東北編   2017年5月16日~18日2泊3日で世界遺産の平泉と東北のお城巡りと名所旧跡へ行きました。
               
東北の青空と新緑と残雪は素晴らしい 
       白石城 続日本100名城(105番)               白石城            白石城 
 
白石城(別名益岡城)
宮城県白石市にあった城である。
主として仙台藩伊達氏の支城として
用いられ片倉氏が代々居住した。
会津に封された蒲生氏郷の家臣・蒲生郷成
によって本格的に築城
江戸幕府の一国一城制の対象外とされて
明治維新まで存続した。1819年 火災で焼失する。
4年後の片倉宗景の時に再建、戊辰戦争の際、
東北諸藩の代表たちが白石城に於いて
白石列藩会議を開く。 1875年 - 白石城破却
 平成7年木造天守閣復元 
 
         上山城               上山城            青葉城跡 
     上山城  
上山には天童氏(最上氏庶流)の一門上山氏が
城を持っていた。城主上山義房は滅亡。
伊達家臣小簗川貞範がこの地に入った。
その後、上山義房の子武衛義忠が城を奪還。
義忠によって改めて築城された平山城が現在の
上山城である。廃城令の影響で1873年より
取り壊されたり払下げる
昭和57年3層の模擬天守が建立
   上山藩藩主
 最上家:52万石山形全域を治めるが 
 御家騒動で改易後上山藩、本荘藩、鶴岡藩など
 様々な藩が立藩された。
 松平(能見)家4→蒲生家→土岐家(2→
 金森家→松平(藤井)家10代 明治維新
青葉城跡
 AM9時に到着して観光客少なく
 良い画像撮影できる
 
      白河小峰城 日本100名城(13番)            白河小峰城           白河小峰城 
   白河小峰城  
小峰ヶ岡という丘陵にあった平山城である。
1340年)に結城親朝が小峰ヶ岡に築城して
小峰城と名づけたのが始まりとされる。
1629年)より城郭の大改築に着手、3年の
歳月を費やして寛永9年(1632年)に完成した。
1868年戊辰戦争で大半を焼失し落城した。
     白河藩歴代藩主
 丹羽家2代→松平〔榊原〕家2代→本多家 2代→
 松平〔奥平〕家→松平〔越前〕家3代→
 松平〔久松〕家4代→阿部家8代→天領
 10万石~15万石
2014年に行きましたが2011年3月東日本大地震により
石垣が数か所崩落と天守に影響で工事中で見れず、
今回は天守は修復完成で登城可能であるが一部の
石垣はまだ修復中 
 
 会津鶴ヶ城  日本100名城(12番)  会津鶴ヶ城  会津鶴ヶ城
      会津若松城
 鶴ヶ城、会津若松城、黒川城とも言う
 蘆名直盛が1384年に造ったのが若松城のはじまり
       会津藩 藩主
 ・蒲生家 外様 60万石  加藤家 外様 40万石
 ・保科(松平)家 親播 23万石 以下10代続く
 天守閣より飯盛山を望む
 戊辰戦争で天守閣は砲弾で破損され
 1965年に再建された 
 
 
二本松城跡 日本100名城(11番) 二本松城跡   二本松城跡  
     二本松城(平山城)
 別名は霞ヶ城・白旗城言う
 畠山氏7代当主・二本松満泰が、1414年に
 二本松城を築いた。
       日本松藩 藩主
 ・松下家 外様 3万石  加藤家 外様 3万石
 ・丹羽家 外様 10万石→5万 以下11代続く
      箕輪門、附櫓を撮影 
 今回は箕輪門、附櫓のみ見学したが
 天守台やその他の石垣が整備されている 
 
