禁門の変 元治元年7月19日に、京都で起きた武力衝突事件。蛤御門の変元治の変、
元治甲子の変とも呼ばれる。長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を
目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。
 交戦勢力           江戸幕府             長 州 
        会津藩・薩摩藩・大垣藩・桑名藩・新撰組           その他諸藩浪士
 指導者・指揮官 一橋慶喜 ・松平容保・西郷隆盛・小原鉄心・
近藤勇
福原元僴 ・久坂玄瑞・来島又兵衛 ・国司親相
益田親施
 戦力          約3,200名            不明
 損害          戦死者:約60人         戦死者:約400人
 戦闘経過 元治元年7月19日、御所の西辺である京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵と
会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発した。
一時福原隊と国司信濃・来島隊は筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に
侵入するも、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退した。
狙撃を受けた来島又兵衛は自決した。
真木・久坂隊は開戦に遅れ、到着時点で来島の戦死および戦線の壊滅の報を知ったが、
それでも御所南方の堺町御門を攻めた。しかし守る越前藩兵を破れず、久坂玄瑞、
寺島忠三郎らは朝廷への嘆願を要請するため侵入した鷹司邸で自害した。
入江九一は鷹司邸脱出時に越前藩士に発見され、槍で顔面を突かれて死亡。
鷹司邸で戦死した入江ら久坂隊の戦死者の首級は福井藩士が藩主・松平春嶽に
許可を得、同様の戦死者8名と共に福井藩の京の菩提寺である
上善寺に手厚く葬られた。
 第一次
 長州征討
慶応元年7月23日 - 12月27日、幕府は毛利敬親と定広の親子(以下、藩主親子と記す)に
禁門の変を起こした、責任を問い伏罪をさせるため、尾張越前および西国諸藩より
征長軍を編成した。
  交戦勢力           江戸幕府             長 州 
  征長総督:尾張藩前々藩主徳川慶勝、徳川茂承
副総督:越前藩主松平茂昭   西郷隆盛

長州藩主: 毛利敬親、毛利元徳
      吉川経幹
 戦力            35藩 15万名            不明
 損害         直接の戦闘行為・被害なし        直接の戦闘行為・被害なし
 経過  10月22日、大坂城にて征長軍は軍議を開き、11月11日までに各自は攻め口に着陣し、
1週間後の18日に攻撃を開始すると決定した。広島の国泰寺には総督府、豊前の小倉城には
副総督府を置くことになった。この時、征長軍に参加して萩口の先鋒を任されていた薩摩藩は
独自の動きを見せた。岩国藩の吉川経幹(監物)と薩摩藩は征長における交渉に入った。
24日、大坂において西郷は総督慶勝へ長州藩降伏のプロセスについて腹案を述べると、
慶勝はその場で西郷へ脇差一刀を与えて信認の証とし、西郷は征長軍全権を
委任された参謀格となった。
吉川経幹は総督府へ禁門の変で上京した国司親相、益田親施、福原元僴の
三家老切腹、四参謀斬首五卿の追放の降伏条件で開戦の開始を
猶予するように請願していた。
西郷との会談後、吉川は長州藩へむけて家老切腹、参謀斬首を催促をした。
11月11日、徳山藩において国司親相と益田親施が、11月12日に岩国藩において
福原元僴が切腹。11月12日、四参謀も野山獄で斬首された。
12月5日、長州藩より総督府へ藩主親子からの謝罪文書が提出された。
 第二次
 長州征討
武備恭順に藩論を統一した長州藩の重役は嘆願書を作り吉川経幹、広島藩、
徳川慶勝を経て幕府へ上申した。慶応2年6月23日、広島藩へ毛利元蕃、吉川経幹を
大坂に招致する命令が出されたが、長州側は病気のため猶予を願うと回答した。
8月18日、重ねての命令が出され、病気で無理ならば毛利元周、毛利元純、並びに
長州藩主の家来が9月27日までに上坂せよと長州藩に伝えられたが、8日、長州側は再び
病気を理由として拒否をした。
長州処分が不振を極める中で幕兵の士気は落ち幕府の財政は悪化した。
 戦況の様子   1866年(慶応2年)6月7日に幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まり、13日には芸州口・
小瀬川口、16日には石州口、17日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始される。
開戦は上ノ関へ6月7日、幕府の軍艦が砲撃したことにより始まった。
・芸州口では、長州藩および岩国藩と、幕府歩兵隊や紀州藩兵などとの戦闘が行われる。
 彦根藩と高田藩が小瀬川であっけなく壊滅したが、幕府歩兵隊と紀州藩兵が両藩に
 代わって戦闘に入ると、幕府・紀州藩側が押し気味ながらも膠着状況に陥る
 また芸州藩は幕府の出兵命令を拒んだ。
・石州口では、大村が指揮し(指揮役は清末藩主・毛利元純)、中立的立場を取った
 津和野藩を通過して 徳川慶喜の実弟・松平武聰が藩主であった浜田藩へ侵攻し、
 18日に浜田城を陥落させる。
・小倉口では、総督・小笠原長行が指揮する九州諸藩と高杉晋作、山縣有朋ら率いる
 長州藩との戦闘
 (小倉戦争)が関門海峡をはさんで数度行われたが、小笠原の指揮はよろしきを得ず、
 6月17日に長州勢の田野浦上陸を、7月2日には大里上陸を許して戦闘の
 主導権を奪われ、 小倉藩が単独抗戦を強いられる状態だった。
 また、佐賀藩は出兵を拒んだ。
 7月下旬の赤坂・鳥越の戦い(現在の北九州市立桜丘小学校付近)では肥後藩細川家
 (元・小倉城主) の軍が参戦し、長州勢を圧倒する戦いを見せた。小笠原総督の
 消極的姿勢は改まらなかったことから、 肥後藩細川家を含む諸藩は一斉に撤兵し、
 小笠原自身も将軍家茂の薨去を理由に戦線を離脱した。
 孤立した小倉藩は8月1日小倉城に火を放って香春に退却した。
 その後、小倉藩は家老・島村志津摩らの指導により軍を再編して粘り強く長州藩への
 抵抗を続け、 戦闘は長期化してゆくこととなるが、これで事実上幕府軍の
 全面敗北に終わる。
 長州の勝利は 5月1日、下関にいた坂本龍馬は時田少輔を通じて桂小五郎に会見を申し入れた。
土方久元は10日前後に薩摩の西郷吉之助が上京するが途中で下関に寄ると伝え桂との
会談を斡旋した。7月21日、井上聞多、伊藤俊輔が長崎へ入った。長州藩は抗戦武装のため
小銃1万丁を求め青木郡平を長崎に派遣していたが、坂本は薩摩藩の名義で長州藩が
イギリスより購入できるように薩摩藩へ運動。薩摩が同意したため桂は藩政庁の承諾が
ないまま井上、伊藤を長崎へ派遣した。
4月14日、大久保一蔵は板倉勝静へ薩摩藩は出兵を拒否するとした建白書を提出した。
薩摩藩が参戦しなかった事と、大量の「ミネーゲベール短筒」を入手できた事である。
慶応2年の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。
しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫した。
その第二次長州征伐最中の7月20日、将軍・家茂が大坂城で薨去する。
慶喜は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を
押し切る形で休戦協定の締結に成功する。
 将軍空位期の
   中央政局
7月20日、大坂城において徳川家茂は客死した。この日より徳川慶喜が将軍職就任する
12月5日まで将軍は空位となった。
慶応2年の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。
しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫した。
15代将軍 徳川慶喜は慶応2年12月5日に将軍宣下を受けようやく将軍に就任した。
  薩長同盟 慶応2年1月21日(1866年3月7日)に小松帯刀邸(京都市上京区)で締結された、
薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟である。薩長盟約、薩長連合ともいう。
土佐藩の脱藩浪人で長崎で亀山社中(後の海援隊)を率いていた坂本龍馬や
中岡慎太郎の斡旋もあって、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において会談が
進められ、下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが、
1月21日(18日、22日説も)小松邸で坂本を介して薩摩藩の西郷、小松と長州藩の
木戸貫治が6か条の同盟を締結した。
他の薩摩側出席者は大久保、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁。 
 大政奉還 薩長が武力倒幕路線に進むことを予期した慶喜は慶応3年10月14日、政権返上を
明治天皇に上奏し、翌日勅許された(大政奉還)。従来の通説的見解によれば、
慶喜は当時の朝廷に行政能力が無いと判断し、列侯会議を主導する形での
徳川政権存続を模索していたとされる。慶喜は緊迫する政治情勢下で内乱の発生を
深く懸念しており、大政奉還による政治体制の再編はその打開策であった。
 戊辰戦争
   ぼしんせんそう
慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した
薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。
名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。
  概要 江戸時代の日本は徳川幕府と諸大名による封建国家だった。戊辰戦争を経て
権力を確立した。明治新政府によって行われた諸改革(明治維新)により、近代的な
国民国家の建設が進んだ。
 鳥羽・伏見
  の戦い

