会津藩 会津藩領は会津松平氏から没収された。藩主の容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となった。
明治2年(1869年)に容保の嫡男容大は家名存続が許され、陸奥国斗南
(現在:青森県むつ市)に斗南藩を立てた
 松平 容保 
 まつだいら
   かたもり


 
天保6年12月29日(1836年2月15日)- 明治26年(1893年)12月5日
天保6年(1836年2月15日)に江戸の四谷にあった高須藩邸で藩主・松平義建の
六男として生まれる。
弘化3年(1846年)に叔父の会津藩第8代藩主・容敬(高須松平家出身)の養子となり、
永5年(1852年)に家督を継ぐ。文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に京都守護職に
就任する。はじめ容保や家老の西郷頼母ら家臣は、京都守護職就任を断わる姿勢を
取った。しかし政事総裁職・松平春嶽が会津藩祖・保科正之が記した
『会津家訓十五箇条』の第一条「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を
引き合いに出すと、押し切られる形で就任を決意した。会津藩は幕府の主張する
公武合体派の一員として、反幕府的な活動をする尊王攘夷派と敵対する。
慶応3年(1867年)に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府が消滅すると
同時に、京都守護職も廃止された。その後、鳥羽・伏見の戦いが勃発して旧幕府軍が
敗北すると、大坂へ退いていた慶喜が戦線から離脱するのに従って、
弟の桑名藩主・松平定敬らとともに幕府軍艦で江戸へ下った。会津藩に同情的な
仙台藩、米沢藩は、奥羽越列藩同盟を結成して、新政府軍に会津藩赦免を求め、
一方で会津藩に対しても新政府に対する謝罪を求めるも容保はこれを拒否。
さらには鎮撫使として派遣された世良修蔵が仙台藩士によって
殺害されたことにより、新政府軍と奥羽越列藩同盟の衝突は決定的となった。
容保の降伏後、新政府軍には容保の死罪を求める声もあったが、薩摩藩の桐野利秋と
長州藩士の前原一誠の計らいによって謹慎処分となり、鳥取藩に預けられることになった。
明治4年(1871年)、会津松平家は容保嫡男の容大が新たに陸奥国内で3万石を与えられ、
斗南藩として家名存続を許された。容保は明治5年(1872年)に蟄居を許され、
明治13年(1880年)には日光東照宮の宮司となった。正三位まで叙任し、
明治26年(1893年)12月5日に東京小石川の自邸にて肺炎のため薨去。享年59
 西郷 頼母 
  さいごう たのも
 
   筆頭家老
文政13年閏3月24日(1830年5月16日) - 明治36年(1903年)4月28日)
万延元年(1860年)、家督と家老職を継いで藩主・松平容保に仕えた。文久2年、幕府から
京都守護職就任を要請された容保に対し、政局に巻き込まれる懸念から辞退を進言した
ために、容保の怒りを買う。明治元年(1868年)、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を
許された。頼母は、江戸藩邸の後始末の任を終えたのち会津へ帰還する。
頼母も白河口総督として白河城を攻略し拠点として新政府軍を迎撃したが、伊地知正治率いる
薩摩兵主幹の新政府軍による攻撃を受けて白河城を失陥(白河口の戦い)したが、
その後二ヶ月以上も白河口を死守する。他方面の母成峠を突破されたために、新政府軍には
城下へ侵入されてしまった。そこで若松城に帰参した頼母は、再び恭順を勧めた。
しかし会津藩士の多くは、なおも新政府への徹底抗戦を主張。意見の折り合わぬ頼母は、
長子・吉十郎のみを伴い城から脱出することとなった。
会津から落ち延びて以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦ったものの、
旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなった。
明治3年(1870年)、西郷家は藩主である保科家(会津松平家)の分家でもあったため、
本姓の保科に改姓し、保科頼母となる。
明治8年(1875年)には都都古別神社(現・福島県東白川郡棚倉町)の宮司となるが、西南戦争が
勃発すると、西郷隆盛と交遊があったため謀反を疑われ、宮司を解任される。
 佐川官兵衛 
 さがわ かんべえ

   家老
天保2年9月5日(1831年10月10日)-明治10年(1877年)3月18日)
会津藩士・佐川直道(家禄は300石)の子として生まれた。文久2年(1862年)には藩主・松平容保に
従って上洛し、物頭を務めたのち学校奉行に任じられた。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦い後は会津に戻って越後戦線へ出陣したが、戦況が
不利になると奥羽越列藩同盟諸藩とともに戦線を離れて会津へ帰還し、若年寄、
のち家老に進んだ。材木町(住吉河原)の戦いでは、少数の兵で新政府軍を破り、鶴ヶ城への
糧道を確保した。戦後は藩主や家老、若年寄とともに東京で謹慎した。
旧会津藩が斗南藩として再興されると、青森県三戸郡五戸町へ移住した。
廃藩後は警視庁に出仕し、明治以後
一等大警部に任命された。明治10年(1877年)の西南戦争では豊後口第二号警視隊副指揮長
兼一番小隊長として従軍し、熊本県阿蘇郡において被弾を原因として戦死した。享年47。
 神保内蔵助  
 じんぼ くらのすけ

   家老
文化13年(1816年)- 慶応4年8月23日(1868年10月8日))
室町時代に畠山氏の家臣であった神保氏との関係は不明であるがその末裔とみられ、
会津藩の神保家は家禄1,000石の上級藩士であった。
文久2年(1862年)閏8月、若年寄から家老に就任し、藩主・松平容保に仕えるが
翌年10月に免職。元治元年(1864年)に復職した。禁門の変では新撰組と協力し、天王山に
立て籠もった真木保臣ら17名を自決に追い込んだ。
戊辰戦争では会津若松城下に侵攻した新政府軍を防ぐべく六日町口の守備にあたったが
防ぎきれず、甲賀町口の守備にあたっていた家老・田中玄清と共に医師の土屋一庵邸で
自刃した。享年52
萱野 長修 
かやの ながはる
家老
生誕不詳-明治2年5月18日(1869年6月27日)
萱野家は会津藩の番頭や奉行を務める名家であり、父の長裕は家老[1]に取り立てられた。
家禄1,500石。長修は文久3年(1863年)に家督を継いで藩主・松平容保に仕えた
慶応元年(1865年)に家老に任じられて以降は容保の側近としてその補佐役を務めた。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争の端緒である鳥羽・伏見の戦いの時には京都におり、その後は
日光方面へも出撃。会津戦争時には大寺にて迎撃体制にあるも、新政府軍は南方の
母成方面を進路としたために戦闘にはならず、若松城が包囲されてからは、高久に布陣して
城内との連絡や補給に従事した。開城後は東京へ送られ松平喜徳と会津藩士5名と共に
久留米藩邸にお預けとなり新政府による沙汰を待つ事になった
戦後、長修は「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」と述べて主君を
命がけでかばった。
このため容保は幽閉で済むことになったが、長修は刑死した。公文書には刎首とあるが、
飯野藩保科家下屋敷での保科家家臣・沢田武治の介錯による自刃ある。
享年は40説と42説があり
 田中 玄清  
 たなか はるきよ

   家老

    
文政3年8月1日(1820年9月7日) - 慶応4年8月23日(1868年10月8日))
文政3年(1820年)、会津藩家老・田中玄良の長男として生まれる。
田中家は会津九家に数えられる藩内の名門で、家禄は2,000石である。父と同じく家老として
藩主・松平容保に仕えた。
文久2年(1862年)、容保が幕府から京都守護職就任を命じられた際、同じく家老の
西郷頼母と共に江戸に赴き、容保に対して京都の情勢や負担の大きさを説いて反対した。
戊辰戦争では会津戦争において、会津若松城下に侵攻した官軍を防ぐべく、甲賀町口で戦った。
慶応4年8月23日郭内五之丁の医師・土屋一庵(150石)の屋敷で家老・神保内蔵助にと共に
自刃した。享年49。
 山川 浩
 やまかわ ひろし 

   家老
弘化2年11月6日(1845年12月4日) - 明治31年(1898年)2月4日)
父は会津藩国家老・山川重固(家禄は1,000石)。
万延元年(1860年)、父の死去により家督を相続する。文久2年(1862年)、藩主・松平容保の
京都守護職拝命に伴って上洛する。慶応2年(1866年)には幕府の使者と同行してロシアへ
渡航するが、ヨーロッパ諸国を見聞して世界の大勢を知り、攘夷の非を悟ったといわれている。
戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いを経て江戸、会津へと転戦するなど、若年寄として戦費調達や
藩兵の西洋化などに尽力した。日光口の戦いでは、土佐藩の谷干城が率いる部隊を相手に
巧妙に戦うも敗北、会津西街道の藤原まで撤退した。
籠城中は防衛総督として勇戦するも、落城して妻・トセも爆死している。戦後は禁固謹慎に
処せられ、明治3年(1870年)には斗南藩大参事に就いたものの、藩の実収は少なく藩士の
生活も困窮
明治維新以後別紙記載
 梶原 平馬 
 かじわら へいま

   家老
天保13年(1842年)? - 明治22年(1889年)3月23日)
内藤家に生まれ、梶原景保の養子となる。梶原家の遠祖は梶原景時で、家禄1,000石であった。
平馬の実家である内藤家は、武田信玄麾下の内藤昌豊の流れをくむ藩内の名門であった。
藩主・松平容保が京都守護職在任中は側近として仕えた。慶応2年(1866年)、家老に就任。
鳥羽・伏見の戦いに敗れたのち、平馬は江戸で資金、軍備の調達にあたり、桑名藩主・松平定敬、
越後長岡藩家老・河井継之助とともに汽船で新潟に上陸し会津へ帰還した。
その後、会津藩において奥羽越列藩同盟の結成に主導的役割を果たしたとされる。
会津戦争の際、会津若松城に籠城したが、平馬は政務を総監した。西郷頼母を追放し、
頼母暗殺指令を下したが、命を受けた大沼城之介、芦沢生太郎は実行しなかった。敗戦を迎え、
降服式において平馬は藩主父子の助命嘆願を行っている。藩主父子が鳥取藩江戸屋敷に
幽閉された際は平馬も随行している。会津藩の責任者として切腹することとなった
萱野権兵衛にその命を伝える役を務めた。
 海老名季昌 
 えびな すえまさ

   家老 
1843年(天保14年)- 1914年(大正3年)8月23日)
父は海老名季久。海老名家は家禄250石であった。季久は1851年(嘉永4年)房総半島の警備を
命じられた会津藩の軍事奉行として出動。藩主松平容保の京都守護職就任に伴い、
海老名は幕末の京へ赴く。禁門の変において功を挙げ使番へ昇進した。さらに大砲隊組頭へ
進んでいる。鳥羽・伏見の戦いに参戦し負傷。会津に帰還後各地を転戦したが、
会津若松城籠城戦では、北出丸の責任者となった。この間家老へ就任している。
海老名は藩主父子の助命嘆願書に他の家老、若年寄とともに連署している。父は白河口防衛の
会津藩部隊の軍事奉行として討死し、共に欧州を訪問した横山常守も白河口副総督として討死
降服後は東京で幽閉され、赦免されたのは1872年(明治5年)のことであった。
1875年(明治8年)警視庁警部補となり、1878年(明治11年)山形県西村山郡郡長となる。
福島事件では民権運動の取締りを行っている。
 手代木勝任 
 てしろき)かつとう

   若年寄
文政9年3月9日(1826年4月15日〉 - 明治37年(1904年〉6月3日)
父は会津藩士・佐々木源八。京都見廻組組頭・佐々木只三郎は実弟。会津藩が京都守護職を
務めていた際、手代木は公用人として京に赴任し、朝廷、幕府、諸藩との連絡調整にあたった。
戊辰戦争において会津若松城に篭城。若年寄に昇進した。敗勢がつのる中、
手代木は藩命により秋月悌次郎とともに城を脱出。米沢藩に赴き、降服の仲介を依頼した。
米沢藩の協力で官軍首脳の板垣退助、伊地知正治に降服申し入れを行い
会津戦争は終結した。猪苗代に謹慎後、鳥取藩、高須藩、尾張藩に幽閉され赦免されたのは
明治5年のことであった。その後、左院少議生となり、香川県、高知県の各権参事、
岡山区長を勤め岡山市で没した。
 横山 常守 
 よこやまつねもり
  
  若年寄 
1847年(弘化4年)- 1868年6月20日(慶応4年5月1日))
父は山川兵衛重英の四男・常道。山川浩兄弟姉妹は血縁である。養父は会津藩江戸家老
横山常徳。常徳は江戸の三家老[1]と称された人物
家督を継いだ横山は、パリ万国博覧会に使節団として派遣される徳川昭武の随員として、
海老名季昌とともに選ばれた。
横山は若年寄に任じられ、白河城防衛のため編成された会津藩部隊の副総督となり、
総督西郷頼母を補佐することとなった。
1868年6月20日(5月1日)、奥羽越列藩同盟軍は官軍の攻撃の前に敗勢となり、横山は稲荷山に
現れた敵を攻撃しようと山を駆け上がったが、被弾のため戦死した。従者が遺体を
収めようとしたが、弾丸が集中し、やむなく首級のみを持ち帰ったという。行年22。
 林 安定 
 はやし やすさだ

  大砲奉行 
文化3年(1806年) - 慶応4年1月10日))会津藩士・林安論の長男として生まれる。
一宮流居合術、長沼流兵学を学び、砲術を修める。
文久2年(1862年)、大砲奉行に就任して上洛し、文久3年(1863年)の禁門の変では大砲隊を
率いて大いに活躍、新選組と共に天王山の真木保臣を追撃した。
慶応4年)1月、真っ先に薩摩軍と戦端を開いて戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)が勃発するが、
数ヶ所被弾して戦陣を退く。後、江戸行きの船中で死亡した。享年63。
この戦いでは息子の又三郎も戦死している。
孫の林権助はその後、会津戦争に生き残り、長じて明治政府に出仕して外交官を務め、
日露戦争最中に駐韓公使を務めた後に駐英大使となった。
 外島機兵衛 
 としま きへえ

 江戸留守居役
1826年7月5日(文政9年6月1日) - 1868年3月30日(慶応4年3月7日))
会津藩士・堀藤左衛門の次男として生まれ、外島家の養子となった。
勘定奉行助や学校奉行助、目付、江戸留守居役など要職を歴任し、文久2年、京都守護職に
就任した藩主松平容保に従って上洛
文久3年(1863年)には容保より公用人に任じられる。慶応3年(1867年)には勘定奉行を兼任した。
鳥羽・伏見の戦いが始まると江戸で兵糧などの調達にあたった。しかし会津藩をはじめとする
旧幕府軍は敗北し、外島は藩兵の撤収に務めた。
容保に対しては新政府への恭順を説き、総督府へ陳情するために江戸へ留まった。
しかし病に倒れ、広沢富次郎との会談中に絶息した。享年43
 井深
  宅右衛門

 いぶか たくえもん

  学校奉行  
文政13年1月26日(1830年2月19日) - 明治30年(1897年)3月19日)
父の死去により、家禄550石の井深家を継ぐ。物頭、組頭、町奉行、奏者番上席などを歴任し、
京都守護職となった会津藩軍事奉行として幕末の京へ赴く。
慶応2年(1866年)に会津へ戻り学校奉行に就任。藩校・日新館館長として教育にあたる。
鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津藩は藩領の防衛体制を固めることになり、宅右衛門は
日新館の教師、学生などから構成された第二遊撃隊頭として出陣。
会津藩は斗南藩として再興されることとなり、宅右衛門は五戸に移住するが、
明治6年に会津へ戻り、若松区長、小学校教員、南会津郡書記、田島村戸長を勤めた。
 野村左兵衛 
 のむら さへえ

  筆頭公用人 
文化12年(1815年) - 慶応3年5月19日(1867年6月21日))
400石取りの家臣・野村直樹の次男として生まれる。幼少時から聡明で知られ、
長じては長沼流兵学を修め、軍事奉行として起用された。安政6年には藩主・松平容保から
江戸屋敷公用人に任じられる。
文久2年(1862年)には容保の京都守護職就任に賛成したため、信任を受け禁門の変の後に
京都会津藩筆頭公用人に昇進した。温厚篤実で和歌を嗜む教養人だったことから
幕府にも公家にも受けが良く、「先生」という敬称で呼ばれて人望が厚く公家や諸藩との交渉で
手腕を発揮している。加増を受け禄高は550石となった。また、公用方への幅広い人材登用と
権威拡張に寄与した。慶応3年(1867年)5月19日、病に倒れ死去した。享年53。
広沢 安任 
ひろさわやすとう
文政13年2月2日(1830年2月24日) - 明治24年(1891年)2月5日)
広沢庄助の次男。文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に任ぜられ、安任は
先んじて上京し京都の情勢を探った。容保上京後は公用方に任ぜられ、公卿、諸藩士、新選組
などと交流を持った。
会津藩は戊辰戦争に破れ斗南(現在の青森県の一部)に減封移封された後に廃藩置県により
斗南県となっていたが、斗南県小参事となった安任は、困窮にあえぐ自県の救済策として
弘前県への吸収合併を画策し、八戸県大参事・太田広城と両名で、弘前・黒石・斗南・七戸・八戸
の5県合併を政府に建言した結果、合併による新たな弘前県(後の青森県)の成立に至っている。
また貧困に苦しんでいた旧会津藩士のため、明治5年に谷地頭(やちがしら、現在の三沢市)に
洋式牧場「開牧社」を開設し地域の発展に尽くした。
 秋月悌次郎 
 あきづき
   ていじろう
文政7年7月2日(1824年7月27日) - 明治33年(1900年)1月5日)
下総国発祥千葉氏の末裔である丸山胤道の次男として若松城下に生まれる。丸山家の家督は
長男の胤昌が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称する。
天保13年(1842年)に江戸に遊学し、私塾や昌平坂学問所などで学び、また薩摩・長州など
諸国を渡る。藩主・松平容保の側近として仕え、文久2年(1862年)に容保が幕府から
京都守護職に任命されると、公用方に任命され、容保に随行して上洛。
戊辰戦争では軍事奉行添役となり各地に出陣したが、専ら裏方として活動し
戦場で戦う機会は無かった。会津藩軍事面の重要な役に就いていた事もあり猪苗代において
謹慎し、明治元年には会津戦争の責任を問われ終身禁固刑となるが、明治5年に特赦によって
赦免される。同年、新政府に左院省議として出仕し、第五高等学校(熊本大学の前身校)など
各地の学校の教師となる、五高では小泉八雲と同僚であった。明治33年(1900年)、75歳で死去。
 山本 覚馬 
 やまもと かくま
文政11年1月11日(1828年2月25日) - 明治25年(1892年)12月28日)
会津藩士で砲術指南役の山本権八の長男として、鶴ヶ城近くの武家屋敷に生まれる。
山本家の遠祖は甲州流軍学の祖とされる山本勘助で、代々兵学をもって藩に仕えた。
元治元年、砲兵隊を率いて参戦した禁門の変において勲功を挙げ、公用人に任ぜられる。
不幸にも眼病を患い、ほとんど失明同然の状態になる。失明については、禁門の変での負傷、
また持病の白内障の悪化等が原因とされている。
慶応4年の鳥羽・伏見の戦い(この戦いで弟の三郎が戦死)に際しては京に残り、薩摩藩に
捕われて同藩邸に収容されたが[2]、同藩首脳部はその人物の優秀さを知っており、決して
粗末に扱わなかった。
明治維新以後別紙記載
 大庭 恭平 
  おおば
   きょうへい
天保元年(1830年) - 明治35年(1902年)1月5日))
大庭弘訓の次男として生まれる。文久2年(1862年)に藩主・松平容保が京都守護職に
任じられて上洛すると、これより先に上洛する。
文久3年(1863年)には足利三代木像梟首事件が起こり、大庭も犯人の1人であったため
捕縛されて信濃国上田藩に流罪となった。慶応4年から戊辰戦争が始まると新政府軍は、
大庭を釈放した。庄内藩へ赴き会津藩救済を願い出る。だが、逆に庄内藩により牢獄へ
送られて越後高田に謹慎処分となった。
明治政府においても多くの官職には就いたが、退職し、函館で隠棲生活を送った。
 神保 修理 
 じんぼ しゅり
天保5年(1834年)- 慶応4年2月22日(1868年3月15日))
会津藩家老・神保内蔵助利孝の長子として生まれる。神保家は藩内の名門の一つであり、
家禄は1,000石であった。実名は神保長輝
慶応3年(1867年)10月、大政奉還によって風雲急を告げ、長輝もまた長崎から大坂へ帰還。
翌慶応4年(1868年)1月、結局戦いは避けられず、鳥羽・伏見の戦いが勃発。長輝は
軍事奉行添役として会津藩の軍権を持ち出陣。
総大将が前代未聞の戦線離脱をした要因は、長輝が将軍に恭順を進言したことにはじまると
会津藩内で一方的に意見が上がり、ついには全藩からも鳥羽・伏見の敗戦を招いた張本人との
烙印までも押されてしまった長輝は和田倉上屋敷に幽閉される。
三田下屋敷に移送された長輝は容保との謁見も許されず、弁明の機会も与えられぬまま切腹を
命じられた。君命と偽った命であると知りながらも、是に従うのが臣である、と潔く自刃する。
 柴  司 
弘化元年2月14日(1844年4月1日) - 元治元年6月12日(1864年7月15日))
父・柴友右衛門次直、母・西郷氏の子として誕生。
元治元年(1864年)、京都で発生した池田屋事件の残党探索を行なっていた新選組へ
応援として派遣された。同年6月10日、浪士潜伏の情報のあった東山の料亭「明保野亭」に
踏み込み、現場にいた土佐藩士・麻田時太郎を負傷させる
その後麻田が土佐藩から士道不覚悟として切腹させられたため、土佐藩士の一部が
不公平と反発し事態は紛糾、会津藩と土佐藩の衝突になりかねない事態となり、会津藩は
苦慮する。柴は会津藩と土佐藩の衝突回避のため、藩より正当行為とされた明保野亭事件の
責任を自発的に取る形で自決を決意、同月12日に、兄の介錯で切腹した。享年21
 神戸 岩蔵 
生年不詳 - 慶応元年(1865年))
会津藩士・神戸盛義の次男。神戸家は家禄180石で、盛義は江戸常府の目付役を勤めた。
安政3年、兄の民治は刃傷事件を起こし、永代揚屋入りとなる。岩蔵は家名の名誉回復のため、
役目に付くことを願い出、藩は岩蔵に訛りがないことから長州藩の探索を命じた。
岩蔵は乞食姿で長州藩領内で探索を行ったが、隠密であることが発覚し捕らえられる。
取調べに対し、岩蔵は会津藩士であることを認めてからは回答を拒否している。
長州藩公事奉行は岩蔵に仕官を勧めたが、岩蔵は「二君に仕えざるは臣の道」と答え、
打ち首となった。兄の民治はのちに赦免されて戊辰戦争に従軍し、
青龍士中三番隊の半隊頭として討死。
 南摩 綱紀 
 なんま つなのり
文政6年11月25日(1823年12月26日) - 明治42年(1909年)4月13日)
南摩家は元下野国南摩城主であった。会津藩においては家禄300石の上級藩士であったが、
綱紀は次男で当主ではない。藩校日新館に学び、秋月悌次郎とともに秀才として知られた。
会津に帰還後奥羽越列藩同盟の結成に尽力。同盟各藩との連絡、調整に努めていたが
敗戦を迎えた。
明治期
越後高田藩で謹慎し赦免後は淀藩に招かれ藩学の責任者となった。次いで京都中学に勤務。
明治政府に招聘され、太政官に出仕し次いで東京大学教授、
東京高等師範学校教授などを歴任した。 
 川崎尚之助 
 かわさき
  しょうのすけ
 
