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2022年5月19日山梨県の100名城・続100名城巡りと神社仏閣巡りに行きました。
新府城・甲府城・躑躅ヶ崎館・要害山城及び武田神社・甲州善光寺・恵林寺 日帰りにて |
甲府城 日本100名城(25番) |
甲府城 日本100名城(25番) |
甲府城 日本100名城(25番) |
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稲荷曲輪門
稲荷曲輪南西部にあった。薬医門。復元されている。
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数寄屋櫓跡を望む
階段上がると数寄屋曲輪広場へ
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甲府城全体図
全体に石垣が美しく良い城でありました。
これで3回登城しましたが、復元門、櫓があり
楽しかった。
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甲府城 日本100名城(25番) |
甲府城 日本100名城(25番) |
甲府城 日本100名城(25番) |
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銅門跡
本丸西側に位置し、鉄門と対だとされる門です。
当時の礎石が残っています
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本丸広場より天守台
そもそも天守が存在していたのか否かについて、
議論や検証が続いている。 |
稲荷櫓
稲荷曲輪北東にあった。復元されている。古写真が
発見されている。二重櫓。二階に千鳥破風。別名丑寅櫓。
平成15年に復元された。
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甲府城 日本100名城(25番) |
甲府城 日本100名城(25番) |
甲府城 日本100名城(25番) |
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上がると天守曲輪へ
上側には櫓か門があったような石垣である
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鉄門
本丸搦手門にあたる。櫓門 平成22年には鉄門の復元が
決定され、2013年度に完成
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謝恩碑 高さ約35m
この記念碑は明治40年の大水害など度重なる水害に
よって荒廃した山梨県内の山林に対し、明治天皇より
山梨県内の御料地の下賜(かし)が行われたことに
対する感謝と水害の教訓を後世に伝えるために
大正11年)に建設された。
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甲府城 日本100名城(25番) |
甲府城 日本100名城(25番) |
甲府城 日本100名城(25番) |
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甲府城 遊亀橋 別名は舞鶴城、一条小山城
梯郭式平山城 築城主:豊臣秀吉・徳川家康?
1583年~1586年頃 |
天守台と石垣 甲府藩歴代藩主
尾張徳川家→駿河徳川家→甲府徳川家2代→柳沢家2代
1724年より幕府直轄領となり |
坂下門石垣
積み方が違っていることから積んだ時代が違うと
考えられている石垣が並んでいます。 |
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躑躅ヶ崎館 日本100名城(24番) |
躑躅ヶ崎館 日本100名城(24番) |
躑躅ヶ崎館 日本100名城(24番) |
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躑躅ケ崎舘 別名は武田氏館跡 連郭式平城
築城主:武田信虎 築城年:1519年(永正16年)
甲斐国守護武田氏の本拠である甲府に築かれた館
武田氏3代が60年あまり本拠地として使用されました。
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躑躅ケ崎舘 (武田神社)堀に架けられた神橋
武田神社の由来:武田信玄を祭神とする
1915年(大正4年)、大正天皇の即位記念に武田信玄に
従三位が追贈されたのを大正8年)には社殿が竣工し、
信玄の命日にあたる4月12日には初の例祭が行われた。 |
躑躅ケ崎舘の説明掲示板
左図の左右に昔の舘の門石垣があります。
じっさいには戦時のために裏山に詰城である要害山城を
配置して、守りを固める構造になっています。
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躑躅ヶ崎館 日本100名城(24番) |
躑躅ヶ崎館 日本100名城(24番) |
躑躅ヶ崎館 日本100名城(24番) |
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躑躅ケ崎舘 神橋から堀を望む
重要文化財(国指定):太刀 銘一(吉岡一文字)
宝物殿には甲冑や甲州金など展示されている |
躑躅ケ崎舘 神橋から堀を望む
今回で4度目の訪問で以前来た時は能舞台で披露
されていた。 |
武田神社の本殿
神社の本殿画像は神社仏閣をご覧下さい |
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要害山城 続日本100名城(128番) |
要害山城 続日本100名城(128番) |
要害山城 続日本100名城(128番) |
