月仁田原周蔵の次男として福岡に生まれる。
陸軍士官学校(旧6期)に進み、明治16年12月25日に卒業する。同日歩兵少尉に任官
明治19年1月19日陸軍大学校(4期)に進学、明治20年4月に中尉に進級する。
明治21年11月28日陸軍大学校を卒業し、明治24年1月大尉に進級する。
明治28年3月に少佐に進級し、同月日清戦争に出征、同年9月に帰還する。
明治32年2月中佐に進級し、同6月参謀本部員を補される。
明治33年6月から第5師団兵站監部参謀として北清事変に出征し、同年10月に帰還。
明治34年7月5日から留守第5師団参謀長に進み、明治35年5月5日大佐進級と同時に
第5師団参謀長に就任する。
明治37年4月からこの職で日露戦争に出征し、戦中の明治38年4月8日陸軍少将に進み
翌9日歩兵第7旅団長を命ぜられる。
明治42年4月1日独立守備隊司令官に就任する。明治44年9月6日歩兵第1旅団長に移り、
明治45年2月27日陸軍中将に進級し第2師団長を親補される。
大正4年2月15日第4師団長に移り、大正5年8月18日には近衛師団長に就任する。
大正6年8月6日から東京衛戍総督に進み、大正7年7月2日陸軍大将に進級し軍事参議官に
大正14年3月24日逝去  勲一等旭日大綬章
  西尾 寿造
 
にしお としぞう

  
明治14年10月 鳥取市吉方温泉3丁目に生まれた。鳥取県士族・西尾重威の四男
明治33年、歩兵第40連隊に入る(士官候補生)。明治35年11月、陸軍士官学校を卒業(14期、次席)。
明治37年(1904年)から同39年(1906年)まで、日露戦争に出征し、沙河会戦で戦傷を受けた。
明治42年(1909年)、歩兵大尉となる。明治43年11月、陸大を卒業(22期恩賜、次席)した。
大正元年から同3年までドイツに留学。大正12年(1923年)8月、歩兵大佐に昇進。
昭和4年(1929年)8月、陸軍少将に進級し第39旅団長に就任。
昭和8年8月、陸軍中将に進んだ。昭和9年、関東軍参謀長兼特務部長に転出。
昭和11年、参謀次長となる。昭和12年3月には近衛師団長に親補され、同年8月に日中戦争が
始まると第2軍司令官となった。昭和13年(1938年)4月、教育総監に就任。
昭和14年8月、陸軍大将となり、新設された支那派遣軍総司令官兼第13軍司令官に就任。
昭和16年(1941年)3月、軍事参議官となり、昭和18年(1943年)5月、予備役に編入された。
昭和20年12月、A級戦犯容疑者として連合国軍最高司令官より出された第3次逮捕命令により
逮捕され、昭和23年(1948年)12月まで拘留された。1960年10月26日没
  芳賀 栄次郎
  
はが えいじろう

  
元治元年8月幕末の会津若松城下で、会津藩藩士の芳賀家に生まれる。
東京帝国大学を最優等で卒業。大学院で外科を専攻し、スクリバに師事する
陸軍二等軍医時代に歩兵第23連隊に勤務していた芳賀は、旧薩摩藩藩士で上司の第6師団長
野崎貞澄の娘と結婚した。芳賀は九男二女に恵まれた。
明治29年)ドイツに留学し、レントゲン資料を私費で購入。日本へのレントゲン技術の端緒をなす。
日露戦争では第五師団、近衛師団および第一師団の各軍医部長として従軍し
赤痢に感染した皇族軍人の主治医を務める
陸軍軍医学校校長、朝鮮総督府医院長を歴任し、1915年(大正4年)2月、軍医総監に昇進した。
京城医学専門学校長を務めて1921年(大正10年)1月、予備役編入となる
1953年2月27日(満88歳没)中将相当官
  橋本 虎之助
 
はしもと とらのすけ

  
1883年6月6日 - 1952年1月26日   愛知県    陸軍士官学校14期
陸軍大学校22期:陸軍きってのロシア通として知られている。ロシアへ留学したり、
乃木希典とステッセルの水師営の会見に於いて、第三軍司令部の衛兵長で橋本は先導役を務めた。
満州事変勃発のため奉天に派遣されたが関東軍参謀石原莞爾に軽くあしらわれている。
橋本らが派遣されている最中錦州爆撃が行われ激怒し帰国している。その後、帰国した時を
同じくして十月事件が起きている。事件の首謀者の一人橋本欣五郎をよく知る存在であり、
計画を中止するよう説得にあたっている。
大正13年8月 陸軍大佐、12月 騎兵第二十五聯隊長
昭和4年12月 陸軍少将、 昭和7年4月 関東軍参謀長、11月 関東憲兵隊司令官
昭和8年8月 参謀本部総務部長、12月 陸軍中将
昭和9年8月 陸軍次官
昭和10年近衛師団長
二・二六事件後予備役に編入
終戦時ソ連に逮捕され、ハルビンで病死した
  長谷川 直敏
 
はせがわ なおとし

  
1873年4月8日 - 1953年2月13日   京都府   陸軍士官学校(6期)
明治28年5月、歩兵少尉に任官し歩兵第9連隊付となる。翌月、乙未戦争(台湾)に出征した。
歩兵第8連隊中隊長として日露戦争に出征。1904年(明治37年)5月、戦傷を受け、
同年9月、歩兵第7旅団参謀となった。
陸軍大学校(19期)
大正5年)4月、陸軍大佐に昇進し歩兵第20連隊長に就任。第10師団参謀長を経て、
大正9年)5月、陸軍少将に進級し陸軍中央幼年学校長に就任。
大正13年)12月、陸軍中将に進んだ。1926年(大正15年)3月、第10師団長に親補され、
近衛師団長、東京警備司令官を務め、1930年(昭和5年)12月に待命となり、翌年1月、予備役
  秦 真次
 
 はた しんじ
1879年4月6日 - 1950年2月24日  小倉藩    陸軍士官学校(12期)
歩兵少尉に任官し歩兵第46連隊付となる。
明治37年)2月、日露戦争に出征
1905年(明治38年)8月、第1軍兵站監部副官となった。 陸軍大学校(21期)
大正7年)7月、歩兵中佐に進級し歩兵第70連隊付となる。同年12月、陸軍兵器本廠付となり、
大正11年)2月、歩兵大佐に昇進し歩兵第21連隊長に就任した。
大正12年)8月、第3師団参謀長に発令され、臨時東京警備参謀長、常設東京警備参謀長を歴任
大正15年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第15旅団長となった
(昭和6年)8月、陸軍中将に進み東京湾要塞司令官に着任。
1931年10月、兵器本廠付(陸軍次官補佐)となり、憲兵司令官を経て、
昭和9年)8月、第2師団長に親補された。1935年(昭和10年)8月に待命、翌月、予備役に編入
  林 弥三吉
 
はやし やさきち
1876年4月8日 - 1948年8月31日   石川県   陸軍士官学校(8期)
陸軍大学校(17期歩兵第18旅団となり日露戦争に出征し、さらに第3軍と鴨緑江軍の兵站参謀を歴任
明治42年)1月、歩兵少佐に昇進。同年12月、ドイツ駐在となり、ドイツ大使館付武官補佐官、
大正6年)8月、歩兵大佐に昇進し参謀本部課長に就任。
大正8年)7月、歩兵第37連隊長に着任し、第14師団参謀長、軍務局軍事課長を歴任。
大正11年)8月、陸軍少将に進級し支那公使館付武官となった。
大正14年)5月、歩兵第3旅団長に就任し、1927年(昭和2年)3月、陸軍中将に進み教育総監部付
その後、第4師団長、東京警備司令官を歴任し、昭和7年)2月に待命、翌月、予備役に編入
  原口 初太郎 
 