 関東編    
 
 2021年11月24日~25日 埼玉県 百名城巡りと川越古町並み・神社/仏閣巡り及び渋沢栄一生誕地へ 
深谷城跡(公園)  深谷城跡 深谷城跡
 
    深谷城の概要  平城
 1456年に深谷上杉氏の上杉房憲が築いたものである
 徳川家康の関東入部に伴い、長沢松平家の松平康直が
 1万石で入城した。
             石垣復元
 家康の七男松千代、兄の六男忠輝が継いだ。
 1610年に桜井松平氏の松平忠重が入封
 その後酒井忠勝が1万石を領有して入封したが
 武蔵国川越へ移封となり、深谷藩は廃藩となり廃城
            石垣と曲輪復元
 
1924年(大正13年)に県指定旧跡となり城址公園として
 整備されているが、遺構の多くは埋没している。

 
鉢形城跡 日本100名城(18番) 鉢形城跡 鉢形城跡
 
    鉢形城の概要   笹曲輪
 
鉢形城は、深沢川が荒川に合流する付近の両河川が
 谷を刻む断崖上の天然の要害に立地をなしています。
 鉢形城歴史館
 24日は休館で予約が必要で入館できず
           四脚門(復元) 三ノ曲輪
 築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である
 長尾景春と伝えられている。
 小田原の後北条氏に北条氏邦となるが、1590年豊臣秀吉
 による小田原征伐がはじまり、前田利家やその他の
 武将により落城

          復元石垣 三の曲輪
 本曲輪付近は建物や駐車場がなく碑があるが見れず

 
鉢形城跡 日本100名城(18番) 鉢形城跡 鉢形城跡
 
    ニノ曲輪西側の馬出 堀と橋
 
深い空堀で防御は完璧である。
           伝逸見曲輪とおくり泉水
 
近くに駐車できる広場あり
 針形城を見学方法としては鉢形城歴史館を見て
 裏側から登ると車道に出て公園地図に従って歩くといい
 
          大手口から外郭より本郭を見る
 
荒川から見た鉢形城。断崖絶壁の上に築かれている。
 正喜橋(荒川)の手前にセブンイレブンあり駐車して
 対岸の針形城 撮影出来ます。
 
杉山城跡 続日本100名城(119番) 杉山城跡 杉山城跡
 
    杉山城の概要
 
市野川左岸の山の上に築かれた山城だが、築城の主や
 年代についてはほとんど分かっていない。
 地元豪族の金子主水による築城との伝承はあるが、
 文献資料には現れない。
           馬出郭から南三ノ郭
 基本的には曲輪とそれに伴う堀や土塁のほか井戸跡の
 遺構が確認されている。本郭で、土塁及びそれに伴う
 溝、本郭の東虎口に平坦な石を用いて石列がつくられていた。
 
          大手口から外郭より本郭を見る
 
杉山城について、山内上杉家の家宰を務めた長尾顕忠
 (あきただ)の居城であったとする説がある。
 杉山城の築城を山内上杉氏によるものとする根拠 
 
杉山城跡 続日本1 00名城(119番) 杉山城跡 杉山城跡
 
        本郭の碑と説明板
 室町時代に関東管領の役職にあった山内上杉氏が、
 対立関係に
あった扇谷上杉氏に対抗して築いたと
 考えられています。
           本郭から東二ノ郭と東三の郭
 左右は深い谷で敵の攻撃を防げる構造である。
 玉ノ丘中学校の校舎が見える。
 
          本郭(ほんくるわ)より大手口方面
 
杉山城に登城するには玉ノ岡中学校門下に駐車場あり
 校門に入り途中から右に曲がるとお墓あり
 大手口にはいる 
 
菅谷館跡 続日本100名城(120番) 菅谷城跡 菅谷城跡
 
    菅谷城は平城
 
築城は不明で鎌倉幕府の有力御家人として知られる
 畠山重忠の館跡である。
 1488年、菅谷館そばの菅谷原において山内上杉家と
 扇谷上杉家が激戦を繰り広げ、山内上杉顕定の命を
 受けた太田資康が菅谷の旧城を再興した。
           畠山重忠公の像
 1205年、畠山重忠が武蔵国二俣川(現・横浜市旭区)で
 戦死したのちは畠山の名跡を継いだが、15世紀後半に
 至るまでの詳細は不明である。

