勝 海舟
かつかいしゅう
 |
文政6年1月 幕臣 父は旗本小普請組(41石)の勝小吉 |
10代の頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となる。 |
戊辰戦争時には、幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、 |
早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は、参議、海軍卿、枢密顧問官を |
歴任し、伯爵に叙せられた。明治6年(1873年)には不和だった福澤諭吉らの明六社へ参加、 |
明治5年(1872年) 5月10日、海軍大輔に任官 |
明治6年(1873年)10月25日、参議に転任し、海軍卿を兼任。 |
明治21年(1888年) 4月30日、枢密顧問官に任官 |
明治32年1月19日に風呂上がりにブランデーを飲んですぐに脳溢血により
意識不明となり、死去。 |
|
川村 純義
かわむらすみよし
 |
天保7年11月:薩摩藩士 |
戊辰戦争では薩摩藩4番隊長として各地、特に会津戦争に奮戦した。 |
明治政府の海軍整備に尽力、明治7年(1874年)には海軍ナンバー2である海軍大輔、 |
海軍中将に任ぜられる。 |
西南戦争にあたっては、私学校党の火薬庫襲撃直後、鹿児島に入り、県令・大山綱良と会談 |
開戦すると山縣有朋とともに参軍(総司令官)として海軍を率い、海上からの軍員及び |
物資輸送 戦後、参議・海軍卿に就任し、海軍整備を継続したが、山縣有朋と異なり政治の |
世界とは一線を画した。太政官制のもとでは枢要な地位を占めたが、内閣制度に移行と |
同時にその座を追われた。物事をはっきりと言いすぎる性格が災いしたとも言われる。 |
その後枢密顧問官となる。死後海軍大将に昇進した。 |
|
西郷 従道
さいごうつぐみち
元帥陸軍大将
大勲位
菊花大綬章 |
天保14年5月薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)に生まれる |
兄の西郷隆盛を「大西郷」と称するのに対し、従道を「小西郷」と呼ぶ |
文久元年(1861年)9月30日に還俗し、本名を隆興、通称を信吾(慎吾)と改名。斉彬を信奉する |
精忠組に加入し、尊王攘夷運動に身を投じる。 |
明治2年(1869年)、山縣有朋と共に渡欧し軍制を調査。明治4年(1871年)7月、陸軍少将となる。 |
明治6年には兄の隆盛が征韓論をめぐり下野する(明治六年政変)。 |
薩摩藩出身者の多くが従うが、従道は政府に留まった。明治7年に陸軍中将となり、都督として |
同年の台湾出兵では蕃地事務軍勢を指揮する。 |
隆盛が明治10年(1877年)に西南戦争を起こした際、従道は隆盛に加担せず、陸軍卿代行に |
就任し政府の留守を守った。以後は政府内で薩摩閥の重鎮として君臨した。 |
大久保利通暗殺(紀尾井坂の変)直後の明治11年には参議となり、
同年末には陸軍卿になった。 |
明治15年1月11日、黒田清隆が開拓使長官を辞すると、参議・農商務卿兼務のまま |
開拓使長官に任じられる。第初代~第3代海軍大臣 |
海軍大臣時代は山本権兵衛を海軍省官房主事に抜擢して大いに腕を振るわせ、日本海軍を |
日清・日露の戦勝に導いた。 |
明治25年には元老として枢密顧問官に任じられる。同年、品川弥二郎とともに国民協会を設立。 |
明治27年(1894年)に海軍大将となり、明治28年(1895年)には侯爵に陞爵。 |
明治31年(1898年)に海軍軍人として初めて元帥の称号を受ける。 |
内閣総理大臣候補に再三推されたが、兄・隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に断り続けた |
(大山巌も同様)。 |
|
樺山 資紀
かばやますけのり
大勲位
菊花大綬章
|
天保8年11月:薩摩藩士・橋口与三次の三男に生まれ、樺山四郎左衛門の養子となる |
明治4年(1871年)に陸軍少佐に任ぜられ、明治5年(1872年)より南清に出張、台湾出兵に従軍。 |
西南戦争では熊本鎮台司令長官・谷干城少将の下、同鎮台参謀長として熊本城を死守する。 |
その後警視総監兼陸軍少将に昇進するが、海軍へ転じ、 |
明治16年(1883年)に海軍大輔、同19年(1886年)には海軍次官となる |
明治25年(1892年)にかけての第1次山縣内閣と第1次松方内閣で海軍大臣をつとめる。 |