 1868年
  1月27日-30日
慶応3年10月14日に江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は日本の統治権返上を明治天皇に
奏上翌15日に勅許された(大政奉還)。慶喜は10月24日に征夷大将軍職の辞任も朝廷に
申し出る。
慶応3年10月13日そして14日には討幕の密勅が薩摩と長州に下される。
老中・稲葉正邦は庄内藩に命じ、江戸薩摩藩邸を襲撃させる(江戸薩摩藩邸の焼討事件)
  戦闘の勃発
慶応4年1月2日夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、
事実上戦争が開始される。
3日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された
新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。
両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と言われている。
初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦した。
翌1月4日も旧幕府軍の淀方向への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王を
征討大将軍と為し錦旗・節刀を与え出馬する朝命が下った。薩長軍は正式に官軍とされ、
以後土佐藩も迅衝隊・胡蝶隊・断金隊などを編成し、錦旗を賜って官軍に任ぜられた。
1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。
5日、山陰道鎮撫総督・西園寺公望及び東海道鎮撫総督・橋本実梁が発遣された
7日、慶喜追討令が出され、次いで旧幕府は朝敵となった。
10日には藩主が慶喜の共犯者とみなされた会津藩・桑名藩・高松藩・備中松山藩・
伊予松山藩・大多喜藩の官位剥奪と京屋敷を没収、3月7日に姫路藩が追加された。
藩兵が旧幕府軍に参加した疑いが高い小浜藩・大垣藩・宮津藩・延岡藩・鳥羽藩が
藩主の入京禁止の処分が下され、これらの藩も「朝敵」とみなされた。
9日、長州軍が大坂城を接収、大坂は新政府の管理下。同日東山道鎮撫総督に
岩倉具定が任命された。北陸道鎮撫総督・高倉永祜が発遣された。
 
 西国及および
   東海の状況
 
東海
新政府に警戒されていた彦根藩がこの段階で尊王に藩論を転換させて大津防衛の援軍を
派遣しており、同藩への出兵の必要性がなくなったことから、9日には大津にて桑名藩の
征討に移った。
膳所藩・水口藩の協力もあって大津など南近江一帯が新政府の掌握下に置かれると、
本格的な東進が開始され、22日に四日市に東海道軍が到着すると桑名藩は戦わずに
開城した。(藩主は函館へ逃亡)尾張藩は20日、藩主の父・徳川慶勝の
「勅命により死を賜る」との命により青松葉事件がおき、
藩論は勤皇に一本化された。
東山道(中山道)
東山道(中山道)筋の諸藩は定府大名が多く、沿道諸藩は対応に苦慮した。
丹波・山陰道
新政府は西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任じて薩摩・長州藩兵を添えて丹波国に
進軍させていた。丹波国に進軍、これは佐幕派の丹波亀山藩の帰順及び鳥羽・伏見に
敗戦した場合の退路の確保を目的としたものだったが、園部藩・篠山藩・田辺藩・福知山藩
などが次々と新政府軍に降伏。
2月下旬には佐幕派の松江藩をも降伏させ、山陰を無血で新政府の傘下に従えた。
丹波・山陰道
新政府は西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任じて薩摩・長州藩兵を添えて丹波国に
進軍させていた。丹波国に進軍、これは佐幕派の丹波亀山藩の帰順及び鳥羽・伏見に
敗戦した場合の退路の確保を目的としたものだったが、園部藩・篠山藩・田辺藩・
福知山藩などが次々と新政府軍に降伏。
2月下旬には佐幕派の松江藩をも降伏させ、山陰を無血で新政府の傘下に従えた。
四国の状況
公議政体派から勤皇を旨とする武力討幕派へ藩論を統一した土佐藩士・板垣退助の
迅衝隊を主力部隊として、丸亀藩・多度津藩が協力して、讃岐国の旧幕府方高松藩に
進軍。戦意を喪失した高松藩側が家老2名に切腹を命じ、正月20日に降伏に及んだ。
27日には残る伊予松山藩も開城し、四国を無血開城せしめて勤皇支持に統一された。
九州の情勢
正月14日、長崎奉行・河津祐邦は秘かに脱走し、佐賀藩・大村藩・薩摩藩・福岡藩などの
諸藩により長崎会議所が構成され、治安を担当した。新政府からは沢宣嘉が派遣され、
九州鎮撫総督兼外国事務総督に任ぜられて長崎に入った。
老中・小笠原長行を世子とする唐津藩は討伐の対象となったが、松方正義がこれを抑え、
藩主・小笠原長国が長行との養子関係を義絶するとともに降伏を願い出た。
 阿波沖
   海戦

  1868年1月28日
鳥羽・伏見の戦いが開始された1月3日、薩摩藩軍艦春日丸、同藩運送船翔凰丸、
平運丸が兵庫港に停泊し、鹿児島への帰帆準備を進めていた。一方、軍艦頭である
榎本武揚率いる旧幕府海軍の開陽丸は、大阪湾に停泊して海上より鳥羽・伏見の戦いを
見守っていた。
1月4日早朝、平運丸は明石海峡に、春日丸と翔凰丸は紀淡海峡に向けて出港した。
これを開陽丸が発見、停船命令として空砲を撃つが無視したため、
すぐさま臨戦態勢に入る。開陽丸は春日丸と翔凰丸を追撃し、敵艦に計25発の砲撃を加え、
応戦した春日丸は計18発の砲撃を開陽丸に向けて放ったが、どちらも大きな損害には
至らなかった。
 新政府指揮官:薩摩藩 
赤塚源六      幕府軍指揮官:幕臣 榎本武揚
 甲州
  勝沼の
   戦い


  江戸への進軍
 1868年3月29日
新選組局長の近藤勇は、抗戦派と恭順派が対立する江戸城において勝海舟と会い、
幕府直轄領である、甲府を新政府軍に先んじて押さえるよう出陣を命じられた。
(一説には、江戸開城を控えた勝海舟が、暴発の恐れのある近藤らを江戸から
遠ざけたとも言われる)。
新選組は甲陽鎮撫隊と名を改め、近藤勇は大久保剛(後に大和)、副長の土方歳三は
内藤隼人とと変名して、3月1日に江戸を出発し甲州街道を甲府へ向かった。
同年3月4日から新政府軍の土佐藩の板垣退助、薩摩藩の伊地知正治らが
先鋒総督府参謀として新政府軍3,000を率いて甲府城に入城した。甲陽鎮撫隊は
勝沼から前進し、甲州街道と青梅街道の分岐点近くで軍事上の要衝であるこの地に
布陣した。300いた兵は恐れをなして次々脱走し、121まで減ってしまったという。
近藤は会津藩の兵がこちらへ向かっているといい、なんとか脱走を防いだ。
近藤は勝沼の柏尾坂へ後退し、抗戦を続ける。会津の援軍が虚報だとわかると、
近藤、永倉新八原田左之助らの説得も空しく、兵は逃亡した。甲陽鎮撫隊は
八王子へ退却した
新政府指揮官:
板垣退助、伊地知正治   
    幕府軍指揮官:
大久保剛(近藤勇、内藤隼人(土方歳三
 野州
  梁田の
   戦い
新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・
北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。
東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの
梁田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(後の衝鋒隊)に対して、
朝霧に紛れて三方からの奇襲攻撃をしかけた。幕府軍は応戦し、梁田宿一帯で
市街戦が起こった。
この戦いは梁田戦争とも呼ばれ、戊辰戦争の東日本における最初の戦いと称される
 江戸城
 無血開城
 


 1868年3月-4月
駿府に進軍した新政府は3月6日(同3月29日)の軍議で江戸城総攻撃を3月15日とした。
しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、イギリス公使ハリー・パークスは
新政府に江戸攻撃・中止を求めた。新政府の維持には諸外国との良好な
関係が必要だった。また武力を用いた関東の平定には躊躇する意見があった。
江戸総攻撃は中止とする命令が周知された。
恭順派として旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝海舟は、幕臣・山岡鉄舟を
東征大総督府参謀の西郷隆盛に使者として差し向け会談、西郷より降伏条件として、
徳川慶喜の備前預け、同日から勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。
武器・軍艦の引渡しを伝えられた。
西郷は3月13日、高輪の薩摩藩邸に入り、同日から勝と西郷の間で江戸開城の
交渉が行われた。
高輪の薩摩藩邸で勝は「慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎すること」「江戸城は
明け渡しの後、即日田安家に預けること」等の旧幕府としての要求事項を伝え、西郷は
総督府にて検討するとして15日の総攻撃は中止となった。
結果、4月4日 (旧暦)(同4月26日)に勅使(先鋒総督・橋本実梁、同副総督・柳原前光)が
江戸城に入り、「慶喜は水戸にて謹慎すること」「江戸城は尾張家に預けること」等とした
条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、
武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。同日、慶喜が水戸へ向けて出発した。
4月21日(同5月13日)には東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して
江戸城は新政府の支配下に入った。 
 船橋の戦い
 
