高松城
香川県高松市玉藻町にあった城である。別名・玉藻城(たまもじょう)。国の史跡に指定されている |
高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、天正15年(1587年)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、 |
「野原」と呼ばれた港町に築かれた。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から |
12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものである |
別名 |
玉藻城 |
|
城郭構造 |
輪郭式平城 |
天守構造 |
独立式層塔型3重4階地下1階(1669年改・非現存 |
築城主 |
生駒親正 |
築城年 |
1590年(天正18年) |
主な改修者 |
松平頼重、松平頼常 |
主な城主 |
生駒氏、松平氏 |
廃城年 |
1869年(明治2年) |
遺構 |
櫓、門、渡櫓、石垣、堀 |
指定文化財 |
国の重要文化財(北の丸月見櫓・水手御門・渡櫓 |
旧東の丸艮櫓、披雲閣)、 |
昭和期 登城 平成27年 登城 |
安土桃山時代 |
天正15年(1587年)生駒親正が讃岐国17万6千石の大名に封ぜられ引田城に入城する。 |
天正18年(1590年)高松城完成 |
高松藩歴代藩主
生駒家 |
外様 17.3万石 |
1587年 - 1640年 |
生駒親正 4代 |
出羽矢島藩へ家中不取締りを理由に領地を没収 |
松平〔水戸〕家 |
御連枝 12万石 |
1642年 - 1871年 |
松平頼重11代 |
初代水戸藩主徳川頼房の長子 幕末 |
|
丸亀城
讃岐国、現在の香川県丸亀市にあった城である。別名、亀山城、蓬莱城ともいう。
別名 |
亀山城、蓬莱城 |
|
城郭構造 |
輪郭式平山城 |
天守構造 |
複合式層塔型3重3階(1660年築) |
独立式層塔型3重3階(1877年改) |
築城主 |
奈良元安 |
築城年 |
室町初期 |
主な改修者 |
生駒親正、山崎家治 |
主な城主 |
生駒氏、山崎氏、京極氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
現存天守・門・長屋・番所 |
指定文化財 |
国の重要文化財(天守・大手一の門・ |
大手二の門)、国の史跡 |
平成27年 登城 |
再建造物 |
- |
|
丸亀市街地の南部に位置する亀山(標高66メートル)を利用し、縄張りはほぼ四角形で亀山の廻りを内堀で囲む、 |
輪郭式の平山城である。 |
総高60メートルの石垣は日本一高く、三の丸石垣だけで一番高い部分は22メートルある。 |
室町時代・安土桃山時代 |
室町時代初期、管領・細川頼之の重臣の奈良元安が亀山に砦を築く。 |
慶長2年(1597年)豊臣政権の時代、生駒親正が讃岐17万石を与えられ高松城を本城とし、亀山に支城を築く。 |
慶長7年(1602年)6年の歳月を要し、ほぼ現在の城郭が完成。 |
丸亀藩歴代藩主
生駒家 |
外様17.3万石 |
|
生駒親正 4代 |
(生駒騒動)で出羽矢島藩1万石へ移封 |
山崎家 |
外様 5万石 |
|
山崎家治 3代 |
無嗣断絶で改易 |
京極家 |
外様 6万石 |
|
京極高和 7代 |
幕末 |
|
松山城
四国・愛媛県松山市にある城跡。別名金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)。
別名 |
金亀城、勝山城 |
|
城郭構造 |
連郭式平山城 |
天守構造 |
連立式層塔型3重3階地下1階(1852年再) |
築城主 |
加藤嘉明 |
築城年 |
慶長7年(1602年)着手 |
主な改修者 |
松平勝善 |
主な城主 |
加藤氏、松平(久松)氏 |
廃城年 |
明治6年(1873年) |
遺構 |
現存天守、櫓、門、塀、井戸、石垣、土塁、堀 |
指定文化財 |
国の重要文化財(大天守、野原櫓・乾櫓・ |
隠門続櫓など櫓6棟戸無門・隠門・紫竹門・一ノ門 |
昭和期 登城 平成27年 登城 |
再建造物 |
小天守、北隅櫓、十間廊下、南隅櫓、・・・・・ |
|
松山市の中心部、勝山(城山)山頂に本丸を構える平山城である。日本三大平山城にも数えられる。 |
山頂の本壇にある天守(大天守)は、日本の12箇所に現存する天守の一つである。 |
姫路城と同じく、大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を渡り櫓(廊下)で結んだ連立式で、 |
日本三大連立式平山城にも数えられる。 |
