第三章 連合艦隊の壮絶 有終編

マリアナ沖海戦

昭和19年6月19日〜20日
          絶対国防圏失陥  機動部隊は壊滅
昭和19年に入り、ラバウルを孤立させトラック泊地えお壊滅させたアメリカ機動部隊は、次の進攻目標をアリゾナ方面と定めた。
この動きは大本営も予想しており、来冠する敵艦隊を基地航空部隊と機動部隊によって撃滅する。
「あ号作戦」を計画する。基地航空部隊の中核は猛将・角田覚治中将の第一航空艦隊、機動部隊は小澤三郎中将の
第一機動部隊である。6月11日、一航艦は攻撃を開始した。しかし損害ばかりで戦果はあがらず、500機近くあった一航艦の
残存機は百数十機まで激減した。本格的な戦いを前に一航艦は壊滅したのである。
そして6月15日、ついに米軍がサイパン島へ上陸してきた。小澤長官の第一機動部隊は出撃する。

    両軍の編成と損害
 
日本軍 アメリカ軍
第一機動部隊 司令長官 小澤三郎中将
甲部隊 参謀長 小柳富次少将
 第一航空戦隊
  角田覚治中将
航空母艦 大鳳 、翔鶴瑞鶴
 第五戦隊
 橋本 信太郎少将
重巡洋艦 妙高 、羽黒
 第十戦隊
  木村 進少将
軽巡洋艦  矢矧
   第一〇駆遂隊 駆遂艦1  朝雲
   第一七駆遂隊 駆遂艦3  磯風 、浦風、雪風
   第六一駆遂隊 駆遂艦4 初月 、若月
秋月 、霜月
乙部隊
 第二航空戦隊
   城島高次少将
航空母艦 隼鷹飛鷹龍鳳
・戦艦 戦艦1 長門
   航空巡洋艦 巡洋艦1 最上
   第四駆遂隊 駆遂艦3   野分、山雲、満潮
   第二七駆遂隊 駆遂艦4 時雨、浜風
早霜、秋霜
前進隊
 第三航空戦隊
  大林末雄少将
空母3 千歳、千代田、瑞鳳
 第一戦隊
  宇垣纒中将
戦艦2 大和 、武蔵
 第三戦隊
  鈴木義尾中将
戦艦2 金剛 、榛名
 第四戦隊
 栗田中将直率
重巡洋艦
   2 
愛宕 、高雄
麻耶 、鳥海
 第七戦隊
 白石萬隆少将
重巡洋艦
   4 
熊野 、鈴谷
利根 、筑摩
 第二水雷戦隊
 早川幹夫少将
軽巡洋艦    1   能代
   第三一駆遂隊 駆遂艦4   長波 、朝霜
岸波 、沖波
   第三二駆遂隊 駆遂艦4 玉波 、浜波
藤波 、島波
第一補給部隊 軽巡洋艦 名取
駆遂艦3   初霜 、栂 、夕凪
第二補給部隊 ・  雪風、卯月

    航空母艦:瑞鶴


第五艦隊 指揮官 レイモンド・A・スプルーアンス大将
第58任務部隊
 第1群 空母 4 ホーネット 、ヨークタウン
ベローウッド 、バターン
重巡洋艦 3 ボストン、ボルチモア、キャンベラ
軽巡洋艦 1 オークランド
駆遂艦 12
 第2群  空母 4 バンカーヒル 、ワスプ 
モントレー 、カポット
軽巡洋艦 4 モービル 、サンタフェ
ビロクシ― 、サンファン
駆遂艦 12隻 ・ 
 第3群  空母 4 エンタープライズ 、レキシントン
サンジャントン 、プリンストン
重巡洋艦   1隻 インディアナポリ
    軽巡洋艦 4 モントビーリア 、クリーブラウンド
バーミンガム 、リノ
駆遂艦 9 9隻
 第4群 空母 3 エセックス、ラングレー、カウベンス
軽巡洋艦 4 サンディエゴ 、ビンセント
ヒューストン 、マイアミ
駆遂艦   14 ・ 
 第7群 戦艦 7 サウスダコタ、ワシントン、アラバマ
ノースカロライナ 、アイオワ
ニュージャージー 、インディアナ
重巡洋艦 4 ミネアポリス 、ウイチタ 
サンフランシスコ、ニューオリオンズ
駆遂艦   12 ・ 
 


