中部・東海 編
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2023年7月11日~14日愛知・三重・静岡のお城巡りへ行きました 
       二俣城跡 2023.7.14 二俣城跡 2023.7.14 二俣城跡
       本丸跡
静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)にあった日本の城。
山城。天竜川と二俣川に挟まれた天嶮に恵まれた
中世城郭として名高く、武田信玄・勝頼親子と徳川家康
がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げた。
          天守台の石垣
 二俣城といえば、家康の長男・松平信康が若くして父に
 切腹させられた悲劇の地としても知られる。このとき
 服部半蔵が介錯を務めたが、涙のあまり刀が振り下ろせ
 なかったとの話が残る
           天守台より本丸
 天正18年(1590年)、家康の関東転出に伴い堀尾吉晴が
 浜松城に入り、二俣城はその支城となったが、
 慶長5年(1600年)に堀尾氏が出雲に転封すると
 廃城となった。
 
 
       鳥羽城跡 2023.7.13 鳥羽城跡 2023.7.13 鳥羽城跡
    三の丸より本丸方面望む
 三重県鳥羽市鳥羽三丁目)にあった日本の城。
 鳥羽藩の藩庁が置かれた。水軍の城で、大手門が
 海側へ突出して築かれたため、鳥羽の浮城

          上から三の丸を見る
 文禄3年(1594年)当時、豊臣秀吉の家臣であった
 九鬼嘉隆がその跡地に築城した。鳥羽城は、大手水門を
 海岸側に向け、周囲を海で囲まれた

           本丸より海方面望む
 九鬼家5.6万石 外様2代、内藤家3.5万石 譜代3代
 土井家7万石 譜代1代、松平(大給)家6万石 譜代1代
 板倉家5万石 譜代1代、松平(戸田)家7万石 譜代1代
 稲垣家3万石 譜代8代  
 
       鳥羽城跡 2023.7.13 鳥羽城跡 2023.7.13 鳥羽城跡
        本丸方面の石垣跡
  左側は崖で三の丸・二の丸は下に配置
          表門左側石垣と蓮花
               本丸広場と天守台
   
 
      田丸城跡 続日本100名城(154番)  田丸城跡 2023.7.13 田丸城跡
    田丸城表門跡(玉城町立玉城中学校)
 中世から近世をとおして現在の三重県度会郡玉城町
 田丸字城郭にあった日本の城
 南北朝時代に南朝方の拠点として北畠親房、
 北畠顕信によって築かれたといわれる平山城

         表門左側石垣と蓮花
 上は玉城町立玉城中学校があり右車道を100m進むと
 上に登ると富士見門があり駐車場あり



             表門の入口
  田丸城城主
 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いののち、
 松ヶ島城主となった蒲生氏郷の支配下に入る。
 江戸初期田丸藩として稲葉家2代
 久野家:紀伊和歌山藩の御附家老として
 1万石で田丸藩主となり8代続く
 
     田丸城跡 続日本100名城(154番)   田丸城跡 2023.7.13 田丸城跡
        田丸城の本丸石垣
 田丸城跡は建物は復元されないが石垣は見事
          本丸方面の石垣
 
天守本丸の西側は急な崖で田園と山並み綺麗
             御殿門
 
    田丸城跡 続日本100名城(154番)   田丸城跡 2023.7.13 田丸城跡
        田丸城天守台の石垣
 天守台の石垣と本丸広場、綺麗に整備されている
        天守台の下からの石垣
 石垣は見事である
            富士見門(移転)
   
 
      松阪城跡 日本100名城(48番)  松阪城跡 2023.7.12 松阪城跡
        松阪城表門跡
 松阪市の中心地の北部に位置する。阪内川が城北を
 流れ天然の堀となっている。
 伊勢国司・北畠家の武将・潮田長助が四五百森城を
 当地に築城していた

          表門入り口左側石垣
 1584年(天正12年) - 近江国日野城6万石の蒲生氏郷が
 伊勢国12万3千石を与えられ飯高郡松ヶ島城に入城した
 1588年(天正16年) - 氏郷は、松ヶ島は伊勢湾に面し
 城下町の発展性がないと考え、現在の城地に新たに
 築城を開始する
               表門の入口
 1600年(慶長5年) - 関ヶ原の戦いの軍功により
 徳川家康より2万石を加増された。
 1619年(元和5年) - 古田氏は石見国浜田城に転封と
 なり、南伊勢は紀州藩の藩領となった。
 
 
 
      松阪城跡 日本100名城(48番)  松阪城跡 2023.7.12 松阪城跡
        中御門跡
 1644年(正保元年)に天守が台風のため倒壊した
 とされ、以後は天守台のみが残ることとなった。
          右太鼓櫓跡
 1794年には二の丸に紀州藩陣屋が建てられた。
 以後、紀州藩領として明治維新を迎えた。
          本丸広場と奥天守台
 安土城の築城に加わった蒲生氏郷だが、松坂城にも
 この時の石垣作りが取り入れられている。
 
      松阪城跡 日本100名城(48番)  松阪城跡 2023.7.12 松阪城跡
        中御門跡
 蒲生氏郷は自分の出身地でもある穴太衆を中心に
 地元の農民をかり出し石垣をくみ上げていった。


