孝明天皇 
 こうめいてんのう
天保2年6月14日(1831年7月22日) - 慶応2年12月25日(1867年1月30日)
仁孝天皇の第四皇子として誕生、第121代天皇。在位1846年-1867年
 明治天皇 
 めいじてんのう
嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)
孝明天皇の第二皇子。生母は権大納言・中山忠能の娘・中山慶子。
第122代天皇。在位1867年-1912年
  中川宮
  朝彦親王

文政7年2月27日(1824年3月27日) - 明治24年(1891年)10月25日)
江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の皇族。伏見宮邦家親王の第4王子
中川宮朝彦親王という。青蓮院宮とも呼ばれる:安政の大獄で隠居永蟄居させられたが
安政6年(1859年)には安政の大獄で「隠居永蟄居」を命じられる。
後に赦免され、国事御用掛となる。公武合体派の領袖であった。
公武合体派の領袖であった尊融親王は長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちから嫌われ、
慶応2年孝明天皇が崩御し明治天皇が即位、それに伴い尊攘派公卿が逐次復権する。
このため、朝彦親王らは朝廷内で急速に求心力を失ってゆく。
朝彦親王を明治元年(1868年)、広島藩預かりとした。明治5年(1872年)正月、伏見宮に復籍。
  有栖川宮
  幟仁親王

文化9年1月5日(1812年2月17日) - 明治19年(1886年1月24日))
幕末・明治期の日本の皇族。有栖川宮韶仁親王の第一王子
元治元年(1864年)5月には、熾仁親王とともに国事御用掛に任命された。
両親王は長州との通謀疑惑をかけられ、孝明天皇の意を受けた関白二条斉敬によって
国事御用掛を罷免された上、謹慎および蟄居を命じられた。
王政復古の大号令によって、熾仁親王は新政府の総裁職に就任した。
 有栖川宮
  熾仁親王
 
天保6年2月19日(1835年3月17日) - 明治28年(1895年)1月15日)
有栖川宮幟仁親王の第1王子 、和宮親子内親王と婚約していたことで知られる
元治元年5月9日、熾仁親王は父・幟仁親王とともに国事御用掛に任命されて朝政に参画
王政復古のクーデター計画も西郷隆盛や品川弥二郎から事前に知らされる。
このクーデターの成功により新政府が樹立され総裁・議定・参与の三職が新たに
設けられると、熾仁親王はその高職である総裁に就任する。熾仁親王は自ら東征大総督の
職を志願し、勅許を得た。西郷隆盛らに補佐され新政府軍は東海道を下って行くが、この
道中の早い段階で、熾仁親王は恭順を条件に慶喜を助命する方針を内々に固めていた。
明治期以後は別記参照
 輪王寺宮
(北白川宮能久親王)
彰義隊に擁立され、敗北後東北に逃避、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。
伏見宮邦家親王の第9王子 明治期以後は別記参照
 鷹司 政通
 たかつかさ
   まさみち
   
関白
寛政元年7月2日(1789年8月22日) - 明治元年10月16日(1868年11月29日))
文政6年に関白に就任、天保13年には太政大臣に就任する。5年前後で関白職を辞する
辞任するまで30年以上の長期にわたって関白の地位にあり、朝廷で大きな権力を持った。
当初は開国論に立って日米和親条約締結を主張したが、若手公卿の批判を
受けると一転して夷派となる。これが幕府の怒りに触れて落飾し、出家した
 九条尚忠 
 くじょう ひさただ
   関白 
寛政10年7月25日(1798年9月5日) - 明治4年8月21日(1871年10月5日)
実兄の権大納言・九条輔嗣に養育された。長期間関白職を務めた鷹司政通から同職を
受け継ぐこととなったが、女癖の悪さもあり、各方面より警戒された。
安政5年(1858年)、アメリカをはじめとする諸外国との通商に際して、幕府が
日米修好通商条約の勅許を求めてきた時、幕府との協調路線を推進して
条約許可を求めた。しかし同年、幕府との協調路線に反発する88人の公卿たちの猛烈な
抗議活動により条約勅許ははならなかった(いわゆる廷臣八十八卿列参事件)。
