北海道・東北 名城と歴代城主総覧
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北海道渡島総合振興局管内松前町にあった平山城。福山城(ふくやまじょう)とも呼ばれる。
別名 福山城
城郭構造 平山城
天守構造 独立式層塔型3重3階(1849年築 非現存)
(1960年RC造外観復元)
築城主 松前崇広  蝦夷松前藩
築城年 慶長11年(1606年)
主な改修者 -
主な城主 松前氏
廃城年 1875年
遺構 本丸御門、御殿玄関、石垣、土塁堀
指定文化財 国の重要文化財(本丸御門)国の史跡
北海道有形文化財(御殿玄関)

石田城と並び日本における最後期の日本式城郭である。戊辰戦争の最末期に蝦夷が島(北海道)の独立を目指す
旧幕府の軍(元新選組の土方歳三が率いていた)との戦いにおいて落城した。
天守や本丸御門などが現存したが、天守は太平洋戦争後に失火により焼失した。旧城内一帯が国の史跡に
指定されており、また、築城時から現存する本丸御門が国の重要文化財に指定されている。

  歴代藩主
松前氏
享保4年(1719年)には大名に昇格し正式に1万石格の松前藩藩主となった。
幕末には、藩主の松前崇広が外様大名ながら幕府の老中に取り立てられている。


                    
五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に蝦夷地の箱館府(北海道函館市)に建造された稜堡式の城郭である。
別名 亀田御役所土塁、箱館御役所、柳野城
城郭構造 稜堡式
天守構造 なし
築城主 江戸幕府
築城年 1866年
主な改修者 なし
主な城主 なし
廃城年 1869年
遺構 土塁、石垣、堀
指定文化財 特別史跡

日米和親条約締結による箱館開港に伴い、防衛力の強化と役所の移転問題を解決するため
徳川家定の命により築造された。設計を担当したのは洋式軍学者の武田斐三郎。大砲による戦闘が一般化した後の
ヨーロッパにおける稜堡式の築城様式を採用し、堡を星型に配置している。総面積、74,990坪(約247,466m?)、
1868年(明治元年)10月26日、佐幕派の大鳥圭介隊と土方歳三隊の両隊が五稜郭を占拠。
1869年1月(明治元年12月)、箱館政権樹立。
1869年(明治2年)5月18日、新政府軍に敗北し明け渡される。(詳細は箱館戦争を参照)
1871年(明治4年)以降、五稜郭内部の建物はほとんど取り壊され、材木などは開拓使官舎に使われた。
1922年(大正11年) 国の史跡に指定される。
1952年(昭和27年) 特別史跡に指定される。
1964年(昭和39年) 入口付近に五稜郭タワーが建設される。
2010年(平成22年)7月29日、箱館奉行所の復元工事が完成し、一般公開が始まる



弘前城(ひろさきじょう)は青森県弘前市にあった城である。別名・鷹岡城、高岡城。
江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し、また城跡は国の史跡に指定されている。
別名 鷹岡城、高岡城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 詳5層(非現存・1610年築、 独立式層塔型3層3階(現存)
御三階櫓(複合式層塔型3層3階・1810年改)
築城主 津軽為信・信枚
築城年 1611年
主な改修者 津軽寧親
主な城主 津軽氏
廃城年 1871年
遺構 現存天守・櫓・門 、石垣、土塁、堀
指定文化財 国の重要文化財(天守・辰巳櫓・丑寅櫓・北の郭亀甲門
未申櫓・三の丸追手門・三の丸東門・二の丸南門・二の丸東門         昭和60年代登城
江戸時代には弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。
城は津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された
梯郭式平山城である。創建当初の規模は東西612メートル、南北947メートル、総面積385,200平方メートルに及んだ

