明治天皇

  
嘉永5年9月22日 孝明天皇の第二皇子。生母は権大納言・中山忠能の娘・中山慶子
日本の第122代天皇 諱は睦仁(むつひと)。
倒幕・攘夷派の象徴として、また近代日本の指導者と仰がれた。
明治2年(1869年)に再び東京に移り、以後は崩御まで東京に居住した。
明治6年に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年政変では、勅旨をもって西郷隆盛の
朝鮮派遣を中止させてこれを収める
明治15年、軍隊を「天皇の軍隊」と規定した軍人勅諭を発し、大元帥として軍隊の統率にあたり、
軍備の増強に努めた。
明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法を公布した。この憲法は、日本史上初めて天皇の
権限(天皇大権)を明記しており、立憲君主制国家確立の基礎となった。
日本が初めて直面した近代戦争である日清戦争と日露戦争では、天皇は大本営で
直接戦争指導に当たった。
明治45年(1912年)7月、持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発し、宝算61歳(満59歳)で崩御。
 岩倉 具視
  いわくら ともみ

 
 

  大勲位菊花大綬章
文政8年9月15日 公卿・堀河康親の次男として京都に生誕
天保9年(1838年)8月8日、岩倉具慶の養子
1868年1月3日)に入ってから岩倉らが参内し、新政府人事と慶喜の処分を求める王政復古の
大号令案を奏上した。新政府の人事案をめぐっては松平春嶽と大久保利通が論争となる。
最終的には有栖川宮を政府首班の総裁とし、松平春嶽・山内容堂らを議定、岩倉や大久保らを
参与とする新政府が樹立される。明治2年6月の版籍奉還後、再び行政組織の再編
三条実美が行政責任者の右大臣となり、岩倉はその補佐役の大納言に就任した。
明治4年(1871年)2月、三条邸に岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛・木戸孝允・板垣退助ら政府首脳が
集まり、廃藩置県に備えて藩の指揮権に属さない天皇直属の御親兵をつくる必要が
あるということで一致。薩摩・長州・土佐の三藩に兵を出すよう命じ、8,000人の親兵が急遽組織された。
岩倉使節団
岩倉は外務卿(外務省の長官)に就任している。さらに7月には太政大臣が新設されて三条実美が
就任したので岩倉が右大臣を兼務した。
明治4年(1871年)11月使節団には外務卿である岩倉自らが特命全権大使として参加し、参議・
木戸孝允や大蔵卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文らを副使として伴い1年10か月にわたり
欧米諸国を巡り、岩倉は各国で激しいカルチャーショックを受けた。
明治6年8月、岩倉不在の留守政府では西郷隆盛が依然鎖国政策をとって開国を拒否する
李氏朝鮮に軍(一説に平和的使者)を派遣して開国させるべきだと主張してこれに三条実美が
閣議決定を与えていた。岩倉は9月に横浜に到着。
この論争を聞き、すぐに内務優先を唱えて征韓論に反対の立場を表明した。
明治16年(1883年)初め頃には咽頭癌の症状がはっきりと出始めていた。
最後の天皇の見舞いの翌日の7月20日死去。享年59。7月25日に日本初の国葬が執り行われた。
 三条 実美
  さんじょう さねとみ
 
 
  大勲位菊花大綬章
天保8年2月7日 議奏を務める三条実万の三男として生まれる。
安政の大獄で処分された父・実万と同じく尊皇攘夷(尊攘)派の公家
文久3年(1863年)京都を逃れて長州へ移る(七卿落ち)。
慶応3年(1867年)の王政復古で表舞台に復帰、成立した新政府で議定となる。
明治2年(1869年)には右大臣、同4年(1871年)には太政大臣となった。
明治6年の征韓論をめぐる政府内での対立では、西郷らの征韓派と岩倉具視や大久保利通らの
征韓反対派の板挟みになり、岩倉を代理とする。
明治18年(1885年)には太政官制が廃止されて、内閣制度が発足したため、内大臣に転じた
明治22年10月25日、内閣総理大臣・黒田清隆の辞任に伴い、内閣総理大臣を兼任
明治23年(1890年)2月、帝国議会発足により、貴族院公爵議員に。
明治24年、インフルエンザ罹患により55歳で死去。死の直前に正一位を授与。
国葬をもって送られた。
 近衞 篤麿
 
このえ あつまろ
 
文久3年6月26日 左大臣・近衛忠房と島津斉彬娘(実は養女)・貞姫の長男として京都に生まれた
公家の中でも最高の家格をもつ五摂家筆頭の近衛家の当主である篤麿は、その出自とは裏腹に
率直で剛腹な人となりで知られていた。
明治25年)から明治37年)まで貴族院議長の要職を担ったが、当時の藩閥政府には
時の政治には批判的であり、松方正義、大隈重信、山縣有朋、伊藤博文からの入閣の誘いを全て断ってる
小川平吉と頭山らが篤麿を首班にした内閣をつくろうとした中、明治37年)1月1日に死去。
享年42(満40歳没)。中国に渡航したさいに感染した伝染病が原因であった。

明治の歴代総理大臣

 伊藤 博文
   
いとうひろふみ

 

  大勲位菊花大綬章 
明治維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、英語に堪能な事を買われて参与、
外国事務局判事、大蔵兼民部少輔、初代兵庫県知事(官選)、初代工部卿、宮内卿など明治政府の
様々な要職を歴任する。
明治3年(1870年)に発足した工部省の長である工部卿として、殖産興業を推進する。
明治4年(1871年)11月には岩倉使節団の副使として渡米、維新の三傑なき後の明治政府指導者の
1人として辣腕を振るう
明治18年(1885年)12月の内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。
44歳2ヶ月での総理大臣就任は、2015年現在日本の歴代総理大臣の中で最も若い記録である
伊藤が明治25年から第2次伊藤内閣の首相を務めていた時に日清戦争がおこる。
第1次伊藤内閣: 初代 内閣総理大臣  在任期間:1885年12月22日 - 1888年4月30日
第2次伊藤内閣: 第5代 内閣総理大臣 在任期間:1892年8月8日 - 1896年8月31日
第3次伊藤内閣: 第7代 内閣総理大臣 在任期間:1898年1月12日 - 1898年6月30日
第4次伊藤内閣: 第10代 内閣総理大臣 在任期間:1900年10月19日 - 1901年5月10日
初代 韓国統監: 在任期間:1906年3月3日 - 1909年6月14日
明治42年(1909年)10月26日ハルビン駅で、韓国の民族運動家・安重根によって
射殺された。
 黒田 清隆
   くろだ きよたか
 
  

  大勲位菊花大綬章
薩摩藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年から明治2年の戊辰戦争に際しては
北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮をとった。
開拓次官、後に開拓長官として明治3年から明治5年まで北海道の開拓を指揮した。
明治9年に日朝修好条規を締結し、同10年(1877年)の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。
翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となった。 農商務大臣・陸軍中将
しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾された。
在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。
その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。
明治33年(1900年)8月23日、脳出血で死去した。
第1次伊藤内閣:第3代 農商務大臣 明治20年, 第2次伊藤内閣:第6代 逓信大臣 明治25年
第2次伊藤内閣:内閣総理大臣臨時兼任    第2次伊藤内閣:班列
黒田内閣:
第2代 内閣総理大臣 在任期間:1888年4月30日 - 1889年10月25日
 山縣 有朋
  やまがた ありとも
  
 
  大勲位菊花大綬章
長州藩士で高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となる。
戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。
明治2年(1869年)に渡欧し、各国の軍事制度を視察する。
徴兵制を取り入れた(徴兵令)。大村益次郎の実質的な後継者として西郷隆盛の協力を得ることで
軍制改革を断行、山城屋事件で陸軍大輔を辞任
明治10年(1877年)に勃発した西南戦争では参軍として官軍の事実上の総指揮を執ったため、
明治16年(1883年)には内務卿に就任して、市制・町村制・府県制・郡制を制定した。
明治22年、長州出身の陸軍軍人としては初めて第3代内閣総理大臣に就任(第1次山縣内閣)
明治31年(1898年)、第2次山縣内閣発足(第9代 内閣総理大臣)
第1次伊藤内閣・黒田内閣:第1-3代 内務大臣、  第1次伊藤内閣:第7代 司法大臣
第1次山縣内閣:
第3代 内閣総理大臣  在任期間:1889年12月24日 - 1891年5月6日
第2次山縣内閣:
第9代 内閣総理大臣  在任期間:1898年11月8日 - 1900年10月19日 
 松方 正義
  まつかた まさよし
  
 
  大勲位菊花大綬章
薩摩藩士 島津久光の側近として生麦事件、寺田屋事件等に関係した。
明治政府では長崎裁判所参議に任じられ、日田県知事に転任する。
明治18年第1次伊藤内閣において初代大蔵大臣  明治24年 第4代 内閣総理大臣
大蔵卿、大蔵大臣(初・第2・第3・第4・第6・第8・第11代)を長期間務める
大正13年(1924年)7月2日、呼吸不全により死去(89歳)。
第1次伊藤内閣、黒田内閣、第1次山縣内閣、第1次松方内閣 :初代 大蔵大臣
在任期間:1885年12月22日 - 1892年8月8日
第5代 大蔵大臣 1896年9月18日 - 1898年1月12日)、 
第8代 大蔵大臣 1898年11月8日 - 1900年10月19日)
第1次松方内閣 第8代 内務大臣    在任期間:1892年6月8日 - 1892年7月14日
第2次伊藤内閣 第3代 大蔵大臣    在任期間:1896年3月17日 - 1896年8月27日
第1次松方内閣
 第4代 内閣総理大臣 在任期間:1891年5月6日 - 1892年8月8日
第2次松方内閣 
第6代 内閣総理大臣 在任期間:1896年9月18日 - 1898年1月12日 
 大隈 重信
  おおくま しげのぶ
  

  大勲位菊花大綬章 
佐賀藩士,尊王派として活動した。
明治維新に際しては小松清廉の推挙により明治元年、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた
明治3年に参議に補され、明治6年)5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。
明治14年(1881年)10月12日、参議を免官となった。いわゆる明治十四年の政変である。
10月15日付で辞表を提出した。野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治15年3月には
小野梓とともに立憲改進党を結成、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。
明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任
明治22年には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃
(大隈重信遭難事件)を受け、右脚を切断するとともに辞職した
明治31年(1898年)6月に板垣退助らと憲政党を結成し、同年6月30日に薩長藩閥以外からでは
初の
第8代内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。
明治40年(1907年)、いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任
大正3年(1914年)にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、2度目の内閣を
第1次伊藤内閣・黒田内閣:第3・4代 外務大臣、 第2次松方内閣:第11代 農商務大臣
第2次大隈内閣:第30代 内務大臣
第1次大隈内閣:
第8代 内閣総理大臣   在任期間:1898年6月30日 - 11月8日
第2次大隈内閣:
第17代 内閣総理大臣  在任期間:1914年4月16日 - 1916年10月9日 
 桂 太郎
  かつら たろう
  
  大勲位菊花大綬章 
長州藩士,陸軍大将
戊辰戦争では奥羽鎮撫総督の参謀添役や第二大隊司令として奥羽各地を転戦
明治3年(1870年)年8月、桂はドイツに留学した
陸軍卿の山縣有朋に依頼し、桂を陸軍に入れて大尉に任命した。
日清戦争には名古屋の第3師団長として出征た。その後、台湾総督を経て、第3次伊藤内閣で
陸軍大臣になり、第4次伊藤内閣の途中まで4つの内閣をまたぐ形でその任を務めた。
第1次桂内閣:陸軍大将の桂太郎が第11代内閣総理大臣に任命され、
1901年(明治34年)6月2日から1906年(明治39年)1月7日まで続いた日本の内閣である。
明治41年(1908年)7月から同44年(1911年)8月に第2次内閣
大正元年(1912年)12月から同2年(1913年)2月に第3次内閣を組閣する。
大正2年(1913年)10月死去、享年67
 第3次伊藤内閣・第1次大隈内閣・第2次山縣内閣・第4次伊藤内閣:第9-12代 陸軍大臣
 第1次桂内閣:
第11代 内閣総理大臣  在任期間:1901年6月2日 - 1906年1月7日
 第2次桂内閣:
第13代 内閣総理大臣  在任期間:1908年7月14日 - 1911年8月30日
 第3次桂内閣:
第15代 内閣総理大臣  在任期間:1912年12月21日 - 1913年2月20日
 西園寺 公望
  さいおんじ きんもち

   
嘉永2年10月22日清華家の一つ徳大寺家当主徳大寺公純と妻の末弘斐子の次男として誕生した
戊辰戦争において官軍の方面軍総督を務め、フランス留学後には伊藤博文の腹心となった。
明治元年10月28日(1868年)、新潟府知事に就任した。
翌明治2年、東京に戻った西園寺は木戸孝允らのすすめで開成学校に入り、フランス語の勉強
明治13年10月21日(1880年)には留学を終え、10年ぶりに帰国した
明治14年11月24日、西園寺は参事院議官補に任じられ、官界に入った
明治18年(1885年)には駐ウィーン・オーストリア=ハンガリー帝国公使
明治21年(1888年)6月には駐ベルリン・ドイツ帝国公使兼ベルギー公使
明治22年(1889年)にはリウマチを発病し、これは生涯の持病となった
明治27年には病気で辞任した井上毅の後任の文部大臣として、第2次伊藤内閣に初入閣を果たす
明治39年(1906年)1月7日、桂内閣から禅譲される形で第1次西園寺内閣が成立した。
明治43年8月、桂と原の交渉の結果、桂内閣が辞職し、後継首相に西園寺が就任することになった
以下大正期省略
昭和15年(1940年) 11月24日、薨去 90歳 12月5日、国葬。
第2次伊藤内閣・第2次松方内閣:第7代 文部大臣  第9-10代 外務大臣
第3次伊藤内閣:第10代 文部大臣
第1次西園寺内閣:
第12代 内閣総理大臣  在任期間:1906年1月7日 - 1908年7月14日
第2次西園寺内閣:
第14代 内閣総理大臣  在任期間:1911年8月30日 - 1912年12月21日 