はらぐち はつたろう

  

   
 
明治9年1月29日 - 昭和24年4月30日)  福岡県   陸軍士官学校(8期)
陸軍大学校(19期)在学中に日露戦争に従軍したため、卒業したのは1907年11月となる。
成績は優等であり、恩賜の軍刀が授与 同期には、荒木貞夫、阿部信行、真崎甚三郎がいる。
1914年、日独戦争において、青島守備軍参謀として青島攻囲軍に参加(青島の戦い)し
1917年8月、陸軍砲兵大佐となり野砲兵第17連隊長を務める。
1921年7月、陸軍少将に昇格してアメリカ大使館附武官として渡米
1925年5月、野戦重砲兵第4旅団長を経て、1926年3月、陸軍中将に昇格し陸軍野戦砲兵学校長に
1928年5月、第5師団長を歴任する。1930年8月、予備役となる。
1932年2月、第18回衆議院議員総選挙において当選し、以後当選4回
  蓮沼 蕃 
 
はすぬま しげる

  
明治16年3月 加賀藩士・宮崎幹の長男として生まれ、蓮沼盤雄の養子となる。
明治36年)11月30日、陸軍士官学校(第15期)を卒業。日露戦争では、騎兵第10連隊附として出征
第10師団副官を経て、1911年(明治44年)11月、陸軍大学校(23期)を卒業した。
参謀本部部員、ドイツ私費留学、イギリス駐在武官、陸軍騎兵実施学校教官を歴任し、
シベリア出兵では浦塩派遣軍参謀として出征。さらに陸大兵学教官、騎兵第9連隊長を経て
昭和6年8月、陸軍少将に任官し、陸軍騎兵学校教育部長、騎兵第2旅団長、騎兵集団長などを歴任
昭和10年、陸軍中将、騎兵監、第9師団長、中部防衛司令官、駐蒙兵団司令官、駐蒙軍司令官を経て
昭和14年)8月には帝国最後となる侍従武官長を拝命。1940年(昭和15年)12月に陸軍大将
翌年開戦の太平洋戦争中も一貫して侍従武官長を務め、終戦後の昭和20年11月、予備役
小笠原方面陸海軍最高指揮官(小笠原兵団長兼第109師団長)・栗林忠道陸軍中将は、
栗林学生が陸大当時に兵学教官であった蓮沼から教わった戦術を基本としていることによる。
  畑 英太郎
 
はた えいたろう

  

  
明治5年7月 会津藩士・警察官、畑能賢の長男として生れる。畑俊六(元帥陸軍大将)は弟
陸軍士官学校入校。1896年5月、7期・歩兵科を首席卒業。翌年1月、陸軍少尉任官。
1903年11月、陸軍大学校(17期)を優等で卒業した。近衛歩兵第2連隊中隊長を経て、
日露戦争には第1軍兵站副官として出征、同兵站参謀、鴨緑江軍兵站参謀、大本営参謀を務める。
1920年8月、陸軍少将に進級。航空局次長、軍務局長を経て、陸軍中将に進級、
陸軍次官、兼軍事調査委員長、第1師団長を歴任した。
1929年7月、関東軍司令官となり、張作霖爆殺事件後において畑の手腕が期待されていた。
しかし、翌年5月1日、陸軍大将に進級後、現役のまま旅順で死去した。
公式には「病死(急性腎臓炎)」と発表されたが、何者かによる毒殺説も存在する。
  坂西 利八郎 
 
ばんざい りはちろう

  

  
1871年2月5日 - 1950年5月30日  和歌山県    陸軍士官学校(2期)
坂西良一砲兵大尉の長男として生まれる
明治28年)2月から翌年3月まで日清戦争に出征
明治29年)11月、陸軍砲工学校高等科を卒業。さらに、明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を優等
参謀本部出仕、参謀本部員、清国差遣、満州偵察、袁世凱顧問などを経て、
明治41年)5月に帰国。欧州出張、野砲兵第12連隊付、野砲兵第9連隊長、
大正6年)8月、陸軍少将に昇進
大正10年)7月、陸軍中将に進級。1923年(大正12年)1月、黎元洪大総統顧問となり、
昭和2年)4月に待命となり予備役に編入
  林仙之
 はやし なりゆき

  


明治10年1月 熊本県上益城郡朝日村(現・山都町)出身。林兼八の二男として生れる。
1897年11月、陸軍士官学校(9期)を卒業、翌年6月、歩兵少尉任官。
日露戦争では歩兵第13連隊中隊長として出征した。後備第1師団副官などを経て、
1908年11月、陸大(20期)を卒業 歩兵第13連隊中隊長、参謀本部員、山口連隊区司令官、
歩兵第3連隊長、陸軍歩兵学校教育部長、欧州出張などを経て、1923年8月、陸軍少将に進級
歩兵第30旅団長、朝鮮軍参謀長、陸士校長などを歴任し、1927年12月、陸軍中将に進級。
教育総監部本部長、第1師団長、東京警備司令官などを経て、1934年3月、陸軍大将に進み
予備役に編入された。1944年5月31日(満67歳没)
  樋口 喜吉 
 ひぐち きよし

  
  
1865年5月9日 - 1934年(昭和9年)7月12日)
幕末の会津藩若松城郭内に生まれる。
陸軍士官学校(旧11期)陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第16連隊付となる
日清戦争に出征後、歩兵第30連隊付大尉。1899年(明治35年)陸軍大学校(16期)
歩兵第5連隊付となり日露戦争開戦を迎え、同連隊第3大隊長として出征した。
第5連隊は第8師団に属し、黒溝台会戦に参戦。戦後功三級に叙せられた
その後は歩兵第23連隊長、第11師団参謀長を経て、大正4年)3月、陸軍少将へ昇進し予備役編入
予備役編入後、光学関係の研究に従事し、特許権や実用新案権を取得した。
  菱刈 隆
 
ひしかり たかし
  
1871年12月27日 - 1952年7月31日)  薩摩藩士  陸軍士官学校(5期)
日清戦争では歩兵第3連隊付として出征した。
明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業
日露戦争では、第1軍参謀として出征した。
歩兵第4連隊長、第2師団参謀長などを歴任
大正7年)7月、陸軍少将に進級し、歩兵第23旅団長、戸山学校長などを経て、
大正12年)8月、陸軍中将に進級。由良要塞司令官、第8師団長、第4師団長、台湾軍司令官などを
昭和4年)8月、陸軍大将に進み、関東軍司令官、軍事参議官、満州国大使などを歴任
昭和10年)8月、予備役に編入
  広瀬 猛
 
ひろせ たけし

  
1882年1月5日 - 1934年7月17日   山梨県    陸軍士官学校(13期)
歩兵少尉に任官され歩兵第34連隊付。日露戦争に従軍。明治38年6月に歩兵第34連隊中隊長、
明治39年(1906年)11月に第17旅団副官、明治41年(1908年)4月に大尉に昇進、
陸軍大学校(22期)、大正12年)8月、歩兵大佐に昇進。大正13年)8月、歩兵第55連隊長となる。
大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵大佐となり、飛行第4連隊長に就任。
昭和3年)8月、陸軍少将に進級。1929年(昭和4年)8月、参謀本部第4部長となる。
昭和7年)4月、所沢陸軍飛行学校長に転じ、同年12月、陸軍中将に進んだ。
昭和8年)3月、陸大校長に就任したが、昭和9年(1934年)7月に現職で死去した。
  久松 定謨
 