 
          本郭(ほんくるわ)
 
本郭は東西150m、南北60mn長方形をしており、
 約9000㎡の広さ、周りは四方土塁で囲まれて奥側に
 出入り口生門跡ある
 
 
菅谷館 続日本100名城(120番) 菅谷城 菅谷城
 
    出枡形土塁と本郭の土塁
  
空堀で
   西ノ郭から見る木橋(復元)と
           正坫門(しょうてんもん)跡

 
 
          三ノ郭 
  現在は雑木林になっており、紅葉綺麗
  
 
川越城 日本100名城(19番) 川越城 川越城
 
          川越城は平山城
  1457年
太田道真・道灌親子が築城 上杉朝定(扇谷)と
  北条氏康の戦いで再々により「川越夜戦」で扇谷上杉氏は
  滅亡するが、豊臣秀吉による小田原征伐で滅び、
  川越城は前田利家に攻められて落城

         川越城本丸御殿
 1848年に越前松平4代藩主松平 斉典が建てられた
 入母屋造りで、豪壮な大唐破風と霧除けのついた
 間口19間・奥行5間の大玄関 現存する御殿は高知城だけ 
 城郭御殿には二条城と掛川城がある。
    現在本丸御殿周りが工事中で整備さてるようである。
   川越藩の歴代藩主
 酒井〔雅楽頭〕家→酒井〔雅楽頭家分家〕2→堀田家→
 松平〔大河内〕家3→
柳沢家→秋元家4→松平〔越前〕家7
 →
松平〔松井〕家2
  
 
川越城 日本100名城(19番) 川越城 川越城
 
    御殿の中庭
  当時は16棟、1025坪の規模をもっていた。
 明治に入ると廃城令で多くの建物は解体され、現在残る
 建物は玄関・大広間部分と家老詰所のみとなっている
 

       富士見櫓跡
 本丸御殿から南西へ直線で150メートル所に小高い丘に
 城内で最も高い位置にあたり、この地に三層の富士見櫓あった
 川越城には天守がなく富士見櫓が天守の代わりとなっていた。

  
          中の門堀跡
  本丸御殿から市役所方面へ約300メートル西方
 現在は門を再現して堀あり、
 かつての西大手門は川越市役所前に、
 本丸門
は初雁球場近くに田曲輪門は富士見櫓近くに
南大手門は第一小学校西門近辺にあった。、
 
  2021年11月11日~12日に茨城県のお城巡りと紅葉(別項参照)の旅 
水戸城 日本100名城(14番) 水戸城 水戸城
 
    連郭式平山城  復元の大手門
 水戸市の中心部、水戸駅の北側に隣接する丘陵に築城
 平安時代から馬場氏 室町は江戸氏 戦国は佐竹氏
 江戸時代は徳川御三家の居城
 
         大手門の内側より
 2021年6月より一般公開する。
 水戸城の二の丸は現在小中高学校と幼稚園となっており
 今は空堀を道路や常磐線が走る
 
  二の丸を真ん中に道が整備され右側に案内所あり
 
 正面は杉山門で手前を右側350m進むと二の丸角櫓再建
  
 
水戸城 日本100名城(14番) 水戸城 水戸城
 
            二の丸隅櫓
  
二の丸隅櫓 再建 令和3年6月公開
  外側からは駅又は、三の丸ホテルから撮れそう

        弘道館の入口
  三の丸は弘道館で第9代徳川斉昭により創設された。
  以前は重臣屋敷があった

 
         正門 (重要文化財)
 