孝明天皇は立腹し、関白の内覧職権を一時停止した。その後、復職を許されたが、
その後も幕府との協調路線を推進し、公武合体運動の一環である。
和宮降嫁を積極的に推し進めたため、一部の尊皇攘夷過激派から糾弾されて、
謹慎を命じられた
 近衛 忠煕 
 このえ ただひろ
  
関白
文化5年7月14日(1808年9月4日) - 明治31年(1898年)3月18日)
父は近衛基前、安政4年(1857年)、左大臣となるが、将軍継嗣問題で一橋派に属し、
戊午の密勅のために献策したため、安政の大獄により失脚し、落飾謹慎する。
久2年(1862年)に復帰して九条尚忠に代わり関白内覧を務めるが、翌年関白職を辞し、
鷹司輔煕が後任となった。
 鷹司 輔煕 
  たかつかさ
  すけひろ
   関白
文化4年11月7日(1807年12月5日) - 明治11年(1878年)11月19日)
嘉永元年3月内大臣、翌年正月には従一位に上る。安政4年(1857年)2月右大臣に転ずる。
安政5年(1858年)、日米修好通商条約締結への勅許をめぐり、朝廷と幕府が対立するに
および、井伊直弼の安政の大獄の一環で、幕府の内請により翌安政6年(1859年)辞官を
余儀なくされた。
翌文久3年(1863年)には近衛忠煕の後を受けて関白に就任する。
関白在任中、朝廷は長州藩と結びついた尊王攘夷過激派の三条実美・姉小路公知らが
次第に発言力を拡大させる。輔煕は関白の座にありながらこの政局に関与できず、
また三条実美らの帰京を運動したため、12月には島津久光の建言により関白を
免ぜられた。元治元年7月に起きた禁門の変に際しては、鷹司邸は久坂玄瑞や
寺島忠三郎ら長州藩兵が立て篭もり、会津・薩摩・幕府軍の攻撃を受けて焼失する。
これにより鷹司家は長州藩と気脈を通じているとの嫌疑をかけられ、輔煕は参朝を停止
され謹慎処分となり、諸大夫の青木吉順は京都町奉行に逮捕された。
 二条 斉敬 
 にじょう なりゆき  
   関白
文化13年9月12日(1816年11月1日) - 明治11年(1878年)12月5日)
黒船来航以来の政局にあたっては徳川斉昭と同調し、日米修好通商条約締結の勅許も
不可を唱えた安政の大獄では処罰の対象となり、翌年2月に10日間の慎(つつしみ)を
命じられた。しかし、翌月には内大臣に昇進。文久2年(1862年)にはさらに右大臣に進んだ。
文久2年(1862年)12月に国事御用掛に任ぜられ、三条実美や姉小路公知ら攘夷派の
過激公卿、およびそれを支援する長州藩と対立。
八月十八日の政変を決行し、長州藩や過激派公卿の追放(七卿落ち)に成功した。もとより
公武合体を強く欲していた孝明天皇の信頼はますます篤く、同年9月には内覧を命じられ、
さらに12月には従一位左大臣に昇進。あわせて関白となるよう詔勅が下され、拝受した。
翌慶応3年(1867年)正月、睦仁親王が践祚すると、引きつづき摂政に任ぜられ、国政に
当たったが、この頃より次第に王政復古派が復権。
明治2年3月、明治天皇の東京行幸中の大宮御所御用掛、同年7月に麝香間祗候を
命ぜられる。明治11年(1878年)12月に薨去。享年63
  安政5年(1858年)に日米修好通商条約締結の勅許に反対し、幕府より処罰された八十八卿の主な者
 中山 忠能 
  なかやま
   ただやす
文化6年11月11日(1809年12月17日) - 明治21年(1888年)6月12日)
天保11年(1840年)、参議となる。  弘化4年(1847年)、権大納言となる
元治元年(1864年)、長州藩が京都奪還のため挙兵した禁門の変では長州藩の
動きを支持した。禁門の変は結果的に失敗し、忠能は孝明天皇の怒りを買って
処罰された。慶応2年(1866年)、孝明天皇が崩御すると、復帰を許される。
慶応3年(1867年)、中御門経之・正親町三条実愛らと組み、将軍・徳川慶喜追討の
勅書である。討幕の密勅を明治天皇から出させることにも尽力。その後も岩倉具視らと
協力して王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務めた。
明治21年(1888年)、80歳で薨去
 大炊御門
  家信

 おおいのみかど
   いえこと
文政元年6月8日(1818年7月10日) - 明治18年(1885年)8月30日)