ひさまつ さだこと
  
慶応3年9月9日(1867年10月6日) - 昭和18年(1943年)2月19日
静岡の旗本・松平勝実と池田長休の娘の三男として生まれる
1889年)8月、サンシール陸軍士官学校歩兵科を卒業、
明治28年1月、中尉に進級し、北白川宮能久親王が師団長を務める近衛師団副官を命ぜられる。
明治36年(1903年)11月、少佐進級と共に正式な駐在武官に昇格する。
明治44年(1911年)9月6日、大佐に進級し歩兵第3連隊長に就任
大正5年(1916年)8月18日、陸軍少将に進級し歩兵第5旅団長に就任。
大正6年(1917年)8月6日、歩兵第1旅団長に移る
大正9年(1920年)8月10日、待命となり、陸軍中将に進級する。12月1日、予備役編入
  深沢 友彦
 
ふかざわ ともひこ
  
1880年(明治13年)7月20日 - 1970年(昭和45年)8月27日 熊本県
陸軍士官学校(12期)明治34年)6月25日、陸軍歩兵少尉に任官。シベリア出兵では
1924年(大正13年)10月にサガレン州派遣軍歩兵第一大隊長となる
昭和5年)12月、陸軍少将に進み歩兵第33旅団長に就任
昭和9年)12月、陸軍中将に昇進,翌年8月28日予備役
昭和12年)から1939年(昭和14年)まで留守第10師団長,召集解除後は熊本に帰郷する。
  藤井 幸槌
 
ふじい こうつち

  
1864年2月12日(文久4年1月5日) - 1927年4月17日 山口県 陸軍士官学校(旧8期)
陸軍大学校(8期), (明治33年)10月、陸軍少佐に進級し近衛歩兵第4連隊付となった。
明治37年)2月、第12師団兵站参謀長に発令され日露戦争に出征。
第3軍兵站参謀長、鴨緑江軍兵站参謀長を歴任。
明治40年)11月、陸軍大佐に進み歩兵第22連隊長に着任。歩兵第3連隊長、近衛師団参謀長を
明治45年)4月、陸軍少将に進級し歩兵第7旅団長に就任。
大正5年)8月、陸軍中将となり第7師団長を拝命しシベリア出兵に従軍。
大正8年)11月、近衛師団長に就任し、大正11年)2月に待命となり、同年5月、予備役に編入
  古海 厳潮
 
ふるみ いずしお
1865年10月30日(慶応元年9月11日) - 1938年8月7日) 愛媛県 陸軍士官学校(旧9期)
明治24年)11月、陸軍大学校に入学するが、日清戦争開戦のため明治27年)7月に中退。戦後、
陸軍大学校(10期)を優等で卒業
日露戦争に出征。1905年(明治38年)1月、鴨緑江軍参謀となり、奉天会戦などに参戦した。
明治40年)7月、第5師団参謀長に就任し、同年11月、歩兵大佐に昇進
明治42年)11月、第18師団参謀長に移る。明治45年4月、陸軍少将に進級し歩兵第36旅団長となる。
大正5年)4月、朝鮮駐剳憲兵司令官となり、朝鮮総督府警務総長を兼務した。
1916年8月、陸軍中将に進んだ。1918年(大正7年)7月、第17師団長に親補された。
大正10年)7月、予備役編入
  福島 安正
 
ふくしま やすまさ

 
嘉永5年9月 松本藩士・福島安広の長男として生まれる。
明治2年(1869年)、藩主・戸田光則の上京に従い、開成学校へ進み外国語などを学ぶ。
明治6年(1873年)4月、明治政府に仕官し、司法省から文官として明治7年9月に陸軍省へ移る。
明治10年(1877年)の西南戦争では福岡で征討総督府の書記官を務めた。
明治11年(1878年)5月、陸軍士官登用試験に合格し、陸軍中尉となる
明治16年(1883年)2月、陸軍大尉に昇進。同年6月、清国公使館付となる。
明治20年)に陸軍少佐に昇進。ドイツのベルリン公使館に駐在、
明治27年8月、第一軍参謀として日清戦争に出征, 明治28年3月、陸軍大佐に昇進
明治33年(1900年)4月、陸軍少将に進級し西部都督部参謀長を兼務。
明治37年2月、大本営参謀に就任し、同年6月からの日露戦争では満州軍総司令部参謀として
明治39年(1906年)4月、参謀本部次長に就任し、同年7月、陸軍中将に進級。
大正3年(1914年)9月15日、陸軍大将に進級と同時に後備役となり
大正8年(1919年)、東京市高田村(現、豊島区雑司が谷附近)の自宅で死去。67歳
  福田雅太郎 
 ふくだ まさたろう


   
 
慶応2年5月:大村藩士・福田市兵衛の二男として現在の長崎県大村市で生まれる。
1887年7月、陸軍士官学校(旧9期)を卒業し、歩兵少尉任官、歩兵第3連隊付となる。
1893年11月、陸軍大学校(9期)を卒業。
日清戦争には第1師団副官として出征。参謀本部第2局員、ドイツ留学、参謀本部員(班長)、
兼陸大教官、兼大山巌元帥副官、オーストリア公使館付を経て、
日露戦争に第1軍参謀(作戦主任)として出征した。開戦前は、田中義一、秋山真之らとともに
対露早期開戦派であった。第1軍参謀副長、第3師団参謀長、オーストリア公使館付、参謀本部課長、
歩兵第38連隊長、歩兵第53連隊長などを歴任し、1911年9月、陸軍少将に進級。
歩兵第24旅団長、関東都督府参謀長、参謀本部第2部長、中国出張などを経て、
1916年5月、陸軍中将となる。欧州出張、第5師団長、参謀本部次長、台湾軍司令官などを歴任し、
陸軍大将に進級した。
  古荘 幹郎 
 
ふるしょう もとお

  
明治15年9月 熊本県出身。古荘幹之陸軍大尉の長男として生れる。
陸軍幼年学校を経て、1902年11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、翌年6月、歩兵少尉任官。
日露戦争では、近衛歩兵第4連隊付として出征し、戦傷を受けた。
1909年12月、陸軍大学校(21期)を首席で卒業。参謀本部員、ドイツ大使館付武官補佐官、
参謀本部員(編制班長)兼山縣有朋元帥副官、参謀本部課長、近衛歩兵第2連隊長、
陸軍省軍事課長などを歴任。1928年8月、陸軍少将に進級するが、脳溢血の発作を起こし
同第1部長などを経て、1933年3月、陸軍中将となった。
第11師団長を経て、陸軍次官となるが、二・二六事件発生により、航空本部付となる。
さらに航空本部長、台湾軍司令官、第5軍司令官、第21軍司令官となる。
1938年9月、広東攻略戦に出動、海軍の第五艦隊と共同して、10月12日、バイアス湾に上陸し、
10月21日、広州に入城した。1939年5月、陸軍大将に進級。軍事参議官を勤めたが、
1940年7月21日(満47歳没)現職で死去した。
  本郷 房太郎
 
ほんごう ふさたろう  
  
万延元年1月 篠山藩士・剣術指南・本郷貫之助の長男として生まれる
明治10年5月、陸軍士官学校に入る。明治12年)12月に卒業し、陸軍歩兵少尉に任官される。
士官生徒第3期の同期には上原勇作元帥や秋山好古大将らがいる。
明治28年)6月、少佐進級と共に留守第4師団参謀を命ぜられる。
明治32年)9月、歩兵中佐に進級する。明治35年)5月、歩兵第42連隊長を補職される。
同11月、歩兵大佐に進級、(明治37年)5月、日露戦争に出征する。
明治38年)7月18日、陸軍少将に進み俘虜情報局長官兼陸軍省高級副官事務取扱に、
明治45年)4月、陸軍中将に進級、1913年(大正2年)5月、陸軍次官となる。
大正3年)4月、第17師団長に親補され、同年11月30日、勲一等瑞宝章受章。
大正5年)8月、第1師団長に移る。1917年(大正6年)8月、青島守備軍司令官に進み、
大正7年)7月、陸軍大将に進級する。同年10月10日の軍事参議官、大正10年)6月、予備役編入
昭和6年(1931年)3月20日没 
  星野 庄三郎 
 