日清戦争直前に海軍軍令部長に就任する。明治28年(1895年)に海軍大将に昇進する。 |
同年5月10日、初代台湾総督に就任、台北に総督府を開庁する。 |
その後も枢密顧問官、第2次松方内閣で第15代内務大臣、第2次山縣内閣で文部大臣を歴任 |
明治38年(1905年)11月20日に後備役となり |
第4・5代海軍大臣 |
|
山本
権兵衛
やまもとごんべい
大勲位
菊花大綬章 |
嘉永5年薩摩藩士で右筆及び槍術師範を務めていた山本五百助盛珉の六男に生まれる |
西郷隆盛が明治政府から下野した時は、明治7年)に西郷を追って鹿児島へ一時的に |
帰省するも、西郷自らの説得により海軍大輔・川村純義に詫びを入れ兵学寮に戻った。 |
明治10年)の西南戦争時は、派遣されていたドイツ軍艦での遠洋航海中の外地で |
初めてその事実を知った。 |
1889年(明治22年)、大佐に昇進し、「高雄」艦長や「高千穂」艦長を歴任した。 |
明治24年)、海軍大臣・西郷従道に海軍省大臣官房主事(後の海軍省主事)に任命され、 |
日清戦争時には海軍大臣副官となる。 |
1898年(明治31年)、西郷従道の推薦により47歳で第2次山縣内閣の海相に就任し、その後は |
日露戦争が終結するまでの約8年という長きにわたって事実上の海軍トップとして君臨した |
日露戦争では開戦に備える一方で、ロシア海軍に勝てる見込みが立つまで開戦に |
反対し続け、用意が整ったと判断するや開戦に賛成した。 |
開戦直前には東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命し、それまでの人事慣例を破るものと |
批判されたが、人事権は海軍大臣にあると断行した。明治天皇に理由を尋ねられ |
「東郷は運の良い男でありますので」と答えた逸話が残っている。 |
1904年(明治37年)、東郷と同時に海軍大将に昇進した。 |
第2次山縣内閣・第4次伊藤内閣・第1次桂内閣: 第11・12・13代 海軍大臣 |
在任期間:1898年11月8日 - 1906年1月7日 |
第1次山本内閣:第16代 内閣総理大臣 在任期間:1913年2月20日 - 1914年4月16日 |
第2次山本内閣:第22代 内閣総理大臣 在任期間:1923年9月2日 - 1924年1月7日 |
:第37代 外務大臣 兼 1923年9月2日 - 1923年9月19日 |
|
斎藤 実
さいとうみのる

大勲位
菊花大綬章 |
安政5年10月:水沢伊達氏に仕える藩士・斎藤軍記(耕平)高庸の子として生まれた |
明治6年)10月27日に海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学、明治12年)に卒業した(6期)。 |
明治21年)10月26日までアメリカ留学兼駐米公使館付駐在武官を務めた。 |
海軍参謀本部員、「秋津洲」、「厳島」艦長を歴任した。 |
明治31年)11月10日に第1次大隈内閣の山本権兵衛海軍大臣の推挙により海軍次官に就任、 |
1906年に第1次西園寺内閣で海軍大臣を拝命し、第1次山本内閣まで8年間つとめた。 |
大正元年)、海軍大将。大正3年)、シーメンス事件により海軍大臣を辞任し、
予備役に編入された。 |
大正8年)、武断政治が批判された陸軍大将長谷川好道に代わって、現役海軍大将に復して |
第3代朝鮮総督に就任、第14代~18代海軍大臣 |
(昭和7年)5月26日 - 第30代内閣総理大臣及び第47代外務大臣に就任 |
|
伊東 祐亨
いとうすけゆき
元帥陸軍大将
大勲位
菊花大綬章
|
天保14年5月薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれる。 |
飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身である |
江川英龍のもとでは砲術を学び、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、 |
陸奥宗光らと共に航海術を学ぶ。 |
明治維新後は、海軍に入り、明治4年(1871年)に海軍大尉に任官。 |
明治10年(1877年)には「日進」の艦長に補せられた。明治15年(1882年)には海軍大佐に任官、 |
「龍驤」、「扶桑」、「比叡」の艦長を歴任する。 |
明治19年(1886年)に海軍少将に進む。のち海軍省第一局長兼海軍大学校校長を経て、 |
明治25年(1892年)には海軍中将に任官、横須賀鎮守府長官を拝命。 |
明治26年に常備艦隊長官を拝命し、 |
