2024年5月14日~19日まで滋賀県・兵庫県・徳島県・愛知県のお城巡りへ 
     伊丹城(有岡城)(兵庫)          伊丹城(有岡城)(兵庫)           伊丹城(有岡城)(兵庫)
南北朝時代、摂津国人の伊丹氏によって建築、伊丹城が
日本最古の天守台を持つ平城、1574年11月28日)、
荒木村重によって攻め落とされ大改修し、有岡城に改称
荒木村重は後に謀反を起こし、黒田孝高(如水・官兵衛)
謀反をやめるように説得へ行が、当城内にあった牢内に
1年弱幽閉されていた。織田信長に滅ぼし去れ逃亡
天正11年(1583年)廃除となる。現在は当時の石垣
一部が残ってJR伊丹駅付近が城内となっている
城の範囲は南北1.7km、東西0.8kmで南北に細長く
 
         尼崎城(兵庫)             尼崎城(兵庫)          尼崎城(兵庫)
元和3年(1617年)、戸田氏鉄(うじかね)が5万石で
入封し築いた。3重の堀をもち、本丸には2重の付櫓を
2棟付属させた複合式の四重天守と3棟の 
   
三重櫓が上げられた。城主は、築城から廃城まで3氏12代が
入れ替わった。建部家-池田家-戸田家-青山家4代-
松平〔桜井〕家7代
平成30年(2018年)には資産家の寄贈による外観復元
天守が完成した。
 
   徳島城(徳島) 日本100名城(76番)            復元された鷲の門            腰曲輪
この地は鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配
1582年(天正10年)には土佐国の長宗我部元親が侵攻し
阿波が平定、1585年(天正13年)、豊臣秀吉の四国征伐
に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が 
   
阿波1国18万6000石を賜った。
江戸時代を通して外様ながら徳島藩蜂須賀氏25万7千石
の居城となり、明治維新を迎える。

吉野川河口の三角州に位置の標高61mの渭山に本丸を
配置して天守閣は建てられず、西二の丸、西三の丸
東二の丸に天守代用の御三階櫓が建てられた、

 
   徳島城(徳島) 日本100名城(76番)            黒門(大手門)枡形の石垣            堀と黒門
1526年(大永6年)、三好氏の重臣・安宅治興が築城
1581年(天正9年)の淡路討伐の際、羽柴秀吉に降り、
城は仙石秀久に与えられた。 
   
徳島城は石垣が綺麗に整備されいる


月見櫓が建っていた。奥の橋は黒門(大手門)に架かる
下乗橋

 
   徳島城(徳島) 日本100名城(76番)            数奇屋橋            数奇屋橋
          下乗橋
太鼓橋で殿様の住む御殿への出入り口で枡形の門で
厳重に守られていた
徳島城の鬼門にあたる門で別門「不明門」という
城内での凶事の際以外には開かない門である

徳島城は明治初期に壊され、昭和の空襲により破壊
今回は午後6時頃に登城で本丸まで上がらず

 
   洲本城(兵庫淡路)続日本100名城(164番)             大手門付近 駐車場左側            腰曲輪
1526年(大永6年)三好氏の重臣・安宅治興が築城
1581年(天正9年)の淡路討伐の際、羽柴秀吉に降り、
城は仙石秀久に与えられた。 
   
1585年10月に脇坂安治が城主となり、城の大改修を行った。
大坂夏の陣の後、徳島藩の蜂須賀氏の所領となる

壮大な総石垣、大石段、全国で数例しかない登り石垣など
があります。

 
   洲本城(兵庫淡路)続日本100名城(164番)             本丸大石段            本丸虎口
   南の丸と右石垣は本丸台 階段の石垣で本丸虎口へ
本丸虎口直角に曲がり
 
  洲本城(兵庫淡路)続日本100名城(164番)            洲本城からの眺望             本丸
         模擬天守と天守台
老朽化で天守閣には登れない、模擬天守は昭和3年に
築造された

  
  
 洲本市の町並みと大阪湾 素晴らしい景観です



天守台から見る本丸跡で広い空間で
江戸時代は蜂須賀氏の所領となり、筆頭家老の
稲田氏一族を配置

 
   龍野城(兵庫)             埋門            隅櫓
明応8年(1499年)に塩屋城の龍野赤松氏・赤松村秀が
龍野に鶏籠山城を築いた。天正5年(1577年)に開城し
て赤松氏から豊臣秀吉の手に渡り、播磨平定 
   
