関東・甲信越・中部 名城と歴代城主総覧
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忍城
忍城(おしじょう)は、埼玉県行田市にあった城。江戸時代には忍藩の藩庁が置かれた。
埼玉県の旧跡に指定されている。関東七名城の一つ。忍城水攻めは日本三大水攻めの一つに数えられる。
別名 忍の浮き城、亀城
城郭構造 平城
天守構造 御三階櫓(1701年)非現存
層塔型3重3階(1988年 模擬または復興)
築城主 成田氏
築城年 15世紀後期
主な改修者 -
主な城主 成田氏、松平氏ほか
廃城年 1871年
遺構 土塁、堀、移築門
指定文化財 -           平成24年7月撮影へ
再建造物 櫓・模擬門
1478年(文明10年)頃、地元の豪族であった成田正等・顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉家に属する
     忍一族を滅ぼし、築城したといわれている
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城
従兄弟の成田長親を城代とし、家臣と農民ら3,000の兵が忍城に立てこもった。
豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家らも加わった。
落城することはなかった(小田原落城後に開城)。
   忍藩 歴代藩主
松平(深溝)家 譜代:1万石 1695-1600 松平家忠 1代 伏見の戦いで戦死長男が小見川藩
松平(東条)家 親藩:10万石 1592 - 1600 松平忠吉 1代 関ヶ原の戦いの負傷で死去
松平(大河内)家 譜代:3万石 1633 - 1639 松平信綱 1代 川越藩へ移封
阿部家 譜代:5万石 1639-1823 阿部忠秋 9代 陸奥白河藩へ移封
松平(奥平)家 譜代:10万石 1823 -1871 松平忠堯 5代 幕末
交通アクセス
秩父鉄道秩父本線行田市駅下車、徒歩15分

加須城
現在の埼玉県加須市(騎西地域)にあった城である。
別名 私市城,根古屋城
城郭構造 平城(沼城)
天守構造 なし
模擬3層3階(RC造り)
築城主 小田助三郎、松平康重
築城年 康正元年(1455年)
主な改修者 -
主な城主 小田氏、松平氏等
廃城年 寛永9年(1632年)
遺構 土塁、空堀
指定文化財 -
再建造物 -
康正元年(1455年)古河公方足利成氏が、深谷上杉氏の城であった騎西城を攻略した
永禄6年(1563年)上杉輝虎が小田助三郎の守る騎西城を攻略した。
天正2年(1574年)の第三次関宿合戦では、簗田持助の関宿城が北条氏政の大軍に包囲され、
それを助けるために布陣した上杉謙信がこの騎西城、菖蒲城などの城下を焼討ちした。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、松平康重に与えられた。
関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601年)大久保忠常が城主に任じられたが、寛永9年(1632年)、
大久保忠職が美濃加納城へ移封となったため、廃城となった。
アクセス:東北自動車道加須インターチェンジより車で約15分

天神山城

現在の埼玉県秩父郡長瀞町岩田にあった城である
白鳥城、根古屋城ともいう。
天文年間に藤田重利(のちの藤田康邦)が築城したと伝えられている。
1546年(天文15年)の河越夜戦以降に北武蔵に勢力を伸ばしてきた
北条氏康に重利は1549年(天文18年)7月従属した。
1564年(永禄7年)頃に北条氏康の四男である氏邦が入城した。
1590年(天正18年)の小田原征伐の際に、鉢形落城と共に開城した
昭和45年、観光目的として本丸跡に模擬二重櫓(鉄筋コンクリート製)が建設されたが、採算あわず倒産し
模擬天守も放置された。現在は管理が全くされていない状態のため、床や天井は抜け落ち、荒廃している。

江戸城

江戸城は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった城である。
江戸時代においては江城(こうじょう)という。また、千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる
別名 千代田城

城郭構造 輪郭式平山城
天守構造 連立式層塔型5重5階地下1階1606年築)
独立式層塔型5重5階地下1階(1621年
独立式層塔型5重5階地下1階(1635年
築城主 太田道灌
築城年 1457年(長禄元年)
主な改修者 徳川家康、秀忠、家光(江戸期)
主な城主 徳川将軍家   皇室(明治以降
廃城年
遺構 現存櫓・門、石垣・土塁・堀
指定文化財 国の重要文化財(桜田門、田安門、清水門)
再建造物 富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓・桜田巽櫓、大手門
築城まで
江戸(東京)の地に最初に根拠地を置いた武家は江戸重継である。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての
江戸氏の居館が、後の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたとされる。
築城
15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣である太田道灌が
1457年(長禄元年)に江戸城を築城した。徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる。
道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、
上杉朝良が隠居城として用いた。
江戸時代
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の
関八州を与えられて、駿府(静岡)から転居した権大納言である徳川家康が、1590年8月に公式に入城し、居城とした。
家康が入城した当初は、道灌築城時のままの姿を残した比較的小規模で質素な城であったため、
徳川家は開幕までにそれまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築。
天守
徳川家康の改築以降、本丸の天守は慶長度(1607年)・元和度(1623年)・寛永度(1638年)と三度築かれている。
どの天守も鯱や破風の飾り板を金の延板で飾っていた。
1657年(明暦3年) 明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失。町の復興を優先し、また経済的な理由から
天守は再建されなかった。
内郭
本丸
本丸御殿を擁する江戸城並びに徳川家、江戸幕府の中心。
二ノ丸
本丸と同じく入国時に三ノ丸の間にあった空堀を埋めている。
元は本丸の帯曲輪の様な存在であったが寛永期に拡張されて二ノ丸御殿が造られる
三ノ丸
内郭に組み込まれ小さな御殿と勘定所以外は空地となり登城大名の家臣の控え場になる。
西ノ丸
創建された当時は、新城、新丸、御隠居城、御隠居曲輪などといった。
紅葉山
本丸と西丸の間にある高地で、江戸城内で最も高い場所。
その後は東照宮や各将軍の霊廟が造営され、また麓には具足蔵・鉄砲蔵・屏風蔵・書物蔵があった。
北の丸
現、武道館のある付近はかっては関東代官であった内藤清成らの屋敷となったため、代官町と呼ばれた場所である。
徳川氏の御三卿であった田安徳川家が1731年に、清水徳川家が1759年に上屋敷を構えるようになった。
吹上御苑
江戸城築城後には番衆・代官衆や清洲藩の松平忠吉の屋敷地があり、その後は徳川御三家の大名屋敷が建築された。
1657年(明暦3年)1月明暦の大火で全焼し、火除け地として日本庭園が整備される運びとなった。
明治維新では一時荒廃したが、江戸城に天皇が居住するようになると、庭園が再建され、さらにゴルフ場も建設された。
吹上御苑の転機となるのは1937年で、昭和天皇がゴルフ場の使用を止め、自然のまま残すように希望したため、
以後森林が形成された。
主な建物として、昭和天皇、香淳皇后の御所であった「吹上大宮御所」、現在の天皇・皇后の住居である
「御所」、「宮中三殿」などがある。
天守
徳川家康の改築以降、本丸の天守は慶長度(1607年)・元和度(1623年)・寛永度(1638年)と三度築かれている。
どの天守も鯱や破風の飾り板を金の延板で飾っていた。
慶長度天守
1606年(慶長11年)にまず自然石6間、切石2間の高さ8間の天守台が黒田長政によって築かれた。
この天守は秀忠によって解体され新たに造り直されている。
元和度天守
元和度天守は、1622年(元和8年)から翌年にかけて天守台普請とその上屋(天守)の作事が行われた。
位置は本丸東北の梅林坂にあった徳川忠長屋敷を破却し、その跡地に建てた、もしくは寛永度天守と同じ位置とされる。
元和度天守も秀忠の死後に家光によって解体され造り直されている。
寛永度天守
寛永度天守は1636年(寛永13年)から翌年にかけて天守台・天守双方が完成している。
黒田忠之・浅野光晟が築いた天守台の位置は本丸北西の北桔橋門南、規模は元和度を踏襲している。
構造は5重5階(地階を含めれば6階)の独立式層塔型で壁面は黒色になるよう塗料もしくは表面加工が
施された銅板を張り、屋根は銅瓦葺である。高さは元和度と同じ本丸地上から天守台を含む30間、
下総からも眺望ができたという。
門の一覧
本丸中雀門(書院門、玄関前門)、上埋門、下埋門、中之門、新門、汐見坂門、上梅林門
   北桔橋門、西桔橋門、柚木門
二ノ丸下乗門、銅門、下梅林門、二ノ丸喰違門、蓮池門、寺沢門
三ノ丸大手門、内桜田門(桔梗門)、平河門、不浄門(帯郭門)、三ノ丸喰違門
西ノ丸坂下門、西丸大手門、西丸中仕切門、西丸書院前門(西丸玄関前門、二重橋)、西丸
内曲輪竹橋門、和田倉門、馬場先門、日比谷門、外桜田門、半蔵門、田安門、清水門、雉子橋門、一ツ橋門、
      神田橋門、常盤橋門、呉服橋門、鍛冶橋門、数寄屋橋門
外曲輪山下門、芝口見附、幸橋門、虎ノ門、赤坂門、喰違見附、四谷門、市ヶ谷門、牛込門、小石川門、筋違橋門、
      浅草橋門、浜大手門
寛永度天守
皇居正門石橋と伏見櫓
二ノ丸庭園
江戸城の全体堀及び門