明治維新の立役者達

 西郷 隆盛
  さいごうたかもり 

 

  「維新の三傑」
文政10年12月7日 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男
慶応4年1月3日、大坂の旧幕軍が上京を開始し、幕府の先鋒隊と薩長の守備隊が衝突し、
鳥羽・伏見の戦いが始まった(戊辰戦争開始)。
西郷は2月12日に東海道先鋒軍の薩摩諸隊差引(司令官)、14日に東征大総督府下参謀
に任じられると、独断で先鋒軍(薩軍一番小隊隊長・中村半次郎、二番小隊隊長・村田新八、
三番小隊隊長・篠原国幹らが中心)を率いて先発し、2月28日には東海道の要衝箱根を占領した。
3月13日、14日、勝海舟と会談し、江戸城明け渡しについての交渉をした。
明治元年9月「東北戦争」は新政府の勝利で幕を閉じた。11月鹿児島に帰る
明治3年7月27日、鹿児島藩士で集議院徴士の横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する
諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により
新政府から人心が離れつつあり、12月危機感を抱いた政府から勅使・岩倉具視、副使・
大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、
欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。
明治4年1月3日、西郷と大久保は池上を伴い「政府改革案」を持って上京するため鹿児島を出帆
7月5日、制度取調会の議長となり、6日に委員の決定権委任の勅許を得た。
これより新官制・内閣人事・廃藩置県等を審議し、大久保・木戸らと公私にわたって議論し、
朝議を経て、14日、明治天皇が在京の藩知事(旧藩主)を集め、廃藩置県の詔書を出した。
この間に新官制の決定や内閣人事も順次行い、7月29日頃には以下のような顔ぶれになった
・太政大臣(三条実美)  ・大蔵大輔(井上馨)  ・右大臣兼外務卿(岩倉具視
・文部大輔(江藤新平)  ・参議(西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助、大隈重信)
・大蔵卿(大久保利通)、  ・宮内大輔(万里小路博房) ・・文部卿(大木喬任)
・外務大輔(寺島宗則),  ・兵部大輔(山縣有朋
留守政府
明治4年(1871年)11月12日、三条・西郷らに留守内閣(留守政府)をまかせ、
命全権大使・岩倉具視、副使・木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ら外交使節団が
条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した
西郷らは明治4年(1871年)からの官制・軍制の改革および警察制度の整備を続け、
同5年(1872年)2月には兵部省を廃止して陸軍省・海軍省を置き、3月には御親兵を廃止して
近衛兵を置いた。7月29日、陸軍元帥兼参議に任命された。
このときに山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督・山縣有朋が辞任したため、
薩長の均衡をとるために三弟・西郷従道を近衛副都督から解任した。
明治6年(1873年)5月に徴兵令が実施されたのに伴い、元帥が廃止されたので、
西郷は陸軍大将兼参議となった。
明治6年(1873年)の対朝鮮問題は李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、
居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの
裁決が必要であると報告。板垣が武力による修好条約締結(征韓論)を主張したのに対し、
西郷は武力を不可として、自分が旧例の服装で全権大使になる(遣韓大使論)と主張して対立した。
9月、岩倉が帰国すると征韓論に反対が木戸孝允・大久保利通・大隈重信・大木喬任で西郷は
辞職した。翌25日になると、板垣・副島・後藤・江藤らの参議も辞職した。
この一連の辞職に同調して、征韓論・遣韓大使派の林有造・桐野利秋・篠原国幹・淵辺群平
別府晋介・河野主一郎・辺見十郎太をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に
辞任した。この後も辞職が続き、遅れて帰国した村田新八・池上四郎らもまた辞任した
山川の鰻温泉で休養していた明治7年(1874年)3月1日、佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪し
翌日、指宿まで見送った(江藤は土佐で捕まった)。
明治7年6月頃に旧厩跡に私学校がつくられた。その後西南戦争へと進み
明治10年9月24日鹿児島 城山にて自害 享年51(満49歳没)。
「西南戦争」は別記参照」
思想
・「敬天愛人」 「児孫のために美田を買わず」
・「己を利するは私、民を利するは公、公なる者は栄えて、私なる者は亡ぶ」
・「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も
      同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」
・「急速は事を破り、寧耐は事を成す」
・「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る
   人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」
・「人を相手にせず、天を相手にして、おのれを尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」
 大久保 利通
  おおくぼとしみち

  
 
   「維新の三傑」
文政13年8月10日鹿児島城下高麗町に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳の
長男として生まれる。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分で下級藩士であった。
明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の
中央集権体制確立を行う。
明治4年には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊
外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や板垣退助ら
征韓派と対立し、明治六年政変にて西郷らを失脚させた。
明治6年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握ると、
学制や地租改正、徴兵令などを実施した。そして「富国強兵」をスローガンとして、
殖産興業政策を推進した。
明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発すると、直ちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。
明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。また自ら総裁となり、上野公園で
8月21日から11月30日まで、第1回内国勧業博覧会を開催している。
明治11年5月14日、石川県士族の島田一郎、長連豪、杉本乙菊、杉村文一、脇田巧一および
島根県士族・浅井寿篤により紀尾井坂(千代田区紀尾井町)にて殺害された(紀尾井坂の変)。
享年49〈数え年〉、満47歳没
 木戸 孝允
  きど たかよし
  
桂 小五郎

 

  「維新の三傑」
明治維新の元勲であり、西郷隆盛、大久保利通と並んで「維新の三傑」と称される。
天保4年6月26日 萩城下呉服町(今の山口県萩市)に藩医・和田昌景の長男として生まれる。
明治新政府にあっては、右大臣の岩倉具視からもその政治的識見の高さを買われ、
ただひとり総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となる。
太政官制度の改革後、外国事務掛・参与・参議・文部卿などを兼務していく。
明治4年7月9日、木戸邸に大久保利通、西郷隆盛の他に、西郷従道、大山巌、山県有朋、
井上馨らの薩長要人が集まり、廃藩置県断行の密議が行われた。
海外視察組(岩倉・木戸・大久保・伊藤たち)と留守政府組(三条・西郷・江藤・大隈・板垣たち)との
間には、「海外視察が終わるまで、郵送文書での合意なくして明治政府の主要な体制・人事を
変更しない」という約束が交わされていた。
留守政府による征韓論の方針は、海外視察組には到底承伏し難い暴挙にしか見えなかった。
明治7年(1874年)5月には、これに抗議して参議を辞職している。
明治8年(1875年)8月、大阪会議に招待する。板垣もこれに加わり、
木戸と板垣は、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立を条件として参議復帰を受け入れ、
直ちに立憲政体の詔書が発布される。
明治7年(1874年)2月に勃発した佐賀の乱、 明治9年(1876年)10月に勃発した萩の乱
士族の反乱後、明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発し、木戸は自ら西郷軍征討の任にと
希望したが、伊藤博文はこれらに反対した。木戸は明治天皇とともに京都へ出張する。
かねてから重症化していた病気が悪化。明治天皇の見舞いも受けるが、5月26日、朦朧状態の中、
大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じる言葉を
発したのを最後にこの世を去った 享年45(満43歳没)。
剣豪で有名 
 板垣 退助
  いたがきたいすけ
  
 
天保8年4月17日土佐藩上士(馬廻格・300石)乾正成の嫡男として、高知城下中島町に生まれた。
乾家は武田信玄の重臣であった板垣信方を祖とした家柄である
退助は土佐藩の上士としては珍しく武力倒幕を一貫して主張していた
(当時の土佐藩上士は公議政体論が主流)。
戊辰戦争では土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、
東山道先鋒総督府の参謀として従軍した。
明治2年(1869年)、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任する。
明治3年(1870年)に高知藩の大参事となり「人民平均の理」を発令する。
明治4年(1871年)に参議となる。
板垣は率先して征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって反故され
板垣・西郷に倣って職を辞する官僚600余名に及び、板垣と土佐派の官僚が土佐で自由民権を
唱える契機となった(明治六年政変)。
明治8年に参議に復帰し大阪会議に参加したが、間もなく辞職して自由民権運動を推進した。
明治14年(1881年)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、
自由党を結成して総理(党首)となった。
明治15年(1882年)4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した
その際、板垣は襲われた後に竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら
これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。
明治23年の帝国議会開設後には河野広中や大井憲太郎らとともに立憲自由党を再興した。
明治29年(1896年)、議会内で孤立していた自由党は第2次伊藤内閣と協力の道を歩み、
板垣は内務大臣として入閣。続く第2次松方内閣においても留任したがすぐに辞任した。
明治31年(1898年)、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、
日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣する。
大正8年(1919年)7月16日、死去
 後藤 象二郎
  ごとう しょうじろう
   
 
天保9年3月19日土佐藩士・後藤正晴(馬廻格・150石)の長男として高知城下片町に生まれる。
少年期に父を失い義理の叔父・吉田東洋に預けられて育ち、吉田が開いた少林塾に学ぶ。
新政府では大阪府知事や参与、左院議長、参議、工部大輔などの要職に就くが、
明治6年(1873年)の征韓論争に敗れて板垣退助、西郷隆盛らと共に下野する(明治六年政変)。
その後、板垣や江藤新平・副島種臣らと共に愛国公党を結成し、民選議院設立を建白する。
明治14年、自由党の結成に際しては、板垣に次ぐ副党首格で参加し大同団結運動を推進するが、
のちに政府への協力に転じる。
明治20年5月、伯爵を授けられる。進歩党結成にも尽力し、黒田内閣や第1次松方内閣で
逓信大臣、第2次伊藤内閣では農商務大臣などを歴任。
しかし、明治27年5月、商品取引所の開設にまつわる収賄事件の責任をとって大臣職を辞した。
明治29年(1896年)夏頃、心臓病を患って、翌明治30年(1897年)8月4日薨去。享年60。
 江藤 新平
  ごとう しょうじろう
  
 
天保5年2月9日佐賀藩士の江藤胤光と妻・浅子の間に長男として生まれる。
戊辰戦争で江藤は東征大総督府軍監に任命され、土佐藩士の小笠原唯八とともに江戸へ偵察に
明治3年(1870年)1月には佐賀に帰郷して着座(準家老)に就任して藩政改革を行うが後に
中央に呼び戻され、同年11月に太政官中弁となる。
明治5年(1872年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任。その間に学制の基礎固め
四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。特に司法制度の整備に功績を残す。
明治6年(1873年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・
後藤象二郎・副島種臣と共に10月24日に下野。
明治7年1月10日に愛国公党を結成し1月12日に民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。
2月16日夜、憂国党が武装蜂起し士族反乱である佐賀の乱が勃発する。佐賀軍は県庁として
使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、
その約半数に損害を与えて遁走させた。政府軍は司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って
佐賀軍は敗走する。江藤は征韓党を解散して逃亡し、3月1日に鹿児島鰻温泉の福村市左衛門方
方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。続いて3月25日、
高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。
現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。
4月13日に梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に嘉瀬刑場において処刑された。
 前原 一誠
  まえばら いっせい
  
 
天保5年、長門国土原村(萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組47石)の長男として生まれ、
吉田松陰の松下村塾に入門する。   
維新の十傑
戊辰戦争では北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。
維新後は越後府判事(次官)や参議を勤める。大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、
また、大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。
やがて、徴兵制を支持する山縣有朋に追われるように下野し、萩へ帰郷する。
新政府の方針に不満をもった前原は明治9年(1876年)、奥平謙輔とともに不平士族を集めて
萩の乱を引き起こしたが、即座に鎮圧されて捕らえられ、萩にて処刑された。享年43。
辞世の詩 、「吾今国の為に死す、死すとも君恩に背かず。人事通塞あり、乾坤我が魂を弔さん。」
 川路 利良
   かわじ としよ

   
天保5年5月 薩摩藩与力(準士分)・川路利愛の長男として在比志島村に生まれる。
薩摩藩の家臣は上士、郷士などに分かれ、川路家は身分の低い準士分であった。
維新後の明治4年(1871年)、西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事、典事に累進。
翌年、邏卒総長に就任し、司法省の西欧視察団(8人)の一員として欧州各国の警察を視察する。
帰国後、警察制度の改革を建議し、ジョゼフ・フーシェに範をとったフランスの警察制度を参考に
日本の警察制度を確立した。
明治7年(1874年)、警視庁創設に伴い満40歳で初代大警視(後の警視総監)に就任
明治六年政変で西郷隆盛が下野すると、薩摩出身者の多くが従ったが、川路は「私情においては
においてはまことに忍びないが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。
大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」と表明した。
薩摩出身の中原尚雄ら24名の警察官を「帰郷」の名目で鹿児島県に送り込み、不平士族の
離間工作を図ったが、中原らは西郷の私学校生徒に捕らえられた。
苛烈な拷問が行われた結果、川路が西郷を暗殺するよう指示したという「自白書」がとられ、
川路は不平士族の間では大久保と共に憎悪の対象とされた。西南戦争勃発後
川路は陸軍少将を兼任し、警視隊で組織された別働第三旅団の長として九州を転戦する。
終戦後の明治11年(1878年)3月、黒田清隆の妻が急死した際、かねてより酒乱で知られていた
黒田が酒に酔って妻を斬り殺したとの噂が流れたため、川路が墓を開け、病死であることを
確認したと発表した。これについては、川路も薩摩出身であることから黒田をかばってもみ消した
したという見方が当時からあり、同年5月に発生する、川路の庇護者であった大久保利通の
暗殺(紀尾井坂の変)の遠因になったともいわれる。
明治12年(1879年)1月、再び欧州の警察を視察。
10月8日帰国。しかし東京に帰着すると病状は悪化、10月13日に死去した。享年46
 広沢 真臣
  ひろさわ さねおみ 
天保4年12月29日(1834年2月7日) - 明治4年1月9日(1871年2月27日)) 維新の十傑
長州藩士・柏村安利の四男として誕生する
参与や海陸軍務掛、東征大総督府参謀を務め、民部大輔や参議の要職を務めた。
明治4年(1871年)1月9日、東京府麹町富士見町私邸での宴会後の深夜、刺客の襲撃によって
暗殺された。享年39。死後、正三位を贈位される。
 
