明治期大日本帝国海軍将官総覧    明治TOP   HOME
      明治期 帝国海軍将官一覧表 
 名前  生年 出身地  明治期階級・学校  最終階級   最終担当職
勝 海舟 文政6年 幕臣 海軍卿
川村 純義 天保7年 薩摩 海軍卿 海軍中将
西郷 従道 天保14年 薩摩 初~3代海軍大臣 海軍元帥 7~10代海軍大臣
樺山 資紀 天保8年 薩摩 4~5代海軍大臣 海軍大将 初代台湾総督
山本 権兵衛 嘉永5年 薩摩 11~13代海軍大臣 海軍大将
斎藤 実 安政5年 伊達藩 14~18代海軍大臣 海軍大将 第3代朝鮮総督
伊東 祐亨 天保14年 薩摩 海軍元帥 軍令部長
島村 速雄 安政5年 土佐 兵学校7期 海軍元帥 第二艦隊司令長官
伊集院 五郎 嘉永5年 薩摩 連合艦隊司令長官 海軍元帥
伏見宮 博恭王 明治8年 皇族 ドイツ海軍大学 海軍元帥 軍令部総長
八代 六郎 安政7年 犬山 兵学校8期 海軍大将 佐世保鎮守府司令長官 19代海軍大臣
東郷 平八郎 弘化4年 薩摩 海軍大将 連合艦隊司令長官
加藤 友三郎 文久元年 広島 海軍大将 内閣総理大臣
片岡 七郎 嘉永6年 薩摩 兵学寮 第2期 海軍大将 舞鶴鎮守府司令長官
仁礼 景範 天保2年 薩摩 海軍中将 6代海軍大臣
財部 彪 慶応3年 宮崎 海軍少将 海軍大将 海軍大臣
中牟田倉之助 天保8年 佐賀藩士 海軍中将 軍令部長
鮫島 員規 弘化2年 薩摩 海軍大将 佐世保鎮守府司令長官
上村 彦之丞 嘉永2年 薩摩 海軍兵学寮 海軍大将 第一艦隊司令長官
赤松 則良 天保12年 幕臣 海軍中将 佐世保鎮守府の初代長官
秋山 真之 慶応4年 松山藩士 海軍兵学校(7期) 海軍中将 第2艦隊水雷司令官
新井 有貫 嘉永2年 幕臣 海軍兵学寮 海軍中将 横須賀鎮守府軍港部長
有馬 良橘 文久元年 紀州藩 海兵学第12期 海軍大将 海軍省教育本部長
有馬 新一 嘉永4年 薩摩 海軍兵学寮(2期) 海軍中将 第1艦隊司令長官
荒城 二郎 明治13年 北海道 海大甲種11期 海軍中将 横須賀工廠長
安保 清種 明治3年 佐賀 海軍大将 海軍大臣
安東 昌喬 明治13年 北海道 海大校(甲種9期) 海軍中将 海軍航空本部長
伊地知 季珍 安政4年 薩摩 海軍兵学寮(7期) 海軍中将 第2艦隊司令長官
伊地知 彦次郎 安政6年 薩摩 「三笠」艦長 海軍中将 馬公要港部司令官
石橋甫 文久2年 加賀藩士 海軍兵学校(10期) 海軍大将
伊集院 俊 明治4年 鹿児島 海軍兵学校(21期) 海軍少将 佐世保防備隊司令
伊東 義五郎 安政5年 松代藩士 海軍兵学寮(5期) 海軍中将 竹敷要港部司令官
飯田 延太郎 明治8年 徳島 海兵校24期 海軍中将 第2艦隊司令長官
飯田 久恒 明治2年 海軍中佐 海軍中将 第3戦隊司令官、馬公要港部司令官
井手 麟六 安政3年 佐賀 海軍少将 佐世保予備艦隊司令官
井上 継松 1883年 福井 海大(甲種13期 海軍中将 第2水雷戦隊司令官
井上 良智 嘉永4年 薩摩 アメリカ海軍兵学校 海軍中将 侍従武官
井上 敏夫 安政4年 加賀 海軍兵学寮 海軍少将 特務艦隊司令官
岩村 俊武 慶応2年 土佐 海軍大佐 海軍中将 練習艦隊司令官
今村 信次郎 明治13年 米沢 海軍兵学校(30期) 海軍中将 第3艦隊司令長官
犬塚 太郎 明治8年 佐賀 海大甲種7期 海軍中将 鎮海要港部司令官
岩辺 季貴 明治5年 熊本 海軍機関学校 海軍中将 横須賀鎮守府機関長
上田 宗重 明治17年 東京 海軍中将
内田正敏 嘉永4年 土佐 海軍兵学校(3期) 海軍中将 呉港務部長兼呉予備艦部長
瓜生 外吉 安政4年 石川 海軍兵学寮 海軍大将 横須賀鎮守府長官
江頭 安太郎 元治2年 佐賀 海軍少将 海軍中将 佐世保鎮守府参謀長
枝原 百合一 1881年 山口 海兵学校(31期) 海軍中将 第一航空戦隊司令官
大瀧 道助 不明 山形県 海軍兵学校(17期) 海軍中佐 駆逐艦「春雨」は台風に遭遇して座礁し死去
大沼龍太郎 明治4年 青森県 海機関学1期生 海機少将 舞鶴鎮守府機関長
太田 質平 (明治16年 新潟 海兵37期 海軍少将 「春日」艦長
大野 寛 1883年 愛知 海大乙種 海軍中将 大湊要港部司令官、第1戦隊司令官
大角 岑生 明治9年 愛知 海兵学校 24期 海軍大将 海軍大臣
大谷 幸四郎 明治5年 高知 海軍中佐 海軍中将 呉鎮守府司令長官
大湊 直太郎 明治12年 山形 海大(甲種10期) 海軍中将 舞鶴要港部司令官
及川 古志郎 明治16年 新潟 海軍大学校13期 海軍大将 海軍大臣。第18代軍令部総長
小笠原 長生 慶応3年 佐賀 海軍兵学校(14期) 海軍中将
岡田 啓介 慶応4年 福井 海軍兵学校(15期) 海軍大将 16代連合艦隊司令長官、内閣総理大臣
小倉 鋲一郎 嘉永6年 幕臣 海軍兵学校(5期) 海軍中将 第1艦隊司令官
小田 喜代蔵 文久3年 唐津藩士 海軍兵学校(11期) 海軍少将 機雷の「小田式自働繋維器」考案者
 名前  生年 出身地  明治期階級・学校  最終階級   最終担当職
加藤 定吉 文久元年 幕臣 海軍中将 海軍大将 呉鎮守府司令長官
加藤 寛治 明治3年 福井 海兵学18期首席 海軍大将 17代連合艦隊司令長官、軍令部長
加藤 隆義 明治16年 広島 海大甲種(12期) 海軍大将 軍令部総長
鹿江 三郎 明治14年 佐賀 海大乙種 海軍少将 砲術学校校長
樺山 可也 1877年 鹿児島 海大(甲種8期) 海機少将 海軍砲術学校長、第1艦隊参謀長
鏑木 誠 安政4年 上総国 海軍兵学校(5期) 海軍少将 呉水雷団長
金子 養三 明治15年 広島 海兵校(30期 海軍少将 日本海軍飛行機の元祖
金田 秀太郎 明治6年 静岡 海軍中佐 海軍中将 呉海軍工廠長
鹿野 勇之進 嘉永4年 松代藩 海軍兵学寮(5期) 海軍中将 馬公要港部司令官
釜屋 忠道 文久2年 米沢 海軍兵学校11期 海軍中将 馬公要港部司令官
上泉 徳弥 慶応元年 米沢 海軍兵学校(12期) 海軍中将 佐世保水雷隊司令官
河原 要一 嘉永3年 薩摩 海軍兵学寮(2期) 海軍中将 常備艦隊司令官
河村 豊州 嘉永2年 豊後国 軍医総監
漢那 憲和 明治10年 琉球藩  海軍兵学校27期 海軍少将 横須賀防備隊司令
川島 令次郎 元治元年 東京 海大(甲号4期) 海軍中将 旅順要港部司令官
木村 浩吉 文久元年 幕臣 海軍兵学校(9期) 海軍少将 舞鶴水雷団長
黒井 悌次郎 慶応2年 米沢藩 明治期は海軍少将 海軍大将 将官会議議員
岸井 孝一 明治12年 石川 海軍大学校甲種(8期) 海軍少将 第一潜水戦隊司令官
清河 純一 明治11年 鹿児島 海大学(甲種5期) 海軍中将 舞鶴要港部司令官
九津見 雅雄 慶応2年 岡山 海軍兵学校(15期) 海軍少将 「葛城」艦長
河野 左金太 慶應1年 神奈川 海兵学13期生 海軍少将 佐世保港務部長
小林 躋造 明治10年 広島 海軍兵学校26期 海軍大将 20代連合艦隊司令長官
小牧 自然 明治9年 高知 海軍大(甲種6期) 海軍少将 軍令部参謀、初代「陸奥」艦長
斎藤 七五郎 明治2年 宮城県 海軍大学校甲種(4期) 海軍中将 第5戦隊司令官
斎藤 半六 明治2年 石川県 海軍大学校選科 海軍中将 第2艦隊司令長官
斎藤 孝至 万延元年 磐城平 海軍兵学寮(7期) 海軍中将 呉予備艦隊司令官
酒井 忠利 安政4年 庄内藩 海兵学 海軍少将 佐世保海兵団長
坂本 俊篤 安政5年 諏訪 海軍兵学寮(8期) 海軍中将 海軍教育本部長
坂本 一 安政6年 高知 海軍兵学寮(7期) 海軍中将 舞鶴鎮守府司令長官
左近司 政三 明治12年 米沢藩 海大学乙種 海軍中将 太平洋戦争期の商工大臣、国務大臣
桜井 規矩之左右 嘉永元年 佐倉藩 海軍兵学寮(期) 海軍少将 海軍砲術練習所長
佐藤 皐蔵 明治4年 岩手 海兵校第18期 海軍中将 大湊要港部司令官
佐藤 鐡太郎 慶応2年 庄内藩 海兵校第14期 海軍中将 舞鶴鎮守府司令長官
実吉 安純 嘉永元年 薩摩 イギリス留学 海医中将
塩沢 幸一 明治16年 長野 海大学乙種 海軍大将 横須賀鎮守府司令長官
四竈 孝輔 明治9年 仙台 海軍大(甲種7期) 海軍中将 大湊要港部司令官
重岡 信治郎 明治12年 愛媛 海軍兵学校29期 海軍中将 第二潜水戦隊司令官
嶋田 繁太郎 明治16年 幕臣 海軍大(甲種13期) 海軍大将 昭和期 第47代海軍大臣
白根 熊三 明治9年 山口 海大学甲種(6期) 海軍中将 第一艦隊参謀長・連合艦隊参謀長
島内 桓太 明治3年 佐賀 明治期は中佐 海軍少将 第1水雷戦隊司令官
下村 延太郎 慶応3年 京都 海軍大(甲種4期) 海軍中将 海軍教育本部第1部長
下平 英太郎 明治2年 会津 「八雲」艦長 海軍少将 戦艦「日向」艦長
鈴木 貫太郎 慶応3年 大阪府 海軍大学校 海軍大将 第42代 内閣総理大臣
杉政人 明治13年 岡山 海軍大学校 海軍中将 呉海軍工廠長
末次 信正 明治13年 山口 海軍大(甲種7期) 海軍大将 21代連合艦隊司令長官、内務大臣
仙頭 武央 元治元年 土佐 海軍兵学校(10期) 海軍中将 鎮海防備隊司令官
高橋 三吉 明治15年 岡山 海軍大学校(乙甲) 海軍大将 連合艦隊司令長官
高橋 寿太郎 明治12年 岩手 海軍大学校 海軍少将 第一水雷戦隊司令官
竹下 勇 明治2年 鹿児島 海軍大学校(1期) 海軍大将 14代連合艦隊司令長官
竹内平太郎 文久2年 松江 海軍兵学校(8期) 海軍少将 呉鎮守府参謀長
武富 邦鼎 嘉永5年 佐賀 海軍砲術生徒 海軍中将 大湊要港部司令官
田村 丕顕 明治8年 東京 海軍大学校(乙甲) 海軍少将 横須賀防備隊司令
滝川 具和 安政6年 幕臣 海軍少将 軍艦「朝日」艦長,旅順鎮守府参謀長
武田 秀雄 文久2年 土佐 海軍機関少将 海軍中将 機関学校長
谷口 尚真 明治3年 広島県 海大学(甲種) 海軍大将 第18代連合艦隊司令長官
千坂 智次郎 慶応4年 米沢 海軍兵学校(14期) 海軍中将 第2遣外艦隊司令官
土屋 光金 元治元年 愛知 海軍少将 海軍中将 第2水雷戦隊司令官
角田 秀松 嘉永3年 会津藩 海軍中将 常備艦隊司令長官
津田静枝 明治16年 福井県 海兵学第31期 海軍中将 駐満州国海軍部司令官
坪井 航三 天保14年 周防国 海軍中将 横須賀鎮守府司令長官
寺垣 猪三 安政4年 加賀藩 海大学(甲種2期) 海軍中将 第三艦隊司令官
名前 生年 出身地 明治期階級・学校 最終階級 最終担当職
寺岡 平吾 明治10年 山形 海軍兵学校(27期) 海軍少将 第3戦隊司令官
寺島 健 明治15年 和歌山 海軍大学校(21期) 海軍中将 軍務局長、戦中は政治家 大臣
出羽 重遠 安政2年 会津 海軍兵学寮(5期) 海軍大将 第一艦隊司令長官
東郷 吉太郎 慶応2年 薩摩 海軍兵学校(13期) 海軍中将 鎮海要港部司令官
東郷 正路 嘉永5年 福井藩 海軍兵学寮(4期) 海軍中将 第4艦隊司令官
鳥巣 玉樹 明治10年 福岡 海軍大(甲種6期) 海軍中将 佐世保鎮守府司令長官
常盤 盛衛 明治14年 福島 海軍兵学校(30期) 海軍少将 馬公要港部参謀長
栃内 曽次郎 慶応2年 盛岡 海軍大学校(丙) 海軍大将 12代連合艦隊司令長官
富岡 定恭 嘉永7年 松代藩 海軍中将 旅順鎮守府長官
中里 重次 明治4年 山形 海軍大学校(乙) 海軍中将 舞鶴要港部司令官
中城 虎意 明治13年 高知 海軍大学校(乙) 海軍少将 海軍潜水学校長心得
中村良三 明治11年 青森 海軍大学校(甲乙) 海軍大将 第二艦隊指令長官
永田 泰次郎 慶応3年 江戸 海軍兵学校(15期) 海軍中将 第二駆逐艦隊司令官
永野 修身 明治13年 高知 海軍大(甲種) 海軍元帥 連合艦隊司令長官、軍令部総長
南郷 次郎 明治9年 東京 海軍大学(甲8期) 海軍少将 佐世保防備隊司令
中溝 徳太郎 安政4年 佐賀藩 海軍中将 軍務局長
梨羽 時起 嘉永3年 長州藩 海軍中将 馬公要港部司令官
名和 又八郎 文久3年 小浜藩 海軍少将 海軍大将 横須賀鎮守府司令長官
西 紳六郎 万延元年       幕府奥医師 海軍少将 海軍中将 馬公要港部司令官
布目 満造 慶応4年 和歌山 海大学乙種 海軍中将 大湊要港部司令官
野村 貞 弘化2年 長岡 海軍少将 呉鎮艦隊司令官
野崎 小十郎 明治5年 高知 海軍大(甲種5期) 海軍少将 臨時南洋群島防備隊司令官
野間口 兼雄 慶応2年 海軍大学 海軍大将 横須賀鎮守府司令長官
長谷川 清 明治16年 福井 海軍大(甲種) 海軍大将 台湾総督
原 敢二郎 明治13年 岩手 海軍大学(甲9期) 海軍中将 第5戦隊司令官、鎮海要港部司令官
橋元 正明 嘉永6年 薩摩 海軍中将 旅順鎮守府司令長官
林 三子雄 元治元年 河内狭山藩 海軍大佐 砲艦「鳥海」艦長南山攻撃援護作戦で戦死
濱野 英次郎 明治13年 岡山 海軍兵学校(30期) 海軍中将 連合艦隊参謀長
日高 壮之丞 嘉永元年 薩摩 海軍大将 舞鶴鎮守府司令長官
百武 三郎 明治5年 佐賀 海軍大(甲種3期) 海軍大将 佐世保鎮守府長官、軍事参議官
百武 源吾 明治15年 佐賀 海軍大学校(甲乙) 海軍大将 横須賀鎮守府司令長官
広瀬 勝比古 文久2年 岡藩 海軍兵学校(10期) 海軍少将 「筑波」艦長
平賀 徳太郎 明治4年 広島 海軍大佐 海軍少将 第3艦隊参謀長
藤井 較一 安政5年 岡山 海軍兵学校(7期) 海軍大将 第1艦隊長官、横須賀鎮守府長官
藤田尚徳 明治13年 東京 海兵校 29期) 海軍大将 海軍次官
舟越 楫四郎 明治3年 兵庫県 海軍兵学校(15期) 海軍中将 第二遣外艦隊司令官
舟木 錬太郎 安政3年 石川県 海軍少将 富士艦長
古川 鈊三郎 明治5年 福井 海軍中佐 海軍中将 佐世保鎮守府司令長官
細谷 資氏 安政4年 武蔵国 海軍兵学校(5期) 海軍少将 第三艦隊第七戦隊司令官
堀 悌吉 明治16年 大分 海軍大(甲種) 海軍中将 第1戦隊司令官
正木 義太 明治4年 広島 海軍大 専攻学科 海軍中将 横須賀海軍工廠長
増田 高頼 慶応4年 佐賀 海軍兵学校(18期) 海軍少将 台湾総督府海軍参謀長
松本 和 安政7年 幕臣 海軍兵学校(7期) 海軍中将 呉鎮守府司令長官
松下 元 明治17年 福岡 海軍大(甲種12期) 海軍中将 佐世保鎮守府司令長官
松山 茂 明治14年 長崎 海軍大学校乙種 海軍中将 軍令部次長
松平 保男 明治11年 会津 海軍兵学校(28期) 海軍少将 横須賀海兵団長
松村 菊勇 明治7年 佐賀 海軍大(甲種5期) 海軍中将 鎮海要港部司令官
松村 龍雄 慶応4年 佐賀 海軍大(甲種) 海軍中将 旅順要港部司令官
三浦 功 嘉永3年 幕臣 海軍兵学寮出仕 海軍中将 旅順口港務部長
三須 宗太郎 安政2年 近江国 兵学校第5期生 海軍大将 第一戦隊司令官
向山 慎吉 安政3年 幕臣 海軍中将 竹敷要港部司令官
村上 格一 文久2年 佐賀 海軍兵学校(11期) 海軍大将 27代海軍大臣
森山 慶三郎 明治3年 佐賀 海軍兵学校(17期) 海軍中将 第1戦隊司令官
餅原 平二 嘉永4年 鹿児島 海軍中将 大湊要港部司令官
森田 登 明治15年 兵庫 海軍大(甲種12期) 海軍少将 「利根」及び「名取」艦長
森 又七郎 嘉永2年 東京 海軍少将 兼呉鎮守府軍港部長
山路 一善 明治2年 松山藩 海軍兵学校(17期) 海軍中将 第三特務艦隊司令官
山内 四郎 明治5年 福岡 海軍中佐 海軍中将 馬公要港部司令官
山本 安次郎 文久1年 幕臣 機関中将 機関総監
八角 三郎 明治13年 岩手 海軍大(甲種10期) 海軍中将 大湊要港部司令官
山岡 豊一 明治元年 鳥取 海軍兵学校(17期) 海軍中将 第一遣外艦隊司令官
山下 奉表 明治15年 高知 海軍軍医学校 海軍軍医少将 呉海軍病院第二部長、舞鶴要港病院長
名前 生年 出身地 明治期階級・学校 最終階級 最終担当職
山中 柴吉 明治3年 山口 海軍大学 海軍中将 第二水雷戦隊司令官、横須賀工廠長
山内 四郎 明治5年 福岡 海軍兵学校(21期) 海軍中将 馬公要港部司令官
山内 豊中 明治18年 高知 海軍大(乙種)甲15 海軍少将 馬公要港部司令官
山下 源太郎 文久3年 山形 海軍兵学校(10期) 海軍大将 連合艦隊司令長官
山本 信次郎 明治10年 神奈川 海軍大学 海軍少将 東宮御学問所御用掛
山本 五十六 明治17年 新潟 ハーバード大学 海軍元帥 連合艦隊司令長官
山本英輔 明治9年 鹿児島 海軍大学校(5期) 海軍大将 連合艦隊司令長官
山田 彦八 安政2年 鹿児島 海軍兵学校(5期) 海軍中将 横須賀鎮守府司令長官
山梨 勝之進 明治10年 宮城 海軍大(甲種5期) 海軍大将 呉鎮守府司令長官
山屋 他人 慶応2年 盛岡藩 海軍大学 海軍大将 連合艦隊司令長官
吉川 安平 1873年 山口 海大甲種6期 海軍中将 第2艦隊司令長官
吉見 乾海 元治元年 新潟 海軍兵学校(12期) 海軍中将 呉海軍工廠水雷部長、造兵廠長
吉岡 範策 明治2年 肥後 海軍大学校(2期) 海軍中将 連合艦隊参謀長
吉田 善吾 明治18年 佐賀 海軍大学 海軍大将 海軍大臣
吉松 茂太郎 安政6年 土佐 海軍兵学校(7期) 海軍大将 7~8代連合艦隊司令長官
米村 末喜 明治11年 熊本 海軍大学 海軍中将 水路部長
米内 光政 明治13年 岩手 海軍大(甲種12期) 海軍大将 第37代内閣総理大臣
    注意:最終階級の黒色記入は明治期で、茶色は大正期以後となります。没後の階級進級も含む
松井 健吉 明治2年 石川 海軍大将校科(3期) 海軍中佐 第1艦隊第1戦隊参謀 日進にて戦死
和田 幸次郎 明治2年 青森 海軍兵17期 海軍大佐 「三笠」砲術長
丸山 寿美太郎 生不明 山梨 海軍大甲種5期 海軍大佐 侍従武官
佐久間 勉 1879年 福井 海軍兵学校(29期) 海軍大尉 第六潜水艇隊艇長沈没して乗組員全員が殉職
河野 三吉 不明 東京 海軍兵学校31期 海軍中佐 海軍機初飛行を成功
池田 宏平 明治14年 山形 海軍兵学校30期 海軍中尉 第二駆逐隊所属の「雷」にて戦死
大関 鷹麿 明治16年 海大学甲種14期 海軍大佐 海軍航空の発展
大瀧 道助 不明 山形 海兵17期生 海軍中佐 駆逐艦「春雨」は的矢湾での避泊を図り座礁
上原 太 明治14年 山口 海軍少佐 地中海にて潜水艦の雷撃を受け戦死
下村 忠助 明治14年 山形 海軍大(甲種10期) 海軍中佐 ユトランド沖海戦いて戦死
竹垣 純信 明治14年 新潟 海軍機関学校 海軍中佐 地中海連合国艦船の護衛任務戦死
湯浅 竹次郎 明治4年 会津 海軍少佐 日露戦争 戦死
伊東 祐保 明治2年 佐賀 海軍中佐 海軍大佐 青島の戦いにおいて戦死
浅羽金三郎 文久元年 静岡 海軍兵学校10期 海軍大佐 旅順封鎖
殖田 謙吉 明治3年 大分 海軍兵学校18期 海軍少佐 黄海開戦時三笠にて戦死
佐伯 誾 万延元年 広島県 海軍兵学校8期  海軍大佐 吉野艦長衝突にて沈没戦死
白石 葭江 明治6年 東京 海軍兵学校21期 海軍少佐 旅順開城前に戦病死
杉野 孫七 慶応2年 三重 兵曹長 第二回旅順口閉塞作戦にて戦死
高柳 直夫 1878年 佐賀 海軍兵学校26期 海軍少佐 第3回閉塞作戦に「江戸丸」 指揮官戦死
塚本 善五郎 明治2年 海大学科甲種3期 海軍少佐 旅順港外閉鎖触雷し「初瀬」は沈没戦死
林 三子雄 元治元年 大坂 海大学甲生(5期) 海軍大佐 第三次閉塞作戦にて戦死
広瀬武夫 慶応4年 大分県 海軍兵学校(15期) 海軍中佐 第2回の閉塞作戦にて戦死
 
         明治期の日露戦争参戦の将官経歴総覧 
 勝 海舟
 かつかいしゅう

  
文政6年1月 幕臣 父は旗本小普請組(41石)の勝小吉
10代の頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となる。
戊辰戦争時には、幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、
早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は、参議、海軍卿、枢密顧問官を
歴任し、伯爵に叙せられた。明治6年(1873年)には不和だった福澤諭吉らの明六社へ参加、
明治5年(1872年) 5月10日、海軍大輔に任官
明治6年(1873年)10月25日、参議に転任し、海軍卿を兼任。
明治21年(1888年) 4月30日、枢密顧問官に任官
明治32年1月19日に風呂上がりにブランデーを飲んですぐに脳溢血により
意識不明となり、死去。
川村 純義
かわむらすみよし

 
天保7年11月:薩摩藩士
戊辰戦争では薩摩藩4番隊長として各地、特に会津戦争に奮戦した。
明治政府の海軍整備に尽力、明治7年(1874年)には海軍ナンバー2である海軍大輔、
海軍中将に任ぜられる。
西南戦争にあたっては、私学校党の火薬庫襲撃直後、鹿児島に入り、県令・大山綱良と会談
開戦すると山縣有朋とともに参軍(総司令官)として海軍を率い、海上からの軍員及び
物資輸送 戦後、参議・海軍卿に就任し、海軍整備を継続したが、山縣有朋と異なり政治の
世界とは一線を画した。太政官制のもとでは枢要な地位を占めたが、内閣制度に移行と
同時にその座を追われた。物事をはっきりと言いすぎる性格が災いしたとも言われる。
その後枢密顧問官となる。死後海軍大将に昇進した。
 西郷 従道
 さいごうつぐみち
 
 

元帥陸軍大将

大勲位
 菊花大綬章
天保14年5月薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)に生まれる
兄の西郷隆盛を「大西郷」と称するのに対し、従道を「小西郷」と呼ぶ
文久元年(1861年)9月30日に還俗し、本名を隆興、通称を信吾(慎吾)と改名。斉彬を信奉する
精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じる。
明治2年(1869年)、山縣有朋と共に渡欧し軍制を調査。明治4年(1871年)7月、陸軍少将となる。
明治6年には兄の隆盛が征韓論をめぐり下野する(明治六年政変)。
薩摩藩出身者の多くが従うが、従道は政府に留まった。明治7年に陸軍中将となり、都督として
同年の台湾出兵では蕃地事務軍勢を指揮する。
隆盛が明治10年(1877年)に西南戦争を起こした際、従道は隆盛に加担せず、陸軍卿代行に
就任し政府の留守を守った。以後は政府内で薩摩閥の重鎮として君臨した。
大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)直後の明治11年には参議となり、
同年末には陸軍卿になった。
明治15年1月11日、黒田清隆が開拓使長官を辞すると、参議・農商務卿兼務のまま
開拓使長官に任じられる。第初代~第3代海軍大臣
海軍大臣時代は山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせ、日本海軍を
日清・日露の戦勝に導いた。
明治25年には元老として枢密顧問官に任じられる。同年、品川弥二郎とともに国民協会を設立。
明治27年(1894年)に海軍大将となり、明治28年(1895年)には侯爵に陞爵。
明治31年(1898年)に海軍軍人として初めて元帥の称号を受ける。
内閣総理大臣候補に再三推されたが、兄・隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に断り続けた
(大山巌も同様)。
 樺山 資紀
 かばやますけのり
  
大勲位
 菊花大綬章

天保8年11月:薩摩藩士・橋口与三次の三男に生まれ、樺山四郎左衛門の養子となる
明治4年(1871年)に陸軍少佐に任ぜられ、明治5年(1872年)より南清に出張、台湾出兵に従軍。
西南戦争では熊本鎮台司令長官・谷干城少将の下、同鎮台参謀長として熊本城を死守する。
その後警視総監兼陸軍少将に昇進するが、海軍へ転じ、
明治16年(1883年)に海軍大輔、同19年(1886年)には海軍次官となる
明治25年(1892年)にかけての第1次山縣内閣と第1次松方内閣で海軍大臣をつとめる。
日清戦争直前に海軍軍令部長に就任する。明治28年(1895年)に海軍大将に昇進する。
同年5月10日、初代台湾総督に就任、台北に総督府を開庁する。
その後も枢密顧問官、第2次松方内閣で第15代内務大臣、第2次山縣内閣で文部大臣を歴任
明治38年(1905年)11月20日に後備役となり
第4・5代海軍大臣
 山本
  権兵衛