大炊御門経長の三男として生まれたが、兄二人が早世したため、
清華家大炊御門家の嫡男となった。
天保2年(1831年)には従三位となり、公卿に列する。安政元年には権大納言に列した。
安政5年には日米修好通商条約へ勅許を出すことに反対するため、
中山忠能・岩倉具視らとともに八十八卿の一人として抗議の列参をし、勅許を阻止した
井伊直弼による政治弾圧「安政の大獄」に連座する。
文久3年に右近衛大将・右馬寮御監となる。
慶応3年(1867年)に内大臣、さらに右大臣に就任した。明治元年(1868年)に任職を辞す。
 正親町三条
   実愛

 おおぎまち
  さんじょう
    さねなる 
文政3年10月30日(1820年12月5日) - 明治42年(1909年)10月20日)
嘉永元年(1848年)に従三位参議となって公卿に列する。丹波権守・権中納言・
踏歌節会外弁・右衛門督などを歴任した。安政5年、江戸幕府が朝廷に対して
通商条約締結の勅許を求めた際、廷臣八十八卿の一人として反対論を展開した。
薩摩藩の主導する公武合体運動を支持して「航海遠略策」に賛同したため、
尊皇攘夷派の志士から敵視された結果、翌文久3年(1863年)に失脚する。
同年の8月18の政変で朝廷に復帰した後は、薩摩藩に接触して討幕派公卿の
一人として朝廷をリードした。明治元年(1868年)に新政府の議定、同2年(1869年)には
刑部卿に就任。その後も内国事務総督、教部卿等などを歴任した。
明治42年(1909年)、90歳で薨去。
 堀河 康親 
  ほりかわ
     やすちか
寛政9年2月20日(1797年3月18日) - 安政6年9月3日(1859年9月28日)
父は従二位参議の堀河親実
安政2年(1855年)に参議となったが、翌年辞し、踏歌節会外弁となる。安政5年(1858年)の
病のため職を辞し、まもなく病で薨去した。安政の大獄の際に八十八卿として子の
親賀と孫の康隆とともに連座した。翌年権中納言となるも
 大原 重徳
 おおはら
   しげとみ
享和元年10月16日-明治12年(1879年)4月1日)
権中納言・大原重尹の五男として京に生まれる。
安政5年(1858年)には日米修好通商条約の調印のための勅許を求めて老中・堀田正睦が
上洛すると岩倉具視らと反対して謹慎させられる。
元治元年に赦免され、慶応2年(1866年)には親幕派の中川宮や二条斉敬らの追放を
試みるが失敗して幽門させられる。後に許されて、明治元年には従二位・権中納言
に進み、参与・議定など新政府の役職を務め、明治12年(1879年)に薨去、
享年79。同年4月3日、贈正二位
 五辻 高仲 
 いつつじ
   たかなか
文化4年12月22日-明治19年(1886年)6月5日
半家の五辻家第33代当主。権大納言庭田重能の次男。
安政5年(1858年)の日米修好通商条約勅許に反対し、廷臣88人の列参に加わった
明治19年(1896年)、80歳で薨去した。
 今出川実順 
  いまでがわ
    さねあや
 
天保3年7月13日(1832年8月8日)‐元治元年9月5日(1864年10月5日)
父は権中納言今出川公久 ,嘉永2年(1849年)には従三位・右近衛権中将となり、公卿に
安政5年(1858年)幕府が朝廷に求めた日米修好通商条約への勅許を出すことに反対して
廷臣八十八卿として列参に加わる。安政6年(1859年)に権中納言となる。
 岩倉 具慶 
  いわくら
   ともやす
文化4年2月4日-明治6年(1873年)2月13日)
明治維新の功臣岩倉具視の養父にあたる。
安政5年(1858年)幕府が朝廷に求めた日米修好通商条約への勅許を出すことに反対して
廷臣八十八卿として列参に加わり、養子の具視や養孫の具綱とともに連座した。
明治元年に参議に任じられ、新政府でも右兵衛督行政官補相職や
大総督府副総裁兼議定職などを歴任した
 澤 為量 
  さわ ためかず
1812年4月25日 - 1889年(明治22年)8月9日)父は治部大輔・澤量行朝臣
安政5年(1858年)、養子の宣嘉とともに廷臣八十八卿列参事件に加わり、
日米修好通商条約勅許に反対。その後は病弱のため、公職から退いた。
戊辰戦争では、慶応4年2月に奥羽鎮撫使総督に挙げられ、ついで九条道孝の