|
宇和島城
四国の愛媛県宇和島市丸之内にあった城である。江戸時代は宇和島藩の藩庁となった。
別名 |
鶴島城、板島城、丸串城 |
|
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
複合式望楼型3重3階(1602年築非現存) |
独立式層塔型 3重3階(寛文6年再 現存) |
築城主 |
橘遠保 |
築城年 |
天慶4年(941年) |
主な改修者 |
藤堂高虎、伊達宗利 |
主な城主 |
藤堂氏、伊達氏 |
廃城年 |
明治4年(1871年) |
遺構 |
現存天守・門、石垣 |
指定文化財 |
国の重要文化財(天守) |
国の史跡 |
昭和期 登城 撮影 平成27年 登城 |
再建造物 |
- |
|
宇和島城は、中世期にあった板島丸串城の跡に藤堂高虎によって築かれた近世城郭である。 |
現在見られる、天守などの建築は伊達氏によるものであるが、縄張そのものは築城の名手といわれた |
藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られている |
宇和島藩歴代藩主
富田家 |
外様 12万石 |
1608年 - 1613年 |
富田信高 1代 |
慶長10年改易 |
伊達家 |
外様 10万石 |
1614年 - 1871年 |
伊達秀宗 9代 |
幕末 |
*富田家の改易に関しては大久保長安事件による連座
|
今治城
伊予国越智郡今治(四国・愛媛県今治市通町)にあった
別名 |
吹上城、吹揚城 |
|
城郭構造 |
輪郭式平城(海城) |
天守構造 |
5重不詳諸説あり(非現存・慶長13年(1608年)) |
望楼型5重6階模擬(RC造・昭和55年(1980年)築 |
築城主 |
藤堂高虎 |
築城年 |
慶長7年(1602年) |
主な改修者 |
- |
主な城主 |
藤堂氏、松平(久松)氏 |
廃城年 |
明治6年(1873年) |
遺構 |
石垣、堀 |
指定文化財 |
- |
|
再建造物 |
模擬天守、鉄御門、多聞櫓5棟、石垣 |
|
慶長7年(1602年)、藤堂高虎によって築城開始され慶長9年(1604年)に完成した。
日本三大水城の一つに数えられている。
今治藩(おおずはん)歴代藩主
藤堂家 |
外様 20万石 |
1600年~1608年 |
藤堂高虎 1代 |
津藩32万3,000石に |
松平〔久松〕家 |
譜代 3万石 |
1635年~1871年 |
松平定房 10代 |
幕末 |
|
大洲城
伊予国喜多郡大洲(四国・愛媛県大洲市大洲)にあった城である。別名としては地蔵ヶ嶽城、比志城、
大津城(大洲の旧称)などがある。
別名 |
比志城、地蔵ヶ嶽城、大津城 |
|
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
複合連結式層塔型(1609年・非現存) |
(2004年・木造復元) |
築城主 |
宇都宮豊房 |
築城年 |
元徳3年(1331年) |
主な改修者 |
藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰 |
主な城主 |
宇都宮氏、藤堂氏、脇坂氏、加藤氏 |
廃城年 |
明治3年(1871年) |
遺構 |
- |
指定文化財 |
国の重要文化財(台所櫓・南隅櫓・ |
高欄櫓・苧綿櫓)、愛媛県史跡 |
平成27年 登城 |
再建造物 |
天守・多聞 |
|
鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房で、(1331年)のことであるといわれている。 |
文禄4年(1595年)に藤堂高虎が入城 |
大洲藩歴代藩主
脇坂家 |
外様 5.3万石 |
1608年 - 1617年 |
脇坂安治 2代 |
信濃飯田藩5万5000石へ |
加藤家 |
外様 6万石 |
1617年 - 1871年 |
加藤貞泰 13代 |
幕末 |
|
愛媛県四国中央市川之江町の鷲尾山(城山)にある城である。
別名 |
仏殿城 |
|
城郭構造 |
山城 |
天守構造 |
なし(鉄筋コンクリート構造、模擬) |
築城主 |
土肥義昌 |
築城年 |
延元3年(1337年) |
主な改修者 |
- |
主な城主 |
土肥氏、妻鳥氏、河上氏 |
廃城年 |
不明 |
遺構 |
石垣 |
指定文化財 |
- |
平成27年 登城 |
再建造物 |
模擬天守・櫓 |
|
伊予・讃岐・土佐・阿波を結ぶ交通の要衝である川之江の鷲尾山山頂に位置した川之江城は、南北朝時代から |
戦国時代にかけての城であり、別名仏殿城といわれるように本来は仏閣であった。 |