ほしの しょうざぶろう

  
1869年6月15日 - 1931年月22日   新潟県    陸軍士官学校(2期)
明治33年)12月陸軍大学校(14期)を卒業。陸軍省軍務局軍事課勤務となる。
日露戦争に満州軍総司令部参謀として出征。
明治41年)12月、工兵第18大隊長となり、1910年(明治43年)11月、工兵大佐に昇進。
大正5年)8月、陸軍少将に進級し参謀本部第3部長に着任。
大正8年)7月、野戦交通部長に異動し、同年11月、陸軍中将に進んだ。
大正11年)2月、航空局長官に発令され、同年11月、第9師団長に親補された。
大正14年)5月に待命、そして予備役に編入
  堀 丈夫
 ほり たけお
1881年7月2日 - 1952年4月4日)   奈良県    陸軍士官学校(13期)
明治35年)6月、騎兵少尉に任官され、騎兵第4連隊附を命ぜられる。
明治37年)5月から日露戦争に出征する。同年8月に中尉へ進級
大正9年)8月から航空第2大隊附を命ぜられ、1921年(大正10年)には4月に騎兵中佐に進級
の後12月に陸軍航空部員に就任。1923年(大正12年)6月23日に飛行第6大隊長に進み、
同年7月には留守航空兵団長に補される。1924年(大正13年)2月4日に騎兵大佐に進級
大正14年)5月1日に新設の航空兵科へ転科する。
昭和4年)8月1日から陸軍少将・下志津陸軍飛行学校教育部長を命ぜられる。
昭和8年)8月1日に陸軍中将へ進級し、同年12月20日から所沢陸軍飛行学校長を命ぜられる。
昭和10年)12月2日、第1師団長に親補される。昭和11年3月23日に待命、同年7月6日に予備役編入
昭和12年)7月15日に召集を受け留守航空兵団司令官を命ぜられる。
昭和13年)6月30日に召集解除
  堀内 文次郎 
 ほりうち ぶんじろう

  
  
1863年10月29日) - 1942年3月14日)  松代藩(長野)  陸軍士官学校(旧7期)
台湾総督府副官、陸軍省軍務局出仕などを歴任。1900年(明治33年)4月、歩兵少佐に昇進し
参謀本部副官に就任
日露戦争では1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)12月まで大本営陸軍部副官を兼務
後方支援を担当。この間、1904年8月、歩兵中佐に進級。
1906年7月、第13師団歩兵第58連隊長(新潟県高田)に就任。
明治40年)11月、歩兵大佐に昇進。明治44年)9月、陸軍少将に進級し歩兵第23旅団長に就任
第一次世界大戦において青島の戦いに出征。1916年(大正5年)5月、陸軍中将に進む
むと同時に待命となり、同年8月、予備役に編入
  堀内 文次郎 
 ほりうち ぶんじろう

  
  
1863年10月29日) - 1942年3月14日)  松代藩(長野)  陸軍士官学校(旧7期)
台湾総督府副官、陸軍省軍務局出仕などを歴任。1900年(明治33年)4月、歩兵少佐に昇進し
参謀本部副官に就任
日露戦争では1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)12月まで大本営陸軍部副官を兼務
後方支援を担当。この間、1904年8月、歩兵中佐に進級。
1906年7月、第13師団歩兵第58連隊長(新潟県高田)に就任。
明治40年)11月、歩兵大佐に昇進。明治44年)9月、陸軍少将に進級し歩兵第23旅団長に就任
第一次世界大戦において青島の戦いに出征。1916年(大正5年)5月、陸軍中将に進む
むと同時に待命となり、同年8月、予備役に編入
  本庄 繁
 
ほんじょう しげる

    
明治9年)5月 本庄常右衛門の長男として生まれる。生家は農家であった。
明治30年)11月、士官学校(9期)を卒業する。明治31年)6月に陸軍歩兵少尉に任官
明治33年)11月、中尉に進級し陸軍士官学校生徒隊附となり、
明治35年)8月から陸軍大学校(19期)に入校するが、1904年(明治37年)2月、日露戦争を理由に
中退となり同年4月、歩兵第20連隊中隊長に任ぜられ5月から出征する。
同6月、戦地に於いて大尉に進級し、10月に戦傷。11月に帰還
明治42年)5月、少佐に進級し、1913年([大正]]2年)1月に内地に戻り参謀本部支那課員となる。
大正7年)6月10日、大佐に進級して参謀本部支那課長となる。
大正8年)4月1日、歩兵第11連隊長に移り、同年8月からシベリア出兵に参加。
大正11年)8月少将に進級、1924年(大正13年)8月には歩兵第4旅団長に進む。
昭和2年)3月、中将に進み、1928年(昭和3年)2月には第10師団長に親補される。
昭和6年)8月、関東軍司令官に進み、翌年8月8日に軍事参議官となる。
昭和8年3月勲一等瑞宝章を受章、4月から侍従武官長となり、6月には陸軍大将に親任される。
(昭和11年)3月、待命となり翌4月に予備役編入
昭和13年)4月に新設の傷兵保護院総裁、1939年(昭和14年)7月から軍事保護院総裁となり、
昭和20年)11月、GHQから逮捕令が下る。
本庄は11月20日、陸軍大学校内の補導会理事長室で割腹自決
  星野 金吾
 
ほしの きんご

    
文久3年11月 新潟県出身 明治13年1月、陸軍士官学校に入学。明治15年12月、砲兵少尉任官。
明治17年)7月、陸軍士官学校(旧5期)を卒業。
明治23年)12月、陸軍大学校(6期)を首席で卒業、日清戦争に第3師団参謀として出征。
(明治34年)2月、第1師団参謀長に就任し、1902年(明治35年)12月、砲兵大佐に昇進。
明治40年)11月、陸軍少将に進級し関東都督府参謀長となる
同月、陸軍中将に進んだ。1916年(大正5年)8月、第17師団長に親補された。
大正7年)7月、待命となり、1919年(大正8年)4月、予備役に編入された
  本多 道純
 ほんだ みちずみ

  
文久元年6月江戸出身 (明治13年)1月に陸軍士官学校(旧5期)に入校
日清戦争に第4師団騎兵第4大隊長として出征。明治31年)10月、騎兵第4連隊長に就任。
明治33年)4月、陸軍省軍務局騎兵課長に転じ、明治34年)11月、騎兵大佐に昇進。
明治36年)6月、騎兵第16連隊長に発令され日露戦争に従軍
明治39年)2月、陸軍少将に進み騎兵第1旅団長に就任。騎兵第3旅団長を経て、
明治44年)6月、軍馬補充部本部長となる。大正元年)9月、陸軍中将に昇進し、
大正3年)5月、予備役に編入された
  松江 豊寿
 
まつえ とよひさ
  
1872年7月11日 - 1956年5月21日)  会津若松   陸軍士官学校(5期)
明治37年)には韓国駐剳軍司令官長谷川好道大将の副官を任ぜられる。
明治40年)に浜松の歩兵第67連隊附少佐に昇任、
明治41年)には第67連隊大隊長、1911年(明治44年)に第7師団副官と順調に昇進を重ねる。
日清・日露戦争にも従軍した彼は1914年(大正3年)1月には陸軍歩兵中佐となり、
1922年2月、陸軍少将となり軍を去った松江は、同年12月に第9代若松市長となる。
  松本 鼎
 
まつもと かなえ

  
1856年2月10日(安政3年1月5日) - 1928年1月23日)  島根県  陸軍士官学校(旧2期)
明治12年2月 砲兵少尉任官。 1901年(明治34年)2月、野戦砲兵第12連隊長に就任。
明治35年)11月、砲兵大佐に昇進、明治37年)2月、第1軍砲兵部長に発令され日露戦争に出征。
明治39年)7月、野戦砲兵第10連隊長に異動し
明治40年)11月、陸軍少将に進級し野戦砲兵第3旅団長となった。
明治45年)7月、野戦砲兵第1旅団長に発令され、1913年(大正2年)7月、陸軍中将に進み
東京湾要塞司令官に就任した。1914年(大正3年)5月に待命となり、同年8月、予備役に編入
  町田 経宇
 
