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日本帝国陸軍・海軍特別攻撃隊
 特別攻撃隊とは、戦死前提の攻撃(特別攻撃)を行う部隊である。また、生還手段を用意した特殊攻撃兵器による
 攻撃(特別攻撃)を行う部隊をさすこともある。
 特別攻撃隊(特攻隊)は、第二次世界大戦末期において行われた爆弾、爆薬等を搭載した軍用機、高速艇、
 潜水艇等の各種兵器を、敵艦船等の目標に乗組員ごと体当たり、自爆等させる戦死を前提とする
 必死隊的作戦である。
  陸軍と海軍の開戦よりの事例
 
陸軍
 
1.昭和19年)4月14日、アンダマン諸島へ向かう陸軍輸送船「松川丸」を護衛中の陸軍飛行第26戦隊石川清雄曹長の
                一式戦闘機「隼」が、米潜水艦が発射した魚雷3本を発見。機銃掃射しつつ魚雷に突入し、
                戦死するも爆破に成功した。
 2.1944年8月20日B-29の八幡空襲で迎撃に出た陸軍第12飛行師団隷下飛行第4戦隊の二式複座戦闘機「屠龍」
                装備防空部隊所属野辺重夫軍曹、高木伝蔵伍長が敵機に対し体当たり攻撃を敢行し戦死。
 陸軍中央で1944年初頭に航空特攻の検討が始まった。
 陸軍の特攻開始は鉾田教導飛行師団の万朶隊と浜松教導飛行師団の富嶽隊よって最初に行われた。
 1944年11月5日万朶隊は初出撃, 7日富嶽隊初出撃した。

 海軍
 1.真珠湾攻撃で制空隊中隊長飯田房太大尉(戦死後中佐)は被弾し母艦「蒼龍」への帰還が困難と判断して
           カネオヘ合衆国海軍航空基地に突入した。
 2.珊瑚海海戦で機動部隊の上空直衛を行っていた宮沢武男兵曹は空母 翔鶴へ雷撃態勢に入った
           敵機に対して撃墜の暇なしと見て体当たりを敢行して戦死した。
 3.ミッドウェー海戦で南雲機動部隊の空母3隻が致命打を受けたあと、空母「飛龍」から米機動部隊に向け発進した
           攻撃隊隊長友永丈市大尉(戦死後中佐)は米空母「ヨークタウン」を攻撃した際に被弾し同乗の
           赤松少尉・村井一等飛行兵曹と共に同艦に体当たりした。
 4小型潜水艦による体当たり攻撃で終戦前に回天による人間魚雷
 出撃ごとに編成される特攻隊の総称。もしくは出撃ごとに特攻隊を編成するために特攻要員で編成された部隊
   潜水艇
 軍用では特に小型のものを潜水艇と呼び、大型のものは潜水艦と呼ばれる。
 軍用の特殊潜水艇では旧日本海軍の「甲標的」「蛟龍」「海龍」などがある。
 甲標的(こうひょうてき)
 (量産型1940年以降)
大日本帝国海軍(日本海軍)において最初に開発された特殊潜航艇である。兵装として魚雷2本を艦首に装備し、
電池によって行動する小型の潜航艇である。後に発電用のディーゼルエンジンを装備し、ディーゼル・エレクトリック方式となった。
当初は洋上襲撃を企図して設計されたが、後に潜水艦の甲板に搭載し、水中から発進して港湾・泊地内部に侵入し、
敵艦船を攻撃するよう戦術が転換された。
  実戦
1.初陣は1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃である。
  特殊潜航艇の甲標的を搭載した伊号潜水艦5隻は下記の編成で11月18〜19日にかけて呉沖倉橋島の亀ヶ首を出撃し、
  真珠湾に向かって出撃した。
    
特別攻撃隊指揮官・佐々木半九大佐
        
伊二二搭載・岩佐艇(岩佐直治大尉、佐々木直吉一曹)
        伊一六搭載・横山艇(横山正治中尉、上田定二曹)
        伊一八搭載・古野艇(古野繁実中尉、横山薫範一曹)
        伊二〇搭載・広尾艇(広尾彰少尉、片山義雄二曹)
        伊二四搭載・酒巻艇(酒巻和男少尉、稲垣清二曹)
  攻撃は5隻全艇が湾内に潜入することに成功し、3隻が魚雷攻撃を行った。しかし4隻が撃沈、1隻が座礁・拿捕され、
  帰還艇なしという結果に終わった。
 1.日本では、撃沈された4隻(雷撃に成功した1隻は自沈)の乗組員8名と、座礁した艇から脱出して水死した1名を
  加えた9名が二階級特進し
、「九軍神」として顕彰された。
 2.マダガスカル島の攻撃では戦艦ラミリーズを大破、タンカーBritish Loyalty(6,993トン)を撃沈した。
 3.シドニー港攻撃を行った甲標的は大胆不敵な作戦行動による勇敢さが相手に讃えられた
 4.ガダルカナルの作戦では8隻が潜水艦から発進、ルンガ泊地を攻撃し5隻が生還した。
  諸元
 