総督就任とともに副総督となって出陣した。奥羽各地を転戦して10月凱旋する。
宮内権大丞に任ぜられたが、明治3年(1870年)11月に退官して宣嘉に家督を譲った。
明治22年(1889年)薨去。
 長谷 信篤 
  ながたに
   のぶあつ
文化15年2月24日(1818年3月30日) - 明治35年(1902年)12月26日)
安政勤王八十八廷臣の一人でもある。
王政復古時には正三位参議。王政復古の大号令に伴い、東久世通禧や岩倉具視ら
とともに新政府三職のひとつである議定に就任。その後、京都府知事に就任。
明治8年京都府知事を退任する。京都府知事を退任後も政治の中枢で活躍し、
貴族院議員などとして権勢を振るった。
 清水谷 公正 
 しみずだに
  きんなお
西園寺家庶流清水谷家第22代当主。安政勤王八十八廷臣の1人に数えられる。
有栖川流書道や和歌に長けていた。文久2年(1862年)2月15日参議となる。
明治元年には正三位権中納言に叙せられる。明治8年3月10日、家督を次男の公考に
譲り隠居する。明治16年(1883年)75歳で没する。
 東園 基敬 
 ひがしその
   もとゆき
文政3年10月23日(1820年11月28日) - 明治16年(1883年)5月24日)
安政勤王八十八廷臣の1人。父は東園基貞
安政5年(1858年)には岩倉具視らとともに安政勤王八十八廷臣として行動し、
朝廷に列参して日米修好通商条約への勅許に反対した。
明治元年(1868年)には従三位参議となった。さらに新政府では参与を務める。
 河鰭 公述 
 かわばた
   きんあきら
文政12年1月9日-元治元年8月21日  藤原北家公季流河鰭家第24代当主
正三位非参議河鰭実利の子、安政5年(1858年)日米修好通商条約勅許に反対し、
廷臣88人の列参に加わった
文久2年(1862年)尊攘派公家13人とともに和宮降嫁を進めた岩倉具視らを弾劾した。
同年、国事御用掛となる。元治元年(1864年)、正四位下右近権権中将となるが、
同年8月21日卒去した。享年36。
 土御門 晴雄 
 つちみかど はるお
文政10年6月5日(1827年6月28日) - 明治2年10月6日(1869年11月9日))
父は土御門晴親、子は土御門晴栄、安政5年(1858年)の廷臣八十八卿列参事件に
参加する。民部卿に転じて、元治元年には従三位となった。明治元年民部卿を辞任。
明治維新によって江戸幕府が崩壊すると、新政府に働きかけて旧幕府の天文方を
廃止に追い込んで、編暦・頒暦といった暦の権限のみならず、測量・天文などの
管轄権を陰陽寮が掌握する事に成功する。
 岩倉 具視 
 いわくら ともみ

  
文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日) 維新の十傑の1人
公卿・堀河康親の次男として京都に生誕、朝廷儒学者・伏原宣明に入門。
伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。
天保9年(1838年)8月8日、岩倉具慶の養子となり、伏原によって具視の名を選定される。
安政5年(1858年)1月、老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上京。
関白・九条尚忠は勅許を与えるべきと主張したが、これに対して多くの公卿・公家から
批判をされた。岩倉も条約調印に反対の立場であり、大原重徳とともに反九条派の
公家達を結集させ、3月12日には公卿88人で参内して抗議した。九条尚忠は病と称して
参内を辞退した。幕府は井伊直弼主導のもとに88人の当事者の処罰に動き、公家側から
多くの処罰者が出ることとなる。岩倉は一貫して朝廷権威の高揚に努めていたのだが、
結果的には和宮降嫁に賛成し、さらに京都所司代の酒井忠義と親しくしていたことなど
から尊王攘夷派の志士たちから佐幕派とみなされるようになっていった。そして尊攘派は
岩倉を排斥しようと朝廷に圧力をかけるようになる。
8月20日に蟄居処分、さらに辞官と出家を申し出るよう命じられてしまう。岩倉は逆らわず
辞官して出家。朝廷を去った。慶応3年(1867年)11月までこの地で5年間も蟄居生活を
送ることとなる。12月9日に入ってから岩倉らが参内し、新政府人事と慶喜の処分を