 まちだ けいう
(慶応元年9月 鹿児島県日置郡伊集院町で井尻仲左衛門の二男として生れ、
領事町田実一の養嗣子となる。
司法省法学校を経て、1887年7月、陸軍士官学校(旧9期)を卒業し、陸軍少尉任官。
1893年11月、陸軍大学校(9期)を卒業した。日清戦争に出征し、
1895年3月歩兵第10旅団副官となる。参謀本部第1部員、ウラジオストク駐在、ロシア差遣などを歴任
日露戦争では、第4軍参謀として出征した。フランス大使館付、参謀本部課長、歩兵第48連隊長、
第15師団参謀長などを経て、1912年3月、陸軍少将に進級し、、歩兵第30旅団長、
1916年8月、陸軍中将となり、第11師団長、第4師団長、サガレン州派遣軍司令官を歴任。
1922年5月、陸軍大将となり、軍事参議官を勤め、1925年5月に予備役に編入され、
  眞崎 甚三郎
 
まさき じんざぶろう

   
明治9年)11月 中農の真崎要七の長男として佐賀県に生まれた
1896年9月に陸軍士官学校に入学した。陸士第9期卒後に陸軍大学校に入学したが日露戦争が
発生したため歩兵第46連隊中隊長として従軍した。
1907年に陸大第19期を恩賜の軍刀を拝領し卒業した。首席卒業の荒木貞夫の他、阿部信行、
大正7年)1月18日 - 大佐に進級
大正10年)7月20日 - 近衛歩兵第1連隊長
(大正11年)8月15日 - 少将に進級。歩兵第1旅団長 、大正15年)3月2日 - 陸軍士官学校校長
昭和2年)3月5日 - 中将に進級、8月26日 - 第8師団長、昭和4年)7月1日 - 第1師団長
昭和6年)8月1日 - 台湾軍司令官、 昭和7年)1月7日 - 参謀次長。特に親任官の待遇を賜う
(昭和8年)6月19日 - 陸軍大将に親任される。軍事参議官
昭和9年)1月23日 - 教育総監 兼 軍事参議官
昭和11年)3月10日 - 予備役編入
太平洋戦争終戦後の1945年11月19日に、真崎はA級戦犯として逮捕命令を受け、
戦犯については太平洋戦争総覧を参照
1956年(昭和31年)8月31日、死去
  松井 石根
 
まつい いわね

  
明治11年7月 旧尾張藩士松井武国、ひさの六男として生まれた。
明治30年)11月 - 陸軍士官学校卒業(9期)。
明治33年)11月 - 中尉に昇進
明治37年)2月 - 歩兵第6連隊中隊長、4月 - 日露戦争に従軍(~1906年1月)。
明治39年)11月 - 陸軍大学校卒業(18期恩賜)。
大正7年)7月24日 - 大佐に昇進
大正8年)2月20日 - 歩兵第39連隊長
大正12年)3月17日 - 少将に昇進
大正8年)2月20日 - 歩兵第39連隊長
昭和2年)7月26日 - 中将に昇進
昭和4年)8月1日 - 第11師団長
昭和8年)3月18日 - 軍事参議官 、8月1日 - 台湾軍司令官、10月20日 - 陸軍大将に昇進
昭和12年)8月15日 - 召集。上海派遣軍司令官(~12月1日)。
太平洋戦争総覧参照  昭和23年12月23日に巣鴨プリズン内で処刑(絞首刑)が執行された。
  松川 敏胤 
 
まつかわ としたね

  
   
 
安政6年11月 仙台藩士・松川安輔の長男として生まれる。
陸軍士官学校で学び、明治15年(1882年)12月25日、陸士を卒業し陸軍歩兵少尉に任官
陸軍大学校に進み、明治20年12月、外6名の卒業生と共に第3期で卒業、優等の成績を修める。
明治34年(1901年)11月3日に陸軍大佐に進級。
明治37年(1904年)6月20日から臨時編成の満州軍作戦参謀として日露戦争に出征
同38年(1905年)1月30日、陸軍少将に進級する。明治41年12月21日、歩兵第6旅団長に移り、
1912年)2月14日、第10師団長に進み、同2月24日をもって陸軍中将に進級する。
大正3年8月第16師団長に移り、同5年8月18日には東京衛戍総督に就任する。陸軍大将
  松川 敏胤 
 
まつかわ としたね
 
    
安政6年11月 仙台藩士・松川安輔の長男として生まれる。
陸軍士官学校で学び、明治15年(1882年)12月25日、陸士を卒業し陸軍歩兵少尉に任官
陸軍大学校に進み、明治20年12月、外6名の卒業生と共に第3期で卒業、優等の成績を修める。
明治34年(1901年)11月3日に陸軍大佐に進級。
明治37年(1904年)6月20日から臨時編成の満州軍作戦参謀として日露戦争に出征
同38年(1905年)1月30日、陸軍少将に進級する。明治41年12月21日、歩兵第6旅団長に移り、
1912年)2月14日、第10師団長に進み、同2月24日をもって陸軍中将に進級する。
大正3年8月第16師団長に移り、同5年8月18日には東京衛戍総督に就任する。陸軍大将
  松木 直亮
 
まつき なおすけ

  

  
明治9年11月 山口県出身。松木一郎の長男として生れる。
1898年11月、陸軍士官学校(10期)を卒業し、翌年6月、陸軍少尉任官。
日露戦争では、歩兵第1連隊中隊長として出征し戦傷を受けた。
日露戦争のため中退した陸軍大学校に復校し、1907年11月、陸大(19期)を卒業。
参謀本部員兼乃木希典軍事参議官副官、ドイツ大使館付武官補佐官、陸軍歩兵学校教官、
1923年8月、陸軍少将に進級。台湾第1守備隊司令官、陸軍省整備局長を歴任し、
1927年12月、陸軍中将に進級し、第14師団長などを歴任。
1933年12月、陸軍大将に進み待命、翌年1月に予備役編入となった。
  南次郎 
 
みなみ じろう

  
明治7年)8月 大分県 明治21年)4月、東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)入学
明治28年)2月 - 陸軍士官学校卒業(6期)。明治30年)10月 - 中尉に昇進。騎兵第6大隊附
明治33年)11月 - 大尉に昇進
明治36年)11月 - 陸軍大学校卒業(17期)。
明治37年)3月 - 日露戦争に出征(~12月)。
明治38年)3月 - 少佐に昇進。第13師団参謀
明治39年)9月 - 関東都督府陸軍参謀
明治43年)2月 - 中佐に昇進
大正3年)1月20日 - 騎兵第13連隊長
大正4年)8月10日 - 大佐に昇進
大正8年)7月25日 - 少将に昇進。支那駐屯軍司令官
大正10年)1月20日 - 騎兵第3旅団長
大正13年)2月4日 - 中将に昇進
大正15年)3月2日 - 第16師団長
昭和2年)3月5日 - 参謀次長
昭和4年)8月1日 - 朝鮮軍司令官
昭和5年)3月7日 -
陸軍大将に昇進
昭和6年)4月14日 - 第22代陸軍大臣
昭和9年)12月10日 - 関東軍司令官兼駐満州国大使
昭和11年)4月22日 - 予備役編入
8月5日 - 第8代朝鮮総督
  溝口 直亮
 みぞぐち なおよし
1878年4月11日 - 1951年12月14日  新潟    陸軍士官学校(10期)
旧新発田藩主・溝口直正の長男として生れる。
1902年12月、陸軍砲工学校高等科を卒業
日露戦争では野砲兵第11連隊副官として出征し、遼東守備軍副官、旅順要塞副官を歴任。
陸軍大学校(20期)を優等  陸軍省軍務局課員、ドイツ・オーストリア駐在
野砲兵第3連隊長などを経て、1923年8月、陸軍少将に進級し待命となり、翌月、予備役に編入
  三ツ木 秀治 
 