 やまもとごんべい
 
 
大勲位
 菊花大綬章
嘉永5年薩摩藩士で右筆及び槍術師範を務めていた山本五百助盛珉の六男に生まれる
西郷隆盛が明治政府から下野した時は、明治7年)に西郷を追って鹿児島へ一時的に
帰省するも、西郷自らの説得により海軍大輔・川村純義に詫びを入れ兵学寮に戻った。
明治10年)の西南戦争時は、派遣されていたドイツ軍艦での遠洋航海中の外地で
初めてその事実を知った。
1889年(明治22年)、大佐に昇進し、「高雄」艦長や「高千穂」艦長を歴任した。
明治24年)、海軍大臣・西郷従道に海軍省大臣官房主事(後の海軍省主事)に任命され、
日清戦争時には海軍大臣副官となる。
1898年(明治31年)、西郷従道の推薦により47歳で第2次山縣内閣の海相に就任し、その後は
日露戦争が終結するまでの約8年という長きにわたって事実上の海軍トップとして君臨した
日露戦争では開戦に備える一方で、ロシア海軍に勝てる見込みが立つまで開戦に
反対し続け、用意が整ったと判断するや開戦に賛成した。
開戦直前には東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命し、それまでの人事慣例を破るものと
批判されたが、人事権は海軍大臣にあると断行した。明治天皇に理由を尋ねられ
「東郷は運の良い男でありますので」と答えた逸話が残っている。
1904年(明治37年)、東郷と同時に海軍大将に昇進した。
第2次山縣内閣・第4次伊藤内閣・第1次桂内閣: 第11・12・13代 海軍大臣
在任期間:1898年11月8日 - 1906年1月7日
第1次山本内閣:第16代 内閣総理大臣 在任期間:1913年2月20日 - 1914年4月16日
第2次山本内閣:第22代 内閣総理大臣 在任期間:1923年9月2日 - 1924年1月7日
          :第37代 外務大臣 兼  1923年9月2日 - 1923年9月19日 
 斎藤 実
 さいとうみのる
 

 大勲位
  菊花大綬章
安政5年10月:水沢伊達氏に仕える藩士・斎藤軍記(耕平)高庸の子として生まれた
明治6年)10月27日に海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学、明治12年)に卒業した(6期)。
明治21年)10月26日までアメリカ留学兼駐米公使館付駐在武官を務めた。
海軍参謀本部員、「秋津洲」、「厳島」艦長を歴任した。
明治31年)11月10日に第1次大隈内閣の山本権兵衛海軍大臣の推挙により海軍次官に就任、
1906年に第1次西園寺内閣で海軍大臣を拝命し、第1次山本内閣まで8年間つとめた。
大正元年)、海軍大将。大正3年)、シーメンス事件により海軍大臣を辞任し、
予備役に編入された。
大正8年)、武断政治が批判された陸軍大将長谷川好道に代わって、現役海軍大将に復して
第3代朝鮮総督に就任、第14代~18代海軍大臣
(昭和7年)5月26日 - 第30代内閣総理大臣及び第47代外務大臣に就任
 伊東 祐亨
 いとうすけゆき
 
 

元帥陸軍大将

大勲位
 菊花大綬章

 
天保14年5月薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれる。
飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身である
江川英龍のもとでは砲術を学び、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、
陸奥宗光らと共に航海術を学ぶ。
明治維新後は、海軍に入り、明治4年(1871年)に海軍大尉に任官。
明治10年(1877年)には「日進」の艦長に補せられた。明治15年(1882年)には海軍大佐に任官、
「龍驤」、「扶桑」、「比叡」の艦長を歴任する。
明治19年(1886年)に海軍少将に進む。のち海軍省第一局長兼海軍大学校校長を経て、
明治25年(1892年)には海軍中将に任官、横須賀鎮守府長官を拝命。
明治26年に常備艦隊長官を拝命し、
明治27年の日清戦争に際し、7月18日に連合艦隊司令長官を拝命した。
戦争後は子爵に叙せられ 軍令部長を務めた。明治31年(1898年)に海軍大将に進んだ。
日露戦争では軍令部長として大本営に勤め、明治38年の終戦の後は元帥に任じられた。
大正3年(1914年)、72歳で死去した
 島村 速雄
 しまむらはやお
 
 
 元帥陸軍大将
安政5年9月 土佐藩の郷士・島村左五平と妻・鹿子の間に生まれる。
17歳のときに上京、海軍兵学寮を受験して合格した、本科では常に首席
23歳で兵学校(7期)を卒業して海軍少尉補となり、軍艦「扶桑」の乗組員に任ぜられる。
明治19年1886年)7月13日 - 任海軍大尉
明治25年5月23日 巡洋艦「高雄」分隊長兼砲術長
明治27年(1894年)12月9日 - 任海軍少佐
日清戦争においては、島村は参謀として、連合艦隊旗艦「松島」に乗り組んで参加した。
明治32年9月29日 - 任海軍大佐
    10月7日 - 防護巡洋艦「須磨」艦長
明治36年(1903年)12月28日 - 第一艦隊参謀長。連合艦隊参謀長(兼任)。
明治37年(1904年)6月6日 - 任海軍少将
明治38年1月第二艦隊第二戦隊司令官
明治41年(1908年)8月28日 - 任海軍中将。海軍大学校校長
明治42年(1909年)12月1日 - 第二艦隊司令長官
大正4年(1915年)8月28日 - 任海軍大将、大正12年(1923年)1月8日 - 死去。元帥。正二位
 伊集院
  五郎

 いじゅういん ごろう
 

 元帥陸軍大将
嘉永5年9月 薩摩藩士の子として生まれ、明治10年(1877年)の西南戦争に参戦する
イギリスの海軍兵学校・海軍大学校で兵学を学んでいたため、日本海軍の中でも
博識であった。海兵5期。下瀬雅允海軍技師が開発した下瀬火薬の威力を発揮させるため、
伊集院信管を開発した。
明治32年(1899年)9月26日 任 海軍少将・軍令部次長兼将官会議議員
明治35年(1902年)3月17日 常備艦隊司令官
明治36年(1903年)9月5日 任 海軍中将・軍令部次長兼将官会議議員
明治38年(1905年)の日本海海戦(日露戦争中)で、下瀬火薬とともにその威力を発揮し、
連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破する大きな要因となった。
そのため伊集院は、「日本海海戦勝利の影の功労者」と言われている。
日露戦争後は第二艦隊司令長官、第一艦隊司令長官を歴任した。
明治39年11月22日 第一艦隊司令長官時代に行った猛訓練は「月月火水木金金」といわれ、
後に同名の軍歌が作られるに至った。
明治41年5月26日 第1艦隊司令長官(同年10月から11月まで連合艦隊司令長官を兼任)
明治43年(1910年)12月1日 任 海軍大将 大正3年(1914年)4月22日 軍事参議官
大正6年(1915年)5月26日 元帥  大正10年(1921年)1月13日 死去
勲一等旭日大綬章 長男:伊集院松治海軍中将 二男:大野竹二海軍少将
         
 日露戦争凱旋式当日の海軍首脳 左4人目から順に          
 伊集院、上村彦之丞、東郷平八郎、山本権兵衛、伊東祐亨、
 片岡七郎、出羽重遠、斎藤実、山下源太郎、中列左から
 6人目加藤友三郎
 
 伏見宮
 博恭王

ふしみのみや
 ひろやすおう
 
 
 元帥陸軍大将

 大勲位
  菊花大綬章
明治8年10月 貞愛親王の第一王子・愛賢王として生まれる
華頂宮を継承して3年後の1886年(明治19年)4月5日、博恭王は海軍兵学校予科に入学
3年後に海軍兵学校を中退してドイツに渡り、ドイツ海軍兵学校からドイツ海軍大学校で学び
明治28年)まで滞在した。この間1894年(明治27年)に海軍少尉に任官される
帰国後は巡洋艦や戦艦での艦隊勤務を重ね、このため後述する様に皇族とはかけ離れた生活
日露戦争では連合艦隊旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う
また艦長や艦隊司令長官を務める等、皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富であった。
大正2年)8月31日に海軍少将に任官されると共に横須賀鎮守府艦隊司令官に就任。
大正11年海軍大将
更に海軍大学校長・第2艦隊司令長官などを歴任し、1923年(大正12年)に貞愛親王の死去に
伴い伏見宮家を継いだ。昭和6年陸軍参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し
昭和7年2月2日、海軍軍令部長・将官会議議員  5月27日、元帥
昭和7年、海軍もバランスをとる必要から、博恭王を海軍軍令最高位である
軍令部長に就任させた
日独伊三国同盟・太平洋戦争(大東亜戦争)と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな
発言力を持った。太平洋戦争中においても、大臣総長クラスの人事には博恭王の諒解を
得ることが不文律であった。
昭和19年)6月25日、サイパン島の放棄を決定した天皇臨席の元帥会議において、
戦局がこのように困難となった以上、「航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に
使用するを要する」と発言した。この「特殊な兵器」は特攻兵器を指したもので
あるとの主張もある。 946年8月16日死去した。没
 八代 六郎
 やしろ ろくろう
 
 
安政7年1月:犬山市)の地主、松山庄七の三男。明治元年、水戸藩浪士・八代逸平の養子
明治14年、兵学校8期を35名中19位で卒業。首席は航海術の権威となった今泉利義少将。
8期で大将まで昇進したのは八代のみで、中将が3名・少将が7名いる。
日露戦争勃発までの5年間、「八島」副長、常備艦隊参謀、「宮古」艦長、「和泉」艦長と最前線
のトップを歴任。海軍大学校選科学生を経て、日露戦争には「浅間」艦長として参戦する。
八代は旅順港閉塞作戦の指揮官を望んだが、東郷平八郎に却下された。
明治40年(1907年)に少将へ昇進。翌年に帰国して横須賀予備艦隊、第1艦隊、練習艦隊、
第2艦隊の司令官を歴任する。
明治44年(1911年)に中将へ昇進し、海軍大学校長に就任。  第19代海軍大臣
しかしシーメンス事件が発覚して第1次山本内閣が倒れ、海軍大臣・斎藤実が辞職し、海軍は
大混乱に陥った。斎藤は後任に八代を指名し、世間の非難にされた海軍の復権をゆだねる
大正3年4月16日、第2次大隈内閣発足とともに、破天荒な八代の海軍省改革が始まった。
大正6年に最後の職となる佐世保鎮守府司令長官に就任し、この間に海軍大将へ昇進する。
 東郷
  平八郎

 とうごう
  へいはちろう
 
元帥陸軍大将

大勲位
菊花大綬章

大勲位
菊花章頸飾
弘化4年12月薩摩藩士・東郷実友と堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれる。
薩英戦争に従軍し初陣、慶応3年(1867年)6月に分家して一家を興す。戊辰戦争では春日丸に
乗り組み、新潟・箱館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦う。
体型は小柄ではあるが下の写真でも分かるように美男子である。
明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスの
ポーツマスに官費留学する。東郷は当初鉄道技師になることを希望していた。
帰国途上、西郷隆盛が西南戦争を起こして自害したと現地で知った東郷は、「もし私が日本に
残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。
実際、東郷の実兄である小倉壮九郎は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、
城山攻防戦の際に自決している。
日清戦争
明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(高陞号事件)、
黄海海戦、威海衛海戦で活躍する。
威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には
連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加。
日露開戦前の緊迫時期に海軍大臣・山本権兵衛に呼び戻され、明治33年(1902年)12月に
第一艦隊兼連合艦隊司令長官に就任する。
日露戦争
明治37年2月10日からの日露戦争では、旗艦「三笠」に座乗してロシア海軍太平洋艦隊
(後に第一太平洋艦隊へ改称)の基地である旅順港の攻撃(旅順口攻撃・
旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。
6月6日には
海軍大将に昇進する。
*日清戦争・日露戦争の詳細は別記記載参照
明治38年(1905年)から明治42年(1909年)まで海軍軍令部長、東宮御学問所総裁を歴任。
大正2年(1913年)4月には元帥府に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許される。
昭和9年(1934年)5月30日、膀胱ガンのため満86歳で死去。6月5日に国葬が執り行われた
 加藤
  友三郎

かとう ともさぶろう
 
 
大勲位
 菊花大綬章
文久元年2月:広島藩士、加藤七郎兵衛の三男として広島城下大手町に生まれる。
明治17年)10月、海軍兵学校7期卒業。1888年(明治21年)11月、海大甲号学生。
日清戦争に巡洋艦「吉野」の砲術長として従軍、「定遠」「鎮遠」を相手として黄海海戦に活躍
日露戦争では、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として日本海海戦に参加。
連合艦隊の司令長官・東郷平八郎、参謀長・加藤、参謀・秋山真之らは弾丸雨霰の中、
戦艦「三笠」の艦橋に立ちつくし、弾が飛んできても安全な司令塔には入ろうとせず、
兵士の士気を鼓舞した。その後、海軍次官、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を経て、
大正4年)8月10日第2次大隈内閣の海軍大臣に就任。同年8月28日、海軍大将に昇進。
第20-24代海軍大臣
第21代 内閣総理大臣:在任期間 1922年6月12日 - 1923年8月24日
 片岡 七郎
 かたおか しちろう
 
 
旭日桐花大綬章
嘉永6年12月 薩摩藩士・片岡喜藤太の次男。少年期のうちに薩英戦争や戊辰戦争が
終わっており、西南戦争も兵学寮の生徒だったために参加していない。
中でも飛び抜けた語学力を身に着けた。明治14年に卒業(3期)、翌月に大尉まで昇進した。
明治27年(1894年)7月15日、豊島沖海戦が起こり日清戦争が始まったため、翌日には片岡に
帰国命令が下され、依仁親王の護衛を兼ねて急遽帰国した。
片岡が生涯初めて戦場に出たのは、威海衛への直接攻撃に着手し始めた
明治27年12月のことで、日露戦争への機運が高まる中、片岡は明治32年に少将へ昇進し、
呉鎮守府司令官、明治35年に最前線基地の対馬竹敷要港部司令官となった。
明治36年(1903年)12月第1・第2艦隊で連合艦隊を組み、第3艦隊を独立部隊にした。
片岡はこの第3艦隊司令長官に任じられた。第3艦隊は、日清戦争時に使用された
老朽艦によって編成された艦隊で、補助的な戦力しか持っておらず、片岡はこの艦隊を駆使し、
、朝鮮沿岸の警備、さらには第2軍の上陸地点選定から護衛、さらには金州作戦の支援、
重砲隊派遣と、全力で第2軍の支援に当たった。講和条約を優位に進めるために、南樺太を
占領することになり、片岡が樺太占領のために派遣された。新編成の第4艦隊も加え、
 部内で北遣艦隊と通称される部隊を率い、占領に成功した。
海軍では最東端の北知床岬(テルペニア岬)を「片岡岬」と通称し、戦後、連合艦隊は解散し、
単独運用となった第1艦隊の司令長官を1年、艦政本部長を1年半務め、
明治41年8月に最後の任務となる任期中に海軍大将へ進級舞鶴鎮守府司令長官の座に
大正6年(1917年)5月10日予備役に編入され大正9年(1920年)1月11日に死去
片岡は、伏見宮兄弟(愛賢王→伏見宮博恭元帥と菊麿王→山階宮菊麿大佐)のドイツ留学に
随員として1年半派遣された、明治19年海軍少佐、
 仁礼景範
にれ かげのり
  

 勲一等
 旭日大綬章
 
天保2年2月薩摩藩士の子弟として生まれる。
慶応3年(1867年)に藩命によりアメリカに留学
明治5年(1872年)、海軍に出仕して海軍少佐。のち、海軍兵学校校長、東海鎮守府長官、
中艦隊司令官、軍事部長などを歴任。
明治18年(1885年)、海軍中将。明治19年(1886年)より参謀本部次長、海軍参謀本部長、
横須賀鎮守府長官、海軍大学校長などを歴任
明治25年(1892年)、第2次伊藤内閣の海軍大臣に就任、海軍備の充実に力を注いだ。
海軍の軍令権を陸軍の参謀本部からの独立に尽力し、明治26年(1893年)に軍令部が
設置されるが、結局陸軍の反対により頓挫した。
明治29年(1896年)、後備役。享年69
 財部 彪
 たからべたけし
 

慶応3年4月 宮崎県都城市出身 妻は山本権兵衛長女
明治22年(1889年)、海軍兵学校15期を首席で卒業。明治26年(1893年)、海軍大学校を卒業、
日清戦争に従軍。日露戦争では、大本営作戦参謀を務める。
明治36年(1903年)9月26日 - 任海軍中佐
明治38年(1905年)1月12日 - 任海軍大佐
明治40年(1907年)9月28日 - 巡洋艦「宗谷」艦長
明治42年(1909年)12月1日 - 任海軍少将
斉藤実海軍大臣の下、海軍次官
大正2年(1913年)12月1日 - 任海軍中将
大正4年(1915年)2月5日 - 第三艦隊司令官
大正6年(1917年)12月1日 - 舞鶴鎮守府司令長官,佐世保鎮守府司令長官
大正8年(1919年)11月25日 - 任海軍大将
大正12年(1923年)5月15日 - 加藤友三郎内閣で海軍大臣に就任
大正13年(1924年)6月11日 - 第2次山本内閣で海軍大臣に就任
 中牟田
  倉之
 なかむた
  くらのすけ
  
 
天保8年2月:佐賀藩士 金丸孫七郎の次男だったが、中牟田家の養子となる。
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると奥州方面へ出陣
戊辰戦争時の勲功により明治3年に海軍中佐、明治5年には海軍大佐に昇進
明治10年(1877年)の西南戦争でも勲功があったため海軍中将に昇進。後、海軍大学校長
日清戦争直前、海軍軍令部長を務めていたが、清の北洋艦隊の戦力を高く評価し、
徹底した非戦派であった。そのため、開戦派であった山本権兵衛に軍令部長を解任され、
樺山資紀と交代させられた。  草創期の海軍にあって二大勢力であった
佐賀藩出身者の薩摩藩出身者への敗北であったといわれる
 鮫島員規
 さめしまかずのり
  
 
弘化2年5月 薩摩藩士、鮫島新左衛門の長男として鹿児島で生まれる。
明治4年(1871年)、海軍に入り少尉補任官、「龍驤」乗組。佐賀の乱、西南戦争に従軍。
その後、参謀本部海軍部第2局長、装甲艦「金剛」艦長、装甲艦「扶桑」艦長を歴任。
明治24年(1891年)、フランスに発注した軍艦「松島」の回航委員長、初代艦長となる。
さらに横須賀鎮守府参謀長、常備艦隊参謀長、海軍大学校長、横須賀鎮守府長官、
常備艦隊司令長官などを歴任。
日清戦争時には常備艦隊兼連合艦隊参謀長として黄海海戦に参加、
日露戦争では佐世保鎮守府司令長官をつとめた。
明治38年(1905年)、海軍大将に進級。明治40年(1907年)2月14日、予備役に編入される
1910年10月14日(満65歳没)
 上村
  彦之丞
   このじょう

 
 
嘉永2年5月薩摩藩漢学師範・上村藤一郎の長男として生まれた
海軍兵学寮に進んだが、在籍中に西郷隆盛が下野したことを受けて上村も鹿児島に帰った。
しかし西郷の説諭により兵学寮に戻る。山本権兵衛、日高壮之丞らが行動を共にしている。
少尉補試験に合格。4期生として卒業したが、席次はやはり最下位であった
しかし将官となってからは、海軍教育本部長や、軍務局長を務めるなど、軍政面でも活躍した。
日清戦争では「秋津洲」艦長として出征。第一遊撃隊に属し豊島沖海戦では「操江」を
「操江」を降伏させた。これは日本海軍が敵軍艦を降伏させた最初の事例である。
続いて黄海海戦でも武勲を挙げた。
明治27年12月 海軍大佐、明治32年(1899年) 9月 海軍少将。駐英造船造兵監督長
明治36年(1903年) 9月 海軍中将、海軍教育本部長、10月 第二艦隊司令長官
日露戦争では第二艦隊司令長官として、蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊を撃破。
日本海海戦では判断よくバルチック艦隊の進路を塞ぎ、戦勝の重要な基因をなした。
明治43年(1910年)12月 海軍大将
戦後は横須賀鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を務め、海軍大将で退役となった。
  連合艦隊首脳部。左から舟越楫四郎、島村速雄
東郷平八郎、上村彦之丞、加藤友三郎、秋山真之
 
赤松 則良
あかまつ のりよし
  
 
天保12年11月幕府十五番組御徒士(御家人)・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれる。
安政4年(1857年)に長崎海軍伝習所に入所して航海術などを学ぶ。
戊辰戦争が勃発すると、幕府海軍副総裁となった榎本釜次郎と合流して江戸脱走を
試みるが果たせず、徳川家臣らと共に静岡藩へ移る。
明治政府に出仕して海軍中将にまで累進。主船寮長官、横須賀造船所長、
海軍造船会議議長、
明治22年に開庁した佐世保鎮守府の初代長官などの要職を歴任した。
明治20年(1887年)に男爵を叙爵。貴族院議員も務め、1917年9月13日に辞職
秋山 真之
あきやま さねゆき

 
 
慶応4年3月:松山藩の下級武士・秋山久敬の5男として生まれる
明治16年(1883年)に将来の太政大臣を目指すために東京へ行き受験準備のために共立学校
などで受験英語を学び、大学予備門(のちの一高、現在の東京大学教養学部)に入学。
明治19年(1886年)に海軍兵学校に17期生として進学。明治23年に海軍兵学校を首席で卒業し、
海軍軍人となる。卒業後は少尉候補生として海防艦「比叡」に乗艦して実地演習を重ね、
明治25年、海軍少尉。日清戦争では通報艦「筑紫」に乗艦し、偵察など後援活動に参加。
明治29年1月には横須賀に転属し、日清戦争での水雷の活躍に注目して設置された
海軍水雷術練習所(海軍水雷学校)の学生になり水雷術を学び、卒業後に横須賀水雷団
第2水雷隊付になる。明治32年(1899年)1月にはイギリス駐在となり視察を行い8月に帰国。
明治34年(1901年)、海軍少佐。明治35年(1902年)には海軍大学校の教官となる。
翌明治37年(1904年)に海軍中佐・第1艦隊参謀(後に先任参謀)。
日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、
第1艦隊旗艦「三笠」に乗艦する。ロシアのバルチック艦隊が回航すると迎撃作戦を立案し、
日本海海戦の勝利に貢献、日露戦争における日本の政略上の勝利を決定付けた。
明治38年(1905年)12月の連合艦隊解散後は巡洋艦の艦長を歴任し、第1艦隊の参謀長を経て
明治41年(1908年)、海軍大佐となり、大正2年(1913年)には海軍少将に昇進。
第2次大隈内閣が発足すると、海軍大臣には八代六郎が任命され、秋山は軍務局長として
八代を補佐し、軍艦建造のための臨時会議召集をはたらきかけ、予算成立に尽力する。
大正6年9月にはアメリカへ渡り、10月に帰国。帰国後には第2艦隊水雷司令官になるが、
病状悪化により間もなく辞職する。同年7月には海軍将官会議議員になるが、
海軍中将昇進と同時に待命となった。兄は「日本騎兵の父」と云われた陸軍大将の秋山好古
新井 有貫
あらい ありつら

   
嘉永2年11月幕臣出身。江戸幕府御船方の経歴を有し、
明治4年)12月19日、海軍兵学寮13等出仕として海軍に入る。
「扶桑」艦長として日清戦争に従軍。黄海海戦では連合艦隊本体の殿となる同艦を指揮した。
「扶桑」は最速13ノットで参戦した日本海軍の艦艇中「赤城」に次いで2番目の劣速であったが、
清国北洋艦隊の主力艦である「定遠」の突撃をかわし、同艦に砲撃を加え損害を与えた
戦後は横須賀鎮守府軍港部長などを経て明治31年少将へ昇進。日露戦争では
大本営附となる。日本は戦利品となった露国の沈没艦船の引上げを図り、
まず仁川沖海戦で撃沈した
露国防護巡洋艦「ヴァリャーグ」の引上げを行った。未だ戦中の1905年(明治38年)3月9日に
始まった引上げ作業に責任者として成功した新井に対し、明治天皇は勅語を下している。
明治39年9月の海軍中将進級以後、待命、休職、予備役の発令
有馬 良橘
ありま りょうきつ

  
文久元年11月 紀州藩士・有馬元函の長男として生まれる。
父の元函は紀州徳川家家臣として幕府軍側に参戦転戦したために良橘が
幼少の頃は朝敵扱いされ良橘の尋常小学校入学が12歳まで遅延する結果を招く。
旧制三田英学校より海軍兵学校第12期入校。
日露戦争では旅順港閉塞作戦を立案し、3回の作戦中2度指揮官の1人として自ら参加した。
明治24年12月14日 - 任 海軍大尉・2等巡洋艦「千代田」航海長
明治30年(1897年)12月1日 - 任 海軍少佐
明治32年(1899年)9月29日 - 任 海軍中佐
明治37年5月24日 - 3等巡洋艦「音羽」艦長
    7月13日 - 任 海軍大佐
明治38年 6月14日 - 2等巡洋艦「笠置」艦長
明治39年11月22日 - 装甲巡洋艦「磐手」艦長
明治40年12月20日 - 第二艦隊参謀長
明治42年12月1日 - 任 海軍少将
大正元年12月1日 - 第一艦隊司令官
大正2年12月1日 - 任 海軍中将
大正6年(1917年)4月6日 - 第三艦隊司令長官
大正8年(1919年) 11月25日 - 任
海軍大将
大正11年(1922年)4月1日 - 予備役編入
昭和19年 5月1日 - 死去 享年84
有馬 新一 
ありま しんいち

  
 
嘉永4年1月薩摩藩士、簗瀬新八の二男として生まれ、有馬純晴の養嗣子となる。
1874年(明治7年)11月、海軍兵学校(海軍兵学寮、2期)を卒業し、少尉補任官。
明治17年)12月、「筑波艦」砲術長となり、以後、「天龍艦」副長、「摂津艦」副長、「扶桑艦」副長、
「天城」艦長、「武蔵」艦長、「天龍」艦長心得兼海兵教官、海軍参謀部第2課長、
日清戦争時は「金剛」艦長と「厳島」艦長を勤め、黄海海戦では「厳島」艦長として参戦
橋立」艦長、「八島」艦長などを歴任し、1897年(明治30年)12月、海軍少将に進級した。
竹敷要港部司令官、常備艦隊司令長官、艦政本部長を経て、明治35年5月、海軍中将に進級
さらに、海軍教育本部長、呉鎮守府司令長官、佐世保鎮守府司令長官、第1艦隊司令長官、
教育本部長(再)、佐世保鎮守府長官(再)を歴任した。
荒城 二郎 
あらき じろう
  
 
明治13年11月6日 - 1952年(昭和27年)6月3日)は、北海道出身 (本籍は東京都)
海軍軍人(中将)。兄の卓爾は陸軍少将。
旧徳島藩洲本城城代家臣・陸軍屯田兵少佐・荒城重雄の二男として札幌市に生まれる
海軍兵学校29期。日露戦争に「香港丸」「朝霧」乗組として出征
「扶桑」水雷長・「村雨」駆逐艦長などを経て、1913年(大正2年)海軍大学校甲種11期卒。
大正10年)~1923年(大正12年)在ドイツ駐在武官
1923年(大正12年)艦政本部第3部長。1925年(大正14年)少将となり、
同年第2潜水戦隊司令官。大正15年)永野修身の後任として、第一遣外艦隊司令官に就任。
艦政本部では一貫して潜水艦を担当するなど、当時の海軍内では潜水艦通と知られていた
1930年(昭和5年)横須賀工廠長、同年海軍中将。1932年(昭和7年)予備役。
その後日本製鐵設立役員(取締役)・北樺太石油社長などを務めた。
安保 清種 
あぼ きよかず
 
 
明治3年10月 佐賀県海軍草創期の中堅幹部・沢野種鉄大佐の三男として生まれる。
海軍兵学校18期生。在学中は父が兵学校次長であった。
日露戦争時、日本海海戦において、連合艦隊の旗艦である戦艦「三笠」の砲術長を務め、
艦隊の射撃指揮に功績を挙げた。
1911年度の第2艦隊参謀長と1915年度の戦艦「安芸」艦長のみで、以後は軍政・軍令の両方に
長けた幹部として大成する。海軍大臣に至るまでに、1923年度に艦政本部長、翌年から
財部彪海軍大臣のもとで海軍次官を1年務めている。
日露戦争後の1908-1911年にイギリス駐在。第一次世界大戦直前から序盤の
1913年-1915年にイギリス大使館附武官。戦後の1922年から1年間は国際連盟海軍代表
1927年、海軍大将に就任。1930年には濱口内閣で海軍大臣となった。
1934年に予備役、1935年に後備役に編入され、1940年に退役。1948年、77歳で没
安東 昌喬 
あんどう まさたかず

  
 
1880年5月28日 - 1956年4月7日)
安東吉右衛門の五男として生れる。札幌中学校を経て、1900年12月、海軍兵学校(28期)を卒業
1902年12月、海軍少尉任官。日露戦争では第15艇隊付として出征し、日本海海戦では「常磐」
分隊長であった。砲術練習所で学んだ後、呉海兵団分隊長、「筑波」分隊長、「卯月」艦長、
「日進」砲術長、呉鎮守府参謀などを経て、1911年5月、海軍大学校(甲種9期)を首席で卒業
イギリス駐在、「香取」砲術長、軍令部参謀、軍令部第1班第1課部員などを歴任。
第一次世界大戦では、第2特務艦隊参謀として地中海に派遣され活動した。
1924年12月、海軍少将に進級。軍令部参謀(第2班長)を経て、霞ヶ浦海軍航空隊司令
1928年12月、海軍中将となり、海軍航空本部長などを歴任。1931年12月、予備役に編入された。
伊地知
 季珍
 