館山城

館山城は、千葉県館山市館山にあった城。1580年(天正8年)、里見義頼によって館山城が築城された。
別名 根古屋城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 3層(非現存)
望楼型3重4階(1982年 模擬)
築城主 里見義康
築城年 1580年(天正8年)
主な改修者 -
主な城主 里見氏
廃城年 1614年(慶長19年)
遺構 曲輪、堀切、空堀・水堀、模擬天守
指定文化財 -             平成23年8月に登城する 撮影
再建造物 -
その後、1614年(慶長19年)に里見氏は改易され、館山藩は取り潰しとなった。
この際に館山城も廃城となり、破却された。後の1781年(天明元年)に、稲葉正明が館山藩主となって館山に
入ったが城を再建することはなく、2代正武が城の麓に館山陣屋を構えて、そこを新たな政庁とした。
東日本旅客鉄道(JR東日本)内房線館山駅下車、東口からバスで「城山公園前」停留所下車、徒歩5分

久留里城

久留里城(くるりじょう)は、現在の千葉県君津市久留里付近にあった城である。
別名 雨城、霧降城、浦田城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 2重(1724年築)(非現存)
独立式望楼型2重3階
(1979年 RC造模擬)
築城主 武田信長
築城年 康正2年(1456年)
主な改修者 里見義堯、黒田直純
主な城主 上総武田氏、里見氏、後北条氏
廃城年 明治5年(1872年)
遺構 土塁、空堀、井戸
指定文化財 -             平成24年3月登城
再建造物 -
久留里城は室町時代に上総武田氏の武田信長によって築かれた山城(古久留里城)で、以降は信長の子孫である
真里谷氏が支配した。戦国時代には真里谷氏は衰え、代わって里見氏の拠る所となり、里見氏によって再構築され
佐倉城と共に対北条氏の最前線を担った。その後、江戸時代には久留里藩の藩庁として再整備され、
酒井氏の加増地となった17世紀末から18世紀半ばを除いて、近世城郭として明治維新まで維持された。
小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人・榊原康政の嫡男・大須賀忠政(松平忠政)に
久留里3万石を与えた。慶長6年(1601年)2月1日、忠政が遠州横須賀藩に移され、
慶長6年(1601年)2月1日、忠政が遠州横須賀藩に移され、翌年7月に土屋忠直が2万石で入った。
寛保2年(1742年)7月28日、上野国沼田藩から黒田直純が3万石で入り、再び久留里藩を立藩した。
この黒田家は福岡藩でなく、徳川綱吉の家臣で元は館林藩家老の黒田用綱の一族である。
   久留里藩歴代城主
大須賀(松平)家 譜代 3万石 1590-1601 大須賀忠政 1代 遠江横須賀藩へ移封
土屋家 譜代 2万石 1602-1679 土屋忠直 3代 3代目で改易
天領 - 1679 - 1742 - -
黒田家 譜代 3万石 1742-1871 黒田直純 9代 幕末
アクセス
高速バス【カピーナ号】千葉駅行、安房鴨川駅(亀田病院)行

関宿城

関宿城(せきやどじょう)は、千葉県野田市関宿三軒家(旧東葛飾郡関宿町)にある城である。
別名 無し
城郭構造 平城
天守構造 無し
築城主 簗田満助か?
築城年 室町時代
主な改修者 松平康元
主な城主 簗田氏、後北条氏、松平氏、小笠原氏、
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 移築城門・御殿
指定文化財 -
再建造物 -
戦国時代末期には、北条方と上杉方の間で激しい争奪戦が繰り広げられた(関宿合戦)。
北条氏康・氏政・氏照父子が、上杉謙信・佐竹義重の援助を受けた簗田晴助の守る関宿城を、3度に渡り攻撃。
   関宿藩歴代城主
松平(久松)家 譜代:4万石
1590-1616
松平康元 2代 美濃大垣5万石へ
松平(能見)家 譜代:2.6万石 1616-1619 松平重勝 1代 遠江横須賀藩へ
小笠原家 譜代:2.2万石 1619-1640 小笠原政信 2代 美濃高須藩へ
北条家 譜代:2万石 1640-1644 北条氏重  1代 駿河田中藩へ
牧野家 譜代:2.7万石 1644-1654 牧野信成 2代 丹後田辺藩へ
板倉家 譜代:4.5万石 1654-1669 板倉重宗 3代 伊勢亀山藩へ
久世(くぜ)家 譜代:5万石 1669-1683 久世広之 2代  備中庭瀬藩へ
牧野家 譜代:7.3万石 1686-1705 牧野成貞 2代 備中庭瀬藩へ
久世(くぜ)家 譜代:6.8万石 1705-1871 久世重之 8代 幕末
交通アクセス
        東武鉄道東武野田線川間駅から朝日バス(境朝日車庫行き)で、35分
        国道16号野田市中里陸橋から25分

大多喜城

大多喜城は、現在の千葉県夷隅郡大多喜町にあった戦国時代から江戸時代かけて存在した平山城。
別名 大滝城、大多喜城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 不明
昭和50年(1975年)に再建
築城主 里谷信清
築城年 大永2年(1521年)
主な改修者 本田多忠勝、阿部正次
主な城主 真里谷氏、里見氏、本多氏、阿部、青山、・・
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 土塁、空堀、井戸
指定文化財 千葉県史跡(本丸跡) 平成25年2月登城 以前2回
再建造物 再建天守
大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる
天文13年(1544年)に、里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂・憲時の3代に
渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされた。
大多喜藩
天正18年(1590年)の小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、徳川四天王の一人・本多忠勝に
上総国に10万石を与えた。忠勝は当初は万喜城に入城したが、遅くとも天正19年までに居城を大多喜城に移した
これが大多喜藩の立藩である。
    大多喜藩歴代城主
本多家 譜代:10万石 1590-1617 本多忠勝 2代
桑名藩、孫が龍野藩へ
阿部家 譜代:3万石 1617-1617 阿部正次 1代 相模国小田原藩へ
一時廃藩 -
青山家 譜代:2万石 1623-1625 青山忠俊 1代 改易
一時廃藩 -
阿部家 譜代:1.6万石 1638-1702 阿部正能 2代 三河刈谷藩へ
稲垣家 譜代:1.5万石 1702-21日間 稲垣重富 1代 下野烏山藩へ
松平(大河内)家 譜代:2万石 1702-1871 松平正久 9代 幕末