甲型 乙型 丙型 丁型(蛟竜)
全没排水量 46t 47t 49.09t 水中19.3t
全長 23.9m :24.9m 24.9m 17.2m
全幅 1.85m 1.85m 1.88m 3.5m
主機 600馬力(電動機) 600馬力(電動機) 600馬力(電動機)
最大速度 水中 19kt 水中 19kt 水中 18.5kt 水上6.5kt、水中10kt
水中航続距離
水上航続距離
80分/6kt
69km(37.5海里)/5kt
832.5km(450海里)/3kt
乗員 2名 2名 3名
兵装 45cm魚雷発射菅×2
九七式酸素魚雷×2
45cm魚雷発射菅×2
九七式酸素魚雷×2
45cm魚雷発射菅×2、
二式魚雷×2
外装式53cm魚雷×2
もしくは爆薬600kg
安全潜航深度 100m 100m 100m
建造数 52隻 1隻、甲改造4隻 46隻

       蛟竜(こうりゅう)
 大日本帝国海軍の特殊潜航艇の一種で、敵艦に対して魚雷若しくは体当りにより攻撃を行う二人乗りの
 有翼特殊潜航艇・水中特攻兵器である。海軍工作学校教官、浅野卯一郎機関中佐(海機)の発案で開発された。
 SS金物とも呼ばれた。本土決戦用の特攻兵器として開発され、飛行機の部品などを使って横須賀の海軍工廠などで、
 昭和20年に全部で200隻が建造された
 本土決戦が回避されたため実戦に投入されることはなかったが、海龍が攻撃された例はある。


      
  甲標的甲型 呉軍港での蛟龍(特殊潜航艇) シドニー湾を攻撃し撃沈引き揚げ 真珠湾攻撃の甲標的

        海龍 (潜水艇)
 大日本帝国海軍の特殊潜航艇の一種で、敵艦に対して魚雷若しくは体当りにより攻撃を行う二人乗りの
 有翼特殊潜航艇・水中特攻兵器である。海軍工作学校教官、浅野卯一郎機関中佐(海機)の
 発案で開発された。SS金物とも呼ばれた、本土決戦用の特攻兵器として開発され、飛行機の
 部品などを使って横須賀の海軍工廠などで、1945年(昭和20年)に全部で200隻が建造された。
 本土決戦が回避されたため実戦に投入されることはなかったが、海龍が攻撃された例はある。
 
全没排水量  19.3 t
全長  17.2 m
海龍 大和ミュージアムにて
全幅  1.3 m
主機  ディーゼルエンジン(水上)
 電動機 (水中)
最大速度  1.3 m
水中航続距離
水上航続距離
 5.5 km/h 70 km
 10 km/h 830 km
乗員  2名
兵装  2 × 533mm 外装式魚雷
 もしくは600 kg (1,300 lb)爆薬
安全潜航深度
建造数  生産無し

       伏龍(ふくりゅう)
太平洋戦争末期の大日本帝国海軍による特攻兵器のひとつ。
潜水具を着用し棒付き機雷を手にした兵士により、本土決戦における
水際撃滅を狙った特攻兵器として、1944年に開発された。
名称は「伏竜」ではなく「伏龍」と記述するのがより正確である。
伏龍が実戦に投入されることはなかった。しかし1945年6月10日、
土浦海軍航空隊で訓練中の訓練生・教官が空襲を受け、その内281名が死亡している。
元俳優の安藤昇、小説家の城山三郎は、かつて伏龍訓練部隊の一員であった。
伏龍の待機陣地が神奈川県鎌倉市の稲村ヶ崎に現存しているが、
落石の危険があるため立ち入り禁止となっている。

        震洋(しんよう)
 
第二次世界大戦の日本海軍の特攻兵器。
 小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬(約250kg)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦し、
 上陸船団に体当たり攻撃する特攻兵器。末期は敵艦船の銃座増加に伴い、これを破壊し到達するために
 2発のロケット弾が搭載された。また、2人乗りのタイプもあり、こちらには機銃1〜2丁が搭載され、
 指揮官艇として使用された 震洋の構想は1943年ごろすでに黒島亀人連合艦隊主席参謀が語っていた。
 終戦までに6000隻が生産された。 乗員は他の特種兵器搭乗員及び機体が無いために余剰となった
 航空特攻要員であった学徒兵、海軍飛行予科練習生出身者を 中心としていた。

  諸元
区分 一型艇 五型艇
全長(m) 5.1 6.5
全幅(m) 1.67 1.86
全高(m) 0.8 0.9
喫水(普通/満載(m)) 0.326/0.380 0.55/0.60
排水量(トン) 1.295 2.2
機関 トヨタ特KC型ガソリンエンジン×1基 同エンジン X2基
馬力 67HP 134HP
最高速度 16ノット(23ノット) 27ノット(30ノット)
航続距離 110海里/16ノット 170海里/27ノット
兵装 爆装250kg、ロサ弾×2 爆装250kg、ロサ弾×2、13mm機銃×1
乗員 1名 2名

