伊賀上野城

三重県伊賀市上野丸之内(上野公園)にあった平山城である。白鳳城、伊賀上野城とも呼ばれる
別名 白鳳城、伊賀上野城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 5層天守閣(完成間近に倒壊)
層塔型3層3階(木造・1935年模擬)
築城主 筒井定次
築城年 1585年(天正13年)
主な改修者 藤堂高虎
主な城主 筒井定次、藤堂氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 石垣、堀、武具蔵
指定文化財 国の史跡  俳聖殿(国の重要文化財)              昭和時代 登城
再建造物 模擬天守
伊賀上野城は、上野盆地のほぼ中央にある上野台地の北部にある標高184メートルほどの丘に建てられた
平山城である。北には服部川と柘植川、南には久米川、西側には木津川の本流が流れ、
城と城下町を取り巻く要害の地にある。
織田信雄(北畠信雄)の家臣である滝川雄利は平楽寺の跡に砦を築いた。その後天正13年(1585年)
に筒井定次によって改修を受け、慶長16年(1611年)に徳川家康の命を負って藤堂高虎が拡張した
伊賀上野藩歴代藩主
筒井家 外様:20万石 筒井定次 1代 慶長13年幕命により突如として改易
津藩歴代藩主
富田家 外様:7万石 1595年-1608 富田知信 2代 伊予宇和島藩へ、慶長18年改易
藤堂家 外様:27万石 藤堂高虎 12代 幕末
高石垣
大坂城の高石垣と共に日本で一、ニを競う石垣は1611年(慶長16年)
に「打込はぎ」の技法で築かれ、根石より天端まで29.7mの高さを誇り、
三方に折廻して、延長368mに及ぶ。


彦根城

滋賀県彦根市金亀町にあった城である。天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は国の特別史跡かつ
琵琶湖国定公園第1種特別地域である。
別名 金亀城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 複合式望楼型 3重3階地下1階(1604年築
築城主 井伊直継
築城年 1622年(元和8年)
主な城主 井伊氏
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 現存天守、 櫓、門、塀、馬屋、石垣、土塁、堀
国の重要文化財(櫓、門、馬屋等5棟)
国の特別史跡
指定文化財 国宝(天守等2棟)            昭和時代 3回登城
再建造物 御殿
江戸時代、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城である。
多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて
近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。
三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画
井伊直政は関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去
その後直継が家督を継いだが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して
彼の遺志を継ぎ、(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始した。
築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が
手伝いを命じられる天下普請であった。
歴代藩主
井伊家 譜代:20~25万石 1600~幕末 井伊直政 16代 徳川四天王の一人


長浜城

滋賀県長浜市公園町にある羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した城。
別名 今浜城
城郭構造 平城
天守構造 不明
鉄筋コンクリート造模擬
築城主 羽柴秀吉
築城年 1573年
主な改修者 伊部町組(現在の元浜町)大工 藤岡一門
主な城主 羽柴氏、柴田氏、山内氏)、内藤氏(信成系)
廃城年 1615年
遺構 石垣、堀
指定文化財 市指定史跡              昭和時代 登城
再建造物 模擬天守
1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を
拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。
本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得した柴田勝家の甥の柴田勝豊が入城するも、
まもなく勝家と対立した秀吉に攻められ落城した。賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が6年間在城し、
内藤信成・信正が城主になるが1615年(元和元年)に廃城になり資材の大半は彦根城の築城に流用された。
彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。

二条城

京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代の城である。
徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある。

別名


城郭構造 輪郭式平城
天守構造 複合式望楼型5重5階(1603年移築)
複合式層塔型5重5階(1624年築)(非現存)
築城主 徳川家康
築城年 1603年(慶長8年)
主な城主 徳川氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 御殿・櫓・門・石垣、堀、庭園
指定文化財 国の重要文化財(建造物22棟、
壁画1016面)
国宝(二の丸御殿6棟)
国史跡、特別名勝(二の丸庭園)
世界遺産(古都京都の文化財              昭和時代 登城
京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、
現在見られるものは、徳川氏によるものである。
城全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿
にある計1016点の障壁画が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。
さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。

