機動部隊による前例のない軍港空襲 昭和16年11月26日、空母6隻を基幹とする南雲機動部隊は密かに択捉島単冠湾を出撃した。めざすはハワイのオアフ島 真珠湾攻撃作戦開始である。南雲機動部隊は12月8日午前零時30分(現地12月7日午前5時30分水偵により港内偵察で 目標確認後、55分に攻撃隊が発進した。攻撃第一派183機、ついで第二派167機が発進する。7時52分、 抵抗なく真珠湾上空に飛来した攻撃隊指揮官”田淵中佐”は全軍突撃を発令し、(トラ・トラ・トラ)我奇襲に成功なり を発信する 8時50分、第二派の攻撃が行われた。第二派は主に艦船などに損害を行うが、米軍も対空砲で応戦し、攻撃隊にも被害がでる。 日本の航空攻撃は10時に終了。戦果拡大の為に第二次攻撃の意見具申もあったものの機動部隊は帰途についた。 この時点で米軍の空母攻撃が全く出来ないことが今後の海軍戦に影響でる 日本海軍編成 機動部隊 空襲部隊
艦載航空機350機(零式艦上戦闘機78機、九九式艦上爆撃機129機、九七式艦上攻撃機143機) アメリカ軍編成 アメリカ太平洋艦隊 司令長官:H・E・キンメル大将 第1任務部隊 米戦艦ウェストバージニア
アメリカ東部時間午後2時20分(ハワイ時間午前8時50分)野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使が、 コーデル・ハル国務長官に日米交渉打ち切りの最後通牒を手交した。 この文書は、本来なら攻撃開始の30分前にアメリカ政府へ手交する予定であったのだが、駐ワシントンD.C.日本大使館の 井口貞夫元事官や奥村勝蔵一等書記官(2人ともその後外務事務次官を務めたらが翻訳およびタイピングの準備に手間取り、 結果的にアメリカ政府に手渡したのが攻撃開始の約1時間後ととなってしまった。その為に、 「真珠湾攻撃は日本軍の騙し打ちである」とのアメリカ全国で憤慨して全面戦争 沈んだ戦艦8隻のうち6隻は後に引き揚げられ復帰しており、最終的にアメリカ軍が失った戦艦は2隻であった。 主力空母は真珠湾外で輸送などの任務に従事していたため無傷であり、その後の作戦において大きな力を発揮した。 日本軍の入手した島の地図が古かったことから、実に合計450万バレル相当を貯蓄していた石油タンクを爆撃せず、 海軍幹部の娯楽施設を爆撃してしまった 日本軍は短期決戦を想定していたが、攻撃目標に含まれていた主力空母を撃沈できなかった事は緒戦でアメリカ軍が 持ちこたえる原動力となり、日本軍の短期決戦戦略が頓挫する一因となった。 戦争:大東亜戦争 / 太平洋戦争 年月日:日本時間1941年12月8日未明, ハワイ時間12月7日 場所:アメリカ合衆国ハワイ州(当時はアメリカ合衆国の準州)オアフ島真珠湾 結果:日本の勝利と太平洋戦争勃発 交戦勢力
開戦と同時にアメリカ軍基地を空襲 開戦時、フィリピンはアメリカの領土で米軍の根拠地となっており、軍事施設の大部分はルソン島に集中している。 マニラ湾のキャピテ軍港はアジア艦隊の根拠地、その他ダパオ、セブ、クラーク航空にはB17基地ある。 日本は開戦とほぼ同時にフィリピン侵攻を計画していた、陸軍2個師団と海軍航空隊で航空撃滅戦を実施上陸船団の 護衛と支援を行う。12月8日の払暁、台湾の高雄・台南・日本鹿児島鹿屋基地より集結して攻撃する。 フィリピン侵攻作戦 両軍の編成と損害
ハワイの勝利に続き英東洋艦隊に完勝 昭和16年12月8日イギリス海軍東洋艦隊司令長官フィリップス提督は戦艦”プリンス・オブ・ウェールズ”、 巡洋艦”レバルス”を主力するZ部隊を率いてシンガポールのセレター軍港を出撃した。前日夜半から日本陸軍 がマレー半島に上陸しており、その船団攻撃が任務であった。 Z部隊は、9日午後3時すぎに日本潜水艦に発見された。一報を受領した小澤中将の艦隊に第一航空部隊 に敵と誤認されるという事件が発生し、夜戦を断念する。 11時45分元山航空隊の九六陸攻撃機36機、美幌航空隊36機、鹿屋航空隊27機がZ部隊を攻撃して 14時:50分 戦艦”プリンス・オブ・ウェールズ” 巡洋艦”レバルス”等を沈没させる このマレー沖海戦こそ、作戦行動中の戦艦が航空機によって撃沈された、史上初めての戦いである。 マレー沖海戦 両軍の編成と損害