みつぎ ひではる
  
1879年9月30日 - 1952年1月15日  福島県    陸軍士官学校13期
日露戦争に出征し、輜重兵第8大隊附、技術審査官、自動車隊附、陸軍省砲兵課員、
仙台輜重兵大隊長、陸軍自動車学校教育部長などを歴任。
昭和5年)3月6日、陸軍少将へ昇進し同月25日に予備役
  宮田 太郎
 
みやた たろう

    
1864年(元治元年3月) - 1945年10月26日)    静岡県   陸軍士官学校(旧8期)
明治37年)9月、第1軍、第12師団隷下の野砲兵第12連隊長に就任し日露戦争に出征。
沙河会戦後の1904年11月、野砲兵第5連隊補充隊長に発令され帰還した。
1904年12月、臨時台湾兵器製造所長に就任し、1905年(明治38年)3月、砲兵大佐に昇進。
明治45年)4月、陸軍少将に進級
大正2年)8月、東京砲兵工廠提理に就任
大正5年)8月、陸軍中将に進んだ。1920年(大正9年)8月、陸軍技術本部長となり
大正10年)5月、予備役編入
  武川 壽輔
 
むがわ じゅすけ

  
  
1877年(明治10年)11月15日 - 1939年(昭和14年)2月12日   福島県
陸軍士官学校(9期)、陸軍大学校在学中に歩兵第二十七連隊の中隊長として日露戦争に出征
旅順攻囲戦に加わり203高地の攻防戦で負傷している。陸軍大学校(18期)を卒業
歩兵第3連隊の連隊長に就任する。部下に秩父宮雍仁親王がいた。第20師団参謀長を経て
大正12年)8月6日陸軍少将へ昇進するとともに歩兵第39旅団長となり、翌年予備役編入
  向西 兵庫
 
むこうにし ひょうご
  
1868年1月12日(慶応3年12月18日)- 没年不詳  広島県   陸軍士官学校(4期)
明治27年)3月、歩兵少尉に任官。日清戦争に出征。 陸軍大学校(15期)を優等で卒業
日露戦争では大本営兵站総監部参謀として出征。後、ドイツ駐在を経験した。
大正元年11月、歩兵大佐に昇進。
大正6年)8月、陸軍少将に進級し青島守備歩兵隊司令官として山東省青島に赴任。
大正9年)8月、歩兵第2旅団長となる。大正11年8月、陸軍中将に進み、第11師団長に親補された
大正15年)3月に待命となり、予備役に編入
  村岡 長太郎
 
むらおか ちょうたろう

  
  
明治4年11月1日 - 昭和5年8月19日  佐賀県   陸軍士官学校5期生
日露戦争では第二師団参謀として出征した。当時の第二師団長は西島助義。
明治38年)5月 陸軍少佐
大正2年)11月 陸軍大佐・歩兵第29連隊長
大正7年)7月 陸軍少将。教育総監部附(臨時軍事委員長)
大正12年)8月 陸軍中将・第4師団長
昭和2年)8月 関東軍司令官
昭和3年6月 張作霖爆殺事件(昭和3年、6月4日、中華民国・奉天(現瀋陽市)近郊で、日本の関東軍によって
                       奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された事件
  森岡 守成
 
もりおか もりしげ

  

  
1869年9月14日 - 1945年4月28日  山口県出身   陸軍士官学校(2期)
騎兵少尉任官。日清戦争には騎兵第4大隊小隊長として従軍した。
1899年12月に陸軍大学校(13期)を優等、騎兵第9連隊中隊長、陸大教官などを歴任。
日露戦争には、第5師団参謀として出征し、騎兵第1旅団参謀、大本営幕僚を勤めた。
騎兵第16連隊長、陸軍騎兵実施学校長、参謀本部課長、青島守備軍参謀長などを歴任。
1916年5月、陸軍少将に進級、軍馬補充部本部長、騎兵監を歴任し、
1919年7月、陸軍中将に進級。第12師団長、近衛師団長、軍事参議官を歴任し、
1926年3月、陸軍大将を拝命し、朝鮮軍司令官、軍事参議官を経て、1927年9月、予備役に編入
  両角 三郎
 
 もろずみ さぶろう
1867年11月27日) - 1951年)6月28日) 会津藩   陸軍士官学校を卒業(1期)
日清戦争、日露戦争に従軍し、歩兵第60連隊長、近衛歩兵第4連隊長を経て、
大正5年)8月少将へ昇進し、台湾第二守備隊司令官、歩兵第18旅団長を歴任した。
大正10年)6月 陸軍中将へ昇進と同時に待命となり、同年10月予備役編入となる。
  柳川 平助
 
やながわ へいすけ
  

   
1879年10月2日 - 1945年1月22日   長崎県   陸軍士官学校(12期)
中尉で日露戦争に従軍。1912年に陸軍大学校(24期)を優等で卒業
陸軍騎兵実施学校教官、陸軍大学校教官を経て、1918年に北京陸軍大学校に教官として着任。
荒木貞夫陸軍大臣の下で1932年に陸軍次官、真崎甚三郎らと皇道派の重鎮となる。
1934年に第一師団長となるが、荒木・真崎の力が衰えた1935年に台湾軍司令官に追いやられる。
1936年の二・二六事件の後に予備役編入
最終階級は陸軍中将。司法大臣、国務大臣
  山岡 重厚
 
やまおか しげあつ

  
1882年11月17日 - 1954年3月27日) 高知県 陸軍士官学校(15期)
旧土佐藩士・山岡重劼の三男として東京で生まれる。
歩兵少尉に任官し歩兵第22連隊付となる。日露戦争に出征し、明治37年)5月に戦傷を受けた。
陸軍大学校(24期)
歩兵第22連隊中隊長、陸士教官、第3師団参謀、教育総監部課員、近衛歩兵第1連隊大隊長、
歩兵第22連隊長を歴任。
昭和6年8月1日、陸軍少将に進み、歩兵第1旅団長に就任、いわゆる皇道派の中心人物の一人と
見なされることになる。昭和7年)2月、陸軍省軍務局長に抜擢する。
昭和10年)8月1日、陸軍中将となるが8月12日、皇道派としてシンパシーのあった相沢三郎中佐が、
真崎教育総監の更迭に怒り、局長室に山岡を訪ねたその足で軍務局長室に向かい、
永田局長を斬殺する事態となる(相沢事件)。
この事件の責任を取って、林銑十郎陸相以下、陸軍首脳部の交代が行われ、
同年12月、山岡も中央から追われ、第9師団長に親補された。
その後、参謀本部付などを経て、二・二六事件後の粛軍人事で昭和12年)3月29日、予備役に編入
しかし、1937年(昭和12年)8月26日に召集を受け第109師団長に就任、華北地方を転戦する。
昭和14年)1月1日に召集解除となる。
太平洋戦争末期、1945年(昭和20年)4月1日、再度召集を受け善通寺師管区司令官に就任、
善通寺師管区司令部が四国軍管区司令部に改称されたことに伴い、同年6月10日には
四国軍管区司令部付となり終戦を迎え、12月に召集解除された。
刀剣鑑定の権威であり、中央刀剣会の審査員をつとめる。また刀剣収集家としても知られていた。
  山梨 半造
 