南北朝時代、南朝方の武将であった河野氏の砦のひとつとして、土肥義昌が1337年に川之江城を築いた。 |
その後戦国時代には城主は妻鳥友春になっていたが、土佐の長宗我部氏へ河野氏に背いて通じたため、 |
河野氏配下の河上安勝によって落城した。 |
豊臣秀吉の四国平定以後は、川之江地方は小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が変わったが、 |
加藤嘉明の時代に川之江城は廃城になった。 |
一柳直家が1636年に川之江藩を立藩し、城を再築しようとしたが1642年に死亡し領地は没収され、 |
以後天領になったため、再築されなかった。 |
|
徳島県海部郡美波町に位置する日本の城。別名は渭津城ともいう。 |
城主だった日和佐氏は、1577年11月17日に長宗我部氏の海部進攻の主将香宗我部親泰の起請文をうけて降伏し、 |
その後は臣従し土佐に移り住んだ。しかし蜂須賀氏が阿波を治めるようになると、阿波藩藩主、蜂須賀家政に |
帰住をすすめられ、また阿波に帰り、石高50石を知行する士分に取り立てられたという。 |
現在城跡とされる城山には、模擬天守が構築されており、日和佐勤労者野外活動施設として利用されている。
高知県四万十市丸の内にある中世から近世にかけての平山城跡。為松城の別名を持つ。 |
四万十市立郷土資料館
平成27年 登城 |
応仁の乱を避けた一条教房が、荘園であった中村に下向しそのまま戦国大名として土着 |
一条兼定の時、兼定は素行が悪く家臣により豊後へ追放され、 |
その後一条家は長宗我部元親に攻められ滅亡する。 |
関ヶ原の戦い後、戦功により山内一豊に土佐一国が与えられ、 |
山内一豊の弟康豊が入るが元和の一国一城令に伴い廃城となった |
遺構は石垣が残っている。石垣は昭和40年(1965年)年に発見されたもので、 |
中村藩2万石2代藩主山内政豊時代の慶長18年(1613年)年に修復されたもので |
あると考えられている。 |
現在は「為松公園」になっており、二の丸跡に模擬天守の |
四万十市立郷土資料館がある。 |
|
高知県高知市(土佐国土佐郡高知)にあった城。別名、鷹城(たかじょう)。
城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。
別名 |
鷹城 |
|
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
独立式望楼型 4重6階(1601年築・1747 |
築城主 |
山内一豊 |
築城年 |
1603年(慶長3年) |
主な改修者 |
山内豊敷 |
主な城主 |
山内氏 |
廃城年 |
1871年(明治4年) |
遺構 |
現存天守・御殿・櫓・門 |
指定文化財 |
現存天守・御殿・櫓・門 |
石垣、堀 国の重要文化財(天守など15棟) |
昭和期 登城 平成27年 登城 |
再建造物 |
- |
|
高知市のある高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。 |
山の南を流れる鏡川、北の江の口川をそれぞれ外堀として利用している。 |
現在見られる城は、江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、 |
2代忠義の時代に完成し、土佐藩庁が置かれた。4層6階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を |
模したといわれている |
慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いにおいて長宗我部元親の子・盛親は西軍に与して改易された。 |
代わって、山内一豊が掛川城から転入し、土佐国一国24万2千石を与えられ、浦戸城に入った。 |
土佐藩歴代藩主
山内家 |
外様 20.3万 |
1601年-1871年 |
山内一豊 16代 |
外様ながら家康の信頼強い武将 |
|
阿波九城の一つ。所在地は徳島県吉野川市川島町。吉野川市指定史跡
別名 |
川島城 |
模擬天守
|
城郭構造 |
平山城 |
天守構造 |
- |
築城主 |
川島兵衛之進 |
築城年 |
1572年(元亀3年) |
主な改修者 |
- |
主な城主 |
川島惟忠、林能勝 |
廃城年 |
1638年(寛永15年) |
遺構 |
- |
指定文化財 |
吉野川市指定史跡 |
|
再建造物 |
模擬天守 |
|
1572年に三好氏の家臣であった篠原長房が滅ぼされた後、その功績によりこの地を与えられた川島兵衛之進 |
(川島惟忠)が長房の上桜城に代わって城を築き、後の1585年には蜂須賀家政の家臣である林能勝が城主となる。 |