福知山城

京都府福知山市字内記内記一丁目周辺にある平山城。江戸時代には福知山藩の居城であった
別名 横山城、臥龍城、八幡城、福智山城、掻上城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 複合・連結式望楼型(1699年(元禄12年)築)
現在:外観復元(1985年(昭和60年)再)
築城主 明智光秀
築城年 1579年(天正7年)
主な改修者 有馬豊氏
主な城主 明智氏、朽木氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 曲輪、石垣、井戸、移築番所・門
指定文化財 福知山市史跡
再建造物 大・小天守・釣鐘門
小笠原長清の末裔とされる福知山地方の国人塩見頼勝が、八幡山の脇に掻上城を築城したのが始まりと言われる。
織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた。豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、
明智光秀は山陰道側より入った。丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変となり、豊臣秀吉軍が福智山城を押し掛け、明智秀満の父を捕え、
京に連行し同年7月2日粟田口で処刑された。
福知山城はその後、丹波亀山城を居城とする豊臣秀勝が城主となり、次いで杉原家次が城主となったか病没後、
小野木重勝が城主となった。
豊臣秀吉の没後、関ヶ原の戦いでは小野木重勝は西軍に属し、東軍に属していた細川幽斎、細川忠興親子が
立て篭もる田辺城を攻めた。
福知山藩歴代藩主
有馬家 外様:8万石 有馬豊氏 1代
岡部家 譜代:5万石 .岡部長盛 1代
稲葉家 外様:4.5万石 稲葉紀通 1代 自殺改易
松平(深溝)家 譜代:4.5万石 松平忠房 1代 島原藩へ
朽木(くつき)家 譜代:3.2万石 朽木稙昌 13代 幕末
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初は大谷吉継に従って西軍に属したものの
小早川秀秋に呼応して脇坂安治や小川祐忠、赤座直保らと共に東軍に寝返った。
戦後、通款を明らかにしなかったとの理由により減封(9,590石)された。
後に末子の稙綱が3代将軍徳川家光の信頼を受けて大名として取り立てられた

伏見城

京都市伏見区桃山町周辺にあった城
別名 桃山城、指月城、木幡山城

鳥居元忠
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明(指月山・1592年築)
(木幡山・1596年築/1601年再)
複合式望楼型5重6階(RC造模擬・1964年築)
築城主 豊臣秀吉
築城年 1592年(文禄元年)
主な改修者 徳川家康
主な城主 豊臣氏、徳川氏
廃城年 1623年(元和9年)
遺構 移築門、石垣、堀
指定文化財 伏見桃山陵が宮内庁治定             昭和時代 登城
再建造物 模擬天守
伏見城は3度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に
豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月に建設を始めた
慶長伏見地震によって倒壊した。このため、指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き直されることになり、
翌1597年(慶長2年)に完成した。しかし、秀吉はその1年後の1598年(慶長3年)に城内で没した。
秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康が
この城に入り政務をとった。
関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、石田三成派の西軍に
攻められて落城し建物の大半が焼失した。なお、立てこもっていた徳川家の家臣らが自刃した建物の床板は、
供養も兼ねて京都市の養源院、正伝寺などで天井板として再利用されたとの言い伝えがあり、
血天井として現在も生々しい痕を見ることができる。
廃城とされた。このとき建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築された。
徳川家康は翌慶長5年(1600年)6月、会津征伐に動き出す。この間隙をぬって、小早川秀秋、島津義弘連合軍は
鳥居元忠が城代となっている伏見城を4万の兵で攻城、同年8月1日炎上、落城した。


田辺城

京都府舞鶴市にある戦国時代から江戸時代にかけての城。別名は舞鶴城(ぶがくじょう)。
別名 舞鶴城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 不明
築城主 細川藤孝
築城年 天正7年(1579年)
主な改修者 -
主な城主 細川氏、京極氏、牧野氏
廃城年 明治7年(1873年)
遺構 石垣、堀、庭園
指定文化財 -
再建造物 櫓・門・塀、模擬櫓
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いが勃発すると、当主になっていた細川忠興は石田三成率いる西軍の誘いを退け、
徳川家康率いる東軍に加勢した。
隠居していた藤孝は自分の居城である宮津城では西軍の攻勢を防げないと考え、宮津城を焼き払い、
田辺城に入城、雲霞のごとく取り囲む西軍を迎え撃った。
こののち細川忠興は九州小倉に転封され、京極高知が丹後一国12万3千石を与えられ仮に田辺城に入城したが、
宮津城を再築し宮津城へ本拠地を移した。このとき田辺城の建造物は、ことごとく破壊されたと伝えられている。
京極高知の遺言によって京極家は嫡男・高広が宮津藩7万5千石、次男・高三が田辺藩(舞鶴藩)3万5千石、
養子・高信が峰山藩1万3千石を相続した。
初代舞鶴藩主となった京極高三により石垣の修復や櫓の再建が図られ、荒廃していた田辺城は再興された。
京極氏は3代続いた後、豊岡藩へ転封となり、代わって牧野氏が1668年(寛文8年)3万5千石で入封すると、
田辺城の大手門その他の城門・石垣などが改築され、それを代々世襲し明治の時代まで繁栄した。