 本瓦葺きの四脚門、総檜作り、藩主の来館や正式な行事
  の際にのみ開聞
 
笠間城 続日本100名城(112番) 笠間城 笠間城
 
    笠間城は佐白山にある山城である
  
築城主は笠間時朝 1219年築城 改修は蒲生郷成
  現在は大手門前にある駐車場に止め本丸まで20分
  車道途中に坂本九さんのプレートあり

      笠間藩歴代藩主   大手門跡の碑
 戦国期笠間氏は宗家の宇都宮氏に滅ぼされる。その後宇都宮氏
 は豊臣時代に下野国18万石所領であるが突然改易
 その後蒲生郷成が入城して城郭に改修した

 
          天守台付近の石垣
  東日本大地震で一部石垣破損している。
  
 
笠間城 続日本100名城(112番) 笠間城 笠間城
 
     天守台跡の碑でここから急な石階段
     江戸時代の城主 3万~8万石
 
松平(松井)家→小笠原家→松平(戸田)家→
 永井家→浅野家2→井上家2→本庄家2→
 本庄家2→井上家3→牧野家9代(1740~1871)
   笠間藩の牧野氏は越後長岡藩の支藩とされる

          天守曲輪城道
  本丸八幡台上にあった八幡台櫓が真浄寺に移築され現存
  今回は行くのを忘れてしまい残念

  3代の藩主牧野 貞喜は名君で藩政改革と笠間焼を発展

   天守曲輪に鎮座する佐志能神社
   今後笠間市のお城整備を期待する



 
土浦城 続日本100名城(113番) 土浦城 土浦城
 
   土浦城 別名 亀城  輪郭式平城
 
室町時代に築かれ、江戸時代に段階的に増改築されて
 形を整えた。土浦は時々水害にあうが城は水没せず
 亀のように浮いたので亀城と言われる。 

         太鼓櫓門 本丸から
 1429年 若泉三郎が築城  1562年頃 菅谷勝貞の居城
 菅谷氏は小田氏の配下で、豊臣秀吉の小田原征伐の際に
 菅谷・小田は後北条氏と結んだため家康・佐竹に滅ぼされる 
           太鼓櫓門 二の丸より
   土浦藩の歴代藩主
 松平(藤井)家2代3.5万石→西尾家2代2万石→
 朽木家2土屋家2代4.5万石→松平(大河内)家→
 土屋家
10代9.5万石(1687年~1871年)
 
土浦城 続日本100名城(113番)  土浦城 土浦城
 
 
            西櫓
 平成4年に保管されていた部材を用いて復元された
 2011年の東日本大地震で壁破損 太鼓櫓門も破損
        東櫓と堀
 平成10年)には東櫓が再建する
 2011年の東日本大地震で壁破損
 土屋家は元は武田家の家臣であり、その後井伊直政家臣
 武田家の山本勘助4代の家臣もいたそうである
        前川門口
 
土屋家は譜代大名で徳川幕府綱吉から4代にわたって
 老中となり、9.5万石までになった。
 
 
大多喜城 続日本100名城(122番)  大多喜城 大多喜城
 
 
   大多喜城千葉)2014.2.6 連郭式平山城
 1521年に真里谷信清(武田氏)が小田喜城を築城
 江戸初期に徳川家康の武将”本多忠勝”によって
 
      大多喜藩歴代藩主
 本多家 3代10万石 ~3万石、阿部家・青山家・・・
 松平(大河内)譜代 2万石→改易→2万石 9代 幕末
 撮影スポットは新丁交差点の近くにある夷隅川に
 かかる橋上からいすみ鉄道鉄橋と大多喜城がベスト
 1975年再建
 
 コロナ感染減少により2021年11月4日千葉県の日本100名城巡りへ 本佐倉城と佐倉城
佐倉城 日本100名城(20番  佐倉城 佐倉城
 
 
   佐倉城  連郭式平山城 別名 鹿島城
 戦国時代、本佐倉城主千葉親胤が大叔父にあたる
 鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が
 暗殺されたために工事は中断、千葉邦胤の代にも
 工事が試みられたが邦胤の暗殺によって頓挫