いじち すえたか

  
 
安政4年3月鹿児島県出身。伊地知徳四郎の息子として生まれる。
明治7年)10月、海軍兵学寮(7期)に入学。1883年(明治16年)11月、海軍少尉に任官。
明治19年)12月、「金剛」分隊長となり、「愛宕」「武蔵」「筑波」の各分隊長、「龍驤」「橋立」の
各砲術長などを経て、1894年(明治27年)6月、「扶桑」砲術長に就任し日清戦争に出征
明治28年)2月、常備艦隊参謀に転じた。
1895年8月、「大和」副長となり、翌年4月、海軍少佐に昇進し佐世保鎮守府参謀に着任
明治34年)7月、海軍大佐に昇進。「金剛」「浪速」の各艦長を経て、
明治36年)9月、「出雲」艦長に着任し日露戦争に出征。蔚山沖海戦、日本海海戦に参加した。
明治38年)12月、「鹿島」回航委員長として渡英、その後、同艦長を経て
舞鶴鎮守府参謀長に就任し、1907年(明治40年)3月、海軍少将に進級した。
明治41年)5月、呉工廠長となり、1911年(明治44年)6月、海軍中将に進んだ。
以後、第2艦隊司令長官、艦政本部長、横須賀鎮守府司令長官、呉鎮守府司令長官、
海軍将官会議議員を歴任。1917年(大正6年)3月、後備役に編入となった。
伊地知
 彦次郎

いじち ひこじろう

 
安政6年12月薩摩藩士・伊地知季太の二男として生まれる。
明治7年(1874年)10月、海軍兵学寮(7期)に入学。明治16年(1883年)に海軍少尉任官
「畝傍」分隊長、「鳳翔」分隊長、参謀本部海軍部第2局員、横須賀鎮守府長官伝令使、
日清戦争では「橋立」分隊長として出征した。
その後、「大島」分隊長、「武蔵」副長、呉水雷団水雷艇隊司令、軍令部第1局員、「富士」副長
「龍田」艦長、海軍省軍務局第2課長、第1駆逐隊司令、常備艦隊参謀長、「松島」艦長など歴任
日露戦争では、連合艦隊旗艦「三笠」艦長として従軍し、東城鉦太郎作の「三笠艦橋の図」にも
描かれている
明治39年(1906年)11月、海軍少将に進級。兼教育本部第2部長、練習艦隊司令官、
将官会議議員などを歴任し、明治43年(1910年)12月、海軍中将となった。馬公要港部司令官、
将官会議議員を務め、現職で死去した。
石橋 甫 
いしばし はじめ 
文久2年7月加賀藩御算用者・石橋良蔵の六男として金澤岩根町に生まれる
明治12年(1879年)7月19日 - 海軍兵学校(10期)入校
明治16年10月15日 - 海軍兵学校卒業(海軍少尉補)
明治22年8月28日 - 海軍大尉 「館山」航海長
明治30年12月1日 - 海軍少佐 「高砂」航海長
明治31年10月1日 - 海軍中佐 「富士」航海長
明治37年1月17日 - 海軍大佐・「高砂」艦長
明治38年11月21日 - 「橋立」艦長
明治41年(1908年)5月15日 - 「石見」艦長
明治43年7月16日 - 海軍少将
大正3年(1914年)12月1日 - 海軍中将・予備役
伊集院 俊
いじゅういん とし

  
 
明治4年11月鹿児島県出身。伊集院篤の息子として生まれる。
(明治27年)11月、海軍兵学校(21期)を卒業し、少尉候補生として「扶桑」にて日清戦争に従軍
明治28年)12月に海軍少尉任官。水雷術練習所で学んだ。
明治32年)9月、海軍大尉に昇進し「笠置」分隊長に就任。以後、「大島」航海長、
清国南部出張、軍令部第3局局員、大本営海軍参謀などを歴任。南清および満州を偵察。
明治37年)4月、第3艦隊参謀となり日露戦争に出征。1905年(明治38年)1月、海軍少佐に進級。
日本海海戦などに参戦した。
明治42年)10月、海軍中佐に進級した。同年11月、軍令部参謀兼参謀本部員となり、
その後、「朝日」副長、兼海軍砲術学校教官、海軍水雷学校教官、軍令部参謀などを経て、
大正3年)12月、海軍大佐に昇進した。
大正4年)12月、「宗谷」艦長となり、以後、「津軽」艦長、在支那公使館付武官(天津在勤)、
大正8年)12月、海軍少将に進み軍令部参謀を兼務した。
大正9年)10月、佐世保防備隊司令に就任。
大正12年)3月、予備役に編入された。その後は鹿児島市長を務めた。
伊東
 義五郎
 
いとう よしごろう
安政5年5月信濃国松代城下石切町に松代藩士・伊東賢治の四男として生まれる。
藩校文武学校を経て、1872年9月、海軍兵学寮(5期)に入学。
西南戦争に従軍。1881年1月、海軍少尉任官。フランス・ドイツ差遣、海軍参謀部第3課員
1894年9月、海相秘書官となり西郷従道大臣に仕えた。
日清戦争では西海艦隊参謀長として出征 
さらに、海軍省主事、フランス公使館付、「敷島」艦長などを経て、1901年7月、海軍少将に進級。
常備艦隊司令官、横須賀鎮守府艦政部長などを歴任し、
日露戦争時は横須賀工廠長であった。 
1905年11月、海軍中将となり、竹敷要港部司令官、将官会議議員を務め、
1909年5月、予備役に編入された。1918年5月16日、後備役となる
1911年から1919年貴族院議員を務め、大日本石油鉱業(現・帝国石油)社長にも就任した。
飯田
 延太郎

いいだ のぶたろう

 
 
明治8年(1875年)2月13日 - 昭和13年(1938年)11月3日   徳島県出身
明治30年(1897年)10月、海軍兵学校24期を4位で卒業。
1899年)に中尉へ昇進するまで、戦艦「鎮遠」・海防艦「大和」・巡洋艦「橋立」・同「常磐」を
日本海海戦を目前とした1905年4月、飯田は鈴木が統率する駆逐艦「朝霧」艦長に横滑りする
日本海海戦の最中に夜間雷撃を挑み、「シソイ・ウェーリキー」と「ナワリン」の撃沈に貢献した。
戦後、海軍大学校乙種に進学したため、1年近く現場を離れる。
 1906年9月、学生の間に少佐へ昇進。
1910年)12月に海軍大学校教官に移り、翌年12月に中佐へ昇進。
1922年)8月に佐世保防備隊司令、12月に第2水雷戦隊司令官、
 1914年)12月に海軍水雷学校長と水雷関係の要職を歴任。
1925年)8月、馬公要港部司令官となった。12月、海軍中将へ昇進。
1928年5月、舞鶴要港部司令官に転任、12月には佐世保鎮守府司令長官に転任。
1929年11月に最後の任地となる第2艦隊司令長官に着任する。
昭和13年(1938年)11月3日、64歳で没した。
飯田 久恒
いいだ ひさつね
  
 
明治2年10月10日) - 1956年10月15日
飯田久徴の長男として生まれる。攻玉社を経て、1892年7月、海軍兵学校(19期)卒業。
少尉候補生として「愛宕」に乗り組み日清戦争に出征した。1894年9月に海軍少尉任官。
日露戦争では参謀として「磐手」乗り組みで出征した。その後負傷・後送された松村菊勇の
補充として「三笠」へ移り、さらに小倉寛一郎の「三笠」着任に伴って軍令部に異動した
谷口尚真の後任として「浪速」へ移り、蔚山沖海戦に参加、そして小倉の負傷・後送により再び
「三笠」に移り日本海海戦に参加、日本海海戦で戦傷を受けている。
日露戦争のため退学した海軍大学校に復校し、1906年7月、同校(将校科甲種4期)を卒業。
軍令部参謀、1917年12月、海軍少将に進級。さらに、イギリス大使館付武官、
第4戦隊司令官などをなどを経て、1921年12月、海軍中将となった。以後、第3戦隊司令官、
馬公要港部司令官、1924年2月、予備役に編入され、1934年10月に退役した。
井手 麟六
いで りんろく

 
 
安政3年12月 佐賀 
明治14年9月、海軍兵学校を卒業。(第8期)
明治33年(1900年)5月20日、海軍中佐。スループ「武蔵」艦長
明治34年(1901年)2月4日、水雷母艦「豊橋」艦長
明治35年5月24日、海軍大佐 10月6日、防護巡洋艦「橋立」艦長
明治36年(1903年)9月11日、防護巡洋艦「笠置」艦長
明治38年1月7日、佐世保海兵団長、8月5日、装甲巡洋艦「吾妻」艦長
明治39年8月30日、戦艦「三笠」艦長、11月22日、戦艦「香取」艦長
明治41年5月15日、横須賀港務部長 海軍少将
    12月10日、佐世保予備艦隊司令官
1939年4月27日(満82歳没)
井上 継松
いのうえ つぐまつ
    
1883年5月 - 1966年12月24日  福井県出身。井上亀吉の息子として生まれる。
海軍兵学校(32期)を卒業し少尉候補生となり、日露戦争に「韓崎丸」乗組として出征、さらに
「浅間」乗組となった。
1915年(大正4年)12月、海大(甲種13期)を卒業、海軍少佐に昇進し「杉」駆逐艦長となった。
1923年(大正12年)12月、海軍大佐に昇進。1925年(大正14年)12月、「出雲」艦長に就任し、
1929年(昭和4年)11月、海軍少将に進級し海大教頭に就任した。
昭和6年)12月、軍令部出仕となり、第2水雷戦隊司令官を経て、海大校長に発令され、
1934年(昭和9年)11月、海軍中将に進んだ。
昭和11年)3月、鎮海要港部司令官に着任した。
昭和12年)3月、待命そして予備役に編入となった。
井上 良智
いのうえ よしとも

 
嘉永4年6月薩摩藩士・井上九助の息子として生まれる。
明治4年(1871年)9月、砲術生徒となり「龍驤」乗組を経て、
明治5年6月、アメリカ合衆国へ留学。1881年(明治14年)6月、アメリカ海軍兵学校を卒業。
同年8月に帰国し、翌月、海軍中尉に任官した。
明治25年)12月、「赤城」艦長に就任。明治27年2月、「愛宕」艦長となり日清戦争に出征。
明治28年5月11日、海軍大佐に昇進し「筑紫」艦長となるが、同月25日には
在清国公使館附武官へ転出した。 
日清戦争時に佐世保・横須賀両鎮守府司令長官、西海艦隊司令長官
明治30年)6月、「秋津洲」艦長に就任し、佐世保鎮守府参謀長を経て、
明治31年)5月、侍従武官となり、1908年(明治41年)5月まで10年間にわたり在任した。
この間、1902年(明治35年)5月に海軍少将、明治38年)11月に海軍中将へ進んだ。
明治42年)8月、予備役に編入された
井上 敏夫 
いのうえ よとし

 
 
安政4年8月 石川県出身
海兵5期。台湾出兵では高尾丸に、西南戦争では筑波に、兵学寮学生の身分で乗組んだ。
卒業は1878年(明治11年)7月(5期)。
日清戦争直前の数年間、在清国公使館付武官として諜報活動に従事し、開戦とともに帰国。
日露戦争では、明治37年)12月-明治38年)1月に仮装巡洋艦香港丸艦長として、
僚艦日本丸と二艦で南洋方面へ牽制行動をとる。日本海海戦時には、
津軽海峡で哨戒活動に当たった。6月14日以降は特務艦隊司令官を務めた。
明治39年)5月28日、予備役に編入。大正3年3月1日に後備役となり、1918年8月12日に退役した
第10回衆議院議員総選挙と第11回衆議院議員総選挙で四日市市より選出され、
明治41年)から大正3年)まで在任。   海軍少将 
岩村 俊武 
いわむら としたけ

  
慶応2年8月 土佐国  海軍兵学校(14期)
日清戦争、日露戦争に出征。特に水雷戦術
明治41年9月、海軍大佐に昇進
明治43年(1910年)12月、横須賀鎮守府付となり、同44年12月、装甲巡洋艦「吾妻」艦長に着任
戦艦「香取」艦長を経て、大正2年12月、海軍少将に進級し朝鮮総督府付武官となる。
大正3年11月、臨時青島要港部司令官に就任し、第4水雷戦隊司令官、第1水雷戦隊司令官、
練習艦隊司令官、海軍将官会議議員を歴任。大正6年12月、海軍中将に進み
大湊要港部司令官、大正10年(1921年)4月、予備役に編入
昭和18年(1943年)11月に死去
 
今村
 信次郎

いまむら のぶじろう

  
 
明治13年)12月4日 - 昭和44年)9月1日
旧米沢藩江戸家老同心(下士階級)で農業を営む今村滝次郎の二男として生れる。
海軍兵学校(30期)を次席で卒業し、翌年12月、海軍少尉任官。
日露戦争では「韓崎丸」乗組として、百武、溝部洋六らと海兵32期の指導にあたり、
日本海海戦には「三笠」乗組で砲術長安保清種付として参戦した。
海軍砲術学校特修科を首席で修了。さらに、砲術学校教官、第1艦隊参謀、「笠置」分隊長、
大正2年)5月、海軍大学校(以下「海大」)甲種11期を首席で卒業した。
ドイツ駐在を経てイギリス駐在となり、帰国後は軍令部参謀、第1艦隊参謀、
大正14年)2月、海軍少将に進級。侍従武官を勤め、昭和5年)12月、海軍中将となった。
練習艦隊司令官、舞鶴要港部司令官、第3艦隊司令長官、
佐世保鎮守府司令長官を歴任した。 (昭和11年)3月、予備役に編入された。
犬塚 太郎 
いぬづか たろう
明治8年)10月23日 - 昭和11年)7月17日    佐賀藩士族出身
海軍兵学校25期を32名中18番で卒業。「笠置」分隊長として日露戦争を迎え、
第三回旅順港閉塞作戦では「愛国丸」指揮官(大尉)として参戦。負傷しながらも生還し、
「千代田」砲術長兼艦長・東伏見宮依仁親王附皇族武官として日本海海戦を戦った。
戦後は海軍大学校甲種7期を卒業。第一艦隊、第二艦隊、練習艦隊の各参謀を務めている。
大正10年10月 ? 兼侍従武官  12月 - 海軍少将
皇太子時代の昭和天皇を補佐。在任中に皇太子裕仁親王の欧州訪問に随行している
大正14年4月- 鎮海要港部司令官、12月 - 海軍中将 軽巡洋艦「由良」、「名取」、「川内」、
「長良」で構成された第五戦隊、鎮海要港部の司令官を務め予備役となる。
岩辺 季貴 
いわべ すえたか
1872年2月熊本県下益城郡小川町(現在の宇城市)生まれ。
明治27年10月、海軍機関学校卒業後、機関士候補生として高千穂にて日清戦争に従軍する。
明治37年)2月、八島分隊長として日露戦争に出征、ついで翌年1月、海軍機関少監に進み、
八重山機関長に転じる。1906年(明治39年)1月、海軍機関少佐に進級する。
明治40年)には岩辺知言(元小川小学校校長、元小川町長)の養子になる。
大正8年)6月、海軍機関少将に昇進し、聯合艦隊機関長と第一艦隊機関長を兼任する。
同年12月横須賀鎮守府機関長に就任。大正12年12月、海軍機関中将に進み、
大正13年2月、予備役となる。
上田 宗重 
うえだ むねしげ

   
1884年8月15日 - 1939年1月26日東京都出身。旧幕臣篠原重正の四男として生まれ、
旧幕臣上田家の養子となる。
1905年3月、海軍機関学校(13期)を優等で卒業、「三笠」乗組として日露戦争に出征。
同年8月、海軍少機関士に任官。海軍水雷学校、海軍工機学校で学び、海軍大学校で
機関学生として学んだ。佐世保鎮守府機関長、海大教官などを経て、
1929年11月、海軍少将に進級した。 1934年11月、海軍中将となった。
軍需局長を経て艦政本部長となり、上田は機関学校出身者として
日本海軍史上初めて海軍大将を期待されたが、在任中に死去した。
内田正敏 
うちだ まさとし
 
嘉永4年3月高知城下築屋敷(現在の高知市)で内田茂助の子に生まれた。
明治4年)8月、海軍兵学寮入学。1876年(明治9年)9月、海軍少尉補任官。
明治11年)7月、海軍少尉に任官。1881年(明治14年)11月、海軍兵学校(3期)を卒業した。
明治20年)10月、海軍少佐に進級。海兵運用術教官、「金剛」「比叡」「扶桑」の各副長を経て、
明治24年)7月、「鳳翔」艦長に就任。横須賀軍港司令官副官、呉鎮守府海兵団長心得、
明治26年)6月、海軍大佐に昇進し呉鎮守府海兵団長となった。
明治27年)2月、「千代田」艦長に発令され日清戦争に出征した。
明治33年)5月、海軍少将に進級し佐世保港務部長兼佐世保予備艦部長に就任した。
以後、兼佐世保海運部長、常備艦隊司令官、呉鎮守府艦政部長などを歴任し、
日露戦争時には呉港務部長兼呉予備艦部長を務めた。
明治38年)11月、海軍中将に進級と同時に待命となり、翌年2月8日、予備役に編入
瓜生 外吉 
うりゅう そときち

 
 
安政4年1月 加賀藩支藩の大聖寺藩士・瓜生吟弥の次男として生まれる。
明治5年(1872年)、海軍兵学寮に入る。
明治14年、アナポリス海軍兵学校を卒業し、同年11月に海軍中尉任官。
海軍部第3局第2課長、防護巡洋艦「浪速」副長、砲艦「赤城」艦長などを歴任
明治24年、海軍大佐・横須賀鎮守府海兵団長となり、「秋津洲」艦長、「扶桑」艦長を歴任
明治33年(1900年)に海軍少将・軍令部第1局長。さらに、常備艦隊司令官を経て、
第4戦隊司令官として日露戦争を迎え、仁川沖海戦で勝利。
戦後、竹敷要港部司令官、佐世保鎮守府長官、将官会議議員、横須賀鎮守府長官を歴任し
大正元年(1912年)、海軍大将に昇級し、臨時博覧会臨時総裁を務める。
大正2年(1913年)、予備役に編入された。
昭和12年11月11日 没
江頭
 安太郎
 
えがしら
 やすたろう

  
元治2年2月佐賀藩士江頭嘉蔵・キノの次男として生まれた
明治19年)12月7日 - 海軍兵学校卒業(12期)。海軍少尉候補生
明治24年)12月14日 - 任 海軍大尉・「比叡」分隊長、兵学校12期首席、
海軍大学校5期優等。海軍省人事局長、海軍省軍務局長等の要職を歴任した。
海軍大学校甲号学生を首席卒業という稀な秀才であり、
日露戦争では大本営参謀を務める明治26年)12月 海軍大学校卒業・水雷術練習所学生
明治36年9月26日 - 任 海軍大佐・海軍教育本部第一部長
明治37年)1月4日 兼軍令部副官 1月21日 - 兼軍令部参謀 
明治40年)12月18日 - 巡洋戦艦「生駒」艦長・呉工廠艤装委員
明治41年)8月28日 -任 海軍少将・旅順鎮守府参謀長
明治42年)12月1日 - 佐世保鎮守府参謀長
大正2年)1月7日 - 任
海軍中将
皇太子徳仁親王妃雅子は曾孫にあたる
枝原百合一 
えだはら ゆりかず
1881年7月 - 1944年6月28日 山口県出身
明治36年)12月、海軍兵学校(31期)を首席で卒業し、翌年9月、海軍少尉任官。
日露戦争では「三笠」乗組として出征し、日本海海戦では「三笠」航海士であった。
海軍砲術学校高等科学生となり、優等で卒業。1913年(大正2年)12月、海軍少佐に昇進。
大正4年)5月、「敷島」砲術長に就任。以後、「鹿島」砲術長、軍令部参謀などを歴任し、
大正8年)12月、第5戦隊参謀に就任。以後、第6戦隊司令部付、横須賀鎮守府付を経て、
大正11年)3月、「千早」艦長に着任。軍令部参謀に転じ、同年12月、海軍大佐に昇進した。
昭和2年)12月、海軍少将に進級し霞ヶ浦海軍航空隊司令に就任した。
昭和4年)11月、第一航空戦隊司令官となり、以後、海軍航空本部出仕
昭和7年)12月、海軍中将となり、旅順要港部司令官、軍令部出仕を経て、
昭和10年)3月、待命、そして予備役編入となった    初代航空工廠長
海軍航空の技術、開発部門は英米などの模倣が主で、自立を迫られていた。
海軍航空本部本部長安東昌喬中将、同技術部長山本五十六少将、
同総務部長前原謙治少将
大瀧 道助
おおたき みちすけ
 
生年不明 大瀧は山形県出身の海兵17期生である。
1890年(明治23年)7月に88名中39番の成績で海軍兵学校を卒業した。
「金剛」または「比叡」に配乗となって実務訓練を受け、少尉任官は明治25年)5月である。
日清戦争では「金剛」分隊士として威衛海攻略戦に参戦した。
「松島」分隊長を経て、明治36年9月、第三艦隊に所属する第十水雷艇隊司令(少佐)に
麾下4隻の水雷艇を率いて日露戦争に参戦する。部下の艇長は戦中に異動があったが、
大瀧は開戦時から日本海海戦まで一貫して指揮を執る。日本海海戦は
第十水雷艇隊は、水雷艇第43号(艇長は大瀧の兼務)、第40号(艇長中原弥平)、
41号(艇長水野広徳)、第39号(艇長大金實)で構成された。
当時の日本海軍水雷艇は89tから152tまでの四種類であったが、明治38年5月27日は
風浪が激しく、小艦艇である水雷艇の行動には困難があった
この戦闘は駆逐艦17隻、水雷艇24隻で実施され、混乱した状況であったが、魚雷54本を発射し、
日本側の被害は水雷艇3隻の喪失である。迎撃したロシア側の損害は戦艦「ナヴァリン」沈没
「シソイ・ヴェリキィー」、巡洋艦2隻が大破であった。この戦闘につき、
連合艦隊司令長官東郷平八郎は第十水雷艇隊に対し感状を授与した
大瀧の座乗した駆逐艦「春雨」は的矢湾での避泊を図り座礁した。付近一帯住民の救助活動に
よって20名が救出されたが、64名の乗員中大瀧、児玉兼三郎大尉ら44名が殉職した。
大瀧の没年齢は44歳であった 海軍中佐
大沼
 龍太郎

おおぬま
  りゅうたろう
明治4年5月旧会津藩士斗南藩司民掛開拓課に出仕した大沼親誠を父 生まれる
海軍兵学校機関科に進むが、在校中に制度改革が行われ、第二次海軍機関学校の
1期生として明治27年)10月に卒業した。岩辺季貴ら10名が同期生である。
すでに日清戦争が戦われており、大沼は少機関士候補生として「吉野」に乗組み、
威海衛の戦いなどに従った。
沼は日露戦争に出征した。
在任中の「日進」は旅順港に対する間接射撃を実施し、また黄海海戦を戦った。
翌年3月には「音羽」機関長に就任し、機関科の責任者として日本海海戦を戦った。
1913年(大正2年)12月に機関大佐に進級し、佐世保海軍工廠検査官に補されたが、
第一次世界大戦の勃発により第一南遣枝隊(以下「一南遣」)機関長として出征する。
1919年(大正8年)6月に機関少将へ昇進し、待命となる。予備役編入は翌年3月であった。
太田 質平
おおた しちへい
 
明治16年)6月16日 - 1941年(昭和16年)6月16日 新潟県出身
海軍兵学校32期を卒業,堀悌吉、吉田善吾、嶋田繁太郎、山本五十六などが同期生である。
韓崎丸」乗組みとして候補生教育を受け、「笠置」(艦長山屋他人)乗組みとして日本海海戦に参戦
その後海軍大学校乙種、同専修学生、運用学生を修了し、航海専攻の士官となる。「
「大泊」、「尻矢」、「朝日」、「富士」の各特務艦長、「春日」艦長を歴任
昭和4年)11月、海軍少将昇進。佐世保艦船部長を2年務めて予備役に編入された。
1941年6月16日(満58歳没)
大野 寛
おおの ひろし
 
1883年3月31日 - 1956年10月6日 愛知県出身
明治37年)11月、海軍兵学校(32期)を卒業し少尉候補生で、日露戦争に「韓崎丸」乗組と、
して出征、さらに「対馬」乗組となり日本海海戦に参加した。
海軍大学校乙種学生、海軍砲術学校高等科。明治44年)5月、「常磐」分隊長に就任し、
大正4年)12月、海軍少佐に昇進し砲術学校教官となった。
大正6年)12月、第2水雷戦隊参謀となり、横須賀鎮守府参謀、「長門」砲術長兼艤装員
大正9年)12月、海軍中佐に進級、昭和4年)11月、海軍少将に進級し砲術学校長に就任
昭和6年)12月、第1潜水戦隊司令官に転じ、大湊要港部司令官、第1戦隊司令官を経て、
昭和9年)11月、海軍中将に進み馬公要港部司令官となった。
昭和11年)3月、待命そして予備役に編入となった。
大角 岑生
おおすみ みねお

  
 

  
明治9年(1876年)5月1日 - 昭和16年(1941年)2月5日  愛知県出身で本籍は高知県。
明治30年(1897年)24期を3位の成績で卒業
明治35年1月に「済遠」航海長に任じられ、日露戦争を迎えた。開戦3か月目の明治37年5月に
「松島」航海長に転任するが、その直前の第3次旅順口閉塞作戦に際し、「釜山丸」の
沈船命令を受け、しかし出撃した「釜山丸」はエンジンが故障し、船団から脱落した。
初志貫徹を叫ぶ乗組員を説得し、大角は「釜山丸」を引き返させ、適切な判断と
後に評価された。「松島」・「満洲丸」航海長を歴任し、日本海海戦後の明治38年8月に
兵学校教官、翌年1月に海軍大学校甲種学生に転じ、航海術の指導および研修に励んだ
「筑波」副長、6年度の「朝日」艦長、12年度の第3戦隊司令官、昭和3年度の第2艦隊司令長官の
合計4年間に過ぎない。海軍生活のほとんどを軍政官として過ごすことになる。
明治42年より2年間ドイツに駐在し、帰国とともに中佐に進級し、東郷平八郎元帥の副官となる。
大正9年(1920年)に少将へ進級
大正11年5月、軍務局長、12年12月、第3戦隊司令官、14年4月、海軍次官、
昭和3年12月、第2艦隊司令長官、 海軍中将
昭和6年大角を犬養政権の海軍大臣に指名した。
犬養毅首相が五・一五事件で海軍将校に暗殺されたため、大角は引責辞任を余儀なくされた。
大角は昭和8年(1933年)1月に海軍大臣の座に復帰した。海軍大将
二・二六事件の処理で海軍大臣を永野修身大将に譲り、軍事参議官となる。
しかし大角の現役大将の中での序列は伏見宮に次ぐものであることには変わりなかった。
次期総長は大角か永野に禅譲される。海軍大臣・連合艦隊司令長官を歴任して実績を積んでいる
実績を積んでいる。大角は過去の人と見なされていた上に定年間近であった。
大角は挽回のために中国視察を決意し、 
昭和16年(1941年)2月、大角は随員とともに広州から飛行機で飛び立ち、消息不明となる。
大谷
 幸四郎

おおたに
こうしろう
明治5年7月20日) - 1937年6月24日) 高知県出身
明治29年)12月、海軍兵学校(23期)
日露戦争には、第16艇隊艇長、第21艇隊艇長、第19艇隊艇長として参戦した。
以後、「雷」駆逐艦長、「如月」駆逐艦長、佐世保鎮守府副官、「千早」水雷長を歴任。
明治44年)12月、海軍中佐に進級し「筑摩」副長に就任。
大正9年)12月、海軍少将に進級,第3水雷戦隊司令官、第1水雷戦隊司令官、・・
大正13年)12月、海軍中将となり、海軍大学校長、舞鶴要港部司令官、第2艦隊司令長官、
呉鎮守府司令長官を歴任し、1930年(昭和5年)6月、予備役に編入された。
大湊
直太郎

おおすみ
なおたろう

  
明治12年)7月1日 - 1958年(昭和33年)4月27日) 山形県出身
明治34年)12月、海軍兵学校(29期)を卒業 明治36年)1月、海軍少尉任官。
同年10月、「朝霧」乗組となり日露戦争に出征。
さらに「須磨」水雷長に転じ日本海海戦に参加した。
明治45年)5月、海大(甲種10期)を卒業し「香取」分隊長に就任した。
大正5年)12月、海軍中佐に昇進。1917年(大正6年)2月、イギリス駐在となり
大正9年)12月、海軍大佐に進級した。
大正14年)12月、海軍少将に昇進し第1艦隊参謀長兼連合艦隊参謀長に就任した。
昭和4年)11月、海軍中将に進んだ。
昭和5年)6月、海兵校長に発令され、舞鶴要港部司令官、
昭和7年)12月、待命そして予備役に編入された。
及川
古志郎