 大村 益次郎
  おおむら ますじろう 
文政8年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日) 維新の十傑
明治2年(1869年)6月2日、戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り、木戸孝允(桂小五郎)、
大久保利通と並び、新政府の幹部となった。
大村は諸藩の廃止、廃刀令の実施、徴兵令の制定、鎮台の設置、兵学校設置による職業軍人の
育成など、後に実施される日本軍建設の青写真を描いていた。
明治2年9月3日、京へ帰る。翌4日夕刻、大村は京都三条木屋町上ルの旅館で、
元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら8人の刺客に襲われる。静間と安達は死亡
大村は重傷を負った。11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し、5日の夜に死去した。享年46。
太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の
創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。 
 佐佐木 高行
  ささき たかゆき
    
文政13年10月12日(1830年11月26日) - 明治43年(1910年)3月2日)
土佐藩士・佐々木高順(100石)の二男として生れる。
明治政府では参議・司法大輔・侍補を務め、明治4年(1871年)からは岩倉使節団の一員として
欧米各国を巡る。
谷干城・元田永孚らともに「天皇親政運動」を主導して、明治天皇を擁して伊藤博文ら政府要人の
排除に動いたために「中正党」と称された。明治十四年の政変による人事異動で参議・工部卿に就任。

 福岡 孝弟
  ふくおか たかちか
    
天保6年2月5日(1835年3月3日) - 大正8年(1919年)3月7日)
土佐藩士・福岡孝順(180石)の次男として生まれる。
明治維新では、後藤や板垣らと共に徴士参与として新政府に出仕。
政府内では土佐閥の一人として、司法大輔に任ぜられた。
その後、元老院議官、文部卿、参議、枢密顧問官、宮中顧問官などの要職を歴任した。
大正8年(1919年)3月7日、薨去。享年85



              明治の各大臣歴任
 寺島 宗則
  てらしまむねのり
  
 
天保3年5月薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦の郷士・長野成宗の次男として生まれる
5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、長崎で蘭学を学ぶ
明治維新後、遣欧使節での経験を生かして外交官となる。
明治元年(1868年)にはスペインとの日西修好通商航海条約の締結に関わり、
同4年(1871年)にはハワイ王国との日布通商条約締結の際の日本側全権を任されている。
明治5年(1872年)、初代の在イギリス日本公使となる。
明治6年(1873年)、
参議兼外務卿となる。
明治12年(1879年)に外務卿を辞職。その後、文部卿、元老院議長、在アメリカ日本公使、
枢密顧問官、枢密院副議長などを歴任した。
明治26年(1893年)、62歳で死去

 谷 干城
  たに  たてき
   
 
天保8年2月儒学者・谷景井(萬七)の四男として土佐国高岡郡窪川に生まれた。
戊辰戦争では、板垣退助の率いる迅衝隊の大軍監として北関東・会津戦線で活躍する。
明治4年(1871年)の廃藩後、兵部権大丞として新政府に出仕し、
翌年には陸軍少将として熊本鎮台司令長官となる。神風連の乱後、再び熊本鎮台司令長官となる
明治7年5月から12月の台湾出兵に際しては陸軍中将・西郷従道の下に海軍少将・赤松則良と
共に参戦した。明治10年の西南戦争の際には52日にわたって西郷軍の攻撃から熊本城を死守し、
政府軍の勝利に貢献した。西南戦争の功績により陸軍中将に昇進、陸軍士官学校長となった。
軍人から政治家へ
明治18年(1885年)、第1次伊藤内閣の
初代農商務大臣に就任するが、閣内の国権派として
伊藤内閣の欧化政策(当時の外相は井上馨)を批判し、条約改正問題で辞任した。
日露戦争時には、健全財政論・防御中心の軍備を主張する政治的立場から開戦に反対した。
明治44年(1911年)死去。享年75

 井上 毅
  いのうえ こわし
   
 
天保14年12月肥後国熊本藩家老・長岡是容の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。
明治3年には貢進生として開成学校で学ぶ。翌4年(1871年)に明治政府の司法省に仕官し、
フランス語ができたため司法省の西欧使節団(8人)の一員として明治5年(1872年)に渡欧、
フランス中心に司法制度の調査研究を行った。翌6年(1873年)の帰国後に大久保利通に登用され、
大久保の暗殺後は岩倉具視のブレーンとして活躍、太政官大書記官を務める。
明治21年)2月7日 - 法制局長官(勅任官一等) 任官、賜下級俸
明治23年(1890年)には枢密顧問官となり、
明治26年発足の第2次伊藤内閣においては
文部大臣を務めるが、翌27年(1894年)に辞任、
明治28年(1895年)に51歳で死去。
 井上 毅
  いのうえ かおる
  
  大勲位菊花大綬章 
天保6年11月 長州藩士・井上光亨(五郎三郎、大組・100石)周防国湯田村次男として生まれる。
文久3年(1863年)、執政・周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願、伊藤・山尾庸三・井上勝・
遠藤謹助と共に長州五傑の1人としてイギリスへ密航するが、開国に転じる
明治2年6月に政府の意向で大阪へ赴任、7月に造幣局知事へ異動となり
明治維新後は木戸孝允の引き立てで大蔵省に入り、伊藤と行動を共にし、主に財政に力を入れた。
明治4年(1871年)7月に廃藩置県の秘密会議に出席、同月に副大臣相当職の大蔵大輔に昇進、
大蔵卿・大久保利通が木戸や伊藤らと岩倉使節団に加わり外遊中は留守政府を預かり、
事実上大蔵省の長官として「今清盛」と呼ばれるほどの権勢をふるう。
文部卿・大木喬任や地方の裁判所設置と司法権の独立を目指す司法卿・江藤新平との対立も発生した。
第1次伊藤内閣:
初代外務大臣    在任期間:1885年12月22日 - 1887年9月17日
黒田内閣:
第5代 農商務大臣    在任期間:1888年7月25日 - 1889年12月23日
第2次伊藤内閣:
第10代 内務大臣   在任期間:1892年8月8日 - 1894年10月15日
第3次伊藤内閣:
第6代 大蔵大臣   在任期間:1898年1月12日 - 6月30日 
 大木 喬任
  おおき たかとう
  
 
天保3年3月肥前国佐賀藩の45石の藩士大木知喬の長男として生まれる。
1868年(明治元年)に新政府が樹立されると、大隈・副島・江藤らとともに出仕し、徴士、参与、
軍務官判事、東京府知事などを務めた。
明治4年)に民部卿、文部卿として学制を制定。
明治5年)に教部卿を兼任。
明治6年)、
参議兼司法卿。戸籍編成の主導権を巡り大蔵省の大隈と対立。
大久保利通の側近となり、民部大輔として戸籍法制定を行い、のち
民部卿に任命されるが
大隈の巻き返しで民部省は大蔵省に統合された。
第1次山縣内閣:臨時
司法大臣 在任期間:1890年12月25日 - 1891年2月7日
第2代 枢密院議長:在任期間 1889年12月24日 - 1891年6月1日
1899年(明治32年)に死去、享年67

 伊東 巳代治
   いとう みよじ
    
 
安政4年5月長崎町年寄伊東善平の3男として長崎酒屋町で誕生。
明治4年(1871年)に明治政府の工部省の試験に合格して上京、電信技師となったが退職、
伊藤の側近として事務作業に従事し明治11年(1878年)に内務省へ異動、
明治13年に太政官権少書記官、明治14年(1882年)に参事院議官補兼書記官を歴任した。
明治18年(1885年)に第1次伊藤内閣が誕生すると首相となった伊藤の首相秘書官となった
明治19年(1886年)から井上毅・金子堅太郎と共に大日本帝国憲法起草に参画。
第2次伊藤内閣 
第5代内閣書記官長 在任期間:1892年8月8日 - 1896年8月31日
第3次伊藤内閣 
第13代農商務大臣  在任期間:1898年1月12日 - 1898年4月26日
昭和9年(1934年)2月19日に76歳で死去。

 金子 堅太郎
   かねこ けんたろう
  

従一位大勲位菊花大綬章 
嘉永6年2月福岡藩士勘定所附・金子清蔵直道の長男として、筑前国早良郡鳥飼村に生まれる。
明治4年、岩倉使節団に同行した藩主・黒田長知の随行員となり、團琢磨とともにアメリカに留学。
内閣総理大臣秘書官として、伊藤博文のもとで井上毅、伊東巳代治らとともに大日本帝国憲法・
皇室典範、諸法典の起草にあたる。のちに憲法制定の功績により男爵となる。
その後、明治22年から翌年にかけて、欧米諸国視察。帰国後、日本法律学校(日本大学の前身)
初代校長就任。貴族院勅選議員、初代貴族院書記官
1894年(明治27年)1月、第2次伊藤内閣の農商務次官就任。
第3次伊藤内閣 
第14代 農商務大臣 在任期間:1898年4月26日 - 同6月30日
第4次伊藤内閣 
第10代 司法大臣   在任期間:1900年10月19日 - 1901年6月2日
1942年(昭和17年)5月16日、永眠(89歳)

 佐野 常民
   さの つねたみ
    
 
文政5年12月:佐賀藩士下村三郎左衛門の5男として佐賀に生まれる。
天保2年)に佐賀藩医佐野常徴の養子となり、佐賀藩の前藩主・鍋島斉直から栄寿の名を授かった。
明治3年)3月~10月までの8か月間、兵部少丞に就任し、日本海軍の基礎創りに尽力する。
明治4年)、初代燈台頭に就任し、洋式燈台の建設にあたる
明治13年)、大蔵卿に就任するが、翌年の政変で辞任する。
明治15年)、元老院議長に就任する。
明治20年)、博愛社を日本赤十字社と改称し、初代社長に就任する。
明治25年)、第1次松方内閣で
農商務大臣に就任する。
(明治27年)の日清戦争や、明治33年)の義和団の乱で日本赤十字社は、戦時救護活動を行う。
明治35年)、東京の自宅で死去、80歳。勲一等旭日桐花大綬章

 榎本 武揚
  えのもと たけあき
   
 
天保7年8月江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に旗本・榎本武規の次男として生まれた
明治2年5月17日箱館湾海戦による全艦喪失と、蝦夷方の劣勢は決定的となり、榎本は降伏した。
明治5年(1872年)1月6日、榎本は特赦出獄、その才能を買われて新政府に登用された。
明治7年(1874年)1月、駐露特命全権公使となり、同年6月、サンクトペテルブルクに着任。
翌明治8年(1875年)8月、樺太・千島交換条約を締結した。
明治13年(1880年)2月28日 - 海軍卿に任ぜられる。
明治15年(1882年) - 皇居造影事務副総裁に就任。
明治18年(1885年)内閣制度発足。第1次伊藤内閣の
逓信大臣に就任
明治21年(1888年) - 黒田内閣の
逓信・農商務大臣を兼任
明治22年(1889年)2月12日 - 森有礼暗殺。武揚、森の後任として黒田内閣の
文部大臣
            のち第1次山縣内閣でも留任
明治24年5月21日 - 第1次松方内閣の
外務大臣に就任
明治41年(1908年)10月26日 - 死去。享年72   勲一等旭日桐花大綬章
 青木 周藏
  あおき しゅうぞう
  
天保15年1月長州藩の村医・三浦玄明の長男として生まれ
宮廷大典医となる青木研藏(1815年 - 1870年)の養子となって士族となる
明治元年)、藩留学生としてドイツ留学
医学から政治、経済学に無断転科し問題となったが来独中の山縣有朋に談判して解決させた。
明治6年)に外務省入省。外務省一等書記官を経て本省に勤務したが、翌明治7年)には
駐独代理公使さらに駐独公使となってドイツに赴任
明治19年)、第1次伊藤内閣の井上馨外務大臣のもとで外務次官
明治31年)、第2次山縣内閣では再び
外務大臣に就任明治24年)、第1次松方内閣でも
外務大臣を留任明治22年)12月24日に第1次山縣内閣の
外務大臣に就任