          復元された椎木門・馬出
 1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝に
 よって築城が再開され、佐倉城が完成した。
 城郭は石垣を一切用いず、 天守は三重櫓を代用
 城は、鹿島山(標高30メートル)に築き周りは川と湿地
             二の丸跡
  歴代城主
 武田家→松平→小笠原家→土井家→石川家→松平(形原)2
 →堀田家2→松平(大給)家→大久保家→戸田家2
 →稲葉家2→松平(大給)家2→堀田家6 11万石
 

       佐倉城 日本100名城(20番)            佐倉城 佐倉
 
 
          天守台と本丸跡
 佐倉城には江戸時代の建物は一つもなく深い空堀だけが
 昔の面影を残す、明治初期に廃城後陸軍歩兵第2連隊
 明治43年からは歩兵第57連隊が戦後まで
駐屯地
 となっていた。 

      堀田正睦(正義)銅像
 堀田 正睦は下総国佐倉藩5代藩主
 
天保12年3月23日に本丸老中に任命され
 安政2年(1855年)10月老中首座、幕末動乱で安政の大獄で
 井伊直弼は正睦を始めとする一橋派の排斥を始めた。
      武家屋敷とひよどり坂
 ひよどり坂付近は武家屋敷があり、現在3家だけ
 内部公開しております。
 国立国立歴史民俗博物館が見ごたえあり、
 レストランもあります。
 

本佐倉城 続日本100名城(121番)  本佐倉城 本佐倉城
 
 
   本佐倉城(千葉) 連郭式平山城
 千葉 輔胤が室町中期文明に千葉市にある亥鼻城から
 移転する。以後戦国時代9代に千葉氏宗家の本拠地
 となる。豊臣秀吉に滅ぼすまで100年9代の居城となる

      江戸時代
 千葉氏は小田原征伐後改易となり徳川家に接収され
 松平忠輝が5万石→小笠原氏→土井氏へ1615年藩庁
 を佐倉城に移転して廃城となる。
       城の構造
 
城域は内郭と外郭に分かれており、内郭は南方に谷が
 刻まれた半島状の丘陵、往時は三方湿地帯に囲まれた
 要害である。 上図は大堀切で左側が城山で右は奥ノ山
 
本佐倉城 続日本100名城(121番) 本佐倉城 本佐倉城
 
   本佐倉城(千葉)
 図のように区分けされている、まったく石垣や水堀は
 なく、千葉県内でも最大級の規模となる城跡である

     画像は 奥ノ山 
 現在でも城の土塁や空堀などの遺構がほぼ完全な姿で
 遺存しておる。妙見宮跡がある
  東山虎口の曲輪より筑波山望み、印旛沼が京成線
  の所まであり、本佐倉駅付近は湿地帯であった。
      京成電車が走っている
 
 久留里城  久留里城  久留里城
     久留里城(千葉県君津市) 連郭式山城
 室町時代に上総武田氏の武田信長が築城
 戦国時代は里見氏、江戸時代には久留里藩として
 藩庁となる。現代の模擬天守は日本で
 一番小さな天守1979年のRCにて建造される  
 
    久留里藩歴代藩主
 大須賀(松平)家1代 3万石・土屋家3代 2万石
 黒田家9代 3万石 幕末
  
 現在の天守からの見る景色 
 
 舘山城   舘山城   千葉城 
   舘山城(千葉)2013.8撮影 連郭式山城
 1580年 里見義頼が築城 
 1614年舘山藩改易で廃城
 別名:根古屋城
     舘山藩歴代藩主
 里見家 3代 12万石 改易
 その後しばらく天領となり
 1785年より稲葉家 5代 1.3万石 幕末
  千葉城(亥鼻城)(千葉)2015.9撮影  
 連郭式山城で中世は千葉氏の館があったが
 江戸時代には天領地で藩ない
 