 1868年5月24日

慶応4年(1868年)4月11日に行われた江戸城無血開城に従わぬ旧幕臣の一部が
千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日(5月24日)に市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で
両軍は衝突した。
佐倉街道沿いの下総国市川・船橋を巡って、新政府軍と江原鋳三郎が率いる
撒兵隊(さっぺいたい)の分隊を中心とした旧幕府軍との間で行われた。
江戸城開城の翌日である12日に撒兵隊2,000を率いて木更津に着いた福田は、大鳥が
市川の国府台にいるとの報を受けて市川の増援のためにまず江原鋳三郎の第1大隊に
兵300を与えて中山法華経寺に派遣し、続いて第2大隊・第3大隊の兵600を船橋大神宮に
派遣してここを撒兵隊の本営とした。ところが、現地に着いてみると幕府軍は全く
存在していなかったのである。
これは11日に新撰組副長であった土方歳三が大鳥と合流し、流山で局長近藤勇が
新政府軍に捕らえられた事を知った大鳥が市川滞在に危惧を抱き、日光山で会津藩と
連携して新政府軍に抵抗する作戦に変更して、撒兵隊が木更津に入った12日には既に
全軍市川から離れて北に向かっていたのである。佐土原藩軍は船橋宿に火を放った。
これが先の大神宮の火災と折からの強風が重なって予想以上の大火災となり、船橋を
構成する3村で814軒が焼失してしまった。
新政府軍は船橋の完全な制圧に成功したのである。

新政府: 指揮官:
官軍岡山藩、薩摩藩、津藩、佐土原藩など 
戦力 : 800名                  
損害 : 死者20名                

幕府: 
榎本武揚(海軍)、大鳥圭介(陸軍)、江原鋳三郎
戦力 : 2000名
損害 : 死者13名
 宇都宮城の
   戦い

 1868年
  5月11日-15日
江戸城は開城したものの旧幕府方残党勢力は徳川家の聖地である日光廟に
篭って兵を募り、そこで新政府軍と戦うつもりで大挙して江戸を脱走、
下野国日光山を目指していた。
下野国で起きていた世直し一揆を鎮圧するために東山道総督府が
下野国宇都宮に派遣していた
下野鎮撫・香川敬三(総督府大軍監)は、手勢を引き連れ日光道中を北上中、
武蔵国粕壁で下総国流山に新撰組が潜んでいる噂を聞き有馬藤太を派遣して
近藤勇を捕縛した。
近藤は板橋に送られたが、香川はそのまま行軍を続け宇都宮に駐屯した。
4月19日には宇都宮で旧幕府軍と新政府軍勢力が激突した。
大山巌や伊地知正治が統率する新政府軍に奪い返され、もともと目指していた
聖地日光での決戦に備えるべく退却した。

新政府軍: 
香川敬三 、戸田忠恕、有馬藤太、伊地知正治     
     大山弥助、野津七次、河田佐久馬         
   700名で後方に20000人            

幕府軍: 
大鳥圭介、土方歳三
    江上太郎、辰巳鑑三郎
   約2,000
 今市の戦い
 
 1868年6月10日
    -25日
       
  
今市宿(現在の日光市今市)は江戸と日光を結ぶ日光街道、会津若松へ続く会津西街道、
高崎へ続く日光例幣使街道、奥州街道の宿場町大田原宿へ続く日光北街道の集まる
交通の結節点だった。
慶応4年4月23日(1868年5月15日)、宇都宮城の戦いで敗北した大鳥圭介率いる
旧幕府歩兵は、初期の目標であった徳川家康の霊廟・日光山での新政府軍との
決戦を意図し25日に日光へ到着したが、日光には留まらず今市から会津西街道に
進路を取り閏4月5日、会津藩領の田島に到着した。
第一次今市の戦い
閏4月20日、旧幕府軍及び会津軍は兵力を2つに分け日光街道の東西両方向から今市へ
攻撃を始めた。この日は奥羽鎮撫総督府の世良修蔵が仙台藩に殺害され、白河城が仙台藩と
会津藩によって陥落したのと同日だった。旧幕府側による今市への攻撃は東西両軍の連携が悪く、
山川が率いた東側が疲弊損傷し撤退を始めた後で大鳥率いる西側の攻撃が始まり、結果として
板垣率いる新政府軍は東西の旧幕府軍を各個撃破した。
第二次今市の戦い
5月6日、旧幕府軍及び会津軍は今市の東側に兵力の大部分を集結し一斉攻撃を始めた。
正午ごろまで旧幕府軍側の攻勢が続いたが、板垣は西側の守備隊を再編し旧幕府軍の
南へ迂回し反撃を始めた。また宇都宮から急行してきた新政府軍が到着し、
これも旧幕府軍へ攻撃を開始し旧幕府軍側は敗走した。

新政府 指揮官:
板垣退助(参謀)             
    第一次:600名 第二次:1200名
          
幕府軍:
 鳥圭介(歩兵奉行)、山川大蔵(若年寄)
    第一次:1500名  第二次:1200名
 上野戦争

   1868年7月4日
慶応4年5月15日(1868年7月4日))は、戊辰戦争の戦闘の1つ。江戸上野において
彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いである。
彰義隊
慶応4年に江戸幕府の征夷大将軍であった徳川慶喜の警護などを目的として
渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された部隊。幕府より江戸市中取締の任を受け
江戸の治安維持を行ったが、上野戦争で明治新政府軍に敗れ解散した。
経過
新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。大村は海江田信義ら慎重派を制して
武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備
5月15日、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や
即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。
加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や
四斤山砲による砲撃を行った。午後5時には戦闘は終結、彰義隊はほぼ全滅し、
彰義隊の残党が根岸方面に敗走した。

新政府:指揮官: 
大村益次郎 薩摩・長州・佐賀              
 戦力:  10000名                 
 損害:  死傷者:100名
              
幕府軍: 指揮官: 
天野八郎   
 戦力:  4,000名 (開戦時1,000名)
 損害:  戦死者:266名
 鯨波戦争
 くじらなみせんそう

 1868年閏4月27日
  
戊辰戦争の戦闘の一つ。慶応4年(1868年)閏4月27日に柏崎近傍の鯨波にて新政府軍と
旧幕府勢力が交戦し、新政府軍が勝利した。
慶応4年4月14日に大総督府は諸藩に越後出兵を命じ、19日に北陸道鎮撫総督 兼
会津征討総督に高倉永祜、参謀に黒田了介と山県狂介を任じて越後再進攻の
体制を整えた。
閏4月17日、黒田・山県に率いられた官軍は越後進攻の根拠地である高田に参集した。
本隊は海沿いに柏崎へ進み、支隊は松之山口経由で小出島を攻略してから小千谷に
入り、信濃川を渡って長岡城を攻撃する予定とした。進撃開始は21日となり、海道を進む
新政府軍本隊(薩摩、長州、加賀など6藩)約2,500人は黒田・山県両参謀の指揮で先鋒は
老竹十左衛門(高田藩家老)であり、途中で兵を分け(柿崎では黒岩口へ、鉢崎では
谷根口へ)、主力は米山峠を通過して青海川へ到着した。
柏崎で謹慎していた定敬も閏4月初旬には抗戦の決意を固めた
桑名藩 軍事組織(本営は柏崎陣屋)   
    総督
服部半蔵正義(軍事総宰)    軍事方 山脇十左衛門(軍事奉行)
    雷神隊隊長 立見鑑三郎、副長 富永太兵衛
    致人隊隊長 松浦秀八、副長 馬場三九郎
    神風隊隊長 町田老之丞、副長 大平九左衛門
    大砲隊師範役頭 梶川弥左衛門、師範役 三木十左衛門・首藤金右衛門
    器械方取締 高松源五左衛門
対して桑名藩では250人を鯨波の守備として北陸本道の備えとし、他に会津藩士・
松田昌次郎の率いる衝鋒隊200人(会津兵)が黒岩口、同じく会津藩士・木村大作の率いる
浮撃隊100人会津、幕府、水戸兵)が谷根口の守備についた。
閏4月27日、早朝4時頃に鯨波の入口で戦闘が開始された。新政府軍の攻撃を受けた
松浦の致人隊は劣勢であり、やがて退却して雷神隊・浮撃隊と共に小河内山・嫁入坂を
拠点に抵抗を続けた。
幕府歩兵や会津・水戸については敗走しているが被害は把握されていない。
被害では長州が戦死2人・負傷7人、高田が戦死3人・負傷8人、加賀が戦死3人・負傷24人、
と加賀藩が最も多かった。旧幕府勢力では桑名藩では戦死1人・負傷8人・脱走1人とあるが
計上されていない被害もあり、隊長の松浦や箱館まで転戦する石井勇次郎も負傷している。
また幕府歩兵や会津・水戸については敗走しているが被害は把握されていない。 
 東北戦争 奥羽列藩同盟には、武装中立が認められず新政府軍との会談に決裂した長岡藩ほか
新発田藩等の北越同盟加盟6藩が加入し、計31藩によって奥羽越列藩同盟が成立した。
なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力した。
北越~東北地方における戦争
 奥羽
  越列藩同盟
 