     歴代藩主
津軽氏
外様 47,000石→46,000石→70,000石→100,000石
初代: 津軽為信から幕末まで12代続く、支藩として黒石藩

桜の名所で天守閣以下重要文化財が多く、東北一の名城
・JR弘前駅より徒歩約25分
天守(本丸内側より)
昭和60年代の登城


久保田城は、羽後国(旧出羽国)秋田郡久保田(現在の秋田県秋田市千秋公園近辺)にあった城である。
別名 矢留城、葛根城、秋田城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 佐竹義宣
築城年 1604年(慶長9年)
主な改修者 -
主な城主 佐竹氏
廃城年 1880年(明治13年)
遺構 -
指定文化財 秋田市文化財(御物頭御番所)
再建造物 本丸新兵具隅櫓、本丸表門

久保田藩主佐竹氏の居城である。矢留城、葛根城とも呼ばれる。
江戸時代後期の公式文書では「秋田城」と書かれることも多かったが、古代に出羽国府が置かれた秋田城とは
所在地ともに別の城であり、今日では「久保田城」の方が一般的である。雄物川の支流仁別川左岸、

程野村窪田にある神明山(しんめいやま、標高40m)に築かれた平山城で石垣は基底部に
僅かにあるのみでその上に土塁を盛られており天守も持たず塁上に「出し御書院」と呼ばれる
櫓座敷を建ててその代わりとし、他に8棟の櫓を建て並べていた

1880年(明治13年)の大火で城内の建造物はほぼ焼失しており、市街再建の過程で堀の多くも埋め立てられ、
城下の中通を中心に秋田県初期の官庁街へと変貌した。
     歴代藩主
佐竹氏
外様 約20万石(実高は約40万石)
初代: 佐竹義宣から幕末まで12代続く、支藩として岩崎藩




横手城(よこてじょう)は、秋田県横手市にあった城である。構造は山城。朝倉城、阿櫻城とも呼ばれる。
別名 朝倉城、阿櫻城、韮城
城郭構造 山城
天守構造 なし
複合式望楼型3重4階(1965年 RC造模擬)
築城主 (小野寺氏)
築城年 不明
主な改修者 戸沢
主な城主 戸沢氏  久保田藩の佐竹家の城代
廃城年 明治元年(1868年)
遺構 土塁
指定文化財 無し
再建造物 模擬天守

横手城の築城時期は、諸説ある。戦国時代には、小野寺配下の横手氏・大和田氏・金沢氏が横手城を拠点にして
反抗したが、これは鎮圧されている。その後、小野寺氏は横手に本拠を移した。
横手城は土砂崩れの防止と斜面に敵兵が滑ってよじ登れないようにするために韮(ニラ)を植えたため、
韮城とも呼ばれた。
関ヶ原の戦いの時、当時の城主であった小野寺義道は、上杉景勝に通じたことより徳川家康に西軍方とみなされた、
ため慶長6年(1601年)に改易され、一時的に最上氏の手に渡る。慶長7年(1602年)、久保田城に佐竹義宣が
転封されてくると横手城も佐竹家の所有となり、城代が入れられた。城代には伊達盛重、続いて須田盛秀が入り、
寛文12年(1672年)に佐竹氏一門の戸村義連が入城して以降戸村氏が明治まで務めた。
戸村氏は代々十太夫と名乗った。 元和6年(1620年)、一国一城令により久保田藩領でも支城が破却されたが、
横手城を重要な拠点と考えた佐竹義宣が幕府に働きかけたため、破却を免れた。
元和8年(1622年)、当時江戸幕府年寄で下野宇都宮藩主の本多正純が宇都宮城釣天井事件でこの地に流罪され、
寛永14年3月10日(1637年4月5日)に亡くなるまで過ごした。

交通アクセス
東京~新庄~横手 山形新幹線・JR奥羽本線


山形城は、山形県山形市霞城町にあった城。別名で霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)と呼ばれる。
また、吉字城とも呼ばれた。国の史跡に指定されている。

別名 霞城、霞ヶ城、吉字城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 なし(御三階櫓)
築城主 斯波兼頼(しば)羽州探題最上氏の祖
築城年 1356年(南朝:正平11年、北朝:延文元年)
主な改修者 最上義光、鳥居忠政
主な城主 最上氏、鳥居氏、堀田氏、秋元氏・・・・
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 石垣、堀、移築門、移築御殿
指定文化財 国の史跡
再建造物 二の丸東大手門、大手橋
復元二の丸東大手門 平成2年登城