しかし一国一城令により1638年に廃城となる。その跡には徳島藩の奉行所が置かれ、明治になるまで存続した。 |
現在、二の丸跡に1981年に観光用に模擬天守閣(「レストハウス川島城」)が建設された |
JR徳島線阿波川島駅から国道192号より徒歩約10分のところにある
撫養城(むやじょう)は、徳島県鳴門市撫養町林崎にある日本の城。別名は岡崎城、林崎城。 |
「岡崎城跡」として市指定史跡に指定されている。 |
築城は、古くは小笠原氏の居城と伝えられるが、はっきりとはわかっていない。 |
その後三好氏の配下の四宮氏が城主となったが、 |
天正10年(1582年)、長宗我部元親が阿波国へ侵入し、撫養城を |
長宗我部元親の配下である真下飛騨守が守備する |
天正13年(1585年)、四国征伐により蜂須賀家政が阿波国の新領主となり、 |
徳島城の支城を9城置き(阿波九城)、益田正忠を撫養城の城番として |
これを守らせた。 |
一国一城令により、寛永15年(1638年)、廃城となった。 |
別名 |
平山城 |
|
城郭構造 |
- |
天守構造 |
- |
築城主 |
益田内膳正忠 |
築城年 |
不明 |
主な改修者 |
不明 |
主な城主 |
小笠原氏、益田氏、蜂須賀氏など |
廃城年 |
寛永15年(1638年) |
遺構 |
- |
指定文化財 |
- |
|
再建造物 |
- |
|
城跡のある妙見山は妙見山公園として整備されており、頂上近くには三層の模擬天守が建てられている |
天守内部は徳島県立鳥居記念博物館が、2010年11月に徳島県文化の森総合公園へ移転した。 |
|
所在地は福岡県福岡市中央区城内。別名、舞鶴城、石城。江戸時代初頭に完成し、外様大名の福岡藩黒田氏の
居城であった。 国の史跡
別名 |
舞鶴城、石城 |
南ノ丸多聞櫓
|
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
不明 |
築城主 |
黒田長政 |
築城年 |
1601年 |
主な改修者 |
黒田長溥 |
主な城主 |
黒田氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
櫓4棟・門3棟、石垣、堀 |
指定文化財 |
国の重要文化財(多聞櫓・二の丸南隅櫓) |
平成26年4月 登城 撮影 |
再建造物 |
二の丸北隅櫓、大手門 |
|
慶長5年(1600年) - 黒田孝高・長政父子は関ヶ原の戦いの功績により豊前国中津16万石から、 |
一躍筑前一国52万3千石を得て名島城に入城した。 |
便宜上から名島城を廃し、福崎丘陵(現在の舞鶴公園・福岡城跡)を新城候補地に選定した。 |
福岡藩歴代藩主
黒田家 |
外様 52万3千石→43万3千石→47万3千石 (1600年 - 1871年) |
|
黒田長政 12代 幕末まで続く |
黒田孝高の長子 |
|
支藩:秋月藩 5万石 元和9年(1623年)黒田長政の三男・長興が福岡藩より5万石を分知され立藩した。 |
|
現在の福岡県北九州市小倉北区にあった城である。勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの別名がある。
別名 |
勝山城、指月城 |
|
城郭構造 |
輪郭式平城 |
天守構造 |
連結式層塔型4重5階(1609年築 非現存 |
(1959年再 RC造復興) |
築城主 |
毛利勝信 |
築城年 |
慶長7年(1602年) |
主な改修者 |
小笠原氏 |
主な城主 |
細川氏、小笠原氏 |
廃城年 |
慶応2年(1866年) |
遺構 |
石垣、堀 |
指定文化財 |
- |
平成26年度年4月 登城 撮影 |
再建造物 |
天守、模擬櫓、庭園 |
|
小倉城は13世紀中ごろ、紫川河口西岸にあった丘に築かれたといわれ、近世の江戸時代前後に毛利勝信が |
現在見られるような縄張で総石垣造の城郭を築き、細川忠興が南蛮造の天守などを建てた。 |
小倉藩歴代藩主
細川家 |
外様 39.9万石 |
1600年~1632年 |
細川忠興 2代 |
肥後熊本藩54万石移封 |
小笠原家 |
譜代 15万石 |
1632年~1871年 |
小笠原忠真10代 |
幕末 |
九州旅客鉄道(JR九州) 鹿児島本線・日豊本線 西小倉駅から徒歩10分 |
山陽新幹線・鹿児島本線 小倉駅から徒歩15分 |
|
佐賀県唐津市東城内にあった城である。別名は、舞鶴城(まいづるじょう)。
唐津市街の北部に位置し、松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸、満島山に位置する。 |
別名 |
舞鶴城 |
|
城郭構造 |
連郭式平山城 |