天保7年(1836年)11月 - 明治8年(1875年)3月20日)
一説にて但馬国において、出石藩士川崎才兵衛の子として生まれる
江戸において会津藩の山本覚馬と知己になり、その縁から、会津藩藩校・日新館の蘭学所に
おいて蘭学を教授し、鉄砲・弾薬の製造も指導した
慶応元年(1865年)、山本覚馬の妹・八重(後の新島八重)と結婚。会津戦争では、八重と共に
鶴ヶ城籠城戦に参加した。
その後の尚之助について、かつては、江戸において手習いの師匠として暮らしたとの説が
有力であったが会津松平家の家名存続が許され下北半島に3万石で立藩された斗南藩に
移住、外国商人と米の取引を行うが詐欺に遭ってしまったために訴訟を起こされ、裁判中の
東京で肺炎のため死去したとされている
 町野 主水
 まちの もんど
天保10年11月25日(1839年12月30日) - 大正12年(1923年)6月9日)
元治元年(1864年)、京都守護職本陣に向かう途中、桑名藩士を斬り、到着後入牢。
7月禁門の変で牢を破り一番槍を目指すが窪田伴治に続き飯河小膳とともに
二番槍の功名を挙げるも越後国蒲原郡津川で謹慎。
慶応4年(1868年)御蔵入奉行兼幌役を命ぜられた主水は、会津藩飛領である
越後の小出島に赴任し、三国峠を守備するも4月24日の戦いで実弟・久吉を戦死させた
のち小出島まで撤退、さらに攻められて越後戦線へ移動した。8月11日、佐川官兵衛の
後任として最精鋭の朱雀士中四番隊の隊長に就任、北越戦線を転戦するが鶴ヶ城下に
官軍が侵攻したとの報に接し、急ぎ城下に戻る。
明治期主水は斗南へは移住せず、若松北小路52番地に居を構え、
当地の復興に全力を傾注した。
 日向 内記 
 ひなた ないき
文政9年(1826年) - 明治18年(1885年)
会津若松城下に生まれる。日向家は家禄700石の上級藩士で内記は藩の軍制改革前は
家老附組頭、その後砲兵隊頭となった。1868年3月、朱雀士中二番隊頭となる。4月18日には
白虎士中二番隊頭に任命された。
維新後は会津の喜多方町(現・喜多方市)に住み雑業に従事した後、明治18年に逝去。
 飯沼 貞吉 
嘉永7年3月25日(1854年4月22日) - 昭和6年(1931年)2月12日)
白虎隊士(士中二番隊所属)、通信技師、軍人。維新後は名を貞雄と改め、
逓信省通信技師となる。後に孤舟、孤虎と号した。軍人としての最終階級は陸軍大尉
年齢を偽って白虎隊に参加したが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に
及んだが、死に切れず命を救われた。維新後は貞雄と改名し、逓信省の通信技師として各地に
勤務し、日清戦争にも従軍した。
1931年(昭和6年)2月12日、77歳で生涯を終えた。
 山川健次郎 
安政元年閏7月17日(1854年9月9日) - 昭和6年(1931年)6月26日)
会津藩士・山川重固の三男として生まれた、父の重固が没し、
兄・大蔵(後の山川浩)が家督を継ぐ。
会津戦争。若松城開城後、猪苗代に謹慎の後、越後に脱走、長州藩士・奥平謙輔の書生となる。
明治維新以後別紙記載
 小松 済治
 こまつ せいじ
1848年(嘉永元年11月) - 1893年(明治26年)
祖父馬島瑞延、父馬島瑞謙は会津藩に仕えた医師であった。
8歳で長崎へ遊学し、精得館で初歩的な近代医学を、またカール・レーマンからドイツ語を
学んでいるが、小松の長崎遊学には蛤御門の変の影響がある。
ハイデルベルク大学で1868年10月21日に学籍登録して医学を学び、
翌年の夏学期まで登録がある。
小松はドイツの大学に学籍登録された最初の日本人である
1874年(明治7年)に兵部省出仕、翌年判事となるが、1879年(明治12年)に辞職している。
兵部省時代は官房第一局で西周と同僚であった。1885年(明治18年)に再び官途につき、
司法省民事局長、参事官、横浜地方裁判所長を務め、明治25年に退官。翌年東京で没した。
  仙台藩 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟を結成し、盟主となった。仙台藩は当時、日本国内有数の
兵力を有していたものの、兵士当たりの銃器の保有数や銃器自体の性能が圧倒的に
不足していた。仙台藩は東北地方の列藩会議を主宰し、奥羽鎮撫総督府に対して会津藩の
赦免を懇願した。しかし、それが奥羽鎮撫総督府下参謀・世良修蔵(長州藩)によって
握りつぶされると、仙台藩士・姉歯武之進らが世良を殺害する。仙台藩は北上する薩長軍と
相馬口駒ヶ嶺付近で戦ったが、中村藩の降伏により戦線を維持できなくなると、
仙台藩も降伏した。
 伊達 慶邦 
 だて よしくに

  仙台藩
 第13代藩主

  
文政8年9月6日(1825年10月17日)-明治7年(1874年)7月12日
陸奥仙台藩の第13代藩主。伊達氏第29代当主。第11代藩主・伊達斉義の次男。
慶応4年、戊辰戦争に際して仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主として錦の御旗を掲げる
薩長軍と戦ったが、白河口の戦い、磐城の戦い、旗巻峠の戦いで相次いで敗れて降伏。
仙台藩は全領土を没収され、慶邦は養子の伊達宗敦と共に江戸へ連行され、死一等を
減じられて謹慎閉門を申し渡された。同年末、四男の亀三郎(宗基)が、仙台藩28万石に
減封された上で、家督相続は許された。明治7年(1874年)7月12日死去。享年50。
 遠藤 允信 
 えんどう
  さねのぶ

   家老

   
天保7年(1836年) - 明治32年(1899年)4月20日))
遠藤氏は代々、伊達氏に仕える重臣として2000石を領していた。
允信は安政元年(1854年)、家督を継いで藩主・伊達慶邦に仕える。
文久2年(1862年)に伊達慶邦の命令で上洛すると尊王攘夷派に共感を覚え、
帰国すると藩論を尊王攘夷でまとめ上げようとする。
ところが同じく重臣の但木土佐は佐幕派であり、允信の尊王攘夷に反対して対立する。
允信は但木との政争に敗れて閉門の処分を受けた。戊辰戦争終結後に罪を許されて
奉行に復帰し、仙台藩の戦後処理や版籍奉還などに貢献した。
晩年は宮司になっている。明治32年(1899年)に死去。享年64
 但木 土佐
 ただき とさ

 重臣 奉行
文化14年(1817年)-明治2年5月19日(1869年6月28日)
土佐は、佐幕開国の保守主義を主張し、尊攘派と対立した。
藩主は総督・九条道孝の前に出て会津のために弁訴したが、下参謀・世良修蔵らはこれを
許さぬばかりか、のちに奥羽一円を掃蕩する陰謀が世良の密書により発覚する。
仙台藩強硬派はこれに激怒し、世良を捕縛して処刑し、同日、白河城を攻略。
奥羽越列藩同盟を起こし、新政府軍に対して白河、相馬、越後諸道で徹底抗戦したが、
秋田藩が同盟から離反した事が致命的となり、まもなく三春、相馬、米沢諸藩も新政府軍に
降り、仙台藩も撤兵した。藩主は遠藤允信らの議を受け入れて降伏。
藩論一変して叛乱の責任者の土佐は縛につき、東京に拘禁される。
明治2年(1869年)5月19日、叛逆首謀の罪で、土佐は坂時秀と共に麻布仙台屋敷において
斬刑に処された。享年53。
 高野 長英 
 たかの
  ちょうえい

 
文化元年5月5日(1804年6月12日) - 嘉永3年10月30日(1850年12月3日))
陸奥国仙台藩の一門である水沢領主水沢伊達氏家臣・後藤実慶の子として生まれる。
文政3年(1820年)、父の反対を押し切り出府して、長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で
医学・蘭学を学び、その抜きん出た学力から塾頭となっている。文政11年、シーボルト事件が起き、
二宮敬作や高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けたが、
長英はこのとき巧みに逃れている。江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説く
天保10年(1839年)、蛮社の獄が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ
(奉行所に自ら出頭した説もある)、永牢の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監。
弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄。この火災は、長英が牢で働いていた
非人栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である。
三日以内に戻って来れば罪一等減じるが戻って来なければ死罪に処すとの警告を牢の
役人から受けたが、長英はこれを無視し、再び牢に戻って来ることはなかった。
嘉永3年(1850年)10月30日、江戸の青山百人町(現在の東京・南青山)に潜伏していたところを
何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛された。
長英は短刀を振るって奮戦した後、喉を突いて自害したとある。
 大槻 磐渓 
 おおつき
  ばんけい
享和元年5月15日(1801年6月25日) - 明治11年(1878年)6月13日)
江戸木挽町の幕臣浦上氏の邸内で生まれる
江戸時代後期から幕末にかけて活躍した漢学者。文章家としても名高い。
仙台藩の藩校、養賢堂学頭であった磐渓は、幕末期の仙台藩論客として奥羽越列藩同盟の
結成に走り、戊辰戦争後は戦犯として謹慎幽閉された。
磐渓もまた斬首刑者のリストに入っていたが、高名な漢学者であり、さらに老体で
あることなどから終身禁固の刑となった。
 三好 清房 
 みよし きよふさ
文化12年(1815年) - 慶応4年8月15日(1868年9月30日))
仙台藩の中級武士である三好清明の子として生まれる。
江戸幕府より蝦夷地警護の命令が下されると、その任務を担当する責任者となる。
しかし安政6年(1859年)、蝦夷地警護で失態があったとして閉門に処された。
文久2年(1862年)に復帰して若年寄格に昇格したが、清房は但木土佐ら佐幕派を支持して
遠藤允信ら尊王攘夷派と対立し、藩内に政争を起こす一因を成した。
大政奉還に際しては仙台藩の軍勢を率いて上洛し、時代の流れを見て新政府に帰順した上で
帰国する。帰国後は新政府への帰順と会津藩征伐を主張したが、これがかえって但木土佐ら
佐幕派には裏切りと見られてしまい、慶応元年(1868年)8月15日に清房は但木ら佐幕派の
圧力を受けて自害させられた。享年54。
 星 恂太郎 
 ほしじゅんたろう
 天保11年10月4日(1840年10月28日)- 明治9年(1876年)7月27日)
東照宮宮司星道榮の息子として生まれた。台所人小島友治の養子となり、孝治と改名するが、
料理人になるのを嫌って離縁し、生家に戻って武芸を修めた。
恂太郎は、激高しやすい性格で、国学を修めたことから元々過激な尊王攘夷派でもあって、
仙台藩の開国論を推進していた家老但木土佐などの面々を国賊と見なし、金成善左衛門ら
友人と徒党を組んで斬ろうとした。しかし同じく開国派の大槻磐渓の暗殺を図った際に、
逆に磐渓から世界情勢への無知を諭されて改心。自分の無知さを恥じて脱藩して江戸に出た。
868年、鳥羽伏見の戦いより戊辰戦争が始まり、東北征伐が議論されるようになると、
但木は恂太郎を招聘。藩兵楽兵隊[1]の訓練を委ねた。これにより藩主伊達慶邦からも
その才能を認められて、大番士に任命された。楽兵隊はその後、諸隊に編入されて弱体化した
ため、恂太郎は新たに藩士の次男、三男らを800人集めて、洋式軍隊である額兵隊を組織した。
政府軍とは戦わずに降伏恭順する道を選んだ
仙台藩の中には邪魔になった星恂太郎を暗殺する計画もあったが、榎本釜次郎の説得に
応じて額兵隊を率いて蝦夷に逃れることになり、衝撃隊の細谷十太夫の協力と
後押しもあって、旧幕府艦隊と合流を果たした。戦争後は新政府軍の捕虜として弘前藩に
幽閉された。
1870年(明治3年)3月に釈放され、開拓使大主典となって北海道に移住。岩内町で
製塩業を始めたが、1876年(明治9年)7月27日、37歳の若さで死去した。
 細谷 直英 
 ほそやなおひで
天保10年(1839年)または弘化2年(1845年) - 明治40年(1907年)5月6日))
戊辰戦争が始まると、細谷直英は白河城にほど近い須賀川で東北地方の大親分を含む
ヤクザを束ねて「衝撃隊」を結成し、自ら隊長に就任した。
衝撃隊は黒装束に長脇差一本で明治新政府軍に夜襲攻撃を敢行し、新政府軍を恐怖の
どん底に陥れた。衝撃隊の新政府軍への襲撃回数は30数回に及び、衝撃隊はその全ての
戦いに勝利した。こうして衝撃隊は、列藩同盟軍(同盟政府軍)の主戦力となった。
直英は仙台藩の最後の決戦・旗巻峠の戦いに参戦し、この戦いに仙台藩が敗れて降伏すると、
仙台藩から大金を授かり、それを衝撃隊の兵士たち分け与え衝撃隊を解散した。そして、
自身は新政府の追っ手を逃れて逃亡・潜伏した。
新政府の捕縛を逃れた直英は、戊辰戦争の大赦令が発令されるとようやく姿を現した。
直英は、日清戦争で陸軍少尉となり、中国に渡って千人隊長として活躍した。
帰国後、警視庁小隊長となる。
こののち仙台に戻り、竜雲院に葬られている仙台藩士・林子平を慕い、剃髪得座して僧となった。
竜雲院の住職となり、戊辰戦争、日清戦争の戦没者を弔った。
明治40年(1907年)5月6日、63歳(または68歳)で没した。
 坂 時秀 
 さかときひで
天保4年(1833年)-明治2年5月19日(1869年6月28日)
仙台藩の使者として上洛した際、徳川慶喜と直接会談して感銘を受け、藩の宿老・但木土佐と
共に仙台藩の佐幕派として藩政の中枢を掌握した。戊辰戦争においても但木と共に
奥羽越列藩同盟の主導的な役割を果たした。
しかしこのため、戊辰戦争終結後の明治2年(1869年)、但木と共に死刑に処された。享年37
  米沢藩 戊辰戦争が起きて会津藩と共に米沢藩も討伐の対象とされたが、当初は斉憲は新政府の
意向に従って恭順をを考えていた。しかし、その嘆願を望んで送った書状を新政府に
握りつぶされたため、これに怒って仙台藩と共に奥羽越列藩同盟の盟主となり、
新政府軍と戦った。
米沢軍は一時は新政府軍を圧倒し、新潟港を奪い返すまでに至ったが、
慶応4年5月に新発田藩の寝返りもあって新政府軍の猛攻を受け敗走する。
その後、旗色が悪くなったため、やむなく新政府軍に降伏した。
 上杉 斉憲 
 うえすぎ
  なりのり  

  第12代藩主
文政3年(1820年)5月10日-明治22年(1889年)5月20日
出羽米沢藩主・上杉斉定の長男として生まれた。出羽米沢藩の第12代藩主
文久3年(1863年)には徳川家茂の京都上洛に御供して二条城警護にあたり、9月22日、
左近衛権中将に転任。弾正大弼如元。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起きて会津藩と共に米沢藩も討伐の対象とされたが、
当初は斉憲は新政府の意向に従って恭順を考えていた。しかし、その嘆願を望んで送った
書状を新政府に握りつぶされたため、これに怒って仙台藩と共に奥羽越列藩同盟の
盟主となり、新政府軍と戦った。
米沢軍は一時は新政府軍を圧倒し、新潟港を奪い返すまでに至ったが、慶応4年月に
新発田藩の寝返りもあって新政府軍の猛攻を受け敗走する。
明治維新後、奥羽越列藩同盟の盟主であったことを咎められて、領地を14万石に
削減されてしまった。また、明治元年12月7日、家督を長男・茂憲に譲り隠居した。
明治22年(1889年)5月20日、死去した。享年70(満68歳没)。
 甘糟 継成 
  あまかす
    つぐなり 
天保3年3月12日(1832年4月12日) - 明治2年11月29日(1869年12月31日))
甘粕氏は上杉謙信に仕えた重臣・甘糟景継から代々上杉氏に仕えた重臣の家柄である。
文久2年(1862年)からは斉憲と共に京都・江戸に赴き、諸大名や公卿・藩士との交渉を務めた。
慶応4年(1868年)1月から始まった戊辰戦争では、軍務参謀に任じられて新政府軍と戦い、
越後長岡城奪還作戦のために兵員増員を藩に要請して戦ったが、敗れた。その後、米沢藩が
新政府に降伏すると謹慎を命じられた。
明治2年(1869年)3月「新保勘左衛門」の変名のまま上京し、麻布の上杉邸に潜伏。この時、
まだ500両の懸賞金がかかっていたが、雲井龍雄が土佐藩の毛利恭助宛に書状を送り、
新政府出仕への道が開いた。同年7月、待詔院出仕が決まるがまもなく死去。享年38 
 色部 久長 
 いろべひさなが

  (国家老)
文政8年12月14日(1826年1月21日) - 慶応4年7月29日(1868年9月15日))
幼少より藩校興譲館に学び、助読となる。嘉永6年(1853年)に家督相続し、安政6年(1859年)に
侍頭兼江戸家老となる。元治元年(1864年)に奉行(国家老)となる。
慶応元年(1865年)の上杉茂憲に従い京都に上洛。御所南門警護に当たる。
米沢藩は奥羽越列藩同盟に参加し、米沢藩が同盟軍の補給拠点である新潟港の警備を
担当することになると、色部がその総督に命じられた。色部は藩兵600人を引き連れ、現在の
新潟県新潟市にある西堀の光林寺に本陣を置いた。
奮闘するも敵の攻撃に被弾し助からないと悟り、敵に首級を取られまいと新潟市の
中央区関屋下川原新田(現在の新潟県立新潟高等学校周辺)にあった茄子畑にて割腹し、
部下に介錯させた。享年44。
 雲井 龍雄 
 くもい たつお

天保15年3月25日(1844年5月12日) - 明治3年12月28日(1871年2月17日)
米沢藩士の父・中島惣右衛門平(勘定(会計)、借物蔵役(倉庫当番)等6石3人扶持)と
屋代家次女・八百の2男2女の次男として米沢袋町に生まれる。
慶応元年(1865年)、米沢藩の江戸藩邸に出仕、上役の許可を得て安井息軒の三計塾に入門。
執事長(塾頭)にも選ばれており、同塾門下生には桂小五郎、広沢真臣、品川弥二郎、
人見勝太郎、重野安繹らがいる。慶応2年(1866年)、藩命で帰国。藩はこの時に
世子・上杉茂憲が兵800を率いて京都の治安に当っていたが、龍雄は京都駐兵を解く
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに続き新政府軍の東征が東北に及ぶと、龍雄は
京都を発し途中薩摩藩の罪科を訴えた「討薩檄」を起草、奥羽越列藩同盟の奮起を促した。
しかし旧幕府勢力は敗れ去ると、米沢にて禁固の身となる。
明治3年(1870年)2月、東京・芝の上行、円真両寺門前に「帰順部曲点検所」なる看板を掲げ、
特に脱藩者や旧幕臣に帰順の道を与えよと4回にわたり嘆願書を政府に提出した。
これは参議・佐々木高行、広沢真臣らの許可を得たものであったが、実は新政府に不満を持つ
旧幕府方諸藩の藩士が集まっていた。これが政府転覆の陰謀とみなされ翌年4月謹慎を
命ぜられる。米沢藩に幽閉ののち東京に送られ、深く取り調べも行われず罪名の根拠は
政府部内の準則にすぎない「仮刑律」が適用され、同年12月26日(1871年2月15日)に
判決が下り、龍雄は判決2日後に小伝馬町の獄にて斬首。
のち小塚原に梟首され、その胴は大学東校に送られて解剖の授業に使用されたという。
 千坂 高雅 
 ちさか たかまさ

   家老
天保12年閏1月19日(1841年3月11日)- 大正元年(1912年)12月3日)
父は米沢藩奉行職(国家老)を務めた千坂高明(伊豆)。通称は太郎左衛門、琢磨。
千坂氏は代々上杉氏に仕え、江戸時代には米沢藩の重職を務める家柄であった。
慶応3年11月14日(1867年12月9日)に27歳という異例の若さで奉行職に抜擢された。
慶応4年4月5日(1868年5月16日)に米沢藩軍事総督に就任。戊辰戦争で米沢藩は上杉家の
旧領である越後・出羽庄内方面の防衛を担当することになり、高雅は始め庄内攻撃の為に
新庄に向かった新政府軍別働隊を攻撃する為に出陣するが、新政府軍は街道を封鎖して
秋田に逃走したため、高雅率いる軍が到着した時には既に新政府軍は
秋田に去った後であった。
6月13日(7月21日)には奥羽越列藩同盟軍の越後方面軍総督となり、参謀の甘粕継成(備後)、
仮参謀の斎藤篤信(主計)、長岡藩総督の河井継之助らとともに新政府軍と戦う。
しかし7月29日(9月15日)に新潟の防衛を担当していた高雅と同じ奉行職の色部久長(長門)の
戦死を受け、越後から撤退する。米沢藩は9月10日(10月14日)に新政府軍に降伏した。
一時は藩内から「高雅」の名が出るものの、すでに戦死している「色部久長」に
責任転嫁することで命は取り止めた。
明治維新以後別紙記載
  二本松藩 二本松藩は奥羽越列藩同盟に加わり、官軍である明治新政府軍と戦ったが、各地で敗戦した。
二本松城は陥落した。藩主長国は米沢藩に逃れた。9月10日、二本松藩は新政府に降伏し、
藩主長国は謹慎を命じられた
 丹羽 長国 
 にわ ながくに