おおよそ基礎は、最上義光の時代につくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられたものである。
江戸時代には山形藩の政庁が置かれた。現在は、そのほとんどが失われ、二の丸跡が霞城公園として残されている。
・1356年(南朝:正平11年、北朝:延文元年)斯波兼頼が羽州探題として山形に入部、1357年(南朝:正平12年、北朝:
延文2年)には、初期の山形城が築城される。
・最上義光が、慶長年間に城郭を拡大、城下町を整備し、関ヶ原の戦いの功で得た出羽57万石の本城となる。
・最上氏が転封された後、鳥居忠政により、改修がなされる。
・鳥居氏以後、たびたび藩主の変更があり、改修もなされたが、山形藩を治める藩主の石高も減少したため、
 江戸中期以降は城の維持が困難になる。幕末には本丸は更地で、御殿も二の丸に置かれ、
 三の丸の西半分は田畑となっていた。
・明治時代、城が売りに出されると、山形市が購入し、陸軍の駐屯地を誘致した。歩兵三十二連隊の兵営敷地となり、
 城内の櫓や御殿は破却され、本丸は埋め立てられた。三の丸の堀も埋め立てられ耕作地として利用された。
     歴代藩主
最上氏
外様 出羽山形藩57万石   (1356 - 1622)
初代: 最上義光
  3代で改易
元和3年(1617年)、父・家親が病死したため13歳で後を継いで第3代藩主となったが
藩主の器とは到底いえず老臣たちの反発を招いた。一部の家臣が義俊の叔父・山野辺義忠が
藩主たるべきと考えるようになった。最上騒動が起こり、改易された後は、
近江大森藩1万石に入封、5000石以後、最上家は交代寄合として存続した。
鳥居氏 譜代:20万石 (1622 - 1636) 鳥居 忠政 2代 世嗣なく改易
保科氏 譜代:20万石 (1636 - 1643) 保科 正之 1代 会津藩23万石へ
越前松平氏 譜代:15万石 (1644 - 1648) 松平 直基 1代 姫路に国替え2ヶ月後、死去
奥平松平氏 譜代::15万石 (1648 - 1668) 松平 忠弘 1代 宇都宮藩へ
奥平氏 譜代:9万石 (1668 - 1685) 奥平 昌能 2代 宇都宮藩へ
堀田氏 譜代: 10万石 (1685 - 1686) 堀田 正仲 1代 福島藩へ
松平〔越前〕氏 親藩 :9万石 (1686 - 1692) 松平 直矩 1代 白川藩へ
奥平松平氏 親藩 :10万石 (1692 - 1700) 松平忠弘 2代 福山藩へ
堀田氏 譜代: 10万石 (1700 - 1746) 堀田 正虎 3代 佐倉藩へ
松平〔大給〕氏 譜代: 6万石 (1746 - 1764) 松平 乗祐 1代 三河西尾藩へ
公儀御料 (1764 - 1767)
秋元氏 譜代: 6万石 (1767 - 1845) 秋元 凉朝 4代 館林藩へ
水野氏 譜代: 5万石 (1845 - 1870) 水野 忠精 2代 幕末