 陸奥 宗光
  うむつ むねみつ
   
天保15年:紀州藩士・伊達宗広と政子(渥美氏)の六男として生まれる。
明治維新後は岩倉具視の推挙により、外国事務局御用係
兵庫県知事(1869年)、神奈川県令(1871年)、地租改正局長(1872年)などを歴任するが
薩長藩閥政府の現状に憤激し、官を辞し、和歌山に帰った。
明治10年(1877年)の西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆を謀ったが
陸奥は土佐派と連絡を取り合っていた。翌年にこのことが発覚し、除族のうえ禁錮5年の刑を受け、
投獄された。明治16年(1883年)1月、特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあって
ヨーロッパに留学する。明治19年(1886年)2月に帰国し、10月には外務省に出仕した。
明治21年(1888年)、駐米公使となり、同年、駐米公使兼駐メキシコ公使として
メキシコ合衆国との間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功する。
帰国後、第1次山縣内閣の
農商務大臣に就任。明治23年(1890年)、大臣在任中に
第1回衆議院議員総選挙に和歌山県第1区から出馬し初当選を果たし、1期を務めた。
第2次伊藤内閣に迎えられ
外務大臣に就任、明治27年イギリスとの間に日英通商航海条約を締結
明治30年(1897年)8月24日、肺結核のため西ヶ原の陸奥邸で死去。享年54
勲一等旭日大綬章
 西 徳二郎
   にし とくじろう
  
 
弘化4年:薩摩藩出身
明治3年) ロシア ペテルブルク大学に留学
1886年6月 駐ロシア公使を拝命(兼スウェーデン、ノルウェー公使)。
明治30年)11月6日-1898年(明治31年)1月12日 第2次松方正義内閣の
外務大臣就任。
明治31年)1月12日-1898年(明治31年)6月30日 第3次伊藤博文内閣の
外務大臣就任。
明治31年)4月25日 第3次日露協定
明治32年)12月27日、勲一等旭日大綬章受章
子に太平洋戦争末期の硫黄島の戦いで戦没した「バロン西」こと西竹一陸軍大佐がいる
 
 加藤 高明
   かとう たかあき
   
 
安政7年1月:尾張藩の下級藩士である服部重文・久子夫妻の次男として生まれた。
明治5年(1872年)、祖母・加奈子の姉あい子の嫁ぎ先である加藤家に養子に入る
明治14年(1881年)7月に東京大学法学部を首席で卒業し、法学士の学位を授与された
明治20年(1887年)より官界入りし、外務大臣・大隈重信の秘書官兼政務課長や駐英公使を歴任。
明治33年(1900年)には第4次伊藤内閣の外務大臣に就任し、日英同盟の推進などに尽力した。
その後、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長、第1次西園寺内閣の
外務大臣、駐英公使、
第3次桂内閣の
外務大臣を歴任する。
その間、衆議院議員を1期務め、後に貴族院勅選議員に勅任された。
第24代 内閣総理大臣:在任期間 1924年6月11日 - 1926年1月28日(大正期)
 曾禰 荒助
  そね あらすけ
  
  旭日桐花大綬章
嘉永2年:萩藩の家老の宍戸家の出身で、宍戸潤平の三男として生まれた。
曾禰詳蔵高尚の養子となり、曾禰姓を名乗るようになった。
明治5年(1872年)、フランス留学を命じられて5年後に帰国。
明治12年(1879年)、陸軍省勤務。翌年から士官学校勤務を兼ねた。
明治19年(1886年)4月に内閣記録局長、
第1次松方内閣の解散に伴って衆議院選挙に出て、山口4区から初当選を果たした。
明治26年(1893年)に駐フランス全権公使に任じられた。
明治31年(1898年)に第3次伊藤内閣が発足すると
司法大臣に就任。以後、農商務大臣、
大蔵大臣、外務大臣
等を歴任
特に日露戦争時は、外債の不足に苦慮したが、大蔵大臣として大任を果たした。
明治43年(1910年)、病により同職を辞したが、併合の完成を病床で聞いて没した。享年62。

 小村 壽太郎
   こむら じゅたろう
   
 
  旭日桐花大綬章
安政2年9月日向国飫肥藩の下級藩士・小村寛平と梅子の長男として生まれる。
明治3年、貢進生として大学南校(東京大学の前身)に入学。第1回文部省海外留学生に選ばれて
ハーバード大学へ留学し、法律を学んだ。
帰国後は司法省に入省し、大審院判事を経て、1884年に外務省へ転出する。陸奥宗光に
認められて、1893年に清国代理公使を務めた。
日清戦争(1894年-1895年)。乙未事変の後、三浦梧楼に代わって駐韓弁理公使を務め、
在朝鮮ロシア総領事のカール・ヴェーバーと小村・ウェーバー覚書を交わした。
その後、外務次官、1898年に駐米・駐露公使を歴任。1900年(明治33年)の義和団の乱では
講和会議全権として事後処理にあたった。
明治34年、第1次桂内閣の
外務大臣に就任。
明治35年、日英同盟を積極的に主張して締結に持ち込む。
日露戦争後の明治38年、ポーツマス会議日本全権としてロシア側の全権ウィッテと交渉し、
ポーツマス条約を調印。明治41年)成立の第2次桂内閣の
外務大臣に再任する。
明治44年)に日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした。

 林 董  
  はやし ただす
   
 
 勲一等旭日桐花大綬章
嘉永3年:下総国佐倉藩の蘭医佐藤泰然の五男として生まれ、後に幕府御典医林洞海の養子
明治2年)5月、蝦夷函館政権降伏し、捕虜となり、弘前藩預けの上、禁錮に処せらる
明治3年)4月、禁錮の処分を解かれ、横浜に赴く。
敗戦後、香川・兵庫の県知事、ロシア・イギリスの駐在公使、外務大臣、逓信大臣などを務めた。
董の孫・忠雄は三菱財閥の4代目総帥・岩崎小弥太の養嗣子となった。
明治35年)1月30日に、在英日本公使としてロンドンで日英同盟を調印した。
明治44年)8月30日、
逓信大臣(第2次西園寺公望内閣)となり、外務大臣を臨時兼任。

 山田 顕義
   やまだ あきよし
  
     
陸軍中将
 
勲一等旭日桐花大綬章 
天保15年:長州藩士である山田七兵衛顕行(大組士、禄高102石、藩海軍頭)の長男として生まれる
鳥羽・伏見の戦いにおいて新政府征討総督・仁和寺宮嘉彰親王の副参謀に任命される。
陸軍参謀兼海陸軍参謀として官軍を率い、戊辰戦争の勝利に貢献した。
新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任。長州藩少参事兼任を命ぜられる。
明治4年10月、岩倉使節団に兵部省理事官として随行。
明治7年(1874年)2月、佐賀の乱が勃発し、同職を解かれ、乱鎮圧のため九州出張
現役陸軍少将のまま司法大輔に就任。西南戦争は別働第二旅団長として出征を命ぜられる
明治11年11月、陸軍中将に任ぜられる。
明治18年(1885年)12月に内閣制度が発足し、第1次伊藤内閣の
司法大臣に就任した。
明治21年(1888年)4月、引き続き黒田内閣の
司法大臣に留任。
明治24年(1891年)2月、
司法大臣に復職。5月、第1次松方内閣の司法大臣に留任。
明治25年(1892年)11月11日生野銀山を視察中に卒倒しそのまま立てずに没した。享年49
 尾崎 行雄
   おざき ゆきお
  
 
安政5年11月:相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市緑区又野)生まれ
行雄の父・尾崎行正の生家は漢方医を業とし、漢学者・藤森弘庵の私塾に桂小五郎(木戸孝允)の
先輩として学んだ。明治9年に工学寮(のちの工部大学校。現・東京大学工学部)に再入学
明治15年、報知新聞の論説委員
明治23年の第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬し当選
尾崎は進歩党・憲政党に属した。松方正義と大隈重信の近接が最上の時局救治策であるとの主張
第2次松方内閣が成立すると、その外務大臣に就任した大隈の推挙で外務参事官に就任
自由党・進歩党両党合同による憲政党を結成し、初の政党内閣である明治31年(1898年)、
隈板内閣(大隈重信)において40歳の若さで
文部大臣として入閣した
第2次大隈内閣 第20代
司法大臣
明治36年(1903年)から同45年(1912年)まで東京市長に就任。
 品川 弥二郎
  しながわ やじろう
   
天保14年閏9月29日長州藩の足軽・品川弥市右衛門の長男として生まれた。
松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受ける
明治維新後の明治3年(1870年)、渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツやイギリスに留学する。
内務大書記官や内務少輔、農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任する。
明治24年(1891年)に第1次松方内閣の
内務大臣に就任するが、次官の白根専一とともに
警察を動員して強力な選挙干渉を行なって死者25人を出してしまった経緯を非難され、引責辞職を
余儀なくされた(ただし、実際の経緯については諸説存在する)。その後は西郷従道と協力して
政治団体・国民協会を組織する。
民間にあっては、獨逸学協会学校(現:獨協学園)や旧制京華中学校(現:京華学園)を創立し、
また信用組合や産業組合の設立にも貢献している。
明治33年(1900年)、肺炎のため死去。享年58
勲一等旭日大綬章 
 副島 種臣
  そえじま たねおみ
  

 勲一等旭日桐花大綬章 
文政11年:佐賀藩士・枝吉南濠(忠左衛門、種彰、30石)の二男に生まれる。
明治維新後は慶応4年(1868年)、新政府の参与・制度取調局判事となり
明治2年(1869年)に参議、同4年に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。
マリア・ルス号事件では、助けを求めた中国人奴隷を解放したことで、
正義人道の人と国際的に支持された。明治6年10月、征韓論争に敗れて下野
西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在している。
明治12年(1879年)、宮内省一等待講。明治17年(1884年)、伯爵。明治20年に宮中顧問官
明治21年(1888年)に枢密顧問官、明治24年(1891年)に枢密院副議長になり
明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務めた。
明治38年(1905年)、死去

 河野 敏鎌
   こうの とがま
    
 
天保15年10月土佐藩郷士の河野通好の長男として高知に生まれる。
文久3年に藩主・山内容堂が佐幕派に鞍替えしたことから藩論が転換、このため投獄され6年間の
獄中生活を送る。その際、厳しい拷問にも耐えて同志を守り通したと伝えられる。
明治2年4月に侍詔局出仕、のちに広島県大参事、司法大丞兼大検事となる。
明治7年(1874年)の佐賀の乱では大久保利通に従い、鎮定のため九州に赴いた。
明治8年(1875年)に元老院議官、明治11年(1878年)には元老院副議長となる。
明治13年(1880年)、文部卿として教育令改正の推進した。
明治14年(1881年)、農商務省設立に伴って初代
農商務卿に就任するが、明治十四年の政変で
大隈重信らに同調して下野した。
明治15年(1882年)4月、大隈らとともに立憲改進党を結党して副総理(副党首)になる。
明治21年に枢密顧問官として憲法の審議にあたる。その後第1次松方内閣で
内務大臣
司法大臣、農商務大臣を歴任、第2次伊藤内閣では文部大臣に就任
明治28年(1895年)4月20日に死去、享年52。 勲一等瑞宝章

 内田 康哉
   うちだ こうさい
     
 
慶応元年:熊本藩医・内田玄真の子として熊本県八代郡竜北町(現・氷川町)に生まれる。
明治・大正・昭和の3代にわたって外務大臣を務めた唯一の人物。
東京帝国大学法科卒業後に外務省に入省し、ロンドン公使館勤務、清国北京公使館
第4次伊藤内閣の外務次官を務めた。
第2次西園寺内閣、原内閣、高橋内閣、加藤友三郎内閣に於いて
外務大臣を務める。


 野村 靖
   のむら やすし
    

  勲一等旭日桐花大綬章 
天保13年:長州藩の下級武士(足軽)入江嘉伝次の次男として生まれる。兄に入江九一
明治維新後は宮内大丞、外務大書記となり、岩倉使節団の一員として渡欧。神奈川県令・
駅逓総監・逓信次官を歴任、明治20年に子爵に叙せられる。明治31年に枢密顧問官、
明治34年(1891年)に駐仏公使を歴任した。
明治37年(1894年)には第2次伊藤内閣の
内務大臣に就任
翌38年(1895年)に東京府を廃止して東京15区を「東京都」として独立させて政府の支配を強化
翌39年(1896年)には第2次松方内閣の
逓信大臣に就任している。
晩年は皇室の養育掛長をつとめ、明治42年(1909年)、68歳で死去した。

 
 芳川 顕正
   よしかわ あきまさ
    

 
天保12年:阿波国麻植郡山川町(後の徳島県吉野川市)出身
明治5年に大蔵省紙幣頭、同15年に東京府知事に就任する。
明治23年第1次山縣内閣で
文部大臣
明治24年第1次松方内閣でも
文相に留任。退任後に宮中顧問官
明治26年(1893年)、第2次伊藤内閣で
司法大臣
第2次松方内閣でも留任した
明治27年(1894年)に
文部大臣を兼任
明治29年(1896年)には
内務大臣も兼任した。
明治31年(1898年)、第1次大隈内閣で
内務大臣
第2次山縣内閣で逓信大臣
明治34年(1901年)、第1次桂内閣で再び
逓信大臣
明治37年(1904年)には
内務大臣として内閣に復帰
男子に恵まれず、四女の鎌子に曾禰荒助子爵の次男を婿養子をとって家を継がせた
大正9年(1920年)1月10日死去
 末松 謙澄
  すえまつ けんちょう
    
安政2年:豊前国前田村に大庄屋 末松七右衛門 伸子の四男として生まれる。
東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)中退。
東京日日新聞社の記者となり社説を執筆。岳父である伊藤博文の知遇を得て、
外交官としてロンドンに赴任、ケンブリッジ大学で学ぶ。
衆議院議員、
逓信大臣、内務大臣などを歴任
法制局長官:第2次伊藤内閣  在任期間:明治25年)9月29日 - 明治29年)9月30日
逓信大臣:第3次伊藤内閣    在任期間:明治31年)1月12日 -明治31年)6月30日
内務大臣:第4次伊藤内閣    在任期間:明治33年)10月19日 -明治34年)6月2日
勲一等旭日桐花大綬章
 内海 忠勝
  うつみ ただかつ
    