        徳川陣屋跡より御城番屋敷
 紀州藩家老田辺安藤家に紀州藩主徳川頼宣から遣わされて
 いた与力衆の200-300石取り紀州藩士が、安藤家の陪臣と
 なるよう命じられたことに抗議して、幕末の1856年
 (安政3年) 与力衆20人が脱藩して浪人となった
               御城番屋敷
 脱藩から6年後、紀州藩主の直臣40石取りとして帰参を
 許され、松坂御城番職に就いた。
 1863年(文久3年)松坂城南東の三の丸に藩士とその
 家族の 住居として新築されたのがこの組屋敷である。 
 
      津城跡 続日本100名城(152番) 津城跡 2023.7.12 津城跡
            津城跡
 津城は三重県津市丸之内にあり、市街の中心部に位置
 北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これらを天然の
 大外堀としていた。(1558年 - 1569年)に、
 長野氏の一族の細野藤光が安濃・岩田の両河川の
 三角州に小規模な安濃津城を構えたことに始まる

            藤堂高虎像
 1568年)織田信長の伊勢侵攻により織田掃部頭
 (津田一安)が入城。翌年には織田信包が入城した。
 1608年)伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石
 をもって入城し 虎は城の大改修に着手し輪郭式の
 城郭変貌させ、城下町を整備した。以後、明治維新まで
 藤堂氏の 居城となった。
            本丸広場
 元和3年(1617年)に5万石ずつの加増を受け、藤堂氏は
 32万3,000石の大大名となった。
 天守は関ヶ原の戦いで焼失し再建されなかったとされる。
 津は江戸期を通じて伊勢神宮参拝の宿場町として栄え
 「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は
 城でもつ」 と伊勢音頭に謡われた。
 
 
      津城跡 続日本100名城(152番) 津城跡 2023.7.12 津城跡
        丑寅櫓           北側の内堀と石垣               
 
      亀山城跡 2023.7.12 亀山城跡 亀山城跡
        亀山城多門櫓石垣
 文永2年(1265年)に関実忠によって若山(現在の
 三重県亀山市若山町)に築城され、その後現在の
 位置に移された。永禄10年(1567年)の織田信長
 の伊勢進攻以降は、たびたび戦場となった。
          多聞櫓石垣
 伊勢亀山藩歴代藩主
 
関家3万石(外様)1代 、松平(奥平)家5万石(譜代)1代
 三宅家1万石→2万石(譜代)2代、板倉家5万石(譜代)5代
 石川家6万石(譜代)11代
         天守台および本丸
 現在神社となっている


  
 
      神戸城跡 2023.7.12 神戸城跡 神戸城跡
        神戸城跡
 三重県鈴鹿市神戸本多町にあった日本の城である。
 神戸氏4代の神戸具盛が天文年(1532年 - 1555年)
 に築城、城跡は公園として整備され、本丸の石垣
 および 堀の一部が残る。
          天守台(野ずら積み)と碑
 神戸藩歴代藩主
 
一柳家外様 5万石1代 、石川家譜代 2万石3代 、
 本多家譜代 1.5万石7代

         天守台より本丸広場
 かつては神戸信孝により5重6階の天守が築かれ、北東に
 小天守と南西に付櫓がある複合連結式の天守で
 あったことが確認されている。
 
  
 
      桑名城跡 2023.7.12 桑名城跡 桑名城跡
        桑名城跡(九華公園)
 三重県桑名市にあった日本の城である
 桑名市街の東端に位置し揖斐川に臨む水城である。
 1513年に伊藤武左衛門が城館を築いた
          辰巳櫓跡にある大砲
 城の北辺には東海道桑名宿「七里の渡し」があり、交通の
 要衝となっていた。城跡には現存建造物はなく、石垣、堀が
 残るのみ、天守台は神社内にひっそりとあります。
     蟠龍櫓(外観復元) - 「ばんりゅうやぐら」
 安藤広重の有名な浮世絵『東海道五十三次』
 でも、海上の名城と謳われた桑名を表すために
 この櫓を 象徴的に描いています。
 
 
      桑名城跡 2023.7.12 桑名城跡 桑名城跡
        七里の渡し跡
  桑名藩歴代城主
 本多家2代(10万石)、松平(久松)家5代(11万石、
 松平(奥平)家7代(10万石) 
 松平(久松)家5代(11万石)
 幕末には松平容保の実弟である松平定敬が藩主   
            七里の渡し跡の碑
 東海道五十三次で知られる宮宿(名古屋市熱田区)から
 桑名宿(桑名市)までの海路で、七里の渡しの名称は、
 移動距離が7里であったことに由来する。渡し船によって
 移動し、所要時間は約4時間であった。

 
          七里の渡し跡
 4重6階(4重4階の説もあり)の天守は約30年かけて
 寛永12年に松平定綱の代に完成した。
 元禄14年に焼失したが、復興されなかった。
 天守台の場所は現在の神社付近
 