山形県上山市にあった城である。別名、月岡城。江戸時代には上山藩の藩庁が置かれた。
別名 月岡城
城郭構造 平山城
天守構造 不明(鉄筋コンクリート造模擬)
築城主 武衛義忠
築城年 1535年
主な改修者 松平(能見)重忠
主な城主 上山氏、小簗川氏、藤井松平氏ほか
廃城年 1873年
遺構 石垣、土塁、堀
指定文化財 無し
再建造物 模擬天守          昭和60年代 登城
もともと上山には天童氏(最上氏庶流)の一門上山氏が城を持っていた。1508年に伊達氏がこの城を攻め落とし、
城主上山義房は滅亡。伊達家臣小簗川貞範がこの地に入った。その後、上山義房の子武衛義忠が城を奪還。
義忠によって改めて築城された平山城が現在の上山城である。
江戸初期に最上氏が改易された後は、没落した諸大名が3万石から4万石で入部し、
城主を務める氏族がめまぐるしく変わるが、上山藩自体は幕末まで存続した。
羽前国(旧出羽国)村山郡の上山(現在の山形県上山市)周辺を領有した藩。藩庁は上山城に置かれた。
上山は、北は山形藩、南は米沢藩に隣接する羽州街道の要衝であり、長禄2年(1458年)には上山温泉が発見され、
温泉宿場町として早くから繁栄を遂げた。上山は最上氏が支配していた頃から重要拠点のひとつと見なされており、
戦国時代には伊達氏と最上氏がこの地をめぐって争うことも少なくなかった。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで、
上杉景勝の家臣・直江兼続は2万5000を数える大軍を擁していながら、上山城を守る最上氏の家臣・里見民部
率いるわずか1000の兵の前に、大敗を喫するという醜態を晒している。しかし里見民部は後に最上義光と対立して
出奔し、その後には坂光秀、次いで最上光広(義光の五男)が入った。
元和8年(1622年)、最上氏は最上騒動と呼ばれるお家騒動を理由に改易された。
  上山藩歴代藩主
松平(能見)家 譜代:4万石 1622 - 1626 松平重忠 2代 摂津国三田藩へ移封
蒲生家 外様:4万石 1626 - 1628 蒲生 忠知 1代 嗣子無く蒲生家は断絶
土岐家 譜代:3.5万石 1628  - 1692 土岐 頼行 2代 越前野岡藩へ移封
金森家 外様:3.8万石 1692 - 1697 金森 頼時 1代 美濃郡上藩へ移封
松平(藤井)家 譜代:3万石 1697 -1870 松平 信通 10代 幕末


宮城県白石市にあった城である。別名益岡城(枡岡とも)。主として仙台藩伊達氏の支城として用いられ、
片倉氏が代々居住した。九州の八代城などと並んで、江戸幕府の一国一城制の対象外とされて明治維新まで存続した

別名 益岡城、枡岡城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 大櫓(三階櫓)複合式層塔型3重3階
(1819年再、非現存。1995年木造復元)
築城主 白石氏
築城年 鎌倉時代
主な改修者 蒲生郷成
主な城主 白石氏、蒲生氏、上杉氏、片倉氏
廃城年 1875年
遺構 石垣、移築門、移築蔵
指定文化財 無し
再建造物 三階櫓、門、塀            平成 登城
鎌倉時代以後 - 刈田氏が白石の地に居住。同氏は後に伊達氏家臣となる。
1591年 - 会津に封された蒲生氏郷の家臣・蒲生郷成によって本格的に築城。
1598年 - 会津に封された上杉景勝の家臣・甘糟景継によって修築。
1600年 - 関ヶ原の戦いの際、白石城の戦いが勃発し伊達政宗が上杉景勝から白石城を奪い取って
      再び伊達領とし、が城代として入る。
1602年 - 伊達政宗の側近、片倉景綱(小十郎)が城主となる。
1819年 - 火災で焼失する。4年後の片倉宗景の時に再建される。
片倉氏は、戦国時代から江戸時代まで伊達氏に仕えた武士の一族である。仙台藩にあって白石城を預けられ
刈田郡の大部分、1万8000石を領した。
江戸時代の代々の当主は初代片倉景綱にならって片倉小十郎を名乗り、藩の内外の人々は通常この名で呼んだ。
片倉氏の居城、白石城は幕府が一国一城令の例外として認めた正式の城である。


涌谷城(わくやじょう)は、宮城県遠田郡涌谷町にあった平山城。別名涌谷要害。
大崎氏の家臣の涌谷氏が所有していたが、豊臣秀吉の天下統一に伴い
木村氏を経た後、伊達氏の家臣亘理氏の居城になる。
2代重宗、3代定宗を経て城郭を整備し、後に定宗は伊達氏を名乗ることを
許されるまでになった(涌谷伊達氏)。しかし、定宗の後を継いだ伊達宗重が
後継者問題などで原田宗輔と対立し、遂には殺害されてしまう(伊達騒動)。