  第11代藩主
天保5年4月14日(1834年5月22日)-明治37年(1904年)1月15日
二本松藩主・丹羽長富の六男として生まれる。安政5年(1858年)10月11日、父長冨の隠居により、
二本松藩の第11代藩主となる。
元治元年(1864年)4月9日、幕府から京都警備を命じられる。同年、従四位上に昇進する。
慶応元年(1865年)9月5日、幕府から冬期の京都の警備を命じられる。
慶応4年(1868年)、二本松藩は奥羽越列藩同盟に加わり、官軍である明治新政府軍と戦ったが、
各地で敗戦した。7月29日、二本松城は陥落した(二本松の戦い)。藩主長国は米沢藩に逃れた。
領地10万700石のうち5万700石を没収された。なお、家督は養子長裕が継いだ。
明治37年(1904年)1月15日に死去した。享年71
 丹羽 富穀 
 にわ とみたけ

   家老
文政6年(1823年) - 慶応4年7月29日(1868年8月30日)) 二本松藩丹羽家家老
二本松藩の家老職となる家柄であった丹羽家老家当主・富寿の次男として生まれた。
元治元年(1864年)、家老職となり、病弱であった主君の丹羽長国を補佐し、
藩政の主導権を握るようになった。
戊辰戦争では、同年4月、仙台藩領白石城にて開催された奥州越列藩使臣会議に
二本松藩代表として出席し、奥羽列藩同盟に二本松藩を加盟させた。
翌29日に新政府軍は二本松城へ侵攻、二本松藩兵は壊滅し、富穀も丹羽茂正・服部保定ら、
他の重臣らとともに景山蔵之進邸にて自害した(二本松の戦い)。
 木村銃太郎
  きむら
   じゅうたろう 
弘化3年(1847年) - 慶応4年7月29日(1868年9月15日)
二本松藩砲術師範・木村貫治の子に生まれ、幼少より砲術を学び、江戸に出て
江川坦庵に師事した。高島流砲術を学び、帰藩して教える。門下生からなる
12歳から17歳までの藩士子弟たちを率いて、慶応4年7月29日に城南大壇口へ出陣し
、城下を目指す新政府軍と戦った。
この戦いで、被弾し、副隊長二階堂衛守の介錯を受けて果てる。
 根本 愚洲
 ねもと ぐしゅう
文化3年(1806年)[1]- 明治6年(1873年) 二本松藩御用絵師
文政11年(1826年)、21歳のとき長富の命を受けて藩士の大原文林(重介)とともに江戸に出て
谷文晁の写山楼に入門
  長岡 慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起こると、忠訓は河井と共に戦争回避のため、
奥羽越列藩同盟と新政府の双方と距離を置きながら、公武調和の建言書を
新政府に提出する。
さらに河井自身は新政府の北越平定軍に乗り込んで停戦を求めたが、これらは
全て新政府によって握りつぶされた。このため忠訓は5月4日、河井と共に奥羽越列藩同盟
に参加して新政府軍と戦うことになる。
 牧野 忠恭 
 まきの ただゆき

  第11代藩主
文政7年9月1日(1824年10月22日)-明治11年(1878年)9月1日
三河西尾藩主・松平乗寛の三男として江戸に生まれる。越後長岡藩の
第10代藩主・牧野忠雅の養子
第11代藩主,万延元年(1860年)6年25日奏者番、文久2年(1862年)3月24日寺社奉行加役、
同年8月24日京都所司代に就任する。京都所司代就任
文久3年(1863年)9月13日老中に就任し、12月24日外国事務を取り扱うことを命じられた。
このとき、家臣・河井継之助を公用人として重用し、藩政改革を行う。
慶応元年(1865年)4月13日、政局に難題が積まれるに及んで老中職を退いた。京都所司代、
老中の辞任はいずれも河井の進言によるものだった。
慶応3年(1867年)7月11日、隠居し、養子忠訓に家督を譲った。隠居後、雪堂と号した。
北越戦争を経て謹慎し、明治に入ってから許される。明治11年9月1日、55歳で死去した。
 牧野 忠訓
 まきの ただくに

  第12代藩主
天保15年(1844年)8月15日-明治8年(1875年)6月16日
丹後宮津藩主・松平宗秀の四男として江戸で生まれる。安政5年(1858年)12月、長岡藩の
第11代藩主・牧野忠恭の養嗣子
慶応4年、戊辰戦争が起こると、忠訓は河井と共に戦争回避のため、奥羽越列藩同盟と
新政府の双方と距離を置きながら、公武調和の建言書を新政府に提出するが
全て新政府によって握りつぶされた。このため忠訓は5月4日、河井と共に奥羽越列藩同盟に
参加して新政府軍と戦うことになる。榎峠の戦いで河井の指揮の前に新政府軍は
一時圧倒されるが、結局圧倒的な物量を誇る新政府軍の前に敗れ、5月19日に長岡城は
落城し、忠訓は忠恭らと共に会津に逃れた。忠訓も陸奥仙台藩に逃れた末の9月23日に、
新政府軍に降伏した。
明治8年(1875年)6月16日、長岡で死去した。享年32。
 河井継之助 
 かわい つ
   ぎのすけ

   家老


 
文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))
河井家の先祖は、近江膳所藩本多氏の家臣だったという説と、蒲原郡河井村出身の
地侍という2つの説がある。
長岡城下の長町で代右衛門秋紀と貞との長男として生まれる。
文久2年(1862年)、藩主・牧野忠恭が京都所司代になると継之助も京都詰を命じられ、
翌文久3年(1863年)の正月に上洛する。
忠恭は今度は老中に任命される。そして継之助は公用人に命じられ江戸詰となると、
忠恭に老中辞任を進言する。
鳥羽・伏見において会津・桑名を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘が開始され、
戊辰戦争が始まる(鳥羽・伏見の戦い)。大坂を警衛していた継之助らは、旧幕府軍の敗退
と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ戻る。
長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、2日後に北越戦争へと突入する
奇襲作戦の最中、新町口にて継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。
北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は会津へと移っていく。
会津若松より治療に来た松本良順の診察を受け、松本が持参してきた牛肉を平らげてみせる。
しかし、この時すでに継之助の傷は破傷風により手遅れな状態にあった
慶応4年8月16日(10月1日)の昼頃、継之助は談笑した後、ひと眠りつくとそのまま
危篤状態に陥った。
そして、再び目を覚ますことのないまま、同日午後8時頃、只見・塩沢村の医師矢澤宗益宅にて
死去した。享年42
 山本 義路 
     帯刀 

 やまもとよしみち

  上席家老
弘化2年3月7日(1845年4月13日)-明治元年9月9日(1868年10月24日)
安田(多膳)家の嫡男として生まれた。父は山本家9代義方の末弟・鋼三郎、母は遠祖が
御典医であった越後長岡藩上級家臣(番頭級)の安田弓である。
義路は戊辰戦争・北越戦争では長岡藩の大隊長として出陣。2度目の長岡城落城後、
藩主一家は仙台藩に、長岡藩兵は、仙台藩と米沢藩に逃れたが、山本隊は殿軍を
鞍掛峠で勤めた。
明治元年(1868年)9月8日早朝、義路は宇都宮藩兵に捕縛された。このときに共にいた
長岡兵44名のうち42名が戦死した(会津飯寺の戦い)。
翌9月9日に、三河国牛久保城以来の牧野家譜代の長岡藩士・渡辺豹吉とともに、
阿賀野川(大川)の河原で斬首された。
 二見虎三郎
  ふたみ
   とらさぶろう
藩士。河井継之助の小千谷での新政府との会談に、藩士としてただひとり同行。
河井の僕・松蔵の回想によれば、談判の決裂後、河井は、二見を相手に酒肴を重ね、
詩を吟じていたという。会津七日町口の戦闘で、軍目付として戦死した。 
  庄内藩
 清河 八郎 
 きよかわ はちろう

  
 
天保元年10月10日(1830年11月24日) - 文久3年4月13日(1863年5月30日))
出羽国庄内藩領清川村(現・山形県東田川郡庄内町)の郷士の齋藤豪寿の子
天保14年(1843年)、清川関所役人の畑田安右衛門に師事し勉学に勤しむ。
弘化3年(1846年)には後の天誅組総裁藤本鉄石と会い親交を深めた
北辰一刀流の開祖千葉周作の玄武館で剣を磨き免許皆伝を得、江戸幕府の
学問所昌平黌に学ぶ、安政7年に起こった桜田門外の変に強い衝撃を受け、倒幕・尊王攘夷の
思想を強める。清河は京に潜伏したり、諸国を回って倒幕運動を続けた。
尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し、松平忠敏のもとに浪士組が
結成される(234名)清河は上手く幕府を出し抜いて今度は佐幕派を京都に集め出した。
文久3年2月23日、将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として清河は盟主として浪士組を率いて
京都へ出発。京都に到着した夜、清河は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は
将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べる。
攘夷に反対した根岸友山・芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが残留し清河と袂を分かつたものの、
200名の手勢を得た清河は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも受理された。
清河は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため
狙われていた。
文久3年(1863年)4月13日、幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって
麻布一ノ橋(現麻布十番商店街そば)で討たれ首を切られた。 享年34
 酒井 了恒 
 さかい のりつね
天保13年12月13日-明治9年(1876年)2月5日 出羽庄内藩家老酒井了明の長男
戊辰戦争において東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍と戦ったが、
庄内藩は会津藩、仙台藩、米沢藩とともにその中心となる藩の一つであった。
久保田藩や新庄藩など、秋田方面諸藩が新政府側に寝返ったため、白河救援のために
移動していた約900人の部隊が急きょ舟形で合流し、新庄城を攻めることとなった。
庄内藩二番大隊を指揮していたのが、26歳の酒井了恒であった。官軍から鬼玄蕃と
呼ばれ恐れられる。久保田城攻略の準備を進めている最中、同盟軍の米沢藩・仙台藩が降伏
明治維新後、大泉県参事、明治9年に肺病を患い、死去する。享年34
     その他奥羽越列藩同盟藩
相馬中村藩 外様 6万石 第12代藩主:相馬 充胤
1868年7月には浜街道を北上してきた明治政府軍に対して、仙台藩や米沢藩と
連携して応戦した。 
湯長谷藩 譜代 5万石 第3代(最後)の藩主:水野 忠弘
忠精とともに上洛する。しかし、国元は奥羽越列藩同盟に加わってしまう。
同年5月22日、新政府に対し、忠精を山形に戻し新政府に味方するように説得させることを
願うものの、許可されなかった。同年9月、山形藩は明治新政府軍に降伏した。
譜代 1.5万石 第13代藩主:内藤 政養
慶応4年(1868年)4月3日、新政府軍から会津攻撃支援の命令を受ける。
しかし、同年5月、奥羽越列藩同盟に参加した。政養は12歳ながら、自ら戦場に立って
奮戦したという。
同年6月29日、新政府軍の攻撃により湯長谷陣屋を攻略される。
山形藩 譜代 5万石 第3代(最後)の藩主:水野 忠弘
忠精とともに上洛する。しかし、国元は奥羽越列藩同盟に加わってしまう。
同年5月22日、新政府に対し、忠精を山形に戻し新政府に味方するように説得させることを
願うものの、許可されなかった。同年9月、山形藩は明治新政府軍に降伏した。
棚倉藩 譜代 10万石 第8代藩主:阿部 正静
1866年(慶応2年)阿部正静 陸奥白河藩より10万石で入る。
戊辰戦争では、正静が藩兵を率い奥羽越列藩同盟に参加、白河口において新政府軍と対峙
1868年(慶応4年)6月24日 棚倉城落城、正静は降伏した。維新後は4万石減封
亀田藩 外様 2万石 第12代藩主:岩城 隆邦
1868年(慶応4年)の戊辰戦争では、東北諸藩と結んだ奥羽越列藩同盟に参加したが、
久保田藩の呼びかけで本荘藩・新庄藩・矢島藩とともに同盟を脱退し、新政府側に与した。
しかし亀田藩は新政府軍の先鋒として酷使され、庄内軍に敗れた新政府軍が本荘・亀田を
見捨てた後、庄内藩の説得に応じ、8月8日に和議が成立した。その後、庄内軍とともに戦ったが、
援軍により勢いを盛り返した新政府軍に敗れ、9月28日に降伏した。
福島藩 譜代 3万石 12代藩主:板倉勝巳
新政府の命令により、藩主勝己は江戸から福島に戻り、会津征討の準備に入った。
奥羽鎮撫総督参謀・少将醍醐忠敬を受け入れて、奥羽軍事局を設置した。
しかし、奥羽越列藩同盟の結成にともない、佐幕派に転じることになった。
閏4月20日、世良修蔵暗殺に福島藩士も加わった。
明治元年(1868年)7月29日、新政府軍による二本松城の攻略をうけて、福島城を開城し、
米沢に避難した。同年9月15日、父勝顕と勝己は新政府に降伏した。
上山藩 譜代 3万石 出羽上山藩第9代藩主:松平 信庸
慶応3年(1867年)9月、江戸市中取締を命じられる。同年12月、庄内藩とともに薩摩藩の
江戸藩邸を攻撃する(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。この際、家老の金子清邦が死亡した。
慶応4年6月、戊辰戦争に際し奥羽越列藩同盟に参加した。
明治元年(1868年)9月、明治政府に降伏
一関藩 外様 3万石 一関藩第10代藩主:田村 邦栄
明治元年(1868年)の戊辰戦争では、一関藩は仙台藩に従い奥羽列藩同盟に参加、
後に仙台藩とともに明治政府へ降伏した。
戊辰戦争後の明治2年(1869年)、3千石の削減の上で藩主の実弟田村崇顕に家督相続を
許されたが、同年4月に版籍奉還した。崇顕は一関藩知事に任じられたものの、
明治4年(1871年)の廃藩置県によって一関藩は廃された。
矢島藩 外様 8000石 出羽矢島藩主:12代 生駒 親敬
1868年、新政府に抗する奥羽越列藩同盟が結成される。当初、親敬は加盟したが、
のちに家中を勤王論に統一して新政府に与した。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、久保田藩や本荘藩と共に官軍側に与した。
同年2月21日、旧幕府に対し、奥羽鎮撫使の指揮下に入るため、矢島に帰国することを願う。
同年3月8日、奥羽鎮撫使の指揮下に入り、後に諸侯に加えるとの内諾を得る。
同年7月8日、奥羽鎮撫総督府から庄内藩攻撃の先導役を命じられて出兵する。
盛岡藩 外様 10万石 盛岡藩第14代藩主:南部 利剛
慶応4年(1868年)、夏に九条道孝率いる官軍の進駐を受けてこれに対し饗応するが、
布告には恭順しなかった。しかし秋田藩が官軍側へ恭順すると、これを攻撃するために
奥羽越列藩同盟の盟約に従って出兵し、官軍と戦うも敗れ、降伏する。このため、
明治新政府から隠居と領地召し上げを命じられたが、長男・利恭に陸奥国白石13万石に
減転封が許された。また、家老・楢山佐渡ら3人が切腹となった。
三春藩 外様 5万石 陸奥三春藩第11代藩主:秋田 映季
慶応4年(1868年)4月4日、奥羽鎮撫総督府から会津出兵への準備を命じられる。
閏4月1日、庄内出兵を命じられる。閏4月3日、藩兵の少なさを理由に庄内出兵を辞退し、
会津出兵のみにすることを願う。その後、奥羽越列藩同盟の結成にともない、小藩のために
主体的な行動を取れず、新政府側と袂を分かつことになる。7月26日、新政府軍の
侵攻にともない降伏する。
   
 桑名藩 慶応4年の鳥羽・伏見の戦いで定敬が前将軍・徳川慶喜に従ったため、桑名藩は新政府と
敵対することとなるが、在国していた定教は家老ら家臣の擁立もあり定敬に従わず、1月23日には
新政府に降伏して蟄居を命じられた。1月28日には桑名城を無血開城し、、尾張藩の管轄下に
置かれることとなった。蝦夷地まで転戦した定敬を説得するために箱館まで赴き、東京(江戸)の
新政府に出頭させている。
 松平定敬
 まつだいら
  さだあき
弘化3年12月2日(1847年1月18日)-明治41年(1908年)7月12日
美濃高須藩主松平義建の八男として江戸市谷の江戸藩邸で生まれる。
14歳で定猷の正室の間に儲けた娘・初姫(当時3歳)の婿養子として迎えられ藩主となる
文久3年(1863年)の将軍・徳川家茂の上洛の際には、京都警護を勤めるために随行する。
元治元年(1864年)に京都所司代に任命され、京都守護職の実兄松平容保(会津藩主)、
朝廷から新設の禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任命された元将軍後見職の一橋徳川家
当主徳川慶喜と連携し、幕府から半ば独立して朝廷を援護する勢力を形成する
慶応4年に鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まると、慶喜に従い江戸の霊巌寺にて
謹慎した。国元では新政府軍が押し寄せてくる懸念から、先代当主の遺児・万之助(定教)を
担いで恭順することを家老たちが決めていた。そのため、徹底抗戦派と見られていた定敬の
帰国は困難な状況となった。
その後は会津若松城で兄の容保と再会し、仙台から榎本武揚の艦隊で箱館へ渡った。
箱館戦争終結前の明治2年(1869年)4月、従者とともにアメリカ船に乗り横浜を経て
上海へ渡るも、路銀が無くなったため外国への逃亡を断念して同年5月18日には横浜へ
戻り[4]降伏、明治5年(1872年)1月6日に赦免される。
明治10年(1877年)に起こった西南戦争には、旧桑名藩士を率いて遠征した。
明治41年(1908年)7月12日[1]に61歳で死去。
 松平 定教 
 まつだいら
  さだのり
安政4年(1857年)4月23日-明治32年(1899年)5月21日
藩主松平定猷の長男として生まれる。安政6年(1859年)に父が死去したときには3歳の
幼少であり、また妾腹の庶子であったため、家督は定猷の婿養子となった定敬が継ぎ、
定教は定敬の養子となった。
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで定敬が前将軍・徳川慶喜に従ったため、桑名藩は
新政府と敵対することとなるが、在国していた定教は家老ら家臣の擁立もあり定敬に従わず、
1月23日には新政府に降伏して蟄居を命じられた。
明治4年(1871年)、廃藩置県により知藩事職を免官された。
明治7年(1874年)11月には定敬と共にアメリカに留学し、ニュージャージー州の
ラトガース大学で学んだ。
明治11年12月に日本に帰国した後、明治13年(1880年)3月からは外務省の書記官として
イタリア公使館で働いた。明治17年(1884年)の華族令で子爵となる。
明治32年(1899年)5月21日に死去した。享年43
 酒井孫八郎 
  さかい
  まごはちろう

   家老
弘化2年11月17日(1845年12月15日) - 明治12年(1879年)4月15日)
伊勢桑名藩の家老。父は服部正綏、実家服部氏は徳川家康に仕えた服部正成(服部半蔵)の
系譜につながる。桑名藩家老・酒井三右衛門の養子に迎えられ、安政5年(1858年)に家督を
継いで藩主・松平定猷、その死後は松平定敬に仕えた。
慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が始まると、藩主定敬は幕府軍の主力として戦い、
徳川慶喜と共に江戸に脱出する。このため孫八郎は定猷の子・松平定教を擁立して藩論を
尊王派で統一し、桑名城を無血開城して新政府に恭順した。その後、蝦夷地まで転戦した
定敬を説得するために箱館まで赴き、東京(江戸)の新政府に出頭させている。
明治2年(1869年)には新政府と交渉し、
桑名藩の再興に尽力した。明治12年(1879年)に死去。享年35
 服部 正義
 はっとり まさよし

   家老
弘化2年9月29日(1845年10月29日)-明治19年(1886年)1月22日
桑名藩家老、服部半蔵正綏(11代目:服部半蔵)の長男として生まれる
慶応3年(1867年)の藩政改革で、家老職が廃止され、代わりに御軍事惣宰に就任する
鯨波戦争では加茂の大昌寺を仮本営として定敬に付き従う。その後も長岡、会津、寒河江と
転戦するが、明治元年9月26日に庄内(現・山形県鶴岡市)で降伏、身柄を拘束される
明治2年2月5日、庄内藩に護衛されて庄内を出発、3月20日に桑名に帰国する
明治3年(1870年)3月に桑名藩大参事兼軍務都督に就任するが、明治4年(1871年)の
廃藩置県により免職される。
明治10年の西南戦争勃発時新撰旅団第四大隊第四中隊長として参戦、鹿児島へ赴く
明治19年(1886年)1月22日に桑名で亡くなる、享年42歳
 吉村 宣範 
 よしむらのぶのり
  
   家老
文政3年(1820年)-慶応4年閏4月3日(1868年5月24日)
吉村又右衛門宣充を祖とする吉村分家第9代当主で、桑名藩家老である
吉村半右衛門宣陽の長男として生まれる。父である宣陽は、まだ国家老として勤めて
いたため、親子が同時代で桑名藩家老となっていた
戊辰戦争では早くから降伏、新政府への恭順を主張し続け、藩論に多大な影響を
及ぼしたため、徹底抗戦を望んだ藩主である松平定敬の命令によって殺害された
 山脇正勝 
嘉永2年(1849年) - 明治38年(1905年)5月6日)
桑名藩士山脇十左衛門(正軌)の子に生まれ、藩主松平定敬の小姓となる。
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発。鳥羽・伏見の戦いに敗走し、江戸から父・十左衛門に
同行して粕崎に到る。徹底抗戦派の藩主松平定敬の命により、同藩士高木貞作と共に
恭順派家老吉村権左衛門らの粛清を決行した後、定敬を追って蝦夷地へ渡った。
箱館に着くと、高木らと共に土方歳三配下の新選組に入隊。箱館戦争に参戦する。
明治5年(1872年)に釈放後、家老粛清の追及を逃れる為アメリカ合衆国に留学し、
帰国後は三菱に入社。その後、長崎造船所所長を13年間務めて引退
 立見 尚文 
 たつみなおふみ

  明治の軍人
弘化2年7月19日(1845年8月21日) - 明治40年(1907年)3月6日)
松平定敬が桑名藩を継いだときに小姓となる。少年期より風伝流の槍術、柳生新陰流の
剣術の使い手として知られる。藩校立教館、湯島の昌平坂学問所に学ぶ。
徳川慶喜謹慎後も抗戦を主張し、鳥羽・伏見の戦いにおいて大敗を喫した桑名藩の
軍制を立て直す。その後土方歳三と連繋し宇都宮城の戦いで功あり。
桑名藩領の柏崎へ移ってからは実績を買われて投票で雷神隊の隊長に選抜され、
続く鯨波戦争・北越戦争ではゲリラ戦を展開して官軍を度々苦しめた。
特に北越戦争における朝日山の戦闘では、奇兵隊参謀時山直八を討ち取る殊勲を挙げる。
その後会津若松城に赴き、城下の戦いで敗走。出羽国寒河江の長岡山において最後の
抵抗をするが、奥羽列藩同盟の中で最後まで抵抗していた庄内藩が降伏した後、
明治政府軍に降伏した。明治の軍人:陸軍大将
明治維新以後別紙記
 森 常吉 