小田原城

小田原城は、戦国時代から江戸時代にかけての平山城で、北条氏の本拠地として有名である。
別名 小峯城(小峰城)、小早川城(小早川館)
城郭構造 平山城
天守構造 複合式層塔型3重4階(1633年 築)
(1706年 再)
(1960年 RC造復興)
築城主 大森頼春
築城年 1417年(応永24年)
主な改修者 上杉氏、北条早雲、大久保忠世、稲葉正勝
主な城主 後北条、阿部、大久保家、稲葉家
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 石垣、土塁、堀
指定文化財 国の史跡            年1回登城する
再建造物 天守、門
北条氏は、居館を現在の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山を詰の城としていた。
3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵のお城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。
江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。
小田原藩
1590年(天正18年)の小田原征伐で小田原の後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、徳川家康が関東に入部し、
東国の押さえとして譜代の大久保忠世を小田原城主とした。
1594年(文禄3年)、忠世が没すると、嫡子忠隣が後継となり、武蔵羽生に2万石を加増された。
忠隣はさらに老中として幕閣に入ったが、1614年(慶長19年)に幕閣における勢力争いから改易となる
     小田原藩歴代城主
大久保家 譜代:6.5万石 1590-1614 大久保忠世 2代 大久保長安事件で突如改易
阿部家 譜代:5万石 1619-1623 阿部正次 1代 武蔵国岩槻藩へ
稲葉家 譜代:10.2万石 1632-1685 稲葉正勝 3代 越後高田藩へ
大久保家 譜代:11.3万石 1686-1871 大久保忠朝 10代 幕末
アクセス
      JR線・小田急小田原線他小田原駅から徒歩約10分

新発田城

新発田城(しばたじょう)は、現在の新潟県新発田市(越後国蒲原郡)にある城郭 別名、菖蒲城(あやめじょう)。
新発田藩の藩庁が置かれていた。新潟県内では唯一、江戸時代当時の城郭建築が現存する城跡である。
別名 菖蒲(あやめ)城・舟形城
城郭構造 平城
天守構造 御三階櫓複合式層塔型3重3階(1679年)
(木造復元・2004年(平成16年) 再)
築城主 新発田氏
築城年 不明
主な改修者 溝口秀勝
主な城主 溝口秀勝
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 櫓・長屋・門、石垣、土塁、堀
指定文化財 国の重要文化財(表門、二の丸隅櫓)            昭和60年代に見学
再建造物 三階櫓、辰巳櫓
鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考えられている。
1581年(天正9年)、新発田重家が上杉景勝に対して反乱を起こした(新発田重家の乱)。
1587年(天正15年)、景勝により新発田城は落城。新発田氏は滅亡した。
その後上杉氏の会津転封に伴い、1597年(慶長2年)、溝口秀勝が6万石の所領を得て新発田に入封。
新発田藩
1598年、豊臣秀吉の命を受けてそれまで越後一国を領していた上杉景勝が会津に移封された後、越後は
福島30万石に堀秀治、坂戸2万石に堀直寄、村上(本庄)9万石の村上義明、そして新発田の溝口秀勝と配置
秀勝は1600年の関ヶ原の戦いのとき、徳川家康の東軍に与して越後に在国し、越後で発生した上杉旧臣の
一揆を鎮圧した功績により、家康から本領を安堵され、ここに新発田藩6万石が成立した。
越後国の譜代大名・親藩のひしめく中に位置する外様大名であった。
外様大名であるが 溝口家が12代幕末まで続く
     新発田藩(しばたはん)歴代藩主 
溝口家 外様:6万石 1598年 初代溝口秀勝 関ヶ原の戦いでは東軍
1871年 12代  幕末
溝口秀勝は丹羽長秀に仕え、天正9年(1581年)、若狭国高浜城主5000石を給される。
交通アクセス:JR羽越本線「新発田」駅から徒歩約20分

日本三大夜桜の名所

高田城

現在の新潟県上越市本城(もとしろ)町にあった城である
徳川家康の六男、松平忠輝の居城として天下普請によって造られた。
別名 鮫ヶ城、関城、高陽城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 御三重櫓
(3重3階不明1614年築 非現存)
独立式望楼型3重3階 1993年 鉄骨造復興)
築城主 松平忠輝
築城年 慶長19年(1614年)
主な改修者 松平光長
主な城主 松平氏、稲葉氏、榊原氏
廃城年 明治3年(1871年)
遺構 土塁、堀
指定文化財 県指定史跡             平成11年登城
再建造物 三重櫓
高田城は、高田平野にある菩提ヶ原に築かれた平城である。
慶長3年(1598年)4月、越後春日山には越前北之庄より秀吉の家臣・堀秀治が30万石
秀治は織田信長に寵愛された近臣堀秀政の嫡男である。秀治は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍
戦後に徳川家康から所領を安堵され、ここに幕藩体制下における高田藩(福嶋藩)が立藩した。
    高田藩 歴代藩主
堀家 外様:45万石 1598-1610 堀 秀治 2代 御家騒動により改易
松平(長沢)家 親藩:75万石 1610-1616 松平忠輝 1代 改易
酒井家 譜代:10万石 1616-1619 酒井家次 2代 信濃松代藩10万石に移封
松平(越前)家 親藩:26万石 1618-1623 松平忠昌 豊後へ流刑
1624-1681 松平光長 越後騒動により、改易
稲葉家 譜代:10.3万石 1685-1701 稲葉正往 1代 下総国佐倉藩に転封
戸田家 譜代、6.8万石 1701-1710 戸田忠真 1代 宇都宮藩に転封
松平(久松)家 譜代:11.3万 1710-1741 松平定重 5代 陸奥国白河藩に転封
榊原家 譜代:15万石 1741-1871 榊原政永 6代 幕末
日本三大夜桜の名所

富山城

富山城は、富山県富山市丸の内にあった城である。「浮城」「安住城」ともいわれた
16世紀中ごろ越中東部への進出を図る神保長職により築かれたとされる。
別名 安住城、浮城
城郭構造 梯郭式平城
天守構造 不明
模擬天守/複合連結式望楼型3重4階
(天守)2重2階(小天守)(1954年 RC造)
築城主 神保長職
築城年 天文12年(1543年)
主な改修者 佐々成政、前田利次
主な城主 主に前田氏、他に神保氏、佐々氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 石垣、堀
指定文化財 -              2回登城
再建造物 -
室町時代の越中守護は三管領の畠山氏であったが越中には来任せず、東部を椎名氏、西部を神保氏を
守護代として治めさせていた。
神保長職は永禄3年(1560年)、上杉謙信により富山城を追われ、神保氏の治世は僅かな間であった。
天正6年、神保長職の子とされる神保長住が織田信長の後ろ盾を得て富山城に入城した。
豊臣秀吉と離れた佐々成政は、天正13年(1585年)8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し
(富山の役)、富山城は破却された。
越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城とした
江戸時代
寛永16年(1639年)、加賀藩第三代藩主前田利常は次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩が成立した。
万治4年(1661年)、幕府の許しを得て富山城を本格的に修復し、また城下町を整え、以後富山前田氏13代の
居城として明治維新を迎えた。