戊辰戦争中に陸奥国、出羽国、越後国の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を
盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成された同盟である。
慶応4年1月17日、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府は仙台藩に会津藩への
追討を命令した。2月25日、庄内藩は使者を新政府に派遣した。使者は軍への
参加を拒絶した。
3月22日、新政府への敵対姿勢を続けていた会津藩及び庄内藩を討伐する目的で
奥羽鎮撫総督及び新政府軍が仙台に到着した。主要な人物としては総督・九条道孝、
副総督・沢為量、参謀・醍醐忠敬、下参謀の世良修蔵と大山綱良を数えることができる。
3月29日、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩及び庄内藩への
追討が命令された。
4月19日、藩主・伊達慶邦の率いる仙台藩の軍勢は会津藩領に入り戦闘状態になった。
一方で仙台藩は3月26日、会津藩に降伏勧告を行い4月21日に一旦合意に達した。
閏4月4日、仙台藩主席家老・但木成行の主導で奥羽14藩は会議を開き、この状態での
会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」などを奥羽鎮撫総督に
提出した。しかしこれが却下されたため、閏4月19日諸藩は会津・庄内の諸攻口における
解兵を宣言した。
世良修蔵の暗殺
奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵は鎮撫使の兵力が不足しており奥羽鎮撫の実効が
上がらないため、奥羽の実情を総督府や京都に報告して増援を願うものであったが、
この密書が仙台藩士瀬上主膳や姉歯武之進らの手に渡った。姉歯らは以前から
世良修蔵の動向を警戒していたが、密書の中にある
「奥羽皆敵」の文面を見て激昂した彼らは、翌日金沢屋において世良修蔵を襲撃した。
世良はピストルで応戦するが不発、あえなく捕らえられ、阿武隈川の河原にて斬首された。
「奥羽列藩同盟」の誕生
会津赦免の嘆願の拒絶と世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針に
変更することとなった。そのためには奥羽諸藩の結束を強める必要があることから、
閏4月23日新たに白石盟約書が調印された。翌4日には、新政府軍との会談に決裂した
越後長岡藩が加盟6日には新発田藩等の北越同盟加盟5藩が加入し、計31藩による
奥羽越列藩同盟が成立した。 
 北越戦争

 1868年6月21日 
越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された新潟港があった。
戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したがイタリアとプロイセンは新政府の
要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は
列藩同盟の武器の供給源となった。5月2日、新政府軍の岩村精一郎は恭順工作を仲介した
尾張藩の紹介で長岡藩の河井継之助と会談した。河井は新政府が他藩に負わせていた
各種支援の受け入れを拒否し戦局を打破すべく新政府軍は5月19日に与板藩の御用商人に
よる船の援助を受けて信濃川を渡河し、長岡城下への奇襲攻撃をかけた。当時、長岡藩を
はじめとした同盟軍主力部隊は榎峠等の守備に回っており、城下はがら空きの状態だった。
城はわずか半日で落城し、長岡藩兵は栃尾に栃尾に退却した。しかし新政府軍に追撃する
余力がなかったため、長岡藩兵は態勢を整え加茂に集結。
八丁沖の戦いの末に7月24日(9月10日)、同盟軍は長岡城を奪還し、新政府軍は敗走した。
新政府軍は、軍艦「第一丁卯」(長州藩)・「摂津丸」(広島藩運用)および輸送船「千別丸」
(柳河藩)・「大鵬丸」(筑前藩)・「銀懐丸」(加賀藩)・「万年丸」(広島藩運用)から成り
山田顕義を指揮官とする
艦隊を投じて、7月25日(9月11日)に新発田藩領の太夫浜(現新潟市北区)へ上陸戦を開始。
新発田藩は新政府軍への寝返りを決め、抵抗せず開城した。黒田清隆を指揮官とする
新政府軍上陸部隊は、色部久長の指揮する米沢藩兵・会津藩兵・仙台藩兵を撃破して、
7月29日(9月15日)に新潟港を制圧した[2]。新政府軍は長岡城への再攻勢も行って同じ
7月29日に再占領する。
これにより長岡藩及び北越の諸藩計6藩が列藩同盟へ参加したため、新政府軍と
同盟軍の間に戦端が開かれた。同盟軍は河井継之助の指揮下で善戦したが7月に
長岡城が落城した。
7月25日同盟軍は長岡城を奪還し新政府軍を敗走させたがこの際指揮をとっていた
河井継之助が負傷(のち死亡)した。新政府軍は長岡城を再奪取し、
7月29日長岡藩兵は撤退した。

新政府軍:指揮官:
山縣有朋、黒田清隆           
    損害:死傷者:1,000以上              

長岡藩:牧野忠訓、
河井継之助
    死傷者:400
 会津戦争 (旧暦)慶応4年閏4月20日 - 明治元年9月22日  1868年6月10日 - 1868年11月6日
会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に不利と見て藩主・松平容保に降伏を進めるが、容保は
徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。 また、藩側に逃げてきた農民や町人らも、
武器を渡され戦うことを命じられることとなった。
交戦勢力
新政府:(奥羽先鋒総督府)指揮官:政府軍:
板垣退助、伊地知正治
 薩摩軍、長州藩、土佐藩、佐賀藩、大村藩、佐土原藩、 人吉藩、 中津藩
 小倉藩、岩国藩、広島藩、岡山藩、鳥取藩、今治藩、紀州藩、彦根藩
 大垣藩、尾張藩、加賀藩、松代藩、松本藩、上田藩、飯山藩、高田藩
 新発田藩、忍藩、館林藩、宇都宮藩、黒羽藩、大田原藩、水戸藩天狗党
 守山藩、三春藩、米沢藩など
戦力: 政府軍:70,000名

旧幕府軍(奥羽越列藩同盟)旧幕府軍:
西郷頼母、大鳥圭介、山川大蔵、斎藤一
会津藩、棚倉藩、仙台藩、中村藩、福島藩、二本松藩、新撰組
水戸藩諸生党、幕府陸軍(歩兵第7連隊)、伝習隊(幕府歩兵)、衝鋒隊
戦力: 旧幕府軍:約9,400 (藩兵約3,500、その他約5,900)
 経過

 白河口の
   戦い

 1868年
  6月10日 -
    8月31日
奥羽越列藩同盟側(仙台藩・会津藩・旧幕府歩兵隊・米沢藩・棚倉藩など)と
新政府軍(薩摩藩・長州藩・大垣藩・忍藩)との戦い。会津藩・庄内藩と提携し新政府と
敵対する軍事同盟成立に際し白河城を攻撃し、新政府軍から白河城を奪い取った。
白河藩は当時国替えにより藩主不在となり、幕府直轄領であった。旧幕府軍は会津藩家老の
西郷頼母を総督として、慶応4年閏4月20日 (旧暦)(1868年6月10日)に白河城を占領。
これに対し新政府軍は、薩摩藩参謀・伊地知正治の指揮のもと、閏4月25日
(旧暦)(6月15日)に白河への攻撃を開始し、5月1日(6月20日)に白河城を落城させる。
旧幕府軍は7月までの約3か月間、白河奪回を試みて戦闘を繰り返したが、
奪回はならなかった。