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要害山城 別名は積翠山城
甲府市上積翠寺町(かみせきすいじまち)にあった
日本の城。躑躅ヶ崎館(武田氏館跡)の詰城として
築かれた山城である。 |
要害山城
標高770メートルの丸山と呼ばれる要害山中腹の傾斜地を
中心に築かれている。築城は武田信虎時代の永正17年
(1520年)6月であるという。 |
要害山城への登山口
途中まで登るが引き返す |
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新府城跡 続日本100名城(127番) |
新府城跡 続日本100名城(127番) |
新府城跡 続日本100名城(127番) |
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新府城 別名は韮崎城 連郭式平城
甲府盆地西部に位置。釜無川と塩川が侵食して形成
西側は侵食崖で、東に塩川が流れる。 天正3年
(1575年)5月21日の長篠の戦いで敗れた後 |
車道から鳥居階段を登る(緩やかな登城口あり)
築城は天正9年(1581年)から開始され、年末には勝頼が
躑躅ヶ崎館から新府城へ移住している。翌年信濃の木曽義昌
謀反鎮圧で諏訪へ出兵するが、
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階段を登りと稲荷神社本殿
織田・徳川連合軍に阻まれて帰国、勝頼は3月に家臣の
小山田信茂の岩殿城に移るために、城に火をかける。
岩殿城に向う途中に笹子峠で信茂の謀反にあい、
天目山に追いつ詰められ武田一族は滅亡する。 |
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新府城跡 続日本100名城(127番) |
新府城跡 続日本100名城(127番) |
新府城跡 続日本100名城(127番) |
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新府城本丸後
石垣を使われない平山城で、本曲輪・二の曲輪・
東の三の曲輪・西の三の曲輪・帯曲輪などにより
構成され、丸馬出し・三日月堀・枡形虎口どの
防御施設を持つ。 |
新府城の構成図
築城の時、普請奉行として真田昌幸と言われ、配下の
国衆に人足動員を命じたものとされる
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新府城本丸跡
本丸跡は平地で整備され、トイレも完備、野鳥も多く
飛び回っております、コゲラ・キビタキ・オオルリ・ガビチョ
ゆっくり野鳥撮影したいと思います。
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新府城跡 続日本100名城(127番) |
新府城跡 続日本100名城(127番) |
新府城跡 続日本100名城(127番) |
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東大手門の馬出し跡
大手馬だしは城門の前に築いて敵から人馬が見えない
土手のことで、馬出しは甲州流築城法の特徴である
二の丸等はまだ整備されず |
東出構と西出構の堀の跡
画像の盛り土が西出構で手前に東出構がある
奥に乾門があります。
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乾門 枡形虎口
発掘で門跡の柱穴が発見して現在は鉄蓋されている
右側は七里岩の絶壁で下は釜無川である |
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東海・中部編 2014年11月18日より中部・東海のお城巡りに行きました |
大垣城 続日本100名城(144番) |
大垣城 |
大垣城 |
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大垣城 別名は麋城、巨鹿城 平城
1500年(明応9年)に竹腰尚綱によって造られる
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には
石田三成らが入城して西軍の根拠地 |
旧柳口門と右に艮櫓あり
大垣藩歴代藩主
石川家 譜代 5万石 ・松平(久松)家 親藩 2万石
阿部家 譜代 5万石 ・松平(久松)家 親藩 6万石
戸田家 譜代 10万石 11代 |
天守台より市街地望む
昭和11年に国宝にしていされたが太平洋戦争
の空襲により天守や艮櫓などが焼失
天守の再建は1959年 |
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墨俣城 |
墨俣城 |
墨俣城 |
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岐阜県大垣市墨俣町墨俣
1566年美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎が
短期間で造った一夜城で江戸期にはない
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墨俣城天守閣より岐阜城を望む
岐阜城を模写して作る
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天守閣より長良川見て遠くに岐阜城
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岐阜城 日本100名城(39番) |
岐阜城 |
岐阜城 |
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岐阜城
(稲葉山)にある山城跡。稲葉山城とも言う
1539年斎藤利政が、稲葉山山頂に城作り
1601年家康は岐阜城の廃城を決め加納城を築城