 
      小牧山城跡続日本100名城(149番)  小牧山城跡 2023.7.11撮影 西尾城跡
        小牧山城
 織田信長が美濃攻めの拠点として築城し、後の
 小牧・長久手の戦いでは、徳川家康の陣城となった。
 近年の発掘調査の結果で、城郭を取り巻く三重の石垣
 (三段の石垣で一番下の段は腰巻石垣)が発見された。

          小牧市歴史館(小牧城)
  小牧・長久手の戦い
 織田・徳川連合軍と豊臣秀吉の小牧山で戦い 
 秀吉軍10万人が小牧山を取り囲み織田・徳川軍3万人
 で小牧山に対陣状態
の後、両軍は長久手の戦いで
 徳川軍が勝利する
          小牧山山頂より犬山方面
 16:30から山頂へ行くが歴史館は閉館していた。
 急な階段を上り、標高86mより高速道路方面



  
 
        七州城跡 2023.7.11撮影  七州城跡 七州城跡
        隅櫓 平成24年4月に建築
 七州城(しちしゅうじょう)は、豊田市小坂本町
 正式には「挙母城」(ころもじょう)という
 鎌倉時代の1309年に中條景長によって
 金谷城が 築かれた

         蓮池跡 
 七州とは寛延2年(1749年)、内藤氏が城の改修、桜城から
 高さ65メートルほどの丘である童子山に移し、「三河国」
 「尾張国」「美濃国」「信濃国」「伊賀国」「伊勢国」
 「近江国」の 7つの国が見える高台にあることから、
 「七州城」といった
          蓮池跡(駐車場)
 挙母藩歴代藩主
 三宅家4代 、本多家3代 、内藤家7代 2万石
 現在豊田市美術館敷地内に櫓台の石垣が残り
 隅櫓を再建する

  
 
        西尾城跡 2023.7.11撮影  西尾城跡 西尾城跡
        鍮石門(ちゅうじゃくもん)
 西尾城は、愛知県西尾市錦城町にあった日本の城
 別名は「鶴城、鶴ヶ城」
 三河国守護に任じられた足利義氏が築城した
 西条城が 始まりと伝わる。
            本丸丑寅櫓(うしとら)
 天正13年)に酒井重忠によって、東の丸と帯曲輪の拡張と
 堀や石塁の造成、櫓門、櫓類、天守などが増築された。
 天正18年)田中吉政によって、三の丸の拡張や大手黒門、
 新門の楼門2棟、櫓門2棟が建てられている。
          丑寅櫓と内堀
 西尾藩 歴代藩主:本多(膳所)家、
 松平(府内大給)家、 太田家、井伊(与板)家、
 増山家2代、土井(刈谷)家4代
 三浦家2代、松平(西尾大給)家5代 6万石
  
 
        西尾城跡  西尾城跡 西尾城跡
        二の丸広場
 西尾城の特色は、天守が本丸ではなく二の丸にあり、
 城下に士農工商が混在していたこと、
 「総構え(そうがまえ)」といって城下町の周囲を堀と
 土塁で囲んだことです。 
           天守台の石垣と土塀
 丑寅櫓から天守台につづく土塀は約52m、高さは約2m。
 木造で控え柱である構造で、2ヶ所の折れを持つ
 「屏風折れ」と なっています。
 現在の施設は西尾市資料館と旧近衛邸
           二之丸丑寅櫓
 二之丸丑寅櫓は天守があったとされる二之丸の
 北東隅(丑寅の方角)、鍮石門の北に位置する櫓で、
 江戸の初期に建てられたと推定されます。
   
 
2022年11月8日~10日岐阜県の山城巡りと紅葉及び愛知県長篠城へ3回目に行って来ました。
苗木城と岩村城へ 
    苗木城跡続日本100名城(142番)   苗木城跡 苗木城跡
        苗木城跡の碑
 岐阜県中津川市にあった日本の城。
 別名は霞ケ城。鎌倉時代初期に岩村城を
 本拠地とした遠山氏が恵那郡を統治
 天文年(1532年~)に遠山正廉が苗木城を築く
 武田氏、織田氏、森氏の苗木城攻めて遠山氏は
 徳川家康を頼り浜松に走る
 
       駐車場から歩いて5分 天守台を望む
 木曽川から山頂の天守跡までは、標高差約170メートル。
 急峻な地形を生かして築かれた山城です。
 天守跡に展望台が設けられ、恵那山や木曽川を
 はじめ中津川市街を360度見渡すことができ、
 美しい景色が見ものです。

     石畳みを歩くと風吹門(大手門)
 苗木城の石垣には、なんと自然の巨岩がそのまま
 活用されています。苗木城の特徴は、大人の背丈を
 優に超える巨石や断崖など自然の地形を
 最大限に生かした城壁

  
 
    苗木城跡 続日本100名城(142番)  苗木城跡 苗木城跡
        大矢倉
 
「岐阜のマチュピチュ」と呼ばれる所以となった
 「大矢倉」は、かつて3階建ての櫓があった
 土台部分が残っています。
          本丸下の石垣
 高さ7m以上ある石垣で素晴らしい加工で苗木城は
 門跡と石垣が多く保存されている。天然の巨岩を利用
 して頑固な城郭を築いている
          本丸からみる大矢倉
 