 忍 城 続日本100名城(118番)  忍 城  小田原城 
  忍城 (埼玉)2013.6 撮影 平山城
1478年成田氏築城で豊臣秀吉が成田家を攻める。
水攻めで落城しなかった。
別名:忍の浮き城、亀城 映画「のぼうの城」で有名
 
    忍藩歴代藩主   
松平(深溝)家、松平(東条)家、松平(大河内)家
阿部家9代 10万石、松平(奥平)5代 10万石 幕末

        
小田原城(神奈川)2013.4 撮影 平山城

耐震対策前
 
                2020年度お城巡り画像集
 今年2月より世界的にコロナウィルスが流行となり、日本も3月~5月まで季節良い時期に不要不急の外出自粛要請に入り、今年のお城巡り計画が白紙となりました。
 関東地区の日本100名城の北条氏の本城・支城を巡りしております
  
小田原城  日本100名城(23番) 小田原城 小田原城
 小田原城 銅門   
2020年3月25日 馬出門を入り馬屋曲輪通り銅門
天守は1960年のRC造復興 平成28年耐震改造
平成9年銅門復元 21年馬出門を復元

   日本100名城(23番) 
   小田原城 隅櫓 
  戦国時代は北条氏の居城で3代氏康が難攻不落となる
 豊臣軍対抗するために作られた広大な外郭9km
 北条氏は5代で終わる。
江戸期の藩主
 大久保家2代 6.5万石  阿部家1代  稲葉家3代10万石
 大久保家10代 11万石
    小田原城 常盤木門
 
桜の名所と菖蒲とアジサイが綺麗で有名


 
小田原城 小田原城 小田原城
 小田原城 天守閣 

   耐震対策 外観 綺麗に修復
  小田原城 天守閣より常盤木門  
   以前は象がいました
    小田原城 天守より小田原駅方面
    と丹沢山系

 
 2020年10月28日 八王子城跡に行く、近くていつでも行けると思っていましたが、野鳥とお城跡とハイキングへ 
       八王子城 日本100名城(22番) 八王子城   八王子城
    八王子城跡 碑  
八王子城は北条氏の本城である小田原城の支城であり、
関東の西に位置する軍事上の拠点であった。
標高445 mの深沢山(現在の城山)に築城された
中世山城である。

  八王子城跡 大手門跡 付近  
 北条氏康の三男・氏照が1571年頃より
 築城し、1587年(天正15年)頃に本拠とした。

 野鳥はカケス・ジョウビタキ・シジュウガラ・・・
    八王子城跡 曳橋(推定復元)と
       御主殿石垣(一部復元)

 
御主殿跡は氏照の館があった場所で落城当時の
 ままの状態で保存されていた。礎石や遺物が出土した。
 
 
 八王子城跡の石垣 
 
先方の石垣は当時のままである
  八王子城跡 御主殿跡へ通じる
    虎口と冠木門 
 
    八王子城跡 御主殿跡 
発 掘では大量の遺物が出土している
 
 八王子城跡 御主殿跡から望む曳橋 
小田原征伐の一環として1590年7月24日、
八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に
加わった上杉景勝、前田利家、真田昌幸ら
の部隊1万5千人に攻められた。
  八王子城跡 本丸への登り口  
   本丸へは急な登り坂で40分かかる
当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、
八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、
中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、
領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた
約3000人が立て籠った。
    八王子城跡 途中の金子曲輪
    
今回は5合目で断念
 
2020年11月17日 箱根紅葉と野鳥撮影をかねて、山中城跡へ
 
      山中城跡 日本100名城 40番  山中城跡   山中城跡 
  山中城跡 2020年11月17日撮影 
中山城は三島市より国道1号線を箱根方向へ登ると
左右に城跡があります。西側は近年整備されて本丸跡
がある位置で、東側は豊臣軍が攻めてくるので急遽
岱崎出丸と畝堀を作るが未完成で落城
  山中城跡 御馬場曲輪  
 中山城は戦国時代の永禄年間(1560)小田原 北条氏康
 が築城北条氏の本拠地である小田原の西の防衛を担う
 最重要拠点 城主は松田康長 1590年豊臣軍4万人が攻めて
 4000人守るが半日で落城する    
    山中子城跡 一ノ堀
  