おいかわ
こしろう

  
明治16年(1883年)2月8日 - 昭和33年(1958年)5月9日 新潟県
明治33年)12月海軍兵学校31期に入学
明治36年)12月14日海軍兵学校31期を卒業。海軍少尉候補生。
明治37年)9月10日海軍少尉進級。「千代田」乗組で日露戦争に参加。
大正2年)12月1日海軍大学校甲種学生。1914年(大正3年)12月1日海軍少佐進級。
昭和3年)12月10日海軍少将進級。呉鎮守府参謀長。
昭和8年)10月3日海軍兵学校校長。11月15日海軍中将進級。
昭和10年)12月2日第三艦隊司令長官。1936年(昭和11年)12月1日航空本部長。
昭和13年)4月25日支那方面艦隊司令長官兼第三艦隊司令長官に就任。
昭和14年)11月15日海軍大将進級。1940年(昭和15年)5月1日横須賀鎮守府司令長官。
1940年9月5日及川が第2次近衛内閣の海軍大臣に就任した。
1944年(昭和19年)8月2日軍令部総長。
(昭和33年)5月9日死去。享年75。
小笠原
 長生

おがさわら
ながなり

  
慶応3年11月唐津藩 老中・小笠原長行の長男として江戸で生まれる。
明治17年(1884年)9月、海軍兵学校に入学
明治20年(1887年)7月、海軍兵学校(14期)を卒業。成績は45人中35位。
明治22年(1889年)10月、海軍少尉に任官し「日進」分隊士となる。
明治26年11月、「高千穂」分隊長に就任し、日清戦争に出征。黄海海戦に参加。
明治32年9月、海軍少佐に昇進。明治35年(1902年)3月、「浅間」分隊長に移り
「千代田」副長を経て、明治37年(1904年)1月、軍令部参謀に就任し日露戦争を迎えた。
同年7月、海軍中佐、明治41年(1908年)9月、海軍大佐に昇進。
大正3年(1914年)12月に海軍少将。大正7年(1918年)12月、海軍中将に昇進し待命。
1958年9月20日 没
岡田 啓介
おかだ けいすけ

 
慶応4年1月 福井藩士・岡田喜藤太と妻はるの長男として生まれる。
1889年4月20日 - 海軍兵学校卒業(15期)。
890年7月9日 - 海軍少尉に任官
1892年12月21日 - 海軍大学校丙号学生
1898年4月29日 - 海大乙種学生
1899年3月22日 - 海大甲種学生
日露戦争では「春日」副長として日本海海戦、
1908年9月25日 - 海軍大佐に進級。海軍水雷学校校長
1912年12月1日 - 戦艦「鹿島」艦長
1913年12月1日 - 海軍少将に進級
1917年12月1日 - 海軍中将に進級
1924年 6月11日 - 海軍大将に進級。軍事参議官
     12月1日 - 第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官
1927年4月20日 - 海軍大臣を拝命
1932年5月26日 - 海軍大臣を拝命
1934年7月8日 - 内閣総理大臣兼拓務大臣(?1934年10月24日)を拝命
岡田啓介の活躍は大正~太平洋海戦頃まで
小倉
 鋲一郎

おぐら
びょういちろう

 
嘉永6年7月 幕臣出身江戸で生まれる。
明治5年(1872年)9月、海軍兵学寮に入学。1878年(明治11年)7月、海軍兵学校(5期)を卒業。
明治14年)1月、海軍少尉任官。
海軍省第1局第1課次長などを歴任。1891年(明治24年)12月、海軍少佐に昇進。
明治27年)11月、「松島」副長となり日清戦争に出征。さらに「鳥海」「龍田」の各艦長を歴任。
明治30年)6月、海軍大佐に進級し「高雄」艦長となった。
明治31年9月、「橋立」艦長、「吾妻」艦長、「朝日」艦長、横須賀鎮守府参謀長を務めた。
明治37年)6月、海軍少将に進んだ。日露戦争では明治38年1月に特務隊
(後に特務艦隊と改称)司令官に発令され、日本海海戦などに従軍。
 日本海海戦後の同年6月、第1艦隊司令官に転じた。
1905年12月、海軍省人事局長兼海軍将官会議議員に就任。
明治41年)8月、海軍中将に進み海軍将官会議議員となる。
明治42年)12月、予備役に編入。
小田
 喜代蔵

おだ きよぞう
文久3年6月 唐津藩士・小田周助の二男として生まれる。攻玉社を経て、
明治17年(1884年)12月、海軍兵学校(11期生)を卒業し、1886年9月、海軍少尉任官。
日清戦争に常備艦隊附属水雷艇長として出征、「西京丸」分隊長となった。
以後、兼参謀本部員、イギリス駐在、軍令部出仕、同第1局員、軍令部参謀などを歴任。
機雷の「小田式自働繋維器」考案者
日露戦争には連合艦隊附属敷設隊司令として出征し、第七次旅順口攻撃において
「蛟龍丸」を乗船指揮して機雷敷設を成功させ、作戦成功の功労者として報道される。
戦争後半の明治38年(1905年)1月、海軍大佐に進級し艦隊附属防備隊司令となった。
その後、呉鎮守府付、大湊要港部参謀長、竹敷要港部参謀長、軍令部出仕、
兼海軍大学校教官、海軍下瀬火薬製造所長などを歴任し、呉工廠水雷部長に就任。
明治44年(1911年)4月、海軍少将となった。翌年4月に急逝肺炎により現職で死去した。
 
加藤 定吉
かとう さだきち

  
文久元年11月18日(1861年12月19日) - 昭和2年(1927年)9月5日)
東京出身。幕臣・加藤泰吉の三男に生まれる。
海軍兵学校10期を27人中首席で卒業。
明治35年(1902年)10月、大佐へ昇進。明治36年(1903年)4月より、再度海上勤務。
「秋津洲」艦長、「橋立」艦長として日露戦争に参加。
明治38年(1905年)1月の異動で「春日」艦長に抜擢され、日本海海戦に参加した。
明治41年5月、舞鶴鎮守府参謀長。少将昇進後も舞鶴工廠長として3年にわたり要職を歴任
大正元年12月、横須賀工廠長を立て続けに歴任。廠長就任と同時に中将へ昇進した。
大正2年(1913年)12月、攻撃型の第2艦隊司令長官に任じられる。
大正5年7月、男爵・功二級。同年12月、呉鎮守府司令長官に就任。
大正7年7月2日、皇族の東伏見宮依仁親王、八代六郎・名和又八郎・山下源太郎・
村上格一とともに海軍大将へ昇進
昭和2年(1927年)9月、伏見宮との面談中に倒れ、同月5日、65歳で没。葬儀は海軍葬であった。
加藤 隆義
かとう たかよし
 
明治16年(1883年)3月20日 - 昭和30年(1955年)2月10日)   広島県出身
明治36年)、兵学校31期を5番の成績で卒業。同期に及川古志郎大将・長谷川清大将がいる。
日露戦争に「富士」乗組員として従軍し、戦後は「三笠」・駆逐艦「春雨」と勤務し、
「香取」回航委員としてイギリスへ渡った。運送艦「松江」航海長を務めて航海術を身につけた
大正元年)12月1日、海大甲種学生(12期)となる。その後「春日」・「朝日」の各航海長を務めた。
大正11)12月に東宮武官付兼侍従武官に就任し3年弱務めている。
昭和5年)12月1日に第1航空戦隊司令官
昭和8年)11月15日に航空本部長に就任
昭和9年)軍令部次長に就任
昭和14年)4月1日、同期の長谷川清と同時に海軍大将へ昇進した。
加藤 寛治
かとう ひろはる

  
明治3年10月2日(1870年10月26日) - 昭和14年(1939年)4月9日)  福井県
明治24年(1891年)に海軍兵学校18期首席卒業。
明治37年(1904年)3月、戦艦「三笠」砲術長として日露戦争に参加
第一次大戦中、南遣枝隊の指揮官として英海軍と協同して独艦の警戒に任じた。
大正15年(1926年)12月から昭和3年(1928年)12月まで連合艦隊司令長官兼第1艦隊司令長官、
その間、昭和2年(1927年)4月1日に海軍大将に昇進している。
昭和4年(1929年)1月鈴木貫太郎が急遽侍従長に転じた後を襲って、軍令部長に親補された。
晩年、元帥府に列しようとする話が持ち上がったが、条約派の反対で沙汰やみになった、
昭和14年(1939年)、脳出血により死去。
鹿江 三郎
かのえ さぶろう
 
1881年(明治14年)10月6日 - 没年不詳  佐賀県出身
海軍兵学校30期。席次は187名中41番。同期に百武源吾、松山茂、金子養三らがいる。
「東雲」乗組みとして日本海海戦に参戦した。鹿江は海大乙種、砲術学校高等科学生を修了した
中佐進級と同時に発令された教官配置は5年半に渡り、在任中に教頭心得、大佐進級と同時に
正式に教頭に就任している。(大正15年)12月海軍少将に昇進し、砲術学校校長に就任。
樺山 可也
かばやま かなり
1877年10月14日 - 1932年10月27日  鹿児島県出身
1898年12月、海軍兵学校(26期)を卒業し、1900年1月、海軍少尉任官。
日露戦争に「和泉」分隊長として出征し、同砲術長となった。
1910年11月、海軍大学校(甲種8期)を首席で卒業した
1917年12月、海軍大佐に進級。「周防」艦長、海大教官、「生駒」「長門」の各艦長、
司令などを経て、1922年12月、海軍少将に昇進した。海軍砲術学校長、第1艦隊参謀長、
呉鎮守府付、同参謀長、軍令部出仕を経て、1925年12月、予備役に編入された。
のち、1929年7月から死去するまで鹿児島市長を勤めた。
鏑木 誠
かぶらぎ まこと
 
1857年10月7日 - 1919年4月9日 上総国(現・千葉県)夷隅郡に生まれる
海軍兵学校(5期)へ転ずる。
第四水雷艇隊(司令)として日清戦争で功を挙げる。その後軍令部第一局
東京防御総督部参謀に
補せられ、在イタリア公使館付武官、後にイギリス公使館付武官、転じて大佐に進む。
日露戦争時には駐英公使館付武官で、戦後、海軍少将に抜擢される。語学に秀でており、
「和泉」艦長、「鎮遠」艦長、佐世保水雷団長、呉港務部長兼呉予備艦部長、呉水雷団長、
佐世保水雷団長を経て予備役。1914年(大正3年)3月1日に後備役となる
金子 養三
かねこ ようぞう
 
1882年6月11日 - 1941年12月27日  広島県出身
海軍兵学校を卒業(30期)。第20艇隊の第62号水雷艇乗組みとして日本海海戦に参戦。
兄の金子満喜も二等砲艦「宇治」艦長として戦った。
戦後は「出雲」分隊長等を経て海軍砲術学校特修科学生を卒業。
明治43)年5月23日、海軍大学校選科学生に発令され、日本で始めての海軍飛行機専門家
志願、熱意を買われ日本海軍の最初の搭乗員・相原四郎はドイツでの飛行訓練中に
殉職しており、金子は2人目となる。(大正15年)12月1日海軍少将に昇進
金田
 秀太郎

かねだ
ひでたろう
 
1873年1月28日 - 1925年6月11日   静岡県出身
明治27年)11月、海軍兵学校(21期)を卒業
少尉候補生として「高千穂」に乗り組み日清戦争に出征。明治28年)12月に海軍少尉任官。
海軍大学校で乙種学生、選科学生として学ぶ。明治36年)12月、「鎮遠」分隊長に就任し、
「音羽」砲術長に転じ日露戦争に出征した。1905年(明治38年)1月、海軍少佐に昇進。
明治42年)10月、海軍中佐に進級
大正3年)12月、海軍大佐に昇進
大正8年)12月、海軍少将に進級した。1921年(大正10年)12月、艦政本部第1部長となり、
大正12年)12月、海軍中将に進んだ。大正13年)2月、待命そして予備役に編入された。
鹿野
 勇之進

かの ゆうのしん
  
嘉永4年9月 信濃国松代藩士鹿野外守泰敬の子
明治4年(1871年)9月、海軍兵学寮(5期)に入学。1879年(明治12年)9月、海軍少尉任官。
明治18年)9月、「筑波」分隊長となり、海軍兵学校教授兼生徒分隊長、「扶桑」分隊長、
明治23年)10月、海軍少佐に昇進
横須賀水雷隊攻撃部司令などを歴任し、日清戦争では「西京丸」艦長として出征した。
明治28年1月、海軍大佐に進級。6月、「武蔵」艦長に就任し、「八重山」「須磨」「浪速」「富士」の
各艦長、横須賀鎮守府参謀長、横須賀海兵団長などを経て、
明治36年7月、海軍少将に進み佐世保港務部長兼佐世保予備艦部長に就任し
      日露戦争を迎えた。
明治39年)5月、横須賀港務部長兼横須賀予備艦部長に異動。
明治40年)3月、海軍中将となり馬公要港部司令官を勤めた。
明治44年)4月17日、予備役に編入
釜屋 忠道
かまや ちゅうどう
文久2年9月 幕末の米沢に生まれる。
海軍兵学校11期を26名中15番で卒業した。村上格一、川島令次郎らが同期生である。
(明治22年)、「扶桑」乗組み少尉であった釜屋は、有馬良橘が手旗信号の改良を図って
いることを知り、さらなる改善に成功した。
明治27年6月、常備艦隊参謀となる。日清戦争を目前とした時期であり、司令長官は
伊東祐亨である。7月には日本海軍史上最初の連合艦隊が編成され、釜屋は中村静嘉と
ともに第一遊撃隊の参謀へ司令官・坪井航三を補佐して、豊島沖海戦、黄海海戦を戦い、
功五級に叙されている。戦後は「出雲」回航委員や軍艦の副長職を務め、「龍田」艦長に就任。
日露戦争開戦を迎え、日本海海戦では仮装巡洋艦「佐渡丸」艦長として戦った。
その後は4艦の艦長、大湊要港部参謀長などを経て、1910年(明治43年)12月、少将へ昇進。
鎮守府参謀長や馬公要港部司令官などを経て、大正3年、海軍中将に進級し翌年予備役となった。
上泉 徳弥
かみいずみ とくや

 
  
慶応元年9月 米沢藩士(興譲館教頭)・上泉清次郎の長男として生まれる。
1886年12月、海軍兵学校(12期)を卒業し、1888年1月に海軍少尉任官。
海軍大学校で丙号学生として学び、「日進」「葛城」「高千穂」の各分隊長、
呉鎮守府参謀、大連湾要港部副官、「龍田」分隊長、「済遠」砲術長などを経て、
1897年12月、海大将校科(1期)を卒業し、さらに水雷術練習所で学んだ。
「鎮遠」水雷長、「八重山」副長、「敷島」回航委員・水雷長、「秋津洲」「千代田」の各副長、
竹敷要港部第2水雷敷設隊司令、「高砂」副長、軍令部副官、兼同第1局員などを歴任。
日露戦争では、大本営運輸通信部参謀であった。「浪速」「吾妻」「生駒」の各艦長
「薩摩」艦長などを経て、1909年12月、海軍少将に進級。
大湊要港部司令官、鎮海防備隊司令官、横須賀水雷団長、横須賀水雷隊司令官、
第1艦隊司令官、佐世保水雷隊司令官などを歴任し、
1914年12月1日に海軍中将となり予備役に編入された
1946年11月27日(満81歳没)
河原 要一
かわはら よういち

 
  
薩摩藩士・河原寿助の息子として生まれる。
明治4年)9月、海軍兵学寮に入り、明治7年)11月、同校(2期)を卒業し、海軍少尉補任官
その後、ドイツに派遣され、独巡洋艦に乗艦し、その間の明治10年)6月、海軍少尉に任官
明治16年)11月、「筑紫」副長となり、横須賀屯営在勤、「高千穂」回航委員長を経て、
明治19年)4月、海軍少佐に昇進し、同年5月、「高千穂」副長に就任。
明治23年)9月、海軍大佐に進級し海軍参謀部出仕となった。
明治26年)6月、「吉野」艦長に就任。日清戦争時、同艦長として出征し、坪井航三麾下として
豊島沖海戦、黄海海戦などに参戦した。
明治30年)12月、海軍少将に昇進し常備艦隊司令官となった。
明治32年)1月、海軍兵学校長に就任。1903年(明治36年)7月、海軍将官会議議員となり、
同年9月、海軍中将に進むと同時に待命。翌1904年(明治37年)9月に休職し、
明治39年)9月5日、予備役に編入となった
1926年12月17日(満76歳没)
河村 豊州
かわむら ほうしゅう
 
  
嘉永2年豊後国臼杵藩に仕える藩医・河村三達の次男。宮川家に養子入り
明治維新後、上京して海軍病院の軍医となるが、海軍に入った頃に河村姓に戻って
名も豊州と改めている。
西南戦争や コレラの流行などに際して医師として活躍、順調に階級を上げて、
日清戦争では連合艦隊軍医長として旗艦松島に乗艦して戦傷を負う。
明治30年には軍医として最高の地位にあたる軍医総監に昇進するが、同34年(1901年)には
「後進の為進路を開く」として職を辞した。
1914年1月26日、後備役となり、同年3月1日に退役した
昭和8年(1933年)に85歳で死去した。
漢那 憲和
かんな けんわ

 
  
明治10年9月漢那憲慎・オトの長男として琉球藩那覇西村(現・那覇市西)に生まれる。
明治25年 沖縄県尋常中学校(後の沖縄県立第一中学校、に入学。
明治29年)11月 海軍兵学校へ入校。沖縄県出身者として初。席次は123名中、4番の成績
明治32年)12月 海軍兵学校を卒業。卒業者113名中、3番の成績で、恩賜の双眼鏡が授与
明治38年) 第三戦隊所属の巡洋艦「音羽」に乗り組み日本海海戦に参加。
明治39年海大乙種学生を卒え、翌年、海大航海術専修学生(のちの航海学校高等科学生)を
        首席で卒業、恩賜の銀時計を下賜される。
明治42年) 「宗谷」「阿蘇」二艦の練習艦隊で、旗艦「宗谷」の航海長兼指導教官として参加、
明治43年) 少佐に進み、海大甲種学生となる。その頃、尚泰侯爵の五女政子と結婚する
大正3年)海軍軍令部参謀兼海軍大学校教官となり、まもなく中佐に進級。同年、
第一次世界大戦が勃発。 この頃教えた甲種学生の中には、山本五十六などがいた。
大正7年(1918年) 大佐に進級し、同年12月、軍令部参謀
大正9年)10月 「香取」艦長に補せられる。
大正11年)12月 「伊勢」艦長に補せられる。
大正12年)12月 海軍少将に昇進と同時に横須賀防備隊司令に補せられる。
大正14年12月に予備役編入となる。
「なぜ、漢那がそんなに早く予備役になるのか」と洩らしたという。
(昭和2年) 沖縄から衆議院議員に立候補して当選、以後、当選5回、勤続10年におよんだ。
昭和14年) 平沼内閣の内務政務次官をつとめる。
昭和17年) 選挙遊説中、妻が過労による脳卒中で倒れる
昭和25年) 東京都にて死去。73歳
川島
 令次郎

かわしま れいじろう
元治元年9月 東京 川島拓の長男として生まれる。攻玉社を経て、
明治17年)12月、海軍兵学校(11期生)を卒業し、1886年(明治19年)9月に海軍少尉任官。
明治25年)8月、海軍大学校(甲号4期)を卒業。「高千穂」砲術長、軍令部第2局員、侍従武官、
イギリス留学、イギリス公使館付、常備艦隊参謀、「富士」副長、「朝日」副長、「宮古」艦長など
日露戦争では、「松島」艦長として出征し、日本海海戦では「磐手」艦長であった。
明治41年)8月、海軍少将に進級。さらに、海大校長、第3艦隊司令官、水路部長などを歴任し、
大正2年)1月、海軍中将となった。旅順要港部司令官、将官会議議員などを勤め、
大正5年)6月27日に予備役に編入され、1929年(昭和4年)9月、退役した。
木村 浩吉
きむら こうきち
文久元年7月 幕臣・木村芥舟の二男として江戸で生まれた。
1882年11月、海軍兵学校(9期)をハンモックナンバー第3位で卒業し海軍少尉任官
日清戦争には「松島」水雷長として出征し、黄海海戦に参加した。 そのときの海戦実記を
詳細に記録し、出版したものが江湖の評判を呼び、また今も貴重な資料として残っている。
大本営御用掛、軍令部出仕、同部諜報課員、同部第3局員などを経て、海軍大学校で
科学生学ぶさらに、海大教官、「厳島」「敷島」の各副長、「愛宕」「扶桑」の各艦長、
横須賀水雷団長心得、兼砲術練習所長などを歴任。日露戦争には、「日光丸」艦長で出征
1904年7月、海軍大佐に進級。佐世保鎮守府付、呉水雷団長、海軍水雷学校長、
佐世保水雷団長などを経て、1909年12月、海軍少将に進級。舞鶴水雷団長を勤め、
1912年12月、予備役に編入される
黒井 
 悌次郎

くろい ていじろう
慶応2年5月 同郷の山下源太郎や南雲忠一と同様、米沢藩の興譲館中学より
海軍兵学校に入学。明治19年(1886年)、兵学校13期を36人中4位で卒業。
同期に野間口兼雄大将・栃内曽次郎大将がいる。この期は他にも中将5名・少将10名を輩出
明治25年から1年間、海軍大学校甲種5期で研鑽し、軍令部に転属する。
軍令部員として日清戦争に参戦。そのほとんどを仁川・漁隠洞・大連の最前線に置いた
運輸通信部で過ごし、卓越した事務処理能力を発揮する。
30年(1897年)8月に4年半ぶりの海上生活となる常備艦隊参謀に転出した。
日露戦争に備えて、イギリスには大量の戦艦・巡洋艦・駆逐艦を発注しており、建造の
進捗状況を確認し、回航可能となった艦艇への回航委員会設置などの事務処理が必要
明治36年7月3日、黒井は、佐世保鎮守府参謀兼望楼監督官副官に任じられた。
日露戦争開戦から数カ月後、明治37年6月6日、仮装巡洋艦香港丸に乗組みを命ぜられたが、
6月23日、転じて、海軍陸戦重砲隊指揮官に任ぜられ、翌24日大連に上陸する。
明治38年(1905年)1月12日の人事異動で大佐に昇進。同時に旅順口工作廠長に就任した
明治41年(1908年)、唯一の艦長職として「敷島」艦長、明治42年(1909年)に少将昇進とともに
佐世保工廠長、明治45年に舞鶴予備艦隊司令官、翌年は将官会議議員を半年務めて
練習艦隊司令官となる。大正3年5月29日、同期の野間口・栃内とともに海軍中将へ昇進する。
大正4年(1915年)馬公要港部司令官、大正5年(1916年)旅順要港部司令官
大正7年(1918年)第3艦隊司令長官と、重要ではあるが2線級の職位に甘んじることになる。
大正8年12月1日、黒井は舞鶴鎮守府司令長官に任じられ
大正9年)8月16日、野間口・栃内と同時に海軍大将昇進するが、栃内は連合艦隊司令長官
野間口は教育本部長・横須賀鎮守府司令長官として見ると、黒井の冷遇振りは明らかである。
大正10年(1921年)12月に予備役編入
昭和12年(1937年)4月29日、昭和天皇の天長節当日に70歳で没した。
岸井 孝一
きしい こういち
(明治12年)11月21日 - 昭和35年)3月23日 石川県   海軍兵学校28期
同期生に永野修身、左近司政三、安東昌喬などがいる。
第三戦隊所属の防護巡洋艦「千歳」分隊長として日本海海戦に参戦した。
海軍大学校甲種(8期)を修了。佐官時代の初期は二年に渡り英国に駐在した。
第一次世界大戦、第二水雷戦隊参謀として司令官・岡田啓介を補佐し
青島の戦いに参戦した。
大正13年)12月1日、海軍少将へ昇進し、海軍潜水学校校長、第一潜水戦隊司令官と
潜水艦関係の要職を歴任。昭和3年)1月25日予備役編入となった。
清河 純一
きよかわ じゅんいち
1878年1月7日 - 1935年3月1日 鹿児島県   海軍兵学校(26期)
日露戦争には、第1艦隊参謀として出征した。
海軍大学校(甲種5期)を首席で卒業した。
922年12月、海軍少将に進級
1926年12月、海軍中将となり、第5戦隊司令官、鎮海要港部司令官、舞鶴要港部司令官などを歴任
1931年3月、予備役に編入された。
九津見
 雅雄

くつみ つねお
 
慶応2年11月16日)- 昭和18年)7月25日 岡山県    海軍兵学校(15期)
「鳥海」航海士となり日清戦争に出征した。
その後、佐世保水雷団水雷艇隊艇長、「吉野」航海長、駆逐艦「曙」艦長などを経て、
日露戦争に出征。日本海海戦では第1艦隊第1駆逐隊・駆逐艦「有明」艦長として参加。
海戦中の主な戦果は、巡洋艦「千歳」とともにロシア海軍駆逐艦「ベズプリョーチヌイ」を撃沈。
その後、海軍大佐となり、1910年(明治43年)、「葛城」艦長に就任。
大正7年)12月、海軍少将に進んだ。
1919年8月1日 - 予備役
 
河野
 左金太

こうの さきんた
 
慶應1年9月1日)) -昭和7年)4月8日 神奈川県   海軍兵学校13期生
日清戦争時は水雷隊敷設部の分隊長で、戦前から戦中の3年弱この職位にあり、
日露戦争において後方支援にあたり、在職中に中佐へ進級する。
第一次世界大戦に際しては、工作艦「関東」艦長兼工作部長としてメキシコ沖で座礁した
「浅間」の救難作業を指揮 して成功を収めている。再度の佐世保港務部長在任中の
大正5年)12月に海軍少将へ進級し、翌年予備役となった。
小林 躋造
こばやし せいぞう
 
明治10年)10月1日 - 昭和37年)7月4日広島県     海軍兵学校第26期
日露戦争中は、「浪速」砲術長、第2艦隊参謀、第3艦隊参謀となり、以後、1年間の間に、
海軍大学校甲種第6期を優等
第四艦隊・南清艦隊参謀を歴任した。
海軍省先任副官となり、2年半後にイギリス大使館附武官として、イギリス在勤は2年
大正15年)に海軍中将へ昇進
昭和6年)12月1日に連合艦隊司令長官に親補され、在任中に野村と同時に陸軍大将へ昇進
昭和11年)3月30日に海軍を追われ予備役に編入されるが、半年後に台湾総督に親補される。
昭和16年)日米戦争の可能性が高まる中、小林は海軍省書記官・榎本重治の依頼を受け、
岡田啓介、財部彪、米内光政ら予備役大将連と相談し、好戦的とみられていた軍令部総長・
永野修身の更迭を図り、山本五十六を海軍中央に呼び戻そうと行動した
しかし避戦に向けたこの人事案は実現することはなかった。
戦時中は、真崎甚三郎、吉田茂らに近い存在とみられ、東條総理のグループから敵視され、
憲兵が徘徊する中で小林の総理候補が考慮されたこともあった。
東條内閣退陣後の1944年(昭和19年)8月、貴族院勅選議員に勅選され、翼賛政治会総裁に
就任、12月には小磯内閣の国務大臣に就任し、困難な時代の政局を担当した。
昭和37年)7月4日- 東京都世田谷区自宅にて死去 享年84
小牧 自然
こまき しぜんきよ
 
明治9年)3月22日 - (昭和14年)6月7日)高知県   海軍兵学校(25期
日露戦争には「常磐」分隊長として出征し、さらに「平壌丸」「厳島」の各航海長を歴任した。
明治42年)5月、海軍大学校(甲種6期)を卒業し「吾妻」航海長に就任
大正4年)12月、海軍大佐に進級し「日進」艦長に着任。
大正10年)12月、海軍少将に進み軍令部参謀(第二班長)に就任。
斎藤
 七五郎

さいとう しちごろう

 
 
1870年1月13日 - 1926年7月23日)  宮城県 海軍兵学校(20期)
少尉候補生として「扶桑」に乗り組み日清戦争に従軍。
明治36年12月、第3艦隊参謀となり、日露戦争に第1艦隊参謀として出征。
第1回旅順港閉塞作戦に、第2回閉塞作戦に「弥彦丸」の各指揮官として参加した
明治37年)3月、海兵砲術教官兼監事となり、一時、大本営付を兼務。
第3回閉塞作戦のため大阪で閉塞船の石材搭載などの準備を行っている。
同年7月、海軍少佐に昇進。日露戦争のため退学した海軍大学校に復校し、
明治39年)7月、同校(将校科甲種4期)を首席で卒業。
大正2年)12月、海軍大佐に昇進。
大正7年)12月、海軍少将に進級し呉鎮守府参謀長に着任。
大正11年)12月、海軍中将に進み第5戦隊司令官に就任。
大正12年)6月、練習艦隊司令官に転じ、1924年(大正13年)4月、軍令部次長に就任
斎藤 半六
さいとう はんろく
 