やまなし はんぞう

  
元治元年3月:相模国大住郡(現在の神奈川県平塚市下島)にて山梨安兵衛の二男として出生
明治18年)6月、陸軍士官学校(旧8期、士官生徒8期)を卒業、歩兵少尉に任官し歩兵第5連隊付
明治24年)12月、陸軍大学校(8期)を卒業、恩賜の軍刀を拝受した。
日清戦争に歩兵第4旅団副官として出征し歩兵第5連隊中隊長、第2軍副官、歴任し帰国した。
日露戦争時には第2軍参謀として出征し同軍参謀副長、第3師団参謀長を歴任した。
オーストリア公使館付、ドイツ大使館付、陸大幹事、歩兵第51連隊長などを経て
明治44年)9月、陸軍少将に進級。歩兵第30旅団長、歩兵第1旅団長、参謀本部総務部長
などを歴任し第一次世界大戦において独立第18師団参謀長として青島に出征、
その軍功により功二級を賜る。教育総監部本部長などを経て大正5年5月、陸軍中将に昇進し
陸軍次官、兼航空局長官を歴任。
大正10年)10月、原内閣の陸軍大臣となり同年12月に陸軍大将に進級し高橋内閣・
加藤友三郎内閣にも留任。
軍事参議官を経て、関東大震災に伴い福田雅太郎司令官の後任として関東戒厳司令官に就任した。
  山口 勝
 
やまぐち かつ
文久2年1月 江戸出身。幕臣(維新後沼津勤番組)・山口千造の二男として江戸で生まれる。
明治6年)3月、陸軍幼年学校に入り、1879年(明治12年)1月、陸軍士官学校に進む。
明治14年)12月24日、士官学校を卒業し、同日砲兵少尉に任官され山砲兵第1大隊付を命ぜられる
明治18年)5月、砲兵中尉に進み、明治19年)3月、参謀本部第3局第2課員を命ぜられる。
明治22年)4月、砲兵大尉進級と共に野砲兵第4連隊中隊長を拝命する。
同年中にイタリアに留学し1893年(明治26年)3月帰国する。
明治27年)7月から臨時東京湾守備隊参謀に移る。同年9月、砲兵少佐に進み、
明治28年)、臨時徒歩砲兵連隊大隊長に,日清戦争に出征。同年、由良要塞砲兵大隊長に転じた。
明治30年)7月からフランスに駐在し、1899年(明治32年)10月28日、砲兵中佐任官と共に
陸軍要塞砲兵射撃学校長に就任する。
明治35年)11月15日、砲兵大佐に進級する。1907年(明治40年)11月13日、陸軍少将に進み
野戦重砲兵第1旅団長を命ぜられ、1912年(大正元年)9月28日、重砲兵監を拝命する。
大正2年)7月3日、陸軍中将に進級し、1914年(大正3年)8月8日、第10師団長に親補される。
大正5年)8月18日、第16師団長に移り、1917年(大正6年)8月6日から待命となるが
大正7年)2月、教育総監部附を命ぜられる。1919年(大正8年)4月1日には予備役編入となる。
  山田 良水
 
やまだ よしみ

  
文久元年12月 高知城下大川筋に土佐藩士・山田嘉周の次男として生まれた。
明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、歩兵少尉任官。
明治24年)11月、陸軍大学校に入学したが、日清戦争出征のため中退。戦後に復校し、
明治29年)3月、陸大(10期)を卒業した。
日露戦争には第11師団参謀として出征し、歩兵第19連隊長に転じ旅順攻囲戦、奉天会戦に参加
明治40年)5月、歩兵第44連隊長に就任し、同年11月、歩兵大佐に昇進。
大正元年)11月、陸軍少将に進級し歩兵第35旅団長に着任。
大正2年)9月、歩兵第24旅団長に転じ、第一次世界大戦の青島の戦いに出征した。
大正6年)8月、陸軍中将に進むと同時に待命となり、同年12月、予備役編入となった。
  山田 隆一
やまだ りゅういち

  
慶応4年7月 山口県出身。山田貢四郎の二男として生まれる。
1888年7月28日に陸軍士官学校(旧10期)を卒業し、陸軍少尉に任官。
1891年11月、陸軍大学校に入学したが、日清戦争出征のため中退。戦後に復校し、
1896年3月、陸大(10期)を優等で卒業した。
日露戦争に第2軍参謀として出征。その後、軍務局課員、近衛歩兵第3連隊長、陸軍省副官、などを
1911年9月、陸軍少将に昇進。歩兵第11旅団長、陸軍歩兵学校長、軍務局長、陸軍次官などを歴任し
1916年8月、陸軍中将に進んだ。1918年10月、第5師団長に就任したが、翌年3月に現職で死去した。
 山室 宗武
やまむろ そうぶ
1880年10月21日 - 1963年10月31日   熊本県   陸軍士官学校(14期)
野砲兵第18連隊付となる。翌年、日露戦争に出征
陸軍野戦砲兵射撃学校教官、同校教導大隊中隊長、野戦砲兵監部員、野砲兵第14連隊大隊長
陸軍野戦砲兵学校教導連隊大隊長、同校教官、欧州出張、野戦重砲兵第8連隊長、
1932年4月、陸軍少将に進級。陸軍技術本部員、技術本部第3部長、野戦砲兵学校幹事
同校長などを歴任し、1936年3月、陸軍中将となった。砲兵監、第11師団長、陸士校長を勤め、
1941年1月、予備役に編入されたが、1943年2月、召集を受け教育総監部付となり、
野戦砲兵学校長、砲兵監、陸士校長、砲兵監を歴任し、1945年9月、召集解除となった
 矢野目 孫一
やのめ まごいち
  
1870年6月9日 - 1961年1月12日   大分県    陸軍士官学校(2期)
明治33年)12月、陸軍大学校(14期)を卒業。第12師団参謀に就任。
日露戦争に第4軍参謀として出征。1908年(明治41年)12月、参謀本部要塞課長に就任し、
明治43年)11月、工兵大佐に昇進
大正2年)8月、第7師団参謀長に異動。大正5年)1月、陸軍少将に進級し陸地測量部長に就任
大正8年)7月、陸軍中将に進み、東京湾要塞司令官に着任。
大正9年)8月に待命、同年12月、予備役に編入
  由比 光衛
  
ゆひ みつえ

  
万延元年10月 土佐藩士、由比光索の長男として生れる。土佐海南私塾を経て、
1882年12月、陸軍士官学校(旧5期)を卒業し、陸軍少尉任官。
1891年11月、陸軍大学校(7期)を首席で卒業した。陸士教官、大本営参謀を歴任し、
日清戦争では第2軍参謀として出征した。1895年から1899年までイギリスに留学し、
その後、西部都督部参謀、臨時清国派遣隊参謀、第5師団参謀、参謀本部2部欧州班長などを歴任
日露戦争では、第2軍参謀副長として出征したが、同軍参謀長落合豊三郎少将と対立し、
奉天会戦直前に第8師団参謀長に転出し参戦した。
1909年5月、陸軍少将に進級し歩兵第27旅団長、参謀本部第1部長を務め、
1914年5月、陸軍中将となり、陸大校長、第15師団長、近衛師団長を歴任。シベリア出兵では、
浦塩派遣軍の参謀長を務めた。その後、青島守備軍司令官を経て、
1919年11月、陸軍大将となり、軍事参議官を務め1923年に予備役に編入された。
1925年9月18日(満64歳没)
 吉橋 徳三郎
 
よしはし
  とくさぶろう
明治3年11月 愛知
陸軍士官学校に士官候補生2期として入校し、1892年(明治25年)に卒業した。
日清戦争では、騎兵第6大隊の小隊長として従軍し、功五級金鵄勲章を受けた。
その後、陸軍大学校を卒業。日露戦争時には、少佐で第3師団作戦主任参謀を務め、
日露戦争後は、第7師団参謀長、陸軍騎兵学校長などを歴任。
大正5年)8月18日、陸軍少将に昇進し騎兵第4旅団長に就任した
第一次世界大戦後に日本陸軍で騎兵の乗馬戦闘廃止論争が生じた際、騎兵科を代表して
乗馬戦闘存続を主張したが、論争の末に自殺した。最終階級は陸軍少将。
1920年8月5日(満49歳没) 中将へ死後進級させることも検討されたが、遺族が断った。
  吉田 豊彦
 