  公用人筆頭
文政9年6月12日(1826年7月16日) - 明治2年11月13日(1869年12月15日))
桑名藩士・小河内殷秋(ただあき)の長男として生まれ、子供に恵まれなかった伯父の
森家を継ぐ御馬廻、横目、御使番、大目付を歴任。藩主・松平定敬が京都所司代で
あった時には公用人筆頭として朝廷や諸藩との外交責任者であった
戊辰戦争時、上野戦争に参戦した後、同藩士関川代次郎らと共に徹底抗戦派の
藩主・松平定敬を護衛して蝦夷地へ渡航。新選組に入隊し、箱館戦争に参戦、1869年早々、
新選組頭取改役(隊長)に任命される
箱館戦争終結後に投獄されたが、1869年11月13日、刑部省から桑名藩に引き渡され、
藩主・定敬を守るため全責任を負って旧藩邸で切腹を申付けられる。享年44
 高木 貞作 
 たかぎ ていさく
嘉永元年11月23日(1848年12月18日) - 昭和8年(1933年)1月14日)
戊辰戦争時、藩主・松平定敬の命を受けて、山脇隼太郎と共に恭順派の家老・吉村権左衛門を
殺害。定敬の後を追って蝦夷地へ渡る。渡航後は土方歳三配下の新選組に所属し、
箱館戦争に参戦敗戦後、明治5年(1872年)に釈放されたが、家老殺害の罪を避けて渡米した。
アメリカ合衆国で商法を学んで明治8年(1875年)に帰国
商法講習所設立に携わり、商業簿記の助教授に就任した。その後、明治11年(1878年)には
第十五国立銀行に入行し、明治15年(1882年)には、横浜正金銀行に移る。
昭和8年、東京の自宅で他界。享年86
 彦根 慶応2年、第二次長州征討では高田藩兵とともに彦根藩兵が芸州口の先鋒となった
慶応4年戊辰戦争では前哨戦となる。
鳥羽・伏見の戦いで、谷鉄臣らの藩兵が最初から新政府軍に属して東寺や大津を固めた。
その後、東山道鎮撫総督に属し、近藤勇の捕縛に加わったが、小山の戦闘で大鳥圭介らの
旧幕府軍に撃破される。彦根藩兵はその後、白河口から会津に転戦する。
 井伊 直弼 
 いい なおすけ
 近江彦根藩
  第15代藩主

   大

 
文化12年10月29日(1815年11月29日)-安政7年3月3日(1860年3月24日
第13代藩主・井伊直中の十四男として近江国犬上郡(現在の滋賀県彦根市金亀町)の
彦根城の二の丸で生まれる。ところが弘化3年(1846年)、第14代藩主で兄の直亮の
世子であった。井伊直元(直中の十一男、これも兄にあたる)が死去したため、
兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定する。
松平忠固や水野忠央(紀州藩付家老、新宮藩主)ら南紀派の政治工作により、
安政5年4月23日、直弼は大老に就任した。直弼は戊午の密勅の首謀者を梅田雲浜と断じ、
京都所司代酒井忠義に捕縛させ、安政の大獄の端緒を開いた。
尊皇攘夷派が活動する騒擾の世中にあって、強権をもって治安を回復しようとした。
こうした政治は、尊王攘夷派など反対勢力の怨嗟を受けた。安政6年(1859年)12月、直弼は
若年寄の安藤信正を水戸藩主・徳川慶篤の下に派遣し、戊午の密勅の返納を催促した。
安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で
水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した。
最初に短銃で撃たれて重傷を負った直弼は駕籠から動けず、供回りの彦根藩士は
狼狽して多くが遁走、駕籠を守ろうとした者も刺客に切り伏せられた。刺客は駕籠に何度も
刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねた。享年46(満44歳没)。
 井伊 直憲
 いい なおのり

 近江彦根藩
 第16代藩主   
嘉永元年4月21日(1848年5月23日) - 明治35年(1902年)1月9日)
父・直弼が実兄(直憲の伯父)直亮の世子だった時代に生まれる。実質的な長男
安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で直弼が暗殺された後、彦根藩は幕閣の
政治的配慮により取り潰しを免れ、万延元年(安政から改元)4月28日に13歳(数え年)で
家督を相続した。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争では前哨戦となる鳥羽・伏見の戦いで、谷鉄臣らの
藩兵が最初から新政府軍に属して東寺や大津を固めた。その後、東山道鎮撫総督に属し、
近藤勇の捕縛に加わったが、小山の戦闘で大鳥圭介らの旧幕府軍に撃破される。
彦根藩兵はその後、白河口から会津に転戦する。
明治4年(1871年)、アメリカおよびイギリスに遊学する。
 長野 主膳 
 ながの しゅぜん

   家老
文化12年10月16日(1815年11月16日)- 文久2年8月27日(1862年9月20日))
安政5年(1858年)に一橋派と南紀派による将軍後継者争いが起こると、主膳は直弼の命で
京都に赴き、公家衆らへの裏工作を行って南紀派が推薦する徳川慶福(家茂)擁立に貢献した。
直後の安政の大獄で直弼に対して一橋派の処罰や尊王攘夷派の志士の処罰を進言したため、
直弼に次いで恨まれる存在となる。
安政7年(1860年)、直弼が桜田門外の変で暗殺された後も彦根藩の藩政に参与したが、
直弼の跡を継いだ藩主・直憲からは疎まれ、家老・岡本半介に直弼時代の功績や厚遇などを
嫉視されて対立する。
そして文久2年(1862年)、文久の改革で井伊家が問罪されると、半介の進言を聞き入れた
直憲によって斬首・打ち捨ての刑に処された。享年48。
 岡本 半介 
 おかもと はんすけ

   家老
文化8年11月21日(1812年1月5日) - 明治31年(1898年)4月12日)
彦根藩士の宇津木久純の四男で、彦根藩の家老職を継ぐ岡本氏の養子となって
家督を継いだ。尊皇攘夷派であったため、開国派の井伊直弼と対立して罷免される。
1860年に直弼が桜田門外の変で暗殺された後は子の直憲に仕え、直弼時代の
寵臣・長野主膳を粛清するなど、政情の変化に対応して藩政をリードした。
しかし、徳川慶喜に過度に依存した結果、第二次征長戦争に出兵して大損害を蒙り、藩の
評判をさらに失墜させた。
王政復古段階で、薩長との提携を重視した谷鉄臣や大東義徹など下級藩士出身者に
主導権を奪われる。1898年、88歳で死去した。
 西川 吉輔 
 にしかわ よしすけ
文化13年7月2日(1816年7月26日) - 明治13年(1880年)5月19日)
近江八幡の商家、西川傳右衛門家の分家である肥料商(干鰯問屋)の西川善六家の出身で、
大国隆正に学んで国学者となり、嘉永元年(1848年)に私塾である帰正館を創設し、伊庭貞剛、
高田義甫ら多くの明治期の近江商人を輩出した。
安政5年(1858年)、安政の大獄にて町預に処せられたが、脱出し京都に潜伏した。
文久3年(1863年)、平田派国学の門人が起こしたとされる足利三代木像梟首事件に
連座し親類預となった。蟄居中も政治情報を集め、
元治元年(1864年)7月19日の禁門の変などに関して風説留を残している。
また、谷鉄臣らと結び、藩論の尊王への転換を計った。
明治維新後
明治7年(1874年)には日吉大社宮司となった。その後、生國魂神社宮司、教導職中教正を
歴任し国民教化に従事した。
  津 藩 1868年(慶応4年)1月の鳥羽・伏見の戦いでは当初は幕府側であったが、山崎高浜砲台の
津藩守備隊の機転で官軍側を支援し、対岸の幕軍砲台を砲撃するなど官軍の勝利に
大きく貢献することになった。しかし、幕府側の将兵からは突然の裏切り行為であり「その行い、
藩祖(高虎)に似たり」とそしられた。その後、藤堂軍は戊辰戦争で東海道の先鋒となって、
各地で旧幕府軍と戦った。
 藤堂 高猷 
 とうどう
  たかゆき

  第11代藩主
文化10年(1813年)2月9日-明治28年(1895年)2月9日)
文久3年(1863年)には天誅組の変を鎮圧し、元治元年(1864年)年も京都守衛のため兵を送った。
幕末期、高猷は佐幕派で公武合体を推進していたが、あまり幕政には関わらなかった。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いでは、当初は幕府軍に
与していたが、後に新政府軍に転じて新政府軍勝利の一因となった。さらに戊辰戦争、
箱館戦争にも派兵した。新撰組の八番隊組長・藤堂平助は高猷の落胤というが、
真相は定かではない。
 藤堂 高克 
  とうどう
   たかかつ

   家老
文化13年10月8日(1816年11月26日) - 明治20年(1887年)5月7日)
伊勢津藩の家老。字は士儀、法号は常山。父は藤堂高芬。正室は藤堂長教の娘。
名は「たかよし」とも。
伊勢津藩の支藩である久居藩の支流の一族である。
天保11年(1840年)に家督を継ぎ、本家の津藩主藤堂高猷の番頭として仕えた。
慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では津藩軍3000人の総督を務め、
この功績により帰国後に津藩の家老に昇格する。慶応3年から藩主・高猷が病がちで
藩政を執ることが次第に困難になると、世子の藤堂高潔を助けて新政府との交渉や藩政の
執行を務めた。明治20年(1887年)に死去。享年72
 藤堂 元施 
 とうどう
  もとひろ

   家老
天保7年10月23日(1836年12月1日) - 明治11年(1878年)6月26日))
江戸時代末期(幕末)の伊勢津藩の家老で、藤堂元則(采女)に始まる藤堂采女家第9代。
津藩の所領である伊賀上野城代でもある。別名は元施、通称は采女。
家督相続前の文久3年(1863年)、天誅組の変が大和で起こると、天誅組の指導者である
吉村寅太郎と面識があったことから味方しようとしたが、結局は幕命や勅命に逆らえずに
天誅組の鎮圧に務めた。慶応元年(1865年)、家督を継いで津藩主・藤堂高猷に仕え
7000石の家老・城代となった。
慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いでは津藩軍の総帥を務め、幕府軍を裏切って
新政府側についた。ただしこれは高猷に命じられて行なったことだといわれている。
維新後は敢國神社の神官を務めた。明治11年(1878年)に死去。享年43
 藤堂 監物
 とうどう
   けんもつ
天保13年(1842年) - 明治3年11月26日(1871年1月16日))
津藩の藩士である。長谷部一の別称で有名である。別名は慎吾、広拓とも
監物は伊勢津藩の藩士の息子であり、藩主・藤堂高猷に仕えた。
慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いに参加し、旧幕府軍を裏切って新政府軍に与した。
その後、新政府の東征軍に参加し、左隊長に任じられた。監物は彰義隊との戦い、
会津戦争などで功績を立てたため、明治2年(1869年)に300石を恩賞として与えられた。
また同時に長谷部一と改名し、津藩軍の大隊長に任じられた。
しかし明治3年(1870年)、高猷が行なった平民による藩軍編成に反対し、
同志を集めてクーデターを起こそうとしたが、事前に発覚したために失敗し、
自殺した(監物騒動)。享年29
  越前
 松平 春嶽 
 まつだいら
   ゅんがく

1 6代越前
 福井藩主


 
文政11年9月2日(1828年10月10日)-明治23年(1890年)6月2日 第16代越前福井藩主
田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男。松平斉善の養子。将軍・徳川家慶の従弟。
英邁な藩主で、幕末四賢侯の一人と謳われている。福井藩主・松平斉善が若年で
突然死去したために急遽松平錦之丞が養子とされた。
わずか11歳で福井藩主となる。12月11日に元服し、将軍・徳川家慶の偏諱を賜り、
慶永と名乗る。嘉永6年(1853年)、アメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が来航して
通商を求めた際には、水戸徳川家の徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬と共に海防強化や
攘夷を主張するが、老中の阿部正弘らと交流して開国派に転じる。
を京都に派遣して運動させ、一橋徳川家当主の徳川慶喜を後押しする。幕閣では
紀州徳川家の徳川慶福(のちの家茂)を推す南紀派で彦根藩主の井伊直弼が大老となり、
将軍世子は登城をして抗議したが、安政5年(1858年)7月5日、不時登城の罪を問われて
強制的に隠居させられ、謹慎の処罰を受けた。
文久2年7月9日(1862年8月4日)、春嶽は新設の政事総裁職に就任し、慶喜とともに
京都守護職の設置、陸奥会津藩主・松平容保の守護職就任、将軍・徳川家茂の上洛など
公武合体政策を推進する
慶応3年(1867年)、島津久光が送った西郷隆盛に促された前土佐藩主・山内容堂、
前伊予宇和島藩主・伊達宗城が相次いで上京。当時京都に居た春嶽もまた、
小松帯刀の説得を受け、この四者で四侯会議が開かれた。
慶喜に対しギリギリのタイミングで大政奉還を建白し、春嶽もまたこれに賛同している。
12月9日(1868年1月3日)の王政復古の宣言の前日、朝廷より議定に任命される。
王政復古後の薩摩・長州の討幕運動には賛成しなかった。維新後の新政府では
内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿などを歴任。明治3年(1870年)に政務を退く。
明治23年(1890年)に肺水腫のため小石川の自邸で死去、享年63
 松平 茂昭
 まつだいら
  もちあき

 17代越前福井藩主
天保7年8月7日(1836年9月17日)-明治23年(1890年)7月25日
越後糸魚川藩主・松平直春の四男。(越前松平家分家9代)
安政5年(1858年)7月5日、安政の大獄で松平慶永が隠居・謹慎処分となった越前松平家の
家督を相続する。藩主となったものの、藩内には隠居した慶永をはじめ三岡八郎、中根雪江、
横井小楠などの藩政を主導する改革派の家老・藩士が多数いたため、茂昭には実権は
ほとんどなく、傀儡の当主の立場であった。
慶応元年(1865年)の第一次長州征討では総督・徳川慶勝(元尾張藩主)の下、
副総督となっている。明治2年(1869年)6月、版籍奉還にともない、福井藩知事となった。
明治4年(1871年)7月、廃藩置県にともなって免官された。
明治23年(1890年)7月、55歳で死去した。
 由利 公正
  ゆり きみまさ
文政12年11月11日(1829年12月6日) - 明治42年(1909年)4月28日)
福井藩士・三岡義知(100石)の嫡男として越前国足羽郡福井城下に生まれる。
嘉永6年(1853年)に家督相続。福井を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発され、横井から
財政学を学ぶ。橋本左内らと国事に奔走し、藩主・松平慶永から財政手腕を
評されて抜擢された。謹慎中に坂本龍馬の来訪を受けて交流を深める。
明治維新後、土佐藩の福岡孝弟らと共に五箇条の御誓文の起草に参画した
明治維新以後別紙記載
 橋本 左内
  はしもと さない
   
天保5年3月11日(1834年4月19日) - 安政6年10月7日(1859年11月1日))
橋本長綱の子として越前国に生まれる。弟にのち陸軍軍医総監・子爵となった
橋本綱常がいる。嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵や
杉田成卿に師事し、蘭方医学を学ぶ。その後、水戸藩の藤田東湖、薩摩藩の西郷吉之助、
小浜藩の梅田雲浜、熊本藩の横井小楠らと交流する。やがて福井藩主の松平春嶽(慶永)に
側近として登用され、藩医や藩校・明道館学監心得となる。江戸幕府14代将軍を巡る
将軍継嗣問題では、春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。
安政6年(1859年)、大老となった井伊直弼の手により安政の大獄が始まり、春嶽が隠居謹慎を
命じられると、将軍継嗣問題に介入したことを問われて頼三樹三郎と共に伝馬町牢屋敷で
斬首となった。享年26。
 中根 雪江
  なかね ゆきえ
文化4年7月1日(1807年8月4日) - 明治10年(1877年)10月3日)
福井藩士(700石取り)・中根孫右衛門(衆諧)の長男として越前国福井の城下に生まれる。
松平慶永(春嶽)が11歳で16代藩主に就任した。中根はその教育係として御用掛となり
国学を教授し、慶永は本居宣長や平田篤胤の著述を学ぶに及んで思想を発展させた
同時に藩政改革に参与し、新藩主・慶永のもとで全藩士の俸禄三年間半減と、藩主自身の
出費五年削減の倹約政策などの政策がとられるとともに、藩政の守旧派の中心人物であった
家老・松平主馬が罷免され、由利公正、橋本左内らとともに改革派が主導権を得ることとなった。
安政の大獄によって慶永が隠居謹慎させられると同時に失脚するが、
17代藩主茂昭を補佐するため、文久元(1861)年に江戸へ赴く。慶永が政界復帰して
政事総裁職になると、横井小楠らと公武合体政策に従事し、将軍・徳川家茂の上洛に運動。
王政復古で成立した明治新政府の徴士参与、内国事務局判事として出仕するが、翌年に免職。
明治10年(1877年)10月3日、東京市麹町区1番地の岩佐病院において脚気症により71歳で死去。
 本多 釣月
 ほんだ
  ちょうげつ

   家老
福井藩士菅沼左門高次の子として生まれる。天保2年(1831年)福井藩家老本多方恭の
養子となる。天保6年(1835年)養父方恭の隠居により家督知行2800石を相続。
嘉永2年(1849年)に家老となり藩主・松平慶永に仕えた。慶永の藩政改革のブレーンの
ひとりとして活動し、主に軍制改革で功績を挙げた。
明治39年(1906年)に死去。享年92。
 村田 氏寿 
 むらた うじひさ
文政4年2月24日(1821年3月27日) - 明治32年(1899年)5月8日)
450石取りの藩士として松平慶永に仕えた。橋本左内とは親友であり、共に幕末の
政情不安の中で国事について語り合うことが多かった。
1856年には慶永の命令で熊本藩の横井小楠招聘に赴いている。
その後は禁門の変、戊辰戦争などに参加し、慶永の補佐に務めた。維新後は岐阜県令や
内務大丞兼警保を務めた。1899年、79歳で死去
  和歌山 長州戦争では第二次征長軍の先鋒総督に任命され、附家老の安藤直裕を先鋒総督名代とし、
内政においては御用取次に登用した津田出に藩政改革を行わせた。慶応4年、戊辰戦争が
勃発した際、茂承は病に倒れていたが、徳川御三家の一つである上、
羽・伏見の戦いで敗走した。幕府将兵の多くが藩内に逃げ込んだため、新政府軍の討伐を
受けかけた。しかし、茂承は病を押して釈明し、新政府に叛く意志はないということを
証明するため、藩兵1,500人を新政府軍に提供すると共に、軍資金15万両を献上した上、
勅命により京都警備の一翼を担った。このため、新政府は紀州藩の討伐を取りやめたという。
 徳川 茂承 
 とくがわ もちつぐ

  紀州藩

  第14代藩主
天保15年(1844年)1月13日、伊予国西条藩第9代藩主・松平頼学の六男(七男との説もあるとして
西条藩江戸上屋敷で生まれた。
安政5年(1858年)に紀州藩第13代藩主・慶福が徳川家茂として第14代将軍に就任すると、
幕命により同年6月25日に紀州徳川家の家督を継ぎ、紀州藩の第14代藩主に就任した。
長州戦争では第二次征長軍の先鋒総督に任命され、附家老の安藤直裕を先鋒総督名代とし、
内政においては御用取次に登用した津田出に藩政改革を行わせた。
戊辰戦争が勃発した際、茂承は病に倒れていたが、徳川御三家の一つである上、
鳥羽・伏見の戦いで敗走した幕府将兵の多くが藩内に逃げ込んだため、新政府軍の討伐を
受けかけた。しかし、茂承は病を押して釈明し、新政府に叛く意志はないということを
証明するため、藩兵1,500人を新政府軍に提供すると共に、軍資金15万両を献上した上、
勅命により京都警備の一翼を担った。このため、新政府は紀州藩の討伐を取りやめたという。
明治39年(1906年)8月心臓麻痺のため港区麻布台の本邸で死去。享年63(満62歳没)。
 水野 忠央
 みずのただなか
 紀州藩付家老
文化11年(1814年)10月1日、水野忠啓の嫡男として生まれる。
紀伊新宮藩の第9代当主(幕藩体制下では藩主として認められておらず、紀州藩の
付家老だった。嘉永2年(1849年)、斉彊が死去してわずか4歳の幼児・慶福が藩主になると、
忠央はこれを補佐することとなった。藩政を掌握した忠央は大名並みの所領を保有しながら
付家老という陪臣の地位から譜代大名並みの地位を強く望み、それ以前の付家老5家が
連帯して譜代大名並みの地位を求めた運動から更に先鋭化した運動を幕府に行った。
大老・井伊直弼と通じた。家定は病弱な上に嗣子がなかったため、次の将軍位をめぐって
徳川斉昭の子・徳川慶喜を推す一橋派と、慶福を擁立する南紀派に分かれて
対立することとなった。忠央は井伊直弼の歌道の師であり腹心の長野義言を通じて
手を結び、将軍後継に慶福を推した。しかし安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変で
井伊直弼が横死すると、かつての一橋派や反井伊派が勢力を盛り返したため、直弼の与党で
あった忠央も同年6月に失脚した上、家督を嫡男の忠幹に譲って強制的に
隠居することを命じられた。慶応元年(1865年)2月25日に死去した。享年52(満50歳没)。
 水野 忠幹
 みずの ただもと

  紀州藩付家老
天保9年(1838年) - 明治35年(1902年)4月30日)
紀伊新宮藩の第10代当主(紀州藩御附家老、大名としては初代藩主)。
万延元年(1860年)6月14日、父の忠央が強制隠居処分となったため、その跡を継いで
紀州藩主・徳川茂承を補佐した。策謀家・専制的であった父と違って謹厳実直だった上、度量も
広かったので、周囲から人望を集めたと言われている。慶応2年(1866年)、第2次長州征伐では
幕府軍の先鋒を務め、長州藩の軍勢もその忠幹の武勇を恐れて追撃できず、
「鬼水野」と畏怖しあるいは賞賛したと言われている。
慶応4年(1868年)1月24日、新政府の「維新立藩」により、忠幹は3万5,000石の
大名として認められ、新宮藩を立藩している。戊辰戦争が起こると紀伊藩は御三家の一つで
あったことから幕府側に就くとして、新政府側から疑われた。2月1日、忠幹は自ら上洛して必死に
弁護し、紀伊藩の存続を実現した。明治35年(1902年)、65歳で死去した。
 三浦 安
 みうら やすし