日本軍に衝撃 緒戦の思わね苦戦 日本軍は航空哨戒基地として有用と思われウェーク島攻略作戦を発動米軍は開戦直前にウェーク島の 防衛強化を行い守備隊450人と5インチ砲台6門、3インチ高射砲17門 F4F戦闘機12機を配備していた。 12月10日夜半、攻略部隊は 上陸を試みるが、失敗し米軍の5インチ砲の射撃で 駆遂艦”疾風”が 撃沈され次に”如月”も爆沈された。 救援を求めても、 絶海の孤島ウェークまで届く戦闘機はなく、一時攻略を中止、事の重大さから 第四艦隊司令長官”井上中将は、連合艦隊に 空母派遣を要請、12月21日に100機の艦載機に より空襲を行い、 23日上陸が敢行されるが、またしも失敗それでも陸戦隊は 苦戦し、500名の損害を 生じて、なんとか攻略には 成功する。井上中将の手腕は疑問視される この時の米軍捕虜鵜の 扱うブルドーザーの 作業力の高さに日本軍は圧倒される。 ウェーク島沖海戦 両軍の編成と損害
第4艦隊参謀長矢野志加三大佐はウェーク島の残存機撃滅を連合艦隊司令部に依頼 各司令官
南方の要衝 ラバウルを攻略 昭和17年1月5日、南洋部隊指揮官、井上成美中将はR作戦命令を発した。これがラバウル攻撃命令である これを受けて第一九戦隊と第十八戦隊を基幹にR攻略部隊が編成されたが、ウェーク島攻略部隊などと ほぼ同じ 顔ぶれだった。南雲機動部隊の支援のもと、R攻略部隊は陸軍の南海支隊と協力してラバウル、カビエンを攻略する。 両軍の編成と損害
日本輸送船団に被害甚大 昭和17年1月23日、西村祥治少将率いる船団はボルネオ島東海岸のバリックパパンへの上陸作戦を敢行した。 目的はバリックパパンにある油田の確保である。多数の輸送船を護衛するために、日本海軍は軽巡洋艦「那珂」を旗艦とする 第4水雷戦隊(西村祥治少将)のほか哨戒艇(旧式駆逐艦)や掃海艇などを出動させた。揚陸はおおむね順調に行われたが、 オランダ軍のB-10爆撃機による空襲とオランダ潜水艦「K-18」の雷撃により、輸送船「南阿丸」と「敦賀丸」が沈没した。 両軍の編成と損害
英駆遂艦の襲撃を水雷戦隊が一蹴 昭和17年1月26日、マレー(馬来)部隊は、マレー半島の先端に近いエンドウへ、陸軍の航空資材を揚陸する作戦を実施した。 作戦本部は輸送船2隻と軽巡洋艦”「川内」を旗艦とする第三水雷戦隊で編成、荷揚げ最中に米軍機が爆撃するが 被害無く順調に作業進むが27日早朝4時2隻の英国駆遂艦が出現日本軍の駆遂艦が砲戦始める。 700メートルまで接近して撃沈と小破する。 両軍の編成と損害
連合軍艦隊を一式陸攻が襲撃 昭和17年、日本軍はジャワ攻略に乗り出す。まず同地の制空権掌握を目指して、塚原中将の第11航空艦隊 に航空撃滅戦を行わせた。戦闘機96機、急降下爆撃機9機、陸上攻撃機71機保有する基地航空部隊である 航空基地に打撃を与えた後、連合艦隊を発見して襲撃する 両軍の編成と損害
連合国反撃の拠点を空襲 当時、オーストラリアの港町ポート・ダーウィンは飛行場もある港南とはいえ大がかりな基地ではなかった。 2月19日に空母機188機が空襲を敢行する、充分な戦果があったと作戦を打ち切るが4月25日、意外にも 早く機能を回復したので再度空襲する。 8月まで散発的に空襲する。 両軍の編成と損害