大阪城

摂津国東成郡大坂にあった安土桃山時代から江戸時代の城および、由来する大阪市の地名である。
別名 金城、錦城
城郭構造 輪郭式平城または平山城
天守構造 複合式望楼型(豊臣期・1585年築)
独立式層塔型5重5階地下1階(徳川期・1626年)
独立式望楼型5重8階(1931年SRC造復興
築城主 豊臣秀吉
築城年 1583年(天正11年)
主な改修者 徳川秀忠
主な城主 豊臣氏、奥平氏、徳川氏
廃城年 1868年(明治元年)
遺構 櫓、門、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(櫓・門など)
再建造物 登録有形文化財(再建天守)           昭和・平成時代 4回登城
天守
戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦で焼失した。
その跡に豊臣秀吉によって大坂城が築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、
大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失した。徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして
縄張を改め再建した。その後、幕府の近畿地方、および西日本支配の拠点となった。姫路城、熊本城と共に
日本三名城の一つに数えられている。
江戸時代
1603年(慶長8年)に徳川幕府が成立した後も、秀頼は大坂城に留まり摂津・河内・和泉を支配していたが、
1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で家康によって構成された大軍に攻められ、篭城戦を行った。
そして、その講和に際して惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを
残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の
の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡した。
落城に際して、灰燼に帰した大坂城は初め家康の外孫松平忠明に与えられたが、1619年(元和5年)に
幕府直轄領(天領)に編入された。翌1620年(元和5年)から、2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が
始められ、3期にわたる工事を経て1629年(寛永6年)に完成した。
幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる
大坂城代が預かり、これも譜代大名からなる2名の大坂定番と4名の大坂加番が警備を担当した。


岸和田城

大阪府岸和田市岸城町にあった城である。別名千亀利城(ちきりじょう)。
別名 岸ノ和田城、滕城、蟄亀利城、千亀利城

城郭構造 輪郭式平城
天守構造 複合式層塔型5重5階(1619年改)
現在:復興天守(1954年再)
築城主 信濃泰義か
築城年 応永年間(1394年-1428年)
主な改修者 三好義賢、小出秀政、岡部宣勝
主な城主 小出氏、岡部氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 石垣、堀
指定文化財 大阪府史跡           昭和60年代 登城
再建造物 復興天守、櫓・門
和泉国守護であった楠木正成が甥の和田高家を岸和田に派遣して岸和田古城を築かせた。
建武元年(1334年)前後に、和田高家が現在の岸和田城跡から約500m東(野田町1丁目)に岸和田古城を築城。
「岸の城」とも言われた。その後『日本城郭大系』によると信濃泰義によって現在地に移築されたとしている
羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され、その急ごしらえで造られていたものを、小出秀政が
5重天守を上げる本格的な構えとした。
天正11年(1583年)豊臣秀吉は、岸和田城を中村一氏の配下に置き、根来衆、雑賀衆、粉河衆などの
一揆衆討伐を命じる。そんな中翌天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの留守を狙って、
根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍は総数3万兵が侵攻し岸和田城に攻城戦を仕掛けてきた。これに対して
城兵8000兵で対抗した岸和田合戦である。
その後豊臣秀吉は小出秀政を岸和田城の城主とした。最初4千石であった小出秀政の知行も、
文禄3年(1594年)1万石、翌文禄4年(1595年)3万石に拡大した。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では松平信吉が城主となり、のちに北条氏重、その後は小出吉英、
元和5年(1619年)松平康重が城主となったようである。
岸和田藩歴代藩主
小出家 外様::3万石 小出秀政 3代 但馬国出石藩6万石へ移封
松平〔松井〕家 譜代:5万石 松平康重 2代 播磨山崎藩へ移封
岡部家 譜代:5.3万石 岡部宣勝 13代 幕末


郡山城

奈良県大和郡山市にあった城。豊臣政権の中初期には秀吉の実弟羽柴秀長の居城となり、その領国であった
大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。

別名 雁陣之城
城郭構造 輪郭式平山城
天守構造 伝・5層6階(不明・1583年築・非現存)
築城主 郡山衆及び筒井順慶
築城年 1162年(応保2年)及び1580年(天正8年)
主な改修者 筒井順慶、豊臣秀長、増田長盛
主な城主 筒井氏、豊臣氏、水野氏、柳沢氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 石垣、堀
指定文化財 奈良県指定史跡
再建造物 大手向櫓、東櫓、大手門
郡山城は、秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵南端上に位置する。平山城または平城として
明智光秀や藤堂高虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修された。
筒井順慶時代
筒井城の戦いで筒井城が松永久秀軍に属すると、郡山城は福住中定城と共に筒井順慶軍の拠点となっており、
元亀元年(1570年)3月から元亀2年(1571年)8月まで松永久秀、松永久通親子の攻撃をうけていた。
筒井順慶が織田信長の援助を得て、天正8年(1580年)11月大和国守護となると郡山辰巳は殺され、
家来衆はそのまま筒井順慶に組み込まれた。
豊臣時代初中期
1585年豊臣秀吉の弟豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三ヵ国100万石余の領主として郡山城に入る。
豊臣時代後期
五奉行の一人増田長盛が22万3千石の領主として入城する。
関ヶ原後に増田長盛は高野山に追放となり、郡山城の建築物は徳川家により伏見城に移築された。
郡山藩歴代藩主
水野家〔宗家〕 譜代:6万石 1615 - 1619 水野勝成 1代 備後福山藩へ
松平(奥平)家 譜代:15万石 1639 - 1679 松平政勝 3代 陸奥福島藩15万石へ移封
松平(藤井)家 譜代:12万石 1679 - 1685 松平信之 古河藩9万石へ
本多家 譜代:12万石 1685 - 1723 本多忠平 5代 継嗣が無く、郡山藩本多氏は断絶
柳沢家 譜代 15.1万石 1724 - 1871 柳沢吉里 6代 幕末
桜の名所として、日本さくら名所100選に選定されている。