寛文12年(1672年)に脇坂安政によって龍野城が再建され
脇坂家外様→願譜代→譜代 53000石 初代は豊臣秀吉
に仕え、加藤清正と同じ七本槍の一人で
脇坂家3代目は譜代大名下総国佐倉藩主・堀田正盛の
次男・安政を養子として、以後譜代大名となり9代は老中
までになった名門
 
   赤穂城(兵庫) 日本100名城(60番)            本丸表門(復元)高麗門            二の丸門
赤穂城の前身となる城郭は、池田長政が慶長5年
(1600年)に築城したと伝わり、正保2年(1645年)に
浅野長直が赤穂へ入封、13年かかって完成し、
    
10の隅櫓門が12基、曲輪の延長は2847mに及んだ。
天守そのものは建築されなかった。
 歴代城主
池田家:外様 3万5千石2代 浅野家:外様 5万石3代
永井家:譜代 3万2千石1代 森 家:外様 2万石13代
 
    赤穂城(兵庫) 日本100名城(60番)         本丸御殿の遺構と表門              天守台
    表門入口の堀と石垣
浅野家3代の浅野内匠頭長矩は江戸城松の廊下で
吉良義央を切付けてて怪我させ即切腹と改易を宣告した。
浅野内匠頭長矩の仇討ちについて、城近くに大石神社
大石内蔵助の長屋門跡がある
 天守台はりっぱな石垣となっているが天守閣は建設
されず、本丸御所はコンクリート盤上に部屋の間仕切りを
示し、坪庭跡には中高木を植栽。
 
    赤穂城(兵庫) 日本100名城(60番)             大手門        大手門(高麗門)二層隅櫓
        本丸厩口門)
厩口門は、浅野家時代の呼び名で、森家時代には台所門
と呼ばれていました。
大手門が登城口になります。三之丸は堀の外側にあり
門は、虎口は内枡形をなし、東面する高麗門と南面する櫓門
大手隅櫓は大手門の北にある二重櫓で、大手門を監視
するための防御施設でした。
 
   観音寺城(滋賀) 日本100名城(52番)         観音寺城・観音正寺へ        階段途中の石垣(門跡)
    繖(きぬがさ)山(観音寺城・観音正寺)
観音寺城は近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏
の居城で、戦国時代の永禄期に浅井長政、織田信長に
攻められて六角氏は逃亡無血開城、その後は廃城となる。
観音寺城への登城登山口数ヶ所あります、今回は
観音正寺駐車場に止めて、キツイ400段の階段を登る
疲れを癒やすキンラン一輪咲いている

 あ-登りキツイょ 足場も悪く昔の階段
 誰もいなく3組だけすれ違う


 
   観音寺城(滋賀) 日本100名城(52番)          観音正寺 参拝        本丸への石垣
       観音正寺からの展望
観音寺城・観音正寺への車での行き方は表門の駐車場
と五個莊ルート』裏駐車場あり、表からは車止め急な階段
裏ルート駐車場からは登りやすい道
観音正寺は天台宗で本尊は千手観音、
西国三十三所第32番札所、山号は繖山(きぬがささん)
創建時期は不明であるが11世紀平安時代には既に存在
入山料500円
 濡佛(銅造釈迦如来坐像)の横を下り本丸へ
樹木が生い茂り整備されてない中を15分歩くと本丸


 
    観音寺城(滋賀) 日本100名城(52番)         裏虎口より本丸跡へ        本丸のある看板
       本丸の石垣
本丸跡は樹木が多く整備されてなく不満あり

 今回は本丸まで到着して石垣の名物である平井丸、
 潜り門、平井丸虎口、池田丸跡などには体力的に
 キツイので中止した
 今回の観音寺城としてまず登りから始まり大変な
 道のりで、情報を詳細に調査してから登城すべき
 だったと反省する
 
  八幡山城(滋賀) 続日本100名城(157番)         本丸周りは石垣が多く残り         出丸 広場
       本丸下の石垣
独立丘鶴翼山、通称八幡山(標高283m)の南半分
山上に築城された。安土城の焼失から3年後、1585年
(天正13年)築城を開始、豊臣秀次はは18歳で入城する
が3年しか八幡山城に居なかったと言われている。
築城から5年後(1590年)、秀次は100万石を領し清州へ
移封となり京極高次が城主となりましたが、1595年、秀次が
自刃後に八幡山城は廃城となる