明治2年6月16日) - 昭和27年)4月25日 石川県   海軍兵学校(17期)
日清戦争では対馬水雷隊攻撃部付として出征した。
明治37年)9月、「雷」駆逐艦長となり日露戦争に出征し、明治38年)8月、海軍中佐に進級した。
海軍大学校選科学生として学び、明治39年)12月、海軍省人事局員に発令され、
明治44年、海軍大佐に昇進、大正5年、海軍少将に進級し佐世保鎮守府参謀長となった
大正6年、第1艦隊参謀長に就任し、兼連合艦隊参謀長、海軍水雷学校長を経て、
大正9年)12月、海軍中将に進み第2戦隊司令官に就任。以後、練習艦隊司令官、
第2戦隊司令官、舞鶴要港部司令官、佐世保鎮守府司令長官、第2艦隊司令長官・・・、
大正14年)12月、待命となり予備役に編入された
斎藤 孝至
さいとう こうし  
1860年4月18日(万延元年3月28日) - 1927年10月30日
磐城平藩士・斎藤道渓の二男として生まれる。 海軍兵学寮(7期)
明治27年)5月、海相秘書官となり西郷従道大臣に仕えた。
明治28年)2月、海軍少佐に昇進し軍令部第1局員兼大本営副官に就任した。
1899年9月、海軍大佐に進級し「和泉」艦長に着任。
明治38年)1月、第三艦隊参謀長に就任し日露戦争に出征。日本海海戦などに参戦した。
明治39年)11月、海軍少将に進級した。
明治44年)4月17日、海軍中将昇進と同時に予備役編入となった
酒井 忠利
さかい ただとし
安政4年5月 庄内藩主酒井左衛門尉家の一門で、米津政明の次男、酒井忠発の養子
明治5年)、海兵士官学校に入校。
明治11年)6月 ? 「金剛」乗組
明治16年)11月 - 海軍中尉
明治24年)1月 - 海軍少佐、「迅鯨」副長
日清戦争においては「橋立」副長として、艦長・日高壮之丞を補佐して黄海海戦を戦った
明治28年8月 常備艦隊附属第四水雷艇隊司令 10月 - 「鳳翔」艦長
明治29年)4月 - 「満珠」艦長  8月 - 「摩耶」艦長
明治30年)4月 - 海軍大佐、「大和」 艦長
明治31年)3月 - 「八重山」艦長
明治34年)ロシア公使館附武官に補され、3年あまり在任した。武官補佐官は広瀬武夫である。
日露戦争中は軍令部出仕、佐世保海兵団長、元山防備隊司令官を務める。
明治38年)9月に海軍少将へ昇進し、翌年予備役編入となった
1943年2月8日(満85歳没)
坂本 俊篤
さかもと としあつ

  
 
安政5年10月諏訪藩士・砲術家の坂本俊信の二男として江戸藩邸に生まれ、
のち諏訪郡長・坂本俊秀の養子となる。
1879年7月、海軍兵学校(6期)を卒業。1882年9月、海軍少尉。フランス留学、
「高雄」分隊長、「扶桑」水雷長、「比叡」分隊長、「浪速」砲術長などを経、
1893年6月に海相秘書官として西郷従道大臣に仕えた。
日清戦争では「比叡」副長、のち「秋津洲」に乗艦して出征した。 1902年5月に海軍少将
日露戦争時には、海大校長から佐世保鎮守府参謀長へ転出し、鮫島員規司令長官から
業務の一切を委ねられて多忙を極めた。日露戦後は海大校長に転任し、
1905年11月に海軍中将。兼海軍教育本部長、教育本部長、兼将官会議議員を歴任し、
1913年5月に予備役編入、海軍においては主に教育畑を歩み、教育改革に尽力した。
坂本 一
さかもと はじめ

  
 
1859年11月6日(安政6年10月12日) - 1948年11月21日  高知県  海軍兵学寮(7期)
明治29年)4月、海軍少佐に昇進し横須賀水雷団第2水雷艇隊司令に就任した。
明治33年)9月、海軍大佐に進級した。
明治34年)2月、「千代田」艦長に就任し、「笠置」艦長、艦政本部第2部長を経て、
明治36年)10月、「八島」艦長となり日露戦争に出征。旅順港閉塞作戦に従事していたが、
明治37年5月15日、乗艦「八島」が旅順沖で触雷し沈没した。
  同年8月、大連湾防備隊司令官に就任。 
明治40年)3月、海軍少将に進級した。1908年(明治41年)8月、舞鶴工廠長に就任し、
明治44年)6月、海軍中将に進んだ。
大正元年)12月、旅順鎮守府司令長官となり、海軍将官会議議員、舞鶴鎮守府司令長官・・・
大正5年)4月に待命、同年12月、予備役に編入
桜井
規矩之左右
さくらい きくのぞう

  
 
嘉永元年6月 下総国佐倉藩佐倉城下に生まれる。
明治4年(1871年)8月2日 - 海兵入寮    明治9年9月6日 - 海軍少尉補 、海兵通学
明治11年(1878年)5月16日 - 「扶桑」乗組   明治13年(1880年)8月12日 - 海軍中尉
明治16年(1883年)11月5日 - 海軍大尉    明治20年(1887年)12月24日 - 海軍少佐
明治21年5月14日 - 横須賀鎮守府参謀   明治22年3月9日 - 呉鎮守府参謀
明治27年(1894年)6月8日 - 「比叡」艦長心得 
        12月7日 - 海軍大佐、「比叡」艦長
明治32年(1899年)5月1日 - 「橋立」艦長   明治33年11月1日 - 砲術練習所長
明治34年(1901年)7月1日 - 海軍少将   明治39年(1906年)7月1日 - 退役
左近司
 政三
さこんじ せいぞう

  
 
明治12年)6月27日 - 昭和44年)8月30日 米沢藩  海軍兵学校(28期)
日露戦争中は水雷艇や砲艦などの小型艦艇乗組を務める。
海大乙種、水雷学校高等科をともに首席卒業した水雷専攻の士官である。
第一次世界大戦中はオランダやイギリスに駐在し、ヨーロッパ各国の戦争で疲弊した
現状を見聞した。帰国後は軍務局長、海軍次官など軍政部門の要職を歴任するが、
大佐時代に戦艦「長門」の艦長であった際、僚艦「陸奥」との衝突事故を起こした。
この時左近司は進退伺いを提出したが、連合艦隊司令長官・鈴木貫太郎が左近司の将来に
配慮し事なきを得た。しかし、「陸軍大佐」のあだ名で呼ばれることとなる。
大正13年)12月1日- 任 海軍少将・海軍省人事局長
昭和3年)12月10日- 任 海軍中将
昭和7年)6月28日- 第3艦隊司令長官
伏見宮博恭王ら艦隊派が主導した大角人事により予備役に編入された
その後第3次近衛内閣で商工大臣、鈴木内閣で国務大臣を務めた。東條内閣総辞職後に
焦点となっていた米内光政の現役復帰に関し、難色を示した同期生の
永野修身を説得している。
鈴木内閣における左近司は、対立する陸相・阿南惟幾と米内を仲介するなど
中心的存在であった
昭和44年)8月30日- 死去 享年90
佐藤 皐蔵
さとう こうぞう

 
 
明治4年5月岩手県花巻市出身 明治24年7月、海軍兵学校第18期を6位で卒業し
明治27年)3月に少尉へ昇進。「天城」「西京丸」「愛宕」の分隊士を歴任する
「西京丸」分隊士のときに日清戦争に参戦。樺山資紀軍令部長の蛮勇で
黄海海戦の戦場に乗り込み、多数の被弾損傷を被った中で辛くも生還する。
明治30年12月、大尉に昇進昇進の半年前に分隊長に昇格した。
以後、「橋立」「鎮遠」の分隊長を歴任し、
明治36年4月、佐藤はイギリス駐在を命じられ、再度訪英する。
同年9月、イギリスで少佐に昇進した
日露戦争開戦と同時に帰国。明治37年)4月、巡洋艦「吾妻」で最後の分隊長を務め、
蔚山沖海戦に参加した。同年10月、「常磐」砲術長に転属、日本海海戦に参加した。
明治39年)9月、中佐に昇進。同時に呉鎮守府参謀、砲術練習所教官と4年にわたる
明治44年)12月に大佐へ昇進し、遠く旅順で引退を待つ通報艦「鈴谷」の艦長に任じられた。
教育本部第2部長に在職中の翌1916年(大正5年)12月、少将へ昇進。
大正9年)12月の定期人事で海軍中将へ昇進している。
1921年12月、最後の任地となる大湊要港部司令官に着任  大正12年)3月31日予備役編入
昭和23年)3月23日、76歳で病没した。
佐藤
 鐡太郎
さとう てつたろう

 
 
慶応2年7月実父は庄内藩士・平向勇次郎。佐藤安之の養子となる。
海軍兵学校第14期入校。入校時成績順位51名中第6位、卒業時成績順位45名中第5位。
日清戦争に砲艦「赤城」航海長として参加。その際、艦長の坂元八郎太が戦死した
ため代わりに艦の指揮を執る。その後、海軍大学校教官などを経て、日露戦争には
上村彦之丞率いる第2艦隊先任参謀として参加。仮装巡洋艦香港丸・日本丸の
南洋派遣に同行日本海海戦ではロシア艦隊の偽装転進を見破り、的確な意見具申を
行ったことで勝利に貢献した。
明治40年9月28日- 任 海軍大佐、12月18日- 海軍大学校選科修了
明治42年(1909年)10月1日- 1等巡洋艦「阿蘇」艦長。
大正元年(1912年)12月1日- 任 海軍少将・兼 海軍省軍令部第4班長
大正5年(1916年)12月1日- 任 海軍中将
大正9年)8月16日- 舞鶴鎮守府司令長官
昭和17年3月4日- 死去。享年75
実吉 安純
さねよし やすずみ
  
 
嘉永元年3月薩摩藩士・実吉安福の二男として生まれる。
戊辰戦争に参戦の後、明治2年(1869年)6月、順天堂に入塾し、のち大学校に移る。
明治4年兵部省13等出仕(海軍病院分課)・医務局当直として海軍軍医の歩みを始めた。
明治9年)8月、大軍医に昇進し海軍本病院に配属された
西南戦争に征討軍団本営付として出征し、のち征討第4旅団付に異動した。
明治12年)7月、イギリスに留学し、ロンドンの聖トマス病院医学校で学び、明治18年)9月に帰国。
明治25年)8月、海軍軍医総監に進級し海軍中央衛生会議議長に就任。
明治30年)4月、海軍省医務局長となる。
明治38年)12月12日、予備役に編入された
大正4年)2月16日に退役した
塩沢 幸一
しおざわ こういち

  
 
明治16年)3月5日 - 昭和18年)11月17日 長野県   海軍兵学校第32期
同期に山本五十六、吉田善吾、嶋田繁太郎、堀悌吉などがいる。
日本海海戦に「朝日」乗組みとして参戦。海軍大学校甲種課程修了後は日英同盟の関係で
第1次世界大戦中のイギリス海軍に観戦武官として派遣され戦艦に乗艦する。
大正4年)12月13日- 海軍大学校甲種卒業
昭和3年)12月10日- 任 海軍少将
昭和5年)12月1日- 第一遣外艦隊司令官
昭和8年)11月15日- 任 海軍中将
昭和13年)2月1日- 第五艦隊司令長官
昭和14年11月15日- 任
海軍大将
昭和15年)9月5日 - 横須賀鎮守府司令長官
昭和18年)11月17日- 死去 享年60
日米開戦時は軍事参議官。山本五十六連合艦隊司令長官が戦死した際に
塩沢は国葬の司祭長
四竈 孝輔
 しかま こうすけ
 
1876年10月26日 - 1937年12月12日 海軍兵学校(25期)
仙台藩家老・四竈信直の四男として生まれる。
日露戦争には「宇治」航海長として出征し、日本海海戦時には第2艦隊参謀であった。
海軍大学校(甲種7期)を卒業した
「敷島」「薩摩」の各分隊長、皇族付(伏見宮博恭王付)武官、第3艦隊参謀
、横須賀鎮守府艦隊参謀、「敷島」「肥前」「霧島」の各副長、第2戦隊参謀、「津軽」艦長などを
歴任し、1917年2月、侍従武官ととなった。1921年12月、海軍少将に進級。軍令部出仕、
大湊要港部司令官を経て、1925年12月、海軍中将となり予備役に編入された。
のち、伏見宮別当を勤めた。 
 重岡信治郎
  しげおか のぶじろう 
1879年(明治12年)5月10日 - 1971年(昭和46年)1月16日  愛媛県 海軍兵学校 30期
兵学校の卒業成績が昇進に大きく影響した海軍で、席次が187名中156番の重岡は
中将まで昇進した。尉官時代は「磐手」、「比叡」、「厳島」、「韓崎丸」乗組等を経て
第一潜水艇隊付、同艇長心得、同艇長、第二潜水艇隊艇長と実務経験を重ね、以後もほぼ
一貫して潜水艦畑を歩む。大佐昇進後練習艦隊所属の「出雲」艦長となり、同期の
「八雲」艦長・鹿江三郎大佐とともに練習航海の成功に貢献した。
「由良」艦長の後、潜水学校校長を務め少将に昇進。 
昭和6年)12月1日海軍中将に進み、1932年(昭和7年)3月31日予備役編入となった。
嶋田
 繁太郎
しまだ しげたろう  
明治16年)9月24日 - 昭和51年)6月7日) 東京府  海軍兵学校32期
明治38年)5月末、巡洋艦「和泉」において日本海海戦の偵察活動に従事する。
大正2年)12月1日海大甲種13期学生、1915年(大正4年)卒業。
大正13年)12月1日海軍大佐に進級
大正15年)12月1日第七潜水隊司令
昭和3年)11月30日海軍少将に進級
昭和9年)11月15日海軍中将に進級。
昭和15年11月15日海軍大将に進級
以後は
太平洋戦争総覧参照
島内 桓太
まのうち かんた
1871年1月31日 - 1940年9月19日  佐賀県 海軍兵学校(20期
少尉候補生として「吉野」に乗り組み日清戦争に従軍。1895年(明治28年)3月に海軍少尉任官、
旅順口根海兵団分隊士となる。海軍大学校で乙種学生として学んだ。
第15艇隊艇長に転じ日露戦争に出征。さらに、第19艇隊艇長、第15艇隊艇長を務め、
「叢雲」艦長として日本海海戦に参加。1905年(明治38年)1月、海軍少佐に昇進した。
明治42年)10月、海軍中佐に進級。明治43年)12月、侍従武官兼軍事参議院幹事に就任した。
大正3年)12月、海軍大佐に昇進し「満州」艦長に着任。
(大正8年)12月、海軍少将に進級し第1水雷戦隊司令官に着任。
大正11年)8月に待命、1923年(大正12年)3月、予備役に編入となった。
下村
 延太郎
しもむら
のぶたろう
1867年10月16日 - 1947年2月7日  京都府出身   海軍兵学校(18期)
日清戦争では「厳島」乗組として出征した。
明治36年)9月、海軍少佐に昇進。同年12月、第2艦隊参謀に就任し日露戦争に出征。
日本海海戦などに参戦した。1905年(明治38年)6月、第1艦隊参謀に転じた。
海軍大学校将校科甲種4期)を卒業、海軍中佐に進級した
明治44年)12月、海軍大佐に昇進し海大教官に就任。
大正6年)12月、海軍少将に進級し佐世保鎮守府参謀長となった。
大正10年)12月、海軍中将に進み海軍将官会議議員に就任
大正12年)3月、予備役に編入された。
 
下平
 英太郎
しもだいら
えいたろう
1869年3月1日 - 1933年5月13日)   会津藩    海軍兵学校(17期)
会津藩の番頭組に属す180石取りの藩士、下平英吉の長男として会津に生まれる
「天龍」航海士として日清戦争を迎え、威海衛攻略戦などに参戦した。
台湾総督府参謀兼副官を経て帰国後は砲術畑を歩む。
日露戦争中は「韓崎丸」に乗組み、堀悌吉、山本五十六ら海兵32期の指導にあたり
1902年(明治35年)少佐、1906年(明治39年)中佐、1912年(明治45年)大佐へ進級
(大正4年)4月1日造船造兵監督官に就任。戦艦「日向」艤装員長、同艦長を務め
大正6年)12月1日海軍少将へ昇進。翌年12月1日予備役編入となった。
末次 信正
すえつぐ のぶまさ 
1880年6月30日 - 1944年12月29日  山口県   海軍兵学校(27期)
日露戦争に高千穂砲術長 出征後、海軍大学校甲種学生(7期)を首席で卒業した。
大正7年:海軍大佐、筑摩艦長
大正12年 12月1日 海軍少将、第一潜水戦隊司令官
昭和2年 12月1日 海軍中将
昭和3年 12月10日 軍令部次長
昭和8年 11月15日 連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官   3月30日 海軍大将
昭和12年12月14日 第一次近衛内閣改造で内務大臣に
昭和14年1月20日 平沼内閣で内閣参議に、続く阿部内閣でも留任
昭和19年 12月29日 死去
鈴木
 貫太郎
すずき かんたろう

 
 
慶応3年12月和泉国大鳥郡に関宿藩士で代官の鈴木由哲と妻のきよの長男として生まれる。
明治17年)に海軍兵学校に入学(14期)。日清戦争に従軍。明治31年)、海軍大学校を卒業。
明治37年)2月、日本が仕掛ける形で日露戦争が始まった。日本に到着した鈴木は
そのまま「春日」の副長に任命され、黄海海戦にも参加している。その後第五駆逐隊司令
明治38年1月に第四駆逐隊司令に転じ、持論だった高速近距離射法を実現するために
猛訓練を行い部下から鬼の貫太郎、鬼の艇長、鬼貫と呼ばれたが、自らの駆逐隊で敵旗艦
「クニャージ・スヴォーロフ」、戦艦「ナヴァリン 」、「シソイ・ヴェリキィー」に魚雷を命中させるなどの
大戦果を挙げ、日本海海戦の大勝利に貢献した。
明治40年)9月28日 - 任海軍大佐
明治43年)7月25日 - 海軍水雷学校長
大正2年5月24日 - 任海軍少将、 8月10日 - 第二艦隊司令官
大正3年)4月17日 - 海軍次官
大正6年6月1日 - 任海軍中将
(大正9年)12月1日 - 第二艦隊司令長官
大正10年)12月1日 - 第三艦隊司令長官
大正12年)8月3日 - 任海軍大将
大正13年)1月27日 - 第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官 
昭和4年)1月22日 - 予備役編入。侍従長に就任、2月14日 - 枢密顧問官を兼任
(昭和11年)2月26日 - 二・二六事件で襲撃され、重傷を負う
昭和20年4月7日 -内閣総理大臣就任、8月14日 - ポツダム宣言受諾を御前会議で決定
昭和23年)4月17日 - 満80歳で死去 勲一等旭日桐花大綬章
杉 政人
すぎ まさと
明治13年8月13日 - 昭和26年11月19日)  岡山県  海軍機関学校10期
少機関士(機関少尉)として日露戦争に出征し、旅順港閉塞作戦に2度参加している。
呉海軍工廠長、軍需局長といった要職を歴任し、機関科出身将校としてはじめて艦政本部長
1929年 - 任 海軍中将 機関科出身であろうと大将昇進が可能であったが、
海軍史上において機関科将校の最高位は機関中将、或いは中将に終わった。
仙頭 武央
せんとう たけなか
 
元治元年9月土佐国安芸郡穴内村に生まれた。父、武英は旧藩時代の安芸町寄役。
明治16年)10月、海軍兵学校(10期)を卒業し海軍少尉補となる。
日清戦争には「千代田」分隊長として出征。明治29年7月、「鎮遠」砲術長となり、
「平遠」副長を経て、
明治30年)12月、海軍少佐に昇進し「浅間」回航委員に発令されイギリスに出張
明治31年)10月、海軍中佐に進級
明治36年10月「対馬」艦長に着任。日露戦争中は呉海軍工廠で艤装委員として
「対馬」の整備に務め、
明治38年1月海軍大佐に昇進。日本海海戦を同艦長として戦った。
  同年8月、「浪速」艦長に就任し、
以後、「春日」「八雲」「周防」「鈴谷」(兼)の各艦長を勤める。
明治41年5月、横須賀海兵団長となり
明治43年)12月、海軍少将に進級し鎮海防備隊司令官兼臨時建築部支部長に就任
以後、呉予備艦隊司令官、呉鎮守府艦隊司令官を歴任。
大正3年12月1日、海軍中将に進むと同時に予備役編入となった。大正8年)12月11日没
高橋 三吉
たかはし さんきち 
明治15年8月24日 - 昭和41年6月15日) 東京 海軍兵学校第29期
高橋は旧岡山藩藩士で、宮内省仕人高橋信孝の三男として東京市に生まれた
日露戦争には駆逐艦「叢雲」乗組員として参加。黄海海戦後に戦艦「敷島」の分隊長に
転任して日本海海戦に参加した。
明治41年海軍大学校乙種、翌年に砲術学校高等科、43年(1910年)に海軍大学校甲種
大正15年(1926年)11月、連合艦隊参謀長に着任した。連合艦隊司令長官は加藤寛治で、
連合艦隊司令長官
昭和初期に活躍して海軍大将となる。太平洋戦争参照
高橋
 寿太郎
たかはし じ
ゅたろう
1879年(明治12年)1月 - 1945年4月8日 岩手県  明治33年)に海軍兵学校
日露戦争の際には戦艦「富士」の乗組員として旅順港閉塞作戦や日本海海戦などに参加
明治45年)、海軍大学校を卒業し、軍令部参謀、海軍大学校教授を歴任した
第一次世界大戦では青島の戦いで第二艦隊参謀を務めた
その後、海軍大学校教頭、海軍砲術学校校長、第一水雷戦隊司令官などを歴任した
海軍少将、海軍大演習で作戦をめぐって上層部と対立し、昭和2年)に予備役編入となった
竹下 勇
たけした いさむ
  
 
1870年1月5日 - 1946年7月1日   鹿児島県   海軍兵学校(15期)
(明治31年)12月19日 - 海軍大学校(1期)卒
明治35年)10月1日 - アメリカ公使館付武官
大正元年)12月1日 - 第一艦隊参謀長  大正2年)5月24日 - 海軍少将任官
大正5年)12月1日 - 第二戦隊司令官   大正6年)6月1日 - 海軍中将任官
大正7年)6月13日 - 軍令部次長     大正11年)7月27日 - 第一艦隊司令長官
大正11年12月1日 - 兼 聯合艦隊司令長官  大正12年)8月3日 - 海軍大将任官
昭和4年)11月11日 - 予備役編入
竹内
 平太郎
たけのうち
 へいたろう
1863年2月6日(文久2年12月18日) - 1933年(昭和8年)12月21日  島根県
 海軍兵学校(8期)
1892年 - フランス国費留学( - 1894年)
1904年 - 「日進」初代艦長として日本海海戦に参戦。この時、艦長付伝令を
務めた高野五十六少尉候補生(後の山本五十六)は海戦中に重傷を負い、
1907年 - 海軍少将、呉鎮守府参謀長
1911年 - 予備役
武富 邦鼎
たけとみ くにかね

  
 
1852年12月19日(嘉永5年11月9日) - 1931年11月17日  佐賀
明治5年)に海軍砲術生徒となる
明治26年)12月、海軍少佐に進級。
日清戦争時は横須賀鎮守府参謀、兼海岸望楼監督官を務めた。
明治30年)12月、海軍中佐に昇進。
 明治31年)6月、東宮武官に転じ、10月、海軍大佐に進級した。
明治34年)7月、「磐手」艦長に就任し日露戦争に出征。明治38年)1月、海軍少将に昇進し
第3艦隊司令官(第5戦隊)となり日本海海戦に参戦した。同年6月、第4艦隊司令官に転じ、
以後、第3艦隊司令官(第6戦隊)、南清艦隊司令官、海軍省軍務局長兼将官会議議員、
明治42年)8月、海軍中将に進むと同時に予備役編入
田村
 丕顕鼎
たむら ひろあき 
1875年11月29日 - 1945年1月13日)  東京出身   海軍兵学校27期生
明治37年)7月、大尉に昇進し「八雲」分隊長として日本海海戦に参戦。
戦後は海軍大学校乙種学生を経て、練習艦隊参謀として古賀峯一ら兵学校34期生の指導に
明治42年)10月、少佐に進級。以後、「明石」、「新高」副長、海軍省出仕兼元帥副官
大正8年)12月、大佐に進級。 、「薩摩」・「三笠」・「榛名」の各艦長を歴任
大正13年)12月1日、海軍少将に昇進。横須賀防備隊司令となり、
大正14年)12月16日、予備役に編入
滝川 具和
たきがわ ともかず 
安政6年7月 幕臣滝川具挙の子として江戸に生まれた。兄に西南戦争で戦死した滝川具綏
明治12年(1879年)8月9日海軍大学校卒。明治17年(1884年)、「清輝」分隊士
として中国沿岸を航海したのが、中国初体験であった。
明治22年、海軍大学校甲号学生。この間、各艦乗組を経て、海軍兵学校砲術教官となる
日清戦争開戦までの時期、北京公使館付武官井上敏夫とともに、渤海沿岸・遼東半島・
朝鮮半島西海岸の戦要地誌の調査に当たった。
明治27年(1894年)日清戦争では巡洋艦「筑紫」の副長として従軍、
日清戦争後、明治28年8月から台湾総督府軍務局に勤務した後、
明治30年在清国公使館付武官
明治33年(1900年)5月9日「武蔵」の艦長に昇進し、「高砂」艦長に転じ、義和団の乱期の
清国沿岸で警備任務に従った。
明治35年(1902年)ドイツ国公使館付武官となりベルリンに赴任、日露戦争時は、欧州にて
欧州にて特別任務にあたった
明治39年(1906年)5月10日、軍艦「朝日」艦長を経て、明治39年旅順鎮守府参謀長を務め、
海軍少将となった。大正4年(1915年)7月22日に後備役となる。1923年、65歳で没した。
武田 秀雄
たけだ ひでお
  
 
文久2年11月 土佐国香美郡野市村(現:野市町)に生まれる。
明治11年)8月、海軍兵学校機関科に入学。明治16年)10月、海軍機関学校(旧2)を卒業。
明治19年)4月、海軍少機関士に任官した。
明治23年)から明治27年)までフランスに留学。帰国後、「厳島」乗組となり日清戦争に出征。
明治30年)、海軍機関少監に昇進。1901年(明治34年)7月から翌年9月までフランスに駐在。
明治36年)9月、海軍機関大監に進級。
明治38年)4月、臨時煉炭製造所長に就任し、煉炭製造所長、海軍火薬廠製造部長を歴任し、
明治42年)12月、海軍機関少将に昇進
大正2年)12月、海軍機関中将に進み機関学校長に就任
大正3年)4月に待命となり、同年6月、予備役編入となった。
その後、三菱合資会社顧問、同管掌、三菱造船会長、同理事、三菱内燃機製造会長、
三菱電機会長を歴任した。
谷口 尚真
たにぐち なおみ
  
 
明治3年3月 広島県広島市田中町(現中区田中町)出身。父は旧広島藩士である。
1892年、海軍兵学校卒業(19期)。同期に百武三郎がいる。
1894年、巡洋艦「高雄」に乗り込み日清戦争に従軍。1902年、海軍大学校(甲種)卒業。
1904年、「浪速」乗り込みの参謀として日露戦争に出征。戦争途中で少佐に累進し
軍令部参謀ととなって海軍作戦に参画。1921年、中将。1923年、海軍兵学校校長に就任、
1928年 海軍大将 同年、第18代連合艦隊司令長官に就任。
1930年、ロンドン海軍軍縮会議を巡って海軍が二分し始めた同年、海軍軍令部長に就任。
1933年、大角人事で予備役に編入された。
千坂
 智次郎
ちさか ちじろう

 
 
慶応4年2月 米沢藩士・千坂高雅の二男として生まれる。
明治20年(1887年)7月に海軍兵学校(14期)を卒業し、同22年(1889年)9月に海軍少尉任官。
日清戦争では「扶桑」分隊長として出征した。
「松島」航海長、「八雲」回航委員、同航海長、「夕霧」艦長などを歴任。
日露戦争には「初瀬」航海長として出征したが、明治37年5月に乗艦が触雷により沈没した。
その後、佐世保鎮守府参謀、「出雲」副長、「磐城」艦長、「大和」艦長などを勤めた。
明治40年12月、「津軽」艦長、「生駒」艦長、「八雲」艦長、舞鶴鎮守府参謀長を経て
大正2年(1913年)12月、海軍少将に進級。佐世保水雷戦隊司令官、佐世保鎮守府参謀長、
練習艦隊司令官、教育本部第1部長、第2戦隊司令官などを歴任し、
大正6年(1917年)12月に海軍中将となった。さらに馬公要港部司令官、第2遣外艦隊司令官、
鎮海要港部司令官、海兵校長、将官会議議員を経て、大正12年(1923年)7月、予備役に
土屋 光金
つちや みつかね

 
 
元治元年11月 元治元年11月3日愛知県に生まれる。土屋光春陸軍大将の長男
明治19年)12月、海軍兵学校(12期)を卒業し、1888年(明治21年)1月に海軍少尉任官
明治24年)12月、佐世保軍港司令官伝令使となり、「松島」分隊長、呉水雷隊攻撃部艇長を経て
明治27年)7月、常備艦隊水雷艇隊艇長に就任。日清戦争に出征し、常備艦隊第1水雷艇隊艇長
明治30年)12月、海軍少佐に昇進
明治33年)9月、海軍中佐に進級
明治36年)9月、常備艦隊第3駆逐隊司令に着任し、第1艦隊駆逐隊司令として日露戦争に出征
第3艦隊参謀に転じ、1905年(明治38年)1月、海軍大佐に昇進
1905年4月、「豊橋」艦長に着任し、馬公要港部参謀長、「秋津洲」「春日」「相模」「鹿島」の各艦長、
明治44年)12月、海軍少将に進級し舞鶴水雷団長となった。
大正2年)3月、舞鶴水雷隊司令官となり、呉水雷隊司令官、呉鎮守府艦隊司令官、第3艦隊司令官、
第1水雷戦隊司令官を経て、1915年(大正4年)12月、海軍中将に進み第2水雷戦隊司令官に着任。
大正5年)4月、大湊要港部司令官となり、将官会議議員を経て、1919年(大正8年)6月に待命
翌年3月、予備役に編入された 大正14年)3月20日病没
角田 秀松
つのだ ひでまつ