  
   両軍の損害                                        両軍の艦船戦力
日本 米軍 日本 米軍
 空母 沈没 3隻 航空母艦 15
小破 4隻 1隻 戦艦
戦艦 小破 1隻 2隻 重巡洋艦 11
重巡洋艦   小破 1隻 1隻 軽巡洋艦 12
艦載機 喪失 378機 約100機 駆逐艦 20 67
潜水艦 損害 8隻

マリアナ沖海戦は、第二次世界大戦中の1944年6月19日から6月20日にかけてマリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で行われた
アメリカ海軍空母機動部隊と日本海軍空母機動部隊の海戦。
アメリカ軍側の呼称はフィリピン海海戦である。日本側の作戦名称はあ号作戦で、「あ」はアメリカの頭文字に由来する。
アメリカ側の作戦名は、海上作戦を含むサイパン島攻略作戦全体についてフォレージャー作戦(「掠奪者作戦」)と
アメリカ軍がマリアナ諸島に進攻、それを日本軍が迎撃したことにより本海戦は発生した。
アメリカ海軍の戦闘機パイロットらは、日本の母艦航空隊に対する迎撃戦闘を、マリアナの七面鳥撃ちと揶揄した。
 

マリアナ沖海戦後の将官とその後

小沢治三郎中将

   司令長官
南雲忠一中将の後任として第一機動艦隊兼第三艦隊司令長官に就任した。
マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦時には第三艦隊を率いて出撃した。海戦後、小沢は敗戦の
責任をとって辞表を起案軍令部次長を務める。昭和20年5月、最後の連合艦隊司令長官に
就任した。海軍大将昇格を断る。
マリアナ沖海戦を戦い、第一航空戦隊司令官を経て

古村啓蔵少将

   参謀長
マリアナ沖海戦を戦い、第一航空戦隊司令官を経て、
1945年(昭和20年)1月3日、第二水雷戦隊司令官となる。天一号作戦が発動され旗艦である
「矢矧」に乗艦し出撃するも、
4月7日坊の岬沖海戦でアメリカ航空艦隊の艦載機による攻撃を受け、奮戦及ばず「矢矧」は
沈没する。艦長の原為一大佐と共に艦にとどまったが、海に投げ出され漂流しながら
戦艦「大和」が沈没する姿を目撃する事となる。その後駆逐艦「初霜」に救助され生還する。
橋本 信太郎少将
  第五戦隊司令
その後、レイテ沖海戦に参戦し(昭和20年)5月、ペナン沖海戦で「羽黒」とともに戦没
すでに中将に進級していたが、在任期間が短いため戦死後の
海軍大将進級措置はとられなかった
木村進少将
  第十戦隊司令
最後の海軍航海学校長に就任。1945年(昭和20年)5月、海軍中将に進み水路部長となり
終戦を迎えた。最終階級は海軍中将
城島高次少将
  第二航空戦隊司令
第21航空戦隊司令官、第11連合航空戦隊司令官、第12連合航空戦隊司令官
第12航空戦隊司令官などを歴任
栗田健男中将
  第二艦隊 司令長官
10月にはレイテ沖海戦で第一遊撃部隊を指揮、サマール沖海戦にて敵機動部隊うち
一つを撃滅したと誤認、北方機動部隊を求め反転した後帰投。この行動は後に
「謎の反転」と呼ばれる。海軍兵学校校長となり、終戦まで同職に留まる。
小柳富次少将
    第二艦隊参謀長
1944年10月、第2艦隊参謀長として参加したレイテ沖海戦において戦傷を受け、
重傷のため翌月に連合艦隊司令部付となった。横須賀鎮守府付、水雷学校長などを
歴任。1945年11月、海軍中将となり
宇垣纒中将
    第一戦隊司令
昭和20年)2月第五航空艦隊司令長官に就任し沖縄作戦を指揮する
昭和20年)8月15日、中津留大尉の操縦する彗星に乗り
沖縄県伊平屋島海岸付近へ特攻戦死
鈴木義尾中将
      第三戦隊司令
同海戦から日本へ帰還の途次に、バシー海峡にて乗艦「金剛」が雷撃を受け沈没。
鈴木は、戦死した。
大林末雄少将
    第三航空戦隊司令
第一航空戦隊司令官、昭和20年3月20日- 第1特攻戦隊司令官