八幡山城は廃城後は石垣だけ残り、出丸下の石垣は
1540年代のまま残っている。八幡山城の本格的な調査は
これから本格的に始まる


 
  八幡山城(滋賀) 続日本100名城(157番)             本丸の裏側石垣     北の丸より安土城と観音寺城を望む
       北の丸の広場
山城部分は総石垣作りで、本丸、二の丸、北の丸、
西の丸、出丸がY字形に延びる放射状に配置され、
それぞれに高石垣で構築されている。
 本丸周りが石垣を積んで今でも崩れなく残っている
 左側低い山が安土城 高い山が観音寺城
 
  八幡山城(滋賀) 続日本100名城(157番)          瑞龍寺       出丸下の石垣(1580年代頃)
       本末虎口門跡
昭和38年に京都より移築された瑞龍寺の門が
八幡山城の本丸虎口となっている。
瑞龍寺は日蓮宗唯一の門跡寺院です。

               瑞龍寺
1596年(文禄5年)、豊臣秀次の生母(秀吉の姉)日秀尼公に
より、秀次の菩提を弔うため、後陽成天皇から瑞龍寺の寺号と
京都村雲の地に賜り創建され、昭和36年)に京都より この
八幡山へ主要建物が移築されました。
城下町は、安土城の城下町の町民を移して町づくり、
近隣の町村からも移住を促した。八幡堀は琵琶湖から
引いた八幡町の外に巡らし、八幡山の麓を八幡堀と塁で
囲み、その中に羽柴秀次居館や武家屋敷を配し、防御と
同時に運河として重視した。
 
       安土城 日本100名城(51番)     安土城 大手道 入り口 右側 前田利家邸跡        安土城 (豊臣秀吉邸跡)
       安土城跡 碑
安土城は織田信長によって現在の安土山に建造され
標高約200mの安土山山上にあり、天正4年(1576年)
から3年有余をかけ完成した五層七重の、わが国最初の
天主閣を有する城。
 大手道に入るまえに700円支払い直ぐに左側の広場は
 豊臣秀吉の館跡で石垣が良し、と右側には前田利家の
 館跡あり、上右側には元は徳川家康邸跡で現は摠見寺
 本殿の建物あり,階段410段あり、途中には石仏を使用
 織田信長公が天下統一を目標に天正四年(1576)
1月十四日重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据えて
安土山に築城させる。岐阜城より京に近く、利便性良く
北陸・東海の要所である
 
      安土城 日本100名城(51番)        安土城 天主閣への階段             安土城 本丸跡 周りは石垣         
        黒金門跡
虎口(90度曲がって攻めにくい門で安土城の中でも
もっとも大きな石が使われている
黒金門は安土城の中心部に入る最初の入口である
 天主閣へ入る最後の階段で5重6階、地下1階の天主
 高さは46m、43mの説

本丸広場となって千畳敷で回りは石垣囲まれ東西
約50m、南北約34mの東西に細長い敷地
天皇を迎える御殿もあったようです
奥から三の丸へ 
 
     安土城 日本100名城(51番)            安土城 天主閣から望む琵琶湖          安土城 二の丸跡の信長 本廟         
              天主閣跡
1582年(天正10年)に起きた本能寺の変の後、
まもなくして焼失、豪華絢爛の天主閣は3年にて焼失した
 天主台から見る琵琶湖と近江八幡の田園
本丸、天守台等に関してはまだ発掘途中である

安土城の二の丸跡と伝えられる場所に織田信長の
本廟があります。1583年(天正11年)2月に羽柴秀吉に
よって建立された 
 
    安土城 日本100名城(47番)                  摠見寺跡より琵琶湖            摠見寺の山門 重要文化財     
    摠見寺三重塔 重要文化財
摠見寺は織田信長が安土城築城にあわせて建立した寺院、 
天主崩落の際にも焼け残ったのですが、1854年
(安政元年)11月16日に火災により焼失してしまい、
現在は礎石のみが残されています。
 摠見寺跡より琵琶湖を望む
江戸時代末期の嘉永7年大手道脇の伝徳川家康邸跡に
寺院を移し、現在に至るまで法灯を守り続けています。