求める王政復古の大号令案を奏上した。王政復古自体はもはや決まりきったことで
あったが、新政府の人事案をめぐっては松平春嶽と大久保利通が論争となる。
最終的には有栖川宮を政府首班の総裁とし、松平春嶽・山内容堂らを議定、岩倉や
大久保らを参与とする新政府が樹立される。
明治期以後は別記参照
 中御門 経之 
 なかのみかど
    つねゆき
文政3年12月17日(1821年1月20日) - 明治24年(1891年)8月27日)
坊城俊明の五男として生まれ、中御門資文の養嗣子となる。
安政5年に通商条約勅許問題が起こると、88人の反対グループ(廷臣八十八卿)の
一人となった。慶応3年12月の王政復古とともに議定に任じられた。
明治2年2月、造幣局掛等を歴任、明治24年8月27日に、病気のため薨去。享年71
 勧修寺 経理 
 かしゅうじ つねおさ
文政8年10月12日(1825年11月21日) - 明治4年6月19日(1871年8月5日)
勧修寺経則の三男。勧修寺顕彰(経則養子)の養子
廷臣八十八卿列参事件に養父・顕彰及び穂波経度とともに参加する。
 勧修寺 顕彰 
 かしゅうじ
   あきてる
文化11年12月2日(1815年1月11日)-万延2年1月1日(1861年2月10日)
江戸時代後期の公卿で勧修寺家第26代当主。坊城俊明の子、勧修寺経則の養子
廷臣八十八卿列参事件には養子・経理及び実子の穂波経度とともに加わっている。
安政6年(1859年)には正四位上に叙せられた。48歳で病没
   文久3年八月十八日の政変で追放された七卿
 三条 実美 
さんじょう さねとみ
  
天保8年2月7日(1837年3月13日) - 明治24年(1891年)2月18日)
議奏を務める三条実万の三男として生まれる。
文久3年(1863年)には、中川宮ら公武合体派の皇族・公卿と薩摩藩・会津藩らが連動した
ーデター・八月十八日の政変により朝廷を追われ、京都を逃れて長州へ移る(七卿落ち)。
元治元年(1864年)の第一次長州征伐(幕長戦争)に際しては、福岡藩へ預けられる。
太宰府へと移送され、3年間の幽閉生活を送った。
慶応3年の王政復古で表舞台に復帰、成立した新政府で議定となる。翌慶応4年には
副総裁。明治2年(1869年)には右大臣、同4年(1871年)には太政大臣となった。

明治期以後は別記参照
 壬生 基修  
  みぶ もとおさ
天保6年3月7日(1835年4月4日) - 明治39年(1906年)3月5日)
庭田重基の三男で、壬生道吉の養子
いわゆる七卿の一人となる。後に、太宰府天満宮延寿王院に移される。
明治元年(1868年) - 軍防事務局親兵掛。三等陸将に補任
明治元年6月(1868年) - 会津戦争に越後口総督仁和寺宮の参謀として出征
明治期
明治2年10月3日(1869年11月6日) - 水原県知事を辞し、東京府知事
1875年(明治8年)7月2日 - 元老院議官となる。
1895年(明治28年)3月15日 - 平安神宮初代宮司となる。
1906年(明治39年)3月5日 - 京都にて逝去
 三条西 季知 
 さんじょうにし すえとも
文化8年2月26日-明治13年(1880年)8月24日)
文久3年公武合体派の策略により、三条実美らと長州へ下向、いわゆる
七卿落ちの一人となる。
明治維新後、参与、教部省教導職の長官である大教正兼神宮祭主となった。
 東久世 通禧 
 ひがしくぜ みちとみ
天保4年11月22日(1834年1月1日) - 明治45年(1912年)1月4日
七卿落ちで長州に逃れた尊王攘夷派公卿の1人。王政復古後は外国事務総督を務め、
発足したばかりの新政府の外交折衝にあたる。
神奈川府知事、開拓長官、侍従長などの要職を歴任し、後に貴族院副議長・
枢密院副議長に至った。
 四条 隆謌  
 しじょう たかうた
文政11年9月9日-明治31年(1898年)11月24日
幕末期は攘夷派公卿として幕府に建言していたが、八月十八日の政変によって失脚し
戊辰戦争では中国四国追討総督・大総督宮参謀・仙台追討総督・奥羽追討平潟口総督
などを務め、
明治期
1872年(明治5年)1月には大阪鎮台司令長官に就任明治10年5月には
大阪鎮台司令長官を兼ねた明治13年の仙台鎮台司令長官を経た後、明治14年2月に