 
天保14年:周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市)出身
長州藩士として禁門の変に参加。維新後新政府に登用され、岩倉使節団に大使随行員として参加。
地方官として長崎、三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の各県令・知事を歴任。
1901年、第1次桂内閣で内務大臣に就任し初入閣を果たした。
貴族院議員    在任期間:1899年11月29日 - 1900年3月19日
会計検査院長  在任期間:1900年3月19日 - 1901年6月2日
内務大臣 :第1次桂内閣  在任期間:1901年6月2日 - 1903年7月15日
従二位勲一等大綬章

 
 清浦 奎吾
  うきようら けいご
  

  大勲位菊花大綬章
嘉永3年2月:肥後国鹿本郡来民村の明照寺住職・大久保了思の五男に生まれ
1873年(明治6年)、埼玉県14等出仕となった。
1876年(明治9年)には司法省に転じ、検事、太政官や内務省の
小書記官、参事院議官補などを歴任
1884年(明治17年)、全国の警察を統括する内務省警保局長
明治25年:第2次伊藤内閣 司法次官に任ぜられた
第2次松方内閣、第2次山縣内閣、第1次桂内閣のもとでは
司法大臣などを歴任した。
明治24年)4月9日には貴族院勅選議員
明治39年)から枢密顧問官 、大正6年)には枢密院副議長
第23代 内閣総理大臣 在任期間:1924年1月7日 - 同6月11日

 原  敬
  はら たかし
   

  大勲位菊花大綬章
安政3年:盛岡藩盛岡城外の岩手郡本宮村で盛岡藩士原直治の次男として生まれた
明治9年(1876年)、司法省法学校入学するが退学させられ、郵便報知新聞社に入社した。
明治15年(1882年)、外務省に採用され、入省の翌年には天津領事に任命されて同地に赴いた。
駐米公使だった陸奥宗光が明治23年(1890年)に農商務大臣になると、陸奥の引きで原の
運命が拓けることになる。日清戦争後の明治28年(1895年)には、外務次官に抜擢された。
明治30年(1897年)には大阪毎日新聞社に入社し、翌・明治31年(1898年)には社長に就任した。
明治33年に伊藤博文が立憲政友会を組織すると、原は伊藤と井上馨の勧めでこれに入党し、
幹事長となった。
同年12月、汚職事件で逓信大臣を辞職した星亨に代わって伊藤内閣の
逓信大臣として初入閣する
明治35年に行われた第7回衆議院議員総選挙で、盛岡市選挙区から立候補して衆議院議員に
初当選、明治39年になって約束通りに西園寺公望に組閣の大命が下ると、
原は
内務大臣として入閣した。明治44年(1911年)8月から鉄道院総裁
第19代 内閣総理大臣(大正期)   在任期間:1918年9月29日 - 1921年11月4日
 波多野 敬直
   はたの よしなお
  

 勲一等旭日桐花大綬章 
嘉永3年10月: 小城藩士横尾(波多野)信倚の長男として生まれた。
小城藩校興譲館、大学南校などに学び、1873年(明治6年)、司法省に出仕する。
1881年(明治14年)、広島始審裁判所長に就任。その後、司法省参事官、京都地方裁判所長、
大審院判事、司法書記官、函館控訴院長、東京控訴院検事長、司法次官、
司法総務長官などを歴任した。
1903年(明治36年)、第1次桂内閣で
司法大臣を務める
906年(明治39年)には貴族院議員(勅選議員)となった。
明治44年)には東宮大夫として宮内省に転じる。
1922年(大正11年)、73歳で死去。
  
 松田 正久
  まつだ まさひさ
  
 勲一等旭日桐花大綬章
 
弘化4年4月:肥前国小城郡牛津において、小城藩士横尾只七の次男として生まれた。
同藩士松田勇七の養子となる。松田家は最下級の藩士で、副業として酒造業を営んでいた。
西周からフランス語を学んだ。西の推薦によって陸軍省入りし、1872年には兵学研究のために
フランス留学に赴いた。
帰国後は陸軍省を辞して佐賀にて自由民権運動に参加する。
1890年、第1回総選挙で佐賀を地盤として衆議院議員に当選、立憲自由党に参加する。
第2回総選挙では、内務大臣品川弥二郎による選挙干渉事件により落選。
第4次伊藤内閣では
文部大臣を務めた。
1904年3月、衆議院議長。日露戦争では、第1次桂内閣と議会との協力関係確立に尽力した。
第1次・第2次西園寺内閣では
司法大臣と蔵相をつとめるなど、西園寺、原敬とともに政友会と内閣を
支えて、刑法改正や日露戦後の財政再建などに尽力した。
大正4年3月4日に病没した。
   
 千家 尊福
   せんげ たかとみ
   
 
弘化2年8月:出雲大社の宮司を務める出雲国造家に生まれ、神道大社派を創始する。
第1回貴族院男爵議員選挙にて貴族院議員に選出される。連続4期に渡り貴族院議員を務めた。
埼玉県知事、静岡県知事、東京府知事を歴任
1908年3月 西園寺内閣の
司法大臣に就任
1909年3月 東京鉄道会社社長に就任
1911年5月 東京商業会議所特別議員に就任
1918年1月  死去、享年73
  「一月一日」(正月の歌)の作詞 
         年の始めの 例(ためし)とて
         終りなき世の めでたさを・・・・・・・・
 岡部 長職
   おかべ ながもと
  

 
嘉永7年11月:和泉岸和田藩の第13代(最後)の藩主で江戸藩邸にて生まれる。
明治7年慶應義塾に入学し、福澤諭吉が「行状宜敷人物」と評して明治8年11月、渡米させる。
1885年(明治18年)に岸和田教会が誕生した
明治19年3月、公使館参議官となる。翌年12月からはイギリス公使館に勤務し、臨時代理公使を務める
明治22年)12月には外務次官となり、1890年(明治23年)7月には子爵の貴族院議員となった。
明治30年)10月、高等官一等に叙任し、東京府知事となる。
明治41年)7月には第2次桂太郎内閣の
司法大臣に任じられ、明治44年の大逆事件では、
その処理に務めている。  身の丈180cmを超えるという
大正14年)12月27日、かねてより患っていた脳梗塞が再発し、72歳で死去
勲一等旭日大綬章
 大東 義徹
   おおひがし ぎてつ
    
 
天保13年:彦根藩士で足軽の小西貞徹の次男として生まれる。
戊辰戦争に従軍し武功を立てた。戸籍編成の際、姓を小西から大東に改めた。廃藩置県後、
司法省に入り、権少判事となる。明治六年政変(征韓論政変)の際に下野し、1877年の西南戦争の
勃発後に代言人仲間だった有馬藤太らとともに大阪で警察に拘束されるが、後に放免となる。
1890年、第1回衆議院議員総選挙に滋賀郡部から立候補し初当選。
1898年、第1次大隈内閣で
司法大臣に就任した。

 渡辺 国武
   わたなべ くにたけ
    
 
弘化3:諏訪高島藩士の家に生まれた。
明治4年に大久保が千秋・国武兄弟を東京に呼び出して民部省勤務とする。
渡辺は大蔵卿大隈重信、租税頭松方正義、地租改正局総裁の大久保の下、地租改正に取り組む。
明治9年)渡辺は高知県に権県令として派遣される
明治15年)松方によって大蔵省に戻り、調査局長、明治19年主計局長を経て、
明治21年大蔵次官に就任する
明治33年)伊藤博文が立憲政友会を結成すると渡辺は政友会創立委員としてこれを助けた。
同年第4次伊藤内閣の
大蔵大臣に就任する。

 阪谷 芳郎
  さかたに よしろう
    
 
文久3年1月:幕末に開国派として活躍した漢学者、阪谷朗廬(ろうろ)の4男として生まれる。
備中国川上郡九名村
東京帝国大学政治科を卒業後、大蔵省入省。日清戦争では、大本営付で戦時財政の運用にあたり、
1903年には大蔵次官、1906年には
大蔵大臣(第1次西園寺内閣)を務めた。
1907年9月、日露戦争の戦費調達などの功績により男爵が授けられる。
912年7月から1915年2月まで東京市長を務めた。

勲一等旭日大綬章
 森 有礼
  もり ありのり
  
 
弘化4年7月13日(1847年8月23日) - 明治22年(1889年)2月12日)
薩摩藩士・森喜右衛門有恕の五男として生まれた。
慶応元年、五代友厚らとともにイギリスに密航、留学し、ロンドンで長州五傑と会う。
明治維新後に帰国すると福澤諭吉・西周・西村茂樹・中村正直・加藤弘之・津田真道・箕作麟祥らと
共に明六社を結成する。
明治8年(1875年)、東京銀座尾張町に私塾・商法講習所(一橋大学の前身)を開設する。
明治18年(1885年)、第1次伊藤内閣の下で
初代文部大臣に就任、黒田内閣でも留任
明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日に国粋主義者・西野文太郎に
切りつけられ、翌日死去。43歳だった。
 蜂須賀 茂韶
  はちすか もちあき
   
 
弘化3年:第13代藩主・蜂須賀斉裕の次男 阿波国徳島藩の第14代(最後)の藩主
明治維新後はオックスフォード大学に留学した。明治15年(1882年)から同19年(1886年)まで
駐フランス公使(スペイン・ベルギー・スイス・ポルトガル公使も兼務)。
帰国後、第11代東京府知事(1890年 - 1891年)、第2代貴族院議長(1891年 - 1896年)、
明治29年9月28日、第二次松方正義内閣の
文部大臣
明治30年)11月6日、枢密顧問官に異動(終身)。
明治32年)4月13日、文官高等懲戒委員長を兼帯。
明治41年)2月8日、議定官を兼帯。
大正7年)2月10日 - 旭日桐花大綬章

 濱尾 新
  はまお あらた
   
 
嘉永2年:但馬豊岡藩士・濱尾嘉平治の子として、豊岡(現在の豊岡市)に生まれる。
1869年9月には藩費遊学制度により慶應義塾に入学。ほか大学南校に学ぶ。
1872年、文部省に出仕し、大学南校の中監事となる。1873年から1874年にかけてアメリカ合衆国に
留学し、オークランドの兵学校に学ぶ
890年には文部省専門学務局長となる
1893年、帝国大学第3代総長となる。
1897年11月6日、蜂須賀茂韶に代わり第2次松方内閣の
文部大臣となる。
905年12月には東京帝国大学の総長に再任され、戸水事件の対処などに当たった。
924年には枢密院議長に就任した。
密院議長を務めていた1925年9月に自宅の庭を散歩中、焚火の中に落ち、全身火傷により死亡

 外山 正一
   とやま まさかず
    
 
嘉永元年:旗本で幕府講武所歩兵指南役の外山忠兵衛正義。江戸小石川に生まれる。
明治3年)、外務省弁務少記に任ぜられ渡米。明治4年)、現地において外務権大録になる。
しかし直ちに辞職しミシガン州アンポール・ハイスクールを経てミシガン大学に入学。
1876年(明治9年)に帰朝した。
明治10年)、同校が東京大学(後の東京帝国大学)に改編されると日本人初の教授となった。
東京帝大文科大学長(現在の東大文学部長)を経て同総長・貴族院議員、
第3次伊藤博文内閣の
文部大臣などを務めた。
明治33年3月8日、中耳炎からの脳症で死去。享年53。

 大浦 兼武
   おおうら かねたけ
   
 
嘉永3年5月:薩摩藩士 分家である宮之城島津家の家臣として生まれる。
明治維新後は警察官となり、邏卒から累進して明治8年(1875年)、警視庁警部補に昇任。
明治10年、西南戦争で抜刀隊を率いて功績を挙げた。このとき陸軍中尉兼三等小警部となる。
明治14年(1882年)、大阪府警部長(現在の警察本部長)に就任
明治26年(1893年)以降、島根県・山口県・熊本県・宮城県の知事を歴任。
明治31年(1898年)、警視総監に就任。明治33年(1900年)3月19日、貴族院議員に勅選される
明治36年(1903年)、第1次桂内閣で
逓信大臣として初入閣
第2次桂内閣の
農商務大臣、第3次桂内閣の内務大臣
第2次大隈内閣の
農商務大臣・内務大臣を歴任
大正7年(1918年)死去。享年68

 犬養 毅
   いぬかい つよし
    
 
安政2年4月:備中国 犬飼源左衛門の次男としてうまれる(後に犬養と改姓)
父は水荘と称した備中松山藩板倉氏分家の庭瀬藩郷士である。もともと、犬養家は庭瀬藩から
名字帯刀を許される家格であったが
明治9年)に上京して慶應義塾に入学し、一時共慣義塾(渡辺洪基と浜尾新主宰の塾)に通い、
また漢学塾・二松學舍では三島中洲に漢学を学んだ。
明治16年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、大同団結運動などで活躍する。
明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、
尾崎行雄に次ぐ記録を作る。
明治31年)の第1次大隈内閣では共和演説事件で辞任した尾崎の後を受けて
文部大臣となった。
第2次山本内閣で
文相兼逓信大臣:在任期間:1923年9月2日 - 1924年1月7日
第29代 内閣総理大臣 在任期間:1931年12月13日 - 1932年5月16日
昭和7年)5月15青年将校と陸軍の士官候補生の一団が、ピストルをふりかざして乱入してきた。
五・一五事件で暗殺された。
 田 健治郎
   でん けんじろう
    