天主閣から帰り道、織田信忠邸上から摠見寺跡へ
寺院跡の広場は展望良くゆっくり琵琶湖を望む
追加
織田信忠邸・森 蘭丸邸・織田信澄邸など碑があります
長谷川秀一邸跡には織田信雄とその子孫の供養塔 
 
   近畿編   平成28年4月5日~4月8日まで関西方面のお城巡りに行ってきました。春欄間で各お城の桜満開で
             ライトアップが奇麗で特に姫路城は特別で何回見ても飽きない
         伏見城              伏見城              伏見城
 伏見城
 豊臣秀吉の隠居として建設慶長2年)に完成した
 秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康が
 入り政務をとった。
 関ヶ原前に家康の家臣鳥居元忠ら石田三成に
 迫られ自刃焼失した伏見城は1602年(慶長7年)
 頃に家康によって再建され、1619年(元和5年)に
 廃城とされた。
 昭和36年に伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、
 その後倒産して京都に寄贈するが、耐震に問題があり
 修復に高価格2012年10月時点では具体的に活用がない 
     水口城跡           水口城跡         甲賀忍術館 
   水口城
 3代将軍徳川家光が京都への上洛の際の宿館として、
 道中の水口に築かせた。1682年(天和2年)に
 加藤明友が2万石で入城し、水口藩が成立した。 
    水口藩歴代藩主
 
加藤家:(譜代格) 2万石(1682年 - 1695年)2代
 鳥居家:譜代 2万石(1695年 - 1712年)1代
 加藤家:(譜代格) 2万5,000石(1712年-1871年)9代
 甲賀五十三家筆頭望月本家の旧邸
 からくり仕掛け、忍者の道具等の展示や説明
 
    伊賀上野城 日本100名城(47番)          伊賀上野城         伊賀上野城 
 伊賀上野城
 織田信雄(北畠信雄)の家臣である滝川雄利は
 平楽寺の跡に砦を築いた。その後天正13年(1585年)
 に筒井定次によって改修 
 慶長16年に徳川家康の命を負って藤堂高虎が拡張した
 筒井家:20万石。外様  富田:外様。5万石(1595年-)
 藤堂家:外様 27万950石 12代
 大阪に続ぐ石垣の高さ約30mである
 
  大和郡山城 続日本100名城(165番)          大和郡山城         大和郡山城 

 大和郡山城 
築城は郡山衆及び筒井順慶で1585年豊臣秀吉の
弟豊臣秀長が大和・和泉・紀伊国100万石余の領主
秀長死後、五奉行の一人増田長盛が22万3千石の領主

     大和郡山藩歴代藩主
江戸期の歴代城主は水野家〔宗家〕、松平(奥平)家
松平(藤井)家 、本多家:譜代12万石→5万石 5代
柳沢家:譜代 15万1000石 (1724年 - 1871年)6代
大和郡山城は桜の名所と有名で近鉄橿原線とコラボ
ベスト撮影スポットである。現在追手門と追手向櫓、
東櫓あり、現在天守台の石垣修復中で、石垣に寺院の
石地蔵や墓石、仏塔
 
   岸和田城  続日本100名城(161番)          岸和田城         岸和田城 
 岸和田城
羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され。
豊臣秀吉は小出秀政3万石城主に

    岸和田藩歴代藩主
小出家:外様 3万石→5万石(1600年~1619年)
松平〔松井〕家:譜代5万石→6万石(1619年~1640年)
岡部家:譜代5.3万石 (1640年~1871年) 13代
大雨の中で桜満開で綺麗な堀、天守は10:00よりで
登城せずライトアップも良いようで再度来たい
昭和29年天守再建、昭和44年城門と櫓再建
 
   和歌山城 日本100名城(62番)          和歌山城         和歌山城 
 和歌山城
豊臣秀吉の弟・秀長が築城して紀伊・和泉の2ヶ国を
治める普請奉行に藤堂高虎、補佐役に羽田正親、
横浜良慶を任じ、1年で完成させた。


       紀州藩 藩主
 江戸期は徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の
 居城である。
 浅野家:外様 37万6,000石
 徳川家(紀州徳川家):親藩 55万5,000石11代
 明治4年廃城令により解体もしくは移転、昭和10年国宝
 昭和20年に空襲により炎上、昭和33年により再建
 平成18年御橋廊下復元開始
 