天守構造 |
不明 |
複合式望楼型5層5階地下1階(1966年 RC造) |
築城主 |
寺沢広高 |
築城年 |
1608年 |
主な改修者 |
- |
主な城主 |
寺沢氏、土井氏、水野氏、小笠原氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
石垣、堀 |
指定文化財 |
- |
平成14年4月 登城 撮影 |
再建造物 |
模擬天守、復元櫓・門・石垣・堀 |
|
文禄4年(1595年)豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられた。 |
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され |
唐津藩歴代藩主
寺沢家 |
外様 8.3万石 |
1593年~1647年 |
寺沢広高 3代 |
嗣子無く寺沢家は断絶 |
大久保家 |
譜代8.3万石 |
1649年~1678年 |
大久保忠職2代 |
下総佐倉藩へ |
松平(大給)家 |
譜代 7万石 |
1678年~1691年 |
松平乗久 3代 |
鳥羽藩6万石へ移封 |
土井家 |
譜代 7万石 |
1691年~1762年 |
土井利益 4代 |
下総古河藩へ |
水野家 |
譜代 6万石 |
1762年~1817年 |
水野忠任 4代 |
遠州浜松藩へ |
小笠原家 |
譜代 6万石 |
1817年~1871年 |
小笠原長昌5代 |
幕末 |
唐津藩は表向きの石高は6万石から12万石であったが、実際の石高は20万石前後だったと言われている。
|
長崎県島原市城内にあった城である。別名、森岳城、高来城。
別名 |
森岳城、高来城 |
|
城郭構造 |
連郭式平城 |
天守構造 |
独立式層塔型4重5階(1626年築 非現存) |
独立式層塔型5重5階(1964年RC造復興) |
築城主 |
松倉重政 |
築城年 |
寛永元年(1624年) |
主な改修者 |
- |
主な城主 |
松倉氏、松平(深溝)氏 |
廃城年 |
明治3年(1871年) |
遺構 |
石垣、堀 |
指定文化財 |
島原市史跡 |
平成26年4月 登城 撮影 |
再建造物 |
天守・丑寅櫓・巽櫓・西櫓(外観復元 |
|
有明海に臨み、雲仙岳の麓に位置する。城郭の形式はほぼ長方形の連郭式平城で、高く頑丈な石垣が特徴
元和4年(1618年)日野江城は手狭であったので島原城の築城を開始する。
島原藩歴代藩主
有馬家 |
外様4万石 |
1600年~1614年 |
有馬晴信 2代 |
日向延岡藩5万3千石へ |
松倉家 |
外様4万石 |
1616年~1638年 |
松倉重政 2代 |
改易、所領を没収 |
高力家 |
譜代4万石 |
1638年~1668年 |
高力忠房 2代 |
島原の領民に苛税寛文8年改易 |
松平〔深溝〕家 |
譜代6.5万石 |
1668年~1747年 |
松平忠房 5代 |
下野宇都宮藩6万6000石へ |
戸田家 |
譜代7.7万石 |
1747年~1774年 |
戸田忠盈 2代 |
下野宇都宮藩へ |
松平〔深溝〕家 |
譜代6.5万石 |
1774年~1871年 |
松平忠恕 8代 |
|
島原鉄道 島原駅から徒歩5分
平成14年4月 登城 撮影 |
 |
4万石としては規模が大きく、領民の税が重く
やがて島原の乱が起こり3万人に一揆として
城に攻めてきて、キリスト弾圧と一緒になり
島原の原城に立て籠もり幕府軍12万と戦う
|
|
長崎県平戸市にあった城。江戸時代には平戸藩松浦氏の居城であった。別名は亀岡城、亀甲城、日之嶽城。
別名 |
亀岡城、亀甲城、日之嶽城 |
|
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
なし・代用(乾櫓三重) |
(3重5階・鉄筋コンクリート造模擬) |
築城主 |
松浦鎮信 |
築城年 |
慶長4年(1599年) |
主な改修者 |
松浦棟 |
主な城主 |
松浦氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
櫓・門・石垣 |
指定文化財 |
- |
平成26年4月 登城 撮影 |
再建造物 |
天守・櫓 |
|
平戸島の北部、平戸市街の東部に位置する。平戸港を見下ろし、対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た |
丘陵上にある。三方を海に囲まれ天然の堀としている。 |
平城の赤穂城と並んで、平山城では唯一の山鹿流による城郭である。 |
平戸藩歴代藩主 (肥前国松浦郡および壱岐国を領した藩)
松浦家 |