白石萬隆少将
     第七戦隊司令
 
早川幹夫少将
    第二水雷戦隊司令
オルモック湾海戦により1944年11月11日戦死し、海軍中将に進級した。
角田覚治中将
    第一航空艦隊司令
米軍上陸後のテニアンの戦いでは地上戦に移行した。角田自身は自決せず、
司令部壕から手榴弾を抱えて他の兵士と共に戦闘に参加、その後の消息は不明。
今日では戦闘中に戦死したと認定されている。
 第一機動艦隊(正規空母3、改造空母6 搭載機零戦225機、彗星艦爆99機、九九艦爆27機、天山艦攻108機、
 九七式艦上攻撃機、二式艦上偵察機、498機との説あり)

マリアナ沖海戦のアメリカ軍の組織将官

司令長官:レイモンド・A・スプルーアンス大将、参謀長:カール・ムーア大佐 旗艦:重巡洋艦インディアナポリス
第58任務部隊 司令官:マーク・A・ミッチャー中将、参謀長:アーレイ・A・バーク大佐 旗艦:空母レキシントン
第1機動群(任務群) 司令官:ジョゼフ・J・クラーク少将 アメリカ陸軍
第2機動群 司令官:A・E・モンゴメリー少将 第27歩兵師団(増援部隊)
第3機動群 司令官:J・W・リーブス少将    司令官:ラルフ・C・スミス陸軍少将
第4機動群 司令官:W・K・ハリル少将         タンフォード・ジャーマン陸軍少将
第7機動群 司令官:W・A・リー中将         ジョージ・W・グライナー陸軍少将
第51任務部隊 司令官:リッチモンド・K・ターナー中将、旗艦:ロッキー・マウント
 海兵隊 司令官:ホーランド・M・スミス海兵中将
          第3海兵師団・第4海兵師団・第5海兵師団