1600年(慶長5年)頃に遠山友政によって築かれた
 天守、関ヶ原合戦で東軍に属して、苗木藩として
 1万500石と幕末まで遠山氏12代続く  
 
   苗木城跡続日本100名城(142番)  苗木城跡 苗木城跡
        天守台と石垣
 
天守閣は2重3階で巨岩の上に建てられていた
 360度の展望である。1万石の領地大名としては
 このような規模の大きい城壁を持つのは異例
 
        天守台より望む木曽川と恵那山
 苗木城は人気で多くの人達が登城している。
 駐車場は上には20台程度可能
 下に歴史資料館があり、駐車場もあります
          天守台
 日本続100名城142番


  
 
    岩村城跡日本100名城(38番) 岩村城跡  岩村城跡
    太鼓櫓、表御門、平重門 藩主邸
 
岐阜県恵那市岩村町にある中世の日本の城
 (山城跡)で、「霧ヶ城」とも呼ばれる。
 奈良県の高取城、岡山県の備中松山城と並び、
 日本三大山城の一つとされる。 
           大手一ノ門 
 鎌倉幕府の御家人加藤景廉の長男遠山景朝が築き、
 その子孫の岩村遠山氏が戦国時代まで城主であった
 戦国時代に遠山氏最後の城主は遠山景任病没すると
 信長は5男で幼少の坊丸(織田勝長)を遠山氏の養子
          土岐門
 となって後見は信長の叔母にあたる女性
 (通称はおつやの方など)で幼少の養子に代わって
 女城主として差配を振るった。岩村城は武田方に敗れ、
 おつやの方は秋山虎繁と婚姻するという条件で降伏  
 
    岩村城跡日本100名城(38番)  岩村城跡 岩村城跡
        畳橋付近の追手門
 1575年(天正3年)武田勢が弱体化した期に乗じ
 信長は岩村城奪還を行った。
 
            追手門跡
 土岐門に続く第三の門が追手門で、前面の空堀には
 畳橋と呼ばれる木橋がかかっていまし た。
          六段壁
 本丸の北東面には雛壇に築かれた六段の
 見事な石垣が残されています。
 
 
    岩村城跡日本100名城(38番)  岩村城跡 岩村城跡
        六段壁
 
戦国時代のおんな城主で有名 おやつ と言う
 織田信長の伯母上(歳は若い)で武田方の武将
 秋山虎繁が岩村城を攻め落としておやつうは
 苦渋の末、城兵・領民を守る為に虎繁の妻となる
 その後、武田氏の勢力が衰え信長は夫婦を処刑
          長局埋門
 二の丸から本丸へ入る門。位置的には本丸北口で有り、
 裏門にあたります。


          本丸より長局埋門
 江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、 
 駿府に隠居した。1610年(慶長15年)完成した。
 天守台は、石垣上端で約55m×48mという城郭
 史上最大級の規模であった。
  
 
    岩村城跡日本100名城(38番)  岩村城跡 岩村城跡
        南曲輪
 
高さ7mあり、出丸と本丸にある石垣



          出丸 現在は駐車場
 本丸と六段崖等の石垣見るだけでは楽な駐車場
 本丸の海抜717mで資料館口から登城すると800m
 約150m登る、約45分で本丸まで
          本丸跡
 江戸時代の岩村藩主と石高
 1.大給松平家(宗家) 2代 2万石 譜代
 2.丹羽家    5代 2万石 譜代
 3.大給松平家(分家) 7代 3万石譜代 
 
    長篠城跡日本100名城(46番)  長篠城跡 長篠城跡
        長篠城跡碑
 
豊川と宇連川が合流する場所に突き出した
 断崖絶壁の上にあり、1508年奥三河の土豪である
 菅沼元成が築城した菅沼氏は今川氏の部将で5代
 武田信玄に屈する

          内堀
 信玄死後、1575年6月武田勝頼が15000の兵を率いて
 奥平信昌が約五百の手勢で守る長篠城を攻め囲み、
 長篠の戦いが始まる。
 奥平信昌は長篠の戦い後、新城に新たな城を築き
 長篠城は廃城となる
          長篠城址史跡保存館
 
長篠の戦い
 
長篠城の守備隊は500人の寡兵であった200丁の
 鉄砲や大鉄砲を有しており、
地形のおかげ
 武田軍の猛攻に何とか持ちこたえていた。
 
 
    長篠城跡日本100名城(46番)  長篠城跡 長篠城跡
        本丸跡
 兵糧蔵の焼失により食糧を失い落城必至の状況
 城側は貞昌の家臣である鳥居強右衛門(すねえもん)
 を密使として放ち、約65km離れた岡崎城の家康へ
 緊急事態を訴えて、援軍を要請させることにした。


 
           本丸・野牛曲輪跡
 岡崎城では、既に信長の率いる援軍3万人が、家康の
 手勢8000人とともに長篠へ出撃する態勢であった。
 この朗報を一刻も早く長篠城に伝えようと
 引き返したが、16日の早朝、城の目前まで
 来たところで武田軍に見つかり、捕らえられる
 豊川と宇連川が合流する中央が長篠城