仙台城(せんだいじょう)は、現在の宮城県仙台市青葉区(陸奥国宮城郡)の青葉山にある平山城である。
雅称は「青葉城」。「五城楼」との別名もある
別名 青葉城、五城楼
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 無し
築城主 伊達政宗
築城年 1601年
主な改修者 伊達忠宗
主な城主 伊達氏
廃城年 1871年
遺構 石垣、土塁、堀
指定文化財 国の史跡            昭和・平成 登城
再建造物 脇櫓
青葉山には、伊達氏以前から城があり、初めは千体城、後に千代城と称し、鎌倉時代末期から室町時代中期に
にかけて島津氏が陸奥守として居城し、室町時代末期には国分荘の国人の国分氏が居城したとも伝えられている。
江戸時代
伊達政宗の叔父でもある城主国分盛重が政宗と対立して出奔すると、千代城は廃城となった。
政宗は、関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て千代に居城を移すことにした。慶長5年12月24日に
青葉山に登って縄張りを始め、地名を仙台と改めた。彼が築いた仙台城は、本丸と西の丸からなる山城であり、
天守台はあるが天守は持たなかった。
仙台藩歴代藩主
伊達氏
外様: 大広間 国主(大身国持) 62万石→28万石(反明治新政府の罪により28万石に減封)
初代: 伊達政宗から幕末まで15代続く、


二本松城(にほんまつじょう)は、福島県二本松市郭内にある城(平山城)。日本100名城の一つ。
別名、霞ヶ城・白旗城と呼ばれる。
別名 霞ヶ城、白旗城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明
築城主 二本松満泰
築城年 室町時代中期
主な改修者 丹羽光重
主な城主 二本松氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏
廃城年 (明治5年)
遺構 天守台、石垣、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 箕輪門、附櫓
室町時代
室町時代初期の1341年 室町幕府より奥州探題に任ぜられた畠山高国が塩沢・殿地が岡に最初の居を構え、
地名を二本松と改称し、畠山氏7代当主・二本松満泰が、1441年 - 1443年にこの地に二本松城を築いた。
安土桃山時代
以後、陸奥国に定着していた二本松氏は、戦国時代になると伊達政宗の攻撃を受ける。
1585年(天正13年)10月、15代当主・二本松義継は政宗の父・輝宗に降伏を申し出た。
政宗は片倉景綱、次に伊達成実を二本松城代とした。1591年(天正19年)、政宗が岩出山城に転封されると、
二本松城は若松城主蒲生氏郷の支城となった。
1598年(慶長3年) 蒲生氏に代わって上杉景勝が会津に入ると下条忠親が城代となった。
1600年(慶長5年) 徳川家康に敵対した上杉氏は関ヶ原の戦いの後、米沢城に移された。
会津には蒲生氏郷の子・秀行が復帰し、梅原弥左衛門と門屋勘右衛門が二本松城代となった。
江戸時代
1622年(元和8年)、本山豊前・本山河内が城代となり、のちに外池信濃守が城代となった。
1627年(寛永4年)、蒲生氏が伊予国松山城に転封となり、会津には加藤嘉明が入った。
二本松城には加藤氏与力の松下重綱が下野国烏山城から5万石で入城した。
1628年(寛永5年)重綱が没すると、その子・長綱は三春城に移され二本松城には嘉明の二男・明利が入城した。
1643年(寛永20年)、嘉明の子・明成が改易となり、明利の子・明勝も本家と同様に改易となった。
代わって白河小峰城より丹羽長秀の孫・光重が10万700石で入城した。光重は二本松藩の藩庁としての偉容を
備えるため大改修を行った。
この際に、本丸に石垣が積まれ、3重の天守が築かれた。以後、明治維新まで丹羽氏の居城となった。
二本松藩歴代藩主
松下家 外様:3万石 1627年~1644年 松下重綱 2代 陸奥三春藩へ移封
加藤家 外様:3万石 1628年 - 1641年 加藤明利 1代 死後にその所領は改易
丹羽家 外様:10万石 1641年~1871年 丹羽光重 11代 幕末
アクセス:東日本旅客鉄道(JR東日本)東北本線二本松駅から徒歩約20分で内城入口