岱崎出丸と畝堀 
  
1国道1号線を挟んで西側にある三ノ丸は現在
  宗閑寺となっており、城主:松田康長や北条軍の墓
  と豊臣軍の武将 一柳直末の墓もある


 山中城跡 二の丸 広場 
 現在は芝の広場となっている。尾根を区切る曲輪の
 造成法、架け橋や土塁の配置など箱根山の自然の地形
 を巧みに取り入れた山城である。
 石垣は全くなく土手だけの曲輪である
  山中城跡 二の丸から本丸へ  
  本丸へは土橋を渡って行くが敵が攻めって橋を破棄すると
  北側には堀止め斜面にはV字状の薬研堀、
  南側は箱堀となっている
    中山城跡 本丸から北の丸へ
  
北橋を渡って北の丸へ、深い堀があり
 
  中山城跡 西ノ丸 広場 
 西ノ丸から本丸方面を望む
  山中城跡 西ノ丸の下にある障子堀  
 西ノ丸の周りにはこのような障子堀があります。
    中山城跡 西ノ丸 見晴台より西櫓
 
西ノ丸・櫓台をぐるりと帯曲輪 
 
    小机城跡 続日本100名城(125番)  小机城跡   小机城跡
  小机城跡 本丸 広場前の表杭 
 2021年1月21日初めて登城する。
 横浜線小机駅下車徒歩15分にある小高い丘
 第三京浜高速が小机城を分断している
  小机城跡 本丸入口の土塁空堀  
永享の乱(1438年)の頃に関東管領上杉氏によって築城
であるが不明である。長尾景春の乱のうち1478年に起きた
攻守戦である。敵方の太田道灌が攻撃をした。
      小机城跡 二ノ丸広場
その後は廃城となったが、後北条氏の北条氏綱の
手により修復され、家臣の笠原信為が城主となる 

  小机城跡 配置図看板 
1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の
際には、無傷のまま落城した。その後、徳川家康の
関東入府のときに廃城とされた。 
  小机城跡 本丸から二の丸へ行く空堀  
小机城跡には石垣は無く土塁による。
小机城址市民の森として整備されている
    小机城跡 空堀と曲輪跡
主要な二つの郭のうちどちらが主郭で
あったかは不明である。横浜市に11つだけの城
近くには新横浜サッカー場と遊水地があり
 
 
金山城跡 日本100名城(17番) 金山城跡 2019年11月5日撮影 金山城跡 
 金山城跡(群馬県太田市)) 月ノ池と大手虎口
太田市のほぼ中央にそびえる標高235.8メートルの
独立峰、本丸のあったところに新田神社がある。
関東平野を一望できる絶景が見られる。
平成4年より発掘調査を開始し、石垣を多用した
山城の姿が解明しつつある


      
   金山城跡(太田市) 大手虎口 
別名:新田金山城、太田金山状とも言われ、新田城は
新田義貞が築城されたいるがその時代の遺構や遺物が
検出されたない。1469年新田一族であった岩松家純に
よった築城、その後1528年由良成繁・国繁、
1584年北条氏に代わり上杉謙信の攻撃受け
1590年豊臣秀吉の小田原征伐により落城して、
その後廃城

  金山城跡(太田市) 大手虎口 上より  
テレビ放映の影響でお城好きな人々が大勢いた。
難攻不落の山城で左右の急な絶壁でなかなか
攻められない程、石垣は見応えあり、展望からは
太田市全展望と東京方面も見れる
2019年11月5日撮影



 
弘前城 日本100名城(4番)
     重要文化財    1986年撮影
 築城主:津軽氏  築城年:1610年
 津軽藩城主:津軽家12代 外様4.7万石→10万石
 
 
 
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