          鳥居強右衛門の磔つけの場所
 武田勝頼は、鳥居に向かって『援軍は来ない。
 あきらめて早く城を明け渡せ』と叫べ。お前の命を
 助け、所領も望みのままに与えてやろう」と
 取引を持ちかけた。鳥居は、「あと二、三日で、
 数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ」と、
 勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫んだ。
 鳥居は
槍で突き殺ろされた  
 
        設楽原古戦場 設楽原古戦場 設楽原古戦場
        馬防柵
 
信長軍30,000と家康軍8,000は、5月18日に
 長篠城手前の設楽原に着陣。
 信長はこの点を利用し、30,000の軍勢を敵から
 見えないよう、途切れ途切れに布陣させた
 
         馬防柵と徳川陣地
 小川・連吾川を堀に見立てて防御陣の構築に努める。
 馬防柵を設けるという当時の日本としては異例の
 野戦築城だった。火縄銃3000丁で武田の騎馬隊を
 撃ち落とすのである

        馬防柵から見た武田軍側 
 
酒井忠次に率い長篠城包囲の要であった鳶ヶ巣山砦
 を4000名の別働隊を組織し、奇襲を命じた
 設楽原では、武田軍が織田・徳川軍を攻撃。戦いは
 昼過ぎまで続いた(約8時間)武田軍は10,000名
 以上と重臣がほとんど犠牲となり敗戦 
 
 
2022年7月28日~29日静岡県の100名城・続100名城巡りと神社巡りに猛暑の中行って来ました。
静岡県の名城 
興国寺城「続日本100名城145番」だけ残りです 
    駿府城跡日本100名城(41番)  駿府城跡 駿府城跡
        駿府城跡碑
 
4世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏に
 この地には今川館が築かれ今川領国支配の中心地。
 武田領国化される
 
          東御門 高麗門(復元)
 天正13年) 駿河国を支配した徳川家康浜松城より
 
居城を移して築城開始。
 天正18年) 小田原征伐後、江戸に移封となった徳川家康に
 代わり、中村一氏が大名として入城
          巽櫓 東御門(復元)
 江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、 
 駿府に隠居した。1610年(慶長15年)完成した。
 天守台は、石垣上端で約55m×48mという城郭
 史上最大級の規模であった。  
 
    駿府城跡日本100名城(41番)  駿府城跡 駿府城跡
          坤櫓(ひつじさるやぐら)
 
1616年(元和2年) 家康、駿府城で死去(75歳)
 1624年(寛永元年) 徳川忠長が駿府城主となる
 1631年(寛永8年) 忠長が乱心、改易と蟄居 
          鷹狩り姿の徳川家康公之像
 駿府は公儀御料(江戸幕府直轄領)となり、駿府城代・
 駿府定番が置かれる。
 
          二ノ丸水路
 1635年(寛永12年) 城下の火災が城に延焼
 1707年(宝永4年)宝永地震により駿府城石垣等が大破
 1854年(安政元年)安政の大地震によりほぼ全壊する
 
    駿府城跡日本100名城(41番)  駿府城跡 駿府城跡
          紅葉山公園
 
紅葉山庭園は駿府城公園内に平成13年秋に
 完成した日本庭園と茶室です。
 
          県庁別館21階展望室より東御門
 本丸堀と巽櫓、東御門、奥に紅葉山公園及び中堀
 県庁別館21階は誰でも展望室に入ります。無料駐車場
 1時間だけOKです

        県庁別館21階展望室より天守台発掘
 2016年(平成28年)8月 天守台発掘調査開始
 発掘現場の中にも入れます

 
  諏訪原城跡 続日本100名城(146番)   諏訪原城跡 諏訪原城跡
   諏訪原城跡碑
 
諏訪原城(牧野城)は遠江国の東端近くの
 牧之原台地の舌 状台地の先端部に立地する。
 武田軍が遠江(徳川領)攻略の出城として築城 
          諏訪原城の図
 (1575)8月、長篠で敗戦した後、遠江に進攻した
 徳川家康の手に落ち、牧野城と改名。

          二の曲輪中馬出(三月日堀)
   武田流築城術の特徴と言われる丸馬出


 
  諏訪原城跡 続日本100名城(146番)    諏訪原城跡 諏訪原城跡
           外堀
 
諏訪原城は地形に守られた「後ろ堅固」の城
 虎口側は平坦ですが本曲輪東側が断崖で大井川
 が流れて自然地形に守られていた
          薬医門(やくいもん)
  発掘調査で確認された門の礎石から復元した
  平成28年 

          本丸台から大井川を望む
   本曲輪から望む島田市街 東側は断崖で
   なかなか攻められない地形

 
  高天神城跡 続日本100名城(147番)   高天神城跡 高天神城跡
 
  北口 搦手門(からめてもん)より登城
 
山の高さは海抜132m、城郭全体の面積も
 なく、山自体が急斜面 


          高天神城図
 高天神城には治承・寿永の乱(源平合戦)の際に築城された
 との伝承があるが、不明、戦国時代末期には武田信玄
 ・勝頼と徳川家康が 激しい争奪戦を繰り広げた。