よしだ とよひこ

  
明治6年11月 薩摩藩士・大坂蔵屋敷詰吉田信之助の長男として生まれる。
明治27年)7月27日陸軍士官学校(45期)を優等で卒業
明治30年)1月、陸軍砲工学校に入校する。同年10月砲兵中尉に進み、同12月在校中のまま
由良要塞砲兵連隊付を命ぜられる。砲工学校高等科に進み、明治31年)12月、高等科第6期を
成績優等で卒業する。砲兵・工兵科の将校は陸軍大学校に進まない場合が多く、
陸軍砲工学校に進み専門技術を学び、成績優秀者には特に高等科への進級が認められた。
高等科の優等卒は後の昇級で陸軍大学校の優等卒(所謂恩賜の軍刀組)に準ずる扱いを受けた。
明治32年)8月、陸軍要塞砲兵射撃学校に入り、同年12月には軍事研究のためドイツ駐在員と
として留学する。1900年(明治33年)11月、砲兵大尉に進み、明治35年)11月帰朝。帰国
明治37年)5月、攻城砲兵司令部員として日露戦争に出征し、
明治38年)1月、独立重砲兵旅団司令部員に移る。同年3月に帰還し、砲兵少佐に進級
明治41年)12月、再び陸軍省副官兼陸軍大臣秘書官に就き、1909年(明治42年)6月、砲兵中佐
大正4年)8月10日、砲兵大佐に進み陸軍省兵器局銃砲課長を拝命する。
大正8年)1月31日、重砲射撃学校長に就き、同年7月25日、陸軍少将に進級する。
大正13年)2月4日、陸軍中将に進級し陸軍造兵廠長官を補される。
昭和3年)3月8日には鈴木孝雄中将の後を受けて陸軍技術本部長に就任する。
昭和5年)3月7日、陸軍大将に進み、同年4月22日勲一等瑞宝章受章。
昭和6年)8月1日待命、同8月29日予備役編入となる。1951年(昭和26年)1月10日薨去。
 渡辺 錠太郎
 
わたなべ
  じょうたろう

  
明治7年4月 愛知 家庭が貧しかったために、小学校を中退している。
1895年7月陸軍士官学校入校(8期)
1896年11月陸軍士官学校卒業
1903年12月陸軍大学校(17期)卒業、歩兵36連隊中隊長及び大尉
1904年7月より9月日露戦争に出征、負傷4
1920年8月歩兵第29旅団長及び少将
1925年5月陸軍大学校校長及び中将
第7師団長、航空本部長、台湾軍司令官等を歴任
1931年8月軍事参議官兼航空本部長・陸軍大将に進級  1935年7月陸軍教育総監
1936年2月26日二・二六事件で杉並区上荻窪の自邸で殺害される。1936年2月26日(満61歳没)
 
 渡辺 岩之助
わたなべ い
 わのすけ
1867年(慶応3年12月) - 没年不詳  山口県    陸軍士官学校(旧10期)
明治25年)11月、陸軍砲工学校高等科(1期)を優等
日露戦争に第1軍管理部長として出征。
明治40年)1月、陸軍大臣秘書官に就任し寺内正毅大臣に仕える。
明治41年)12月、砲兵大佐に昇進し重砲兵第1連隊長となる。
大正3年)5月、陸軍少将に進級し広島湾要塞司令官に就任。
大正4年)5月、重砲兵第1旅団長    大正7年)7月、陸軍中将に進み由良要塞司令官に着任。
大正8年)4月、重砲兵監と野砲兵監を統合し新設された砲兵監に就任。
大正12年)3月、予備役に編入
  渡辺 金造
 
わたなべ きんぞう
1874年7月27日)- 1965年5月23日)  群馬県   陸軍士官学校(9期)
陸軍大学校(18期   日露戦争のため1904年(明治37年)2月に中退
卒業し、第13師団参謀となる。
大正7年)7月、歩兵大佐に昇進し歩兵第12連隊長に就任
大正8年)7月、第18師団参謀長に転じた。
大正11年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第40旅団長に就任
大正13年)2月、台湾軍参謀長に就任
昭和2年)7月、陸軍中将に進み下関要塞司令官となる。
昭和3年)8月に待命、そして予備役編入
 
  渡邊 壽
 
わたなべ ひさし
1874年11月29日 - 1962年1月29日   岐阜県   陸軍士官学校(6期)
明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業、翌月、歩兵第28連隊中隊長に就任。
明治37年)10月、満州軍参謀として日露戦争に出征。
明治38年)6月、参謀本部員に就任し、同年9月、歩兵少佐に昇進。
大正4年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵学校教育部長に着任。
大正6年)8月、近衛歩兵第1連隊長に転じ、参謀本部課長を経て、
大正8年)7月、陸軍少将に進級
大正9年)8月、フランス大使館付武官に就任し、歩兵第23旅団長、歩兵学校長を歴任
大正13年)1月、教育総監部本部長となり、同年2月、陸軍中将に進んだ。
大正15年)7月、第19師団長に親補され、1929年(昭和4年)8月、予備役編入
  伊東 祐保
 
いとう すけやす
  
明治2年3月 佐賀県出身 明治19年(1886年)海軍兵学校に進み、明治23年(1890年)卒業
(17期)。同期に秋山真之、山路一善、森山慶三郎らがいる。
海軍少尉に任官後、日清戦争に参戦。威海衛で行われた世界初の水雷夜襲実施の際は、
占領した砲台に赴き港内偵察にあたった
日露戦争にも参戦し「亜米利加丸」航海長として、後にバルチック艦隊が集結したカムラン湾を視察し
同職のまま日本海海戦に参戦した。
明治40年中佐へ進級。大正2年12月1日 海軍大佐進級と同時に軍令部参謀兼軍務局員に補され、
次いで「高千穂」艦長として第一次世界大戦に参戦。青島の戦いにおいて戦死した。
1914年10月18日(満45歳没)
  森 鷗外
 
もり おうがい

  
1862年2月17日(文久2年1月19日) - 1922年(大正11年)7月9日 石見国津和野
代々津和野藩主、亀井家の御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、
久々の跡継ぎ誕生であった
明治6年)11月、入校試問を受け、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より
2歳多く偽り、12歳で入学(新入生71名。のちに首席で卒業する三浦守治も同時期に入学
明治14年)7月4日、19歳で本科を卒業。卒業席次が8番であり、大学に残って研究者になる道は
閉ざされたものの、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。
?外に陸軍省入りを勧めていた。結局のところ?外は、同年12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)
になり、東京陸軍病院に勤務した
入省して半年後の1882年(明治15年)5月、東京大学医学部卒業の同期8名の中で最初の
軍医本部付となり、明治17年)6月、衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため
ドイツ留学を命じられた。
明治27年)夏、日清戦争勃発により、8月29日に東京を離れ、9月2日に広島の宇品港を発った。
翌年の下関条約の調印後、5月に近衛師団つきの従軍記者・正岡子規が帰国の挨拶のため、
第2軍兵站部軍医部長の?外を訪ねた
清との戦争が終わったものの、?外は日本に割譲された台湾での勤務を命じられており、
初代台湾総督の樺山資紀等とともに台湾に向かった。4か月ほどの台湾勤務を終え、10月4日に帰京。
明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進し、東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が
置かれていた小倉(西部)の第12師団軍医部長に「左遷」された。
明治35年)3月、第1師団軍医部長の辞令を受け、新妻とともに東京に赴任した。
明治37年)2月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争に第2軍軍医部長として出征
明治40年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長に就任した