新政府軍: 指揮官
 伊地知正治, 板垣退助   
   戦力:約700、後に約1,500(板垣退助到着後)  
   損害:死傷者は20名             

会津藩:
西郷頼母, 横山主税, 山口二郎
   戦力:約4,500以上
   損害:死傷者約700名
 平潟戦線  平潟戦線における列藩同盟軍の主力は仙台藩だった。6月16日から20日にかけて
官軍・約750人が海路常陸国(茨城県)平潟港に上陸した。列藩同盟軍は
上陸阻止に失敗した。
6月24日、総督・板垣退助が率いる官軍の迅衝隊が白河から平潟との中間にあった
棚倉城を接収した。
16日には断金隊々長・美正貫一郎の尽力によって、三春藩が迅衝隊に進んで降伏し
無血開城し、三春城は官軍の病院としての一翼をになった。22日に仙台追討
総督四条隆謌が増援を率いて平潟に到着、29日に二本松城を三春城から北上した
官軍が占領した
8月7日、相馬中村藩が官軍に降伏。四条隆謌と参謀河田景与・木梨精一郎らは
相馬藩兵を加えて単独で仙台方面へ侵攻、11日に藩境の駒ヶ嶺を占拠、ここで仙台藩と
戦闘を繰り広げた。
官軍総司令官・大村益次郎(長州藩)は仙台藩の攻撃を優先することを主張していたが、
現地の司令官・伊地知正治(薩摩藩)、板垣退助(土佐藩)の会津進攻策が通り、
会津戦争が行われることになった。
     
        白河小峰城跡
  
        新政府の行動
 二本松の
   戦い

1868年月15日
   白河小峰城

 
  二本松城
二本松藩は10万700石を領し、領国の岩代安達郡は会津藩の猪苗代盆地へ通じる
奥羽街道の要衝に位置していた。周囲の小藩である守山藩(2万石)、三春藩(5万石)に
比べて石高が高く、藩主の丹羽氏は丹羽長秀に連なる名門のために国主格待遇を受け、
老中で白河藩主阿部正外の追放以降、白河城の城郭を預かっている。5月1日、白河城を
奪還した新政府軍は増援待ちの状態だった。
旧幕府軍は白河城の再奪取のために度々攻撃をしかけてきたが、いずれも新政府軍が
勝利して会津藩兵らを潰走させていた。新政府軍の北上にあたり、一番の気がかりは
東にある、列藩同盟側の棚倉藩であり、これを放置すると後方で蠢動される可能性が
あったそのため24日、板垣退助が800名からなる別働隊を率いて棚倉藩へ
向けて出兵する。
新政府軍が三春藩に接近した26日、三春藩は藩主の秋田映季自らが城外に出迎えて
新政府軍に帰順する。新政府軍は二本松藩攻略に備えて三春藩の北12kmにある小浜を
長州藩兵3小隊で占拠していた。新政府軍は本宮に忍藩、大垣藩ら280名を置いて
郡山を警戒させるとともに、郡山の南ににある守山藩に柳川藩と大村藩の計440名を
配置し、有事の先は白河城にある部隊と合同して敵を背後から攻める方針をとる。
これは28日に仙台藩兵と交戦し、旧態依然の機動力を確認したためにとられた措置だった。
二本松城へ向かう部隊は二隊に分かれ、一つは二本松城と阿武隈川を挟んで至近に
位置する小浜から出撃する、もう一隊は板垣自らが率いる本宮の主力部隊(薩摩6中隊、
砲兵2隊、土佐藩、彦根藩、佐土原藩)であり、小浜隊は東から、板垣支隊は南から
二本松城を目指して7月29日午前6時に出陣した。二本松藩は軍師小川平助の指揮の元
、防戦の支度を始めていた。
二本松藩には根本的に兵力が不足していた。そのため、老年の予備兵に加えて
少年からなる二本松少年隊までもが動員された。
二本松藩の指揮官らは二本松城に撤退して最後の抵抗に移ろうとしていた。
長国を米沢藩に脱出させた際に仙台藩の護衛がついたが、それはそのまま同盟に対する
人質となって二本松藩は降伏を選ぶことができなかった。
29日の正午、二本松にこもる重臣らは抵抗をついに断念する。城に自ら火を放つと、
家老の富穀以下7名は次々と自刃して城と運命をともにした。この時、城内と城外が
新政府軍によって隔てられ、城外にあった二本松少年隊に指示を送ることができなかった
ことがさらなる悲劇をもたらす。
この落城により、二本松藩は家老以下18名の上級職全てが戦死した。
二本松藩の死者は218名に及び、その中には13歳から17歳までの少年兵18名も
含まれている。会津藩は39名、仙台藩は19名の死者を出し、対する新政府軍は17名の
死者に留まったが、二本松藩の激しい抵抗により多くの戦傷者が発生し、その戦いぶりは
当時一部隊の隊長だった野津道貫によって「戊辰戦争中第一の激戦」と賞された。
若松城下へ
 の侵攻
 
二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標に関して意見が分かれた。
大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は、会津藩への攻撃を
主張した。板垣・伊地知の意見が通り会津藩を攻撃することとなった。
慶応4年8月21日(1868年10月6日)、新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、
40キロ余りを急進して同年8月23日(1868年10月8日)朝に若松城下に突入した。
母成峠の
   戦い

 1868年10月6日
会津へ入るには何か所かの街道があるが、その中で会津藩が特に警戒して防御を
固めたのは南西の会津西街道(日光口)と南東の勢至堂峠(白河口)で、さらに二本松と
若松を最短で結び、当時の主要街道であった中山峠(二本松口)であった。会津藩は
新政府軍が中山峠に殺到すると予測した。
しかし前述の通り、新政府軍はその裏をかく形で、母成峠へ板垣・伊地知が率いる
主力部隊1,300と土佐藩の谷干城が率い勝岩の台場へ向かう兵約1,000、さらに
別働隊として薩摩藩の川村純義が率いる300を送り、中山峠には陽動部隊800を先に
派遣した。もっとも、旧幕臣の大鳥圭介は新政府軍主力が母成峠に向かったことを的確に
把握していたが、いかんせん手持ちの兵力が少なすぎた。
翌21日、濃霧の中、新政府軍2,200は本隊と右翼隊に分かれて母成峠を目指した。
母成峠の旧幕府軍守備隊は、峠から山麓にかけて築いた3段の台場と勝岩の台場、
守将・田中源之進が率いる会津藩兵200ばかりであったが、大鳥が率いる伝習隊400や
仙台藩兵100、二本松藩兵100、土方歳三が率いる新選組若干名が加勢し総勢800となった。
戦いは午前9時頃から砲撃戦で始まった。旧幕府軍の指揮官は大鳥であり、兵力を
縦深陣地に配備し、その配下の伝習隊は善戦した。新政府軍は第二台場から
大砲20余門で母成峠を攻撃。濃霧の中、間道から現れた新政府軍に背後を襲われた
旧幕府軍は大混乱に陥った。
敗色が濃くなるに及び、大鳥の叱咤も空しく、またもや会津藩兵等は伝習隊を置き去りに
して逃走した。やがて峠は新政府軍が制圧し、午後4時過ぎにはほぼ勝敗は決した。
 会津城
  籠城戦

 1868年
  10月8日 -
  1868年11月6日

 降伏直後の会津城
母成峠の戦いで勝利した新政府軍に対し、旧幕府側の会津藩は若松城において
約1ヶ月における籠城戦の後、降伏した。
40キロ余りを急進して同年8月23日(1868年10月8日)朝に若松城下に突入した。
新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、
予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。このとき、西郷頼母邸では
篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、城下町で
発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中二番隊の隊士の一部が飯盛山で
自刃するなどの悲話が後世に伝えられている。
会津藩は若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛、山口二郎(斎藤一)らも城外での
遊撃戦を続けたが9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の
降伏が相次いだ。
孤立した会津藩は明治元年9月22日(11月6日)、新政府軍に降伏した。同盟諸藩で
最後まで抵抗した
庄内藩が降伏したのはその2日後である。旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、
仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争)。
 戦後処理 薩摩藩の軍監・桐野利秋や長州藩の参謀・前原一誠の計らいで容保は死一等を
減じられて謹慎となり、養子の喜徳とともに江戸(東京)に護送されることになった。
本来であれば家老上席にあった西郷頼母、田中玄清、神保内蔵助が切腹する
ところであったが、西郷は行方知れず、神保と田中は城下での戦闘において自刃して
いたため、次席の萱野長修が戦争の責任を一身に負って切腹した。 
 会津戦争の
   悲劇

 
白虎隊
 
会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって
構成された部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、
幼少組として13歳の少年も加わっていた。白虎隊は本来は予備兵力であった。
隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度と
された。なお、装備していた火器は旧式銃(ヤゲール銃、ゲベール銃の短銃身化、
前装装条銃)のみであったとされる。
一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原(戸ノ口原の戦い)で
決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、8月23日に負傷者を抱えながら
郊外の飯盛山へと落ち延びた白虎士中二番隊
隊長:日向内記   小隊頭:山内弘人,水野祐之進
8月23日に負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた(この間、庄田保鉄ら
隊員数人が農家で草鞋を貰い受けている間にはぐれた)。このとき、ここから眺めた
戦闘による市中火災の模様を目にし、結果総勢20名が自刃を決行し、唯一喉を突いた
飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが一命を取り留め、その他19名が死亡した。