  
文政12年8月18日(1829年9月15日) - 明治43年(1910年)12月11日)
紀州藩支藩の西条藩士・小川武貴の長男として生まれ、幼名を光太郎又は五助と名乗る。
江戸の昌平坂学問所で学ぶ。一時、尊皇攘夷派志士として活動していたと言われる。後に
三浦家の養子となり、三浦休太郎を名乗った。また、内田敬之助の変名も用いている。
慶応3年(1867年)4月、いろは丸沈没事件で龍馬が京都近江屋で暗殺され、賠償問題で
恨みがあったとされる休太郎が海援隊士に容疑者として狙われることとなった。休太郎は
新選組に身辺警護を依頼し、天満屋事件へと発展、顔面を負傷したものの
命に別状は無かった。戊辰戦争が勃発すると一時捕縛されたが、間もなく釈放されて
明治政府に出仕した。維新後は諱である安を名乗り、大蔵省官吏、元老院議官、
貴族院議員を務め、1890年10月20日、錦鶏間祗候となる。第13代東京府知事となるが
淀橋浄水場をめぐる疑獄事件から不信任されて知事を解任された。知事解任後は、
宮中顧問官などを歴任した。また香瀾という雅号もあった
明治43年(1910年)に脳溢血により死去した。81歳没
 安藤 直裕
 あんどう
  なおひろ

 紀州藩付家老
文政4年11月8日(1821年12月2日)-明治18年(1885年)4月5日
紀伊田辺藩の第16藩・第18代藩主。第14代藩主・安藤直則の次男、紀州藩の付家老
紀州藩において藩主・徳川慶福(のちの将軍徳川家茂)や徳川茂承などの補佐を務めた。
慶応2年(1866年)、第2次長州征伐では幕府軍の石州口の総督を務め、1080名を率いて
出陣したが、弾薬を使い果たして江津まで退却した。同年12月3日、罷免、謹慎を命じられる。
慶応3年9月27日、謹慎を解かれる。
慶応4年(1868年)1月24日、「維新立藩」で独立の大名となった。同年5月5日、上洛する。
明治2年6月20日、田辺藩知事に就任する。明治18年(1885年)、65歳で死去した。
 陸奥 宗光
 むつ むねみつ 
天保15年7月7日(1844年8月20日) - 明治30年(1897年)8月24日)
紀州藩士・伊達宗広と政子(渥美氏)の六男として生まれる。
生家は伊達騒動で知られる、伊達政宗の末子・伊達兵部宗勝の後裔と伝えられるが、
実際は古くに陸奥伊達家から分家した駿河伊達家の子孫である。
安政5年(1858年)、江戸に出て安井息軒に師事するも、吉原通いが露見し破門されてしまう。
その後は水本成美に学び、土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・
伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。
文久3年(1863年)、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(1867年)には坂本龍馬の海援隊
(前身は亀山社中)に加わるなど、終始坂本と行動をともにした。
龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に
彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。
 明治維新以後別紙記載
  尾張 幕閣において老中・阿部正弘の死後に大老となり幕政を指揮していた井伊直弼が安政5年に
アメリカ合衆国と日米修好通商条約を調印したため、慶勝は水戸徳川家の徳川斉昭らとともに
江戸城へ不時登城するなどして直弼に抗議した。これが災いし、井伊が反対派に対する弾圧である
安政の大獄を始めると隠居謹慎を命じられる。
幕府が第一次長州征討を行うこととなる。征討軍総督には初め紀州藩主・徳川茂承が任じられたが
慶勝に変更され、慶勝は薩摩藩士・西郷吉之助を大参謀として出征した。この長州征伐では長州藩が
恭順したため、慶勝は寛大な措置を取って京へ凱旋した。しかしその後、長州藩は再び勤王派が
主導権を握ったため、第二次長州征討が決定する。
慶勝は再征に反対し、茂徳の征長総督就任を拒否させ、上洛して御所警衛の任に就いた。
慶喜は軍艦で大坂から江戸へ逃亡した後、謹慎する。慶勝は新政府を代表して大坂城を受け取る。
そのうち尾張藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したとの知らせを受け、
1月20日(2月13日)に尾張へ戻って佐幕派を弾圧する(青松葉事件)。
 徳川 慶勝 
 とくがわ
   よしかつ

  尾張徳川家
   第14代


 
文政7年3月15日(1824年4月14日)-明治16年(1883年)8月1日 尾張徳川家第14代
尾張藩支藩(御連枝)であった美濃高須藩主・松平義建の次男
弟に15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬などがあり、慶勝を含めて
高須四兄弟と併称される。慶勝は藩祖・義直の遺命である「王命によって催さるる事」を奉じて
尊皇攘夷を主張し、内政では倹約政策を主とした藩政改革を行う。幕閣において
老中・阿部正弘の死後に大老となり幕政を指揮していた井伊直弼が
安政5年にアメリカ合衆国と日米修好通商条約を調印したため、慶勝は水戸徳川家の
徳川斉昭らとともに江戸城へ不時登城するなどして直弼に抗議した。
これが災いし、井伊が反対派に対する弾圧である安政の大獄を始めると隠居謹慎を命じられ、
弟の茂徳が15代藩主となる。
鳥羽・伏見の戦いが起こり、慶喜は軍艦で大坂から江戸へ逃亡した後、謹慎する。
慶勝は新政府を代表して大坂城を受け取る。そのうち尾張藩内で朝廷派と佐幕派の対立が
激化したとの知らせを受け、
1月20日(2月13日)に尾張へ戻って佐幕派を弾圧する(青松葉事件)。閏4月21日(6月11日)に
議定を免ぜられ、その後政界に立つことはなくなった。
明治16年(1883年)に死去、享年60
 徳川 義宜
  とくがわ
   よしのり
  尾張徳川家
   第16代 
1858年7月4日(安政5年5月24日)- 1875年(明治8年)11月24日) 尾張徳川家第16代
第14代藩主・徳川慶勝の三男として生まれる。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起こると父と共に新政府軍に帰属し、新政府軍が
東海道を江戸に向けて出征を開始すると、その先鋒を務めた。徳川慶喜隠居後の
徳川宗家次期当主候補に擬せられたこともある。しかしもともと病弱だったため、父・慶勝の影に
隠れ、主体性は薄かった。明治8年(1875年)、18歳で夭折した。
 成瀬 正肥 
 なるせ まさみつ

  尾張藩付家老
天保6年12月12日(1836年1月29日)- 明治36年(1903年)2月4日)
尾張藩の附家老。尾張国犬山藩の第9代(最後)の藩主
丹波国篠山藩主・青山忠良の三男。正室は成瀬正住の娘。
第14代尾張藩主・徳川慶勝が将軍継嗣問題と条約勅許問題(後に日米和親条約に至る)に
巻き込まれて大老井伊直弼から隠居謹慎を命じられ、弟の第15茂徳が尾張藩主となると
藩政から遠ざけられ、もう一人の附家老竹腰氏の一派が藩政を掌握して幕府寄りの
政策が採られた。
明治元年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いでは慶勝に従って上京していた正肥は参内して
南門警備を担当し、5日には朝廷の命令で慶勝の代わりに二条城を接収した。
朝廷から独立大名として認められ、3月に参与会計事務局権判事に任命され、
閏4月には京都を進発して尾張に帰国し、信濃鎮定のために5,700人の尾張兵を率いて
塩尻から甲府へ進んで鎮撫にあたった。その後、別働隊を含み、信濃・越後・東京の各地へ
分離した部隊について、正肥は塩尻を本営として指揮し、6月8日に尾張に帰国した。
明治2年2月には版籍奉還を願い出6月には犬山藩知事を命じられた。1903年に死去した。
 田宮 如雲 
 たみや じょうん

  尾張藩家老
化5年10月23日(1808年12月10日)- 明治4年4月19日(1871年6月6日) 尾張藩側用人、家老
尾張藩士・大塚三右衛門正甫の第二子として生まれ、田宮半兵衛の養子となる
安政5年(1858年)安政の大獄により慶勝が隠居・謹慎処分を受けると、如雲も屏居となる
戊辰戦争では甲州・信州の平定に従事。明治2年(1869年)名古屋藩大参事となるが、
明治3年5月(1870年)、病のため辞職した。
 田中不二麿 
 たなか ふじまろ
弘化2年6月12日(1845年7月16日) - 明治42年(1909年)2月1日)は、
日本の幕末・明治期の武士、官僚、政治家
尾張国名古屋城下出身。慶応3年12月(1868年1月)、新政府の参与となる。
明治4年(1871年)、文部省出仕と同時に岩倉使節団理事官となり、欧米に渡って
教育制度の調査に当たった。文部大輔まで進み、学制実施と教育令制定を主導したが、
明治13年(1880年)に司法卿に転じた。以後、参事院副議長、駐伊特命全権公使、
駐仏特命全権公使、枢密顧問官、司法大臣を歴任し、晩年は再び枢密顧問官を務めた 
  宇都宮 慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の折は新政府軍につくも、幕府軍により攻められ落城したが
宇都宮藩は宇都宮城を再び奪回。
 戸田 忠恕
  とだ ただあき 
 
 第5代藩主
天保10年3月28日(1839年5月11日) - 安政3年6月2日(1856年7月3日)) 第5代藩主
第4代藩主(田原戸田家13代当主、戸田氏24世孫)・戸田忠温の三男
幼少の頃に家督を継いだが、精力的で優れた人物だったため、家老の戸田忠至と協力して
藩政改革を行なった。改革では、鉄砲訓練を主にした軍制改革を奨励している。
嘉永6年(1853年)、アメリカのペリーが来航してきたとき、幕府に対して武器弾薬を送り、
あくまで鎖国体制の維持を主張した。
安政3年(1856年)、18歳の若さで病死した
 戸田 忠恕 
 とだ ただゆき・くみ

  第6代藩主
弘化4年5月23日(1847年7月5日)-慶応4年5月28日(1868年7月17日) 第6代藩主
4代藩主戸田忠温の六男で5代藩主戸田忠明の弟。
忠恕は尊王の志に篤く、元治元年(1864年)に天狗党の乱が起きた折、筑波山に出撃した
宇都宮藩兵が幕府の命令が下る前に帰陣してしまったことや、元々藩内に藩主一門の
戸田光形を始めとする宇都宮天狗党なる攘夷勢力を抱えていたことなどもあり、反勢力
に関しては既に処分済みではあったものの幕府の怒りを買うこととなり、再出陣を願い出たが、
領国7万7000石のうち2万7000石を減じて5万石とし、忠恕は隠居謹慎の上養嗣子の
忠友に家督を譲り、田原戸田家は陸奥棚倉藩に転封とする命が下されることとなった。
慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争の折は新政府軍に与し、大鳥圭介・土方歳三ら旧幕府軍により
攻められ宇都宮城は落城したが、新政府軍の加勢を得て宇都宮城を再び奪回
(宇都宮城の戦い) 忠恕は朝廷より召し出しを蒙るが、病にて果たせず
同年5月、22歳の若さで病死した。
 戸田 忠至
  とだ ただゆき

   家老 
文化6年(1809年)、宇都宮藩の重臣田中忠舜(第2代宇都宮藩主戸田忠翰の弟で、
200石の重臣として5代藩主戸田忠明や6代藩主戸田忠恕を補佐した)の次男として生まれる
弘化元年(1844年)6月に家老、安政3年(1856年)10月に上席家老になった。
慶応2年(1866年)3月、藩主戸田忠友は忠至の功により1万石を分与し、高徳藩を興した。
同年12月28日、幕府から禁裏付頭取との兼任を命じられる。
慶応3年(1867年)7月5日、若年寄との兼任を命じられる。慶応4年(1868年)1月20日、新政府から
参与兼会計事務掛を命じられる。
同年4月29日、京都裁判所副総督との兼任を命じられ、閏4月22日、従四位上に昇進する。
明治2年(1869年)5月15日に隠居し、長男の忠綱に家督を譲った。
明治16年(1883年)、死去、享年75。
 県 勇記
 あがた ゆうき

   家老
文政6年12月1日(1824年1月1日)-明治14年(1881年)12月12日
宇都宮藩の家老・安形半左衛門通義の長男として宇都宮城の安形邸で生まれる。
父が死去すると、自らは家督相続を辞退し、弟に家督を譲っている
元治元年に中老・会計総裁に任命されるが、同年の天狗党の乱で対処を誤ったとして
全ての職務を解任の上、謹慎の処分になる。慶応元年(1866年)に許されると、同じ罪で
謹慎となっていた藩主・戸田忠恕の赦免運動のために3月に上京する。
慶応4年からの戊辰戦争では新政府に味方し、同年の宇都宮城の戦いで伝習隊など
旧幕府軍と戦った。4月には中老職に復帰し、さらに家老に任命された。以後は
藩政を事実上主導し、明治2年(1869年)に権大参事、明治3年(1870年)に番兵隊総長に、
明治4年(1871年)に司法省少判事に任命され、従六位に叙された。
明治9年(1876年)には司法省大審院付となる。
しかし明治10年(1877年)に病を理由にして退官した
   佐倉 堀田 正睦は老中時に日米修好通商条約が調印された後、将軍継嗣問題や
条約勅許問題などで正睦が失脚し、堀田正倫が藩主になると、
慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦い後、
正倫は上洛して新政府に対し、徳川氏の存続と徳川慶喜追討令の取消を嘆願するが、
かえって新政府に捕らえられて京都に拘禁されてしまった。
このため、佐倉藩は藩主不在という危機を迎えたが、縫殿は家老として冷静に対処し、
新政府が大多喜藩に対して出兵するように命令が下ると、佐幕派などの過激な意見を
抑えた上で大多喜出兵に応じ、藩の危機を救っている。
 堀田 正睦 
 ほった まさよし
 
  佐倉藩第
  5代藩主

  老中首座
文化7年8月1日(1810年8月30日)-元治元年3月21日(1864年4月26日)
佐倉藩第3代藩主・堀田正時の次男(末子)として江戸邸で生まれる
文化8年(1811年)4月、父の正時が死去したが、藩主は嫡系の正愛が継ぎ、その後に
正愛の4養子となった。初名を正篤(まさひろ)という。
幕政においては文政12年(1829年)4月12日に奏者番に任命されたのをはじめに]、
天保5年(1834年)8月8日には寺社奉行を兼務する形で任命され、受領名も備中守と改めた。
天保8年(1837年)5月16日に大坂城代に任命
第11代将軍・徳川家斉没後の天保12年(1841年)3月23日に本丸老中に任命され、老中首座の
水野忠邦が着手した天保の改革に参与する
天保14年(1843年)閏9月に老中を辞任した後は、佐倉に戻って再び藩政改革に尽力し、一定の
治績を挙げた。 幕末においては攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と
通商すべきという開国派であった。
安政2年当時の老中首座であった阿部正弘の推挙を受けて再任されて老中になり、
正弘から老中首座を譲られた時、外国掛老中を兼ねた。
正睦が上洛中に、松平忠固(老中)、水野忠央(紀州藩家老)の工作により南紀派の井伊直弼が
大老に就任すると、井伊は正睦をはじめとする一橋派の排斥を始めた。
安政5年(1858年)6月21日、正睦は松平忠固と共に登城停止処分にされた

安政6年(1859年)9月6日、家督を四男の正倫に譲って隠居し、見山と号した
 堀田 正倫 
 ほった まさとも

  佐倉藩
  第6代藩主
第5代藩主で幕末の老中・堀田正睦の四男。安政6年(1859年)、父が井伊直弼との
政争に敗れて失脚したため、家督を譲られて藩主となった。
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、徳川慶喜に対して朝廷から討伐令が下ると、
上洛して慶喜の助命と徳川宗家の存続を嘆願したが、新政府から拒絶されただけでなく、
京都に軟禁状態にされた。このため、藩主不在となった佐倉藩は危機を迎えたが、
家老の平野縫殿が新政府軍に与して大多喜藩に出兵したため、何とか改易は免れた。
明治維新後は知藩事となった。廃藩置県後は東京に移住し、日本の文化活動推進に貢献した。
明治44年(1911年)1月11日死去、享年61
 平野 縫殿
 ひらの ぬい

   家老 
文化11年(1814年)8月 - 明治16年(1883年)12月3日) 下総佐倉藩の家老
将軍継嗣問題や条約勅許問題などで正睦が失脚し、堀田正倫が藩主になると、
正倫の家老として仕えて藩政に参与する。慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦い後、
正倫は上洛して新政府に対し、徳川氏の存続と徳川慶喜追討令の取消を嘆願するが、
かえって新政府に捕らえられて京都に拘禁されてしまった。
このため、佐倉藩は藩主不在という危機を迎えたが、縫殿は家老として冷静に対処し、
新政府が大多喜藩に対して出兵するように命令が下ると、佐幕派などの過激な意見を
抑えた上で大多喜出兵に応じ、藩の危機を救っている。
明治16年(1883年)に死去。享年70。
   藩 慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、親藩だったということもあり藩内では旧幕府方に
与して抗戦するか、新政府軍に恭順するかで二分に分裂したが、忠国は病身を押して
藩論を一つにまとめた上で、新政府軍に恭順を誓った。
 松平 忠国
 まつだいら
   ただくに

  武蔵忍藩
  第3代藩主
 奥平松平家
   11代
文化12年9月17日(1815年10月19日)-慶応4年7月10日(1868年8月27日
伊勢桑名藩主松平忠翼の五男。天保12年(1841年)5月9日、三兄・忠彦の跡を
継いで忍藩主となった。
天保13年(1842年)には房総半島沿岸の警備、嘉永6年(1853年)には品川台場の警備を
務めている。文久3年(1863年)4月1日に隠居し、養子の忠誠に家督を譲ったが、
実権はなおも握り続けた。
慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、親藩だったということもあり藩内では旧幕府方に
与して抗戦するか、新政府軍に恭順するかで二分に分裂したが、忠国は病身を押して
藩論を一つにまとめた上で、新政府軍に恭順を誓った。同年54歳で死去した。
 松平 忠誠
 まつだいら
   ただざね

  武蔵忍藩
  第4代藩主
  平松平家
   12代 
天保11年1月5日(1840年2月7日)-明治2年6月5日(1869年7月13日)
大久保忠声(下野烏山藩主・大久保忠保の弟)の長男。忍藩の後継として入嗣していた
松平忠毅の死により、新たに養子となった。
長州征討に際して江戸警備を命じられる。
慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いの敗北による徳川慶喜の大坂退去にともない、
忠誠は紀伊から船で退却した。その後、藩内が新政府軍に抗戦するか
恭順するかで二分したとき、忠誠は藩論を一つにまとめられなかったが、隠居の忠国の登場に
よって藩論は恭順でまとまり、2月に忠誠は新政府に恭順した。
明治2年(1869年)6月5日、忠国の後を追うように30歳で没した。
  加賀 禁門の変では嫡男の慶寧に兵を預けて御所を守らせていたが、敗れて退京してきたので、
怒った斉泰は慶寧を謹慎させ、家老の松平康正(大弐)と藩士の大野木仲三郎に
切腹を命じている。
慶寧と親密な関係にあった尊皇攘夷派の武士たちを、城代家老の本多政均と
協力して徹底的に弾圧した。慶応2年4月4日、斉泰から家督を譲られたが、実権は依然として
斉泰が握っていた。同年5月10日に参議に任官する。戊辰戦争では新政府軍に味方している。
 前田 斉泰 
 まえだなりやす

  第12代藩主

文化8年7月10日(1811年8月28日)-明治17年(1884年)1月16日 第12代藩主
第11代藩主前田斉広の長男、将軍家斉の娘・溶姫との縁組の話があり、翌年婚約し、
文政10年(1827年)11月溶姫は前田家へ輿入れした。
元治元年(1864年)の禁門の変では嫡男の慶寧に兵を預けて御所を守らせていたが、
これが無様にも敗れて退京してきたので、怒った斉泰は慶寧を謹慎させ、
家老の松平康正(大弐)と藩士の大野木仲三郎に切腹を命じている。そしてこれを契機として、
慶寧と親密な関係にあった
尊皇攘夷派の武士たちを、城代家老の本多政均と協力して徹底的に弾圧した。
慶応2年(1866年)、慶寧に家督を譲って隠居したが、実権は相変わらず握った。
加賀藩を薩摩藩や長州藩のような国政に関わる重要な立場に置くべく裏工作に専念したが、
尊皇派の藩士を斉泰が弾圧してしまったことで有力な尊王藩士がおらず、他藩に遅れを取り、
さらに右腕であった本多政均が明治2年(1869年)に暗殺されるなどということもあって、
裏工作は実らず失敗に終わった。明治17年(1884年)、74歳で死去した。
 前田 慶寧
  まえだよしやす

  第13代藩主
  加賀前田家
   14代 
天保元年5月4日(1830年6月24日)-明治7年(1874年)5月22日 第13代藩主
藩主前田斉泰の長男として江戸に生まれる。
元治元年(1864年)5月、斉泰に代わり上洛した。御所の警備にあたっていたが、病がちになり、
7月に起こった禁門の変では、長州藩と幕府の斡旋を試みたが失敗し、病を理由に退京し
近江国海津(加賀藩領)に居たため、長州に内通した疑いを受けた。このため、斉泰に
より幕命に背き御所の警備を放棄したとして金沢で謹慎を命じられた。このとき、
側近の松平康正(大弐)や大野木仲三郎をはじめ、多くの側近たちが斉泰や本多政均らの
手によって処罰されている。
一説には、慶寧は尊皇攘夷派と親しかったため、それを苦々しく思った斉泰が
弾圧したのだという。
慶応元年(1865年)4月、謹慎が解かれる。
慶応2年(1866年)4月4日、斉泰から家督を譲られたが、実権は依然として
斉泰が握っていた
同年5月10日に参議に任官する。戊辰戦争では新政府軍に味方している。
明治7年(1874年)5月22日、療養先の熱海で父に先立って死去した。
享年45(満43歳没)。
 本多 政均 
 ほんだ まさちか