マリアナ沖海戦 日本海軍の敗因
物量の差
そもそも航空戦力に決定的な差があった。日本側428機に対しアメリカ側901機と2倍以上、しかも戦闘機だけでも
445機もの差があった。また、日本側はこの海戦に持てる航空機動部隊のすべてを投入したが、アメリカ側は
なお多数の空母が残っており、また建造中であった。
航空機の性能差
日本海軍の主力戦闘機を担っていた零戦は、開戦当初は文字通りに無敵の強さを誇ったものの、
極限まで軽量化された。機体であったため、搭乗員の生命を軽視し防弾装備は殆どされておらず、ひとたび
攻撃される側にまわると脆さを露呈する。
こととなった。2000馬力級のF6F ヘルキャットに比べると旧式化・陳腐化。米軍の次世代機の高性能の前には、
如何なるエースが搭乗しようとも苦戦は必至であった。
日本側搭乗員の技量低下
特に ”い号作戦” 以降幾度と無く繰り返された母艦搭乗員の陸上基地転用によって、熟練搭乗員を
損耗していただけでなく、編隊を率いる指揮官クラスの搭乗員が激減していた。特に後者の損耗は致命的であり、
またこれらの搭乗員は、容易に補充も急速錬成も出来無いものであった。本海戦に参加した全母艦搭乗員の
平均飛行時間は、開戦時〜南太平洋海戦までと比べてもあまり遜色ないレベルであったとしているが、
その大半が基礎訓練を終えたばかりの実戦の経験も無い、新規の搭乗員で占められており、更に編隊指揮官の
任に堪えうる熟練搭乗員や実戦経験者は極少数に過ぎなかった。
小沢治三郎中将以下、第一機動艦隊司令部の能力不足
搭乗員の技量不足が挙げられるが、そうなった責任は艦隊司令部の指揮官にあった。奥宮航空参謀は、
著書で「なお、マリアナ沖海戦での小澤司令長官の戦法(アウトレンジ戦法)は良かったが、飛行機隊の実力が
これに伴わなかったという
説があるが、私はこれに賛成出来ない。第一線部隊の指揮官の最大の責務は戦闘に勝つか、払った犠牲に
ふさわしいある」と述べているがその言わんとするところは、小沢中将はその両方とも
達成出来ていない事が挙げられる。
アウトレンジ戦法における認識の相違
小沢中将がアウトレンジ戦法による作戦を立てていたのに対し、乙部隊の首脳陣、特に奥宮正武参謀はそれを行うには
母艦搭乗員の技量から見て自信がもてないと感じていた。
アウトレンジ戦法とは、敵の火砲などの射程外から一方的に攻撃を仕掛ける戦術および戦闘教義のこと。
一般的に太平洋戦争で日本海軍の機動部隊が行った戦術を指す。
アメリカ艦隊の防空システムの進化
この時期になると、アメリカ海軍機動部隊はレーダーと航空管制を用いた防空システムを構築していた。このため
日本海軍機の接近は予め察知され、アメリカ軍戦闘機は最も迎撃に適した場所に誘導されたで日本の攻撃隊を
待ち受けることができた。1943年の末頃から、対空砲弾が外れても目標物が近くにいれば自動的に砲弾が
炸裂するVT信管を高角砲弾に導入した。
索敵の失敗
日本軍偵察機の一部は、緯度変更に伴う磁針の訂正をしておらず、第58任務部隊の位置を誤って報告した。
その結果、日本艦隊は米機動部隊が二群いるものと取り違え、実際には米艦隊のいない方角に
乙部隊を中心とした100機近い航空機を振り向けてしまった。これらの部隊は、米艦隊には会敵できず彼我の
被害減少と損害増大の一因となった。
基地航空隊との連携の失敗
当初は、マリアナ諸島に展開する第一航空艦隊と第一機動艦隊とが連携して米艦隊を迎撃することで、上述の
「物量の差」を補う予定であった。ところが、海軍乙事件の機密漏洩の影響もあり、米準備が整う前に軍の
侵攻スピードは日本軍の予想を超え、第一航空艦隊は練度・機数ともに逐次マリアナ諸島の各島嶼に展開、
同時に米任務部隊の激しい機動空襲に晒される事になった。
未帰還機について
広い太平洋の真っ只中で何の目印もない状況で、出撃した航空部隊が母艦に戻ってくることは敵を攻撃する、
以上に難しかったという。特に戦闘爆撃機として出撃した零戦は単座であったため、航法管制をする搭乗員が
いないので、独力で戻ってくることはほぼ不可能に近かったといわれる。そのため、アメリカ側に撃墜された
だけでなく洋上で機位を失し燃料切れで母艦に帰還できなかった母艦機も相当数あったようであるが、
その実数は不明である。
海軍乙事件
太平洋戦争中の昭和19年3月31日、連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将が搭乗機の墜落により殉職した事件。
先の山本五十六長官搭乗機が撃墜された事件(1943年4月18日)を海軍甲事件と呼ぶことから、本件を乙事件と
呼んでいる。
江草 隆繁大佐:雷撃の神様と言われた村田重治と同期で「艦爆の神様」と呼ばれる。真珠湾攻撃から
母艦航空隊員として活躍して、新鋭陸上爆撃機「銀河」の戦力化に尽力。本海戦では50機の銀河を率いて
出撃するがついに還らずにマリアナ海に・・・
 
第一機動艦隊(正規空母3、改造空母6 搭載機零戦225機、彗星艦爆99機、九九艦爆27機、天山艦攻108機、
 九七式艦上攻撃機、二式艦上偵察機、498機との説あり)

台湾沖航空戦

昭和19年10月12日〜16日
 
            
虚構の大戦果がもたらしたもの
昭和19年10月10日、ハルゼー大将率いる第38機動部隊が、沖縄ほか琉球列島を空襲した。これは10月20日の
レイテ島上陸に備え、後方基地である沖縄を叩くための作戦であり、第38機動部隊は12日にも台湾に激しい
空襲を行なった。 捷号作戦を準備していた大本営は、九州やフィリピンに展開している1200機以上の航空機で
反撃を決定する。12日に最初の攻撃が行われた。
中核となるのは「T攻撃部隊」(七六二航空隊)12日〜14日まで続くが未帰還機が多く戦果は判然としてない。
15日第二六航空戦隊司令官の有馬正文少将が一式陸攻撃機に搭乗、米機動部隊に突入して散華している。