 基地
部隊名 指揮官 配備基地名 特攻者数
第7震洋隊 コレヒドール島 フィリピン 特攻108名(昭和20年2月20日)
第8震洋隊 レガスピー 特攻99名
第9震洋隊 コレヒドール島 特攻245名
第10震洋隊 コレヒドール島 特攻135名
第11震洋隊 コレヒドール島 特攻126名
第12震洋隊 コレヒドール島 特攻130名
第13震洋隊 コレヒドール島 特攻209名
第22震洋隊 沖縄県金武 特攻74名
第128震洋隊 高知県手結 爆発事故で111名死亡
鹿児島県の基地
第17震洋隊 鹿児島県奄美群島加計呂麻島三浦
第18震洋隊 島尾敏雄(大尉) 鹿児島県奄美群島加計呂麻島呑ノ浦
第34震洋隊 鹿児島県上甑島
第40震洋隊 鹿児島県奄美群島喜界島早町
第44震洋隊 鹿児島県奄美群島奄美大島久慈
第47震洋隊 鹿児島新庄
第53震洋隊 井上叔保(中尉) 鹿児島長崎鼻山川
第61震洋隊 鹿児島県垂水
第63震洋隊 福地壽一(二主) 鹿児島谷山
第106震洋隊 川棚(鹿児島指宿)
第123震洋隊 鹿児島県坊ノ津
第124震洋隊 鹿児島県片浦
第125震洋隊 鹿児島県知覧聖ヶ浦
第130震洋隊 橋本是(少尉) 鹿児島県野間池
第131震洋隊 直井正數(少尉) 鹿児島県川内出口
第133震洋隊 鹿児島県喜入

       


        回天
回天、旧日本海軍の特攻兵器の一つで、人が乗り組み操縦できるよう、
九三式三型魚雷(通称「酸素魚雷」)を改造した人間魚雷
炸薬量は1.55トンあり、一撃で戦艦でも撃沈できるとされた。
終戦までに420機が生産された。出撃による戦死者は87名、そのうち特攻による戦死者は49名である。
最初期に着任した搭乗員は以下の34名である。
最終的には兵学校・機関学校122名、予備士官244名、兵科下士官10名、予科練1050名の、
計1426名(うち転出51名)が着任した。
回天は艦隊決戦型の駆逐艦、巡洋艦用に採用された超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を
改造したものである。
九三式三型魚雷は、直径61センチ、重量2.8トン、炸薬量780キログラム、時速約90キロで疾走する無航跡魚雷であり
主に駆逐艦に搭載された。回天は、この酸素魚雷を改造して、全長14.7メートル、直径1メートル、排水量8トンで
魚雷の本体に外筒をかぶせて、気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や
調整バルブをつけ、襲撃用の潜望鏡を設けた。
回天の詳細については”日本帝国海軍艦艇総覧”に記載されていますので参照下さい。
 諸元
1型 2型 4型 10型
全没排水量 8.30 t 18.17 t 生産無
全長 14.75 m 16.50 m
直径 1.00 m 1.35 m
軸馬力 550 馬力
速力/航続力 20 kt / 43,000 m 40ノット 40 kt
40 ktで27,000 m
最低航行速度 3 kt
乗員 1 名 2 名
炸薬 1.55 t 1.8 t
安全潜航深度 80 m
 1型
 
艇後半の機関部を九三式酸素魚雷から流用して作製。他に1型を簡素化して量産性を高めた
 1型改1および1型改2がある。
 2型
 過酸化水素と水化ヒドラジンを燃料とする機関(六号機械)を搭載して40ノットの高速を狙った大型タイプ。
 六号機械の開発が難航し、量産されることなく終戦を迎えた。
 4型
 機関に2型と同じ六号機械を使用し、燃料のみ1型と同じ酸素と灯油に変更したタイプ。
 2型と同じく六号機械の開発難航により量産されなかった。
 10型
 九二式電池魚雷を中央部で切断し、操縦室を挿入した簡易型回天。生産が間に合わず、実戦に
 参加することなくを終戦迎えた 


 戦歴

1944年11月8日、「玄作戦」のために大津島基地を出撃した菊水隊(母艦潜水艦として伊三六潜、、
伊三七潜、伊四七潜に各4基ずつ搭載)の12基が回天特攻の初陣である。
回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」が1944年11月20日決行された。

搭載母艦
菊水隊 伊三六潜、伊三七潜、伊四七潜(1944年11月8日出撃)。
金剛隊 伊五六潜、伊四七潜、伊三六潜、伊五三潜、伊五八潜、伊四八潜(1944年12月1日 - 1945年1月9日出撃)。
千早隊 伊三六八潜、伊三七○潜、伊四四潜(1945年2月20日、21日、22日出撃)
千早隊 伊五八潜、伊三六潜(1945年3月1日、2日出撃)
多々良隊 伊四七潜、伊五六潜、伊五八潜、伊四四潜(1945年3月28日 - 4月3日出撃)
天武隊 伊四七潜、伊三六潜(1945年4月20日、22日出撃)
振武隊 伊三六七潜(1945年5月5日出撃)
轟隊 轟隊、伊三六一潜、伊三六三潜、伊三六潜、伊一六五潜(1945年5月24日 - 6月15日出撃)
多聞隊 多聞隊、伊五三潜、伊五八潜、伊四七潜、伊三六七潜、伊三六六潜、
伊三六三潜(1945年7月14日 - 8月8日出撃)