   城代家老
天保9年5月8日(1838年6月29日)-明治2年8月7日(1869年9月12日
加賀本多家は本多正信の次男・本多政重の子孫であり、加賀藩の中でも大身で、
陪臣ながら5万石を領していた。
安政3年(1856年)に兄・政通が夭折したため家督を継ぎ、万延元年(1860年)に
城代家老に任じられた。
藩主・前田斉泰に寵愛され、斉泰と共に西洋軍制の導入など改革を積極的に推し進めた。
しかし尊王攘夷派に対しては冷酷で、元治元年(1864年)に禁門の変が起こると、尊攘派と
親しかった斉泰の世子・前田慶寧の謹慎処分をはじめ、藩内における尊攘派の
処罰を担当した。しかしかつての尊攘派に対する厳し過ぎる処分は彼らの恨みを
買うことになり、明治2年(1869年)に金沢城二の丸御殿において井口義平、
山辺沖太郎に暗殺された。享年32。
 岡田 棣 
  おかだ なろう
天保6年12月21日(1836年2月7日) - 明治30年(1897年)8月17日)
小松馬廻番頭兼小松町奉行の父、岡田正之と小幡藩士の娘の母との長子として誕生。
慶応元年(1865年)の長州出兵まで軍艦棟取を務め、慶応元年2月には軍艦奉行となる。
同年5月には横目(目付)に、9月に先手物頭と盗賊改方を兼務した。
慶応3年(1867年)12月に軍務に関する機関である内用に参興し翌年慶応4年正月、
鳥羽・伏見の戦いが始まり藩は幕府援軍として村井長在(又兵衛)を出陣させることになり
これに従軍した。慶応4年(1868年)4月、内命により京都に赴き京都藩邸にて執政局議事と
して情報収集に努める。刑法官権判事に任ぜられ江戸府権判事を兼務する。
明治4年(1871年)3月19日、金沢藩では棣と吉井立吉と北川由巳(克由)が派遣される。
同年11月12日の岩倉使節団に先立つ4月4日に横浜を出帆、アメリカ、イギリス、フランス、
スイス、イタリア、オーストリア、プロイセン、トルコ、エジプト、香港、上海、長崎を経て
明治5年(1872年)2月5日に東京に着く。
明治9年(1876年)10月家扶として前田家に仕える。明治15年(1882年)病の為辞職。
明治30年(1897年)癌の為死亡
高橋荘兵衛
たかはし
  そうべえ
  
文政9年8月1日(1826年9月2日) - 明治23年(1890年)8月21日)
加賀藩士・高橋貞助の嫡男として生まれる。
慶応4年(1868年)正月、王政復古、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れたとの報が
長崎にもたらされた。それを知った長崎奉行・河津伊豆守祐邦は身辺の品を港内に停泊中の
イギリス船に運び、翌15日早朝、その船で長崎を脱出。
在崎の海援隊士が長崎西奉行所を接収、当時長崎にいた各藩士と共に、
新政府より沙汰があるか責任者が派遣されるまでは、これまで通りに諸事を取り図ると
申し合わせた。
これにより、薩摩藩・長州藩・土佐藩・広島藩・大村藩・宇和島藩・対馬藩・加賀藩・
柳川藩・越前藩・肥後熊本藩・福岡藩・平戸藩・五嶋藩・島原藩・小倉藩の16藩の合議による
協議体が発足。この協議体は連名の誓約書を作っており、その連名者の中には土佐の
佐々木高行や佐賀の大隈重信、薩摩の松方正義、加賀の高橋荘兵衛の名もある。
長崎奉行所西役所は長崎会議所と称され、1868年(慶応4年)2月15日に沢宣嘉が
九州鎮撫総督兼外務事務総督に就任するまで、長崎の政務を執る事になった。
荘兵衛は会議所の配下、政治裁判掛を勤める。また、治安維持には各藩兵や長崎奉行が
結成した振遠隊が当たる事となった
1868年(慶応4年)2月澤宣嘉九州鎮撫総督着任後、北越戦争増援輸送のため
『李百里丸』に乗船、官軍掛任務を務めた。この加賀藩艦船の軍事輸送は
加賀藩主命令ではなく、新政府側の要求としての任務であった。
 島田一郎
 しまだ いちろう
嘉永元年(1848年) - 明治11年(1878年)7月27日
加賀藩の足軽の子として生まれた。元治元年(1864年)、長州征伐で初陣。
明治元年、北越戦争で長岡藩が遺棄した兵糧の確保等の功で
翌年に御歩並(おかちなみ)に昇格
廃藩置県後、陸軍軍人を目指してフランス式兵学を修め、中尉にまで昇進するが
その後に帰郷。不平士族の一派三光寺派のリーダー格として萩の乱、西南戦争に呼応し
挙兵を試みるが断念。その後、方針を要人暗殺に切り替え、明治11年5月14日、長連豪等と
共に大久保利通を東京紀尾井坂で暗殺。その後警察に自首し
同年7月に斬首刑に処され、31年の生涯に幕を閉じる。
  備後福山
 阿部 正弘

   7代藩主
文政2年生まれる、福山藩  7代藩主  江戸幕府の老中首座
嘉永7年3月3日、日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は
終わりを告げる。
安政4年6月17日(1857年8月6日)、老中在任のまま江戸で急死した。享年39
 阿部 正方 
 
  9代藩主
嘉永元年 9代藩主 
長州征伐(第一次)の先鋒を命じられ、藩兵約6,000人を率いて安芸国広島
(広島市)に出征する。
福山藩は再び長州征伐(第二次)を命じられ、正方は藩兵を率いて出陣する。
石見国を進む途中に正方は病(脚気と思われる)を悪化させ、指揮を
家老内藤角右衛門に委ねて長州藩と交戦して敗北した。
戊辰戦争の前哨戦として長州藩軍(新政府軍)が領内に迫ろうとするとき、
正方は病を悪化させ、福山城内にて20歳で死去した。
 阿部 正桓

  10代藩主
嘉永4年 10代(最後の)藩主
年明け早々から新政府(長州軍)への恭順と新政府軍(芸州軍)の福山入城に始まり、、
伊予国松山への出兵、播磨国西宮の警護、大阪府天保山砲台の警護など新政府軍への
対応に追われたが、正桓も藩主就任直後の明治元年9月に箱館戦争への出兵を命じられた。
 肥前大村 幕末期は藩内で佐幕派と尊王派が対立し、文久3年(1863年)に純熈が長崎総奉行に
任じられると佐幕派が台頭した。しかし尊王派はこれに対して改革派同盟を結成し、
元治元年、純熈の長崎総奉行辞任により逆に尊王派が台頭した。藩論が一気に
尊王倒幕へと統一され、在郷家臣団を含む倒幕軍が結成された。
以後、薩摩藩・長州藩などと共に倒幕の中枢藩の一つとして活躍し、戊辰戦争では
東北地方にまで出兵した。
 大村 純熈
 おおむら
  すみひろ

  2代藩主 
文政13年11月21日(1831年1月4日)-明治15年(1882年)1月13日 12代藩主
第10代藩主・大村純昌の十男として玖島城で生まれる。弘化3年(1846年)に兄で
第11代藩主である純顕の養子となり、12月18日に兄が病気で隠居すると、
弘化4年(1847年)2月21日に家督を継いだ。
文久2年には平戸藩と同盟を結んでいる。幕末期は藩内で佐幕派と尊王派が対立し、
文久3年(1863年)に純熈が長崎総奉行に任じられると佐幕派が台頭した。
しかし尊王派はこれに対して改革派同盟を結成し、元治元年(1864年)、純熈の
長崎総奉行辞任により逆に尊王派が台頭した。
慶応3年(1867年)、改革派同盟の盟主である針尾九左衛門・松林飯山らが暗殺されると、
逆にこの「小路騒動」と呼ばれた闘争を契機に純熈は佐幕派を処罰し、藩論が一気に
尊王倒幕へと統一され、在郷家臣団を含む倒幕軍が結成された。
明治15年(1882年)1月、従三位に昇叙されたが、1月13日に死去した。享年53
 渡辺 昇 
 わたなべ
   のぼる

天保9年4月8日(1838年5月1日) - 大正2年(1913年)11月10日)
大村五騎に数えられる上級藩士・渡辺家の出身。大村藩参政・渡辺巖の二男として生まれる。
安政5年(1858年)春、江戸藩邸勤めになった父に従い、江戸へ出る。安井息軒の
塾・三計塾に入って長州藩士・桂小五郎と知り合い、桂の勧めで斎藤弥九郎の
剣術道場・練兵館に入門する。弥九郎の長男・新太郎に学び、塾頭の桂と共に
「練兵館の双璧」と称された。
天然理心流第四代の近藤勇とも親交を持った。
大村藩に帰藩後、勤王を名目に密かに「三十七士同盟」を結成。
元治元年(1864年)9月21日、梅沢武平とともに元締役・富永快左衛門を暗殺。
同年には大村藩の藩校改革も進めた。長崎で土佐浪士・坂本龍馬と会談し、
坂本から薩長同盟の必要性を説かれ、長州藩への働きかけを頼まれる。
昇は長州の説得に奔走し、長崎で長州藩と坂本を引き合わせ薩長同盟の成立に尽力した。
兄の清とともに大村勤皇党を率い、京都でも坂本龍馬、桂小五郎、高杉晋作、西郷隆盛、
大久保利通ら諸藩の志士と交流。品川弥二郎の命令で盛んに人を斬る。近藤勇の率いる
新選組の隊員も殺したが、近藤自身は昇が佐幕派の刺客に狙われていることを知ると、
ひそかに警告に訪れたという
大佛次郎の小説『鞍馬天狗』のモデルはこの頃の昇という説がある。
慶応3年(1864年)、三十七士同盟の同志・針尾九左衛門と松林廉之助が襲撃され、
針尾は重傷を負い、松林は死亡する。事件は佐幕派の犯行とされ、昇は粛清によって強引に
藩論を尊王にまとめ上げる(大村騒動)。
明治維新以後別紙記載
 渡辺 清

 
 
天保6年3月15日(1835年4月12日) - 明治37年(1904年)12月30日)
肥前国大村に大村藩士・渡辺巌の長男として生まれる。弟の渡辺昇とともに
明治維新の志士として活動した。江戸城総攻撃予定日の前日に、
英国公使ハリー・パークスと会見し、パークスが江戸攻撃には反対である旨を西郷隆盛に
伝えた(江戸開城)。
戊辰戦争では、東征軍監、奥羽追討総督参謀として従軍し、磐城の戦いなどに参戦。
その功により明治2年(1869年)6月2日に賞典禄450石を受けた[1]。続いて6月10日には
三陸巡察使付属と磐城巡察使付属を兼ねた[2]。同年中に巡察使が按察使に変更され、
さらに按察使府が設けられると渡辺は三陸両羽磐城按察使府の判官となった。
明治維新以後別紙記載
 楠本 正隆
 くすもと
  まさたか
 
天保9年3月20日(1838年4月14日) - 明治35年(1902年)2月7日)
肥前大村藩士・楠本直右衛門正式(60石)の長男として玖島城下の岩船に生まれる。
藩校・五教館の監察、頭取を務めた。中老として尊攘倒幕運動で活躍し、
渡辺昇ら「大村三七士」の一人として知られる。
肥前大村藩の武士、明治期の政治家。男爵。大久保利通の腹心として知られた。
明治維新以後別紙記載
美作津山藩 慶応元年(1865年)3月、江戸に出府する。維新の動乱の際は、勤皇、佐幕の方針をめぐって
藩内は混乱したが、斉民の力をもって勤皇に統一した。
慶応4年5月3日、江戸開城にともない新政府より田安亀之助(徳川家達)の後見人を命じられ、
その養育に尽力した。
 松平斉民
 まつだいら
  なりたみ

  第8代藩主
文化11年7月29日(1814年9月12日)-明治24年3月23日津山藩主松平斉孝の養嗣子となる。
美作国津山藩の第8代藩主。11代将軍徳川家斉の十四男で、12代将軍徳川家慶の異母弟。
安政2年(1855年)5月3日、養子の慶倫(斉孝の四男)に家督を譲って隠居し、確堂と称する。
慶応元年3月、江戸に出府する。維新の動乱の際は、勤皇、佐幕の方針をめぐって藩内は
混乱したが、斉民の力をもって勤皇に統一した。慶応4年(1868年)5月3日、江戸開城にともない
新政府より田安亀之助(徳川家達)の後見人を命じられ、その養育に尽力した。
明治24年(1891年)3月23日、78歳で死去した。
 松平 慶倫
 まつだいら
   よしとも

  第9代藩主
文政10年閏6月5日(1827年7月28日) - 明治4年7月26日)第9代(最後)の藩主
第7代藩主・松平斉孝の四男弘化4年(1847年)9月、松平斉民の養子となる。
安政2年(1855年)5月3日、斉民の隠居により、家督を相続する。文久3年(1863年)、国事周旋の
内勅を受け上京し朝廷と幕府との調停にあたり、八月十八日の政変以降は
藩内の尊皇攘夷派の排斥をおこなった。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により
津山藩知事に任ぜられる。
明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により免職となる。同年7月26日、45歳で死去。
 安藤 要人
 あんどう
   かなめ
生没年不詳津山藩の家老。津山藩は、公武合体や薩長の和合を求めていたが、
征長に幕府側で出陣した。鳥羽・伏見の戦い後に長州の斡旋で恭順が認められた。
 箕作 秋坪
 みつくり
   しゅうへい
文政8年(1826年)、備中国(現・岡山県)の儒者・菊池文理(菊池應輔亮和の婿養子である
医者菊池好直正因の養子である菊池慎の子。)の次男として生まれた。
はじめは箕作阮甫、次いで緒方洪庵の適塾にて蘭学を学び、それぞれの弟子となった。
江戸幕府蕃書調所(東京大学の前身)の教授手伝となる。文久元年(1862年)の幕府による
文久遣欧使節に加わりヨーロッパを視察。帰国後は国境交渉の使節としてロシアへ派遣された。
明治維新後は三叉学舎の開設。三叉学舎は当時、福沢諭吉の慶應義塾と
並び称される洋学塾の双璧であり、東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦なども
ここで学んだ。
 箕作 麟祥  
 みつくり
   りんしょう 
1846年9月19日(弘化3年7月29日) - 1897年(明治30年)11月29日)
箕作省吾・しん夫妻の長男として江戸の津山藩邸に生まれた。幼名は貞太郎(のち貞一郎)。
祖父は蘭学者の箕作阮甫で、父・省吾は阮甫の婿養子、母・しんは阮甫の四女だが、
父・省吾が若くして亡くなったので祖父・阮甫に育てられた。阮甫の死後、
箕作家の家督を相続した。藤森天山・安積艮斎に漢学を、家と江戸幕府の蕃書調所
(東京大学の源流)で蘭学を学んだ後、ジョン万次郎(中浜万次郎)について英学を学んだ。
1861年(文久元年)に15歳の若さで蕃書調所の英学教授手伝並出役、1864年(元治元年)には
外国奉行支配翻訳御用頭取となり、福澤諭吉・福地源一郎らとともに、
英文外交文書の翻訳に従事した。
1867年(慶応3年)、ナポレオン3世のパリ万国博覧会に際して、将軍の名代として出席する
徳川慶喜の弟・徳川昭武に、幕府の命により渋沢栄一らと一緒に随行し、
その後徳川昭武とともにフランスに留学した。
明治維新以後別紙記載
 津田 真道
  つだ まみち
文政12年6月25日(1829年7月25日) - 明治36年(1903年)9月3日)
嘉永3年(1850年)に江戸に出て箕作阮甫と伊東玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学ぶ。
藩籍を脱して苦学したが、安政4年(1857年)蕃書調所に雇用されて、文久2年(1862年)には
西周とオランダに留学しライデン大学のシモン・フィセリングに学ぶ。
幕府陸軍の騎兵差図役頭取を経て、目付に就任。大政奉還に際しては徳川家中心の
憲法案を構想した(『日本国総制度』)。
明治維新以後別紙記載
  松代藩 第9代藩主真田 幸教は翌年ペリーが浦賀に来航すると、横浜の応接場の警備を務めた。
藩政では、財政再建のために安政2年藩士の知行借上を行った。しかし祖父と違って若年で
統率力に乏しく、しかも病気がちで、藩内で佐幕派の恩田派と尊王派の真田派が争うのを
制すことがすことができず、結果として幸貫が登用した佐久間象山などの優秀な人材を
使いこなすことが出来なかった。象山が尊王派の刺客によって暗殺されるに及んで、
松代藩では真田桜山率いる真田派が実権を掌握する。
 佐久間 象山
 さくま しょうざん
  
文化8年2月28日-元治元年7月11日 藩士・佐久間一学国善の長男として
信濃松代で生まれる
象山は5尺7寸から8寸くらいの長身で筋骨逞しく肉付きも豊かで顔は長く額は広く、
二重瞼で眼は少し窪く瞳は大きくて炯炯(けいけい)と輝きあたかも梟の眼のようであった。
天保2年(1831年)3月に藩主の真田幸貫の世子である真田幸良の近習・教育係に抜擢された。
天保4年(1833年)11月に江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に詩文・朱子学を学び
山田方谷と共に「二傑」と称されるに至る。ただ、当時の象山は、西洋に対する
認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。
天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に
任ぜられて以降、状況が一変する。幸貫から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、
象山は江川英龍の下で、兵学を学ぶことになる。
嘉永2年に日本初の指示電信機による電信を行ったほか、ガラスの製造や
地震予知器の開発に成功し、嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、
象山は視察として浦賀の地を訪れている。
しかし嘉永7年、再び来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て、
失敗するという事件が起こる。象山も事件に連座して伝馬町牢屋敷に入獄する羽目になり、
更にその後は文久2年まで、松代での蟄居を余儀なくされる。
元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と
開国論を説いた。しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、
「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には危険な行動であった
7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の手にかかり暗殺される。享年54
 備中松山藩  
 板倉 勝静
 いたくら かつきよ

  第7代藩主


  
 
 文政6年1月4日(1823年2月14日)-明治22年(1889年)4月6日
江戸幕府の奏者番・寺社奉行・老中首座(筆頭)。備中松山藩の第7代藩主。板倉家宗家13代。
陸奥白河藩主松平定永の八男として生まれた。備中松山藩の第6代藩主・板倉勝職の
婿養子となり、嘉永2年(1849年)閏4月6日に養父が隠居したため家督を継いだ。
農商出身の陽明学者山田方谷を抜擢し、藩校有終館の学頭とした。彼の助言のもと
藩政改革を行って財政を改善
安政4年、これが評価されて奏者番兼寺社奉行に任命された。しかし安政の大獄で
井伊直弼の強圧すぎる処罰に反対して、寛大な処置を行い、直弼の怒りを買って同6年に
罷免された。
15代将軍徳川慶喜から厚い信任を受け、老中首座兼会計総裁に選任された。
そして幕政改革に取り組む一方で、慶応3年(1867年)、土佐の山内豊信が建言した
大政奉還の実現にも尽力した。
戊辰戦争が起きると、鳥羽・伏見の戦いの敗戦の際、慶喜と大阪にいて、老中酒井忠惇、
会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬らと共に開陽丸で江戸へ退却した。
藩主不在の備中松山藩はわずか5万石であり、新政府は隣の岡山藩32万石に
錦の御旗を渡して松山討伐を命じていたので、苦境に陥った。留守を守っていた方谷は
長州藩が攻めてきた場合には戦うつもりだったが、朝敵とされてしまったこともあり、
松山の領民を戦火から救い、板倉家を存続させるためには、松山城を明け渡すしかないという
考えで藩論が一致した。
松山藩は岡山藩の管理下に置かれた。そこに鳥羽・伏見から熊田恰率いる松山藩隊150名が
備中玉島に帰還。岡山藩は熊田の首級を要求し、慶応4年(1868年)1月22日、
それを知った熊田は自刃して果てた。彼の潔い殉死によって松山は最終的に戦火から免れた。
宇都宮戦争で大鳥圭介の旧幕府軍によって解放され、同じ元老中小笠原長行と共に
奥羽越列藩同盟の参謀となった。
勝静自身はなおも抵抗を続けた。勝静は、松平定敬や小笠原長行と共に旧幕府軍として
五稜郭まで従い、同行した松山藩士も新撰組に加わって土方歳三の指揮下で戦っていた。
明治2年(1869年) 5月25日、帰京した勝静は翌日自訴。8月15日、長男勝全と共に
上野国安中藩で終身禁固刑となった。翌月、2万石減封されながらも松山藩は再興され、
岡山藩による軍政支配は終わった。明治22年(1889年)4月6日に死去した。享年66
板倉勝静は白河藩主・松平定信の実の孫であり、元をたどれば徳川吉宗の玄孫にあたる。
そのため、幕府に対する忠誠心が高く、勝静自身も奏者番・寺社奉行・老中と
幕府の要職を務めた。
   
              新撰組 総覧   
   概要   幕末の京都は政治の中心地となり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の過激派志士が集まり、
治安が悪化した。
従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと
判断した幕府は、最高治安機関として京都守護職を新設し、
会津藩主の松平容保を就任させた。
その配下で活動した準軍事的組織が新選組である。同様の配下に京都見廻組があった。
隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。
  結成  文久2年(1862年)、江戸幕府は庄内藩郷士・清河八郎の建策を受け入れ、将軍・徳川家茂の
上洛に際して将軍警護の名目で浪士を募集。翌文久3年(1863年)2月27日、集まった
200名余りの浪士たちは将軍上洛に先がけ「浪士組」として一団を成し、中山道を西上する。
浪士取締役には、松平上総介、
鵜殿鳩翁、窪田鎮勝、山岡鉄太郎、松岡萬、中條金之助、佐々木只三郎らが任じられた。
京都に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする
画策が発覚する。清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。これに
対し近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、
あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。近藤・土方ら試衛館派が八木邸で芹沢鴨、
平山五郎を暗殺。平間重助は脱走、野口健司は12月に切腹。
水戸派は一掃され、試衛館派が組を掌握し近藤を頂点とする組織を整備した
元治元年6月5日、池田屋事件で尊王攘夷派志士を斬殺・捕縛。新選組の名は天下に轟いた。
8月、禁門の変の鎮圧に参加。長州征伐への参加に備え、戦場での指揮命令が明確になる
小隊制(一番組〜八番組及び小荷駄雑具)に改組。
慶応3年(1867年)3月、伊東らの一派が思想の違いなどから御陵衛士を結成して脱退。
同年6月、新選組は幕臣に取り立てられる。同年11月、御陵衛士を襲撃し、伊東らを暗殺する
   発展  元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件で尊王攘夷派志士を斬殺・捕縛。新選組の名は
天下に轟いた。8月、禁門の変の鎮圧に参加。
長州征伐への参加に備え、戦場での指揮命令が明確になる小隊制(一番組〜八番組及び
小荷駄雑具)に改組。「軍中法度」も制定した。しかし新選組に出動の命令はなかった。
慶応3年(1867年)3月、伊東らの一派が思想の違いなどから御陵衛士を結成して脱退。
同年6月、新選組は幕臣に取り立てられる。同年11月、御陵衛士を襲撃し、
伊東らを暗殺する(油小路事件)。 
   解散   慶応3年(1867年)10月に将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った。新選組は旧幕府軍に従い
戊辰戦争に参加するが、初戦の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北。榎本武揚が率いる
幕府所有の軍艦で江戸へ撤退する。
この時期、戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し、戦力が低下した。
再び江戸に戻ったが、方針の違いから永倉新八、原田左之助らが離隊して靖兵隊を結成。
近藤、土方らは再起をかけ、流山へ移動するが、近藤が新政府軍に捕われ処刑され、
沖田総司も持病だった肺結核の悪化により江戸にて死亡。また諸事情で江戸に戻った原田は
彰義隊に加入し上野戦争で戦死した。新選組は宇都宮城の戦い、会津戦争などに
参加するが、会津では斎藤一らが離隊。残る隊士たちは蝦夷地へ向かった榎本らに合流し、
二股口の戦い等で活躍する
新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた隊士たちを
助けようと土方ら数名が助けに向かうが、土方が銃弾に当たり戦死し、食料や水も尽きて
きたため、新選組は降伏した。
 油小路事件 慶応3年3月10日(1867年4月14日)、新選組を離脱し御陵衛士(高台寺党)を結成した
伊東甲子太郎が、勤王倒幕運動に勤しみ薩摩藩と通謀して新選組局長・近藤勇を
暗殺しようと企んでいることを、新選組が間諜として潜り込ませていた斎藤一から聞き
明らかとなった。新選組と御陵衛士の抗争事件。新選組最後の内部抗争にあたる。
御陵衛士の伊東甲子太郎、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助が殺害された。
     新撰組年表 
 文久3年
 (1863年)
2月8日 浪士組が江戸を出発   2月23日 京都に到着
3月12日 会津藩お預かりになり、壬生浪士組と名乗る
9月18日 芹沢鴨、平山五郎が内部抗争で粛清され、平間重助脱走(異説あり)
9月25日 隊名を新選組と改める
9月26日 御倉伊勢武、荒木田左馬之助、楠小十郎が長州藩の間者として粛清される
12月27日 野口健司切腹
 文久4年・
 元治元年
  (1863年)
 