 秋田・
  庄内戦線
 (庄内戦争)
 1868年
  8月28日-9月17日

新政府から派遣された奥羽鎮撫総督府は庄内藩を討つため沢為量及び大山綱良の
率いる新政府軍を仙台から出陣させた。しかし本間家からの献金で洋化を進めていた
庄内藩は戦術指揮も優れていたため新政府軍を圧倒した。その後列藩同盟の
成立に際し、仙台に駐屯していた世良修蔵を始めとする新政府軍は仙台藩によって
殺害され九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らは軟禁された。
九条総督救出のため佐賀藩士・前山長定率いる佐賀藩兵及び小倉藩兵を
仙台藩に派遣した。
仙台藩は軟禁していた鎮撫総督府要人を前山の部隊に引き渡した。
久保田藩の尊皇攘夷派は7月4日、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害した。
こうして久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱して東北地方における新政府軍の
拠点となった。久保田藩に続いて新庄藩・本荘藩・矢島藩・亀田藩が新政府軍に恭順した。
新庄藩の新政府軍への恭順に対して戦力の充実していた庄内藩は7月14日
、新庄藩主戸沢氏の居城・新庄城を攻め落とした。
 旗巻峠の
   戦い


 1868年8月7日 -
   868年8月20日
慶応4年(1868年)8月7日、仙台追討総督四条隆謌率いる新政府軍は平潟上陸から
相馬中村藩の降伏に至るまでの磐城の戦いを終え、中村藩の中村城に入城した。
中村城に入った兵力は3,000名ほどであり、仙台藩を単身で攻めるには
兵力が不足していた。
対峙した戦力
新政府軍
両参謀がついていた。率いられる兵力の内訳は長州藩800名、福岡藩400名、
広島藩400名、鳥取藩300名、津藩100名、熊本藩500名、徴兵7番隊400-500名、
久留米藩不明。加えて、降伏したばかりの中村藩兵5小隊、1砲隊(人数不明)が
新政府軍に組み込まれ、中村藩の農兵、軍夫合わせて2,800名を編成中だった。
仙台藩
標高260mの旗巻峠[7]に本吉郡松岩領主の鮎貝太郎平を1,200の兵と共に配置、
白河口から連戦を続ける鴉組の細谷直英も副参謀として加わっていた。旗巻峠からは
中村城を眼下に一望できるため、新政府軍が駒ヶ嶺に兵を動かせば中村城へ
強襲するか、もしくは駒ヶ嶺の援護に回って新政府軍を挟撃する役割が与えられている。
黒木の戦い
7日、新政府軍は黒木の仙台藩兵に向け、降伏したばかりの中村藩兵に攻撃を命じる。
中村藩は5小隊と1砲隊をもって黒木へ向けて進撃。これを迎え撃つ仙台藩兵は
中村藩の降伏で士気が上がらない上、そのかつての友軍の攻勢を受けて戦意を
崩壊した部隊が多発し、戦わずして多数の部隊が退却。
第一次駒ヶ嶺攻防戦
11日、新政府軍は駒ヶ嶺の攻略に乗り出す。新政府軍の目指すところは駒ヶ嶺を抜けて北2.5kmに
ある新地であり、そのために駒ヶ嶺に砲撃可能な椎木の高台へ各藩の砲兵を集結させ、
長州藩の1中隊と熊本藩が頃合を見て駒ヶ嶺へ進出する構えだった。
新政府軍の死者は26名、怪我人は160名を数え、仙台藩の死者は32名、怪我人78名を数えた
第二次駒ヶ嶺攻防戦
駒ヶ嶺を失った仙台藩は駒ヶ嶺北の坂元に集結していたが、駒ヶ嶺を新政府の手から取り戻すべく、
奪還のための出兵を軍議において決定する。旧幕軍の春日左衛門の指揮する
陸軍隊6小隊も加わり、約3,000名となった仙台藩の戦力は3隊に分けられた。
この戦闘による戦死者は新政府軍が3名に対して仙台藩は38名。
第三次駒ヶ嶺攻防戦
藩が入り、要の駒ヶ嶺には長州藩、駒ヶ嶺の西には福岡藩、更にその西方には中村藩兵と
東西に広く陣地を形成し、その後方に残りの部隊が補助として入っていた。旗巻峠に
対しては、麓の初野に鳥取藩5小隊が備えとして置かれ、注意を払っている。
また、16日に津藩176名、19日に四国から大洲藩2小隊が加わったことでその数を増していた。
20日、雨天の中を仙台藩3部隊が前進を開始する。仙台藩左翼、海側の部隊は鈴木直記、
茂庭三郎に率いられて今泉北の釣師浜を通過、今泉の新政府軍へ向けて攻撃を開始した。
第三次駒ヶ嶺攻防戦はいずれの局面も仙台藩の敗北に終わった。この戦いでの戦死者は
新政府軍が12名を数えたのに対して、仙台藩は98名にもおよんだ。これには海岸側で
逃げ場なく挟撃され、海に飛び込むしかなかった仙台藩兵の溺死も含む。
仙台藩の降伏
東北を舞台にした戊辰戦争は米沢藩に続く盟主格の仙台藩の降伏によって
列藩同盟の敗北は決定的となり、22日の会津藩の降伏をもって同盟は消滅する。
 野辺地
  戦争い


 1868年11月7日 
会津戦争(戊辰戦争)の戦いの一つである。
奥羽越列藩同盟側の盛岡藩は9月20日に新政府に降伏し、22日に新政府に降伏が受け
入れられていた。だが翌23日、新政府側の弘前藩及び黒石藩の連合軍が野辺地へ侵攻。
交戦の結果、盛岡・八戸藩連合軍が弘前・黒石藩連合軍を撃退して戦闘は1日で終了
9月23日未明、小湊に駐屯していた弘前藩・黒石藩兵180名が3隊に分かれて
行動を開始する。そのうち60名が藩境にある盛岡領の野辺地馬門村に進入し、一斉に
放火を開始した。弘前・黒石藩は一方的な射撃を受けて壊乱状態となり、隊長の
小島左近・半隊司令士谷口永吉が戦死。弘前藩は撤退し、野辺地戦争は終結した。
 弘道館戦争


 1868年11月14日
明治元年10月1日に水戸城三の丸内にあった水戸藩藩校・弘道館において
行われた、水戸藩内の保守派(諸生党)と改革派(天狗党)の戦い。
天狗党の乱鎮圧後、水戸藩は市川三左衛門ら諸生党が実権を掌握した。
しかし、戊辰戦争の勃発に伴って形勢は逆転する。
諸生党は藩地を脱して会津へ向かい、会津藩や桑名藩と合流して
会津戦争・北越戦争など東北方面での新政府軍との戦闘に参加する。
9月22日(11月6日)に会津藩が降伏すると、参戦のため防備が手薄になっていると
思われた水戸を目指した。
一行は500人とも1,000人とも伝えられる。途中の片府田・佐良土で大田原藩や黒羽藩の
兵と交戦しながら、9月29日(11月13日)には水戸城下に到達した。
諸生党軍の接近を知った改革派の家老・山野辺義芸らは周辺の兵力を水戸城に集結して
防備を固めていたため、諸生党一行は入城することが出来ず、三の丸にあった
弘道館を占拠した。10月1日(11月14日)、改革派は城への攻撃を開始、
激しい銃撃戦となった。改革派側は、87名もの戦死者を出すも戦闘を有利に展開する。
諸生党は戦死者約90名ほか多くの負傷者を出して、翌10月2日夜に水戸を脱出した。
その後、改革派は新政府軍とともに敗走する諸生党を追撃した。諸生党は多くの
脱落者を出しながら敗走を続け、10月6日の下総八日市場の戦い(松山戦争)で壊滅した。
 松山戦争

 1868年11月19日 
下総国匝瑳郡松山村(現在の千葉県匝瑳市)における市川弘美ら水戸藩諸生党と
これを追跡する水戸藩天狗党との戦い。
10月4日夜、市川ら200人余を乗せた船は銚子港付近へ上陸した。この時、銚子の
防衛にあたっていた高崎藩士の説得に応じた97人が降伏したが、市川ら113人は
なおも逃走を続け、10月6日午前10時頃、八日市場の福善寺に到着した。
市川はなおも再起を図り、匝瑳郡高野村の剣客・大木佐内に匿われた後、東京へと逃れて
潜伏していたが、翌明治2年(1869年)2月26日に捕縛され、4月3日に水戸郊外の刑場にて
処刑された。同年、地元民によって戦場跡に「戦死二十五人墓」(逃走塚)と呼ばれる
諸生党の供養塔が築かれている。 
 箱館戦争
慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、戊辰戦争の局面のひとつで、
新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍の蝦夷地での根拠地から
五稜郭の戦いとも呼ばれる。
 