陸軍中将に昇り元老院議官に就任する。1898年(明治31年)11月薨去
 錦小路 頼徳  
 にしきのこうじ
   よりのり
天保6年4月24日(1835年5月21日)-元治元年4月27日(1864年6月1日))
1858年(安政5年)の廷臣八十八卿列参事件に参加し、以後は尊皇攘夷派として活躍する。
長州藩に落ち延びる(七卿落ち)。
 澤 宣嘉
 さわ のぶよし
天保6年12月23日-明治6年9月27日、権中納言姉小路公遂の五男として生まれる。
廷臣八十八卿列参事件に関わる。以後、朝廷内において尊皇攘夷派として活動した。
追放されて都落ちする(七卿落ち)。長州へ逃れた後は各地へ潜伏する
     上記以外で国事御用掛に登用されたもの
 近衛 忠房 
  このえ ただふさ
天保9年8月6日(1838年9月24日)- 明治6年(1873年)7月16日)
近衛忠熙の四男。母は島津斉興の養女(実妹)・興子とされているが、庶子との説もある。
文久2年(1862年)には国事御用掛となる。しかし過激な尊王攘夷運動には反対で、
文久3年(1863年)の八月十八日の政変においては父と共に薩摩藩に協力して、
長州藩の勢力を京都から追放することに尽力した。
明治維新で藤波家の世襲が廃止された伊勢神宮の祭主となった。
 徳大寺 公純  
 とくだいじ きんいと
文政4年11月28日(1821年12月22日)- 明治16年(1883年)11月5日)
従一位。鷹司政通の子。母は徳川治紀の娘・鄰姫。徳大寺実堅の養子。
子には徳大寺実則(宮内大臣)、西園寺公望(第12・14代内閣総理大臣)
 一条 忠香 
 いちじょう ただか
文化9年2月13日(1812年3月25日) - 文久3年11月7日(1863年12月17日))
一条忠良の四男。母は細川斉茲女従三位富子。
文久2年(1862年)に新設の国事御用掛に子の一条実良らとともに就任。
文久3年(1863年)に死去。享年52
 万里小路
   博房
 
 までのこうじ
  ひろふさ
文政7年6月25日(1824年7月21日) - 明治17年(1884年)2月22日)、父は万里小路正房
三条実美と親しく尊王攘夷派とみられたために、八月十八日の政変では
一時免官されて蟄居している。明治元年に従三位・権中納言に叙任。その後は
京都裁判所総督、宮内大輔、皇太后宮大夫などなどを務めた。
明治17年(1884年)に61歳で死去。
 坊城 俊克 
 ぼうじょう としかつ
享和2年9月11日(1802年10月7日) - 慶応元年7月20日(1865年9月9日))
幕末の公家。坊城俊明の子、母は勧修寺経逸の娘。
嘉永3年(1850年)参議、左大弁。安政4年(1857年)権中納言となる。また議奏となり、
安政6年(1859年)には武家伝奏として、条約勅許問題、水戸降勅、将軍継嗣問題、
和宮降嫁など、朝幕の調停に大きく関与した。文久2年(1862年)大納言、
元治元年(1864年)大宰権帥を兼任
 一条 実良 
 いちじょう さねよし
天保6年2月28日(1835年3月26日) - 慶応4年4月24日(1868年5月16日))
一条忠香の子で、母は伏見宮邦家親王第2王女順子女王。
安政5年(1858年)に権大納言となる。文久2年(1862年)に国事御用掛となる
慶応3年(1867年)に右大臣となる。慶応4年(1868年)に死去。享年34
 広幡 忠礼
 ひろはた
  ただあや
文政7年6月28日(1824年7月24日) - 明治30年(1897年)2月18日)
天保11年(1840年)には従三位となり公卿に列した。安政4年(1857年)には権大納言
慶応3年(1867年)には内大臣、明治時代には華族(侯爵)となり、帝国議会が開かれると
貴族院議員に選任されて活躍した。
 徳大寺 實則
 とくだいじ
  さねつね
天保10年12月6日(1840年1月10日) - 1919年(大正8年)6月4日)
尊皇攘夷派の公卿として活躍し、1862年(文久2年)国事御用掛
慶応4年)1月に明治政府の参与・議定として内国事務総督を兼ね、2月には内国事務局督、
治2年)内廷職知事、ついで大納言に至った。
1871年宮内省に入り、侍従長・宮内卿と兼任に至った。
1891年内大臣兼侍従長となり、明治天皇の側近として天皇が崩御するまで補佐した。
 橋本 実麗 