明治27年の日清戦争に際し、7月18日に連合艦隊司令長官を拝命した。 |
戦争後は子爵に叙せられ 軍令部長を務めた。明治31年(1898年)に海軍大将に進んだ。 |
日露戦争では軍令部長として大本営に勤め、明治38年の終戦の後は元帥に任じられた。 |
大正3年(1914年)、72歳で死去した |
|
島村 速雄
しまむらはやお
元帥陸軍大将 |
安政5年9月 土佐藩の郷士・島村左五平と妻・鹿子の間に生まれる。 |
17歳のときに上京、海軍兵学寮を受験して合格した、本科では常に首席 |
23歳で兵学校(7期)を卒業して海軍少尉補となり、軍艦「扶桑」の乗組員に任ぜられる。 |
明治19年1886年)7月13日 - 任海軍大尉
明治25年5月23日 巡洋艦「高雄」分隊長兼砲術長
|
明治27年(1894年)12月9日 - 任海軍少佐 |
日清戦争においては、島村は参謀として、連合艦隊旗艦「松島」に乗り組んで参加した。 |
明治32年9月29日 - 任海軍大佐
10月7日 - 防護巡洋艦「須磨」艦長
|
明治36年(1903年)12月28日 - 第一艦隊参謀長。連合艦隊参謀長(兼任)。 |
明治37年(1904年)6月6日 - 任海軍少将
明治38年1月第二艦隊第二戦隊司令官
|
明治41年(1908年)8月28日 - 任海軍中将。海軍大学校校長 |
明治42年(1909年)12月1日 - 第二艦隊司令長官 |
大正4年(1915年)8月28日 - 任海軍大将、大正12年(1923年)1月8日 - 死去。元帥。正二位 |
|
伊集院
五郎
いじゅういん ごろう

元帥陸軍大将 |
嘉永5年9月 薩摩藩士の子として生まれ、明治10年(1877年)の西南戦争に参戦する |
イギリスの海軍兵学校・海軍大学校で兵学を学んでいたため、日本海軍の中でも |
博識であった。海兵5期。下瀬雅允海軍技師が開発した下瀬火薬の威力を発揮させるため、
伊集院信管を開発した。 |
明治32年(1899年)9月26日 任 海軍少将・軍令部次長兼将官会議議員 |
明治35年(1902年)3月17日 常備艦隊司令官 |
明治36年(1903年)9月5日 任 海軍中将・軍令部次長兼将官会議議員 |
明治38年(1905年)の日本海海戦(日露戦争中)で、下瀬火薬とともにその威力を発揮し、 |
連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破する大きな要因となった。 |
そのため伊集院は、「日本海海戦勝利の影の功労者」と言われている。 |
日露戦争後は第二艦隊司令長官、第一艦隊司令長官を歴任した。 |
明治39年11月22日 第一艦隊司令長官時代に行った猛訓練は「月月火水木金金」といわれ、 |
後に同名の軍歌が作られるに至った。 |
明治41年5月26日 第1艦隊司令長官(同年10月から11月まで連合艦隊司令長官を兼任) |
明治43年(1910年)12月1日 任 海軍大将 大正3年(1914年)4月22日 軍事参議官
|
大正6年(1915年)5月26日 元帥 大正10年(1921年)1月13日 死去
|
勲一等旭日大綬章 長男:伊集院松治海軍中将 二男:大野竹二海軍少将 |
|

日露戦争凱旋式当日の海軍首脳 左4人目から順に |
|
伊集院、上村彦之丞、東郷平八郎、山本権兵衛、伊東祐亨、
片岡七郎、出羽重遠、斎藤実、山下源太郎、中列左から
6人目加藤友三郎 |
|
|
伏見宮
博恭王
ふしみのみや
ひろやすおう
元帥陸軍大将
大勲位
菊花大綬章 |
明治8年10月 貞愛親王の第一王子・愛賢王として生まれる |
華頂宮を継承して3年後の1886年(明治19年)4月5日、博恭王は海軍兵学校予科に入学 |
3年後に海軍兵学校を中退してドイツに渡り、ドイツ海軍兵学校からドイツ海軍大学校で学び |
明治28年)まで滞在した。この間1894年(明治27年)に海軍少尉に任官される |
帰国後は巡洋艦や戦艦での艦隊勤務を重ね、このため後述する様に皇族とはかけ離れた生活 |
日露戦争では連合艦隊旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う |
また艦長や艦隊司令長官を務める等、皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富であった。 |
大正2年)8月31日に海軍少将に任官されると共に横須賀鎮守府艦隊司令官に就任。 |
大正11年海軍大将 |
更に海軍大学校長・第2艦隊司令長官などを歴任し、1923年(大正12年)に貞愛親王の死去に |