和歌山城

和歌山県和歌山市一番丁にある日本の城(平山城)である。
徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城である。国の史跡に指定されている。

別名 虎伏城、竹垣城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 連立式層塔型3重3階(1605年または
      1619年築・1850年再)
外観復元(1958年再)
築城主 豊臣秀長
築城年 1585年(天正13年)
主な改修者 浅野幸長、徳川頼宣
主な城主 豊臣氏、浅野氏、徳川氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 門・塀、庭園、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(岡口門・続塀)
国の史跡、国の名勝(西の丸庭園)          昭和60年代 登城
再建造物 天守、櫓、門、橋
和歌山城は和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)に建造され、北部を流れる
紀の川を天然の堀とする。
安土桃山時代
豊臣秀吉の弟・秀長は、天正13年)の紀州征伐の副将として参陣し、平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増された。
加増された。当時は「若山」と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じ、自ら「吹上の峰」を城地に選定し縄張りを行った
普請奉行に藤堂高虎、補佐役に羽田正親、横浜良慶を任じ、1年で完成させた。この際に和歌山と改められている。
1586年(天正14年)、桑山重晴に3万石を与え城代に据えた。重晴は本丸を中心に手直しを行った。
1596年(慶長元年)重晴隠居に伴い孫の一晴が城代を継いだ。
郡山藩歴代藩主
浅野家 外様 : 37.6万 慶長5年 -元和5年 浅野幸長 2代 安芸国広島藩へ
紀州徳川家 親藩 - 55.5万 徳川頼宣 11代 初代は徳川家康の十男


姫路城

播磨国飾東郡姫路(兵庫県姫路市)にあった城である。
建築物は国宝や重要文化財、城跡は国の特別史跡に指定されている
別名 白鷺城
城郭構造 渦郭式平山城
天守構造 連立式望楼型
5重6階地下1階
築城主 赤松貞範
築城年 1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)
主な改修者 黒田重隆、羽柴秀吉、池田輝政
主な城主 田氏、池田氏、本多氏、酒井氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 現存天守・櫓・門・塀/石垣・堀・土塁・庭園
指定文化財 国宝(大小天守と渡櫓等8棟)
重要文化財(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)           昭和・平成 3回 登城
再建造物
1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)、次男の赤松貞範が称名寺を麓に移し姫山に築城し姫山城とする
1576年(天正4年)、中国攻めを進める織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐する
1583年(天正11年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟・豊臣秀長が入った
1585年(天正13年)には大和郡山へと転封。替わって木下家定が入った。
姫路藩歴代藩主
池田家 外様 52万石 1601-1617 池田輝政 3代 因幡鳥取藩へ移封
本多家 譜代 15万石 1617-1639 本多忠政 3代 大和郡山藩 15万石 移封
松平(奥平)家 親藩 18万石 1639-1648 松平忠明 2代 出羽国山形藩15万石 移封
松平(越前)家 親藩 15万石 1648-1649 松平直基 2代 越後村上藩に国替
榊原(松平)家 譜代 15万石 1649-1667 榊原忠次 3代 越後村上に国替
松平(越前)家 親藩 15万石 松平直矩 1代
本多家 譜代 15万石 1682-1704 本多忠国 2代 越後国村上藩に移封
榊原家 譜代 15万石 1704-1741 榊原政邦 4代 越後高田藩初代藩に国替え
松平(越前)家 親藩 15万石 1741-1749 松平明矩 2代 上野前橋藩へ
酒井家 譜代 15万石 1749-1871 酒井忠恭 10代 幕末
1993年世界文化遺産

洲本城

淡路国津名郡、現在の兵庫県洲本市にある城。別名三熊城。国の史跡に指定されている。
別名 三熊城
城郭構造 山城、平城
天守構造 連結式(非現存)
築城主 安宅治興
築城年 室町時代後期
主な改修者 脇坂氏(山城)
主な城主 安宅氏、仙石氏、脇坂氏、藤堂氏、・・・
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 石垣、天守台、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 模擬天守
1526年(大永6年)、三好氏の重臣・安宅治興が築城した。
淡路洲本藩
賤ヶ岳の七本槍の一人である脇坂安治が3万石で入ったことにより、淡路洲本藩が立藩する。
脇坂家 外様3万石 脇坂安治 1代 伊予大洲藩5万3000石へ
池田家 外様3万石 池田忠雄 1代 池田輝政の三男
大坂夏の陣の後、徳島藩の蜂須賀氏の所領となり、筆頭家老の稲田氏一族が由良城代となるが
交通の便が悪いなどの理由から1631年から1635年にかけて由良城を廃して洲本城に再び本拠を移した。

明石城

所在地は兵庫県明石市明石公園。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれた。
別名 喜春城、錦江城