福島県白河市(陸奥国白河郡白河)にあった城。単に白河城または小峰城ともいう。
別名 白河城、小峰城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 三重櫓(複合式望楼型3重3階 1632年築
1991年木造復元)
築城主 結城親朝
築城年 1340年(南朝:興国元年
主な改修者 丹羽長重
主な城主 結城氏、蒲生氏、丹羽氏、松平氏、阿部氏 他
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 石垣、土塁、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 三重櫓・太鼓櫓・門
阿武隈川と谷津田川の間に位置する、小峰ヶ岡という丘陵にあった平山城である。
東北では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、若松城とともに東北三名城のひとつにも数えられている。
2011年3月11日の東日本大震災により石垣等が崩壊したため、三重櫓も含め本丸は立ち入り禁止となっておる
1590年(天正18年) 城主の白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易されると、その後、この地は会津領となり、
蒲生氏、続いて上杉氏、再度、蒲生氏が支配した。
1627年(寛永4年) 丹羽長重が10万石で棚倉城(福島県棚倉町)から移封され、幕命により、寛永6年より
城郭の大改築に着手、4年の歳月を費やして1632年(寛永9年)に完成した。
その後丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と7家21代の城主の交代が
があったが1867年(慶応3年)最後の阿部氏が棚倉に移封された後、白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の
預かるところとなる。1868年(慶応4年)、白河小峰城は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍と
新政府軍との激しい攻防の舞台となり、5月1日、大半を焼失し落城した。
白河藩 歴代藩主
丹羽家 外様:10万石 1627年~1643年 丹羽長重 2代 陸奥二本松藩へ移封
松平〔榊原〕家 譜代:14万石 1643年~1649年 榊原忠次 1代 姫路藩へ移封
本多家 譜代:12万石 1649年~1681年 本多忠義 2代 下野宇都宮藩 大和郡山藩へ
松平〔奥平〕家 親藩:15万石 1681年~1692年 奥平忠弘 1代 山形10万石へ移封
松平〔越前〕家 親藩:15万石 1692年~1741年 松平直矩 3代 播磨姫路藩へ
松平〔久松〕家 親藩:11万石 1741年~1823年 松平定賢 4代 伊勢桑名藩へ
阿部家 譜代:10万石 1823年~1868年 阿部正権 8代 陸奥棚倉藩
天領 1868年~1871年
交通アクセス:JR東北本線 白河駅から徒歩約10分


福島県会津若松市追手町1-1にあった城である。
地元では一般的に鶴ヶ城(つるがじょう)といい、地元以外では会津若松城と呼ばれることも多い。
別名 鶴ヶ城、会津若松城、黒川城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 望楼型7重不明(1593年(文禄2年)築)
層塔型5重5階地下2階(慶長16年)改)
層塔型5重5階(RC造 1965年
築城主 蘆名直盛
築城年 84年(南朝:元中元年)
主な改修者 蒲生氏郷、加藤明成
主な城主 蘆名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、・・・・
廃城年 74年(明治7年)
遺構 石垣、土塁、堀          昭和・平成 登城
指定文化財 国の史跡
1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を
造ったのが若松城のはじまりとされる。
(天正17年)、蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、
蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にした。1592年(文禄元年)より蒲生氏郷で
会津藩 歴代藩主
蒲生家 外様:60万石 1601 - 1627 蒲生秀行 2代 伊予松山藩へ移封
加藤家 外様:40万石 1627 - 1643 加藤嘉明 2代 改易後 水口藩2万石
松平(保科)家 親藩:23万石 1643 - 1868 保科正之 10代 幕末

会津戦争で損傷した若松城 雪景色の鶴ヶ城

交通アクセス:
 JR会津若松駅より路線バス市内4コース、芦の牧、年貢町経由高田・永井野行きなどに乗車し「鶴ヶ城西口」下車

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