伴い伏見宮家を継いだ。昭和6年陸軍参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し |
昭和7年2月2日、海軍軍令部長・将官会議議員 5月27日、元帥 |
昭和7年、海軍もバランスをとる必要から、博恭王を海軍軍令最高位である
軍令部長に就任させた |
日独伊三国同盟・太平洋戦争(大東亜戦争)と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな |
発言力を持った。太平洋戦争中においても、大臣総長クラスの人事には博恭王の諒解を |
得ることが不文律であった。
昭和19年)6月25日、サイパン島の放棄を決定した天皇臨席の元帥会議において、 |
戦局がこのように困難となった以上、「航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に |
使用するを要する」と発言した。この「特殊な兵器」は特攻兵器を指したもので |
あるとの主張もある。 946年8月16日死去した。没 |
|
|
八代 六郎
やしろ ろくろう
|
安政7年1月:犬山市)の地主、松山庄七の三男。明治元年、水戸藩浪士・八代逸平の養子 |
明治14年、兵学校8期を35名中19位で卒業。首席は航海術の権威となった今泉利義少将。 |
8期で大将まで昇進したのは八代のみで、中将が3名・少将が7名いる。 |
日露戦争勃発までの5年間、「八島」副長、常備艦隊参謀、「宮古」艦長、「和泉」艦長と最前線 |
のトップを歴任。海軍大学校選科学生を経て、日露戦争には「浅間」艦長として参戦する。 |
八代は旅順港閉塞作戦の指揮官を望んだが、東郷平八郎に却下された。 |
明治40年(1907年)に少将へ昇進。翌年に帰国して横須賀予備艦隊、第1艦隊、練習艦隊、 |
第2艦隊の司令官を歴任する。 |
明治44年(1911年)に中将へ昇進し、海軍大学校長に就任。 第19代海軍大臣 |
しかしシーメンス事件が発覚して第1次山本内閣が倒れ、海軍大臣・斎藤実が辞職し、海軍は |
大混乱に陥った。斎藤は後任に八代を指名し、世間の非難にされた海軍の復権をゆだねる |
大正3年4月16日、第2次大隈内閣発足とともに、破天荒な八代の海軍省改革が始まった。 |
大正6年に最後の職となる佐世保鎮守府司令長官に就任し、この間に海軍大将へ昇進する。 |
|
東郷
平八郎
とうごう
へいはちろう

元帥陸軍大将
大勲位
菊花大綬章
大勲位
菊花章頸飾
|
弘化4年12月薩摩藩士・東郷実友と堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれる。 |
薩英戦争に従軍し初陣、慶応3年(1867年)6月に分家して一家を興す。戊辰戦争では春日丸に |
乗り組み、新潟・箱館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦う。 |
体型は小柄ではあるが下の写真でも分かるように美男子である。 |
明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスの |
ポーツマスに官費留学する。東郷は当初鉄道技師になることを希望していた。 |
帰国途上、西郷隆盛が西南戦争を起こして自害したと現地で知った東郷は、「もし私が日本に |
残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。 |
実際、東郷の実兄である小倉壮九郎は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、 |
城山攻防戦の際に自決している。 |
日清戦争 |
明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(高陞号事件)、 |
黄海海戦、威海衛海戦で活躍する。 |
威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には |
連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加。 |
日露開戦前の緊迫時期に海軍大臣・山本権兵衛に呼び戻され、明治33年(1902年)12月に |
第一艦隊兼連合艦隊司令長官に就任する。 |
日露戦争 |
明治37年2月10日からの日露戦争では、旗艦「三笠」に座乗してロシア海軍太平洋艦隊 |