坤櫓(左)と巽櫓(右)
城郭構造 連郭梯郭混合式平山城
天守構造 なし(天守台はあり)
築城主 小笠原忠真
築城年 1618年(元和4年)
主な改修者 松平直常
主な城主 松平氏(越前系)
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 石垣、堀、移築門
指定文化財 国の重要文化財(巽櫓・坤櫓)、国の史跡
再建造物
江戸時代
1617年(元和3年)信州松本城主より明石藩主となった小笠原忠真は、明石城の西方、明石川河口西岸にあった
            船上城に入城した。
譜代大名たる小笠原氏10万石の居城として城郭を建設するよう、同年に2代将軍徳川秀忠より築城命令された。
明石藩歴代藩主
小笠原家 譜代10万石 1617年 - 1632年 小笠原忠真 1代 豊前国小倉藩15万石へ移封
松平〔戸田)〕家 譜代 7万石 1633年 - 1639年 松平庸直  2代 美濃国加納藩7万石へ移封
大久保家 譜代 7万石 1639年 - 1649年 大久保忠職 1代 肥前唐津藩8.3万石へ
松平〔藤井〕家 譜代 7万石 1649年 - 1679年 松平忠国  2代 大和郡山藩12万石へ国替え
本多家 譜代 6万石 1679年 - 1682年 本多政利  1代 大久保藩1万石へ
松平〔越前〕家 親藩 6万石 1682年 - 1871年 松平直明 10代 幕末

赤穂城

兵庫県赤穂市にある城。国の史跡に指定され、庭園は名勝に指定されている。
別名・加里屋城、大鷹城。『忠臣蔵』の舞台の一つとして知られる

別名 加里屋城、大鷹城

大手隅櫓と大手門
城郭構造 変形輪郭式平城
天守構造 建造されず
築城主 岡光広
築城年 1466年(文正元年)?1483年(文明15年)
主な改修者 池田長政、浅野長直
主な城主 池田氏、浅野氏、森氏
廃城年 73年(明治6年
遺構 石垣、堀
指定文化財 国の史跡、名勝(庭園)
再建造物 櫓・門、庭園(復元中)
1466年(文正元年)-1483年(文明15年)頃、岡光広が加里屋城を築城。この地での最初の築城となる。
1600年(慶長5年) 姫路藩主池田輝政の弟・長政が赤穂領主となり赤穂城の前身、大鷹城を赤穂郡加里屋に築城
1613年(慶長18年) 赤穂は輝政の二男で岡山藩主忠継の所領となり、一重の堀・石垣・櫓・門が造営される。
1615年(元和元年) 忠継の弟・政綱が3万5千石を与えられ赤穂藩が立藩。御殿が造営される。
1631年(寛永8年) 政綱が嗣子なく死去し、弟の輝興が入封。更に櫓・馬屋を造営。
1645年(正保2年) 輝興、発狂により改易。城は備中松山藩主水谷勝隆預かりとなる。
同年、浅野長直が5万3千石で入封する。
池田家 外様 3.5万石 1615年 - 1645年 池田政綱 2代 2代突如として発狂したし改易
浅野家 外様 5万石 1645年 - 1701年 浅野長直 3代 赤穂浪士事件 改易
森家 外様 2万石 1706年 - 1871年 森 長直 13代 幕末
森家
江戸中期の10年間存在した藩。元禄10年(1697年)森成利(蘭丸)の弟・忠政の家系で
美作国津山藩主・森家の断絶にともない、津山藩2代藩主であった隠居中の長継が2万石で立藩した


竹田城

現在の兵庫県朝来市和田山町竹田にあった山城。 天空城や日本のマチュピチュなどの異名をもつ。
別名 天空の城、虎臥城、安井ノ城
城郭構造 梯郭式山城
天守構造 不明(天守台有り)
築城主 山名宗全(伝承)
築城年 1431年(永享3年)(伝承)
主な改修者 羽柴秀長、赤松広秀(斎村政広)
主な城主 太田垣氏、羽柴秀長、赤松広秀
廃城年 1600年(慶長5年)
遺構 石垣、堀、井戸など
指定文化財 国の指定史跡
再建造物
東に立雲峡を望む標高353.7メートルの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400メートル、
東西約100メートル。


出石城

兵庫県豊岡市出石町にあった城。出石城跡 山名氏の最盛期、但馬国守護となった山名時義が、 
出石神社の北側の此隅山に、此隅山城(このすみやまじょう)を築いた。
別名 高城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 建造されず
築城主 小出吉英
築城年 1604年
主な改修者 -
主な城主 小出氏、松平氏、仙石氏
廃城年 1871年
遺構 櫓、石垣、堀
指定文化財 市史跡
再建造物 門・橋、模擬櫓
江戸時代は、出石藩の藩庁となり、小出英及が1696年(元禄9)3歳で死去すると小出氏は無嗣改易となった。
代わって松平(藤井)忠周が入城。1706年(宝永3)忠周が転封となると、仙石政明が入城し、
廃藩置県まで仙石氏の居城となった。
辰鼓櫓、堀、石垣などが現存、また隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、堀の周囲一帯は
登城橋河川公園として整備されて、観光地となっている