  
          高天神城 北側搦手門
  勝頼も天正2年(1574年)に高天神城を攻撃、
  猛攻を加えて結果二ノ丸が落城した。


 
   高天神城跡 続日本100名城(147番)  高天神城跡  高天神城跡
 
        本丸広場
 
天正8年(1580年)9月、徳川軍は満を持して
 高天神城を攻撃した(第二次高天神城の戦い)。
 天正9年(1581年)3月下旬、岡部以下の将兵が
 突撃を敢行し討死して高天神城は陥落した。
 
          本丸より北側を望む
 落城後、高天神城は廃城となり、城の山頂に 高天神社が
 あったために、山自体は地元のシンボル


  
          本丸方面
  今回の登城は3日前に豪雨で湿気多く登城する
  人は誰もいない、北側の階段はかなり急坂
  汗流しで山頂へ尾根で左右は直角の崖 

 
     横須賀城跡   横須賀城跡 横須賀城跡
 
   本丸広場と天守台
 
大須賀家2代、能見(松平)家2代、井上家2代、
 本多家1代、西尾忠成が2万5千石で7代をもって
 明治維新まで続く、西尾家は老中になり3.5万石 
 
          横須賀城の特徴
 他に類を見ない、天竜川より運ばれた玉石垣を用いた
 築城法である。天守閣は三層四階であったが
 宝永地震で隆起
  
          横須賀城
   綺麗な玉石垣が見ものでよく整備されています。
   近くには城下町で古い家並みあり


 
    掛川城 日本100名城(42番)   掛川城  横須賀城跡  
     掛川城  別名:懸川城、懸河城、雲霧城、
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは山内一豊は
 居城である掛川城を真先に家康に提供する、


 2014年11月に登城しております。今回は立ち寄り
 今天守の回り工事で大型クレーンにより荷物上げ
 良い画像撮れず

  
          掛川市 横須賀城跡
  横須賀城は武田氏が高天神城攻撃で徳川家康が
  大須賀康高に命じて築いた城で、江戸時代も
  横須賀藩として、家、田んぼ付近まで海であった
  。
 
  2022年5月19日山梨県の100名城・続100名城巡りと神社仏閣巡りに行きました。
   
新府城・甲府城・躑躅ヶ崎館・要害山城及び武田神社・甲州善光寺・恵林寺 日帰りにて 
   甲府城 日本100名城(25番)   甲府城  甲府城 
 
   稲荷曲輪門
 
稲荷曲輪南西部にあった。薬医門。復元されている。
  
          数寄屋櫓跡を望む
  階段上がると数寄屋曲輪広場へ
  
          甲府城全体図
   全体に石垣が美しく良い城でありました。
   これで3回登城しましたが、復元門、櫓があり
   楽しかった。
 
   甲府城 日本100名城(25番)  甲府城  甲府城 
 
          銅門跡 
 本丸西側に位置し、鉄門と対だとされる門です。
 当時の礎石が残っています

           本丸広場より天守台
    そもそも天守が存在していたのか否かについて、
    議論や検証が続いている。
  
         稲荷櫓
 稲荷曲輪北東にあった。復元されている。古写真が
 発見されている。二重櫓二階に千鳥破風別名丑寅櫓。
 平成15年に復元された。
 
    甲府城 日本100名城(25番) 甲府城  甲府城 
 
        上がると天守曲輪へ
  上側には櫓か門があったような石垣である




              鉄門
 本丸搦手門にあたる。櫓門 平成22年には鉄門の復元が
 決定され、2013年度に完成


  
            謝恩碑 高さ約35m
 この記念碑は明治40年の大水害など度重なる水害に
 よって荒廃した山梨県内の山林に対し、明治天皇より
 山梨県内の御料地の下賜(かし)が行われたことに
 対する感謝と水害の教訓を後世に伝えるために
 大正11年)に建設された。
 
   甲府城 日本100名城(25番)  甲府城  甲府城 
 
   甲府城 遊亀橋 別名は舞鶴城、一条小山城
  梯郭式平山城 築城主:豊臣秀吉・徳川家康?
  1583年~1586年頃  
 
          天守台と石垣  甲府藩歴代藩主
 尾張徳川家→駿河徳川家→甲府徳川家2代→柳沢家2代
 1724年より幕府直轄領となり
  
              坂下門石垣
 積み方が違っていることから積んだ時代が違うと
 考えられている石垣が並んでいます。
 
   躑躅ヶ崎館 日本100名城(24番)  躑躅ヶ崎館  躑躅ヶ崎館 
 
  躑躅ケ崎舘 別名は武田氏館跡 連郭式平城
  築城主:武田信虎 築城年:1519年
 甲斐国守護武田氏の本拠である甲府に築かれた館
 武田氏3代が60年あまり本拠地として
 使用されました。

     躑躅ケ崎舘 (武田神社)堀に架けられた神橋
  武田神社の由来:武田信玄を祭神とする
 1915年(大正4年)、大正天皇の即位記念に武田信玄に
 従三位が追贈されたのを大正8年)には社殿が竣工し、
 信玄の命日にあたる4月12日には初の例祭が行われた。