    明石城  日本100名城(58番)          明石城         明石城 
    明石城
徳川幕府が西国の外様大名の抑えの城として、
譜代大名たる小笠原氏10万石の居城として城郭を、
建設するよう、第2代・将軍徳川秀忠より築城命令された。


    明石藩 藩主
 小笠原家 、松平〔戸田)〕家 、大久保家、
 松平〔藤井〕家、本多家、
 松平〔越前〕家:親藩6万石→8万石(10万石格)10代
 天守は建設なく櫓合計:20基、門合計:27棟あった。
 現在の櫓は2つで明治34年- 巽櫓と坤櫓の修理
 
 2024年5月16日8年ぶりに関西方面へ
    姫路城 日本100名城(59番)          姫路城         姫路城 
     姫路城   国宝
 強風の中8年ぶりに姫路城へ70%以上が外国人
今回は西の丸だけ内部をみる
 
           姫路城の堀と石垣
  
2024年5月16日 撮影

        現在の大手門(桐二の門)
    姫路城 日本100名城(59番)          姫路城         姫路城 
     姫路城 三の丸広場                 菱の門           西の丸より天主閣
 
    姫路城 日本100名城(59番)          姫路城         姫路城 
     姫路城   国宝
 姫路城の始まりは、1346年の赤松貞範による
 築城が有力戦国時代は黒田家、羽柴家が
 城代となる、山陽道上の交通の要衝で姫路城は
 本格的な城郭に拡張 

  
      姫路藩 藩主
池田家:外様 52万石3代、本多家:譜代15万石3代、
松平(奥平)家、松平(越前)家、榊原(松平)家
、松平(越前)家本多家、榊原家、松平(越前)家、
酒井家:10代
 雨降りの中、突然に西の空から太陽出て城を照らす
 昭和6年)1月、大小天守など8棟が国宝に指定
 1993年世界文化遺産
 平成大修理後ライトアップ奇麗、
 中央の画像は夕陽照す

 
 立雲峡より竹田城 日本100名城(56番)          立雲峡より竹田城         立雲峡より竹田城 
   竹田城
 永享3年(1431年)に但馬守護山名宗全(持豊)
 によって築城され、太田垣光景が初代城主と
 言われる伝承を紹介している。
 秀吉は秀長を有子山城主に、秀長の武将で
 ある桑山重晴を竹田城主にそれぞれ命じた。
 江戸幕府の方針により、竹田城は廃城となった。
 東に立雲峡を望む標高353.7mの古城山(虎臥山)
 の山頂に築かれ縄張りは南北約400m、東西約100m。


 立雲峡から撮影予定で山頂へ登る途中雨降り出し
 山頂断念する。桜が両方満開で綺麗、立雲峡の
 駐車場は天気悪いのか空き多い  


 
   福知山城 続日本100名城(158番)          福知山城         福知山城 
   福知山城
小笠原長清の末裔とされる福知山地方の国人
塩見頼勝が、八幡山の脇に掻上城を築城した
のが始まりと言われる。丹波国を平定した
明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を
城主とした。
 
    福知山 藩主
江戸幕府歴代藩主
有馬家:6万石→8万石 外様、岡部家、稲葉家、
松平(深溝)
朽木(くつき)家:3万2000石。譜代 13代

天守の石垣には宝篋印塔、五輪灯篭どの石造物が
大量に使用。
明智光秀は丹波を平定後に福知山城と
改名する。

 
   丹波篠山城 日本100名城(57番)          丹波篠山城         丹波篠山城
   丹波篠山城
徳川家康は豊臣、西国諸大名のおさえとするのが
目的で築城を命じた。藤堂高虎が縄張を担当した。
普請総奉行を池田輝政が務め6か月で完成した。
    歴代藩主
松平〔松井〕家、松平〔藤井〕家、松平〔形原〕家5代
青山家:譜代 5万石 (1748年 - 1871年)6代

    

明治6年) - 城郭の建造物が取り壊され始めた
昭和19年)1月6日 - 失火により大書院が焼失
昭和28年)頃 - 内堀が埋め立てられ、公園化が進む

 
    追加画像
    大阪城 日本100名城(54番)                      
 
   大阪城 1984年撮影
1583年に豊臣秀吉が築城後1629年徳川家康が修築
江戸時代は天領地となり、大阪城代が預かる
1665年落雷により天守火災消失し、その後天守はない
1931年復興天守建設(SCR)現代にいたる
 
  


 
 
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