(後に第一太平洋艦隊へ改称)の基地である旅順港の攻撃(旅順口攻撃・ |
旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。
6月6日には海軍大将に昇進する。 |
*日清戦争・日露戦争の詳細は別記記載参照 |
明治38年(1905年)から明治42年(1909年)まで海軍軍令部長、東宮御学問所総裁を歴任。 |
大正2年(1913年)4月には元帥府に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許される。 |
昭和9年(1934年)5月30日、膀胱ガンのため満86歳で死去。6月5日に国葬が執り行われた |
|
加藤
友三郎
かとう ともさぶろう
大勲位
菊花大綬章 |
文久元年2月:広島藩士、加藤七郎兵衛の三男として広島城下大手町に生まれる。 |
明治17年)10月、海軍兵学校7期卒業。1888年(明治21年)11月、海大甲号学生。 |
日清戦争に巡洋艦「吉野」の砲術長として従軍、「定遠」「鎮遠」を相手として黄海海戦に活躍 |
日露戦争では、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として日本海海戦に参加。 |
連合艦隊の司令長官・東郷平八郎、参謀長・加藤、参謀・秋山真之らは弾丸雨霰の中、 |
戦艦「三笠」の艦橋に立ちつくし、弾が飛んできても安全な司令塔には入ろうとせず、 |
兵士の士気を鼓舞した。その後、海軍次官、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を経て、 |
大正4年)8月10日第2次大隈内閣の海軍大臣に就任。同年8月28日、海軍大将に昇進。 |
第20-24代海軍大臣 |
第21代 内閣総理大臣:在任期間 1922年6月12日 - 1923年8月24日 |
|
片岡 七郎
かたおか しちろう
旭日桐花大綬章 |
嘉永6年12月 薩摩藩士・片岡喜藤太の次男。少年期のうちに薩英戦争や戊辰戦争が |
終わっており、西南戦争も兵学寮の生徒だったために参加していない。 |
中でも飛び抜けた語学力を身に着けた。明治14年に卒業(3期)、翌月に大尉まで昇進した。 |
明治27年(1894年)7月15日、豊島沖海戦が起こり日清戦争が始まったため、翌日には片岡に |
帰国命令が下され、依仁親王の護衛を兼ねて急遽帰国した。 |
片岡が生涯初めて戦場に出たのは、威海衛への直接攻撃に着手し始めた |
明治27年12月のことで、日露戦争への機運が高まる中、片岡は明治32年に少将へ昇進し、 |
呉鎮守府司令官、明治35年に最前線基地の対馬竹敷要港部司令官となった。 |
明治36年(1903年)12月第1・第2艦隊で連合艦隊を組み、第3艦隊を独立部隊にした。 |
片岡はこの第3艦隊司令長官に任じられた。第3艦隊は、日清戦争時に使用された |
老朽艦によって編成された艦隊で、補助的な戦力しか持っておらず、片岡はこの艦隊を駆使し、 |
、朝鮮沿岸の警備、さらには第2軍の上陸地点選定から護衛、さらには金州作戦の支援、 |
重砲隊派遣と、全力で第2軍の支援に当たった。講和条約を優位に進めるために、南樺太を |
占領することになり、片岡が樺太占領のために派遣された。新編成の第4艦隊も加え、 |
部内で北遣艦隊と通称される部隊を率い、占領に成功した。 |
海軍では最東端の北知床岬(テルペニア岬)を「片岡岬」と通称し、戦後、連合艦隊は解散し、 |
単独運用となった第1艦隊の司令長官を1年、艦政本部長を1年半務め、 |
明治41年8月に最後の任務となる任期中に海軍大将へ進級舞鶴鎮守府司令長官の座に |
大正6年(1917年)5月10日予備役に編入され大正9年(1920年)1月11日に死去 |
片岡は、伏見宮兄弟(愛賢王→伏見宮博恭元帥と菊麿王→山階宮菊麿大佐)のドイツ留学に |
随員として1年半派遣された、明治19年海軍少佐、 |
|
仁礼景範
にれ かげのり

勲一等
旭日大綬章 |
天保2年2月薩摩藩士の子弟として生まれる。
慶応3年(1867年)に藩命によりアメリカに留学 |
明治5年(1872年)、海軍に出仕して海軍少佐。のち、海軍兵学校校長、東海鎮守府長官、 |
中艦隊司令官、軍事部長などを歴任。 |
明治18年(1885年)、海軍中将。明治19年(1886年)より参謀本部次長、海軍参謀本部長、 |
横須賀鎮守府長官、海軍大学校長などを歴任 |
明治25年(1892年)、第2次伊藤内閣の海軍大臣に就任、海軍備の充実に力を注いだ。 |