金沢城

江戸時代には加賀藩主前田氏の居城だった。城址は国の史跡に指定されている。
別名 尾山城、金城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明(1592年築)
御三階櫓(1593年築)
築城主 佐久間盛政
築城年 天正8年(1580年)
主な改修者 前田利家・利長
主な城主 佐久間氏、前田氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 長屋・門、石垣、土塁、堀,移築能舞台
指定文化財 国の重要文化財(石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫)         修復後は登城無
再建造物 菱櫓・橋詰門・橋詰門続櫓・五十間長屋
戦国時代から江戸時代にかけての梯郭式の平山城である
織田信長が一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を築いて佐久間盛政を置いた。
後に盛政が賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉により滅ぼされ、秀吉は金沢城を前田利家に与えた。
加賀藩
加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地とした藩。
藩主は前田氏。外様大名ではあるが徳川将軍家との姻戚関係が強く、
準親藩の地位が与えられ松平姓と葵紋が下賜された。
大名中最大の102万5千石を領し、極官も従三位参議と他の大名よりも高く、伺候席も徳川御三家や
越前松平家などの御家門が詰める大廊下である
三ヶ国120万石に及ぶ所領を獲得した。のちに第三代利常(利長の弟)が隠居するとき、次男・三男を取り立てて
加賀藩歴代藩主 1.利家 2.利長 3.利常 4.光高 5.綱紀 6.吉徳 7.宗辰
8.重煕 9.重靖 10.重教 11.治脩 12.斉広 13.斉泰 14.慶寧
  支藩
越中富山藩
  10万石
寛永16年、加賀藩第三代藩主前田利常は次男利次に10万石を与えて分家させ、
富山藩が成立した。
加賀大聖寺藩
  7万石
寛永16年(1639年)、加賀藩の第三代藩主・前田利常が隠居する際、三男・大聖寺7万石を割いて
大聖寺藩が立藩された。、
上野七日市藩
  1万石
大聖寺藩三代藩主・利直は、弟の利昌に新田1万石を割いて大聖寺新田藩を立藩させたが、
宝永6年(1709年)に取り潰しとなり、領地は大聖寺藩に復した。

丸岡城

丸岡城(まるおかじょう)は、福井県坂井市丸岡町霞にあった城である。
安土桃山時代に建造されたと推定される天守は、国の重要文化財に指定されている。その他、石垣が現存している。
別名 霞ヶ城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 独立式望楼型 2重3階(建造年不明 木造現存)
築城主 柴田勝豊
築城年 1576年(天正4年)
主な改修者 -
主な城主 本多氏、有馬氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存天守、移築門、石垣
指定文化財 重要文化財(天守)           昭和時代  登城
再建造物 -
安土桃山時代に建造されたと推定される天守は、国の重要文化財に指定されている。
1576年(天正4年) 織田信長の家臣で、越前ほぼ一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊により築城され、
勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に移った。勝豊が賤ヶ岳の戦い後に病死すると、青山宗勝・青山忠元父子が入った
青山氏は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に改易された。
代わって越前福井藩に入った結城秀康の重臣・今村盛次が2万5000石で入ったが、慶長16年(1611年)の
福井藩重臣による内紛に巻き込まれて流罪とされた。

大野藩歴代藩主
本多氏 譜代:4.3万石 1624-1695 本多成重 4代 お家騒動で改易
有馬氏 外様譜代5万石 1695-1871 有馬清純 8代 幕末
交通アクセス
        JR北陸本線 福井駅から、京福バス「本丸岡」ゆきで約40分、「丸岡城」停留所下車すぐ

大野城

大野城(おおのじょう)は福井県大野市にある城。明治までは大野藩の藩庁が置かれた
別名 -
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 複合連結式2重2階(非現存)
連結式望楼型2重3階(1968年 RC造復興
築城主 金森長近
築城年 1575年(天正3年)
主な改修者 -
主な城主 金森氏、松平氏、土井氏ほか
廃城年 明治初期
遺構 石垣、堀
指定文化財 県指定史跡           昭和時代登城
再建造物 復興天守、門
1575年(天正3年)、織田信長より越前一向一揆を平定した恩賞として越前国大野郡の内の3万石を与えられた
金森長近がその翌年、最初に居城とした戌山城の近くの亀山(大野盆地の小孤峰)に城郭を築いたのが
越前大野城の始まりである。
城は1775年(安永4年)に焼失し、1795年(寛政7年)には天守を除いて再建されたが、明治維新後に破却されている
大野藩歴代藩主
越前松平氏 親藩 5万石 1624-1635 松平直政 1代  結城秀康の三男 信濃松本7万石へ移封
越前松平氏 親藩 5万石 1635-1644 松平直基 1代 結城秀康の五男 山形藩15万石
越前松平氏 親藩 5万石 1644-1682 松平直良 2代 結城秀康の六男 明石藩に移封
土井氏 譜代 4万石 1682-1871 土井利房 8代 幕末

松本城

松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市にあった城である。
安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。
別名 烏城
城郭構造 梯郭式+輪郭式平城
天守構造 連結式望楼型(1593年頃か1615年築)
複合連結式層塔型5重6階(1633年改)
築城主 小笠原長棟、石川数正・康長父子
築城年 1504年(永正元年)
主な改修者 松平直政
主な城主 小笠原氏、石川氏、松平氏, ・・・
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存天守、石垣、土塁、堀、二の丸土蔵
指定文化財 国宝(天守)、国の史跡           昭和・平成 4回登城
再建造物
戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、松本平の信濃府中(井川)に井川館を構えていた信濃守護家小笠原氏
(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている
武田氏滅亡後の天正10年(1582年)、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城に改名した。
松本藩
松本藩の藩祖は、徳川家康に仕えた「三河の旗頭」の一人・石川数正である。
(1585年)11月13日、数正は突如として家康の下から出奔し、当時家康の宿敵であった羽柴秀吉のもとへ降った。
松本藩歴代藩主
石川家 外様:10万石 1590-1613 石川数正 2代 大久保長安事件に連座改易
小笠原家 譜代:8万石 1613- 小笠原秀政 2代 播磨国明石藩主経て豊前国小倉藩へ
松平(戸田)家 譜代:7万石 -1633 松平康長 2代 播磨国明石藩主へ
松平(越前)家 親藩:7万石 1633-1638 松平直政 1代
堀田家 譜代:10万石 1638-1642 堀田正盛 1代 佐倉藩移封 
水野家 譜代:7万石 1642-1725 水野忠清 6代 毛利師就に対して刃傷沙汰で改易
松平(戸田)家 譜代:6万石 1725-1871 松平光慈 9代 幕末
交通アクセス
JR篠ノ井線・大糸線、アルピコ交通上高地線 松本駅(東口(お城口))から約20分
JR大糸線 北松本駅(東口(お城口))から約7分

松代城

松代城は、長野県長野市松代町松代にある城郭である。元々は海津城と呼ばれていたが貝津城とも言われた。
別名 海津城、貝津城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 不明
築城主 武田信玄
築城年 1560年(永禄3年)
主な改修者 田丸直昌、森忠政
主な城主 武田氏、森氏、真田氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 石垣、土塁、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 太鼓門、堀、石垣、土塁など
正確な築城時期は不明。戦国期には甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、北信豪族を庇護した
越後国の長尾景虎(上杉謙信)との北信・川中島地域をめぐる川中島の戦いへと発展する。
松代藩
江戸時代、信濃国埴科郡松代町(現在の長野県長野市松代町松代)にあった藩。
武田信玄が上杉謙信との戦に備え、山本勘助に命じて築城させた海津城(松代城)に置かれた。
関ヶ原の戦い後の森忠政が13万7千石で川中島に入封したことに始まる。
1616年(元和2年)に結城秀康の子松平忠昌が12万石にて松代城に入封して以降この地は松代藩領と呼ばれる。
川中島藩歴代藩主
森家 外様:13.75万石 1600-1603年 森 忠政 1代 美作国津山藩へ
松平〔長沢〕家 親藩:14万石 1603-1610 松平忠輝 1代 越後国高田藩へ
松代藩歴代藩主
松平〔越前〕家 親藩:12万石 1610-1619 松平忠昌 1代 越後国高田藩へ
酒井家 譜代 10万石 1619-1622 酒井忠勝 1代 出羽国庄内藩へ
真田家 譜代格10万石 1622-1871 真田信之 10代 幕末
交通アクセス
上信越自動車道長野インターチェンジから国道403号経由10分
JR長野新幹線長野駅から川中島バス「松代行き」で約30分「松代駅」下車、徒歩約5分