河原城

鳥取県鳥取市河原町谷一木にかつて存在した城。正式名称は「丸山城」であるが、
鳥取市内には丸山城という名の城跡がこの城を含めて3つあり、旧邑美郡に限ってもこの城を含めて2つある。

別名 平山城
城郭構造
天守構造
築城主 武田高信か?
築城年 永禄年間か?
主な改修者 羽柴秀吉
主な城主 羽柴秀吉
廃城年 不明
遺構 不明
指定文化財 曲輪、土塁、竪堀
再建造物 河原城模擬天守
美作方面への街道と播磨方面への街道の結節点であり、重要な水運路でもあった千代川を見下ろす要衝の
小丘に建てられ、1580年の羽柴秀吉による第一次鳥取城攻略戦の際に陣が置かれたと伝えられている
城跡には犬山城天守を模した展望台(模擬天守)が建設され、「河原城」「お城山展望台」と呼ばれている。
歴史
武田高信が守る大振袖山城の砦として建造される。正確な建造年代は不明
1580年(天正8年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が鳥取城の山名豊国を攻める際に陣がおかれる
(第一次鳥取城攻め)。鳥取城の落城後は廃城となったと思われる。
1991年(平成3年)から翌年にかけて城跡の全面発掘調査が行われ、曲輪跡・堀切跡・掘っ立て柱の跡などが
発見され、古城跡であったことが確認された。

羽衣石城

鳥取県東伯郡湯梨浜町にある中世の山城跡。
別名
城郭構造 連郭式山城
天守構造
築城主 南条貞宗
築城年 貞治2年(1366年)
主な改修者
主な城主 南条氏、尼子国久、毛利元経
廃城年 慶長5年(1600年)
遺構 石垣、井戸
指定文化財
再建造物 模擬天守
城跡は東郷池の南、羽衣石川上流にある羽衣石山(標高372m)にあり、山陰道と東郷池に臨む東伯耆の要衝に
永禄から天正の年間にかけてこの地を治めていた南条氏の本拠地で、伯耆の支配権を巡り尼子氏や毛利氏が
激しい攻防を繰り返した
慶長5年(1600年)、南条元忠は西軍について敗れ、廃城となる。
昭和6年(1931年)、南条氏の子孫の手により、山上に鉄骨・トタン葺き・トタン張りの模擬天守が建てられた。
平成2年(1990年)、模擬天守が建て替えられ、中腹までのアクセス道が整備された。

茶臼山城

備前国(現代の岡山県赤磐市周匝)にあった城である
茶臼山城(ちゃうすやまじょう)は、備前国(現代の岡山県赤磐市周匝)にあった城である。
築城時期は不明だが、天文年間(1532年 - 1555年)初め頃とされている。
茶臼山(標高約180メートル)は、吉井川本流と吉野川の合流地点である。
1579年(天正7年) - 宇喜多氏の美作侵攻により、落城。
1584年(天正12年) - 毛利元清が民政充実のため茶臼山へ移城。
1600年(慶長5年) - 関ヶ原の戦いに西軍が敗れ、毛利氏が萩へ西帰するまで
16年間在城した。
江戸時代には備前池田藩が周匝に一族で家老の池田伊賀守(片桐池田家)
を配置し、陣屋を構えていた。

江美城

鳥取県日野郡江府町にあった戦国時代の城。江尾城、江尾要害とも記される。
江尾城は、大山の火山活動でできた火砕流台地が日野川に接する、舌状に突き出した断崖に築かれている。
はっきりした築城年代は不明だが、城跡説明板によると1484年(文明16年)にこの地の国人・蜂塚安房守が築城し、
4代にわたって居住したという。その後1524年(大永4年)の尼子氏の伯耆侵攻(大永の五月崩れ)に伴って、
尼子氏の支配下に入った。
1564年(永禄7年)8月毛利方の将・杉原盛重の猛攻を受け、4代・蜂塚右衛門尉は一族とともに自刃し落城する。

松江城

別名 千鳥城
城郭構造 輪郭連郭複合式平山城             
天守構造 複合式望楼型 4重5階地下1階
(木造 1607年築 現存)
築城主 堀尾忠氏
築城年 1611年(慶長16年)
主な改修者 京極忠高
主な城主 堀尾氏、京極氏、松平氏
廃城年 1871年(明治4年
遺構 現存天守、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(天守国の史跡           昭和60年代 登城
再建造物 櫓・門・橋
築城
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、24万石を得て月山富田城に
入城し松江藩が成立。月山富田城は中世山城であり近世城下町形成には不利であったので、
末次城跡を近世城郭の候補とした。
1607年(慶長12年) 末次城のあった亀田山に築城を開始。
松江藩
出雲一国を領有した藩。藩庁は松江城(島根県松江市殿町)。藩主は外様大名の堀尾氏、京極氏と続き、
親藩の越前系松平氏が廃藩置県まで支配した。
歴代藩
堀尾家 外様 24万石 1600年 - 1633年 堀尾吉晴 3代 も嗣子が無く断絶
京極家 外様 24万石 1634年 - 1637年 京極忠高 1代 京極氏は改易 後代大名復帰
松平〔越前〕家 親藩 18.3万 1638年 - 1871年 松平直政 10代 幕末