 
 
嘉永3年2月会津藩医、角田良智の二男として生まれる。父の蝦夷地赴任に同行し、南摩綱紀に学
商船の水夫となり船長代理に昇る。征台の役に運送船に乗組んだ際に西郷従道の知遇を得て、
1874年10月、長崎海軍出張所雇となる。海軍少尉任官。「清輝」乗組として西南戦争に従軍し、
「東艦」副長、「扶桑艦」乗組、水雷練習所副長、長崎水雷営長、横須賀鎮守府水雷司令
「浪速」艦長、佐世保知港事、佐世保海兵団長などを歴任。
日清戦争前に初代・軍令部第1局長(のちの作戦部長)に就任した。山本権兵衛が開戦直前に
海上作戦の重要性を参謀本部に説明に訪れた際は、角田が同行している
台湾総督府海軍局長を経て、1895年8月、海軍少将に進級し、台湾総督府において
参謀副長兼海軍局長、軍務局海軍部長、海軍参謀長を歴任
1897年12月、佐世保鎮守府予備艦隊司令官、以後、呉鎮守府艦隊司令官、常備艦隊司令官を経て、
1900年5月、海軍中将となった。さらに艦政本部長、将官会議議員を経て、
常備艦隊司令長官に就任した。
同艦隊の司令長官はその前身時代から、草創期における海軍の主体を成した
薩摩藩、長州藩、佐賀藩の出身者が占めていた。角田はその三藩以外から初めて就任したのである。
日露戦争時には竹敷要港部司令官を務めたが、1905年12月に戦病死した
坪井 航三
つぼい こうぞう

 
 
天保14年3月周防国三田尻の出身。医師・原顕道の二男として生まれ、藩医・坪井信道の養子
明治4年)米国海軍アジア艦隊司令長官ジョン・ロジャーズの下で、旗艦コロラドで乗艦実習
明治5年離任し帰国するロジェーズ少将に従い渡米し、ワシントンD.C.にあるコロンビアン・カレッジ
付属中学校(現在のジョージ・ワシントン大学)に学んだ。
明治6年)12月の官費海外留学生の一斉帰国命令に従い、明治7年)7月、帰国した。
帰国後、第一丁卯艦長となる。
日清戦争時、第一遊撃隊司令官を務める。単縦陣戦法を唱え、豊島沖海戦、黄海海戦に勝利。
とくに黄海海戦では単縦陣の先頭に立って指揮し、優速を利して北洋艦隊の背後に回りこみ、
海戦の主導権を握ることに成功する。
履歴
明治18年(1885年)6月 海軍大佐
明治22年4月 「高千穂」艦長・兼常備小艦隊参謀長   
明治23年9月 海軍少将・佐世保軍港司令官
明治25年(1892年)12月 海軍兵学校長
明治26年(1893年)12月 海軍大学校長
明治27年(1894年)6月 常備艦隊司令官(第1遊撃隊司令官)
        12月 旅順口根拠地司令長官
明治29年(1896年)2月 海軍中将・常備艦隊司令長官
明治30年(1897年)4月 横須賀鎮守府司令長官     1898年2月1日死去
寺垣 猪三
てらがき いぞう

 
 
安政4年1月寺垣は加賀藩士で馬廻り役を務める寺垣家の長男として生まれた
寺垣は海兵6期であり、同期生には海軍の三秀才といわれた斎藤、山内万寿治、
坂本俊篤がおり、海軍大学校甲号学生(2期)となる。海大甲号学生はのちの甲種学生に
相当するものであり、寺垣は引き続き水雷術練習のため「迅鯨」で履修課程を終え、
水雷長適任証書を授与された7月に日清戦争が始まり、「龍田」は中立国であった
イギリスによってアデンで抑留となる。
明治27年12月13日 - 海軍少佐、「龍田」副長
明治30年12月1日 ? 海軍中佐
明治32年9月29日 - 海軍大佐、海軍省副官
明治38年11月2日 ? 海軍少将
明治36年7月には日本海軍が保有する6隻の戦艦の一つ、「敷島」の艦長に補され
日露戦争を迎える。「敷島」の主要幹部は副長山田猶之助(海兵13期)、
航海長釜屋六郎(海兵14期)、砲術長石川長恒(海兵18期)、水雷長井出篤行(海兵17期)、
機関長倉橋半蔵(海機旧1期) 
明治39年)11月22日 ? 第二艦隊司令官
明治41年12月24日 ? 第三艦隊司令官
明治42年)12月1日 ? 海軍中将
明治43年)12月1日 ? 竹敷要港部司令
寺垣の長男孝三は海軍大佐(海兵36期)、
次男敬三は太平洋戦争で戦死した海軍少将 (海兵40期)
寺岡 平吾
てらおか へいご 
1877年7月7日 - 1977年7月25日  山形県  海軍兵学校(27期)
日露戦争では第1艇隊艇長として出征した。
明治38年)9月、「扶桑」水雷長となり、海兵教官、「厳島」・「常磐」の各水雷長、
明治43年)3月、東郷平八郎大将付副官に就任。 大正7年)12月、海軍大佐に進級。
大正8年)5月、「平戸」艦長に就任。以後、「春日」「鞍馬」「霧島」「陸奥」の各艦長を勤め
大正12年)12月、海軍少将に進級。横須賀鎮守府参謀長、第3戦隊司令官を歴任
大正15年)9月、待命となり、1927年(昭和2年)4月、予備役に編入
 
寺島 健
てらじま けん

 
 
明治15年 父良業は和歌山県庁に勤務し、寺島はその四男である。
明治36年)12月14日 - 海軍兵学校卒業 海軍少尉候補生、「厳島」乗組
明治37年)1月4日 - 「敷島」乗組 、8月12日- 「三笠」乗組
第一艦隊第一戦隊所属の「敷島」乗組して従軍し、旅順口攻撃、黄海海戦、日本海海戦
大正3年)5月27日 - 海軍大学校卒業、軍令部参謀
大正11年)12月1日 - 海軍大佐、在仏日本大使館附海軍駐在武官兼造船造兵監督官
昭和2年)3月1日 - 「山城」艦長
2月1日 - 海軍少将、第二艦隊参謀長
昭和3年)12月10日 - 第一艦隊参謀長兼連合艦隊参謀長
昭和7年)5月12日 ? 兼軍務局長、12月1日 - 海軍中将
昭和8年)9月15日 - 練習艦隊司令官
昭和9年3月31日 - 予備役編入、11月14日 - 浦賀ドック社長
昭和13年)7月1日 - 大日本兵器社長
昭和16年)5月10日 - 名古屋造船社長
昭和16年10月18日 - 逓信大臣兼鉄道大臣
昭和18年)10月10日 - 逓信大臣辞任、勅選貴族院議員
昭和20年)9月11日 ? 連合国戦争犯罪人逮捕者指名、昭和23年)12月24日 - 釈放
昭和47年)10月30日 - 没
出羽 重遠
でわ しげとお

 
 
安政2年12月会津藩士・出羽佐太郎重信を父して誕生。戊辰戦争では白虎隊に属して戦った
父が会津松平家御用掛として上京したのに伴われ、秋月悌次郎らから教育を受けている。
明治11年(1878年)8月16日、海軍兵学寮(5期)を卒業
日清戦争を西海艦隊参謀長として迎え、明治27年12月27日、大佐に昇進すると同時に
連合艦隊参謀長へ異動。
明治31年(1898年)山本権兵衛が海軍大臣に就任するとその次官に望まれた。
明治33年(1900年)5月20日、少将へ昇進と同時に常備艦隊司令官に補され
続いて軍務局長兼軍令部次長という軍政軍令の要職を兼任する稀な経験をしている
日露戦争に第三戦隊司令官として参戦。巡洋艦4隻を率いて、日本海海戦まで
第一戦隊とともに第一艦隊に属して戦い、その後樺太作戦のために編成された
第四艦隊の司令長官を務めた。
日露戦争後第二艦隊及び佐世保鎮守府の各司令長官、教育本部長を務め、
第一艦隊司令長官在任中の明治45(1912年)年7月9日海軍大将へ昇進した。
それまで有栖川宮威仁親王以外の13人の海軍大将は全て旧薩摩藩出身者であり、
加えて賊軍といわれた会津藩出身であったことから当時の新聞報道でも大きく扱われた。
1930年1月27日(満74歳没) 勲一等旭日桐花大綬章
東郷
 吉太郎
とうごう きちたろう 
1867年1月19日(慶応2年 - 1942年(昭和17年)10月26日 薩摩  海軍兵学校(13期生)
日清戦争では「大島」分隊長として出征した
日露戦争時は、「朝日」副長として日本海海戦などに参戦
「高雄」艦長、「和泉」艦長、「見島」艦長、「笠置」艦長、横須賀海軍工廠検査官
台湾総督府海軍参謀長などを経て、1912年12月、海軍少将に進級
海軍砲術学校長、第一戦隊司令官を歴任。日独戦争では臨時南洋群島防備隊司令官
1916年12月、海軍中将となった。鎮海要港部司令官兼臨時建築部支部長、・・・
1920年8月、予備役 叔父 東郷平八郎(父の弟)
東郷 正路
とうごう まさみち
  
 
嘉永5年3月福井藩士・東郷晴霞の息子として生まれる。
1870年、大坂陸軍兵学寮に入学するが中退し、1878年7月、海軍兵学校(4期)を
卒業し、少尉補任官。「筑波艦」、「乾行艦」、「摂津」、「龍驤」などに乗組む
「扶桑」分隊長、中艦隊司令官付、常備小艦隊参謀、海兵分隊長、「八重山」副長、
「金剛」副長、日清戦争時は「鳥海」艦長、「西京丸」艦長を務めた
「天城」艦長、「武蔵」艦長などを経て、海軍大学校で選科学生として学んだ。
八重山」艦長、「済遠」艦長、呉鎮守府参謀長、「八雲」回航委員長、同艦長、・・・
1902年5月、海軍少将に進級した。
日露戦争では第6戦隊司令官として出征し、黄海海戦、日本海海戦に参戦した。
1905年11月、海軍中将となり、第4艦隊司令官、将官会議議員を務めたが、1906年1月に死去。
鳥巣 玉樹
とす たまき 
1877年12月1日 - 1949年5月21日)  佐賀県  海軍兵学校第25期
鳥巣の経歴の特徴は教育部門勤務とイギリス派遣が目立ち、駐在武官2回、艦船回航委員2回
の計4回の在英経験は当時としても多い方である。
明治37年)1月12日- 特務艦「春日丸」航海長兼分隊長
明治42年)5月25日- 海軍大学校甲種卒業 卒業成績順位12名中第2位
大正11年)5月25日- 在イギリス日本大使館附海軍駐在武官造船造兵監督長
大正14年)12月1日- 任 海軍中将・第5戦隊司令官
昭和4年)11月11日- 佐世保鎮守府司令長官
昭和6年3月31日- 予備役編入
艦隊司令官在勤2年未満を理由に大将昇格は見送られ予備役に編入された。
常盤 盛衛
ときわ もりえ
 
 
1881年(明治14年)12月8日 - 1971年8月8日)福島県  海軍兵学校(30期)。
「初瀬」乗組みとして日露戦争を迎えたが、同艦は明治37年5月15日に旅順港外において
その際常盤は初瀬の艦載水雷艇を指揮し、哨戒のため裏長山列島に赴いていた
触雷し沈没。この日「吉野」も「春日」と衝突事故を起こし沈没し、1日で同期生6名を失った
「音羽」乗組を経て海軍中尉に進級。第14艇隊の「千鳥」乗組みとして日本海海戦に参戦した。
大尉進級後に海大乙種学生、海大専修学生(航海術)を首席で卒業し、航海科専攻の士官となる。
大正10年)12月1日、海軍大佐へ進級した
大正15年)12月1日、海軍少将へ昇進。1927年(昭和2年)12月25日予備役編入となった。
栃内
 曽次郎
とちない
 そうじろう

  
 
慶応2年6月 盛岡藩士、栃内理平の二男として岩手県上田村に生まれる。
明治19年、海軍兵学校を卒業(13期生)した。明治24年、海軍大学校(丙号学生)を卒業
日清戦争では「金剛」分隊長、旅順港水雷敷設隊分隊長、「扶桑」水雷長として従軍した。
日露戦争には、「武蔵」艦長、「八幡丸」艦長、「須磨」艦長として従軍した。戦後には
在英大使館付武官としてイギリスに三年半勤務した。明治42年に帰国し 同年に海軍少将
練習艦隊司令官、大湊要港部司令官、横須賀海軍工廠長を歴任し、
大正3年、海軍中将。さらに第2艦隊司令官、第1艦隊司令官、第4戦隊司令官、第3戦隊司令官、
技術本部長を歴任し、大正6年(1917年)に海軍次官となった。
大正9年、海軍大将を拝命、第1艦隊長官、兼連合艦隊司令長官、佐世保鎮守府司令長官、
軍事参議官を歴任し、同13年(1924年)に予備役に編入された。
富岡 定恭
とみおか さだやす
  
  
嘉永7年11月 信濃国松代藩海防隊隊長・富岡宗三郎定知の長男として生まれる。
明治9年9月、海軍兵学寮(5期)を首席卒業。明治11年までイギリス海軍戦艦に乗組
日清戦争では「厳島」副長として参戦さらに、「龍田」艦長、海軍兵学校教頭、「八雲」艦長、
明治36年)7月、海軍少将に進級。日露戦争においては早期開戦を求める山座円次郎、
秋山真之ら湖月会の一員であった。戦中は海軍兵学校長を務める。練習艦隊司令官を勤め、
明治40年3月、海軍中将となり、竹敷要港部司令官、旅順鎮守府長官を勤め、
明治44年)12月、予備役に編入された。
917年7月1日(満62歳没)
中里 重次
なかざと しげじ  
1871年10月12日 - 1946年1月20日)  山形県出身   海軍兵学校(20期)
少尉候補生として「葛城」に乗り組み日清戦争に従軍。1895年3月に海軍少尉任官。
海軍大学校で乙種学生として学んだ。
日露戦争では「橋立」砲術長として出征した。
「常磐」砲術長、軍令部参謀、海軍省軍務局員、イギリス駐在、、「阿蘇」副長、軍務局員、
軍令部参謀、「春日」艦長、「磐手」艦長、軍令部第2班長などを歴任し、
1918年12月、海軍少将に進級。さらに、軍需局長を勤め、1922年12月、海軍中将となった。
舞鶴要港部司令官などを経て、1925年6月、予備役に編入された。
中城 虎意
なかじょう とらい  
1880年7月13日 - 1952年2月11日   高知県  海軍兵学校(28期)
日露戦争では「浅間」分隊長として出征し、日本海海戦に参加。
明治41年)4月から12月まで、海軍大学校乙種学生として学び、さらに海軍砲術学校高等科で学ぶ。
明治42年)5月、第1潜水艇隊艇長に就任。造船監督官に転じ、
明治43年)12月、海軍少佐に昇進
大正8年)12月、海軍大佐に昇進。
中村良三
なかむら りょうぞう

 
  
明治11年)7月 旧弘前藩士で医師の中村春台の二男。5歳のとき親類の中村了三の養子
明治29年)に青森県立弘前中学校(高等学校)を卒業後、海軍兵学校入学(27期)。
日露戦争では第三艦隊所属となって地道な哨戒活動に従事していた。
第3回旅順港閉塞作戦では「新発田丸」指揮官附として参加
明治38年)1月に行われた異動では最新鋭の巡洋艦「明石」の航海長兼分隊長に補職され、
第二艦隊の第四戦隊として日本海海戦に参加した。
海軍大学校乙種学生次いで初代の海軍砲術学校高等科学生となり、いずれも首席で卒業。
海大甲種学生に入学。卒業後は主に軍令畑を歩く。第一次世界大戦中には軍令部参謀、
大正12年)12月、海軍少将進級後 第一水雷戦隊司令官を務め、
その後再び軍令部参謀となる。
昭和2年)12月1日 - 海軍中将進級
昭和5年)12月、山本英輔聯合艦隊司令長官の下で第二艦隊指令長官を命ぜられた。
1年の艦隊暮らしのあとは佐世保鎮守府と呉鎮守府の司令長官を歴任する。
(昭和9年)3月、同期生の末次信正とともに海軍大将に進級してまもなく、友鶴事件のために
艦政本部長になる。
二・二六事件後、粛軍のために陸軍が多数の高級将官を予備役に編入したのとバランスを
をとるために海軍も先任の大将を何人か予備役編入することとなり、中村に白羽の
矢が立てられて1936年(昭和11年)3月に予備役編入となった。
永田
 泰次郎
ながた やすじろう  
1867年1月26日 - 1923年1月19日 江戸  海軍兵学校(15期)
明治36年)、常備艦隊の幕僚となり日露戦争中は東郷平八郎大将の幕僚副官となり
参謀部にあり戦争終結ののち海軍省出仕となり勲三等に叙す。出雲艦、石見艦の副長となり、
第一、第二駆逐艦隊司令官として横須賀に滞在。神戸高等商船学校長に在職中に死去。
最終階級は海軍中将
永野 修身
ながの おさみ

  
 
 元帥陸軍大将
明治13年6月 高知県で士族(上士)永野春吉の四男として生まれる。
1898年海軍兵学校第28期 105人中次席の成績で卒業
明治37年)2月8日日露戦争開戦。仮装巡洋艦香港丸に乗組み後、旅順工作部員名義で
重砲隊に転じる。旅順攻囲戦で海軍陸戦重砲隊中隊長として旅順港に逼塞する
なじみのなかった。ロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)の撃滅に参加。旅順艦隊砲撃で、
海軍ではそれほど観測を用いる間接射撃の実現に貢献し成功させた。
1905年1月12日海軍大尉に進級。日本海海戦第2艦隊第4戦隊副官。
5月日本海海戦に参加。巡洋艦厳島砲術長。
1909年5月25日海軍大学校甲種学生拝命。1910年12月1日海軍少佐に進級。
1913年1月アメリカ駐在(ハーバード大学留学)。1914年12月1日海軍中佐に進級。1915年帰国。
1934年 3月1日 - 海軍大将に進級   1936年3月9日広田弘毅内閣の海軍大臣を拝命
1937年2月2日連合艦隊司令長官 兼 第一艦隊司令長官。
太平洋戦争 資料参照
南郷 次郎
なんごう じろう  
1876年12月21日 - 1951年3月5日  東京都 海軍兵学校(26期)
明治33年)1月、海軍少尉任官。日露戦争に第4艇隊艇長として出征し、
さらに第1艇隊に属する第67号艇長として日本海海戦に参戦した。
海軍大学校乙種学生、海軍水雷学校高等科学生として学び、
明治40年)9月、「初霜」駆逐艦長となり、「鹿島」水雷長心得
明治43年)11月、海軍大学校(甲種8期)を卒業した。大正6年)12月、海軍大佐に昇進
大正11年)12月、海軍少将に進み佐世保防備隊司令に就任した。
大正13年)2月、予備役に編入された。
中溝
 徳太郎
なかみぞ
とくたろう
  
安政4年12月 佐賀藩士・中溝孝稠の長男として生まれる。
1878年7月、海軍兵学校(5期)を卒業し、1881年1月、海軍少尉任官。
「葛城」「大和」の各分隊長、「浪速」水雷長、「八重山」副長、横須賀水雷隊施設部司令、
日清戦争に「秋津洲」副長として出征した。
旅順口水雷敷設隊司令、「愛宕」艦長、臨時海軍建築部舞鶴支部長、兼舞鶴水雷団長、
イギリス公使館付、舞鶴鎮守府参謀長、イギリス駐在、などを経て、
1903年7月、海軍少将に進級。常備艦隊司令官、海軍省軍務局長などを経て、
日露戦争時は呉鎮守府参謀長、舞鶴工廠長を務めた。1907年3月、海軍中将となり、
軍務局長を務めた後、1909年12月に待命となり、1911年4月17日、予備役に編入された
梨羽 時起
なしは ときおき

 
   
嘉永3年8月 長州藩士・武術指南役(1000石)有地藤馬の四男として生まれ、
同藩士(683石)・梨羽景介の養子となる。
1871年、鉄道局二等見習となり、測量司、三等大技生、内務七等属(量地課)などを経て、
1880年8月、海軍中尉に任官し「富士山艦」乗組となる。「筑波艦」乗組、「肇敏」「天龍艦」
「第二丁卯艦」「筑波艦」「金剛」の各分隊長、「金剛」「筑波」「葛城」の各副長、
日清戦争には「赤城」艦長として出征し、さらに「天城」艦長となった。
呉水雷隊司令、「海門」「葛城」「金剛」「秋津洲」「橋立」「鎮遠」「高砂」「常磐」「初瀬」の
各艦長を歴任する。呉海兵団長を経て、1903年7月、海軍少将に進級。呉港務部長、
常備艦隊司令官などなどを経て、日露戦争では第1戦隊司令官として出征。旅順港封鎖に
従事中、麾下の「初瀬」・「八島」の2戦艦が触雷し沈没する被害を受けた。
その後旅順口鎮守府艦隊司令官に転じている。 
横須賀港務部長、佐世保港務部長、馬公要港部司令官などを歴任。
1907年3月、海軍中将となり将官会議議員に発令され、同年5月8日に待命となる
同年10月31日、予備役に編入された
名和
 又八郎
なわ またはちろう

  
   
文久3年12月小浜藩士、武久久三の子として東京で生まれ、同藩の名和荘山の養子となる。
明治16年(1883年)、海軍兵学校(10期生)を卒業し、同19年(1886年)に少尉任官。
「筑波」分隊長、防護巡洋艦「浪速」分隊長、「海門」分隊長を歴任、
日清戦争時は「松島」分隊長であった。さらに海軍兵学校教官、「金剛」副長などを経て、
明治32年(1899年)、海軍省副官兼海相秘書官となり山本権兵衛大臣に仕えた。
明治33年(1900年)、「初瀬」副長に任命され、イギリスに出張し同艦を回航。
その後、舞鶴鎮守府参謀、人事局第2課長、「出雲」艦長、「厳島」艦長、「生駒」艦長、
明治41年、海軍少将に進級。さらに、呉鎮守府参謀長、第3艦隊司令官、将官会議議員、
海軍教育本部長、第2艦隊司令長官、舞鶴鎮守府司令長官、横須賀鎮守府司令長官
大正7年に海軍大将、同9年軍事参議官となり、同12年(1923年)に予備役に編入された。
西 紳六郎
にし しんろくろう   
万延元年9月 奥医師・林洞海の六男として江戸で生まれ、西周の養子となる。
沼津兵学校を経て、1881年(明治14年)11月、海軍兵学校(8期)を卒業。
明治18年6月、海軍少尉任官。海軍大学校副官などを経て、
明治23年7月、海大(甲号2期)を卒業
明治27年)6月、「武蔵」分隊長に就任し日清戦争に出征
明治29年)10月、海軍少佐に進級し軍令部第2局員となる。
1897年12月、海軍中佐に進級。1898年(明治31年)5月、「厳島」副長に就任し、
明治35年)5月、海軍大佐に昇進した。1903年(明治36年)5月、「笠置」艦長に発令され
明治37年)3月、有栖川宮威仁親王付武官となり日露戦争を迎えた。馬公要港部参謀長、
「高千穂」「壱岐」「周防」の各艦長、横須賀海兵団長、佐世保鎮守府参謀長を歴任。
明治41年)5月から1912年(大正元年)12月まで侍従武官を務め、
1908年8月、海軍少将に進級した、
1912年12月、海軍将官会議議員となり、馬公要港部司令官に異動し、大正2年)9月、海軍中将
同年12月、待命となり、1914年(大正3年)12月1日、予備役に編入となった
布目 満造
ぬのめ みつぞう   
慶応4年8月和歌山県出身。布目総兵衛の息子として生まれる。
明治22年)4月、海軍兵学校(15期)を卒業し、1890年(明治23年)12月に海軍少尉任官
明治25年)12月から一年間、海軍大学校で丙号学生として学んだ。
明治32年)9月、海軍少佐に昇進。同年12月、「金剛」航海長に就任。
明治37年)1月、仮装巡洋艦「香港丸」航海長となり日露戦争に出征。
開戦前後には逓信省の海底ケーブル敷設船「沖縄丸」にも乗船し、朝鮮半島への
海底電信線の秘密敷設を監督した。明治38年)2月、海軍中佐に進級し、
同月「三笠」航海長に就任。日本海海戦に参戦した。
日露戦争後の1905年9月に佐世保鎮守府付となる。以後、「富士」航海長、海軍省出仕、
皇族付武官、朝日」副長、「大和」艦長などを務める。
 明治43年12月、海軍大佐に昇進し横須賀鎮守府付となった。
明治44年)5月、「須磨」艦長に就任。以後、「秋津洲」「橋立」の各艦長、・・
相模」「薩摩」「榛名」の各艦長を歴任。
 1916年(大正5年)12月、海軍少将に進級し水路部長となる。
大正9年)10月、大湊要港部司令官に転じ、同年12月、海軍中将に進んだ。
昭和8年)8月に退役した
野崎
小十郎
のざき こ
じゅうろうて
   
明治5年11月2日 - 昭和21年4月21日 高知県  海軍兵学校(21期
大尉時代に北清事変に出動し、少佐時代には日露戦争に参戦した。
戦後海軍大学校(甲種5期)を卒業。横須賀鎮守府参謀、横須賀海軍工廠検査役、
新高」、「生駒」、「金剛」の各艦長、臨時南洋群島防備隊司令官などを
歴任し海軍少将に任官した。
 
 野村 貞
のむら てい

  
  
弘化2年1月旧越後長岡藩出身者として最初の海軍将官となった海軍少将である。
連合艦隊司令長官・山本五十六は義理の甥にあたる。
明治4年に海軍中尉に任官。翌年には大尉へ進み、「日進」副長、東海水兵本営副長
「日進」副長時代は西南戦争に従軍している。明治14年2月に少佐へ進級。
少佐、中佐の時期は造兵廠長職を除き海上勤務に終始し、「孟春」、「比叡」、「清輝」、
「筑紫」、「大和」、「筑波」、「富士山」と7艦で艦長を務めた。
野村は豪傑肌な一面をもち、「清輝」艦長時代には、台風に遭遇し疲労した乗員に対し、
「総員死に方用意」の号令をかけ士気を回復させた逸話は海軍部内で有名であった
明治23年に大佐となり、佐世保鎮守府参謀長を経て、「松島」艦長に就任。
次いで「高千穂」艦長として日清戦争に参戦。黄海海戦において坪井航三率いる
第一遊撃隊の1艦として戦い、抜群の武功と評価された武勲を挙げた。
第一遊撃隊は4艦で構成され、同僚の艦長は河原要一、東郷平八郎、上村彦之丞の三名、
八代六郎、岡田啓介は「高千穂」艦長時代の部下である
戦後は竹敷要港部の初代司令官となり、明治29年11月、海軍少将へ進級。横須賀軍港司令官、
常備艦隊司令官と司令官職を歴任したが、呉鎮艦隊司令官在職中に死去した。
野間口
 兼雄
のまぐち かねお

    
慶応2年2月 野間口用輔の三男として生まれる。鹿児島
明治19年(1886年)、海軍兵学校(13期生)を卒業し、同21年(1888年)に少尉任官。
明治31年から翌年8月まで海軍大学校(選科学生)で学ぶ。その後、イギリス駐在等を経て、
海軍省副官兼海相秘書官として山本権兵衛大臣に仕えた。
その後、巡洋艦「高千穂」艦長、「松島」艦長、「浅間」艦長、軍務局先任局員を経て、
明治42年に海軍少将・第1艦隊参謀長となり、佐世保鎮守府参謀長、海軍砲術学校長、
呉鎮守府参謀長、軍務局長、海軍兵学校長、舞鶴鎮守府長官、第3艦隊長官を歴任し、
大正9年に海軍大将、さらに海軍教育本部長、横須賀鎮守府司令長官、軍事参議官を経て、
同13年(1924年)に予備役に編入され、昭和10年(1936年)に退役した。
濱野
 英次郎
はまの えいじろう
  
   
1880年5月24日 - 1952年3月2日)   岡山県   海軍兵学校(30期)
海軍大学校甲種学生(12期)を修了
第一艦隊参謀を経て、第二南遣枝隊参謀として第一次世界大戦に出征し、
大正10年)12月、海軍大佐へ進級。大佐時代は軍令部第二課長、
「大井」、「春日」及び「扶桑」艦長
大正15年)12月1日海軍少将に進級。美保関事件査問委員を務めた
次いで連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長、馬公要港部司令官となる。
昭和6年)12月1日海軍中将に進み、同月21日予備役編入となった。
柔道が得意で30期でただ1人の一級であった。
長谷川
 清
はせがわ きよし

  
   