上田城

上田城は長野県上田市二の丸(旧・信濃国小県郡上田)にあった城である。
上田盆地の千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれることもあった。
別名 尼ヶ淵城 真田城
城郭構造 梯郭式平城
天守構造 不明
築城主 真田昌幸
築城年 1583年(天正11年)
主な改修者 -
主な城主 真田氏、仙石氏、松平氏
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 櫓、石垣、土塁、堀
指定文化財 長野県宝(南櫓、北櫓、西櫓)              昭和期登城
再建造物
上田城は、甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸により、1583年(天正11年)に築城された平城である。
真田昌幸が二度にわたる徳川軍の攻撃を撃退した上田合戦が行われたことで有名。
関ヶ原の合戦にて、真田昌幸、信繁が属した西軍が負けたため、上田城は徳川軍に徹底的に破却され堀も埋められた
関ヶ原の戦いで西軍が敗れたため、昌幸・真田信繁(幸村)父子は紀州九度山に幽閉され、上田城は破壊される。
代わって東軍に与した嫡男の真田信之が父の領地を継承、信之は元和2年(1616年)に上田に移り、
徳川体制下における上田藩9万5,000石が成立した。
上田藩歴代藩主
真田氏 外様:9.5万石 1600-1622 真田信之 1代 信濃国松代藩へ移封
仙石氏 外様:6万石 1622-1706 仙石忠政 3代 出石藩5万(但馬)へ移封
松平(藤井)氏 譜代:5.8万石 1706-1871 松平忠周 7代 幕末
交通アクセス:JR長野新幹線「上田」駅から徒歩約10分

高島城

高島城は長野県諏訪市高島にあった城である。別名は諏訪の浮城や島崎城と呼ばれている。
別名 諏訪の浮城、島崎城
城郭構造 連郭式平城
天守構造 独立式望楼型3重5階(1598年築 非現存)
(1970年 RC造復興)
築城主 日根野高吉
築城年 文禄元年(1592年)
主な改修者 諏訪忠粛
主な城主 日根野氏、諏訪氏
廃城年 明治8年(1875年)
遺構 石垣、堀、門
指定文化財 -           昭和・平成13年11月登城
再建造物 -
浮城の異名を持っていたことから日本三大湖城の一つに数えられている。
中世、諏訪氏は現市街地北方にある茶臼山に高島城(茶臼山城)を築いて居城とした。諏訪頼忠は、
平城の金子城(諏訪市中洲)を築き、新しい拠点としたが、1590年(天正18年)に諏訪頼忠が武蔵国奈良梨に
転封となり、代わって日根野高吉が、茶臼山にあった旧高島城に入城する。
高吉は、1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)にかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築く。
1601年(慶長6年)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封。
再び諏訪氏がこの地の領主となり明治維新まで続くこととなった。
諏訪藩
諏訪藩は、高島藩とも呼ばれる。信濃国諏訪郡周辺を領有した藩。藩庁は高島城(長野県諏訪市)。
戦国時代、諏訪の地は諏訪神社の大祝(おおほうり)である名門・諏訪氏の支配下にあった。
しかし天文11年(1542年)、武田信玄(晴信)の侵攻を受けて諏訪頼重は切腹となり、諏訪氏の宗家は滅亡した。
しかし頼重の従兄弟に当たる諏訪頼忠は、武田氏支配下の中で神官として生き残り、
1582年に武田勝頼が織田信長・徳川家康の連合軍によって滅ぼされ、さらに同年6月、信長が本能寺の変で
横死すると、頼忠は自立して諏訪氏を再興する。その後、信濃に侵攻してきた家康軍と戦ったが、
やがて家康と和睦し、その家臣となった。天正18年(1590年)、徳川氏が関東に移封されると、
頼忠も家康に従って諏訪を離れ、武蔵国奈良梨(のち、上野国那波郡惣社へ移封)に所領を与えられた。
諏訪藩歴代藩主
日根野(ひねの)家 外様 3万石 1590-1601 日根野高吉 2代 下野国壬生藩1万900石 移封 
諏訪家 譜代:3万石 1601-1871 諏訪頼水 10代 幕末
寛永3年(1626年)には徳川家康六男の松平忠輝を預かる。
以降も南の丸は、幕府から預かった吉良義周などの流人の監禁場所となる。

交通アクセス

駿府城

駿府城(すんぷじょう)は、静岡県静岡市葵区(駿河国安倍郡)にあった城である。別名は府中城や静岡城など。
別名 府中城、静岡城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 不明(1589年築)
慶長1期(1607年再)
慶長2期(7階・1610年再)
築城主 徳川家康
築城年 1585年(天正13年)
主な改修者 徳川家康
主な城主 徳川氏、中村氏、内藤氏(松平氏)
廃城年 1869年(明治2年)
遺構 石垣、堀
指定文化財 -
再建造物 櫓、門
14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川館が築かれ今川領国支配
の中心地となっていた。
1590年(天正18年)には、豊臣政権による後北条氏滅亡に伴う家康の関東移封が行われ、徳川領国と接する
駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城する(甲斐の甲府城にも、同様に豊臣系大名が配置されている)。
江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府に隠居した。
1616年(元和2年)に駿府城で家康が没するまでの大御所政治時代、駿府は江戸と並ぶ政治・経済の中心地として
大いに繁栄した。
歴史・沿革
安土桃山時代
1585年(天正13年) 駿河国を支配した徳川家康が浜松城より居城を移して築城。
1590年(天正18年)小田原征伐後、江戸に移封となった徳川家康に代わり、中村一氏が大名として入城。
中村 一氏 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣政権の三中老の1人。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは東軍に属すが、合戦前の7月17日(8月25日)に病死。
合戦には弟の一栄や、家督を継いだ長男の中村一忠が出陣し、美濃表で大いに戦った。戦後、
その戦功によって伯耆一国米子城17万5,000石および国持大名の格式を与えられたが、
慶長14年(1609年)に一忠は急死。跡継ぎを欠いた中村家はわずか2代で断絶。
江戸幕府により改易された。
大御所政治時代
1601年(慶長6年) 家康の異母弟・内藤信成が駿府城主に任ぜられる。
1606年(慶長11年) 内藤信成が長浜城主に移封される。
1607年(慶長12年)12月 失火により御殿・天守など本丸の全てを焼失。直ちに再建にかかる。
1608年(慶長13年) 本丸御殿・天守等完成。
1609年(慶長14年) 家康の第十子・徳川頼宣が駿府城主となる。
1616年(元和2年) 家康死去(75歳)。
家康没後の江戸時代
1619年(元和5年) 頼宣が和歌山城主に移封。
1624年(寛永元年) 徳川秀忠の第二子・徳川忠長が駿府城主となる。
1631年(寛永8年) 忠長が乱心、兄である徳川家光に改易と蟄居を命じられる。
1632年(寛永9年) 忠長が高崎城で自刃。以後、駿府は江戸幕府直轄(天領)となり、
          駿府城代・駿府定番(副城代に相当)が置かれる。
1635年(寛永12年) 城下の火災が城に延焼し、大半を焼失。
1638年(寛永15年) 御殿・櫓・城門等が再建されるが、城主がいないため天守は再建されず。
慶応4年 (1868年) 江戸城開城に伴い徳川慶喜は退隠。
          養嗣子田安亀之助 (徳川家達) が駿府藩主となり駿府城に移る。
交通アクセス

掛川城

掛川城(かけがわじょう)は、遠江国佐野郡掛川(現在の静岡県掛川市掛川)にあった城である。
別名 懸川城、懸河城、雲霧城、松尾城
城郭構造 平山城
天守構造 不明3重(1621年再建 非現存)
複合式望楼型3重4階(1996年 木造復元)
築城主 朝比奈泰煕
築城年 文明年間(1469年?1487年)
主な改修者 山内一豊
主な城主 朝比奈氏、山内氏、太田氏他
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 二の丸御殿・太鼓櫓・石垣・土塁・堀
指定文化財 国の重要文化財(二の丸御殿)
再建造物 -
戦国時代
室町時代中期の文明(1469年 - 1487年)年間に守護大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて
築城したと伝えられている。