 はしもと
  さねあきら
文化6年10月26日-明治15年(1882年)10月8日
幕末の公家、公卿。羽林家の橋本家当主、橋本実麗は、公武合体政策の一環として、
姪の和宮と14代将軍・徳川家茂との婚姻対策が持ち上がった時には、妹で和宮の
生母・観行院(橋本経子)とともに反対したが、度重なる幕府の要求に和宮が折れ、
和宮と家茂との婚姻が成立。
その条件として、和宮が江戸での生活に不測の事態が起きた場合には、京都より実麗を
江戸に呼び寄せる事を条件とした五箇条を幕府に認めさせた。
 姉小路 公知 
 あねがこうじ
  きんとも
天保10年12月5日(1840年1月9日) - 文久3年5月20日(1863年7月5日)
公卿・姉小路公前の子息として生まれる。
安政5年(1858年)、日米修好通商条約に反対し、廷臣八十八卿の指導者として活動した。
(1862年)9月、右近衛権少将となり、幕府への攘夷督促の副使として、
正使三条実美とともに江戸に向かい、勝海舟と共に江戸湾岸の視察などを行う。
のちに国事参政となり、三条とともに攘夷派の先鋒となったが、文久3年に深夜朝議
からの帰途、京都朔平門外の猿ヶ辻で刺客に襲われ自宅で卒去(朔平門外の変)。 享年25 
 高倉 永祜
 たかくら
  ながさち
天保9年11月16日(1839年1月1日) - 慶応4年7月29日(1868年9月15日))
父は高倉家第20代当主の高倉永胤、安政2年(1855年)家督を継ぎ、侍従に任官。
慶応2年(1866年)、従三位、戊辰戦争の勃発に伴い、北陸道鎮撫総督に就任。
その後会津征討総督を兼務し、
後に奥羽征討越後口総督となり奥羽列藩同盟の討伐へ。 越後高田で病没、享年31
    その他
 九条 道孝 
 くじょう みちたか
天保10年5月1日(1839年6月11日)-明治39年(1906年)1月4日
当初は道隆とも表記した。父は九条尚忠、母は唐橋姪子。孝明天皇の女御・夙子は姉
尚忠の長男だったが、尚忠の養嗣子・九条幸経の養嗣子となった。元治元年(1864年)、
国事御用掛、慶応3年(1867年)には左大臣となる。
大政奉還前は、父の尚忠と同じく幕府との協調を推進。そのことから、王政復古の
大号令が出された時は、それを追及されて参内停止処分に処せられたものの、
明治元年に許され処分を解かれた。
同年、摂政関白廃止後、藤氏長者に任じられ、新政府軍の奥羽鎮撫総督に就任。
戊辰戦争では東北地方を転戦した。明治維新後は明治天皇の相談役となる。
明治31年(1898年)9月10日、麝香間祗候に任じられた[1]。明治33年に大勲位に叙され、
大勲位菊花大綬章を受章した。明治39年(1906年)、脳溢血と心臓病のため68歳で死去
 中山 忠光  弘化2年4月13日(1845年5月18日)- 元治元年11月15日(1864年12月13日)
権大納言中山忠能の七男。母は平戸藩主・松浦清の娘愛子。
早くより真木保臣、吉村虎太郎ら尊王攘夷派の志士と交わって公武合体派の
排斥運動では排斥運動では急先鋒となって画策した。
文久3年(1863年)2月、朝廷に国事寄人が新設されると19歳でこれに加えられたが、
ひそかに京都を脱して長州藩に身を投じ、官位を返上して森俊斎(秀斎)と改名。
久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加した。
八月十八日の政変によって京都の尊攘過激派が一掃されると朝廷からも見放され、
幕府により追討を命じられた彦根藩や紀伊藩兵などにより鎮圧。忠光は大坂へ脱出し
長州に逃れた。長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、
元治元年(1864年)の禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐によって藩内俗論派が
台頭すると、同年11月9日の夜に長府藩の豊浦郡田耕村で5人の刺客によって
暗殺された。墓所は山口県下関市の中山神社境内にある。
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江戸末期の朝廷総覧
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