1883年5月7日 - 1970年9月2日)  福井県  海軍兵学校第31期
日露戦争開戦時は戦艦「八島」に乗艦したが、旅順沖接雷事故で沈没した後は
戦艦「三笠」乗組となる。
第一次世界大戦に参戦。第二艦隊参謀として青島の戦いに参戦した。
(大正3年)5月27日- 海軍大学校甲種卒業 卒業時成績順位16名中第2位
大正6年から15年まで途中1年間帰国した以外は、アメリカでの出張在勤が続く。
大正11年)12月1日- 任 海軍大佐・海軍省人事局第1課長
昭和2年)12月1日- 任 海軍少将・横須賀鎮守府参謀長
昭和8年12月1日- 任 海軍中将
昭和11年)12月1日- 第三艦隊司令長官
昭和14年)4月1日- 任 海軍大将
昭和15年11月27日- 任 台湾総督
昭和21年)11月21日- 戦争犯罪人容疑により身柄収監、昭和22年)1月14日- 身柄釈放
原敢二郎
はら かんじろう   
1880年11月22日 - 1948年4月23日  岩手県  海軍兵学校(28期)
日露戦争では「筑紫」分隊長心得として出征した。
1911年5月、海軍大学校(甲種9期)を卒業した
「三笠」航海長、舞鶴鎮守府参謀、海軍省軍務局員
第1艦隊兼連合艦隊参謀長などを経て、1924年12月、海軍少将に進級。
1928年12月、海軍中将となった。軍令部出仕、鎮海要港部司令官
1931年3月、予備役に編入された。
橋元 正明
はしもと まさあきら

  
    
嘉永6年12月 鹿児島県出身。橋元喜左衛門の息子として生まれる。
明治4年(1871年)9月、海軍兵学寮に入学し、明治11年)7月、海軍兵学校(4期)を卒業。
明治23年)10月、海軍少佐に昇進。明治24年)4月、「厳島」副長に就任。
明治26年)12月、「摩耶」艦長に発令され日清戦争に出征。「赤城」艦長を経て、
明治28年12月、海軍大佐に進級、明治29年)、「八重山」「浪速」の各艦長、
明治35年)5月、海軍少将に進級し舞鶴鎮守府艦政部長兼舞鶴港務部長兼舞鶴予備艦部長に就任
日露戦争を迎えた。兼大本営海軍人事部長を経て、1905年(明治38年)11月、海軍中将となり
同年12月、馬公要港部司令官に就任。翌年12月、旅順鎮守府司令長官に栄転した。
明治41年)8月に待命となり、翌年8月、予備役に編入された。1929年3月31日没
林 三子雄
はやし みねお

     
元治元年11月大坂出身。父は河内狭山藩士・林伊織
海軍兵学校12期。席次は入校時次席、卒業時3番
明治24年)大尉となり、「高雄」航海長を経て海軍大学校甲号学生(5期)を卒業。
志摩清直、黒井悌次郎は同期生である。「秋津洲」航海長として日清戦争に出征。
艦長・上村彦之丞のもと黄海海戦を戦った。戦後海兵教官を2年務めたのち、
独留学を命じられる。同時に留学を命じられたのは秋山真之(米)、村上格一(仏)、
財部彪(英)、広瀬武夫(露)である。留学期間は三年半に及び、在独中に中佐に進級している。
帰国後「千代田」副長、「初瀬」航海長、
横須賀海兵団副長、「天城」艦長を歴任。「鳥海」艦長に就任し、日露戦争に出征。
日露戦争に出征。第三回旅順閉塞作戦総指揮官を務める。第二軍の南山攻撃援護のため、
「鳥海」は「筑紫」と南山砲台の砲撃に赴くが、ロシア軍の反撃により林は戦死した。
1904年5月2日、第三回閉塞作戦総指揮官に任じられた林は「新発田丸」に乗船し指揮をとった
作戦目的は閉塞船12隻をもって旅順港を封鎖することにあり、参加人員には「新発田丸」
指揮官附・中村良三、「釜山丸」指揮官大角岑生、「愛国丸」指揮官犬塚太郎などが
含まれていた。5月3日午前零時、林は後続船が少ないことから反転し攻撃に向かったが、
舵機故障のため目的を達することはできずに終わる。第三次閉塞作戦で攻撃に向かった
八隻の乗員158名は、戦死、行方不明、負傷及びロシア軍の捕虜となったもの合計115名に及び、
無傷で生還した者は43名であった。海軍大佐
日高
 壮之丞

ひだか
 そうのじょう

  
    
嘉永元年3月 薩摩藩士・宮内清之進の次男。日高籐左衛門の養子となり家督を相続。
慶應義塾を経て明治3年(1870年)、海軍兵学校2期(海兵寮)。
少佐進級と共に明治19年、参謀本部海軍部第二局第一課長に補職され軍政面でも
頭角をあらわす。日清戦争で巡洋艦「橋立」艦長として戦功があり猛将として知られる
日露戦争の開戦をひかえて編成された連合艦隊司令長官には、当時、
常備艦隊司令長官であった
壮之丞が親補されるのが通例であったが、山本権兵衛海軍大臣は壮之丞を更迭し
舞鶴鎮守府司令長官だった東郷平八郎を推挙した。
明治29年(1896年) 任 海軍少将。
明治32年(1899年) 常備艦隊司令官
明治33年(1900年) 任 海軍中将。竹敷要港部司令官
明治35年(1902年) 常備艦隊司令長官
明治36年(1903年) 舞鶴鎮守府司令長官
明治41年(1908年) 任 海軍大将。待命
明治42年(1909年) 予備役
昭和7年(1932年) 死去 勲一等旭日大綬章
百武 三郎
ひゃくたけ さぶろう


 
    
明治5年4月佐賀藩士、百武庭蔵の三男として生まれる。
百武源吾は海軍大将、百武晴吉は陸軍中将。三郎・源吾は海軍史上
唯一組の海軍大将兄弟である
1892年、海軍兵学校(19期)を首席で卒業。少尉候補生として「松島」に乗り組み
日清戦争に従軍。
1894年に少尉任官。「八島」回航委員としてイギリス出張。1902年、
 海軍大学校(甲種3期)卒業。
その後、呉鎮守府参謀、「日進」水雷長を経て、第3艦隊参謀として日露戦争に従軍。
日本海海戦を戦った。第4艦隊参謀を経て、1905年からドイツ、オーストリアに駐在し、
「朝日」副長、軍務局員、「磐手」艦長、「伊勢」艤装員長、「榛名」艦長、第2艦隊参謀長・・
1917年、海軍少将。さらに、佐世保鎮守府参謀長、教育本部第2部長、第3戦隊司令官、
鎮海要港部司令官、舞鶴要港部司令官、練習艦隊司令官、佐世保鎮守府長官、
軍事参議官を経て、1928年、海軍大将となり、同年予備役編入。
第3戦隊司令官の時代に、源吾が艦長を務める「多摩」を指揮したことがある。
1936年から1944年まで侍従長として昭和天皇に仕え、辞職後は1946年まで枢密顧問官
1963年10月30日没
百武 源吾
ひゃくたけ げんご

 
    
1882年1月28日 - 1976年1月15日)  佐賀   海軍兵学校30期  
百武 三郎の弟で、ともに海軍大将となった日本海軍史上唯一の兄弟である。
佐賀藩の足軽・百武庭蔵の五男として生まれた。百武三郎は三男、
陸軍中将の弟・晴吉は六男である
明治36年9月より連合艦隊旗艦「三笠」乗組に任じられ、主砲着弾観測員を務めた。
翌年3月に「三笠」砲術長に加藤寛治少佐が着任し、8月10日の黄海海戦で
ヴィルヘルム・ウィトゲフト提督を爆死させた「運命の着弾」に貢献した。黄海海戦後の10月に
「韓崎丸」乗組となる。12月に「富士」航海士となり、日本海海戦に参戦した。
明治44年(1911年)には同甲種学生
大佐に昇進した百武は、大正10年に「多摩」艦長に任じられ、初めて艦長職に就いた。
大正14年12月1日 - 任海軍少将
昭和5年)12月1日 - 任海軍中将
昭和6年)10月10日 - 軍令部次長
昭和12年)4月1日 - 任
海軍大将
昭和17年)7月15日 - 予備役編入
広瀬勝比古
ひろせ かつひこ

 
    
文久2年8月 岡藩士・裁判所長、広瀬重武の長男として生まれる。
明治16年)10月、海軍兵学校(10期)を卒業し海軍少尉補となる。
明治22年)8月、海軍大尉に昇進し「日進」分隊長に就任。
明治26年)6月、「浪速」砲術長に転じ日清戦争に出征した。
明治30年)12月、海軍少佐に昇進し「高砂」砲術長に就任。呉鎮守府参謀を経て、
明治31年)10月、海軍中佐に進級。同年12月、軍令部第1局員兼西郷従道元帥副官に就任し、
明治36年)12月、「大島」艦長となり日露戦争に出征。旅順攻略作戦に参加。
明治37年)5月18日、「大島」は旅順沖で哨戒活動中、濃霧の中で砲艦「赤城」に
         衝突され沈没した。
明治38年)1月、「秋津洲」艦長に就任し、同月、海軍大佐に昇進。日本海海戦に参戦した。
明治39年)3月に休職した。同年9月から海軍大学校で選科学生として学んだ。
明治40年)10月、「富士」艦長に就任。「筑波」艦長を経て、1910年(明治43年)12月に待命。
明治44年)4月、海軍少将に進級し、同年12月、予備役編入。1920年10月20日没
平賀
 徳太郎
ひらが とくたろう    
1871年2月24日 - 1919年5月13日  広島県   海軍兵学校(18期)
日清戦争では「海門」航海士として出征した
明治33年)9月から1903年(明治36年)7月まで東宮武官を務めた
1903年7月、「出雲」砲術長心得となり、同年9月、海軍少佐に昇進し「出雲」砲術長に就任。
日露戦争に出征した
明治41年)12月から1912年(明治45年)5月まで、在米国大使館附武官としてワシントンD.C.に駐在。
明治44年)12月、海軍大佐に進級した
大正5年)12月、海軍少将に昇進した。
大正7年)7月、臨時教育会議委員に就任。同年11月に待命となり、1919年5月に現役で死去した。
藤田尚徳
ふじた ひさのり 
1880年10月30日 - 1970年7月23日  東京     海軍兵学校(29期) 
父は旧津軽藩士・藤田潜  砲術学校高等科を修了した砲術専攻の士官であった。
明治43年)12月1日 - 海軍大学校甲種学生
大正9年)12月1日 - 任大佐。防護巡洋艦「須磨」艦長
大正13年)12月1日 - 戦艦「霧島」艦長
昭和4年)11月30日 - 任中将。横須賀工廠長
昭和3年)12月10日 - 第三戦隊司令官
昭和11年4月1日 - 任海軍大将
昭和14年)4月5日 - 予備役編入
昭和18年)3月27日 - 明治神宮宮司
昭和19年)8月29日 - 侍従長拝命
舟越
 楫四郎
ふなこし かじしろう 
明治3年8月兵庫県出身。船越恭の四男として生まれる。
1890年(明治23年)4月、海軍兵学校(16期)を卒業し、翌年9月に海軍少尉に任官。
日清戦争に「橋立」分隊士として出征した
日露戦争には第二艦隊の副官として従軍した。
その後は海軍省人事局員、「香取」副長、「千早」「和泉」の各艦長、横須賀鎮守府付
「対馬」「橋立」「磐手」「八雲」「生駒」の各艦長、艦政本部艤装員、「榛名」艦長などを歴任し
1915年(大正4年)12月、海軍少将に進級した。イギリス大使館付武官、
イ、横須賀鎮守府参謀長、第1艦隊参謀長、兼連合艦隊参謀長などを経て、
1919年(大正8年)12月、海軍中将となり第二遣外艦隊司令官、将官会議議員、
横須賀工廠長などを歴任、1922年(大正11年)12月、予備役に編入された。
舟木
 錬太郎
ふなき れんたろう 
1856年2月11日(安政3年1月6日) - 1923年(大正12年)10月20日  石川県
明治4年)8月2日 - 海軍兵学寮
明治8年)6月9日 - イギリス留学
明治13年)6月 - イギリス海軍大学校卒業
明治33年12月6日 - 免 横須賀海兵団長、補 富士艦長
明治34年)10月1日 - 免 富士艦長、待命
明治35年)5月28日 - 任 海軍少将、予備役
古川
 鈊三郎
ふるかわ
しんざぶろう
 
明治5年10月 福井県出身。1894年(明治27年)11月、海軍兵学校(21期)を卒業し、
少尉候補生として「橋立」に乗り組み日清戦争に従軍。
明治28年)12月に海軍少尉任官。砲術練習所で学んだ。
明治32年)9月、「摩耶」分隊長となり、「千歳」分隊長、「大和」航海長、海兵幹事、
明治37年)4月、佐世保鎮守府参謀兼副官として日露戦争を迎えた。
明治38年)1月、海軍少佐に昇進。同年2月、元山防備隊参謀に就任し、第1艦隊参謀、
明治40年)1月、海軍省副官兼海相秘書官に就任し斎藤実大臣に仕えた。
明治41年)7月、「壱岐」砲術長兼海軍砲術学校教官となり、
明治42年)10月、海軍中佐に進級し「壱岐」副長兼砲術学校教官に就任。
大正3年)12月、海軍大佐に昇進し「笠置」艦長に着任。
大正4年)7月、軍務局員となり、軍務局第1課長兼第2課長、第3艦隊参謀長などを歴任し、
大正8年)6月、海軍少将に進級し横須賀鎮守府参謀長に就任。
大正12年)12月、海軍中将に進んだ。大正13年)4月、練習艦隊司令官となり、
軍令部出仕、舞鶴要港部司令官、佐世保鎮守府司令長官、軍令部出仕を経て、
昭和4年)3月、待命そして予備役に編入された。
藤井 較一
ふじい こういち

  
 
安政5年8月 岡山藩士・藤井広の長男として生まれる。
明治13年(1880年)12月、海軍兵学校(7期生)を卒業し少尉補、
防護巡洋艦「須磨」「秋津洲」の各艦長、台湾総督府海軍参謀、ドイツ公使館付、
明治36年(1903年)10月に「吾妻」艦長に着任し、日露戦争を迎えた。
その後、連合艦隊及び第一艦隊参謀長に転任した加藤友三郎に替り第二艦隊参謀長となり
吾妻艦長を村上格一に引き継ぎ艦隊旗艦出雲へ。日本海海戦前、バルチック艦隊の
最終航路にについて問題となった際、藤井は連合艦隊司令部に対してバルチック艦隊の
対馬海峡来航を主張。翌日に行われた連合艦隊の幹部会議で鎮海残留を強く主張
明治38年(1905年)11月、海軍少将に進級、その後、第1艦隊参謀長、横須賀鎮守府参謀長、
第1艦隊司令官、佐世保工廠長、軍令部次長、佐世保鎮守府長官、第1艦隊長官、
横須賀鎮守府長官を歴任。大正5年(1916年)12月に海軍大将、軍事参議官となり、
同8年(1919年)11月に待命、翌年8月、予備役に編入された。
細谷 資氏
ほそや すけうじて 
1858年2月12日(安政4年12月29日) - 1944年1月2日  海軍兵学校5期
武蔵国豊島郡江戸八代洲河岸で生まれる。
仁川沖海戦開戦時における第三艦隊第七戦隊司令官 海軍少将
海軍砲術学校砲術練習所長。
千歳 (防護巡洋艦)、厳島 (防護巡洋艦)、平遠 (装甲巡洋艦)、
浅間 (装甲巡洋艦)等の艦長歴任
堀 悌吉
ほり ていきち

    
1883年(明治16年)8月16日 - 1959年5月12日) 大分県  海軍兵学校(32期)
同期生の山本五十六、2期後輩(34期)の古賀峯一は遠慮のない親友の間柄であった。
海軍大学校甲種、海軍砲術学校普通科学生を恩賜で卒業した。
「三笠」乗組として日本海海戦に参戦。
大正7年11月26日 - 海軍大学校甲種卒業
大正8年)12月1日 - 任海軍中佐
大正12年12月1日 - 任海軍大佐・軽巡洋艦「五十鈴」艦長
昭和3年)12月10日 - 任海軍少将・第2艦隊参謀長
昭和8年)1月15日 - 任海軍中将・軍令部出仕
昭和9年12月15日 - 予備役編入
正木 義太
まさき よしもと

  
  
明治4年10月 広島県佐伯郡玖波村出身、     海軍兵学校(21期)
少尉候補生として「大和」に乗り組み日清戦争に出征。明治28年)12月に海軍少尉
明治37年)1月、「高砂」砲術長に発令され日露戦争に出征。同年2月から3月にかけて
旅順港閉塞作戦に第一回閉塞隊武揚丸、第二回閉塞隊米山丸指揮官として参加。
明治39年)1月から海軍大学校で選科学生として学び、
   同年4月、砲術練習所教官兼分隊長に着任。
明治42年)10月、海軍中佐に進級。同年12月、「薩摩」砲術長に就任し、
第一次世界大戦に出征し青島の戦いに参戦。
同年12月、海軍大佐に昇進し「橋立」艦長に就任。
1920年(大正9年)12月、海軍少将に進級し呉鎮守府参謀長に就任。
大正13年)12月、海軍中将に進んだ。12月予備役に編入された。
増田 高頼
ますだ たかより  
1868年7月24日 - 1929年2月19日    海軍兵学校(18期) 
佐賀県出身。肥前唐津藩の国家老、増田卓爾の次男として生まれる。
明治37年、海軍少佐に昇進。日露戦争の日本海海戦時には、大本営海軍部作戦班参謀
(軍令部参謀)を務める。
日露戦争終結後は、磐手、朝日の砲術長、武蔵の副長を経て、
在清国公使館附武官を命ぜられ、
明治41年(1908年)、海軍中佐に昇進後、明治43年(1912年)帰朝し第三艦隊参謀に着任。
大正3年(1914年)、海軍大佐に昇進後は、厳島、日進、朝日、安芸の艦長を歴任。
大正7年(1918年)、台湾総督府海軍参謀長に就任する。
大正8年(1919年)に海軍少将へ昇進し、同年、予備役へ退いた。
 
松本 和
まつもと かず

 
  
安政7年2月 幕府御家人松本十右衛門の次男として生まれる
明治7年(1874年)10月20日、海軍を志して海兵寮に入る。6年にわたり勉学に励み、
明治13年(1880年)12月、海軍兵学校7期を30名中27位で卒業。
明治19年(1886年)12月、大尉へ昇進。日清戦争が勃発した。松本は運輸通信を担当。
陸軍の部隊輸送や物資の洋上輸送計画を立案し、成功させた。
戦功を受けて少佐に昇進したのち、
明治30年(1897年)12月、中佐へ昇進。軍務局で1年半過ごし、
明治32年(1899年)6月より「八重山」艦長に転じる。この3ヶ月後に大佐へ昇進。
明治36年(1903年)9月より戦艦「富士」艦長となった。日露戦争の全期間、「富士」を操り続け、
黄海海戦・日本海海戦では、他の3戦艦より一世代古い「富士」で敢闘した。
戦後の明治38年(1905年)11月、少将へ昇進し、水路部長となる。
明治39年11月より横須賀工廠長に転じる。主力艦の竣工に期待していた。
艦政本部長になって海軍のすべての艦艇を統括できるとあって、
明治41年8月28日、松本は嬉々として着任した。 
翌年9月に海軍中将へ昇進する。六六艦隊計画の実行に着手した。
大正2年12月、松本は5年半務めた艦政本部長を降りて呉鎮守府司令長官に転じた。
しかし、呉鎮守府長官に着任した翌月、遂にシーメンス事件が発覚した。
シーメンス事件
ドイツのシーメンスによる日本海軍高官への贈賄事件である。ヴィッカースへの巡洋戦艦
「金剛」発注にまつわる贈賄も絡んで、当時の政界を巻き込む一大疑獄事件に発展した。
大正3年(1914年)3月25日に松本は呉鎮守府長官を罷免され、三井物産経由で渡された
40万円の賄賂についての尋問が軍法会議で始まった。
大正3年(1914年)5月15日、松本は懲役3年・追徴金40万9800円の実刑判決を下された。
松本はそのまま投獄され、すべての特権を剥奪された。
刑期を終えた後から亡くなるまでの松本の後半生はほぼ完全に不明である。
軍人としての栄典も没収され、水交社の名簿からも抹消された。
松下 元
まつした はじめ
  
  
1884年8月10日 - 1953年12月1日   福岡県   海軍兵学校(31期)
日露戦争では「松島」乗組として出征し、日本海海戦では「八雲」乗組であった。
1914年5月、海軍大学校(甲種12期)を卒業した。
1921年1月、海相秘書官兼副官となり、加藤友三郎大臣に仕えた
1927年12月、海軍少将に進級。人事局長、第3戦隊司令官を経て、
海兵校長となり「五省」を発案した
1932年12月、海軍中将となり、練習艦隊司令官、舞鶴要港部司令官となり、
臨時編成された第四艦隊の司令長官在職中第四艦隊事件が発生した。
その後佐世保鎮守府司令長官などを歴任し、1937年3月、予備役に編入された。
松山 茂
まつやま しげる

  
  
明治14年7月14日 - 昭和12年12月29日)    海軍兵学校30期
長崎県旧平戸藩士・松山雲八の五男。
日露戦争をそのまま「磐手」のクルーとして経験し、蔚山沖海戦・日本海海戦に参加。
明治42年(1909年)5月に海軍大学校乙種へ進学
1913年)12月、少佐に昇進すると同時に、再び大学校甲種に入学し、2年間在籍した。
大正15年(1926年)12月、少将昇進と同時に第2艦隊参謀長となり、吉川安平長官を補佐した。
1930年)12月、最後の海上勤務となる第5戦隊司令官に就き、「青葉」と「加古」を統率した。
昭和6年(1931年)10月10日、航空本部長に着任し、2ヶ月後に海軍中将へ昇進する。
昭和8年(1933年)11月に軍令部次長へ栄転する。しかし発病のため在任僅か2ヶ月で辞職し、
1935年)12月14日をもって予備役編入、海軍を去った。
松平 保男
まつだいら もりお

  
  
1878年12月6日 - 1944年1月19日  海軍兵学校(28期)     
旧会津藩主・松平容保の七男
明治35年)1月、海軍少尉に任官し横須賀水雷団第1水雷艇隊付となり、日露戦争に出征
明治38年)1月、海軍大尉に昇進し「鎮遠」分隊長として日本海海戦に参戦した。
兵科将校としての専門は砲術で砲術長や海軍砲術学校教官などを務め、
明治43年)12月少佐、(大正5年)12月中佐へ進級。
大正9年)12月大佐に進級。戦艦「伊吹」艦長、兼「摂津」艦長、横須賀海兵団長を歴任。
大正14年)12月1日、海軍少将に昇進し、同月15日、予備役に編入された。
松村 菊勇
まつむら きくお
  
   
1874年10月23日 - 1941年4月4日   佐賀県  海軍兵学校(23期)
日露戦争には第1艦隊参謀として参戦したが、緒戦の旅順口攻撃において負傷し後送される。
その後復帰して大本営付から「笠置」砲術長になり、日本海海戦に参戦した。
1907年12月、海軍大学校(甲種5期)
1920年12月、海軍少将に進級
第2艦隊参謀長、海軍教育本部第1部長、軍令部出仕、第5戦隊司令官、鎮海要港部司令官
1924年12月、海軍中将
925年11月、待命となり翌月に予備役編入
1925年12月、石川島造船会社に入社、同常務、専務を経て、1933年4月から1941年1月まで社長
松村 龍雄
まつむら たつお
  
   
1868年2月25日(慶応4年2月3日) - 1932年7月18日  佐賀県  海軍兵学校(14期)
海軍大学校では、丙種、航海科、将校科(1期)で学び、1897年12月、将校科甲種(1期)を首席
日露戦争には「吾妻」副長として出征し、日本海海戦では「三笠」副長として参戦した。
1912年12月、海軍少将に進級、海軍教育本部第1部長、第2南遣枝隊司令官などを歴任
第一次世界大戦では臨時南洋群島防備隊司令官となった。
さらに、第1戦隊司令官、練習艦隊司令官、第1水雷戦隊司令官などを経て、
1916年12月に海軍中将となった。馬公要港部司令官、将官会議議員、
旅順要港部司令官などを経て、
1922年4月、予備役に編入
三浦 功
みうら いさお

 
   
嘉永3年5月 幕臣三浦彦五郎の長男として生まれ、戊辰戦争では榎本武揚率いる
旧幕府艦隊の一員として宮古湾海戦を戦う。
明治維新の後、「金剛」副長として西南戦争に従軍、北清事変に功績を挙げる
「山城丸」艦長として日清戦争に出征し、旅順口海軍根拠地知港事となるが、三国干渉の
結果旅順は清国へ返還となった。。「富士」は「八島」とともに日本海軍にとって
最初の戦艦であり日本海海戦における主力艦である。運用の神様の異名があった三浦は
特にこの任に就いたのである
副長斎藤實少佐が外交交渉などの補佐にあたり、スエズ運河を通過し帰国した。
日露戦争では戦時艦隊集合地港務部長、艦隊附属港務部長として、掃海などに従事。
連合艦隊などの安全確保に努め、戦後は旅順口港務部長として同港の整備を行った。
この際引き揚げた艦船は340隻におよぶ。
「三浦以前に三浦なく、三浦以後に三浦なし」と言われた卓抜した技量の持ち主であった
明治19年)7月 - 海軍大佐
明治22年)4月 - 比叡艦長
明治31年5月 海軍少将、呉鎮守府兵器部長
明治37年)4月 - 戦時艦隊集合地港務部長
明治38年9月 - 海軍中将
明治40年)2月14日 - 予備役
三須
 宗太郎
みす そうたろう   
安政2年8月6日 - 大正10年12月24日  滋賀県   海軍兵学校(5期)扱い
彦根藩士三須熊次郎の長男として生まれた。
明治18年(1885年)9月、三須は最新鋭巡洋艦「浪速」分隊長
日清戦争が起きて、勝利に必要な人員の配置、黄海海戦での戦死者の埋葬や補償の処理、
補充人員の手配、終戦後の人員削減といった人事上欠かせない事務処理をこなす毎日が続く。
日露戦争直前にも人事責任者として海軍省に召集されることになる。この人事課長の
任期中に大佐へ昇進。明治30年、ようやく4年ものデスクワークを終え、久々に「須磨」艦長
として海上に戻った。
明治34年(1901年)7月、三須は少将に昇進すると同時に、人事局長に任じられた。
明治38年1月の小改正で、三須は中将に昇進するとともに東郷直轄の第1戦隊司令官に
転任し、日本海海戦に参戦した。この時、三須は第1戦隊のしんがりを務める「日進」に同乗した。
海戦序盤、「日進」は旗艦「三笠」に次ぐおびただしい敵弾を浴びた。戦隊司令部員・
「日進」幹部の多数が戦死した。三須も間近に着弾した弾丸の破片を浴びて左目を失明した。
この負傷を機に、「海軍の独眼竜」と三須は呼ばれて賞賛された。
明治44年(1911年)1月、最後の任務となる舞鶴鎮守府司令長官に任じられた。
大正2年(1913年)9月海軍大将昇進、翌年12月1日に予備役編入されて引退した。
向山 慎吉
むこうやま しんきち   
安政3年9月 幕臣一色半左衛門の三男として生まれ、幕臣向山黄村の養子となる。
1878年7月、海軍兵学校(5期)を卒業し、1881年1月、海軍少尉任官。
「筑波」分隊長、「高千穂」回航委員、同砲術長、佐世保鎮守府建設委員などを経て、
海軍大学校で乙号学生として学んだ。「海門」副長、海軍参謀部第1課員などを歴任し、
日清戦争では「松島」副長として出征し、「龍田」艦長となった。
さらに、「筑紫」艦長、「大和」艦長、「高雄」艦長、「秋津洲」艦長、イギリス公使館付、
「浅間」艦長、「敷島」艦長、横須賀鎮守府参謀長などを経て、1902年5月、海軍少将に進級
日露戦争時は舞鶴工廠長、佐世保工廠長であった。
1905年11月、海軍中将となり、竹敷要港部司令官を勤め、1910年12月、休職となり死去した。
村上 格一
むらかみ かくいち

  
   
文久2年11月 佐賀藩士、村上有竹の長男。栃木県医学校予科を卒業
明治17年に海軍兵学校を26人中次席で卒業(11期生)。同期で大将昇進を果たしたのは
村上のみで中将4名、少将9名を輩出する。防護巡洋艦「吉野」水雷長となり日清戦争に参戦
明治28年3月から3ヶ月間、西郷従道海軍大臣秘書官兼副官を経て、同30年にフランスへ留学
明治36年(1903年)に巡洋艦「千代田」艦長となり、日露戦争開戦直前に仁川港に入港、
日本海海戦では装甲巡洋艦「吾妻」艦長として参戦し、第二艦隊司令部の独断に従って
敵艦隊の撃滅に成功している。その後、明治41年(1908年)に少将へ昇進。
大正元年、中将・呉工廠長となるが、シーメンス事件が発覚し、村上の疑惑を確認するため、
秋山真之が派遣された。渡された通帳を開くことなく号泣し、非礼を詫びた。
大正4年(1915年)12月に、外戦用の第3艦隊が新編され、村上は初代司令長官に就任する。
大正7年(1918年7月2日海軍大将へ昇進、呉鎮守府長官、軍事参議官となり、
大正13年財部彪前海軍大臣から後継に指名され、清浦内閣の海軍大臣に就任する。
昭和2年(1927年)11月15日に65歳で死去。