 回天戦の戦果

 
     回天による攻撃(発進49基=搭乗員)
1944年11月20日:給油艦ミシシネワ撃沈 1945年1月12日:輸送艦ポンタス・ロス小破
1945年1月12日:歩兵揚陸艇LCI-600撃沈 1945年1月12日:弾薬輸送艦マザマ大破
1945年1月12日:戦車揚陸艦LST225小破 1945年7月24日:駆逐艦アンダーヒル撃沈
1945年7月24日:駆逐艦R・V・ジョンソン小破 1945年7月28日:駆逐艦ロウリー小破

 回天戦の戦没者

 
終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は、海軍兵学校、海軍機関学校、予科練、予備学生など、
 1,375人であったが、 実際に出撃戦死した者は87名(うち発進戦死49名)、訓練中に殉職した者は15名、
 終戦により自決した者は2名。
 回天による戦没者は、特攻隊員の他にも整備員などの関係者もあり、それらを含めると145人になった。

 回天の基地
部隊名 指揮官 部隊編成 配置
光突撃隊 - - 山口県光
平生突撃隊 - - 山口県平生
大津島分遣隊 - - 山口県大津島
大神突撃隊 - - 大分県大神
01回天隊 河合 不死男 回天8基 沖縄県沖縄本島
02回天隊 小灘 利春 回天8基 東京都八丈島
03回天隊 羽田 育三 回天8基 宮崎県油津
04回天隊 近江 誠 回天8基 高知県須崎湾
05回天隊 永見 博之 回天7基 宮崎県:大堂津・栄松、栄松南郷
06回天隊 那知 勤 回天8基 高知県浦戸湾
07回天隊 櫻井 勝 回天8基 高知県浦戸湾・高知県須崎湾
08回天隊 井上 薫 回天12基 宮崎県細島
09回天隊 重岡 力 回天6基 宮崎県内海
10回天隊 佐賀 正一 回天4基 鹿児島県内ノ浦
11回天隊 久堀 弘義 回天8基 愛媛県麦ヶ浦
12回天隊 峯 眞佐雄 回天6基 千葉県小浜
13回天隊 未展開 - 静岡県網代
14回天隊 未展開 - 神奈川県小田和
15回天隊 未展開 - 愛知県大井
16回天隊 武永 惟雄 回天4基 和歌山県由良白崎

                 航空機による特攻
 海軍   神風特別攻撃隊
大日本帝国海軍の航空特別攻撃隊である。1944年10月20日に最初の攻撃隊が編成され、
 1945年8月15日の終戦まで続いた、最も有名な特別攻撃隊である。特攻全体の歴史は特別攻撃隊を参照。

 概要
 
「神風特別攻撃隊」は、太平洋戦争の末期に資源・人材に困窮して追い詰められた大日本帝国海軍が編成した
 航空機の特別攻撃隊である。1944年10月20日に大西瀧治郎中将によって開始され、郷里の道場
 「神風(しんぷう)流」から猪口力平中佐が命名したものである。

 特攻作戦開始までの背景
 
創設者・大西瀧治郎中将の下には、神風特別攻撃隊創設以前から特攻を求める意見が多数寄せられていた。
 日本軍がマリアナ沖海戦で敗れると、城は大西に対して再び特攻隊の編成を電報で意見具申した
 ほか、同時期に岡村基春大佐も大西へ対して特攻機の開発、特攻隊編成の要望があった。

 神風特攻隊創設
1944年10月19日夕刻、大西はマバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で201空副長・玉井浅一中佐、
二十六航空戦隊参謀・吉岡忠一中佐と神風特別攻撃隊命名者・猪口を招集して特攻に関する会議を開いた。
指揮官の選定は、猪口から「海軍兵学校出身者を指揮官に」という意向を受けて、玉井は関行男を指名した。

 神風の初戦果
 1944年10月21大和隊・敷島隊・朝日隊・山桜隊の計24機が出撃したが、同日は悪天候などに阻まれて
ほぼ全機が 帰還したものの、大和隊隊長・久納好孚中尉が未帰還となった。各隊は出撃を連日繰り返すも
全て空振りに終わり、 同月23日には大和隊・佐藤馨上飛曹が未帰還となる。そして同月25日午前10時49分、
敷島隊指揮官の 関(戦死後中佐)以下6機が空母「セント・ロー」を撃沈し、初戦果を挙げて活路を開いたが、
突入する水上部隊だった。
栗田艦隊が突然反転したため、特攻戦果は作戦成功にはつながらなかった。
 敷島隊が関の指揮によって成功・戦果を挙げた後、大西は福留を説得して現地で第一航空艦隊・
第二航空艦隊を統合した。 「連合基地航空隊」を編成し、神風特攻隊を拡大した。大西は第一航空艦隊、
第二航空艦隊、721空の 飛行隊長以上40名ほどを召集し、大編隊の攻撃は不可能で少数で敵を抜けて
突撃すること、現在のような戦局では ではただ死なすより特攻は慈悲であることなどを話して特攻を指導した。

            

    
  