6月5日 池田屋事件 奥沢栄助戦死、安藤早太郎、新田革左衛門ら負傷し、1ヶ月後死亡
7月19日 禁門の変 反乱を起こした長州藩士の鎮圧に出動
元治元年8月頃 近藤勇の態度に遺憾を感じた永倉新八、斎藤一、原田左之助、島田魁、
       尾関政一郎、葛山武八郎が会津藩主松平容保に非行五ヶ条を提出
元治元年10月27日 伊東甲子太郎ら新選組に入隊
 元治2年、
 慶応元年
 (1865年)
 
2月23日 山南敬助切腹
3月10日 西本願寺へ屯所を移す
9月1日 松原忠司死亡
 
 慶応2年
 (1866年)
2月15日 河合耆三郎切腹     4月1日 谷三十郎死亡

 慶応3年
 (1867年)
 
3月20日 伊東甲子太郎、藤堂平助、斎藤一ら13人が御陵衛士を結成して
    離隊(斎藤は後に新選組に復帰)
6月10日 幕臣取り立てが決まる
11月18日 油小路事件 御陵衛士との抗争。伊東甲子太郎、藤堂平助、毛内有之助、
    服部武雄ら刺殺
2月7日 天満屋事件 海援隊士・陸援隊士との戦闘。宮川信吉と舟津釜太郎戦死、
    梅戸勝之進重傷
12月18日 近藤勇が墨染で御陵衛士の残党に狙撃され重傷
 慶応3年
 明治元年
 (1868年)
  
1月3日 鳥羽・伏見の戦い 隊士2名戦死  
1月5日 淀千両松の戦い 井上源三郎ら隊士14名戦死
1月6日 橋本の戦い 隊士4名戦死    
3月6日 甲州勝沼の戦い 隊士2名戦死
3月12日 永倉新八、原田左之助らが靖兵隊を結成して離隊
4月2日 下総流山に陣を敷く       
4月3日 近藤勇、新政府軍に包囲され投降する
4月12日 土方歳三、旧幕府陸軍に加わる 
4月19日 宇都宮城の戦い
4月25日 近藤勇、板橋刑場で処刑される 
閏4月25日 白河口の戦い
5月17日 原田左之助死亡(異説あり)   
5月30日 沖田総司、肺結核により江戸で死亡
8月21日 母成峠の戦い        
8月24日 山口二郎(斎藤一)、池田七三郎ら13人会津に残留
10月26日 旧幕府軍、箱館・五稜郭へ入城する 
 明治2年
 (1869年)
   
4月13日 第一次二股口の戦い   
4月24日 第二次二股口の戦い 
5月5日 市村鉄之助函館脱出
5月11日 一本木関門(現・函館市若松町)付近で土方歳三戦死
5月14日 相馬主計新選組局長に就任、弁天台場の新選組、降伏する
5月18日 旧幕府軍降伏、戊辰戦争終結
  隊士一覧  
 芹沢 鴨静
 せりざわ かも
 新撰組局長 
? - 文久3年9月16日(1863年10月28日)
文久3年:幕末の水戸藩浪士、新選組(壬生浪士)の初代筆頭局長、乱暴狼藉は
表向きの理由で、水戸学を学び、天狗党の強烈な尊王攘夷思想の流れを汲む芹沢を危険視
したという説もある。八木家で再度宴会中に暗殺される。
 近藤 勇
 こんどう いさみ
 新撰組局長

   
天保5年10月9日(1834年11月9日)-慶応4年4月25日(1868年5月17日)
東京都調布市野水に百姓・宮川久次郎 三男として生まれる
天然理心流剣術道場・試衛場に入門する。嘉永2年近藤周斎の養子となり、近藤勇となる
文久3年(1863年)清河八郎の献策を容れ、14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織
「浪士組」への参加者を募った。浪士募集を受け斎藤一を除く近藤ら試衛館の8人は
これに参加する。鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸に戻る。
近藤・土方は富士山丸に乗艦している。下総国流山で近藤を捕縛され、中仙道板橋宿近くの
板橋刑場で斬首された。享年35
実際には近藤の虎徹は、当時名工として名を馳せていた源清麿の打った刀に偽銘を
施したものとする説もあり、現在ではこちらの説のほうが強い
 新見 錦 
 にいみ にしき

  新撰組局長
天保7年(1836年) - 文久3年(1863年))
幕末の水戸藩浪士、壬生浪士(後の新選組)幹部(副長という説もある)。
岡田助右衛門に剣を学び、神道無念流免許皆伝を授かる。
新見は芹沢と行動を共にする腹心といわれるが、壬生浪士幹部としての行動の
実態はよく分らない。新見は乱暴が甚だしく、法令を犯して芹沢、近藤の説得にも耳を
貸さなかったという。乱暴を働いたため梅津某の介錯で切腹させられたことになっておるが、
新見については不明が多い
  新撰組再編成後  
 局長
 近藤 勇

上記参照
 局長
 山南 敬助
 やまなみ
   けいすけ
 
天保4年(1833年)- 元治2年2月23日(1865年3月20日))  陸奥国仙台藩出身
江戸では小野派一刀流の免許皆伝となり、後に北辰一刀流の千葉周作門人となった。
近藤勇の天然理心流剣術道場・試衛館に他流試合を挑み、相対した近藤に敗れる。
この時、近藤の腕前や人柄に感服し近藤を慕うようになる。
文久3年(1863年)2月浪士組を組織すると、山南は近藤らとこれに参加して上洛する。
山南とは同門の北辰一刀流で、熱烈な尊王攘夷論者として学識も高かった伊東甲子太郎が
新選組に入隊。伊東のために山南よりも上席の参謀を新設して迎えるという破格の
待遇だったが、これで山南は幹部としての立場を失っていくことになった。
元治2年(1865年)2月、山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらませた。新選組の
隊規で脱走は死罪に他ならない。大津で沖田に追いつかれた山南はそこで捕縛され、
新選組屯所に連れ戻された。脱走原因には山南を追い詰めたのは屯所移転問題だったという。
勤王の志が強い山南はこれに強く反対したが、近藤や土方は全く取り合わず、
こののち山南は新選組との決別を意識するようになったという。
元治2年2月23日切腹。介錯は山南の希望により他ならない沖田がこれを務めた。享年33。
 参謀
 伊東
  甲子太郎
 いとう
   かしたろう
天保5年12月3日(1835年1月1日) - 慶応3年11月18日(1867年12月13日)
常陸志筑藩士(郷目付)鈴木専右衛門忠明の長男として生まれる。
水戸藩士・金子健四郎に剣術(神道無念流剣術)を学び、また、水戸学を学んで
勤王思想に傾倒する。
元治元年(1864年)10月、同門の藤堂平助の仲介で新選組に加盟。
伊東と新選組は攘夷という点で結ばれていたが、新選組は佐幕派で、
勤王(倒幕)を説こうとする方針をめぐり、密かに矛盾が生じていた。
近江屋事件から3日後の慶応3年11月18日(1867年12月13日)、伊東は近藤に呼ばれ妾宅にて
接待を受ける。酔わされた伊東は、帰途にあった油小路の本光寺門前にて新選組隊士の
大石鍬次郎ら数名により暗殺された(油小路事件)。享年33。
 副長
 土方 歳三
 
  
武蔵国多摩郡(日野市石田)に農家の土方隼人(義諄)と恵津の間に生まれる。
歳三は実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地の剣術道場で他流試合を
重ね、修行を積んだ。歳三はその道場に指導に来ていた近藤と出会い、
安政6年3月29日、天然理心流に正式入門している
文久元年(1861年)、近藤が天然理心流宗家4代目を継承。
文久3年2月、試衛館の仲間とともに、将軍・徳川家茂警護の為の浪士組に応募し、京都へ赴く
新見錦が切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺。権力を握った近藤が局長となった。
歳三は副長の地位に就き、近藤の右腕として京都の治安維持にあたった。
鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争が勃発し、敗北後、会津戦争で戦い、再度敗北
仙台に至り、榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。
榎本と共に奥羽越列藩同盟の軍議に参加した
箱館一本木関門敵の銃弾ないしは流れ弾に当たった。 享年35
愛刀は和泉守兼定(刃長2尺8寸)、大和守秀国、脇差は堀川国広(刃長1尺9寸5分)
 一番隊隊長
 沖田 総司
  おきたそうじ 
天保15年(1844年)? - 慶応4年5月30日(1868年7月19日
陸奥国白河藩藩士・沖田勝次郎の長男として、江戸の白河藩屋敷(港区西麻布)で生まれる。
9歳頃、江戸市谷にあった天然理心流の道場・試衛館(近藤周助)の内弟子となり
のちに新選組結成の中核となる近藤勇、土方歳三とは同門にあたる。
大阪に後送される船中において肺結核を発症した。隊士と共に海路江戸へ戻り、
甲陽鎮撫隊に参加、以後は幕府の医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われ、
近藤勇斬首から2ヶ月後の慶応4年(1868年)に死去。24歳
現在では沖田が所有した実際の刀で確認されているのは
「加州清光」「大和守安定」とされている。
 二番隊隊長
 永倉 新八
 
天保10年4月11日(1839年5月23日) - 大正4年(1915年)1月5日)
松前藩江戸定府取次役(150石)・長倉勘次の次男として生まれる。
脱藩し、永倉姓を称して江戸本所亀沢町の百合元昇三の道場で剣を学ぶ
近藤勇の道場・天然理心流「試衛館」の食客となる。近藤らと共に浪士組に参加。
脱退覚悟で近藤の非行五ヶ条を会津藩主・松平容保へ訴え出る等、近藤勇・土方歳三との
路線対立を見せる。後、幕府から見廻組格70俵3人扶持(京都見廻組隊士と
同格の地位)に取り立慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸に退却後、
新選組改め甲陽鎮撫隊として新政府軍と甲州勝沼にて戦うが敗れ、その後、靖兵隊
(靖共隊)を結成し、北関東にて抗戦するが、米沢藩滞留中に会津藩の降伏を知って
江戸へ帰還し、その後、松前藩士(150石)として帰参が認められる。
明治維新後
明治6年1873年、家督を相続して杉村治備(後に義衛)と改名する。
明治15年(1882年)から4年間、樺戸集治監(刑務所)の剣術師範を務め、
看守に剣術を指導する。小樽にて死去。享年77。 
 三番隊隊長 
 山口二郎
 (斎藤一)
 さいとう はじめ

 会津新選組局長


 
天保15年1月1日(1844年2月18日) - 大正4年(1915年)9月28日
父・祐助は播磨国明石藩の足軽であったが、江戸へ出て石高1,000石の
旗本・鈴木家の足軽となった。
文久3年(1863年)3月10日、芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組の前身である
壬生浪士組(精忠浪士組)を結成。同日、斎藤を含めた11人が入隊し、
京都守護職である
会津藩主・松平容保の預かりとなる。新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして
副長助勤に抜擢された。のちに組織再編成の際には三番隊組長となり、撃剣師範も務める。
将軍・徳川慶喜の大政奉還後、新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加する。
慶応4年1月に鳥羽・伏見の戦いに参加、3月に甲州勝沼に転戦。斎藤はいずれも
最前線で戦った。斎藤ら新選組は会津藩の指揮下に入り、閏4月5日には白河口の戦いに参加。
降伏後、捕虜となった会津藩士とともに、最初は旧会津藩領の塩川、
のち越後高田で謹慎生活を送る
明治維新後
西南戦争 5月、別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長として西南戦争に参加。
戦後、斎藤は政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与された。
麻布警察署詰外勤警部として勤務し、明治24年(1891年)4月、退職する。
大正4年(1915年)9月28日、胃潰瘍のため東京府東京市本郷区真砂町で死去。享年72 
 四番隊隊長
 松原 忠司
 まつばら
  ちゅうじ
  
天保5年(1835年)? - 慶応元年9月1日 播磨国小野藩の藩士の子として生まれる。
文久3年(1863年)5月までに、新選組の前身である壬生浪士組に入隊している。
元治元年(1864年)の池田屋事件では土方歳三の隊に属し、戦功を挙げ報奨金15両を賜る。
慶応元年(1865年)4月の組織再編で四番組組長・柔術師範となる。
同年9月1日死去。享年31。新選組の記録では病死とされているが、その死については諸説ある
 五番隊隊長
 武田
  観柳斎
 たけだ
  かんりゅうさい  
生まれ不詳ー慶応3年6月22日(1867年7月23日))出雲国母里藩士の子として生まれる。
後に脱藩。江戸へ行き、福島伝之助に学び、甲州流軍学(長沼流)を修める。
軍学者として近藤勇に重用され、元治元年(1864年)には副長助勤に抜擢される。
池田屋事件では古高俊太郎を捕縛するなどの功により褒賞金20両を賜り、
禁門の変や明保野亭事件、また永倉新八や斎藤一らが近藤の専横を非難した際には仲裁を
務めるなど、軍才を背景に存在感を示す。
慶応3年6月22日、京都郊外の鴨川銭取橋にて暗殺された。 33歳
 六番隊隊長
 井上 源三郎
文政12年3月1日(1829年4月4日) - 慶応4年1月5日(1868年1月29日)
八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の三男として生まれる。
弘化4年(1847年)頃、天然理心流の三代目宗家・近藤周助に入門。
文久2年(1862年)2月、浪士組に近藤・土方らと参加。
慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦い、淀千両松で官軍と激突(淀千両松の戦い)、
その最中、敵の銃弾を腹部に受けて戦死した。享年40。 
 七番隊隊長
 谷 三十郎
 
天保3年(1832年)? - 慶応2年4月1日(1866年5月15日))
備中松山藩士(旗奉行、120石・役料20石)・谷三治郎供行の嫡男として備中松山に生まれる。
安政3年(1856年)10月13日、不祥事案により谷家は断絶となる。断絶後、弟・万太郎と共に
故郷を出奔し、大坂南堀江町にて道場を開く。慶応元年4月に七番組組長・槍術師範を務める。
池田屋事件では土方隊の組に属し、事件後は褒賞として17両を賜る。
弟・周平は近藤勇の養子となっている。慶応2年(1866年)4月1日、京都東山の祇園社にて死去
八番隊隊長
藤堂 平助
とうどう
 へいすけ 
弘化元年(1844年) - 慶応3年11月18日(1867年12月13日))武蔵国江戸にて誕生。
伊勢津藩主藤堂高猷の落胤とも、伊勢久居藩家老藤堂八座の子との説もある。
北辰一刀流開祖・千葉周作の道場玄武館の門弟とされるが、伊東道場の寄り弟子
近藤勇の道場試衛館以来の生え抜きで、新選組結成当時からの同志とされている。
慶応3年(1867年)3月、伊東と共に御陵衛士(高台寺党)を結成すべく新選組を離脱。
慶応3年(1867年)11月18日、油小路で新選組に討たれる(油小路事件) 24歳
 九番隊隊長
 鈴木
 三樹三郎
   
 すずき
   みきさぶろう
天保8年7月15日(1837年8月15日) - 大正8年(1919年)7月11日)
常陸志筑藩士(郷目付)・鈴木専右衛門忠明の二男として志筑に生まれる。
実兄に伊東甲子太郎がいる。尊王攘夷運動に奔走すべく脱藩した三樹三郎は、江戸深川の
道場主で兄・甲子太郎の元に身を寄せる。
1864年10月、旧知である藤堂平助の新選組隊士募集の求めに応じ、甲子太郎や篠原泰之進らと
共に京都に赴く。のち、正式に新選組に加盟する。このころ、三木三郎と称す。目付を務めた後、
1865年に九番隊組長となる。
1868年3月、兄らと共に新選組から分離し、御陵衛士(高台寺党)に属す。
兄・甲子太郎が新選組によって暗殺。兄の遺体収容時に迎撃する新選組との
乱闘を切り抜けて、加納鷲雄・富山弥兵衛とともに薩摩藩邸に保護された(油小路事件)。
鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩の中村半次郎の指揮下(薩摩藩一番隊)に入って
伏見奉行所の新選組と戦う。後に東征軍の先鋒隊に合流するが相楽総三らの偽官軍事件に
連座した疑惑にによって入牢待遇が改善され薩摩藩預かりとなる。
明治維新後
忠良と改名。司法省や伊那県、千葉県、山形県などにおいて、主に司法・警察関係に奉職し、
1879年には鶴岡警察署長として行幸の指揮を執っている。
 十番隊隊長
 原田
  左之助
  はらだ さのすけ  
天保11年(1840年) - 慶応4年5月17日(1868年7月6日))
伊予松山藩に生まれる。はじめ藩の中間だったが、のちに出奔。
谷万太郎から種田流槍術(または宝蔵院流)の免許皆伝を受け、槍の名手として知られた。
江戸試衛館の近藤勇につき従い浪士組に参加して上洛。
鳥羽・伏見の戦いや甲陽鎮撫隊まで新選組として戦うが、その後、近藤らと袂を
分かち永倉新八と共に靖兵隊を結成する。ところが、江戸を離れてから用を思い出したと
靖兵隊を離れて江戸に戻って彰義隊に加入した。しかし、上野戦争の際に負傷し、
その傷がもとで慶応4年5月17日にて本所の神保山城守邸で死亡したとされる。享年29
 山崎 烝助
 やまざき すすむ

 諸士調役兼監察
天保4年(1833年)? - 慶応4年1月13日(1868年2月6日))は、新選組隊士(諸士調役兼監察)。
摂津国大坂出身(山城国とも)で、生家は医家または薬種問屋とされる。
文久3年(1863年)末頃に新選組に入隊、元治元年(1864年)頃から隊士の動向調査や
情報探索の任についている。元治元年6月の池田屋事件の時は諸士調役兼監察として
島田魁らと長州藩士や尊攘過激派の探索にあたり、尊攘過激派の一人、古高俊太郎宅・枡屋を
突き止めている。
その後、禁門の変や第一次長州征討、第二次長州征討などの重要な戦いでも戦況の推移や
状況報告に能力を発揮し、近藤勇や会津藩に正確な情報をもたらした。
慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いの最中に重傷を負う。1月13日の江戸へ撤退の際、
富士山丸の船上で死去。紀州沖で水葬されたとされている。
 島田 魁
 しまだ かい

 諸士調役兼監察
文政11年1月15日(1828年2月29日) - 明治33年(1900年)3月20日)
新選組隊士(二番組伍長)、守衛新選組隊長。
美濃国方県郡雄総村(現岐阜県岐阜市長良雄総)庄屋近藤伊右衛門の次男として生まれる。
文久3年(1863年)5月には新選組に入隊していたと思われる。
諸士調役兼監察の任に就く。180cm近くもある巨漢で怪力の持ち主であったという。
慶応4年(1868年)1月3日鳥羽・伏見の戦いでは、永倉新八らと決死隊を組織し
敵陣に斬り込んだ。その後、箱館まで戊辰戦争を戦い抜いた。
明治2年(1869年)5月に降伏。11月まで謹慎生活を送る。
明治19年(1886年)、西本願寺の夜間警備員となる。 
 川島 勝司
 かわしま かつじ

 諸士調役兼監察 
生年不詳 - 慶応2年(1866年))は、新選組隊士。諸士取調役兼監察方、伍長。
京都の川島村出身。新選組結成直後に副長助勤として入隊。棒術の達人で、池田屋事件で
土方歳三の隊に加わり17両をもらっている。 禁門の変の際には探索に出かけ、
報告書を作成している。
その後、伍長に就任したが、人間が怯懦という理由で役職を外され、除隊された。
生活に困った川島は、大坂で新選組の名を偽り金策し、それがもとで富山弥兵衛らに
丸坊主にされた後、斬殺されたと伝わる。死体は二条河原に晒されたという。

 
 林 信太郎
 はやし しんたろう

 諸士調役兼監察
  
? - 明治元年10月27日(1868年12月10日))は、新選組隊士(伍長)。
武蔵国出身。文久3年(1863年)5月頃までに新選組の前身である壬生浪士組に入隊。
長州の間者の荒木田左馬之助を粛清している。池田屋事件では土方歳三の隊に配属され
四国屋方面の探索をし、池田屋へ向かい近藤勇を援護した。その功により
褒賞金17両を賜っている。
鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いの後に永倉新八、原田左之助の靖兵隊に加わり北関東、
会津などで転戦するが、水戸街道で久留米藩兵との戦いで討死した。
 浅野 薫
 あさの かおる