    
両軍の編成と損害
日本軍 アメリカ軍
第一航空艦隊 司令長官 寺岡謹平中将 第38任務部隊 司令長官 マーク・A・ミッチャー中将
    航空機 70機 航空母艦 17隻 -
第一航空艦隊 司令長官 福留繁中将 戦艦 6隻
    航空機 680機 重巡洋艦 4隻
第三航空戦隊 83機 第六五三航空隊 軽巡洋艦 10隻
第四航空戦隊 71機 第六三四航空隊 駆逐艦 58隻
派遣兵力
第三航空艦隊 116機
第五一航空戦隊 126機
   損害      赤字は沈没  紫字は大破  緑字は中破  茶字は小破
航空機 喪失 312機 航空機 喪失 89機 戦死者約100名
重巡洋艦 重巡洋艦 キャンベラ
軽巡洋艦 軽巡洋艦 ヒューストン
空母 小破 ハンコック
   司令官
寺岡謹平中将 第1航空艦隊司令長官、第3航空艦隊司令長官を歴任し、1945年9月、予備役に編入された。
福留繁中将 第二航空艦隊の解隊後、第十三航空艦隊司令長官兼第一南遣艦隊司令長官。
同年2月、第十方面艦隊司令長官を兼任。
シンガポールで終戦を迎えた。終戦後は戦犯として収監された後、1950年に復員した。

キャンベラ 重巡洋艦
排水量:13,600 トン・全長:673 ft 5 in
全幅:70 ft 10 in ・最大速力:33ノット
乗員:1,142名・8インチ砲9門・5インチ砲12門
ヒューストン 軽巡洋艦
排水量:10,000 トン・全長:610 ft・全幅:66 ft
最大速力:33ノット・乗員:992名・6インチ砲12門
5インチ砲12門



レイテ沖海戦

昭和19年10月23日〜26日
            連合艦隊の壊滅と謎の反転
昭和19年10月16日の台湾沖航空戦で大損害を受けたはずのアメリカ艦隊が、レイテ島に上陸を開始した。20日のことである。 
レイテはじめフィリピンを奪われたら、南方の資源が日本に届かなくなってしまう。連合艦隊はかねてより予定していた
「捷号作戦」を発動した。残っている水上部隊をすべてレイテに進撃させ、米上陸部隊を叩いてしまおうというのが作戦の
骨子であった。この海戦は、おそらく世界最後の大海戦といえるかもしれない。「帝国艦船」の墓場と化した比島沖
両国の艦艇・航空機をはじめとするすべての部隊が参加してフィリピン群島沖約50万平方浬に及ぶ広大な海域で
繰り広げられた。
    両軍の編成と損害
       日本軍
連合艦隊 司令長官 豊田副武  
参謀長 草鹿 龍之介中将  
第一艦隊 司令長官 栗田建雄中将  
参謀長 小柳富次少将  
第一遊撃部隊  
 第一部隊 指揮官 栗田建雄中将  
   第一戦隊 司令官 宇垣纒中将  
戦艦 大和 、武蔵長門  
   第四戦隊 直率 栗田建雄中将  
重巡洋艦4 愛宕 、高雄  
鳥海 、麻耶  
   第五戦隊 司令官 橋本信太郎少将  
重巡洋艦2 妙高 、羽黒  
  第二水雷戦隊 司令官 早川幹夫少将  
軽巡洋艦 能代  
   第二駆遂隊 司令 白石長義大佐  
早霜 、秋霜  
  第三一駆遂隊 司令 福岡徳治郎大佐  
岸波 、沖波  
朝霜 、長波  
  第三二駆遂隊 司令 大島一太郎大佐  
藤波 、浜波、島風  
 第二部隊 指揮官 鈴木義尾中将  
   第三戦隊・  直率 鈴木義尾中将  
戦艦2 金剛 、榛名  
   第七戦隊 司令官 白石萬隆少将  
重巡洋艦4 熊野 、鈴谷  
利根 、筑摩  
  第一〇戦隊 司令官 木村進少将  
軽巡洋艦1 矢矧  
  第一七駆遂隊   司令 谷井保大佐  
駆逐艦6 浜風 、雪風  
浦風 、磯風  
付属:清霜 、野分  
第三部隊 司令官 西村祥治中将  
  第二戦隊  直率 西村祥治中将  
戦艦 山城 、扶桑  
重巡洋艦 最上  
   第四駆遂隊 司令 高橋亀四郎大佐  
駆逐艦 満潮 、朝雲、山雲  
   第二七駆遂隊 司令 西野繁少佐  
駆逐艦 時雨  
第三艦隊 司令長官 小澤治三郎中将  
参謀長 大村末雄少将  
機動部隊  
 第三航空戦隊  直率 小澤治三郎中将  
空母 瑞鶴 、瑞鳳  
千歳 、千代田  
 第四航空戦隊 司令官 松田千秋少将  
航空戦艦 日向 、伊勢  
軽巡洋艦 多摩 、五十鈴  
  第一駆遂連隊 司令 江戸兵太郎少将  
軽巡洋艦 大淀  
駆逐艦 桑 、槇 、杉 、桐  
  第二駆遂連隊 司令 天野重隆大佐  
   第六一駆遂隊 駆逐艦 初月 、秋月、若月  
   第四一駆遂隊 駆逐艦 霜月  
 第二補給部隊 司令 山崎 仁太郎少佐  
駆逐艦 秋風  
油槽船 22号 29号 31号
132号
33号 43号
 