 練習機まで沖縄特攻に投入
   第5、第10航空艦隊(南九州方面)                第1航空艦隊(台湾方面)
     ・水上機(主に九四式) 75機                     ・九三式中間練習機    14機
     ・白菊練習機       107機                    
    全特攻機数        1536機                     全特攻機数     360機
                           *数字は海軍機のみで、引き返したものも含む
 「銀河」による主な特攻
年 月 日 部隊名 出撃機数 出撃基地 特攻場所
1944年11月19日 増援神風特別攻撃第501攻撃隊 銀河3機 フィリピン フィリピン方面
1944年11月21日 第5神風特攻隊 銀河1機 フィリピン フィリピン方面
1944年11月25日 第5神風特攻隊疾風隊 銀河3機、零戦2機 フィリピン フィリピン方面
第5神風特攻隊強風隊 銀河2機 フィリピン フィリピン方面
     12月04日 第5神風特攻隊怒濤隊 銀河1機 フィリピン フィリピン方面
     12月07日 第5神風特攻隊颶風隊 銀河5機 フィリピン フィリピン方面
     12月15日 増援神風特別攻撃第1草薙攻撃隊 銀河2機 フィリピン フィリピン方面
1945年3月11日 菊水部隊梓特攻隊 銀河13機、二式大艇2 鹿屋、鹿児島 ウルシ―方面
     3月18日 菊水部隊銀河隊 銀河8機 鹿屋、築城 九州南東海上
     3月19日 銀河6機 鹿屋、出水 九州南東海上
     3月20日 銀河1機 鹿屋、大分 九州南東海上
     3月21日 銀河12機 鹿屋、出水、宮崎 九州南東海上
     3月25日 勇武隊 銀河3機 台中 沖縄方面
     3月27日 第1銀河隊 銀河5機 宮崎 沖縄方面
     4月02日 第2銀河隊 銀河1機 宮崎 沖縄方面
     4月03日 第3銀河隊 銀河3機 宮崎 沖縄方面
     4月06日 勇武隊 銀河3機 宮崎 沖縄方面
     4月07日 第4銀河隊 銀河4機、銀河4機 宮崎 沖縄方面
     4月11日 第5銀河隊 、第3御楯706部隊 銀河5機、銀河1機 宮崎 沖縄方面
     4月16日 第6銀河隊、第7銀河隊 銀河8機、銀河4機 宮崎、出水 沖縄方面
     4月17日 第8銀河隊 銀河1機 出水 沖縄方面
     5月11日 第9銀河隊 銀河6機 宮崎 沖縄方面
     5月25日 第10銀河隊 銀河3機 宮崎、美保 沖縄方面
                                       沖縄方面出撃で87機が体当たりする
ィリピンでは、1944年10月から翌年1月に航空部隊が去るまで
特攻は行なわれ、陸海軍合わせて550機以上が失われた。
1945年3月からの沖縄戦でも続行され、1800機以上が
投入されている。特攻機は、体当たりを果たせず海中に没する
ものがほとんどだったが、各戦場ですくなくとも2500機以上が
突入し、4000人以上が戦死した。
海軍では出撃機は艦載戦闘機、艦載爆撃機、艦載攻撃機、
水上機など15種類にもおよび、総数1392機にのぼる。