外様 63,200石→61,700石→51,700石→61,700石 |
松浦鎮信 12代 |
江戸前から幕末まで続く名家 |
5代藩主棟は外様大名でありながら奏者番兼寺社奉行に累進した。しかしこれに伴う出費と、宝永4年(1707年)の |
平戸城再建により藩財政は困窮するに至った。 |
狸櫓の伝説
櫓の床下に狸が住みだした。天保初年(1830年頃)櫓の修理のため床板を全て剥ぎ取った。 |
するとある夜、小姓に化けた狸が藩主の寝所にやって来て、我ら一族を櫓に棲ませて頂きたい、 |
そうすれば城を永代守護すると嘆願したので、翌日、床を元通りに戻してやったと言う。 |
これ以後、この櫓は狸櫓と呼ばれるようになった。 |
平成14年4月 登城 撮影
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(90番)に選定された。 
|
現在の熊本県熊本市中央区にあった城である。別名、銀杏城(ぎんなんじょう)。
別名 |
千葉城、隈本城、銀杏城 |
|
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
連結式望楼型3重6階地下1階(非現存・ |
外観復元(RC造 1960年再) |
築城主 |
出田秀信(千葉城)、鹿子木親員(隈本城) |
築城年 |
1469年?1487年頃 |
主な改修者 |
加藤清正 |
主な城主 |
加藤氏、細川氏 |
廃城年 |
1874年 |
遺構 |
櫓・門・塀、石垣、堀 |
指定文化財 |
国の重要文化財:櫓11棟、門1棟、塀1棟 |
国の特別史跡:熊本城跡 |
平成26年4月 登城 撮影 |
再建造物 |
外観復元:大小天守・平櫓・馬具櫓 |
|
文明年間(1469年 - 1487年)に肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城、(千葉城町)を築いたのが始まり |
加藤清正は、1591年(天正19年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。 |
加藤家 |
外様 52万石 |
1588年~1632年 |
加藤清正 2代 |
重臣の対立が発生1632年改易 |
細川家 |
外様 54万石 |
1632年~1871年 |
細川忠利 12代 |
幕末 |
西南戦争では政府軍の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となる。 |
政府軍と西郷軍の間には田原坂(たばるざか)の戦いを含む激しい攻防が行われたが、熊本城は司令官谷干城の |
指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え、ついに撃退に成功した。 |
平成14年4月 登城 撮影
|
豊後国府内(現在の大分県大分市)にあった城である。大分城(おおいたじょう)とも呼ばれる。
別名 |
大分城、荷揚城、白雉城 |
|
城郭構造 |
梯郭式平城 |
天守構造 |
不明(4重。形式には諸説あり) |
|
非現存 |
築城主 |
福原直高 |
築城年 |
1597年 |
主な改修者 |
竹中重利 |
主な城主 |
竹中氏、大給松平家 |
廃城年 |
1872年 |
遺構 |
1872年 |
指定文化財 |
大分県文化財(人質櫓、宗門櫓) |
|
再建造物 |
櫓・門・橋 |
|
安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原直高が府内の荷落に築城を始めたが、福原氏は改易され、 |
早川長政の府内領再封を経て、関ヶ原の戦いの後に3万5千石で入封した竹中重利が完成させた。 |
府内藩歴代藩主
竹中家 |
外様2万石 |
1601年 - 1634年 |
竹中重利 2代 |
密貿易不正で改易・廃絶となった。 |
日根野家 |
外様2万石 |
1634年 - 1656年 |
日根野吉明1代 |
|
松平〔大給〕家 |
譜代2.1万石 |
1656年~1871年 |
松平忠昭10代 |
幕末 |
|
豊前国中津(現在の大分県中津市二ノ丁)にあった城。黒田孝高が築城をし、細川忠興が完成させた。
中津藩の藩庁が置かれた。
別名 |
扇城、小犬丸城、丸山城 |
|
城郭構造 |
梯郭式平城 |
天守構造 |
不明 |
模擬天守(独立式望楼型5重5階 1964年RC造) |
築城主 |
黒田孝高 |
築城年 |
天正16年(1588年) |
主な改修者 |
細川忠興 |
主な城主 |
黒田氏、細川氏、小笠原氏、奥平氏 |
廃城年 |
明治4年(1871年) |
遺構 |
石垣、堀 |
指定文化財 |
- |
平成26年4月 登城 撮影 |
再建造物 |