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山頂からの岐阜城は撮影困難
天守閣より長良川を望む
1956年再建
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長良川の河川敷より撮影
2015年10月に再度撮影
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犬山城 日本100名城(43番) |
犬山城 |
犬山城 |
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犬山城 (国宝)
愛知県犬山市にあった城である。 国宝の一つ
別名は白帝城、木曽川沿いの高さ約88メートル
ほどの丘に築かれた平山城である
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木曽川対岸より夕日の犬山城
犬山藩歴代藩
小笠原家:譜代5万
平岩家 :11万石 (尾張藩家老)
成瀬家 :3万石 (尾張藩家老 |
天守閣より木曽川の堰を見る。
御嶽山も見える |
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清州城 |
清州城 |
清州城 |
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愛知県清須市一場にあった城。平城
信長は、この城から桶狭間の戦いに
出陣するなど、約10年間清須を居城とした。
望楼型3重4階 1989年RC造模擬 |
織田信長がたおれて、跡目相続で清洲会議後、
織田信雄が城主となる
1595年)には福島正則の居城
慶長12年(1607年)には家康の九男徳川義直
慶長14年(1609年)名古屋と統合され廃城となる。 |
天守閣の最上階より名古屋城を望む |
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岩崎城 |
岩崎城 |
岩崎城 |
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愛知県日進市岩崎)にあった戦国時代の平山城
天正12年(1584年)に起きた岩崎城の戦いとは、
小牧・長久手の戦いのうち長久手の戦いの緒戦と
なった戦いである。 |
昭和62年(1987年)には、展望塔として五重構造の
天守閣(模擬天守)が築城、「岩崎城址公園」として
整備された |
岩崎城の駐車場と入口 お城好きの友人
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吉田城 続日本100名城(151番) |
吉田城 |
吉田城 |
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愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった城
幕藩体制の下で吉田城に三河吉田藩の
藩庁が置かれた別名:吉祥郭、峯野城、歯雑城。
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三河吉田藩歴代藩主
松平(竹谷)家3万石→松平(深溝)家3万石→
小笠原家4万石→牧野家8万石→
松平(大河内)家7万石 |
吉田城は豊川と朝倉川合流地点に立地。
天守閣はなく画像の鉄櫓が代わりとなる |
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岡崎城 日本100名城(45番)
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岡崎城 |
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岡崎城
別名:龍城
(愛知)2013.11撮影 連郭式平山城
徳川家康の生地である。1452年西郷稠頼・頼嗣築城
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岡崎藩歴代藩主
本多家 4代 5万石、水野家 7代 6万
松平家(松井)1代 5万
本多家 6代 5万石 幕末
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掛川城 日本100名城(42番) |
掛川城 |
掛川城 |
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掛川城 別名:懸川城、懸河城、雲霧城、
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは山内一豊は
居城である掛川城を真先に家康に提供する、
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掛川藩歴代藩主
松平(久松)家1万石→安藤家3万石→
松平(桜井)家4万石→井伊家3.5万石→
小笠原家6万石→太田家5万石 |
豊臣時代に山内一豊の居城で、関ヶ原開戦前に
徳川家康に引き渡して味方した功績で土佐国を
与えられた有名な話である。 |
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小山城 |
小山城 |
小山城 |
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静岡県榛原郡吉田町にかつてあった城である。
今川氏を倒した武田氏により、1571年築城された。
1582年(天正10年)、甲州征伐のため駿河・甲斐に
向け出陣した徳川家康の攻撃を受け落城した。
江戸時代は藩と城はない |
土塁と橋を復元
城内部には地元刀工島田義助系の刀剣が多く展示 |
天守閣より富士山を望む |
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