天正年間から慶長初年
1590年(天正18年)に家康が東海から関東に移封されると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が
5万1千石(のち5万9千石)で入った。一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、
一豊は豊臣秀吉の死後は家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは自らの居城である掛川城を真先に
家康に提供し、家康に与することを正式に表明してその歓心を得た。このため戦後、高知に遷り、土佐国加増移封
掛川藩 歴代藩主
松平(久松)家 譜代:1万石 1601-1617 松平定勝 2代 伊勢桑名藩へ
安藤家 譜代:2.8万石 1617-1618 安藤直次 1代 徳川頼宣附家老】山城国淀藩
松平(久松)家 親藩:3万石 1618-1623 松平 定綱 1代 山城淀藩
朝倉家 譜代:2.6万石 1623-1632 朝倉宣正 1代 徳川忠長附家老 寛永9年改易
青山家 譜代:3万石 1632-1635 青山幸成 1代 尼崎藩へ
松平(桜井)家 譜代:4万石 1635-1639 松平忠重 2代 信濃飯山藩移封
本多家 譜代:7万石 1639-1644 本多忠義 1代 越後村上藩主移封
松平(藤井)家 譜代:2.5万石 1644-1648 松平忠晴 1代 丹波亀山藩移封
北条家 外様:3万石 1648-1658 北条氏重 1代 嗣子なく改易
井伊家 譜代:3.5万石 1658-1705 井伊直好 4代 与板藩移封
松平(桜井)家 譜代:4万石 1705-1711 松平忠喬 1代 尼崎藩移封
小笠原家 譜代:6万石 1711-1746 小笠原長煕 3代 棚倉藩移封
太田家 譜代:5万石 1746-1871 太田資俊 7代 幕末
交通アクセス

浜松城

浜松城(はままつじょう)は静岡県浜松市中区にある城。野面積みの石垣で有名。
別名 出世城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明
(鉄筋コンクリート造模擬・1958年)
築城主 今川貞相?
築城年 永正年間(1504年 - 1520年)?
主な改修者 徳川家康
主な城主 飯尾氏、松平氏、堀尾氏, 井上氏、水野氏他 
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 石垣、曲輪
指定文化財 -            昭和・平成 数回登城
再建造物 -
浜松城の前は曳馬城(引馬城、引間城)がこの浜松の拠点だった。
築城者については諸説あるが、瀬名姫の先祖である今川貞相が初めて築城したという。
元亀元年(1570年)に家康は武田信玄の侵攻に備えるため本拠地を三河国岡崎から遠江国曳馬へ移した。
元亀3年(1573年)、家康は浜松城から打って出たが、武田軍の巧妙な反撃に遭って敗北を喫した(三方ヶ原の戦い)。
浜松藩 歴代藩主
松平(桜井)家 譜代:5万石 1601-1609 松平忠頼 1代 久米左平次より殺害される
水野家 譜代:2.5万石 1609-1617 水野重央 1代 紀州藩 徳川頼宣の附家老
高力(こうりき)家 譜代:3.5万石 1617-1638 高力忠房 1代 肥前島原4万石へ移封
松平(大給)(おぎゅう)家 譜代:3.5万石 1638-1644 松平乗寿 1代 上野館林6万石に加増移封
太田家 譜代:3.5万石 1644-1678 太田資宗 2代 大坂城代
青山家 譜代:5万石 1678-1702 青山宗俊 3代 丹波亀山藩移封
松平(本庄)家 譜代:7万石 1702-1729 松平資俊 2代 三河吉田藩へ
松平(大河内・長沢)家 譜代:7万石 1729-1749 松平信祝 2代 三河吉田藩へ
松平(本庄)家 譜代:6万石 1749-1758 松平資訓 2代
井上家 譜代:6万石 1758-1817 井上正経 3代 陸奥棚倉藩へ
水野家 譜代:6万石 1817-1845 水野忠邦 2代 出羽山形に移封
井上家 譜代:6万石 1845- 井上正春 2代 幕末
交通アクセス

小山城 (遠江国)

小山城(こやまじょう)は遠江国(現在の静岡県榛原郡吉田町)にかつてあった城である。
別名 -
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 なし
模擬3層5階(1987年RC造り)
築城主 馬場信春
築城年 元亀2年(1571年)
主な改修者 -
主な城主 大熊朝秀
廃城年 天正10年(1582年)
遺構 土塁、曲輪、堀、馬出し
指定文化財 -
再建造物 -
当初、今川氏によって遠江南東部の大井川西方に築かれた山崎の砦が事の始まりである。
今川氏を倒した武田氏により、1571年(元亀2年)築城された。
縄張りは馬場信春。城将は大熊朝秀(長秀)。諏訪原城と共に大井川西方の防衛ラインを形成し、
高天神城攻略の為の拠点となった。また、諏訪原城落城後は高天神城への補給路の要となった。
1582年(天正10年)、甲州征伐のため駿河・甲斐に向け出陣した徳川家康の攻撃を受け落城した。
信玄後期~勝頼期の平山城の特徴である、台地の突端部を利用し戦闘正面を限定させる構造となっている。
江戸期には城は存在しない
交通アクセス

熱海城

熱海城(あたみじょう)は、静岡県熱海市の錦ヶ浦山頂にある観光施設である。
この熱海城という城郭は歴史的に実在したものではない。


清洲城

尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場=旧西春日井郡清洲町)にあった城。
別名 清須城
城郭構造 平城
天守構造 不明
望楼型3重4階 1989年RC造模擬
築城主 斯波義重
築城年 応永12年(1405年)
主な改修者 織田信長、織田信雄
主な城主 斯波氏、織田氏、豊臣氏、福島氏、徳川氏
廃城年 慶長15年(1610年)
遺構 移築現存櫓(名古屋城)、土塁
指定文化財 -
再建造物 -
応永12年(1405年)、尾張・遠江・越前守護の管領斯波義重によって築城。
信長は、この城から桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清須を居城とした。
1562年(永禄5年)には信長と徳川家康との間で同盟がこの城で結ばれた(清洲同盟)。
永禄6年(1563年)には美濃国斎藤氏との戦に備えて小牧山城に移り、以後は番城となった。
文禄4年(1595年)には福島正則の居城となった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには、東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した
福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、関ヶ原の戦傷がもとで病死すると
慶長12年(1607年)には家康の九男徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となった。
慶長14年(1609年)徳川家康によって、清須から名古屋への遷府が指令されると、慶長15年(1610年)より
清須城下町は名古屋城下に移転され(清洲越し)、清須城も名古屋城築城の際の資材として利用され、特に、
名古屋城御深井丸西北隅櫓は清須城天守の資材を転用して作られたため「清須櫓」とも呼ばれる。
慶長18年(1613年)名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城となる。

岩崎城
尾張国愛知郡(現在の愛知県日進市岩崎)にあった戦国時代の平山城である。
別名 -
城郭構造 平山城
天守構造 模擬3層4階(RC造り)
築城主 不明(織田信秀?)
築城年 不明
主な改修者 丹羽氏清
主な城主 織田氏・松平氏・丹羽氏
廃城年 1600年
遺構 曲輪・空堀・土塁・土橋・建造物跡・井戸跡など
指定文化財 -
再建造物 -
禄2年(1529年)、三河国岡崎城主・松平清康(徳川家康の祖父)が、織田信秀の属将・荒川頼宗の守備する
岩崎城を尾張国攻略の足がかりとして兵7000を率い攻め落とした。
天正12年(1584年)に起きた岩崎城の戦いとは、小牧・長久手の戦いのうち長久手の戦いの緒戦となった戦いである。
昭和62年(1987年)には、展望塔として五重構造の天守閣(模擬天守)が築城、「岩崎城址公園」として整備された