護衛なし陸攻隊に被害続出 今までマーシャルやギルバ−トの日本軍基地を攻撃していた 空母「レキシントン」を中心とした第11任務部隊は、 今度は日本軍が攻略して間もないラバウル襲撃を決定する。 2月20日午前、日本軍の哨戒中の九七式飛行艇がアメリカ艦隊を発見した。12時20分、日本軍はラバウルから 第24航空戦隊の魚雷は到着していなかったため、一式陸上攻撃機17機を発進させた。零戦の増槽や対艦攻撃用の 戦闘機の護衛はなく、武装も爆装のみであった。14時35分、第2中隊9機が攻撃を開始したが命中弾はなく、 F4F戦闘機の迎撃と対空砲火で第2中隊は全滅した。15時、第1中隊8機が攻撃を開始した。 レキシントンに至近弾が1発あったのみで、攻撃隊は4機を失った。さらに2機は不時着した。 日本軍の機動部隊は2月15日にパラオを出航して豪本土ポートダーウィン空襲に向かうためバンダ海にあり、 すぐさま反撃できなかった。日本軍は空母1、艦型不詳1を撃沈したとし、この戦いをニューギニア沖海戦と呼称した。 両軍の編成と損害
劣勢の第八駆遂隊、夜襲で大活躍 ジャワ島攻撃をめざす日本軍は、足がかりとして隣のバリ島攻略を計画する。2月19日未明阿部大佐率いる 輸送船2隻と駆遂艦4隻で陸上完了して他の船団も作業完了後出航しょうとした時にオランダ艦船と交戦20日0000頃、 2隻の軽巡が 「朝潮」に対し砲撃を開始して戦闘は始まった。。「朝潮」も反撃したが、出航直後で速度が上がらず見失った。 先に出航していた「大潮」も「デ・ロイテル」と「ジャワ」に対し砲撃を開始し、この軽巡2隻は戦場を離脱した。さらに、「大潮」は、 後続の「ピートハイン」に対し魚雷を発射して撃沈した。「デ・ロイテル」と「ジャワ」の2隻を追撃していた「朝潮」と「大潮」は、 数分後に「フォード」と「ポープ」を発見した、交戦の後、「フォード」と「ポープ」も離脱を開始した。軽巡「トロンプ」を中心とした 2つ目の 部隊が到着し、「大潮」と「朝潮」に発見されて交戦を開始した一時、連合軍艦隊がバリ島の影に隠れたため 見失ったが、 0341に再び戦闘となり、 「大潮」(小破)と「トロンプ」(中破)がそれぞれ損傷した。 戦闘発生を知り応援のため バリ島へ戻ってきた 「荒潮」と「満潮」は、「スチュワート」と「エドワーズ」に遭遇して0347に交戦を開始した。この戦闘で 「満潮」が大破し、 「スチュワート」が小破した。以上の戦闘で連合軍艦隊はすべて戦場を離脱し、海戦は終了した。 両軍の編成と損害
一昼夜にわたって続いた遠距離砲戦 昭和17年2月27日から3月1日にかけて、インドネシア・スラバヤ沖で日本軍のジャワ島攻略部隊を連合国軍が 迎撃した海戦である。 日本海軍が連合軍の艦隊を撃破し、これにより日本軍のジャワ島上陸・占領が進むこととなった。 米英オランダ軍合同のABDA艦隊との 遠距離砲撃と魚雷攻撃であり、命中は困難、2万メートルの距離で日本の砲弾、 魚雷が当たり日本の勝利となった 両軍の編成と損害
敵艦隊を撃沈するも味方輸送船も誤射 スラバヤ沖海戦で損傷した米軍の重巡洋艦「ヒューストン」、オーストラリア軽巡洋艦「バース」はジャワ南岸チラチャップへ 向かった。 その途中の昭和17年3月1日深夜、陸揚げ作業中の日本軍輸送団に遭遇した。揮官ウォーラー大佐は攻撃を 決意船団護衛中の 第五水雷戦隊と連合軍の戦闘が開始 編成と損害
沈没、その他輸送船3隻が大破着底という損害が出た。輸送船団は直ちに魚雷を発射した敵影を探したが どこにも見つからなかった。大破着底した中には第16軍司令官今村均中将座乗の陸軍特殊船(揚陸艦)神州丸が 含まれており、今村中将は海上へ投げ出され、3時間の漂流後に救助された。
無敵南雲機動部隊の絶頂期 昭和17年3月26日、南雲機動部隊はセレベス島を出撃、インド洋のセイロン島攻撃へと向かう。同じころ米軍は暗号解読で 南雲機動部隊のインド洋侵攻をキャッチし英国軍に警告うぃ発する。英東洋艦隊司令長官:ソマーヴィル提督は艦隊を 日本軍の 知らない秘密基地モルジブ諸島のアッヅ環礁へ退避させた。だが、退避した英艦隊は攻撃の機会を うかがい続けていた。 ところが4月1日に先手を取っても日本軍は現れず作戦中止と判断しアッヅへ帰還し、 それぞれの船艦はバラバラとなって 修理や船団護衛、空母は別な攻撃地に出港、日本軍は4日直後英軍哨戒機に よって発見、5日より両軍の戦となる。 編成と損害
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