森山
 慶三郎
もりやま
けいざぶろう

  
    
1870年7月18日 - 1944年5月24日)  
佐賀藩士・森山武光の二男として生れる。海軍兵学校(17期)
1892年5月、海軍少尉任官。日清戦争では「高千穂」乗組として出征した。
日露戦争では第2艦隊参謀として出征した。
1914年12月、海軍少将に進級した
第2戦隊司令官、軍令部参謀(第4班長)、同第3班長、第1戦隊司令官などを経て、
1918年12月、海軍中将となった。以後、大湊要港部司令官、呉工廠長、将官会議議員を経て
1923年4月、予備役に編入
餅原 平二
もちはら へいじ    
嘉永4年12月 鹿児島県出身 明治4年(1871年)10月、兵部省に出仕。
明治7年)9月、海軍少尉補に任官し、1878年(明治11年)12月、海軍少尉となる。
明治22年)6月、海軍少佐に昇進。1892年(明治25年)11月、海軍兵学校水雷術教官となり、
明治27年)7月、常備艦隊水雷艇隊司令に発令され、日清戦争に出征。
明治29年)10月、海軍大佐に昇進し横須賀水雷団長に就任。
明治30年)12月、海軍水雷術練習所長に就任。兼横須賀水雷団長、佐世保水雷団長、
明治36年)7月、海軍少将に進み舞鶴港務部長兼舞鶴予備艦部長となった。
明治37年)1月、鎮海防備隊司令官となり日露戦争を迎えた。翌年12月、大湊要港部司令官に就任。
明治40年)3月、海軍中将となり海軍将官会議議員に就任。同年5月8日に待命となる
同年10月31日、予備役に編入された
森田 登
もりた みのる    
1882年10月8日 - 1942年年8月30日   兵庫県出身   海軍兵学校(30期)
同期に百武源吾、今村信次郎、松山茂らがいる
兵学校卒業後「八島を経て、「橋立」乗組み中尉として日本海海戦に参戦。
第二艦隊参謀、海軍大学校乙種学生となる。次いで海軍砲術学校高等科学生に進み首席
海軍大学校甲種学生(12期)首席で卒業、大正10年)12月1日大佐へ昇進
利根」及び「名取」艦長を務めた。大正15年)12月1日海軍少将へ昇進
昭和2年)4月10日予備役編入
森 又七郎
      
嘉永2年2月 本籍東京府 明治3年9月8日)、海軍兵学寮(1期)に入る。明治6年11月、
海軍少尉補に任官し「乾行」乗組海兵寮出勤となる。1874年(明治7年)10月、海軍少尉任官。
明治9年)2月、「龍驤」乗組となり西南戦争に参加。1885年(明治18年)6月、海軍少佐に昇進。
明治20年)3月、「春日」艦長に就任。1889年(明治22年)4月、「筑紫」艦長心得となり、
同年8月、海軍大佐に進級し「筑紫」艦長に就任。明治23年)5月、「迅鯨」艦長に転じ、
「比叡」艦長(豪州回航)、横須賀鎮守府海兵団長、「迅鯨」艦長、水雷術練習所長を歴任。
明治27年)7月、「山城丸」艦長に就任し日清戦争に出征。さらに「近江丸」艦長、
呉知港事を務める。
明治28年)7月、呉鎮守府予備艦部長兼呉知港事となり、呉水雷団長、
兼呉鎮守府軍港部長を歴任
明治31年)8月に待命となり、同月、海軍少将に進み予備役編入
山路 一善
やまじ かずよし

  
    
明治2年3月 松山藩士・山路一審の三男として生まれる。 海軍兵学校(17期)
少尉任官後、日清戦争には「千代田」航海士として参加
日露戦争開戦時は連合艦隊第一艦隊第二戦隊参謀(少佐)。
日本海海戦には第一艦隊第三戦隊参謀として参加(中佐)。
第一次世界大戦は第三特務艦隊司令官(少将)。
イギリス政府の要請により、ドイツの通商破壊活動への海上護衛任務のために
軽巡洋艦「筑摩」「平戸」を率いてオーストラリア・ニュージーランド方面に出撃。
シドニーを拠点に海上護衛任務を行う。
1923年(大正12年)3月31日、予備役
最終階級は
海軍中将
1963年3月13日(満93歳没)
山内 四郎
 
明治5年3月 福岡県出身。明治27年)11月、海軍兵学校(21期)を卒業し、少尉候補生
「八重山」に乗り組み日清戦争に従軍。
明治28年)12月に海軍少尉任官。水雷術練習所で学んだ。
明治32年)9月、「常磐」分隊長となり、「夕霧」乗組、佐世保水雷団第1水雷艇隊艇長、
明治36年)11月、「松島」水雷長に就任し日露戦争に。「曙」艦長として日本海海戦に参加
明治38年8月、海軍少佐に昇進。
明治39年1月、南清艦隊参謀に就任し、馬公要港部副官兼参謀、
明治43年)3月、海軍中佐に進級し第1艦隊副官となる。
横須賀鎮守府付を歴任。「若宮丸」乗組となり、青島の戦いに参加した。
山内は「若宮丸」に搭載された水上機部隊の責任者であり、金子養三、和田秀穂らを従え
日本で最初の航空作戦を指揮したのである。
大正3年)12月、海軍大佐に昇進し横須賀鎮守府付となる。
大正4年)6月、「若宮」(「若宮丸」から改名)艦長となり、横須賀鎮守府付・欧米各国出張、
大正8年)12月、海軍少将に進級し二度目の横須賀航空隊司令に就任。
大正9年)11月、艦政本部第6部長に発令され、同第2部長、馬公要港部司令官を歴任し、
大正12年)11月6日、待命となる。同月10日に死去し、海軍中将に進んだ。
山本
 安次郎

 
  
文久1年9月 本籍静岡県。幕臣出身で、明治9年)1月海軍兵学寮に機関科生徒として入校
明治12年8月、海軍機関士副に任じられた。機関士副は当時の准士官で、兵科の少尉補に
明治15年に海軍武官制度の改正が行われ、機関科、主計科に将校相当官が設けられた
海軍機関士補となる。同年中に少機関士(少尉相当)に進級した。「浪速」回航委員、
海兵機関学教授などを歴任。日清戦争では「西京丸」機関長として黄海海戦に参戦。
兵科以外の機関、主計、軍医の三科のうち機関科の長で、司令部を構成する重職である。
連合艦隊旗艦「三笠」に乗艦し、黄海海戦、日本海海戦に参戦。
日本海軍は日清戦争において世界で最初となる機走軍艦による戦闘を経験し、
機関科の地位は徐々に高まっていた。日露戦争においては旅順港閉塞作戦実施要員に
機関科員から大量の志願者を出し、実際に作戦行動に従事。
明治39年)に機関総監は機関中将と機関少将に改められ、 
山本は機関少将となった。明治43年9月 - 機関中将
明治44年)12月 - 予備役編入
八角 三郎
やすみ

  
  
1880年12月19日 - 1965年1月20日  岩手県   海軍兵学校(29期)
日露戦争は第一駆逐隊所属の駆逐艦「吹雪」乗組み中尉として日本海海戦に参戦。
海軍水雷学校校長、第二水雷戦隊司令官を務めた水雷の権威である。
明治43年12月1日- 海軍大学校甲種第10期学生
大正5年)12月1日- 任 海軍中佐
大正9年)12月1日- 任 海軍大佐
(大正11年)5月30日- 戦艦「三笠」艦長
大正14年)12月1日- 任 海軍少将・第1水雷戦隊司令官
昭和5年)12月1日- 任 海軍中将 昭和6年3月31日- 予備役編入
昭和7年)2月22日- 衆議院議員
昭和20年)4月26日- 鈴木内閣顧問
山岡 豊一
  
1869年1月17日 - 1926年7月21日 鳥取県    海軍兵学校17期
日露戦争では富士砲術長。1905年イギリスに出張。1910年「千早」兼「対馬」艦長となり、
1911年に東宮武官、同年大佐。
その後「千代田」「矢矧」「扶桑」各艦長などを経て、1917年に少将。同年第7戦隊(1918年遣支艦隊、
1919年第一遣外艦隊に改組)司令官に就任し、中国揚子江流域の要地(南京・上海・重慶・漢口等)
の警備に当った。
1919年、将官会議議員に転じ、同年第4戦隊司令官。1921年海軍中将、1923年予備役。
山下 奉表
やました ともよし  
1882年(明治15年)4月1日 - 1932年4月8日) 高知県  海軍軍医学校
「秋津洲」乗組となり、日露戦争に出征。日本海海戦などに参戦した。
その後、「高千穂」「松島」「日進」の各乗組などを歴任。
明治42年)12月、舞鶴海軍病院付となり、鎮海防備隊軍医長兼臨時建築部支部員などを経て、
(明治45年)5月から一年間、海軍軍医学校で甲種学生として学んだ。
大正3年)12月、海軍軍医少監に昇進した。呉海軍病院第二部長、舞鶴要港病院長などを歴任。
昭和3年)12月、海軍軍医少将に進み軍令部出仕となる。同年12月に待命となり予備役に編入
昭和7年)4月、50歳で死去した。
 
山中 柴吉
やまなか しばきち  
1870年3月7日 - 1941年6月21日  山口県    海軍兵学校(15期)
明治25年)12月から一年間、海軍大学校で丙号学生として学ぶ。
横須賀水雷隊敷設部分隊長、
明治31年)5月、海大(将校科3期)を卒業した。
明治32年)9月、海軍少佐に昇進し「八島」砲術長に就任。以後、「敷島」砲術長、兼
佐世保鎮守府艦隊参謀、海大副官などを歴任。
明治37年)1月、「対馬」副長兼呉工廠艤装委員となり日露戦争に出征。
明治38年)2月、海軍中佐に進級し第3艦隊参謀に転じ、日本海海戦などに参戦した。
同年6月第2艦隊参謀へ異動。
明治41年)9月、海軍大佐に昇進し「千代田」艦長となった。
大正3年)12月、海軍少将に進級し第1艦隊参謀長に就任した。
大正7年)12月、海軍中将に進んだ。1921年(大正10年)9月、将官会議議員に就任。
大正11年)9月、予備役編入
山内 四郎
   
1872年4月12日(明治5年) - 1923年11月10日  福岡県  海軍兵学校(21期)
少尉候補生として「八重山」に乗り組み日清戦争に従軍。
明治36年)11月、「松島」水雷長に就任し日露戦争に出征。「曙」艦長として日本海海戦に参加。
明治38年)8月、海軍少佐に昇進、明治43年)3月、海軍中佐に進級し第1艦隊副官となる。
大正3年)12月、海軍大佐に昇進し横須賀鎮守府付となる。
大正8年)12月、海軍少将に進級し二度目の横須賀航空隊司令に就任。
大正12年)11月6日、待命となる。同月10日に死去し、海軍中将に進んだ。
山内 豊中
やまうち とよなか   
1885年5月30日 - 1952年10月30日)   高知    海軍兵学校(32期)
土佐藩主・山内豊範の四男として高知城下鷹匠町(現在の高知市)で生まれる。
日露戦争に「韓崎丸」乗組として出征。さらに「秋津洲」乗組となった。
明治38年)8月、海軍少尉任官。海軍大学校乙種、海軍水雷学校高等科で学び
大正6年)11月、海大(甲種15期)を卒業した。
大正13年)12月、海軍大佐に進級
第3駆逐隊司令、「神通」艦長、横須賀鎮守府付、イギリス私費留学などを経て、
1927年(昭和2年)12月、侍従武官に着任した。
昭和5年)12月、海軍少将に昇進。1932年(昭和7年)6月、馬公要港部司令官に就任し、
昭和9年)3月、待命となり予備役に編入
山下
 源太郎
やました
げんたろう

  
   
文久3年7月 山形県米沢市出身。米沢藩厩方(上士階級)山下新右衛門の次男。
明治12年海軍兵学校に入校。明治15年(1882年)「龍驤」に乗り込み遠洋航海に参加した。
翌年海軍兵学校を4位の成績で卒業(10期)。同期に首席の加藤定吉大将、
17位の名和又八郎大将がいる。
明治30年(1897年)12月1日 - 任海軍少佐
明治36年(1903年)9月26日 - 任海軍大佐
「磐手」艦長、第一艦隊参謀長
明治41年(1908年)8月28日 - 任海軍少将
10月8日 - 連合艦隊参謀長
大正6年(1917年)12月1日 - 第一艦隊司令長官(~1919年12月1日)。
大正7年(1918年) 7月2日 - 任海軍大将
       9月1日 - 連合艦隊司令長官(~10月15日
大正8年(1919年)6月1日 - 連合艦隊司令長官再任(~10月28日)。
大正9年1920年)12月1日 - 海軍軍令部長
昭和3年(1928年) 7月1日 - 後備役編入
昭和6年(1931年)2月18日 - 死去
山本
信次郎

     
明治10年)12月22日 - 昭和17年)2月28日  神奈川県   海軍兵学校(26期)
海軍士官として日露戦争に参戦し、日本海海戦には旗艦「三笠」分隊長として参戦。
秋山真之とニコライ・ネボガトフ少将の降伏交渉ではフランス語で通訳した
明治42年)、海軍大学校を卒業し、東郷平八郎附属副官、イタリア大使館付武官などを歴任
大正8年から昭和12年まで東宮御学問所御用掛として当時、
皇太子であった昭和天皇に仕え、大正10年)、ヨーロッパ5カ国訪問に付き添い、
ローマ教皇ベネディクトゥス15世との会見実現に尽力 最終階級は海軍少将
山本
 五十六
 やまもと いそろく

 
 
大勲位
 菊花大綬章

 元帥陸軍大将
明治17年)4月 旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる
明治34年)に海軍兵学校32期に200名中2番で入校
同期生に塩沢幸一、吉田善吾、嶋田繁太郎、堀悌吉などがいる
明治37年)11月、海軍兵学校を192名中11番で卒業
明治38年1月に少尉候補生のまま装甲巡洋艦「日進」配属となり、5月27日の
日本海海戦に参加この海戦において、左手の人差指と中指を欠損、左大腿部に重傷を負う。
その後防護巡洋艦「須磨」に5ヶ月、戦艦「鹿島」に5ヶ月、海防艦「見島」に4ヶ月、
駆逐艦「陽炎」に4ヶ月と、各艦に勤務する。艦の勤務と並行して、海軍砲術学校普通科学生と
して16ヶ月間、海軍水雷学校普通科学生として4ヶ月の教育を受けた
明治42年)にアメリカに駐在、1911年(明治44年)に海軍大学校乙種学生を卒業すると
大正2年)、両親が死去。夏季休暇を利用して母を看病している。
同年12月、海軍大学校に入学する
大正4年)、牧野忠篤子爵の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続する
大正5年)12月、海軍大学校を卒業
大正8年)4月5日にアメリカに駐在を拝命、ハーバード大学に留学した(~1921年5月5日)。
大正8年12月1日 - 任海軍中佐
大正12年12月1日 - 任海軍大佐
昭和3年8月20日 - 軽巡洋艦五十鈴艦長 12月10日 - 航空母艦赤城艦長
昭和4年11月12日 -ロンドン軍縮会議に海軍側専門委員として参加、
    11月30日 - 任海軍少将
昭和8年)10月3日 - 第一航空戦隊司令官
昭和9年9月7日 - ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表に任ぜらる。
昭和9年11月15日 - 任海軍中将昭和10年12月2日 - 海軍航空本部長に就任。
(昭和11年)12月1日 - 永野修身海相に引き抜かれ海軍次官に抜擢される。
昭和14年)8月30日 - 連合艦隊司令長官(第一艦隊司令長官兼任)に親補される
昭和15年)11月15日 - 任海軍大将 以下昭和期参照
山本英輔
やまもと えいすけ

  
   
明治9年)5月 。鹿児島県出身。山本権兵衛元内閣総理大臣の甥にあたり
「封じ袴の大将」と呼ば海軍兵学校第24期、海軍大学校第5期卒業。同期に
大角岑生大将がいる。日露戦争には第2艦隊参謀として参戦しており、日本海海戦などを
明治42年)には、上司の山屋他人軍令部第二班長に「飛行器」の研究・採用を主張する
意見書を提出しており、日本海軍で航空戦力の将来性に注目した最初の人物である。
大正4年) - 任 海軍大佐
大正7年)7月5日 - 戦艦三笠艦長
大正9年)12月1日 - 任 海軍少将
大正13年)12月- 任 海軍中将、第5戦隊司令官
山本はドイツ駐在武官や海軍大学校校長、練習艦隊司令官等を経て、
昭和2年)4月5日に新設された海軍航空本部の初代本部長に就任した。
昭和4年)11月11日 - 連合艦隊司令長官 兼 第1艦隊司令長官
昭和6年4月1日 - 任 海軍大将
昭和7年2月2日 - 横須賀鎮守府司令長官
昭和11年3月30日 - 予備役 1962年7月27日没
山田 彦八


  
   
安政2年2月 鹿児島県出身。山田有庸の息子(母は大久保利通の妹・スマ)として生まれる。
明治11年)7月、海軍兵学校(5期)を卒業
明治24年)12月、海軍少佐に昇進
明治28年)12月、「天城」艦長に就任。「天龍」艦長、呉海兵団長心得を経て、
1897年(明治30年)6月、海軍大佐に進級し呉海兵団長となった。
明治36年)11月、「朝日」艦長に発令され日露戦争に出征。明治37年)6月、海軍少将に進み
第3艦隊司令官に就任し日本海海戦に参加した。
明治38年)12月、第1艦隊司令官に異動し、佐世保水雷団長、呉水雷団長を経て、
明治41年)8月、海軍中将に進み第1艦隊司令官を勤めた。以後、竹敷要港部司令官、
旅順鎮守府司令長官、横須賀鎮守府司令長官、海軍将官会議議員を歴任。
1942年1月28日(満86歳没)
山梨
 勝之進
 


 
   
明治10年)7月 宮城県宮城郡仙台出身。旧仙台藩士の長男として生まれる
海軍兵学校(25期)に進んだ。席次は入校時36名中5番、卒業時は32名中2番の恩賜である。
海軍大臣・財部彪に鹿児島優遇人事をやめるよう進言している
明治38年)8月5日- 2等巡洋艦「千歳(初代)」航海長
明治40年)12月17日- 海軍大学校卒業 卒業時成績順位16名中次席
明治41年)2月20日- 海軍省副官心得兼海軍大臣秘書官  9月25日- 任 海軍少佐
大正元年)12月1日- 任 海軍中佐
大正5年12月1日- 任 海軍大佐
大正6年)12月1日- 戦艦「香取」艦長
大正10年12月1日- 任 海軍少将
大正14年)4月15日- 横須賀海軍工廠長
    12月1日- 任 海軍中将
昭和3年)12月10日- 海軍次官 昭和5年)12月1日- 佐世保鎮守府司令長官に親補される
昭和6年)12月1日- 呉鎮守府司令長官に親補される
昭和7年)4月1日- 海軍大将に親任される 昭和8年3月11日- 予備役編入
昭和42年)10月23日- 死去 享年90
山屋 他人
やまや たにん

 
 
慶応2年3月 盛岡藩士山屋勝寿、ヤスの長男として生まれる。
1886年海軍兵学校卒業(12期)。
明治24年)12月14日 - 任海軍大尉。防護巡洋艦「厳島」分隊長
明治28年)2月20日 - 防護巡洋艦「高千穂」水雷長
明治29年)4月6日 - 海大学生明治30年)12月1日 - 任海軍少佐
明治32年)9月29日 - 任海軍中佐
明治36年)10月12日 - 防護巡洋艦「秋津洲」艦長
明治38年)1月12日 - 任海軍大佐。防護巡洋艦「笠置」艦長
日露戦争時に秋山真之がとったT字戦法の元となる円戦法を発案した。
6月14日 - 第四艦隊参謀長2月20日 - 第二艦隊参謀長
明治42年)12月1日 - 任海軍少将。教育本部第一部長兼第二部長
大正2年)12月1日 - 任海軍中将。海軍大学校校長(再任)
大正3年)8月18日 - 第一艦隊司令官
    9月14日 - 第一南遣艦隊司令官
大正4年)2月1日 - 第三戦隊司令官12月13日 - 軍令部次長
大正7年)6月13日 - 第二艦隊司令長官
大正8年)11月25日 -
海軍大将 任
大正9年)5月1日 -第一艦隊司令長官と 連合艦隊司令長官(兼任)。
      8月24日 - 横須賀鎮守府司令長官
大正12年)3月31日 - 予備役編入
昭和15年(1940年)9月10日)没
吉川 安平
よしかわ やすひら 
1873年11月17日 - 1959年1月1日  山口県    海軍兵学校(22期)
日露戦争では、第14水雷艇隊艇長として出征し、日本海海戦には、駆逐艦「陽炎」艦長として
参加した。海兵副官を経て、1909年5月、海軍大学校(甲種6期)を卒業した。
「豊橋」副長、第1潜水艇隊司令、イギリス駐在、海大教官、「伊吹」副長、第3艦隊参謀長、
「利根」艦長、艦政本部造船造兵監督官、海軍省人事局第1課長、「比叡」艦長などを歴任し、
1919年12月、海軍少将に進級。、第2艦隊参謀長、海軍水雷学校長、海軍潜水学校長、
1923年12月、海軍中将。以後、艦政本部長、第2艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官を歴任。
1929年3月、予備役に編入
吉見 乾海
よしみ けんかい 
1864年12月16日(元治元年11月18日)- 1942年(昭和17年)11月29日) 新潟県
海軍兵学校(12期) 明治30年)12月1日、海軍少佐に進級
明治38年)8月5日、海軍大佐へ進級。「秋津洲」艦長
「秋津洲」艦長、海軍大学校選科学生、「周防」艦長、旅順工作部長、
佐世保海軍工廠造兵部長と進み、
明治44)12月1日海軍少将。呉海軍工廠水雷部長、造兵廠長を歴任。
大正4年)12月1日、海軍中将昇進と同時に予備役編入となる
岡 範策
よしおか はんさく 
1869年5月8日 - 1930年3月19日)  熊本県    海軍兵学校18期
肥後国(現熊本県宇城市小川地区)に、肥後藩士の長男として生まれる。
日清戦争では軍艦「浪速」の分隊士として東郷平八郎艦長の下に従軍。
明治34年)海軍大学校2期を卒業。1904年(明治37年)海軍少佐
日露戦争では、第2艦隊旗艦「出雲」の砲術長として日本海海戦に参戦した。
大正3年)8月23日に「浅間」艦長に補される。この日は日本がドイツへ宣戦布告した日であり、
吉岡は第一次世界大戦に出征する。大正6年)海軍少将に昇進し、教育本部第2部長となる。
大正9年)連合艦隊参謀長を経て、1921年(大正10年)海軍中将、海軍砲術学校長となり、
大正13年)予備役となる
吉田 善吾
よしだ ぜんご
  
 
明治18年(1885年)2月14日 - 昭和41年(1966年)11月14日) 佐賀県 海軍兵学校(32期)
日露戦争は、「韓崎丸」で訓練を受けた後、「春日」艦長(加藤定吉)附として日本海海戦に
海軍大学校は第一選抜で合格し、塩沢幸一、嶋田繁太郎とは海兵、海大とも同期である。
戦艦「金剛」、「陸奥」の各艦長、連合艦隊参謀長、海軍省軍務局長、練習艦隊司令官、
第二艦隊司令長官などを歴任。昭和12年12月1日からは連合艦隊司令長官を務めるが、
昭和14年8月30日に阿部内閣の海軍大臣に就任。米内内閣、第2次近衛内閣でも留任した。
昭和15年に海軍大将に昇進。軍事参議官、支那方面艦隊司令長官、
横須賀鎮守府司令長官などを経て、昭和20年(1945年)6月1日に予備役となる。
吉松
 茂太郎


     
安政6年1月 土佐中村藩士、のち裁判官となった吉松万弥の長男として生まれる。
明治13年に海軍兵学校を卒業(7期生)し少尉補を経て、明治16年に少尉任官。
明治18年防護巡洋艦「浪速」の回航委員となりイギリスに出張し「浪速」分隊士となり
明治26年に砲艦「大島」分隊長、翌年に巡洋艦「吉野」分隊長となり日清戦争に従軍した。
その後、西海艦隊参謀、呉鎮守府参謀、海軍大学校教官、
軍令部第1局長、、「浪速」艦長を歴任
明治34年、「高砂」艦長となり、明治37年(1904年)、「常磐」艦長となり日露戦争に従軍、
蔚山沖海戦、日本海海戦に参加した。
明治38年、海軍少将・佐世保鎮守府参謀長となり、呉鎮守府参謀長、
第1艦隊司令官を歴任し、同40年(1907年)に練習艦隊司令官を拝命した。
その後、海軍兵学校校長、海軍大学校校長、竹敷要港部司令官、第2艦隊長官、
海軍教育本部長、呉鎮守府長官、連合艦隊司令長官を歴任し、
大正5年(1916年)に海軍大将、翌年に軍事参議官となり、昭和4年(1929年)に退役した。
米村 末喜
よねむら すえき
   
  
1879年(明治11年)3月13日 - 1941年12月27日 熊本県  海軍兵学校(29期)
日露戦争では特務艦隊旗艦の「台中丸」分隊長として従軍。
日本海海戦時は「愛媛丸」指揮官(中尉)であった。
海軍大学校(以下「海大」)乙種学生、海大専修学生を修了
大正9年)12月1日大佐に進級。練習艦隊所属の「浅間」艦長となり
大正14年)12月1日少将へ昇進。同時に航海科最高ポストである水路部長
昭和4年)11月30日海軍中将へ進級し、翌1930年(昭和5年)12月24日予備役編入となる。
有地品之允
ありち しなのじょう  
天保14年3月15日(1843年4月14日) - 大正8年(1919年)1月17日)
長州藩士で武術指南役(1,000石)であった有地藤馬の長男として生まれる。
戊辰戦争では干城隊士として奥羽に出陣した。
明治15年(1882年)には海軍大佐に昇進し、海防艦「比叡」、「筑波」の艦長を歴任する。
明治19年(1886年)に海軍少将・横須賀軍港司令官、翌年まで海軍機関学校校長を兼務。
明治25年(1892年)に
海軍中将・呉鎮守府司令長官となり日清戦争を迎えた。
明治28年(1895年)5月に再び常備艦隊司令長官となり連合艦隊司令長官を兼務した。
日本領となった台湾において、抵抗した中国人がイギリス商船「テールス号」に逃げたため、
配下の通報艦「八重山」ががこれを追跡して臨検を行うという事件が起きた。
これが公海上で行われたことからイギリスから抗議を受け、外務省は海軍に対して責任者の
処罰を要求した。その結果、有地と八重山艦長の平山藤次郎大佐を予備役に編入することで
責任者の処罰を要求した。その結果、有地と八重山艦長の平山藤次郎大佐を予備役に
編入することで解決が図られた。
米内 光政
ない みつまさ


 
 
明治13年)3月 旧盛岡藩士米内受政の長男として生まれる。
明治34年)に海軍兵学校29期を125人中68番の成績で卒業。海軍少尉候補生、
明治38年)、日露戦争に従軍。第三艦隊第十六水雷艇隊所属。第一艦隊第二駆逐隊所属の
駆逐艦「電」乗組み。海軍中尉。日本海海戦に参戦
大正元年)任海軍少佐。海大甲種学生12期。大正3年)海軍大学校卒業。旅順要港部参謀。
大正4年)2月ロシア・サンクトペテルブルク大使館付駐在武官補佐官、大正5年)任海軍中佐
大正9年)6月ベルリン駐在。大正10年)ポーランド駐在員監督。
大正11年)装甲巡洋艦「春日」艦長。
大正13年)戦艦「扶桑」、「陸奥」艦長。1925年(大正14年)任海軍少将。第二艦隊参謀長。
大正15年)軍令部第三班長。1927年(昭和2年)第四水雷戦隊司令官。
昭和5年)任海軍中将。鎮海要港部司令官。この役職は「クビ5分前」「島流し」と言われ、
米内が赴任した頃は「一週間に半日仕事があれば良い方だ」といわれた閑職であった。
昭和7年)第三艦隊司令長官。
米内を知る2人の同期の計らいで療養生活に入り、職務に復帰することができた。
のちに藤田と高橋は、米内を現役大将として残すため、自ら予備役編入を願い出ている
昭和8年)佐世保鎮守府司令長官。友鶴事件が発生
昭和9年)第二艦隊司令長官、昭和10年)横須賀鎮守府司令長官。
昭和11年)連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官。
(昭和12年)2月2日林内閣にて第39代海軍大臣に就任。4月海軍大将に進級
昭和12年)6月4日第一次近衛内閣の第40代海軍大臣就任。
昭和14年)1月5日平沼内閣の第51代海軍大臣就任。
昭和14年)軍事参議官。1940年(昭和15年)予備役に編入
昭和15)1月16日、第37代内閣総理大臣に就任する。米内を総理に強く推したのは
昭和天皇自身だったようだ。
昭和19年)、東條内閣が倒れると、予備役から現役に復帰して
   小磯内閣で再び海軍大臣となる。
昭和20年)、鈴木貫太郎内閣にも海相として留任。 昭和期参照
   
 
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