吉田城

三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった城。
別名 吉祥郭、峯野城、歯雑城
城郭構造 半円郭式平城
天守構造 なし
築城主 牧野古白?
築城年 永正2年(1505年)?
主な改修者 池田照政
主な城主 牧野氏、戸田氏、小原氏・・・
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 石垣、土塁、堀
指定文化財
再建造物 模擬鉄櫓
天正18年(1590年)、豊臣秀吉により家康が関東に移封されると、池田照政が東三河4郡を統べる15万2千石の
城主となった。幕藩体制の下で吉田城に三河吉田藩の藩庁が置かれた。
三河吉田藩 歴代藩主
松平(竹谷)家 譜代 :3万石 1601-1612 松平家清 2代 、嗣子が無く断絶・改易
松平(深溝)家 譜代 :3万石 1612-1632 松平忠利 2代 三河刈谷藩に移封
水野家(沼津) 譜代 :4万石 1632-1642 松平忠清 1代 信濃松本藩に移封
水野家(山形) 譜代:4.5万石 1642-1645 松平忠善 1代 三河岡崎藩に移封
小笠原家 譜代:4.5万石 1645-1697 小笠原忠知 4代 武蔵岩槻藩へ移封
久世家 譜代: 5万石 1697-1705 九世重之 1代 下総関宿藩へ移封
牧野家 譜代 :8万石 1705-1712 牧野成春 2代 日向延岡藩へ移封
松平(大河内)家 譜代 :7万石 1712-1729 松平信祝 1代 遠江浜松藩へ移封
松平(本庄)家 譜代 :7万石 1729-1749 松平資訓 1代 遠江浜松藩へ移封
松平(大河内)家 譜代: 7万石 1749-1871 松平信復 7代 幕末
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岡崎城

愛知県岡崎市康生町にあった城。徳川家康の生地である。別名、龍城。
徳川家康の生地である。別名、龍城。
別名 龍城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 -
複合連結式望楼型3重3階(1617年築・非現存)
築城主 西郷稠頼・頼嗣(三河国守護仁木氏の守護代)
築城年 1452年(享徳元年)
主な改修者 松平清康、田中吉政
主な城主 西郷氏、松平氏、田中氏、本多氏、水野氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 石垣、堀
指定文化財 -       平成13年11月登城 ホテルより撮影
再建造物 天守、門
菅生川と矢作川の合流地点にある龍頭山という丘陵を利用して造られている。
龍頭山の砦として三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼(つぎよりそして、その子頼嗣(よりつぐ)が
北方に対する防御として築城したものである。当時は、龍燈山城(りゅうとうざんじょう)いう
松平清康が西郷信貞(松平昌安)から奪い取り改修拡張整備したものが岡崎城である。
1542年(天文11年) 城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれる。
岡崎藩
岡崎城は徳川家康生誕の地であり、三河における徳川氏の最重要拠点であった。
小田原征伐後、家康が関八州に移封されると、豊臣氏の家臣・田中吉政が10万石で入った。
慶長6年(1602年)2月に徳川氏譜代の重臣・本多康重(本多彦次郎家)が上野国白井藩より5万石で入った。
これが、岡崎藩の立藩である。
三河岡崎藩 歴代藩主
本多家 譜代 :5万石 1602-1645 本多康重 4代 遠江横須賀藩へ移封
水野家 譜代 :5万石 1645-1762 水野忠善 7代 肥前唐津藩初代藩へ移封
松平(松井)家 譜代 :5万石 1762-1769 松平康福 1代 石見浜田藩へ再
本多家 譜代: 5万石 1769-1871 本多忠粛 5代 幕末
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名古屋城

尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城である。
通称、「金鯱城」、「金城」とも呼ばれた。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。
別名 金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城
城郭構造 梯郭式平城
天守構造 連結式層塔型5層5階地下1階1612年築
1959年再建(SRC造・外観復元)
築城主 徳川家康
築城年 1609年(慶長14年)
主な改修者 -
主な城主 尾張徳川氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 櫓3棟・門3棟、庭園、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(櫓3棟、門3棟          昭和・平成 登城
再建造物 天守、正門
名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、
徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。
以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。
姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、
尾張名古屋は城でもつ」と詠われている。
大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっている。
大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期まで現存していたが名古屋大空襲(1945年)によって天守群と御殿を焼失
尾張徳川家 (61万9500石)
徳川氏の支系徳川御三家の一つで、尾張藩主の家系。単に「尾張家」・「尾州家」とも言う。
単に「尾張家」・「尾州家」とも言う。徳川御三家中の筆頭格にして、諸大名の中でも最高の家格を有した。
歴代藩主
1.徳川義直
2.徳川光友
3.徳川綱誠
4.徳川吉通
5.徳川五郎太
6.徳川継友 
7.徳川宗春
8.徳川宗勝 支藩高須藩三代藩主から養子、尾張藩二代藩主光友の孫
9.徳川宗睦
10.徳川斉朝 一橋徳川家から養子
11.徳川斉温 徳川将軍家から養子、十一代将軍徳川家斉の実子
12.徳川斉荘 田安徳川家から養子、十一代将軍徳川家斉の実子
13.徳川慶臧 田安徳川家から養子
14.徳川慶勝 支藩高須藩から養子、水戸藩六代藩主徳川治保の曾孫
15.徳川茂徳 支藩高須藩十一代藩主から養子、十四代慶勝の実弟
16.徳川義宜 十四代慶勝の実子
17.徳川慶勝 十四代慶勝の再勤

尾張藩支藩
高須藩
高須藩(たかすはん)は、江戸時代、美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有した藩。
藩庁は高須陣屋(初期は高須城)。一時期、駒野館(宝暦13年(1763年)- 安永7年(1778年))
江戸中期以降は尾張藩支藩

小牧山城

小牧山(こまきやま)は、愛知県小牧市にある標高86mの山。
かつて織田信長の居城であった、小牧山城があった。
小牧・長久手の戦い
1584年(天正12年)、豊臣秀吉と徳川家康が戦った
小牧・長久手の戦いでは、家康がいち早く小牧山に目を付けて
本陣を置き、遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれる。
その後 山と城跡は、江戸時代を通じて尾張徳川家の領地として保護を受け
管理された。

犬山城

愛知県犬山市にあった城である。現在は江戸時代までに建造された天守が現存する。
別名 白帝城
城郭構造 平山城
天守構造 複合式望楼型 3層4階地下2階(1620年改)
築城主 織田広近
築城年 1469年(文明元年)
主な改修者 織田信康
主な城主 成瀬氏、織田氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存天守、石垣、土塁
指定文化財 国宝(天守)          昭和時代2回 登城
再建造物 櫓、門(模擬)
木曽川沿いの高さ約88メートルほどの丘に築かれた平山城である。
別名、白帝城は木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った
李白の詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)にちなんで荻生徂徠が命名したと伝えられる
前身となる砦を織田信長の叔父である信康が改修して築いたものを石川貞清が改修し現在のような形となった。
江戸時代には尾張藩の付家老が入城し、成瀬正成以来、成瀬氏9代が明治まで城主として居城とした。
現在のような姿となったのは成瀬正成が改修した1617年(元和3年)ごろである。
2004年まで、城主であった成瀬家が個人所有する文化財であったが、現在は財団法人に譲渡されている。
犬山藩
犬山藩(いぬやまはん)は、尾張国に存在した藩(ただし、藩と正式に認められて立藩したのは慶応4年
(1868年)1月の新政府の計らいによるものであり、江戸幕府の幕藩体制のもとでは、
藩として認められていなかった。
歴代藩主
小笠原家 譜代 :5万石 小笠原吉次 1代
平岩家 譜代 :11.3.万石 平岩親吉 1代 義直の附家老として尾張に移り
成瀬家 譜代 :3万石 1 .成瀬正成 9代 義直の附家老