海軍の軍令権を陸軍の参謀本部からの独立に尽力し、明治26年(1893年)に軍令部が |
設置されるが、結局陸軍の反対により頓挫した。 |
明治29年(1896年)、後備役。享年69 |
|
財部 彪
たからべたけし

|
慶応3年4月 宮崎県都城市出身 妻は山本権兵衛長女 |
明治22年(1889年)、海軍兵学校15期を首席で卒業。明治26年(1893年)、海軍大学校を卒業、 |
日清戦争に従軍。日露戦争では、大本営作戦参謀を務める。 |
明治36年(1903年)9月26日 - 任海軍中佐
明治38年(1905年)1月12日 - 任海軍大佐
|
明治40年(1907年)9月28日 - 巡洋艦「宗谷」艦長 |
明治42年(1909年)12月1日 - 任海軍少将
斉藤実海軍大臣の下、海軍次官
|
大正2年(1913年)12月1日 - 任海軍中将
大正4年(1915年)2月5日 - 第三艦隊司令官
|
大正6年(1917年)12月1日 - 舞鶴鎮守府司令長官,佐世保鎮守府司令長官 |
大正8年(1919年)11月25日 - 任海軍大将 |
大正12年(1923年)5月15日 - 加藤友三郎内閣で海軍大臣に就任 |
大正13年(1924年)6月11日 - 第2次山本内閣で海軍大臣に就任 |
|
中牟田
倉之
なかむた
くらのすけ
|
天保8年2月:佐賀藩士 金丸孫七郎の次男だったが、中牟田家の養子となる。 |
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると奥州方面へ出陣 |
戊辰戦争時の勲功により明治3年に海軍中佐、明治5年には海軍大佐に昇進 |
明治10年(1877年)の西南戦争でも勲功があったため海軍中将に昇進。後、海軍大学校長 |
日清戦争直前、海軍軍令部長を務めていたが、清の北洋艦隊の戦力を高く評価し、 |
徹底した非戦派であった。そのため、開戦派であった山本権兵衛に軍令部長を解任され、 |
樺山資紀と交代させられた。 草創期の海軍にあって二大勢力であった |
佐賀藩出身者の薩摩藩出身者への敗北であったといわれる |
|
鮫島員規
さめしまかずのり
|
弘化2年5月 薩摩藩士、鮫島新左衛門の長男として鹿児島で生まれる。 |
明治4年(1871年)、海軍に入り少尉補任官、「龍驤」乗組。佐賀の乱、西南戦争に従軍。 |
その後、参謀本部海軍部第2局長、装甲艦「金剛」艦長、装甲艦「扶桑」艦長を歴任。 |
明治24年(1891年)、フランスに発注した軍艦「松島」の回航委員長、初代艦長となる。 |
さらに横須賀鎮守府参謀長、常備艦隊参謀長、海軍大学校長、横須賀鎮守府長官、 |
常備艦隊司令長官などを歴任。 |
日清戦争時には常備艦隊兼連合艦隊参謀長として黄海海戦に参加、 |
日露戦争では佐世保鎮守府司令長官をつとめた。 |
明治38年(1905年)、海軍大将に進級。明治40年(1907年)2月14日、予備役に編入される |
1910年10月14日(満65歳没) |
|
上村
彦之丞
このじょう
|
嘉永2年5月薩摩藩漢学師範・上村藤一郎の長男として生まれた |
海軍兵学寮に進んだが、在籍中に西郷隆盛が下野したことを受けて上村も鹿児島に帰った。 |
しかし西郷の説諭により兵学寮に戻る。山本権兵衛、日高壮之丞らが行動を共にしている。 |
少尉補試験に合格。4期生として卒業したが、席次はやはり最下位であった |
しかし将官となってからは、海軍教育本部長や、軍務局長を務めるなど、軍政面でも活躍した。 |
日清戦争では「秋津洲」艦長として出征。第一遊撃隊に属し豊島沖海戦では「操江」を |
「操江」を降伏させた。これは日本海軍が敵軍艦を降伏させた最初の事例である。
続いて黄海海戦でも武勲を挙げた。 |
明治27年12月 海軍大佐、明治32年(1899年) 9月 海軍少将。駐英造船造兵監督長 |
明治36年(1903年) 9月 海軍中将、海軍教育本部長、10月 第二艦隊司令長官 |
日露戦争では第二艦隊司令長官として、蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊を撃破。 |
日本海海戦では判断よくバルチック艦隊の進路を塞ぎ、戦勝の重要な基因をなした。 |
明治43年(1910年)12月 海軍大将 |
戦後は横須賀鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を務め、海軍大将で退役となった。 |
|
連合艦隊首脳部。左から舟越楫四郎、島村速雄
東郷平八郎、上村彦之丞、加藤友三郎、秋山真之 |
|