 
安政2年2月丹波国下小倉村に生まれる。代々大庄屋を務めた豪農
明治7年熊谷県の下級吏員に採用、翌年に愛知県に移り、次いで高知県・神奈川県・埼玉県部長
など地方の警察畑
男爵。衆議院議員・貴族院議員・
逓信大臣・司法大臣・農商務大臣
台湾総督・枢密顧問官等を歴任。
1890年に逓信省に入省し、局長・逓信次官・鉄道会議幹事
1900年5月9日、錦鶏間祗候に任じられる
明治34年、兵庫県第3区選出補欠選挙に当選、元老・山縣有朋系の官僚政治家として活動する。
大正11年の関東大震災直後に成立した第2次山本内閣に司法大臣兼農商務大臣として入閣
田艇吉(衆議院議員)は兄。  田英夫(参議院議員)は孫

 平田東助
   ひらた とうすけ
   
 
嘉永2年3月:米沢藩
明治4年(1871年)、岩倉使節団に随行し、訪欧する
明治9年1月に帰朝。内務省御用掛となり、のち大蔵省に転ずる。
明治23年の帝国議会発足時には、貴族院議員に勅撰され
枢密院書記官長を兼ねる
明治32年(1898年)第2次山縣内閣では法制局長官
第1次桂内閣では桂太郎の要請に応じて
農商務大臣
さらに第2次桂内閣では
内務大臣となる。
大正元年(1912年)12月には、第2次西園寺内閣の総辞職を受け、
元老会議で後継首相に推されるが、辞退。

 菊池 大麓
   ひらた とうすけ
    
 
1855年3月17日(安政2年1月29日) - 1917年(大正6年)8月19日)
蘭学者の箕作秋坪とつね夫妻の次男として江戸に生まれ、父の実家・菊池家の養嗣子となった。
蕃書調所(東京大学の前身)で英語を学び、1867年(慶応3年)と1870年(明治3年)の2度に渡り
英国に留学した。東京大学大学総長、学習院院長、京都帝国大学総長、理化学研究所初代所長
等を歴任し、1902年(明治35年)には男爵を授爵された。
1890年(明治23年)9月に貴族院勅選議員に勅任されると研究会に所属して、
1912年(明治45年)5月に枢密顧問官に勅任されて議員辞職するまで22年間国政に参画した
1901年(明治34年)6月には第1次桂内閣の
文部大臣を拝命して翌年7月まで国政の枢機に携わった。
1909年(明治42年)に第2代院長に選ばれ、死去するまでその任にあった。
大正6年)7月下旬より避暑で茅ヶ崎の別荘を訪れていたが、同年8月19日に脳溢血を起こし、死去 
 久保田譲
   くぼた ゆずる
    
 
1847年6月22日(弘化4年5月10日) - 1936年(昭和11年)4月14日)
但馬国豊岡藩京極家の世臣・久保田周輔の二男として豊岡本町で生まれる。
上京して慶應義塾(現在の慶應義塾大学)に入学し、在学中に小幡篤次郎らの推薦で
明六社に参加し、1871年(明治4年)に才能を文部省に出仕した。
1889年(明治22年)に欧米に派遣され、帰国後は文部大録、普通学務局長、文部次官を歴任。
1893年(明治26年)の文部省退官後、1894年(明治27年)1月23日、貴族院議員に勅選され
研究会の中心人物として長く務め、学制改革論者の急先鋒となる。
1903年(明治36年)には第1次桂内閣の
文部大臣に就任。
  牧野伸顕
  まきの のぶあき
     
 
1861年11月24日(文久元年10月22日) - 1949年(昭和24年)1月25日)
児島城下加治屋町猫之薬師小路に薩摩藩士・大久保利通と妻・満寿子の二男として生れた
吉田茂は女婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。
1871年(明治4年)、11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米し、
フィラデルフィアの中学を経て、1874年に帰国し開成学校(後の東京帝国大学)に入学する。
第1次西園寺内閣で
文部大臣を務めた際、1907年11月4日に外交官時代の功績によって
男爵を授けられた。
第2次西園寺内閣で
農商務大臣。さらに枢密顧問官に転じた後、第1次山本内閣で外務大臣となる。
 
 小松原英太郎
 こまつばら えいたろう
     
嘉永5年2月16日(1852年3月6日) - 大正8年(1919年)12月26日)
備前国御野郡青江村(現、岡山県岡山市青江)生まれ。
鰻問屋の小松原荘二の長男として生まれる。
明治7年(1874年)に上京して慶應義塾(後の慶應義塾大学)に入学。
明治13年(1880年)、父の死をきっかけに留学を目的として同郷の花房義質の推薦により外務省入り。
明治31年(1898年)司法次官、明治32年(1899年)内務次官などの職を歴任する。
明治41年(1908年)第2次桂内閣で
文部大臣および農商務大臣臨時代理に就任。
大正5年(1916年)から死去まで枢密顧問官を務める。
勲一等旭日大綬章

 長谷場純孝
   はせば すみたか
     
嘉永7年4月1日(1854年4月27日) - 大正3年(1914年)3月15日)
薩摩国日置郡串木野村(現在の鹿児島県いちき串木野市)出身。父は鹿児島藩の郷士。
877年、故郷へ戻って私学校に入り、西南戦争には西郷隆盛方として参加し、捕虜となる。
1880年、特赦により出獄。
1890年の第1回衆議院議員総選挙で鹿児島県から当選し、以降11回連続当選
1908年から1911年にかけて1度目の衆議院議長を務めた。また、1911年の第2次西園寺内閣で
文部大臣を務めるが、翌年病にかかり辞任。
シーメンス事件での混乱の中、議会の運営に当たるが、就任わずか9日で動脈瘤破裂のため急死する

 岩村通俊
  いわむら みちとし
      
天保11年6月10日(1840年7月8日) - 大正4年(1915年)2月20日)
土佐藩陪臣・岩村英俊を父に、長男として土佐国(現在の高知県)宿毛で生まれた通俊は、
酒井南嶺の下で学問を学び岡田以蔵の下で剣術を学んだ。
明治2年(1869年)には政府に出仕し聴訟司判事、箱館府権判事開拓判官を務める。
明治6年(1874年)7月佐賀県権令に任命され
明治10年(1877年)には西南戦争が起こり、通俊は鹿児島県令として赴任した。
通俊はこの時、敵将である西郷隆盛の遺体を軍部の了解を得て鹿児島浄光明寺に丁重に葬ったという。
明治15年(1882年)には沖縄県令となる。
明治21年(1888年)長官を永山武四郎に交代し元老院議官に就任する。農商務次官を経て
明治22年(1889年)12月24日、第1次山縣内閣の
農商務大臣に就任する。
勲一等旭日大綬章

 大石正巳
  おおいし まさみ
   
安政2年4月11日(1855年5月26日) - 昭和10年(1935年)7月12日)
土佐国(高知県)出身
明治7年(1874年)に板垣退助の立志社に参加し、自由民権運動に従事。
明治14年(1881年)自由党幹事。三菱商業学校(明治義塾)卒業。
明治25年(1892年)朝鮮駐在弁理公使となる。明治29年(1896年)進歩党結成に参加。
明治31年(1898年)憲政党結成創立委員。
第1次大隈重信内閣で
農商務大臣として入閣。憲政党分裂後は憲政本党・立憲国民党に参加。
大正2年(1913年)、犬養との確執から桂太郎の新党である立憲同志会に参加。 
  林有造
  はやし ゆうぞう
     
天保13年8月17日(1842年9月21日) - 大正10年 (1921年)12月29日)
土佐国宿毛に安東家の家臣・岩村英俊の二男として生まれる。
年期に林茂次平の養子になる。兄に岩村通俊、弟は岩村高俊である。板垣退助の配下として
戊辰戦争では、越後国に転戦 ,明治維新後は、初代の高知県令(参事)
西南戦争に呼応して明治10年(1877年)8月、土佐で政府転覆を企て挙兵しようとし、
逮捕、入獄する。(立志社の獄)
明治23年(1890年)、第1回衆議院議員総選挙に立候補し当選し、以後8回当選。
明治31年(1898年)、第1次大隈内閣(隈板内閣)で
逓信大臣を勤めた。
明治33年(1900年)には第4次伊藤内閣の
農商務大臣として入閣した。
明治41年(1908年)、政界を引退。余生を郷里の宿毛で送る。

 土方 久元
  ひじかた ひさもと
    
 
天保4年10月12日(1833年11月23日) - 大正7年(1918年)11月4日))
土佐藩上士・土方久用(200石)の長男として生まれる。
明治維新成った後は新政府に仕え、明治元年(1868年)には東京府判事、
ついで鎮将府弁事に任命される。その後、宮内少輔
、内務大輔、太政官内閣書記官長、侍補、
明治18年(1885年)の内閣制度発足に際しては第1次伊藤内閣の
農商務大臣として入閣。
明治27年(1894年)からの日清戦争などに際し、明治天皇を支える
宮内大臣として取り仕切った。
明治31年(1898年)に宮内大臣を辞し、田中光顕に譲った。
大正7年(1918年)没。享年86


 松岡康毅
  まつおか やすこわ
    
1846年8月14日(弘化3年6月23日) - 1923年(大正12年)9月1日)
阿波国板野郡七条村(現在の徳島県板野郡上板町七条)に、徳島藩中老長谷川家家臣・
松岡佐左衛門康吉の四男として生まれる
1863年(文久3年)- 大坂で藤沢昌蔵に師事
1871年(明治4年)- 新政府に出仕、司法省権大録、司法省大録、権少判事、少判事を歴任。
1875年(明治8年)5月 - 東京裁判所所長。その後、神戸裁判所所長、司法大書記官を歴任。
1891年(明治24年)6月 - 検事総長。同年12月、貴族院勅選議員に勅任。
1898年(明治31年)1月 - 第3次伊藤内閣で内務次官に再任。同年11月行政裁判所長官。
1906年(明治39年)1月 - 第1次西園寺内閣で
農商務大臣
1923年(大正12年)9月1日 - 葉山別邸で関東大震災に被災し死去、満78歳。従一位を追贈。

  星  亨
  ほし とおる
  

嘉永3年4月8日(1850年5月19日) - 明治34年(1901年)6月21日)
江戸築地の小田原町(現在の東京都中央区築地)、左官屋佃屋徳兵衛の子に生まれ、
維新後に横浜税関長となり、のちに渡英して弁護士資格を取得した
明治15年(1882年)自由党に入り「自由新聞」により藩閥政府を批判した
明治25年(1892年)第2回総選挙に当選して衆議院議長となった
第4次伊藤内閣で
逓信大臣となったが東京市疑獄事件で辞職した。
明治34年(1901年)、伊庭想太郎に刺殺された,満51歳没
  堀田正養
  ほった まさやす
    
 
嘉永元年2月28日(1848年4月1日)- 明治44年(1911年)5月9日)
近江宮川藩の第9代(最後)の藩主。堀田家宗家11代
出羽亀田藩主・岩城隆喜の九男。
文久3年(1863年)7月4日、養父・正誠の死去により、末期養子として家督を相続した。
同年7月21日、将軍・徳川家茂に拝謁する。元治元年(1864年)7月、大坂加番を命じられる
慶応4年2月16日、新政府から一時的に領地を没収される。領地は近江彦根藩の管理となる。
明治11年(1878年)12月、東京府会議員選挙に際し、浅草区から出馬、
明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選ばれる。研究会に所属し、連続して3期にわたって
議員に選ばれた。
明治41年(1908年)3月25日、第一次西園寺公望内閣の
逓信大臣に就任した。
  後藤新平
   ごとう しんぺい
  
安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)
仙台藩水沢城下に、仙台藩一門留守家の家臣・後藤実崇と利恵の長男として生まれる
胆沢県大参事であった安場保和にみとめられ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として
引き立てられ県庁に勤務した。
17歳で須賀川医学校に気の進まないまま入学。ただし同校では成績は優秀
愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。ここで彼はめざましく昇進し24歳で
学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。
明治15年(1882年)2月、愛知県医学校での実績や才能を見出され、軍医の石黒忠悳に
認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に
従事することとなった。
明治31年(1898年)3月、その児玉が台湾総督となると後藤を抜擢し、自らの補佐役である
民政局長(1898年6月20日に民政長官)とした。
明治39年(1906年)、南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。
第2次桂内閣で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁(在職:明治41年7月14日 - 明治44年8月30日)、
寺内内閣で
内務大臣(在職:大正5年(1916年)10月9日 - 大正7年(1918年)4月23日)
外務大臣(大正7年(1918年)4月23日 - 9月28日)
東京市長(大正9年(1920年)12月17日 - 大正12年(1923年)4月20日)
第2次山本内閣で再び
内務大臣(大正12年(1923年)9月2日 - 大正13年(1924年)1月7日
関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、
内務大臣兼帝都復興院総裁として
震災復興計画を立案した。現在の東京の都市骨格を構築する
大正13年(1924年)、社団法人東京放送局が設立され、初代総裁となる。
  玉乃世履
   たまの よふみ
   
文政8年7月21日(1825年9月3日) - 1886年(明治19年)8月8日)
岩国藩(現在の山口県)に生まれる
1867年(慶応3年) - 日新隊を組織し、12月9日上洛。
翌年1月3日から始まった鳥羽・伏見の戦いの後、同月末に岩国に帰る
1868年(慶応4年)7月 - 岩国藩公儀人を命ぜられる
1871年(明治4年)7月 - 廃藩置県により、判事として司法省に入る
1871年(明治4年)11月 - 司法権大判事となる
1878年(明治11年)9月13日 - 正式に初代大審院長となる
1879年(明治12年) - 大審院を離れて
司法大輔となり、元老院議官も兼ねる
1881年(明治14年)7月27日 - 再び大審院長(第3代)となる
  岸良兼養
  