岡山城

岡山県岡山市北区にある。別名に烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)。国指定の史跡。
別名 烏城、金烏城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 複合式望楼型4重6階(1597年築)
鉄筋コンクリート造外観復元・1966年)
築城主 上神高直?
築城年 1346年?1369年(正平年間)
主な改修者 宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄
主な城主 宇喜多氏、小早川氏、池田氏
廃城年 1873年(明治6年)
遺構 櫓、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(月見櫓、西の丸西手櫓
国の史跡            昭和60年代 登城
再建造物 天守・門・塀
戦国時代に、備前西部から美作、備中に勢力を伸ばした宇喜多氏が本拠としたことで近世城郭の基礎が生まれ、
その後小早川氏、両池田氏により整備、拡張が行われた

江戸時代
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となった。
代わって小早川秀秋が備前・美作52万石の領主として入城した。

江戸時代以前の岡山城主
豊臣一門格 57万4000石 (1582年 - 1600年)
        1.秀家(ひでいえ) - 従三位・権中納言、参議

歴代藩
小早川家 外様 51万石 1600年 - 1602年 小早川秀秋 1代 狂乱し、無嗣断絶により改易
池田家 外様 31.5万 1632年 - 1871年 池田光政 10代 幕末
支藩
鴨方藩:石高は2万5千石
鴨方藩(かもがたはん)は備中国浅口郡(現:岡山県浅口市)・小田郡・窪屋郡を領有し、藩庁は鴨方陣屋。
寛文12年(1672年)光政の二男・政言が立藩。藩主はほとんど岡山城下に居住していた。
生坂藩:石高は1万5千石
生坂藩(いくさかはん)は備中国窪屋郡生坂(現・倉敷市)周辺を領有した。この石高は岡山藩の内高に含まれる。
寛文12年(1672年)光政の三男・輝録が立藩。藩主は岡山城下に居住していた。 幕末まで続く
隣接する大名庭園・後楽園は、水戸・偕楽園、金沢・兼六園とともに、日本三名園として並び称される。
焼失前の岡山城天守

備中松山城

岡山県高梁市内山下にあった山城である。別名、高梁城(たかはしじょう)。
日本100名城。四国の愛媛県松山市にあった松山城 (伊予国)との混同を避けるために、一般的には
「備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)」と呼ぶ。
別名 高梁城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 複合式望楼型2重2階(1681年改)
築城主 秋葉重信
築城年 1240年
主な改修者 三村元親、水谷勝宗
主な城主 三村氏、水谷氏、板倉氏
廃城年 1874年(明治7年)
遺構 現存天守・櫓・塀、石垣、土塁
指定文化財 国の重要文化財(天守、二重櫓、土塀)
国の史跡            昭和60年代 登城
再建造物 櫓・門・塀
仁治元年(1240年)、秋葉重信が備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を築いた
戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった(現在も石垣の一部が残る)。
天正2年(1574年)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。
翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続く(備中兵乱)。城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害
江戸時代
慶長4年(1600年)関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につき敗れた後、徳川幕府が城番(小堀正次・政一)を置いた。
備中松山藩歴代藩主
小堀家 外様:1..5万石 1600年 - 1616年 小堀正次 2代 近江小室藩 小堀 遠州の名で知られる
池田家 外様:6..5万石 1617年 - 1641年 池田長幸 2代 断絶
水谷家 外様:5万石 1642年 - 1693年 水谷勝隆 3代 無嗣断絶で改易
安藤家 譜代:6..5万石 1695年 - 1711年 安藤重博 2代 美濃加納藩の初代藩主
石川家 譜代:6万石 1711年 - 1744年 石川総慶 1代 伊勢亀山藩の初代藩主移封
板倉家 譜代:5万石 1744年 - 1871年 板倉勝澄 8代 幕末
日本三大山城の一つとされる。御根小屋の跡地には高梁高校がある。

津山城

所在地は岡山県津山市山下。別名・鶴山城(かくざんじょう)。国の史跡。
城郭の形式は梯郭式平山城。日本三大平山城のひとつ。 津山盆地の中央部に位置する。

別名 鶴山城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 独立式層塔型4重5階(非現存)
築城主 山名忠政
築城年 嘉吉年間(1441年~1444年)
主な改修者 森忠政
主な城主 山名氏、森氏、松平氏
廃城年 明治6年(1873年)
遺構 石垣、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 備中櫓、塀
嘉吉年間(1441年 - 1444年):美作国の守護大名であった山名教清が、一族の山名忠政に現在の津山城のある
丘陵(鶴山)に鶴山城を築かせたのが最初である。
江戸時代
慶長8年(1603年):森忠政が18万6千石で入封し津山藩が立藩。
津山藩歴代藩主
森家 外様:18.6万 1603年 - 1697年 森忠政 5代 発狂した、改易後、後代は中西江原藩2万石
松平〔越前〕家 親藩 10万石 1698年 - 1871年 松平宣富 9代 幕末
森家の5代衆利(あつとし)は関家の養子で幕政を批判して発狂した、改易となった。
 隠居の長継ががまだ存命だったので備中西江原藩2万石を与えられ
 子孫は同藩主として存続した。