背景
慶応4年(1868年)4月、江戸城無血開城により、戊辰戦争は北陸、東北へ舞台を移した。
5月、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への
減封というものであった。これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が
路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、
北方の防備と開拓にあたらせようと画策する。
榎本艦隊の北行
7月、榎本に対して仙台藩を中心とする奥羽越列藩同盟から支援要請があり、
8月20日、開陽を旗艦として8隻からなる旧幕府艦隊(開陽・蟠竜・回天・千代田形の
軍艦4隻と咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸の運送船4隻)が品川沖を脱走し、
仙台を目指した。この榎本艦隊には、若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎などの
重役の他、大塚霍之丞や丸毛利恒など彰義隊の生き残りと人見勝太郎や伊庭八郎など
の遊撃隊、そして、旧幕府軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネと
アンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。
榎本艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた運送船・太江丸、鳳凰丸を加え、桑名藩主・
松平定敬、備中松山藩主・板倉勝静、唐津藩世子・小笠原長行、歩兵奉行・大鳥圭介、
旧新選組副長・土方歳三らと旧幕臣からなる伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した
額兵隊などの兵を収容。
   
    
          蝦夷へ向かう旧幕府軍      品川沖を脱走する旧幕府艦隊
 箱館制圧 明治維新時には松前・江差周辺の松前藩領を除き蝦夷地の大部分は幕府が直轄し、
箱館奉行が置かれていたが、新政府はこれに代わり、箱館府を設置した。
箱館府は援軍を要請、一番近い弘前藩から4小隊が10月19日、秋田に入港していた
福山藩兵約700名および大野藩兵約170名が野田豁通に率いられ10月20日に箱館に到着、
これらで旧幕府軍を迎え撃つこととなった
松前藩との戦闘
10月27日、土方歳三を総督として彰義隊・額兵隊・衝鋒隊などからなる700名が松前城に
向けて出陣。11月1日に知内で宿営中に松前藩兵の奇襲を受けるが撃退し、11月5日には
松前城に到達した。その間、11月1日に蟠竜が松前を砲撃している
箱館政権樹立
12月15日、蝦夷地を平定した旧幕府軍は、箱館政権を樹立。総裁は入れ札(選挙)に
よって決められ、榎本武揚が総裁となった。
新政府軍集結
10月30日、旧幕府軍による箱館占拠の通報が東京に届き、新政府は直ちに津藩兵・
岡山藩兵・久留米藩兵計約1,000名を海路で青森に送った。
11月6日、奥羽征討軍参謀であった山田顕義が長州藩兵・徳山藩兵を率いて秋田から
青森に入り、11月9日、青森口陸軍参謀に就任。
陸軍は、明治2年(1869年)2月には松前藩、弘前藩兵を中心に約8,000名が
青森に集結した。一方、海軍は、アメリカの局外中立撤廃を受けて、品川に係留されていた
最新鋭の装甲軍艦甲鉄を2月に購入するとともに、増田虎之助を海軍参謀として諸藩から
軍艦を集めて艦隊を編成した。
3月9日、新政府軍艦隊(甲鉄・春日・陽春・丁卯)の軍艦4隻と豊安丸・戊辰丸・晨風丸・
飛龍丸の運送船4隻は、甲鉄を旗艦として品川沖を青森に向けて出帆した。
新政府軍各藩出兵数
弘前 2,207  松前 1,684  長州 781  備後福山 632  備前岡山 541 
熊本 396   徳山 300  薩摩 293  筑後 243  黒石 243  
水戸 219  津 199  越前大野 170  箱館府 200  合計 8,108

 宮古湾海戦 3月20日、海軍奉行・荒井郁之助を指揮官として、陸軍奉行並・土方歳三以下100名の
陸兵を乗せた回天と蟠竜、箱館で拿捕した高雄の3艦は宮古湾に向けて出航した。
旧幕府軍の戦力は以下の通り
回天(旗艦)
 海軍 : 海軍奉行・荒井郁之助、艦長・甲賀源吾、以下200余名、元仏海軍・ニコール
 陸軍 : 陸軍奉行並・土方歳三、添役・相馬主計、同介・野村利三郎、
 彰義隊10名、神木隊36名
蟠竜
 海軍 : 艦長・松岡磐吉、以下100余名、元仏海軍・クラトー
 陸軍 : 新選組10名、彰義隊10名、遊撃隊12名
高雄(第二回天)
 海軍 : 艦長・古川節蔵、以下70名、元仏海軍・コラッシュ
 陸軍 : 神木隊25名
3月21日未明、箱館を出港した3艦は、回天・蟠竜・高雄の順に互いを大綱で繋いで
一列縦隊で進んだ。
3月25日早暁、回天は、宮古湾へ突入するとアメリカ国旗を降ろし日章旗を揚げて、
全速力で甲鉄へ向かった。回天の艦首から飛び降りる旧幕府兵は、甲鉄に装備されていた
ガトリング砲や小銃の絶好の的になり、次々と撃ち倒され、戦闘準備を整えた宮古湾内の
他の艦船や反撃が始まったため、作戦は失敗し宮古湾を離脱した。回天艦長・甲賀源吾、
旧新選組の野村利三郎など19名が戦死。
機関故障のため速力が出ない高雄も新政府軍の春日に追撃され、田野畑村羅賀浜へ
座礁させて火を放ち、乗組員は盛岡藩に投降した。
新政府軍上陸
宮古湾海戦に勝利した新政府艦隊は、3月26日には青森に到着。兵員輸送用に
イギリス船オーサカとアメリカ船ヤンシーをチャーターし、4月初には渡海準備が完了した
        
海陸軍参謀・山田顕義率いる新政府軍1,500名が4月6日に青森を出発、4月9日早朝、
乙部に上陸した。
新政府軍が江差を奪還すると、4月12日には陸軍参謀・黒田清隆率いる2,800名、
4月16日にも増援が江差へ上陸し、松前口(海岸沿いに松前に向かう)、木古内口
(山越えで木古内に向かう)、
二股口(乙部から鶉・中山峠を抜け大野に向かう)、安野呂口(乙部から内浦湾に面する
落部に向かう)の四つのルートから箱館へ向けて進軍を開始する。
 松前の戦い

 4月17日
4月11日、松前を守備していた伊庭八郎率いる遊撃隊と春日左衛門率いる陸軍隊を
中心とする部隊500名が江差奪還のために出撃する。
4月17日、新政府軍は松前を攻撃。新政府軍の艦砲射撃に加えて戦力差は
歴然としており、40名以上の戦死者を出した旧幕府軍は松前城を放棄して、
知内まで敗走した。
 木古内の
   戦い


  4月20日 
木古内では4月12日、陸軍奉行・大鳥圭介の指揮下、伝習隊、額兵隊などが駆けつけ、
同地を守っていた彰義隊などと合流し、500名が布陣。4月20日未明、木古内口の
新政府軍が総攻撃を開始すると、昼ごろまで激戦が続いた。旧幕府軍は額兵隊と
遊撃隊などが最後まで踏み止まっていたが、70名以上の死傷者を出して
泉沢(現・木古内町)まで後退した。
その後、本多幸七郎率いる伝習隊などの援軍を加え、知内に孤立した
彰義隊など300名を救うために再び木古内へ向かう。孤立していた部隊も木古内突入を
決め、挟撃を恐れた
新政府軍が撤退し、木古内奪還に成功する。しかし、旧幕府軍は、木古内を放棄し、
地形的に有利な矢不来(現・北斗市)まで後退し、砲台と胸壁を構築して布陣した。
 矢不来の
   戦い

  4月29日  
新政府軍は木古内で木古内口と松前口の軍が合流。その後、補給を整えた新政府軍は、
4月29日、陸軍参謀・太田黒惟信が1,600名を率いて本道、海岸、山上の三方から
矢不来を攻撃した。
旧幕府軍は、甲鉄・春日等による艦砲射撃で衝鋒隊の大隊長・天野新太郎や
永井蠖伸斎など多数の死傷者を出し、総崩れとなった。
大鳥圭介は富川(現・北斗市)で部隊の立て直しを図ったが果たせず
、有川(現・北斗市)まで撤退。
有川では榎本武揚自ら指揮を執るが、旧幕府軍は完全に崩壊、箱館方面へ
敗走を始める。旧幕府軍はこの戦闘で160名の戦死者を出している。
 二股口の
   戦い