本丸下段水堀 |
|
周防灘(豊前海)に臨む中津川河口の地に築城された梯郭式の平城である。
今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。
中津藩歴代藩主
黒田家 |
外様 12.3万 |
1587年 - 1600年 |
黒田孝高 2代 |
筑前福岡藩52万3千石へ |
細川家 |
外様 39.9万 |
1600年 - 1632年 |
細川忠興 2代 |
熊本藩へ |
小笠原家 |
譜代 8万石 |
1632年 - 1716年 |
小笠原長次5代 |
無嗣改易 |
奥平家 |
譜代 10万石 |
1717年 - 1871年 |
奥平昌成 9代 |
幕末 |
|
杵築城(きつきじょう)は、大分県杵築市杵築にあった城郭。
杵築城は、室町時代初期に木付氏によって八坂川の河口にある台山(だいやま)の上に築かれた。
別名 |
木付城、勝山城、臥牛城 |
|
城郭構造 |
連郭式平山城 |
天守構造 |
不明(1591年 築) |
独立式望楼型3層3階(1970年 RC造 模擬) |
築城主 |
木付頼直 |
築城年 |
明徳4年(1393年) |
主な改修者 |
- |
主な城主 |
木付氏、前田氏、杉原氏、細川氏、小笠原氏、松平氏 |
廃城年 |
明治4年(1871年) |
遺構 |
石垣 |
指定文化財 |
- |
平成26年4月 登城 撮影 |
再建造物 |
模擬天守 |
|
戦国時代には大友氏と島津氏の戦いの舞台となり、江戸時代には杵築藩の藩庁が置かれた。
杵築藩歴代藩主
小笠原家 |
譜代4万石 |
1632年 - 1645年 |
小笠原忠知 1代 |
三河吉田藩へ |
松平〔能見〕家 |
譜代3.2万石 |
1645年 - 1871年 |
松平英親 |
幕末 |
|
肥後国天草郡(熊本県天草郡苓北町富岡)にあった城。
富岡城は天草下島の北西、砂州で繋がった陸繋島の富岡半島の南東部の丘陵上にある梯郭式の平山城である。
別名 |
臥龍城 |
|
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
- |
築城主 |
寺沢広高 |
築城年 |
1605年 |
主な改修者 |
山崎家治 |
主な城主 |
寺沢氏、山崎氏、戸田氏 |
廃城年 |
1670年 |
遺構 |
- |
指定文化財 |
- |
|
再建造物 |
- |
|
玖島城(くしまじょう)は、日本の城。所在地は長崎県大村市玖島
城は大村湾に突き出した半島に築城された平山城で天守は建造されなかった。
別名 |
大村城、玖島城 |
|
城郭構造 |
連郭式平山城 |
天守構造 |
|
築城主 |
大村喜前 |
築城年 |
慶長4年(1599年) |
主な改修者 |
大村純頼 |
主な城主 |
大村氏 |
廃城年 |
明治4年(1871年) |
遺構 |
石垣、堀 |
指定文化財 |
長崎県史跡 |
|
再建造物 |
- |
|
藤原純友を祖とする大村氏は鎌倉時代よりこの地の地頭として、大村地方を領有してきた
平成4年)には板敷櫓が再建されている
|
日向国南部(現在の宮崎県日南市)にある城である。江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として栄えた。
飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城である。
別名 |
|
|
城郭構造 |
群郭式平山城 |
天守構造 |
建造されず |
築城主 |
土持氏 |
築城年 |
戦国初期 |
主な改修者 |
伊東祐兵 |
主な城主 |
土持氏、新納氏、伊東氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
石垣 |
指定文化財 |
日南市史跡 |
昭和期 登城 平成31年 |
再建造物 |
御殿・櫓門・門・塀 |
|
戦国初期は薩摩国の戦国大名島津氏の属城で、はじめ築城主の土持氏が治めていた。 |
飫肥を失った伊東祐兵が羽柴秀吉に仕え、九州征伐に参加し活躍した戦功により再び飫肥の地を取り返し、 |
大名として復活を成し遂げた。 |
ひとえに関ヶ原の合戦で東軍側にたった数少ない九州大名だったことが物を言ったのであろう |
これだけの長期間に渡って伊東・島津氏という2つの勢力が一貫して1つの城を巡って争い続けた例は、 |
日本の戦史において稀有な例と言えよう。 |
飫肥藩歴代藩主
伊東家 |
外様 5.7万石 |
1600年~1871年 |
伊東祐兵 14代 |
幕末 |
|
宮崎県綾町にあったとされる山城。築城は1331年~1334年。足利尊氏の家臣であった |
|
細川小四郎義門が築いたと言われる。別名・竜尾城 |