往時は外郭を含めると77棟の櫓を持ち、広島城の76棟、
姫路城61棟をしのぐ櫓の多さであったが、
明治6年(1873年)の廃城令により天守・櫓などの建物が破却


  津山城古写真

広島城

広島県広島市中区基町にあった城。国の史跡。日本100名城の一つ。
最も広かった時代の曲輪のうち内堀に囲まれた本丸と二の丸と三の丸の一部が現存し、広さ約12万平方メートル
別名 鯉城、在間城、当麻城
城郭構造 輪郭式平城
天守構造 複合連結式望楼型5重5階(1599年・非現存
外観復元(SRC造・1958年再)
築城主 毛利輝元
築城年 1589年
主な改修者 福島正則
主な城主 毛利氏、福島氏、浅野氏
廃城年 1874年
遺構 石垣、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 大天守・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓・表御門
1591年(天正19年)1月8日に輝元は入城した。
1599年(慶長4年)に全工事が完了し落成した。なお「広島」という名はこの頃に付けられたと言われている
1600年(慶長5年)城主となった福島正則による改築があり、築城当時の広島城がどのような姿であったか不明である。

福島家 外様:49.8万 1600年-1619年 福島正則 1代 武家諸法度違反に問われる。改易
浅野家 外様:42.6万 1619年-1871年 浅野長晟 12代 幕末
名古屋城、岡山城と共に日本三大平城とも言われる。

現在の大天守は1958年(昭和33年)に「広島復興大博覧会」が
開催された際、外観復元された。


明治時代の大天守絵葉書


福山城

広島県福山市丸之内1丁目にあった城で、国の史跡に指定されている。
久松城(ひさまつじょう)、葦陽城(いようじょう)とも呼ばれる。2006年2月13日、日本100名城に選定された。

別名 久松城、葦陽城
城郭構造 輪郭式平山城
天守構造 複合式層塔型5重6階(1622年)
(1966年RC造復興)
築城主 水野勝成
築城年 1622年
主な改修者 阿部氏
主な城主 水野氏、松平氏、阿部氏
廃城年 1874年
遺構 櫓・門・鐘楼、石垣
指定文化財 国の重要文化財(伏見櫓、筋鉄御門)
福山市重要文化財(鐘楼)              昭和60年代 登城
再建造物 天守、月見櫓、筋鉄御門、御湯殿
福山城は元和8年(1622年)に完成した。新規の築城としては近世城郭で最も新しい城で、備後福山藩の
藩庁かつ藩主の居城であった。

備後福山藩歴代藩主
水野家〔宗家〕 譜代:10万 1619年 - 1698年 水野勝成 5代 幼年で無嗣断絶、福山藩は改易
天領 1698年 - 1700年 城番:京極高或、代官:山木与惣左衛門・・
松平〔奥平〕家 譜代 10万石 1700年 - 1710年 松平忠雅 1代 伊勢桑名藩へ
阿部家 譜代 10万石 1710年 - 1871年 阿部正邦 10代 幕末
*水野家宗家は存続、能登羽咋郡西谷に1万石(後に結城藩1万8千石)を与えられた
在りし日の福山城

岩国城

山口県岩国市横山に存在した山城。江戸時代初期は岩国領の居城となり、山城である横山城は本丸を中心として
南西に二ノ丸、北東に北ノ丸

別名 横山城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 複合式望楼型4重6階(1608年築 非現存)
(1962年RC造復興)
築城主 吉川広家
築城年 慶長6年(1601年)
主な改修者
主な城主 吉川氏
廃城年 元和元年(1615年)
遺構 隠居所長屋、石垣、水堀、空堀
指定文化財          昭和60年代 金帯橋まで
再建造物 天守、旧天守台(発掘復元)
吉川広家も同時に米子城から当地に3万石で封じられた。
岩国藩
周防国大島郡の一部(鳴門村・神代村)及び玖珂郡南部を領地とした藩
藩庁は岩国陣屋(現在の山口県岩国市)。江戸時代を通じて長州藩毛利氏一門の吉川氏が領主だったため、
吉川藩(きっかわはん)という通称もある。
長州藩の支藩とみなされるが、長州藩では幕府に岩国領(いわくにりょう)を支藩とする届けを出しておらず
吉川家は毛利家の家臣であり、徳川家の陪臣であるによって諸侯に非ず(大名ではない)と主張していた。
その一方で幕府からは6万石の外様大名格として扱われるという、極めて変則的な存在が江戸時代を通じて続いた
正式に岩国藩が認められたのは、大政奉還後の慶応4年(1868年)3月、新政府によってのことである。
岩国藩歴代
吉川家 外様:3万石~6万石 1600年-1871 吉川元春 15代 室町末より幕末まで
*13代までは長州藩の支藩として変則的な存在であった

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関西・中国地区 名城と歴代城主総覧
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