海軍特攻基地
鹿島海軍航空隊 -
北浦海軍航空隊 -
谷田部海軍航空隊 沖縄戦以後は特攻隊が編成され、第一昭和隊などがこの基地から出撃
香取海軍航空隊 第ニ御楯隊が編成され、2月21日硫黄島沖の米艦艇に突入
茂原海軍航空隊 第三御楯隊はこの基地から鹿児島の特攻基地へ前進し、南の空に散っていった
大井海軍航空隊 特攻訓練
名古屋海軍航空隊 神風特別攻撃隊草薙隊が国分基地に進出
河和海軍航空隊 水上昭和19年末からは特攻訓練一期生が神風特別特攻隊として出撃
鈴鹿海軍航空隊 搭乗偵察員の教育練習航空隊
大和海軍航空隊 本土決戦に備えるべく特攻基地として建設され、練習機による訓練
姫路海軍航空隊 艦上攻撃機二十一機、五回にわたり鹿児島県串良基地より出撃
詫間海軍航空隊 神風特別攻撃隊琴平水心隊、出撃
高知海軍航空隊 鹿屋基地から沖縄作戦二十年五月より六月にわたる四次の攻撃で、二十六機五十二名の隊員が敵艦船に 壮烈なる体当たりを敢行
博多海軍航空隊 筥崎隊、香椎隊、伏敵隊と特攻隊が編成され人吉、鹿児島に展開し、水上機部隊は沖縄への
迎撃作戦に出撃
築城海軍航空隊
  (二次)
筑波海軍航空隊より練習機隊が到着し開隊
神風特別攻撃隊菊水銀河隊 出撃
天雷特別攻撃隊白虎隊 出撃
大村海軍航空隊 第一神剣隊 出撃/鹿屋〜昭和20年 5月14日 第六神剣隊 出撃/鹿屋
諫早海軍航空隊  大村空の分遣隊として開隊、中練特攻訓練を実施
宇佐海軍航空隊 特攻編成による訓練に移行 神風特別攻撃隊、第二国分、串良
天草海軍航空隊 天草海軍航空隊は水上機の練習航空隊
神風特別攻撃隊・第一次十二航戦水偵隊隊 特攻出撃(指宿)
神風特別攻撃隊・第二次十二航戦水偵隊隊 特攻出撃(指宿)
神風特別攻撃隊・第二次十二航戦水偵隊隊 特攻出撃(奄美大島)
富高海軍航空隊 -
宮崎海軍航空隊 この地は「旧海軍赤江飛行場宮崎海軍航空隊跡地」である。南九州最大の航空基地として
陸海軍共同作戦を含む数多くの戦闘作戦に特別攻撃隊及び雷撃隊出撃の基地赤江飛行場は
昭和18年12月1日付で海軍航空隊の練習基地として開隊
昭和19年10月12日台湾沖航空戦に突入した。当日赤江基地に展開していた陸海軍機の
攻撃隊及び雷撃隊の出撃となった。赤江基地を主軸として発進又は中継基地として作戦に参加した
海軍機は「一式陸上攻撃機」をはじめ三四四機、陸軍機は「飛燕」延二〇〇機、総機数五四四機である。
この作戦による戦死者数は海軍六三五名、陸軍八〇名である。昭和十九年十月二十五日
第一神風特別攻撃隊敷島隊の第一陣である。海軍における神風特別攻撃隊として出撃した特攻隊員は
布告第五十九号を始め布告第二五九号を最後に2、507名になる。陸軍における特別攻撃隊として
出撃した特攻隊員は1、392名になる。特別攻撃隊員のほとんどがこの赤江基地を飛び立ち直接攻撃に
参加したもの或は中継基地として比島、台湾、沖縄で特攻作戦に参加
   鹿児島県基地
出水海軍航空基地 戦争末期は特攻基地として銀河隊等が進出し、沖縄の米機動部隊に対して攻撃を行った
鹿児島海軍航空隊
指宿基地 海軍
 (著者の田舎)
水上機は北浦空・詫間空の零式水債と九四式水偵の実用練習機を特攻機に転用
昭和20年 4月29日 神風特別攻撃隊 琴平水心隊 出撃 (詫間空  5名、沖縄周辺艦船)
昭和20年 5月 4日 神風特別攻撃隊 琴平水心隊 出撃 (詫間空 27名、沖縄周辺艦船)
昭和20年 5月 4日 神風特別攻撃隊 第一魁隊   出撃 (北浦空 18名、沖永良部周辺艦船)
昭和20年 5月11日 神風特別攻撃隊 第二魁隊   出撃 (鹿島空  5名、沖縄周辺艦船)
昭和20年 5月25日 神風特別攻撃隊 琴平水偵隊 出撃 (福山空  9名、沖縄周辺艦船)
昭和20年 5月28日 神風特別攻撃隊 琴平水心隊 出撃 (詫間空  7名、沖縄周辺艦船)
昭和20年 5月24日 神風特別攻撃隊 第十二航空隊二座水偵隊 出撃(天草空3名、沖縄周辺艦船
昭和20年 6月21日 神風特別攻撃隊第十二航空隊二座水偵隊 出撃(天草空 13名、沖縄周辺艦船)
第一国分海軍航空基地 昭和19年8月15日国分海軍航空隊として開隊、昭和19年、本土防衛の目的で建設された。
菊水作戦では多くの部隊が沖縄の米機動部隊に特攻攻撃を敢行した
串良海軍航空隊 各地の航空隊から部隊が進出し、沖縄敵艦隊に特攻隊として出撃
鹿屋航空基地 神風特攻隊の出撃基地となり828名が出撃

               神風特別攻撃隊 戦史
 比島方面作戦
第一神風特別
  攻撃隊


第一航空艦隊編成
爆装戦闘機主体
昭和19年10月25日 敷島隊 昭和19年10月25日 彗星隊
昭和19年10月25日 朝日隊 昭和19年10月29日 初桜隊
昭和19年10月25日 山桜隊 昭和19年10月30日 葉桜隊
昭和19年10月25日 菊水隊 昭和19年11月 1日 梅花隊
昭和19年10月25日 若桜隊 昭和19年11月 5日 左近隊
昭和19年10月25日 大和隊
第二神風特別
  攻撃隊
  
第二航空戦隊編成
 戦爆混用
昭和19年10月27日 忠勇隊 昭和19年10月29日 至誠隊
昭和19年10月27日 義烈隊 昭和19年10月29日 神武隊
昭和19年10月27日 純忠隊 昭和19年10月29日 神兵隊
昭和19年10月27日 誠忠隊 昭和19年11月 1日 天兵隊
第三神風特別
  攻撃隊