細川小四郎義門の子、細川義遠は綾氏を名乗り、綾氏は数代この城にて綾を支配したが |
その後伊東氏の配下に入り、綾城は伊東四十八城の一つとして伊東氏の支城となる。 |
1577年(天正5年)に伊東氏が伊東崩れと呼ばれる家臣の多数離反と島津氏の攻撃を |
受け滅亡した際は最後まで伊東氏につき、落城。 伊東氏滅亡後は島津氏の支城となり、 |
1615年に江戸幕府の一国一城令により、綾城は廃城となった。 |
|
|
鹿児島市城山麓にあった城である。鹿児島では一般的に古くから別名「鶴丸城」(つるまるじょう)と呼ばれている。
別名 |
鶴丸城 |
|
城郭構造 |
平山城 |
天守構造 |
なし |
築城主 |
島津家久 |
築城年 |
慶長7年(1602年) |
主な改修者 |
島津吉貴 |
主な城主 |
島津氏 |
廃城年 |
明治5年(1872年) |
遺構 |
石垣、堀、石橋 |
指定文化財 |
鹿児島県史跡 |
昭和・平成 数回 登城 |
再建造物 |
- |
|
江戸時代初期に島津氏によって築かれた、上山城跡である城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成された |
平山城である。平城や山城とする説もある。 |
江戸時代の1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城される。前年の関ヶ原の戦いで薩摩国の島津氏は |
石田三成ら西軍側に属して敗北し、責を負って引退した実父の島津義弘に代わり、義弘の実子で |
義弘の兄の島津義久の婿養子となっていた忠恒(家久)が新当主となっており、東軍として勝利した |
徳川家康の脅威に対抗する手段として、当時の内城に代わる城として鶴丸城の構築を開始し、 |
1604年(慶長9年)に完成する |
薩摩藩歴代藩主
島津家 |
外様 77万石 |
第18代当主 -島津家久12代 |
島津家は鎌倉時代から続く由緒ある大名 |
藩主は島津氏。外様大名でありながら、琉球を含めた最高石高は90万石(籾高であり、 |
実際の玄米高は約半分)と加賀藩に次ぐ大藩を形成した。 |
幕末から明治維新にかけて、西郷隆盛や大久保利通などの有力政治家を数多く輩出し、 |
第一次世界大戦までの日本の政治を支配した藩閥政治では、「薩摩閥」と呼ばれ長州藩とともに |
有力な政治勢力を形成した。 |
|
沖縄県那覇市首里にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあった城。
琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。
別名 |
御城(ウグシク) |
|
城郭構造 |
山城 |
天守構造 |
なかったと推測 |
築城主 |
不明 |
築城年 |
14世紀末(推定) |
主な改修者 |
尚巴志 |
主な城主 |
第一尚氏、第二尚氏 |
廃城年 |
1879年(明治12年)(首里城明け渡しの年) |
遺構 |
石門、石垣 |
指定文化財 |
世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群) |
平成14年1月 登城 撮影 |
再建造物 |
正殿・門・御嶽・城壁 |
|
歴代城主
(第一尚氏)尚巴志 - 尚忠 - 尚志達 -<中略>- (第二尚氏)尚円 - 尚宣威 - 尚真 -<中略>- 尚育 -
尚泰
一度目の焼失は1453年(享徳2年)に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)であり、
城内は完全に破壊された。
二度目の焼失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。しかし1709年(宝永6年)に
三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。
2000年(平成12年)には「首里城跡」(しゅりじょうあと)として
関連遺産群」の名称で世界遺産に登録された。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(100番)に選定された。 |
 |
 |
沖縄県国頭郡今帰仁村に位置する城跡である。
14世紀、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の
居城であった。国の史跡に指定されている。
平成26年登城 |
 |
沖縄県中頭郡北中城村・中城村に存在した日本の城。
15世紀の琉球王国・尚泰久王代、護佐丸
のグスク(城)として知られる。 |
 |
|
|
|