きしら かねやす
    
 
天保8年8月(1837年)- 明治16年(1883年)11月15日
薩摩藩士・岸良兼善の長男として生まれる
久光、島津忠義父子と精忠組との連絡役を務めた
明治政府に出仕し、慶応4年閏4月23日(1868年6月13日)議政官史官試補に就任
明治4年7月9日(1871年8月24日)刑部省が弾正台と合併して司法省となり、
同年8月8日(9月22日)司法少判事に任官
1877年(明治10年)6月28日、初代検事長(現在の検事総長に相当)に就任。
1879年(明治12年)10月25日、大審院長に転じた
1881年(明治14年)7月27日、司法少輔に就任。
1883年(明治16年)6月5日、元老院議官を兼任。
同年7月4日、司法少輔を辞任し元老院議官の専任となる

  尾崎忠治
   きしら かねやす
     
天保2年2月2日(1831年3月15日) - 1905年(明治38年)10月16日)
土佐藩士尾崎源之丞の次男として生まれ、奥宮慥斎に学ぶ。
維新後の明治3年(1870年)12月、刑部大解部に就任。翌年7月に刑部省が司法省と名を変え、
司法大解部、同年10月に司法少判事、同8年(1875年)5月に長崎上等裁判所長心得
明治19年(1886年)8月には大審院長などの司法ポストを歴任した。
明治23年(1890年)8月に枢密顧問官。同33年(1900年)5月、男爵を授爵。
明治38年(1905年)に死去、享年75


   西成度
   にし なりのり
1835年7月17日(天保6年6月22日[4])- 1891年(明治24年)4月5日
肥前国長崎平戸町(現長崎市江戸町)[6]で西家第11代・阿蘭陀通詞の西吉兵衛成量、
登美夫妻の長男として生まれる
長崎海軍伝習所におけるオランダ海軍伝習では、安政2年(1855年)の第一次、
安政3年(1856年)の第二次において伝習掛通弁官を務めた
その後、大坂城で外国奉行組頭として鳥羽・伏見の戦いを迎え、江戸に帰還。
慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)開成所奉行支配組頭勤に任命された。
明治維新後、徳川家に従い駿河に移り、静岡藩の御使番目付助、御使番、御目付、小島藩奉行、
権少参事、権大属刑法掛、一等勤番組などを歴任
明治政府に出仕し、明治4年9月7日(1871年10月20日)司法中解部に就任。以後、
工部省七等出仕、司法省六等出仕、司法少判事、司法権中判事、神奈川裁判所在勤、
1890年8月21日、大審院長に就く

  渡辺千秋
  わたなべ ちあき
     
 
1843年6月17日(天保14年5月20日) - 1921年(大正10年)8月27日)
信濃国諏訪郡東堀村(現長野県岡谷市)に諏訪高島藩の下級武士・渡辺政徳の子として生まれる。
明治維新後鹿児島県大書記官・北海道庁長官などを歴任する。
大久保利通の計らいで宮内省に奉職し、内蔵頭・宮内次官の後、1910年4月
宮内大臣に就任する。
1921年 死去(78歳) 正二位勲一等旭日大綬章

  岩倉具定
  いわくら ともさだ
    
 
嘉永4年12月27日(1852年1月18日) - 明治43年(1910年)4月1日)
岩倉具視の第三子(次男)として山城国(現在の京都府京都市)に生まれる。
慶応4年の戊辰戦争勃発後は、東山道先鋒軍(総督は具定、参謀は板垣退助)など各地を転戦。
明治3年(1870年)、アメリカに留学し、帰国後は政府に出仕。
明治17年に岩倉家の家督を継ぎ、公爵。帝室制度取調委員、貴族院議員、学習院院長を歴任。
明治33年(1900年)に枢密顧問官、明治42年(1909年)に
宮内大臣となる。
明治43年(1910年)4月1日、死去

 武富 時敏
  たけとみ ときとし
   
安政2年12月9日佐賀藩士・武富良橘の長男として佐賀に生まれる。
佐賀の乱に参加するものの、首謀者ではなかったために無罪放免となった。その後、
再び上京して大学南校で学んだ。
明治15年(1882年)の九州改進党の結成に参加し、「肥前日報」を創刊。
明治16年(1883年)佐賀県会議員に当選する。副議長を経て明治18年(1885年)議長となった。
明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙で佐賀県第1区において初当選 自由党
第3回衆議院議員総選挙以後は12回連続当選の記録を築いた。
明治30年(1897年)の政府と進歩党の協調の結果、農商務省商工局長、同省商務局長、
次いで大蔵省勅任参事官を歴任、
明治31年(1898年)の第1次大隈内閣ではこれまた党人としては初の内閣書記官長を務めた。
犬養毅との対立から大正2年に桂太郎の要請に呼応して国民党を分裂させて立憲同志会に
合流させ、非難を浴びる。その後、第2次大隈内閣では
逓信大臣として入閣、
その後の改造で
大蔵大臣に転じる。
大正5年(1916年)に憲政会が結成されると総務に就任、大正13年(1924年)に貴族院議員に

 柴田 家門
  しばた かもん
    
 
文久2年12月18日 萩城下平安古に柴田英佐(えいすけ)の長男として出生
明治15年)に上京し、大学予備門を経て、東京帝国大学法科大学(東京大学法学部)に進学
1890年 - 同大学卒業後、内閣書記官、法制局参事官、行政裁判所評定官等を務める。
1898年 - 第2次山縣内閣の内務省地方局長を務める。
1901年 - 第1次桂内閣の内閣書記官長に就任。
1903年7月15日 - 勅撰の貴族院議員となる
1908年 - 第2次桂内閣の内閣書記官長に就任。
1911年 5月5日 - 拓殖局総裁に就任し内閣書記官長を兼任する
1912年 - 第3次桂内閣の
文部大臣に就任
 
 高橋 是清
  たかはし これきよ
   
 
嘉永7年閏7月27日 幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、
江戸芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)に生まれた。
是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になる。
その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾であるヘボン塾(現・明治学院大学)にて学び、
慶応3年)に藩命により、勝海舟の息子・小鹿と海外へ留学した。
明治元年)、帰国する。帰国後の明治6年)、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて
文部省に入省し、十等出仕となる。
教え子には俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいる。
その間、文部省、農商務省(現・経済産業省及び農林水産省)の官僚としても活躍、
明治17年)には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、
日露戦争 (1904 - 1905) が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役深井英五を伴い、
戦費調達の為に戦時外債の公募で同盟国の英国に向かった。
明治44年)に日銀総裁となる 大正2年)、第1次山本内閣の
大蔵大臣に就任
政友会の原敬が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され
大正10年11月13日
第20代内閣総理大臣に就任、大正11年)6月: 高橋内閣総辞職
大正14年)4月: 農商務省の分割再編にともない農林大臣兼商工大臣に横滑り
昭和2年)田中義一内閣の
大蔵大臣に就任(3度目
昭和6年)12月: 犬養内閣の
大蔵大臣に就任(4度目)。
昭和9年岡田内閣で
大蔵大臣に就任(6度目)。
昭和11年)2月26日: 赤坂表町三丁目の私邸で叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ、
暗殺される(二・二六事件)。享年82(満81歳没)。

 南  弘
   いなみ ひろし
   
 
明治2年10月10日 富山県氷見市仏生寺の豪農岩間覚平の次男・鉄郎として生まれる。
明治29年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業、高等文官試験に合格し官僚となった。
官僚としては、内閣書記官を皮切りに主として内務省畑の諸職を歴任した。
明治41年)に第1次西園寺内閣で内閣書記官長を務めたのち、
大正元年)12月5日には貴族院議員に勅撰され。その後、翌1913年(大正2年)には福岡県知事、
大正7年)には文部次官に、1932年(昭和7年)には第15代台湾総督に任ぜられた。
逓信大臣退任後、昭和9年)には国語審議会会長、昭和11年)には枢密顧問官に任じられた。
軍国主義に対して批判的な発言をしたため、軍部にけむたがれたといわれている。
昭和21年)2月8日、会議中に炭火による一酸化炭素中毒で亡くなった。享年78
              明治の内閣書記官長
 田中 光顕
   たなか みつあき
   
   旭日桐花大綬章
天保14年閏9月25日(1843年11月16日) - 1939年(昭和14年)3月28日) 土佐藩:土佐勤王党
鳥羽・伏見の戦い時では高野山を占領して紀州藩を威嚇、戊辰戦争で活躍した。
岩倉使節団では理事官として参加し欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、
1879年(明治12年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。
また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。
1887年(明治20年)、子爵を授けられて華族に列する。1898年(明治31年)、宮内大臣
1898年(明治31年)、
宮内大臣。約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元
などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。
明治40年9月23日、伯爵に陞爵。明治42年、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した
1901年(明治34年)に日本漆工會の2代目会頭に就任
昭和天皇に男子がなかなか出生しないことから、側室をもうけるべきだと主張。その選定を勝手に
進めるなどして、天皇側近と対立した。
元老院議官:1885年12月 ・ 内閣書記官長:1885年12月 ・ 会計検査院長:1887年5月
貴族院議員:1890年7月 ・ 宮内大臣:1898年2月
 小牧 昌業
   こまき まさなり
    
 
薩摩藩:天保14年9月12日(1843年10月5日) - 大正11年(1922年)10月25日)は、
日本の漢学者、官僚、貴族院議員。
薩摩藩(鹿児島県)生まれた。明治期に官僚として黒田清隆に仕え、開拓使幹事・
文部大臣秘書官・内閣書記官長、明治天皇侍講、奈良県知事、愛媛県知事などを歴任した。
1897年には貴族院議員に勅選された。
1903年7月30日、錦鶏間祗候に任じられた。 ドイツ文学者の小牧健夫は子。
内閣書記官長(第2代:1888-1889)
奈良県知事(官選第2代:1889-1894)
愛媛県知事(官選第5代:1894-1897)
 周布 公平
   すふ こうへい
    
 
長州藩:士周布政之助(兼翼)の次男・嫡子。周布兼道の父 嘉永3年12月6日生まれ
1864年(元治元年9月):父・周布政之助の自決により家督を継ぐ
1871年-1876年:兵部省から派遣され、ベルギーに滞在
1881年(明治14年):太政官法制部少書記官
明治22年12月26日-明治24年5月6日:第1次山縣内閣内閣書記官長(現官房長官)
明治23年)9月27日:貴族院勅選議員となる
明治24年6月15日-明治30年4月7日:兵庫県知事
明治30年12月6日-明治31年11月24日:行政裁判所長官
明治31年)12月24日:錦鶏間祗候に任じられる
明治45年)1月12日:神奈川県知事
明治40年4月2日:勲一等旭日大綬章を受章  明治41年)5月8日:男爵となる
 平山 成信
   ひらやま なりのぶ
    
幕臣:竹村七左衛門の子として生まれ、幕臣・平山省斎の養嗣子となる嘉永7年11月6日生まれ
農商務省・外務省・大蔵省などの勤務を経て、第1次松方内閣・第2次松方内閣で内閣書記官長
明治27年)、貴族院議員に勅選し、1919年(大正8年)より枢密顧問官に転じる。
1908年11月7日、宮中顧問官兼別当(有栖川宮付)に任じられる
1911年7月8日、宮中顧問官を辞任したが、1912年3月13日に宮中顧問官を兼任した
1913年11月11日、別当を辞し宮中顧問官の専任となる
第5代日本赤十字社社長。また、帝国女子専門学校(現・相模女子大学)の設立にも携わり、
校長に就任した。1924年に男爵に叙される。1929年9月25日、76歳で死去
 高橋 健三
  たかはし けんぞう

  
安政2年(1855年)9月江戸で元尾張藩士であった浪人高橋大蔵の子に生まれる。
父が戸田氏に仕官して下総国曾我野藩士となる。
明治3年(1870年)曾我野藩の貢進生に選ばれて大学南校(東京大学の前身の一つ)に入学する。
明治11年(1878年)、東京大学を中退し、翌年官途につく。以後、駅逓局・文部省を経て、
明治16年(1883年)に太政官官報報告掛に任じられて官報の創刊に参画する。
明治22年(1889年)3月に官報局長に任じられた。 岡倉覚三(天心)と親交があり
明治29年9月に第2次松方内閣が発足すると、陸羯南の推挙によって内閣書記官長に任じられる。
大阪朝日新聞に復職するが、内閣書記官長辞任からわずか9ヶ月後の明治31年(1898年)7月に
肺結核のために神奈川県小田原の別荘で42歳の若さで没した。

 石渡 敏一
  いしわたり びんいち
    
 
安政6年10月 江戸(後の東京)出身石渡荘太郎の父
明治7年)慶應義塾に入り明治9年)卒業。明治12年)9月東京大学法学部に入り、
明治17年)7月に同大学英法科を卒業した。同年8月司法省に入省し、記録局翻訳課詰となる
1886年(明治19年)欧州留学、帰国後東京控訴院検事、大審院検事、
明治32年)ベルギーの万国監獄会議派遣、同年4月に慶應義塾大学法学部政治科教授
民事局長、司法次官を経て1906年(明治39年)第1次西園寺内閣の内閣書記官長。
1907年12月10日、貴族院勅選議員に任じられた。1912年4月9日、錦鶏間祗候となる
後に東京瓦斯会社社長。1934年(昭和9年)枢密顧問官となる。