第一連合基地
 航空部隊編成
  戦闘機主体

昭和19年11月 1日 桜花隊 昭和19年11月25日 第三高徳隊
昭和19年11月 5日 白虎隊 昭和19年11月25日 吉野隊
昭和19年11月 9日 第二朱雀隊 昭和19年11月25日 笠置隊
昭和19年11月12日 第二桜花隊 昭和19年11月26日 右近隊
昭和19年11月12日 梅花隊 昭和19年11月26日 第十聖武隊
昭和19年11月12日 第二白虎隊 昭和19年11月27日 春日隊
昭和19年11月12日 時宗隊 昭和19年11月29日 高徳隊
昭和19年11月12日 第五聖武隊 昭和19年12月 5日 第十一聖武隊
昭和19年11月13日 正行隊 昭和19年12月 6日 第一桜井隊
昭和19年11月14日 山本隊 昭和19年12月 7日 千早隊
昭和19年11月18日 第八聖武隊 昭和19年12月 7日 第五桜井隊
昭和19年11月19日 第九聖武隊 昭和19年12月 7日 第七桜井隊
第四神風特別
 攻撃隊
第二神風特別攻撃隊
後継 艦爆主体

昭和19年11月 6日 鹿島隊 昭和19年11月11日 神崎隊
昭和19年11月11日 神武隊
第五神風特別攻撃隊

 
 
銀河主体
昭和19年11月21日 第五神風攻撃隊 昭和19年12月 4日 怒涛隊
昭和19年11月21日 疾風隊 昭和19年12月 7日 颶風隊
昭和19年11月25日 強風隊 昭和19年12月15日 第一草薙隊
内地教育航空隊      

 
編成内地教育
  航空隊編成
昭和19年11月19日 攻撃501飛行隊 昭和20年 1月 3日 第三十金剛隊
昭和19年12月11日 第一金剛隊 昭和20年 1月 5日 第十八金剛隊
昭和19年12月13日 第二金剛隊 昭和20年 1月 5日 第十九金剛隊
昭和19年12月14日 第三金剛隊 昭和20年 1月 6日 第二十金剛隊
昭和19年12月14日 第五金剛隊 昭和20年 1月 6日 第二十二金剛隊
昭和19年12月14日 第六金剛隊 昭和20年 1月 6日 第二十三金剛隊
昭和19年12月15日 第七金剛隊 昭和20年 1月 6日 八幡隊
昭和19年12月15日 第九金剛隊 昭和20年 1月 7日 第二十八金剛隊
昭和19年12月15日 第十金剛隊 昭和20年 1月 7日 第二十九金剛隊
昭和19年12月16日 第十一金剛隊 昭和20年 1月 9日 第二十四金剛隊
昭和19年12月26日 金鵄隊 昭和20年 1月 9日 第二十五金剛隊
昭和19年12月28日 第十四金剛隊 昭和20年 1月 9日 第二十六金剛隊
昭和19年12月28日 月光隊 昭和20年 1月25日 第二十七金剛隊
昭和19年12月29日 第十五金剛隊
サイパン、硫黄島
  方面作戦
昭和19年11月27日 第一御楯隊 昭和20年 2月21日 第二御楯隊/香取
台湾方面
第一航空戦隊
  編成

昭和20年 1月15日 第一新高隊 昭和20年 1月21日 一航艦零戦隊
昭和20年 1月21日 第三新高隊 昭和20年 1月21日 新高隊
第二次丹作戦 昭和20年 3月11日 菊水部隊梓特攻隊/鹿屋
昭和20年 3月18日 菊水部隊彗星隊/第一国分、第二国分
昭和20年 3月18日 菊水部隊銀河隊/鹿屋、築城、出水、大分、宮崎
昭和20年 3月21日 第一神雷部隊/鹿屋


       桜花 (航空機)
 
    大田正一少尉が発案したいわゆる人間爆弾である
 日本海軍が太平洋戦争中の昭和19年)に開発した航空機(特攻兵器)である。昭和20年)から実戦に投入された。
 「桜花」は機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、母機に吊るされて目標付近で
 分離し発射される。 その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりさせる。
 終戦までに11型が製造され755機生産された。桜花で55名が特攻し戦死した。



桜花11型性能諸元表
制式名称 MXY-7
機体略号
全幅 5.12m
全長 6.066m
全高 1.16m
自重 440kg
全自重 2270kg
最高速度 1040km/h(急降下突撃状態)
648km/h(水平時最大速度)
航続距離 37km(投下高度によって変化)
高度7千で投下して約60km
武装 1200kg徹甲爆弾
エンジン 固体ロケットエンジン
出力 推力800kg×3
ただし毎本の稼働時間は9秒
乗員 1名
 実績
 
1944年10月1日第七二一海軍航空隊(神雷部隊)が桜花の専門部隊として編成された。
 1944年11月29日桜花50機が横須賀から呉に移動中、空母信濃と共に潮岬沖で沈んだ。
 1945年1月10日以降レイテに参加させると計画する。12月19日空母雲龍でフィリピンへ移動中の
 桜花30機が海没。 龍鳳でルソン島へ移動中の桜花58機は台湾へ変更した。
 1945年3月18日から始まった九州沖航空戦4日目の3月21日に第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊を
 沖縄攻撃中の米機動部隊に向けて、桜花実戦部隊として初出撃させた。
 野中五郎少佐指揮による一式陸攻18機(うち隊長機3機は桜花未搭載)、桜花15機、護衛の
 零戦55機の編成であった。 敵艦隊にレーダーで捕捉されてしまい、敵艦隊の遥か手前で
 F6F戦闘機28機に迎撃され、陸攻隊は18機全機未帰還、 零戦隊は30機中10機が撃墜され
 全滅という結果に終わった。桜花隊は三橋謙太郎大尉ほか14名が未帰還となった。
 桜花パイロット55名、その母機の搭乗員368名の戦死者に対し、桜花が与えた確実な戦果は、
 ウルシー環礁と沖縄戦において アメリカ海軍の駆逐艦マナート・L・エベール撃沈1隻、
 その他連合国の駆逐艦以下の数隻に損傷を与えるにとどまった。