      躑躅ケ崎舘の説明掲示板
 左図の左右に昔の舘の門石垣があります。
 じっさいには戦時のために裏山に詰城である要害山城を
 配置して、守りを固める構造になっています。

 
 
   躑躅ヶ崎館 日本100名城(24番)   躑躅ヶ崎館  躑躅ヶ崎館   
 
   躑躅ケ崎舘 神橋から堀を望む
 重要文化財(国指定):太刀 銘一(吉岡一文字)
 宝物殿には甲冑や甲州金など展示されている
 
          躑躅ケ崎舘 神橋から堀を望む
 今回で4度目の訪問で以前来た時は能舞台で披露
 されていた。
          武田神社の本殿
 
 神社の本殿画像は神社仏閣をご覧下さい
 
   要害山城 続日本100名城(128番)  要害山城  要害山城 
 
   要害山城 別名は積翠山城
  甲府市上積翠寺町(かみせきすいじまち)にあった
  日本の城。躑躅ヶ崎館(武田氏館跡)の詰城として
  築かれた山城である。 
           要害山城
 標高770メートルの丸山と呼ばれる要害山中腹の傾斜地を
 中心に築かれている。築城は武田信虎時代の永正17年
 (1520年)6月であるという。
         要害山城への登山口
  途中まで登るが引き返す


 
 新府城跡 続日本100名城(127番)  新府城跡 続日本100名城(127番)  新府城跡 続日本100名城(127番)
 
   新府城 別名は韮崎城 連郭式平城
 甲府盆地西部に位置。釜無川と塩川が侵食して形成
 西側は侵食崖で、東に塩川が流れる。 天正3年
 (1575年)5月21日の長篠の戦いで敗れた後 

  車道から鳥居階段を登る(緩やかな登城口あり)
 築城は天正9年(1581年)から開始され、年末には勝頼が
 躑躅ヶ崎館から新府城へ移住している。翌年信濃の木曽義昌
 謀反鎮圧で諏訪へ出兵するが、
  
      階段を登りと稲荷神社本殿
 織田・徳川連合軍に阻まれて帰国、勝頼は3月に家臣の
 小山田信茂の岩殿城に移るために、城に火をかける。
 岩殿城に向う途中に笹子峠で信茂の謀反にあい、
 天目山に追いつ詰められ武田一族は滅亡する。
 
 新府城跡 続日本100名城(127番)  新府城跡 続日本100名城(127番) 新府城跡 続日本100名城(127番) 
          新府城本丸後
 石垣を使われない平山城で、本曲輪・二の曲輪・
 東の三の曲輪・西の三の曲輪・帯曲輪などにより
 構成され、丸馬出し・三日月堀・枡形虎口どの
 防御施設を持つ。
 
           新府城の構成図
 築城の時、普請奉行として真田昌幸と言われ、配下の
 国衆に人足動員を命じたものとされる

 
           新府城本丸跡
  本丸跡は平地で整備され、トイレも完備、野鳥も多く
  飛び回っております、コゲラ・キビタキ・オオルリ
  ・ガビチョ  ゆっくり野鳥撮影したいと思います。

 
 新府城跡 続日本100名城(127番)  新府城跡 続日本100名城(127番) 新府城跡 続日本100名城(127番)
           東大手門の馬出し跡
 大手馬だしは城門の前に築いて敵から人馬が見えない
 土手のことで、馬出しは甲州流築城法の特徴である
 二の丸等はまだ整備されず 
  
          東出構と西出構の堀の跡
 
 画像の盛り土が西出構で手前に東出構がある
  奥に乾門があります。

          乾門 枡形虎口
 発掘で門跡の柱穴が発見して現在は鉄蓋されている
 右側は七里岩の絶壁で下は釜無川である

 

 
  東海・中部編  2014年11月18日より中部・東海のお城巡りに行きました  
   大垣城 続日本100名城(144番)   大垣城 大垣城 
 
   大垣城 別名は麋城、巨鹿城 平城
 1500年(明応9年)に竹腰尚綱によって造られる
 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には
 石田三成らが入城して西軍の根拠地
  
           旧柳口門と右に艮櫓あり
     大垣藩歴代藩主
 石川家 譜代 5万石  ・松平(久松)家 親藩 2万石
 阿部家 譜代 5万石  ・松平(久松)家 親藩 6万石
 戸田家 譜代 10万石 11代  
 天守台より市街地望む
 昭和11年に国宝にしていされたが太平洋戦争
 の空襲により天守や艮櫓などが焼失
 天守の再建は1959年
 
    墨俣城   墨俣城  墨俣城 
 岐阜県大垣市墨俣町墨俣
 1566年美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎が
 短期間で造った一夜城で江戸期にはない
 
 
 墨俣城天守閣より岐阜城を望む
 岐阜城を模写して作る
 
 天守閣より長良川見て遠くに岐阜城
 
    岐阜城 日本100名城(39番)   岐阜城  岐阜城
    岐阜城 
 (稲葉山)にある山城跡。稲葉山城とも言う
 1539年斎藤利政が、稲葉山山頂に城作り
 1601年家康は岐阜城の廃城を決め加納城を築城 
   