          明治の地方官僚、中央官僚
 石井 忠亮 天保11年7月7日[1](1840年8月4日) - 1901年(明治34年)1月1日)
元佐賀藩士で、中牟田倉之助らとともに藩営三重津海軍所の教官として勤務した。
海軍中佐のとき、軍務を去り、工部省に移籍する。土木・電信の事業に関わり、
1875年(明治8年)には、ヨーロッパ各国の電信事情を視察する。
1885年(明治18年)、ドイツで開催された万国電信会議には、日本政府代表として出席した。
1887年(明治20年)には逓信省電信局長から元老院議官に抜擢された。
1889年(明治22年)には和歌山県知事に転任する。

 中島 信行
  なかじま のぶゆき
    
 
弘化3年8月15日(1846年10月5日) - 明治32年(1899年)3月26日)
土佐国高岡郡塚地村(現・高知県土佐市塚地)の郷士・中島猪三の長男。
心を動かされキリスト教へ求道を始める。
外国官権判事や兵庫県判事を経て、ヨーロッパ留学をした後は神奈川県令や元老院議官をつとめた。
自由民権運動が高まりを見せると、板垣退助らとともに自由党結成に参加して副総理となる。
保安条例によって横浜へ追放された後、第1回衆議院議員総選挙で神奈川県第5区から
立候補して当選
第1回帝国議会に於いて初代衆議院議長に選出されて就任。
その後は明治26年(1893年)にイタリア駐在特命全権公使、
明治32年(1899年)、療養中の神奈川県大磯別邸にて死去。54歳没

 長岡 謙吉
  ながおか けんきち
 
天保5年(1834年)- 明治5年6月11日(1872年7月16日))
高知城下の浦戸町の医師・今井孝順(孝純、玄泉)の息子として生まれる。
明治維新後は三河県知事、大蔵省、工部省などに勤務したが、
明治5年(1872年)に東京にて若くして死去した。享年39。
 神山 郡廉
   こうやま くにきよ
1829年2月16日(文政12年1月13日) - 1909年(明治42年)8月20日
土佐国高知城下中島町で、土佐藩士・神山久左衛の五男として生まれ、神山左平の養子となる。
王政復古後、慶応3年12月12日(1868年1月3日)、参与に就任。以後、徴士、内国事務掛、
行政官弁事、弁官事、職務進退撰挙掛、刑法官副知事などを歴任。
明治4年11月25日(1872年1月5日)、長浜県権令に就任。その後、長浜県が犬上県に改称された
明治5年9月28日(1872年10月30日)、島根県権令に転任。
1873年10月、和歌山県権令に転任。
1884年1月、元老院議官に就任。1887年5月、男爵を叙爵。
1888年2月、高等法院陪席裁判官に就任
1890年7月、帝国議会開設に当たり貴族院男爵議員に選出された
同年10月20日、錦鶏間祗候となる[7]。1904年7月、任期満了により貴族院議員を退任
 片岡 源馬
   かたおか げんま
天保7年10月9日(1836年11月7日) - 明治41年(1908年)11月2日)
土佐藩士・永野源三郎の次男として生まれたが、家老深尾氏の家臣・那須橘蔵の
養子となって那須盛馬と称した。
維新後は新政府に出仕し軍防局管轄軍曹を経て1869年2月に東京府小参事、
のち明治天皇の侍従をつとめる。
1902年には天皇の命によって千島列島の調査探検を実施している。
1900年5月、維新の功によって男爵を授けられる。
1906年5月29日、錦鶏間祗候に任じられ、同年5月31日、貴族院勅選議員となる
 斎藤 利行
   さいとう としゆき
     
旧名は渡辺 弥久馬 幕末の土佐藩家老。同藩士・斎藤利成の子
1822年2月2日(文政5年1月11日)- 1881年(明治14年)5月26日)
明治維新後は「斎藤利行」と改名し、1870年(明治3年)に刑部大輔、続いて参議として
新政府の中枢にあって新律綱領編纂にあたるが、翌年西郷隆盛と木戸孝允の対立から
全参議の辞任に伴って職を辞した。
1874年(明治7年)に宮内省に出仕し、翌年には元老院議官に任じられて海上裁判所設置に
尽力するが、明治14年に肺病に倒れ、勲二等旭日重光章を授与されるが、間もなく死去した。

 岡本 健三郎
  おかもと けんざぶろう
天保13年10月13日(1842年11月15日) - 明治18年(1885年)12月26日)
土佐藩士・岡本亀七と寅の間に土佐郡一宮で生まれる。
明治5年(1872年)、博覧会用務でオーストリアへ派遣された。
明治6年(1873年)、明治六年政変で板垣退助らとともに下野し、退助らとともに
民選議院設立建白書を作成した。
明治11年(1878年)、立志社の獄で、小銃の弾薬を購入を企てた事を理由に投獄され、
出獄後は自由党に加入しつつ、実業家として活動を始め、
明治18年(1885年)、日本郵船理事となっている。
 飯田 俊徳
   いいだ としのり 
1847年8月5日(弘化4年6月25日) - 1923年(大正12年)8月27日)
萩藩大組飯田家の子として生まれた。
1867年(慶応3年)12月、藩命で長崎・米国・オランダへ留学した
帰国後、工部省鉄道局に入局。
1877年(明治10年)、大阪停車場(現大阪駅)構内にて日本最初の鉄道技術者養成機関として
設立された工技生養成所で教鞭を執り、多くの日本人技術者らを育て上げる。
翌年、東海道本線京都・大津間にて逢坂山トンネル建設の総監督を務め、2年後完成させた。
これは、日本人のみの手で施工されたものとしては最初のトンネルである。
その後も、東海道本線をはじめとする東海地方・関西地方の数々の鉄道敷設を主導し、
1890年(明治23年)には鉄道庁部長となるが、3年後鉄道国有化問題で退職。
 河瀬 真孝
  かわせ まさたかり 
天保11年2月9日(1840年3月12日) - 大正8年(1919年)9月29日)
周防国吉敷郡佐山に、長州藩士の子弟として生まれる。はじめ石川新五郎と名乗る
慶応3年(1867年)、トーマス・ブレーク・グラバーの協力の下イギリスに渡り、
明治4年(1871年)まで滞在する。帰国後は工部少輔、ついで侍従長に就任するも、
明治6年(1873年)にはイタリア、オーストリアに赴任。
明治16年、司法大輔。明治17年(1884年)より明治26年(1893年)まで公使としてイギリス在住。
明治27年(1894年)に枢密顧問官となり、死去まで務めた。
 杉 孫七郎
  すぎ まごしちろう
    
1835年2月13日(天保6年1月16日)- 1920年(大正9年)5月3日)
植木五郎右衛門の次男として周防国吉敷郡御堀村(現在の山口県山口市)で生まれる。
母は周布政之助の姉である。杉考之進盛倫の養子となり、藩校明倫館で学んだ他、
吉田松陰にも師事した。
明治維新後には山口藩副大参事となる。廃藩置県後の1871年(明治4年)、宮内大丞、
秋田県令を歴任後、再度宮内大丞を務める。
1874年(明治7年)に宮内少輔、1877年(明治10年)に宮内大輔、
1878年(明治11年)に侍補を兼務、後に皇太后宮大夫に転じる。
1887年(明治20年)に子爵に叙せられ、1897年(明治30年)に枢密顧問官に転じた。
 楫取 素彦
   かとり もとひこ
  
小田村伊之助
   
文政12年3月15日(1829年4月18日) - 大正元年(1912年)8月14日)
長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。
小田村伊之助と改め、後に文助・素太郎といい、慶応3年(1867年)9月に藩命により、
楫取素彦と改名した。
維新後、いったん帰国して長州藩に出仕していたが職を辞し、一時期三隅に住んでいた。
明治5年(1872年)に足柄県参事となり、明治7年(1874年)に熊谷県権令、
明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県県令となった。
明治17年(1884年)、元老院議官に転任する。その後、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・
宮中顧問官等を歴任し、また貞宮多喜子内親王御養育主任を命ぜられたこともあった。
明治23年(1890年)10月20日、錦鶏間祗候となる
大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳歿。
 山尾 庸三
   かまお ようぞう
    
天保8年10月8日(1837年11月5日) - 大正6年(1917年)12月21日)
萩藩寄組である繁沢石見に経理の才を認められ奉公(陪臣)に上がる。
文久3年(1863年)、藩命により陪臣から藩の士籍に列し、密航で伊藤博文・井上馨・井上勝・
遠藤謹助と共にイギリスへ留学し、長州五傑と呼ばれた。
明治元年(1868年)に帰国。帰国後に明治政府に出仕し、明治3年(1870年)工部省の設立に携わる
工部権大丞・工部少輔、工部大輔を経て、明治13年(1880年)工部卿に就任するなど、
工学関連の重職を任された。また、参事院議官、参事院副議長も務めた。
明治18年(1885年)より新たに創設された法制局の初代長官、宮中顧問官も務めている。
明治31年(1898年)退官後、文墨に親しみ特に金魚の飼育を好んだ。
明治13年に楽善会訓盲院を設立した。大正4年(1915年)には日本聾唖協会の総裁となっている。
大正6年(1917年)、心臓病のため死去
 宍戸 璣
   ししど たまき
    
文政12年3月15日(1829年4月18日) - 明治34年(1901年)10月1日)
前名の山県半蔵, 長州藩士・安田直温の三男として生まれる。
明治維新後は、明治2年(1869年)に山口藩権大参事となる。翌年上京し、10月に刑部少輔。
明治4年(1871年)11月には司法大輔。明治5年(1872年)には文部大輔となる。
明治12年(1879年)3月には清国駐剳全権公使に任命された。琉球藩を廃止し沖縄県を設置した
明治17年(1884年)4月には参事院議官。明治18年(1885年)12月には再び元老院議官。
明治34年(1901年)10月没。享年73

 勝 海舟
  かつ かいしゅう 
明治軍関係に記載 
 千坂 高雅
   かちさか たかまさ
    
天保12年閏1月19日(1841年3月11日)- 大正元年(1912年)12月3日)
父は米沢藩奉行職(国家老)を務めた千坂高明(伊豆)。
明治5年(1873年)、養蚕製糸調査のため上杉茂憲に随行して仏・伊に留学し、翌年帰国。
明治新政府に戦後の態度と才略が認められ、内務省に出仕して大久保利通の下で働いた。
明治10年(1877年)の西南戦争では怨み重なる薩摩への復讐として、元会津藩家老の
山川浩とともに最前線で軍隊を指揮した。明治12年(1879年)以降は石川県令・岡山県令を歴任した。
退官後は実業界に入り、両羽銀行、宇治川水電、横浜倉庫などの重役を務めた。
明治27年(1894年)に勅選の貴族院議員となった。
明治31年(1898年)4月11日、錦鶏間祗候に任じられた
大正元年(1912年)に死去、享年72。
 由利 公正
   ゆり きみまさ
文政12年11月11日(1829年12月6日) - 明治42年(1909年)4月28日)
福井藩士・三岡義知(100石)の嫡男として越前国足羽郡福井城下に生まれる。
明治維新後、土佐藩の福岡孝弟らと共に五箇条の御誓文の起草に参画した
新政府では徴士参与として、金融財政政策を担当する。
明治4年(1871年)に東京府知事に就任。
明治5年(1872年)5月、岩倉使節団の随行に加わることになりアメリカ、ヨーロッパへ渡航し、
各国の自治制度・議会制度などを研究。
明治8年(1875年)に元老院議官に任ぜられ、明治20年(1887年)に子爵に叙せられる。
明治23年(1890年)には貴族院議員。同年10月20日、麝香間祗候となる
明治27年(1894年)3月、京都にて有隣生命保険会社の初代社長に就任した。
明治42年(1909年)に没す。享年81。
 渡辺 昇
  わたなべ のぼる
    
天保9年4月8日(1838年5月1日) - 大正2年(1913年)11月10日)
大村藩参政・渡辺巖の二男として生まれる。兄は渡辺清。
明治政府では長崎裁判所諸郡取調掛、待詔局主事、中弁、弾正大忠に就任。
その後盛岡県権知事、大阪府大参事、4代大阪府知事を歴任。
明治13年(1880年)5月、元老院議官に就任。参事院議官・財務部勤務を経て、
明治17年(1884年)5月、会計検査院長に就任。
明治31年(1898年)3月、勲一等旭日大綬章を受章。
明治37年(1904年)7月、貴族院子爵議員に選出され、明治44年(1911年)7月まで在任した
神道無念流を学び、膂力を恐れられた
身長約6尺(約180cm)の昇が、4尺3寸(約130cm)を超える長竹刀を大上段に構え、袈裟がけや、
防具外れにも打ち込むため、対戦相手から恐れられた。
晩年は、幕末期に斬った敵の亡霊に苦しめられ、書生に体を揉ませなければ眠れなかった。
 渡辺 清
  わたなべ きよし
    
 
天保6年3月15日(1835年4月12日) - 明治37年(1904年)12月30日)
大村藩士・渡辺巌の長男として生まれる。弟の渡辺昇とともに明治維新の志士として活動した。
戊辰戦争では、東征軍監、奥羽追討総督参謀として従軍し、磐城の戦いなどに参戦。
明治に入り政府に出仕。徴士民部官権判事、同権大丞、民部大丞、厳原県権知事、
大蔵大丞などを歴任。
明治7年(1874年)9月、5代福岡県令となり、同14年7月まで務め、退任後に元老院議官に就任。
明治20年(1887年)5月、戊辰戦争の功により男爵を叙爵した。
明治23年(1890年)7月、貴族院男爵議員に選出され死去するまで在任した。
同年10月20日、錦鶏間祗候となる
明治24年(1891年)6月、9代福島県知事に就任し、同25年(1892年)8月に退任した。
その他、高等法院予備裁判官などを務めた。
   
  明治TOP    HOME    

明治期の主要人物総覧

   明治TOP   HOME