岐阜城

岐阜城は、岐阜県岐阜市(旧・美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にある山城跡。
織田信長が、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である。
別名 稲葉山城
城郭構造 山城
天守構造 不明・非現存
独立式望楼型3重4階(RC造復興・1956年再建)
築城主 二階堂行政
築城年 1201年(建仁元年)
主な改修者 織田信長
主な城主 斎藤氏、織田氏
廃城年 1600年(慶長5年)
遺構 曲輪、石垣、土塁、堀切
指定文化財 国指定の史跡             平成 登城
再建造物 天守、門
1201年(建仁元年) - 二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされる。続いて行政の娘婿・佐藤朝光
その子伊賀光宗、光宗の弟・稲葉光資が砦の主となり支配。二階堂行藤の死後、廃城となる。
15世紀中頃 - 美濃守護代・斎藤利永が、この城を修復して居城とする。
1525年(大永5年)斎藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下
1533年(天文2年)新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主
1539年(天文8年) - 守護代になっていた斎藤利政が、稲葉山山頂に城作りを始める
1554年(天文23年) - 利政、城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する
1556年(弘治2年)4月 - 義龍、長良川の戦いにより道三を討ち取る。
1564年(永禄7年)2月 - 斎藤氏の家臣であった竹中重治と安藤守就が造反して挙兵。
1567年(永禄10年)9月 - かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が西美濃三人衆の内応により
                稲葉山城下に進攻(稲葉山城の戦い)。
同年 - 信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、城と町の名を「岐阜」と改めた。
1576年(天正4年) - 信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督及び美濃、尾張の2ヶ国を譲る。
1582年(天正10年)6月2日 - 信忠が本能寺の変で倒れると、家臣の斎藤利堯が岐阜城を乗っ取る。
                   しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると織田信孝に降伏。
1583年(天正11年)5月 - 池田恒興が美濃国にて13万石を拝し大垣城主となると、池田元助が岐阜城主となる。
1584年(天正12年) - 小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死したため、恒興の次男・池田輝政の居城となった。
1591年(天正19年)4月 - 転封により、輝政に代わって豊臣秀勝が岐阜城の城主となる。
1592年(文禄元年)9月9日 - 豊臣秀勝が没すると、織田秀信(幼名・三法師)が美濃国岐阜13万石を領有し
                  岐阜城の城主となる。 
1600年(慶長5年) - 織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につく。
1601年(慶長6年) - 徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。
              その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓などは加納城に、御殿建築は大垣市赤坂のお茶屋敷に移転
1601年(慶長6年) - 徳川家康は岐阜城の廃城

神岡城

岐阜県飛騨市の城
永禄7年(1564年)に武田信玄の命令で江馬時盛が築城し、
高原諏訪城の支城となった。
天正13年(1585年)の金森長近による飛騨攻略の結果、
その家臣・山田小十郎が城代となった。
元和元年(1615年)に江戸幕府の命令で破却され、
遺構は石垣と堀のみが残った。
現在は郷土館、鉱山資料館


七州

愛知県豊田市小坂本町付近にあった城である。挙母藩の藩庁が置かれた。通称は挙母城(ころもじょう)。
別名 挙母城
城郭構造 平山城
天守構造
築城主 内藤政苗
築城年 天明元年(1782年)
主な改修者
主な城主 内藤氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 石垣
指定文化財 市指定史跡
再建造物
挙母には、鎌倉時代の1309年に中條景長によって金谷城が築かれたが、戦国時代に今川氏、後に織田氏に
攻略され、江戸時代初期である1604年に三宅康貞が1万石で入封した。
挙母藩歴代藩主
三宅家 譜代 1万石 三宅康貞 4代 三河田原へ転封
本多家 譜代 1万石 本多忠利 3代 遠江相良へ転封
内藤家 譜代 2万石 内藤政苗 7代 幕末

墨俣城

別名 一夜城
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 不明(木下秀吉か)
築城年 不明(1561年/1566年か)
主な改修者 伊木忠次
主な城主 不明(木下秀吉か)
廃城年 不明
遺構 -
指定文化財 大垣市指定史跡
再建造物 模擬天守(資料館)
現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣にあった戦国時代の城である。
長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた
(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。
1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)がわずかな期間で
この地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城であるが、不明な点が多く、様々な議論がある。

大垣城

大垣城は、岐阜県大垣市郭町にあった平城。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれる
別名 麋城、巨鹿城
城郭構造 連郭輪郭複合式平城
天守構造 望楼型(1594年築)
複合式層塔型3重4階(1620年改)
(RC造外観復元・1959年再)
築城主 伝・竹腰尚綱
築城年 伝・明応9年(1500年)
主な改修者 氏家直元、伊藤祐盛
主な城主 竹腰氏、氏家氏、伊藤氏、岡部氏、・・・・・・
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 石垣、曲輪
指定文化財            昭和期 登城
再建造物 天守・乾櫓・艮櫓(外観復元)・門
1500年(明応9年)に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれたともいわれ、
1535年(天文4年) に宮川安定が大尻に築いたともいわれる
1560年(永禄3年) に氏家直元が城主となり、堀や土塁に手を加え、総囲いなどが整備された。
織田氏、斎藤氏と支配権が移った後、1583年(天正11年)に池田恒興が城主となり、
1588年(天正16年)に一柳直末によって若しくは 1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛が城主の時に改築が行われ、
           天守が築かれたとされる
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には、当時城主であった伊藤盛宗は西軍に属したため、
石田三成らが入城して西軍の根拠地となる。
大垣藩歴代藩主
慶長6年(1601年)2月、家康譜代の家臣・石川康通が上総鳴渡から5万石で入った。
石川家 譜代 :5万石 石川康通 3代 豊後日田藩主
松平(久松)家 親藩 :2.万石 松平忠良 2代 小諸藩藩主へ
岡部家 譜代 :5万石 岡部長盛 2代 播磨龍野藩へ
松平(久松)家 親藩 :6.万石 松平定綱 1代 桑名藩藩主へ
戸田家 譜代:10万石 戸田氏鉄 11代 幕末

郡上八幡城

郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう)は、岐阜県郡上市八幡町柳町にある城
戦国時代末期、郡上一円は篠脇城を居城とする東氏(とうし)によって支配されていた
別名 積翠城、郡城、虞城
城郭構造 平山城
天守構造 4層5階模擬木造
築城主 遠藤盛数
築城年 1559年(永禄2年)
主な改修者 遠藤常友
主な城主 遠藤氏、青山氏
廃城年 1871年
遺構 石垣
指定文化財 岐阜県史跡
郡上市有形文化財(模擬天守               昭和期 登城
再建造物 模擬天守
永禄2年(1559年)八幡山の上に砦を築いた遠藤盛数により滅ぼされた。
その後盛数の長男慶隆が城主となったが、本能寺の変後羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下に属していたため
追放、慶隆追放後一時稲葉貞通が城主となり、この際に天守や二の丸などが建造されている。
その後関ヶ原の戦いの功により再び慶隆が城主となり、以来廃藩置県まで郡上藩の藩庁となる。
5代藩主常久まで遠藤氏が城主となり、以下井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷。
現在の天守は、大垣城(当時)を参考に1933年(昭和8年)模擬天守としては全国的にも珍しい木造で造られた。
郡上藩歴代藩主
遠藤家 譜代 :2.7万石 遠藤慶隆 5代 5代 7歳の幼少で死去 改易
井上家 譜代 :5.万石 井上正任 2代 丹波亀山藩へ
金森家 外様 :3.8万石 金森頼時 2代 金森頼錦 藩政の失敗により、改易
青山家 譜代 :4.8.万石 青山幸道 7代 幕末へ

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