  山頂からの岐阜城は撮影困難
  天守閣より長良川を望む
  1956年再建 
 
        
 
 長良川の河川敷より撮影
 2015年10月に再度撮影


 
    犬山城 日本100名城(43番)  犬山城  犬山城
 
 
  犬山城 (国宝)
 愛知県犬山市にあった城である。 国宝の一つ
 
別名は白帝城、木曽川沿いの高さ約88メートル
 ほどの丘に築かれた平山城である
   
 
          木曽川対岸より夕日の犬山城   
     犬山藩歴代藩 
  小笠原家:譜代5万
  平岩家 :11万石 (尾張藩家老)
  成瀬家 :3万石 (尾張藩家老 
 天守閣より木曽川の堰を見る。
 御嶽山も見える 
 
     清州城   清州城   清州城
     
 愛知県清須市一場にあった城。平城
 信長は、この城から桶狭間の戦いに
 出陣するなど、約10年間清須を居城とした。
 望楼型3重4階 1989年RC造模擬 
 織田信長がたおれて、跡目相続で清洲会議後、
 織田信雄が城主となる
 1595年)には福島正則の居城
 慶長12年(1607年)には家康の九男徳川義直
 慶長14年(1609年)名古屋と統合され廃城となる。 
 天守閣の最上階より名古屋城を望む 
 
 名古屋城 日本100名城(44番)   名古屋城  名古屋城
愛知県名古屋市。平城 日本100名城44番
名古屋城は、織田信長誕生の城とされる。
別名金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城。
姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられる
         天守閣と西南隅櫓
 徳川氏の支系徳川御三家の一つで、尾張藩主の家系
 徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城
 徳川御三家中の筆頭格
 正門(榎多門)の菊人形
 尾張藩主 徳川光友公
  
 
     岩崎城   岩崎城   岩崎城 
        
愛知県日進市岩崎)にあった戦国時代の平山城
天正12年(1584年)に起きた岩崎城の戦いとは、
小牧・長久手の戦いのうち長久手の戦いの緒戦と
なった戦いである。 
 昭和62年(1987年)には、展望塔として五重構造の
 天守閣(模擬天守)が築城、「岩崎城址公園」として
 整備された 
   岩崎城の駐車場と入口 お城好きの友人 
 
 吉田城 続日本100名城(151番)  吉田城  吉田城 
   
 愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった城
 幕藩体制の下で吉田城に三河吉田藩の
 藩庁が置かれた別名:吉祥郭、峯野城、歯雑城。
   三河吉田藩歴代藩主
 松平(竹谷)家3万石→松平(深溝)家3万石→
 小笠原家4万石→牧野家8万石→
 松平(大河内)家7万石  
 吉田城は豊川と朝倉川合流地点に立地。
 天守閣はなく画像の鉄櫓が代わりとなる  
 
    岡崎城 日本100名城(45番)   岡崎城
 
    岡崎城  別名:龍城 
(愛知)2013.11撮影 連郭式平山城
徳川家康の生地である。1452年西郷稠頼・頼嗣築城
     岡崎藩歴代藩主
 本多家 4代 5万石、水野家 7代 6万
 松平家(松井)1代 5万
 本多家 6代 5万石 幕末
 
      
 
    浜松城 続日本100名城(148番)  浜松城  浜松城
 
  浜松城 別名:出世城  半円郭式平城
 1570年)に家康は武田信玄の侵攻に備えるため
 本拠地を三河国岡崎から遠江国曳馬へ移した。
 野面積みの石垣で有名
      浜松藩歴代藩主
 松平(桜井)家5万石→太田家3万石→青山家 5万石
 松平(本庄)家7万石→松平(大河内・長沢)家7万石
 松平(本庄)家7万石→井上家6万石→水野家5万石
 井上家6万石 
 垣が有名で家康が武田との三方ヶ原での
 逃げ込んだ居城  
 
    掛川城 日本100名城(42番)  掛川城 掛川城 
     
   掛川城  別名:懸川城、懸河城、雲霧城、
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは山内一豊は
 居城である掛川城を真先に家康に提供する、

    掛川藩歴代藩主
 松平(久松)家1万石→安藤家3万石→
 松平(桜井)家4万石→井伊家3.5万石→
 小笠原家6万石→太田家5万石 
 豊臣時代に山内一豊の居城で、関ヶ原開戦前に
 徳川家康に引き渡して味方した功績で土佐国を
 与えられた有名な話である。 
 
    小山城   小山城   小山城 
   
 静岡県榛原郡吉田町にかつてあった城である。
 今川氏を倒した武田氏により、1571年築城された。
 1582年(天正10年)、甲州征伐のため駿河・甲斐に
 向け出陣した徳川家康の攻撃を受け落城した。
 江戸時代は藩と城はない 
   土塁と橋を復元
 城内部には地元刀工島田義助系の刀剣が多く展示 
    天守閣より富士山を望む 
 
 
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