  4月13日   
土方歳三の指揮下、衝鋒隊・伝習隊からなる300名は、4月10日に台場山
(現・北斗市)に到着し、二日がかりで16箇所に胸壁を構築、新政府軍を待ち構えた。
13日正午過ぎ、700名の新政府軍が攻撃を開始し、対する土方軍は
胸壁を楯に小銃で防戦。
 箱館総攻撃

  4月28日-
    5月8日
    
4月28日に青森口総督・清水谷公考が
江差から上陸し、5月1日以降、松前・
木古内から進軍した
東下軍と二股から進軍した南下軍が
有川付近に集結、箱館攻撃の態勢を
整えた。敗色濃厚となったため、
5月2日、ブリュネらフランス軍人は
フランス船で箱館を脱出した
5月8日に榎本自ら出陣した大川
(現・七飯町)への夜襲は失敗に
終わっている
5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を
開始、海陸両方から箱館に迫った。

        
   
 箱館湾海戦 
  5月7日-
   5月11日
5月7日の海戦で回天が蒸気機関を破壊され、意図的に浅瀬に乗り上げ、浮き砲台となる。
5月11日の海戦では一隻残った蟠竜が新政府軍の朝陽を撃沈し、旧幕府軍の士気は大いに
高まったが、砲弾を射ちつくした蟠竜も座礁の上、乗組員は上陸して弁天台場に合流した
 四稜郭方面の
   戦闘
  5月11日 
旧幕府軍では大鳥圭介が五稜郭北方の進入路にあたる亀田新道や桔梗野などに
伝習歩兵隊、遊撃隊、陸軍隊などを配置して指揮を執っていた。5月11日早暁、
新政府軍4,000名が大挙して押し寄せてきた。大鳥は東西を奔走し、自ら大砲を撃って
力戦したが、夜には五稜郭に撤退した。 
 背後への
 奇襲上陸

 箱館市街
  の戦闘
  5月11日-
   5月12日
  
一方、同日未明、豊安丸と飛龍丸に分乗した陸軍参謀・黒田清隆率いる
新政府軍700名が夜陰に紛れて箱館山の裏側に上陸した。
黒田直率の飛龍丸の部隊は西側の寒川付近に上陸し、絶壁をよじ登って箱館山の
山頂に到達。山頂にいた旧幕府軍監視兵は驚いて遁走し、夜明けまでには箱館山を
占領した。このとき、遊軍隊が箱館山薬師堂で奇襲部隊を迎え、山道の案内にあたった。
箱館市街を制圧した新政府軍は一本木関門方面に進出する。これに対して、
土方歳三は孤立した
弁天台場の救出に向かうが、一本木関門付近で指揮中に狙撃され戦死
5月12日には五稜郭に対して箱館湾の甲鉄による艦砲射撃が始まり、古屋作久左衛門が
重傷を負ったほか、死傷者が続出した。また、旧幕府軍では脱走兵が相次いだ。
 箱館戦争
  の終結
 
5月12日夜、新政府軍参謀・黒田清隆の命を受けた軍監・村橋久成、
監軍・池田次郎兵衛が諏訪常吉の見舞いと称して箱館病院を往訪。諏訪に降伏交渉の
仲介を頼もうとするが瀕死のため、高松凌雲らと協議し、高松と病院事務長・小野権之丞
の連名で榎本に降伏を勧告する。
弁天台場は艦砲射撃と背後の上陸部隊の攻撃に持ち堪えていたが、艦を失った
海軍兵を収容していたこともあり兵糧が底を付き、5月15日、永井尚志以下240名が
降伏する。5月18日(グレゴリオ暦1869年6月27日)早朝、実行箇条に従い、榎本ら幹部は
亀田の屯所へ改めて出頭し、昼には五稜郭が開城。郭内にいた約1,000名が投降し、
その日のうちに武装解除も完了した。
ここに箱館戦争及び戊辰戦争は終結した。なお、室蘭の開拓と守備に当たっていた
開拓奉行・澤太郎左衛門以下250名は、22日に投降している

函館戦後処理
榎本武揚、松平太郎、大鳥圭介、荒井郁之助、永井尚志、松岡磐吉、相馬主計の7名が、
東京辰の口の軍務官糾問所の牢獄に投獄された(明治5年釈放)
 戊辰戦争
  戦後処理
慶応4年5月24日、新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、田安亀之助に徳川宗家を
相続させ、駿府70万石を下賜することを発表した。
また、諸藩への戦功賞典及び処分のうち主なものを挙げる
戦功賞典
    永世禄
・10万石:島津久光父子(薩摩)、毛利敬親父子(長州)
・4万石:山内豊信父子(土佐)
・3万石:池田慶徳(鳥取)、戸田氏共(大垣)、大村純熈(大村)、島津忠寛(佐土原)、
    真田幸民(松代)
・2万石:佐竹義尭(久保田)、藤堂高猷(津)、井伊直憲(彦根)、池田章政(岡山)、
    鍋島直大(佐賀)、
   毛利元敏(長府)、松前兼広(松前)
・1万5千石:前田慶寧(金沢)、戸沢正実(新庄)、徳川慶勝父子(尾張)、浅野長勲(広島)、
     大関増勤(黒羽)
・1万石:松平慶永父子(福井)、六郷政鑑(本荘)、榊原政敬(高田)、津軽承昭(弘前)、
    戸田忠恕父子(宇都宮)、黒田長知(福岡)、有馬頼咸(久留米)、秋元礼朝(館林)
    など
処分された藩
 ・仙台藩 - 28万石に減封(62万石)。藩主・伊達慶邦は死一等を減じられ謹慎。家老6名
      のうち2名が処刑、さらに2名が切腹させられた。
 ・会津藩 - 陸奥斗南藩3万石に転封(23万石)。藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。
      家老1名が処刑された。
 ・盛岡藩 - 旧仙台領の白石13万石に転封(20万石)。家老1名が処刑された。
 ・米沢藩 - 14万石に減封(18万石)
 ・庄内藩 - 12万石に減封(17万石)
 ・山形藩 - 近江国朝日山へ転封、朝日山藩を立藩。石高は5万石から変わらず。
      家老1名が処刑された。
 ・二本松藩 - 5万石に減封(10万石)
 ・棚倉藩 - 6万石に減封(10万石)
 ・長岡藩 - 2万4千石に減封(7万4千石)。すでに死亡していた処刑が相当の家老2名は
     家名断絶とされた。
 ・請西藩 - 改易(1万石)、藩重臣は死罪。藩主・林忠崇は投獄。のち赦免されるが
     士族扱いとなる。後年、旧藩士らの手弁当による叙勲運動により、養子が他の
     旧藩主より一段低い男爵に叙任された。戊辰戦争による
     除封改易はこの一家のみ。
 ・一関藩 - 2万7000石に減封(3万石)
 ・上山藩 - 2万7000石に減封(3万石)
 ・福島藩 - 三河国重原藩2万8000石へ転封(3万石)
 ・亀田藩 - 1万8000石に減封(2万石)
 ・天童藩 - 1万8000石に減封(2万石)
 ・泉藩 - 1万8000石へ減封(2万石)
 ・湯長谷藩 - 1万4000石へ減封(1万5000石)

所領安堵となった藩
八戸藩 - 藩主・南部信順が島津氏の血縁ということもあり、沙汰無しとなったと言われる。
     また、本家盛岡藩の久保田藩に対する戦闘では、遠野南部氏共々
     尊皇攘夷思想に参加していない。
     また、陰で久保田藩と通じる文書を交わしていることが明らかになっている。
 ・村松藩 - 家老1名が処刑された。
 ・村上藩 - 家老1名が処刑された。
 ・磐城平藩 - 新政府に7万両を献納し、所領安堵となった。
 ・相馬中村藩 - 新政府に1万両を献納し、所領安堵となった。
 ・三春藩  新発田藩  三根山藩  黒川藩
 ・下手渡藩 - 下手渡の陣屋が仙台藩に攻撃されたため、旧領である筑後国三池に
       屋を戻して三池藩を立藩。石高は1万石から変わらず。
明治2年(1869年)5月、各藩主に代わる「反逆首謀者」として仙台藩首席家老・但木成行、
仙台藩江戸詰め家老・坂英力、会津藩家老・萱野長修は東京で、盛岡藩家老・楢山佐渡は
盛岡で刎首刑に処された。続いて仙台藩家老の玉虫左太夫と若生文十郎が切腹させられた。
しかし思想家・大槻盤渓は死を免れた。
 
   
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