        陸軍特別攻撃
 
陸軍中央で1944年初頭に航空特攻の検討が始まった。主に艦船に対する体当たりについてで、春には機材、
春には機材、研究にも着手した。
マリアナ沖海戦の敗北で1944年6月25日元帥会議が行われた。伏見宮博恭王より「陸海軍とも、なにか特殊な
兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。
戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する
と発言がある。東條、嶋田はすでに考案中であると答えた。
  特攻開始
陸軍の特攻開始は鉾田教導飛行師団の万朶隊と浜松教導飛行師団の富嶽隊よって最初に行われた。
1944年10月24日から特別任務要員として南方へ派遣した。26日参謀総長代理菅原道大航空総監が臨席し
出陣式が行われ、富嶽隊と命名された。
万朶隊は初出撃を待つが11月5日、第4航空軍の命令で作戦打ち合わせに向かった隊長の岩本大尉以下5名が
米戦闘機と遭遇し戦死。
富嶽隊も11月7日早朝、初出撃した。しかしこの出撃は空振りに終わり、山本中尉機が未帰還。富嶽隊は13日に、
隊長西尾常三郎少佐以下6名が米機動部隊に突入して戦死(戦果未確認)。
沖縄戦では、第6航空軍(福岡)所属の振武隊と第8飛行師団(台湾)所属の誠飛行隊が次々と編成され、出撃していった。
また飛行第62戦隊の重爆撃機による特攻も行われた。このうち、第6航空軍司令官は菅原道大中将が務め、
知覧・都城などを基点に作戦が遂行された。
決号作戦に参加した振武隊員1,276名のうち、航空機の故障などの理由によって帰投した605名
 陸軍基地・飛行隊
鉾田教導飛行師団原町飛行隊 昭和19年11月 特別攻撃隊編成(勤皇隊、鉄心隊、皇魂隊

八街飛行場(千葉)      大戦末期には武装して対B−29戦闘、対地攻撃及び特別攻撃隊

志津陸軍飛行学校銚子分教場 昭和18年10月 陸軍熊谷飛行学校 児玉教育班として開設
              児玉基地と改称、各分科飛行部隊および特別攻撃隊の基地

調布飛行場         飛行第244戦隊、特攻掩護のため知覧基地へ移動

陸軍中津飛行場       第18振武隊、第19振武隊が知覧飛行場を出撃
              特攻戦死者は計16名、殉職者1名、復員者7名

太刀洗飛行場 福岡県    西日本における陸軍航空発祥の地であり、大東亜戦争当時は日本陸軍が
              東洋一と誇った航空戦略の一大拠点で、大正8年の創設以来
              爆撃機「飛龍」の部隊が配備された。

目達原飛行場 佐賀県    昭和十八年陸軍太刀洗飛行学校目達原分校として開設 
              特攻第二七三振武隊

都城陸軍飛行隊       都城を発進した特攻機は全部で10隊、全機四式戦「疾風」編成
              出撃特攻隊員は79名にのぼり、ほとんどが18歳から23歳の若者たちであった

知覧飛行場 (鹿児島)    昭和17年3月大刀洗陸軍飛行学校知覧分校が設けられた 
              昭和20年本土最南端航空基地として陸軍最後の特攻基地
              特攻基地といえば知覧が有名で戦後よく映画にでる。
              内地の各飛行場から訓練を重ねて特攻隊としての中継基地として数多くの
              若き勇士が莞爾として雲流るる果て遥か逝きて 帰らざる
              壮途につかれた思いで深い土地である 
 
特攻 構成人数・比率と戦死者数
1945年1月25日までのフィリピンでの航空特攻は、特攻機数は陸軍202機、海軍333機。
戦死者は陸軍252名、海軍420名であった。
沖縄への航空特攻は海軍1026機、1997名、陸軍886機、1021名を数える
殆どの特攻隊員は下士官・兵と学徒出陣の士官(将校)である。海軍では下士官・兵は予科練、
陸軍では少年飛行兵出身であり、部隊編成上特攻の主軸となった。
陸軍は主に幹部候補生・特別幹部候補生・特別操縦見習士官出身者からなる。

  
2010年8月現在確認されている特攻隊員戦死者数は
        海軍         陸軍
海軍航空特攻隊員:2,531名 陸軍航空特攻隊員:1,417名
特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名 丹羽戦車特攻隊員:9名
回天特攻隊員:104名 陸軍海上挺身隊員(マルレ):263名
震洋特攻隊員:1,081名
     合計:4,156名       合計:1,689名

 
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