 諸士調役兼監察 
生年不詳 - 慶応3年(1867年)頃?)は、新選組隊士(諸士調役兼監察、副長助勤)。藤太郎とも。
備前国、あるいは安芸国出身。文久3年(1863年)末から元治元年初頭頃の入隊とされるが
詳細は不明。阿部十郎の談話によると、医者が本業であり、学才文才があったとされる。
2年後、慶応2年(1866年)9月に発生した三条制札事件の際に、浅野薫という名が再び登場する。
『新選組始末記』によると、浅野は失態を犯し、その後放逐され、最後は市中で金策を行ったため
沖田総司に斬られたとされている。浅野の死はいくつかの説がある 
 篠原 泰之進
 しのはら たいのしん
 諸士調役兼監察
文政11年11月16日(1828年12月22日) - 明治44年(1911年)6月13日)は、江戸時代後期の志士。
新選組隊士(諸士調役兼監察方及び柔術師範)、御陵衛士
筑後国生葉郡高見村の豪農および石工業者である篠原元助の長男として生まれる。
元治元年(1864年)10月、伊東や三木三郎など計7名で新選組加盟を前提に上京
慶応3年(1867年)3月、御陵衛士結成に伴って新選組を離脱。この頃、秦河内と称する。
油小路事件後は薩摩藩邸に匿われ、12月18日、篠原ら御陵衛士の生き残りは伏見街道にて
近藤を襲撃する。明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは薩摩軍の一員として戦う。
戊辰戦争では赤報隊に加わって投獄された後、釈放され、軍曹を拝命して会津戦争や
北越戦争で戦功を上げた。
維新後は秦林親と改名。戦功により永世士族の身分、恩賞金250両、終身8人扶持を賜る。
明治2年に弾正台少巡察、明治5年(1872年)に大蔵省造幣使の監察役。のちに実業家に
転身したものの、成功はしなかった。晩年はキリスト教に入信する。
明治44年(1911年)に東京市青山にて84歳で死去。
 新井 忠雄
 あらいただお

 諸士調役兼監察
 
天保6年2月7日(1835年3月5日) - 明治24年(1891年)2月15日)は、幕末の新選組隊士。
諸士調役兼監察、撃剣師範
陸奥国磐城平藩出身。母方の新井家を継ぐ。18歳より江戸で生活し、
元治元年、31歳で新選組に入隊大酒飲みだったといわれ、慶応2年9月の三条制札事件の
際にも、大量の酒を飲んだ後で、泥酔状態のまま現場へ向かって戦闘に及んだという。
慶応3年(1867年)、伊東甲子太郎らと共に新選組を離脱して御陵衛士を結成。油小路事件で
御陵衛士が崩壊すると、薩摩藩邸に逃げ込んで、戊辰戦争では新政府軍に所属した。
維新後、司法省官吏として明治政府に出仕した。明治24年(1891年)死去。享年57。
 服部 武雄
 はっとりたけお

  御陵衛士 
天保3年(1832年) - 慶応3年11月18日(1867年12月13日))は、新選組隊士・御陵衛士。
播磨赤穂藩の服部覚平として生まれる
新選組に加盟し、元治元年10月の編成では尾形俊太郎の五番組に属す。慶応元年の春、
諸士調役兼監察・撃剣師範。慶応元年11月、近藤勇の長州出張に随行する。
慶応2年9月、三条制札事件では、目付役として活躍する。慶応3年3月、伊東甲子太郎らと
離脱して御陵衛士を結成する。同年11月18日、油小路事件で落命。享年36
大柄で剛力、二刀流の達人でもあり、組中1、2を争う剣術、柔術、槍術の
相当の使い手として名を馳せる。
 吉村 貫一郎
 よしむら
  かんいちろう

  諸士取扱役兼
  監察方
  撃剣師範
 
天保10年(1839年)? - 慶応4年1月6日(1868年1月30日)?)は、幕末の盛岡藩士。
盛岡藩目付の嘉村弓司(後に瀬兵衛、弥治兵衛)の子として生まれる。
新当流の高弟の一人として記載される。 文久2年12月に同藩重臣遠山礼蔵の軍役人数として
江戸に出、元治元年2月には北辰一刀流の千葉道三郎に入塾したが、
慶応元年1月、27歳の時に盛岡へ下向を命じられると、同月16日には出奔した
その後新選組の隊士募集に応じた。慶応4年(1868年)1月3日奉行所に立て籠もり、
続く鳥羽・伏見の戦いにて戦死したものと明確な忌日や死亡状況は不明である。
別に西村兼文は、戦争後吉村は大坂へと逃下り、当時綱島(網島?)に南部藩の仮宅に行き、
そこの留守居某と旧知であったので、割腹せよと諭されたため、切腹したと記している。
吉村 貫一郎の生き様が『壬生義士伝』映画・TVドラマで有名である
 尾形 俊太郎
 おがた
  しゅんたちろう

  諸士取調
  兼監察
 文学師範
 
天保10年(1839年) - 大正2年(1913年))肥後国熊本藩生まれ。
新撰組の中では永倉新八と同年齢。
新選組入隊は文久3年5月25日以降とされる。慶応4年(1868年)1月に勃発した
鳥羽・伏見の戦いでは目付を務め、大阪に敗走後、江戸に帰還。その後も在隊し、
甲州勝沼の戦いを通して会津にへ向かい、同年8月21日の母成峠の戦いで敗走。
22日に斎藤一こと山口次郎ら38名と共に会津若松城下
外堀外の斉藤屋に宿泊した記録を最後に消息を絶った。
2013年、霊山歴史館に尾形の子孫から俊太郎の手による漢詩書が寄贈され、この書と共に
発見された文書の解析によって、緒方の生没年や来歴、その後が明らかとなった。
 大石 鍬次郎
 おおいし
   いわじろう   

  諸士取調
  兼監察
天保9年(1838年) - 明治3年10月10日御三卿・一橋家の近習番衆・大石捨次郎の
長男として生まれた。
元治元年近藤勇が9月から10月にかけて江戸に戻り隊士募集を行った際に
新撰組に入隊した。
暗殺を主とした任務に付いたことから「人斬り鍬次郎」と恐れられた。小野派一刀流
慶応3年(1867年)11月の油小路事件では、大石が伊東甲子太郎を暗殺。
明治3年10月10日(1870年11月3日)、伊東殺害の罪で斬首された。享年32。
 安富 才助
 やすとみさいすけ

  会計方
  後馬術師範
天保10年(1839年) - 明治6年(1873年)5月28日)
備中足守藩士で勘定方に勤めていた安富正之進(1852年没)の子として生まれる。
元治元年(1864年)10月頃に新選組に入隊。会計方後馬術師範となる。
土方歳三の信頼は高かった、甲州勝沼の戦い以後は土方歳三と別行動を取ったが
会津で合流。その後蝦夷地へ渡り、新選組と離れ、陸軍奉行並に就任した土方の
直属の部下となった。
明治3年(1870年)に放免され、元御陵衛士の阿部十郎に殺されたと伝わっていたが不明
 岸島芳太郎
 きしじま よ
  したろうすけ

  勘定方
丹後国宮津出身。元々浪人であったが、1864年12月までの京坂における隊士募集に
応じて加盟する。
伍長、諸士調査役兼監察、勘定役並小荷駄方、勘定方などを務めた。
伊東甲子太郎暗殺にも関与したとされる。甲州勝沼の戦いで負傷して再度江戸へ
消息が不明となり、その後、隊を脱したと思料される。
離隊後は、彰義隊に関わったとされる。一説によれば、維新後に京都の
原田左之助未亡人を訪問し、原田の最期と戒名を伝えたとされる。
 安藤勇次郎
 あんどう
  ゆうじろう   

  諸士調役
?- 慶応4年(1868年)1月)は、幕末の武士。新撰組平士、伍長、諸士調役。
別名に雅次郎、雄次郎、
勇太郎、勇二郎、勇三郎、主計
上総(現在の千葉県)の出身。元治元年(1864年)6月の池田屋事件から
11月までに新撰組に入隊した。京坂募集組と推測される。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、新撰組は江戸に帰還するが、
安藤は帰還した直後に江戸で病死した。
 茨木 司
      
生年不詳 - 慶応3年6月13日(1867年7月14日))会津藩出身。慶応元年の入隊とされる。
尊皇攘夷思想が強く、慶応3年(1867年)3月に結成された伊東甲子太郎らの御陵衛士に
参加を希望したが、その才を惜しんだ近藤勇によって残留した。一方で、伊東より新選組の
間者(スパイ)を頼まれていたといわれる。
同年6月に新選組の幕臣取り立てに反発し、会津藩京都守護職邸に抗議を行ったが
受け入れられず、佐野七五三之助、中村五郎、富川十郎らと共に、同所で自刃した。
 村上 清
      
? - 慶応4年1月7日(1868年1月31日))肥後熊本藩の出身で、元治元年(1865年)4月頃に
京都で新撰組に入隊した
慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍に参加し、重傷を負う。
ために1月7日に大坂へ退き、まもなく同城内で死亡した
 谷 周平
嘉永元年5月20日(1848年6月20日)- 明治34年(1901年)12月2日)
新選組隊士。近藤勇の養子。別名を近藤周平、播田昌武、谷千三郎など。諱は正武、昌武
同じく新選組隊士である谷三十郎と谷万太郎は実兄。
備中松山藩士(旗奉行、120石・役料20石)・谷三治郎供行の三男として備中松山に生まれる。
文久3(1863年)年末から翌年春頃に、兄と共に新選組に加盟した後、近藤勇の養子となって
近藤周平を称する。池田屋事件には養父勇に従って参加
鳥羽・伏見の戦いの敗走の後、新選組は大坂城に撤退して海路江戸へ戻るが、周平は江戸にて
脱走したと伝わる。維新後は故郷へ戻り、縁者によって再興された谷家を頼っている。
明治5年(1872年)4月頃には大阪府警察巡査となり、谷千三郎(昌武)と称するが、
翌年には辞職している。1901年、現在の神戸市中央区元町通にて病死。享年54。
 河合耆三郎
  かわい
  きさぶろう

   勘定方
天保9年(1838年) - 慶応2年2月12日(1866年3月28日))は、新選組隊士。勘定方
播磨国の高砂出身で、実家は富裕な蔵元(米問屋)であった。
勘定方として主に隊費の経理面で活躍し、池田屋事件にも参戦
慶応2年(1866年)2月、切腹させられた。切腹の理由は以下の諸説あるが、粛清されるに
至るまでの背景は判明していない。
 尾関弥四郎
 おぜきやしろう
  勘定方
 
天保2年(1831年) - 慶応元年11月7日(1865年12月24日))
大和国高取藩出身。弟に尾関雅次郎がいる。新選組には初期に加入し、八月十八日の政変や
池田屋事件にも参加した。
元々病弱(心臓病を患っていたといわれる)であったとされ、慶応元年(1865年)4月には、
京坂における隊士募集に回っている。その後除隊され、同年11月17日に死去した。
「新選組行軍録」には名を連ねるが、板橋の墓碑に名は載っていない。
 酒井兵庫
 さかいひょうご

  会計方
  
生年不詳 - 慶応元年(1865年)7月頃)は、新選組隊士。会計方。
摂津国住吉の出身。新選組に入隊後は会計方を務め、池田屋事件に参加
慶応元年(1865年)7月頃に脱走。脱走の理由の諸説あり、酒井は会計方の仕事にある
死体埋葬をしているうちに、恐ろしくなり脱走した説が有力とされている。
のちに沖田総司らの手で斬殺されたともいわれる。板橋の墓碑に名が刻まれている。
 青柳牧太夫
  まさだゆう 
   会計方
   
天保9年(1838年) - 慶応4年1月6日(1868年1月30日))は、新選組隊士。勘定方
武蔵国の江戸出身で、新選組には慶應元年4月、江戸での隊士�募集の際に加入。
後番組に属して上洛する。『山崎烝 取調日記』によると148人中序列24位で、
小荷駄方とされる。
慶應3年6月の幕臣取り立てでは、平士として見廻組並御雇の格を受け、勘定方を務める。
その後伍長、小荷駄方を歴任し、明治元年1月(1968年1月)の鳥羽・伏見の戦いで戦死する。
 奥沢 栄助
 おくざわえいすけ
  会計方  
 
生年不詳 - 元治元年6月5日(1864年7月8日))は、新選組隊士。伍長
文久3年9月13日、芹沢鴨ら15名と有栖川宮家に参上した際、同行している。 池田屋事件では
近藤勇の隊に所属して池田屋に突入するが、重傷を負い、屯所にて死亡した。
墓所は壬生寺にある。死後、会津藩は功労金20両を奥沢に与えている。
 葛山武八郎
 かづらやま
  たけはちろう 
生年不詳 - 元治元年9月6日(1864年10月6日))は、新選組隊士(伍長)。
会津藩出身。新選組加入前は虚無僧をしていたといわれる。池田屋事件の際には果敢に働き、
不逞浪士取締り活動の報奨金17両を江戸幕府(京都守護職松平容保)より拝領した。
局長近藤勇の家臣ではないとして、近藤の非行・増長を5箇条に纏めた建白書を
隊長の永倉新八、原田左之助、斎藤一、伍長の島田魁、諸士調役の尾関雅次郎らとともに
綴り会津藩に提出。
その後、容保の取り計らいにより近藤との和解となったが、葛山は切腹をした。これは、葛山が
最後まで頑強に抗議したための憤死とも、反発への見せしめのために血の気の多く首脳陣に
怖じない葛山に責任を負わせて手打ちにしたともいわれている。 
 阿部 十郎
天保8年8月22日(1837年9月21日) - 明治40年(1907年)1月6日)は、新選組隊士
天保8年(1837年)、出羽国由利郡羽広村の百姓・阿部多郎兵衛とヨネの次男として生まれる。
出羽国亀田藩の高野林太郎の養子となり、武士となる。その後脱藩し、阿部慎蔵の名前で
壬生浪士組(後の新選組)に入隊したのは、文久3年(1863年)7月以前と言われている。
新選組では伍長・砲術師範などを勤めたが、慶応3年(1867年)3月に分離して伊東甲子太郎ら
12名と共に御陵衛士を結成する。油小路事件時は外出中で難を逃れ、後に事件を
知らされたため薩摩藩邸に逃げ込んだ。復讐の機会を窺っていた御陵衛士残党と共に、
伏見墨染で近藤勇を襲撃して負傷させる。戊辰戦争では薩摩藩の中村半次郎に属し、
鳥羽・伏見の戦いなどに参加。後に赤報隊に加わる。
戦後は弾正台や開拓使、北海道庁に出仕した。退官後は札幌で果樹園(北海道果樹協会)を
経営し、リンゴ栽培などを営んだ。明治40年(1907年)、東京にて死去。享年71。
 伊藤鉄五郎
天保11年(1840年) - 慶応4年5月1日(1868年6月20日)?)は、
山城国京都出身の新選組隊士。伍長。後、差図役
元治元年(1864年)に新選組に入隊。戊辰戦争時には、鳥羽・伏見の戦い、
甲州勝沼の戦いに参戦し、白河口の戦いにおいて戦死したとされる。享年29。
 沼尻 小文吾
 ぬまじり
   こぶんご 
 
天保6年(1835年)? - 明治35年(1902年))は、新選組隊士(伍長)。
武蔵国の出身とされるが、島田魁の『英名録』には上野高崎藩の出身とある。
奥山念流剣術の遣い手。
元治元年(1864年)10月頃に新選組に入隊し、同年12月の編成では、尾形俊太郎の
五番組に属している。
慶応2年(1866年)2月に、公金不始末で切腹となった勘定方の河合耆三郎の介錯を務めるが、
1回目は肩に当たり、2回目は斬り損ねて頭に当たり、3回目で漸く首を斬り落としたという。
この時、「人間、あれ程悲しい声が出るとは思わなかった」と述懐したといわれている。
その後、河合の家族に恨みを持たれ、縁者らしき者に襲われ、首を負傷する。
一命は取り留めたが、その傷と治療が原因で首が横に曲がったままになり、「横向き小文吾」と
あだ名された。
後に伍長を務め、慶応4年(1868年)1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いに参戦。
負傷し大阪に撤退した後、江戸に帰還。まもなく脱走した。
伝承では、明治35年(1902年)に老衰死したという。 
 近藤 芳助
天保14年(1843年)5月 - 大正11年(1922年)7月5日)は、新選組隊士。階級は伍長
近江国国友村(現・滋賀県長浜市)出身元治元年10月、隊士募集に応じて22歳で
新選組に入隊。
鳥羽・伏見の戦いで負傷したが、甲州勝沼の戦いに従軍し会津戦争に復帰。母成峠の戦いで
新選組本隊とはぐれ、靖兵隊(靖共隊)を組織していた永倉新八と再会して、
共に米沢に向かった。
榎本武揚・土方歳三らの蝦夷地渡航を伝え聞いて、同じく蝦夷地へ向かおうとしていたところ、
米沢城下で新政府軍に捕まり江戸へ送られる。新政府の訊問では、新選組隊士であることは
明かさずに、単に幕臣であるとした。静岡藩預かりとなった後、京都へ送られて取り調べの末、
明治3年(1870年)に釈放される。
その後、横浜市住吉町、南大田町で代言士(後の弁護士)を開業。
明治20年(1887年)、県令議員に就任し、以後、市議会議員、県議会議員を務める。
議員仲間の高橋正意に送った手紙が貴重な新選組関係史料として残る。
永倉新八や斎藤一など、生き残りの新選組隊士らとも交流が続いていた。
大正11年(1922年)、死去。享年80。 
 久米部 正親
天保12年4月17日(1841年6月6日)- 明治43年(1910年)9月25日)は、新選組隊士
摂津国大阪出身。元治元年(1864年)に新選組へ入隊。伍長、軍目付を務めた。
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発し、鳥羽・伏見の戦いで負傷するが、甲州勝沼の
戦いにも参戦。会津戦争では軍目付を勤めたが、如来堂で新政府軍の猛襲を受け、
山口二郎(斎藤一)ら旧新選組は離散。久米部は敗走を続けて、同年10月、銚子で降伏した。
釈放後、明治政府に陸軍士官として出仕する。最終階級は陸軍中尉。
明治43年、仙台で病死した。享年70。
 加納 鷲雄
天保10年11月9日(1839年12月14日) - 明治35年(1902年)10月27日)は、新選組隊士、御陵衛士
伊豆国賀茂郡加納村に農民・高野伴平の長男として生まれた。若くして剣術修行のため
江戸へ出、深川佐賀町にあった北辰一刀流千葉道場に入門。のち、伊東大蔵
(伊東甲子太郎)に師事した。
一方で、窪田鎮勝の神奈川奉行所勤務に、篠原泰之進と共に随行し、
横浜外国人居留地の警備の任についた。
元治元年(1864年)10月、伊東らと新選組の隊士募集に応じて上洛。のち加盟。翌年春の
組織再編で伍長となったが、慶応3年(1867年)3月、御陵衛士(高台寺党)の結成に参加して
新選組を離脱した。同年11月の油小路事件では難を逃れて脱出し、薩摩藩邸に保護される。
同年12月18日、篠原ら御陵衛士の生き残りとともに油小路事件の報復として、
伏見街道で近藤勇を襲撃した。
戊辰戦争では、新政府軍に参加する。同年4月4日、下総流山にて、正体を偽って
官軍に投降した、近藤を判別し、結果、近藤は捕縛された。
維新後は開拓使、農商務省などに出仕し、
明治35年10月に東京麻布で死去。享年64。
 中西 昇
上州出身とされているが、島田魁『英名録』では武州川越出身とされている。
北辰一刀流の伊東精一、伊東甲子太郎の弟子で、師範代を務める腕前であった。
元治元年10月、近藤勇や藤堂平助の勧誘され上洛。伊藤らと共に新選組に加盟した。
その際の第二次組織編成では、斎藤一の四番組に属し、伍長となっている。
慶応3年3月の御陵衛士の拝命により、新選組から分離した。

 富山弥兵衛
  とみやまやへえ
天保14年(1843年) - 明治元年閏4月1日(1868年5月22日))は、新選組隊士、御陵衛士
薩摩藩士の子弟として生まれる。1864年、新選組に加盟して七番大砲組に属し、
翌1865年には伍長をつとめた。のち、伊東甲子太郎らと共に御陵衛士結成に参加する。
油小路事件では現場を脱出し、薩摩藩に匿われた。のち、伏見街道で阿部十郎ら
御陵衛士残党と共に近藤勇を襲撃した。
戊辰戦争では薩摩藩に属した。越後出雲崎にて会津藩の動向探索に従事したが、
水戸諸生党に捕らえられ、一時は逃走したものの、失敗して殺害された。享年26
池田
 小三郎衛

いけだこさぶろう
天保13年(1842年)- 慶応4年3月6日(1868年3月29日))は、新選組隊士。撃剣師範、伍長
江戸の出身といわれる。一刀流剣術の遣い手。
元治元年(1864年)10月の江戸における隊士募集に
応じて入隊。同年12月の行軍録では、尾形俊太郎の五番組に所属している。
翌慶応元年(1865年)夏の編成で撃剣師範となった。
慶応4年(1868年)に勃発した戊辰戦争に身を投じ、戦死した。享年26。
一方で池田の最期には諸説ある。慶応4年1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いに参戦。
5日に淀で戦死したと伝えられるものの、御香宮神社の東軍戦死者名簿には「正月(一月)三日、
伏見に於て戦死」とある。しかし、横倉甚五郎によれば、江戸に帰還後の同年3月6日の
甲州勝沼の戦いに参戦し、甲州板戸で死亡したとしている。
 橋本 皆助
 はしもと
  かいすけ
天保6年(1835年) - 明治4年4月16日(1871年6月3日))は、新選組隊士(伍長)、御陵衛士、
陸援隊隊士、大和郡山藩出身。脱藩して水戸天狗党の筑波山挙兵に応じ、
慶応2年(1866年)に新選組に入隊。仮隊士となる。三条制札事件の功労によって正式隊士となり、
伍長に昇格するが、慶応3年(1867年)には伊東甲子太郎らと同意して新選組を離脱、
御陵衛士を結成。しかし、その5ヶ月後に御陵衛士も脱退し、陸援隊に入隊。
維新後、大和郡山藩への帰藩を許されたが、帰郷後ほどなくして病死。享年37。
 尾関雅次郎
 おぜきまさじろう
文久3年(1863年)頃に新選組の前身である壬生浪士組に入隊。旗役として
行軍の先頭に任された。
八月十八日の政変に参加。池田屋事件には参加しなかった。近藤勇に反発した永倉新八、
原田左之助、斎藤一、島田魁、葛山武八郎とともに建白書を提出している。鳥羽・伏見の戦いで
敗れ、江戸へ帰還し、土方歳三、島田魁、相馬主計らと箱館まで戦い降伏。
その後薬王院に収容された。
明治25年(1892年)2月28日に故郷の奈良県高取町で死去。享年49
 志村 武蔵
 しむらたけぞう
天保4年(1833年) - 没年不詳)は、新選組隊士(伍長、大砲差図役頭取)。
相模国出身。慶応元年(1865年)頃に新選組に入隊したとされる。
戊辰戦争時は、鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに参加。山口二郎(斎藤一)らと共に
会津戦争に参加し、如来堂の戦いで離散した。東京で病死したといわれる。
           
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