第六艦隊 司令長官 三輪 茂義中将  
 先遣部隊 参謀長 仁科宏造少将  
    レイテ方面 大型潜水艦8隻  
     マニラ方面 中小型潜水艦7隻  
第五基地航空部隊  
第一航空艦隊 司令長官 大西 瀧治郎中将  
直率 実働機約40機  
 第一五三海軍航空隊 司令 高橋農夫吉 大佐  
 第二〇一海軍航空隊 司令 代 玉井 浅一中佐  
 第七六一海軍航空隊 司令 前田孝成  
 第一〇一航空戦隊 司令 田中実機関少将  
第六基地航空部隊  
 第二航空艦隊 司令長官 福留 繁中将  
参謀長 杉本丑衛大佐  
実働機223機  
南西方面艦隊 司令長官 三川 軍一中将  
参謀長 西尾秀彦少将  
第二遊撃部隊
  (志摩艦隊、10月18日より南西方面艦隊指揮下)
 
司令長官 志摩清英中将  
参謀長 松本 毅少将  
 第二十一戦隊 直率 志摩清英中将  
重巡洋艦 那智、足柄  
  第一水雷戦隊 司令官 木村昌福少将  
軽巡洋艦 阿武隈  
  第七駆逐隊 駆逐艦 曙 、潮、 霞  
  第十八駆逐隊 駆逐艦 不知火  
  第二十一駆逐隊 駆逐艦 若葉、初春、初霜  
 第十六戦隊 重巡洋艦 青葉  
軽巡洋艦 鬼怒  
駆逐艦 浦波  

        アメリカ軍 
第3艦隊 司令長官 ウィリアム・F・ハルゼー大将  
 第38任務部隊 指揮官 マーク・ミッチャー中将  
  第1群 空母5 ホーネット 、ワスプ 、ハンコック  
カウベンス 、モンテレー  
重巡洋艦 ボストン、チェスター、  
ベンサコラ、ソレトレイクシティ  
駆逐艦 14隻  
  第2群 空母 イントレピッド 、バンカーヒル  
インデベンデンス 、カポット  
戦艦 ニュージャー 、アイオワ  
軽巡洋艦3 ビンセンス、マイアミ 、ピロクシー  
駆逐艦 16隻  
  第3群 空母 レキシントン 、エセックス  
ラングレー 、プリンストン  
戦艦 マサチューセッツ 、サウスダコタ  
軽巡洋艦4 サンタフェ 、モービル  
リノ 、バーミンガム  
駆逐艦 13隻  
  第4群 空母 フランクリン 、エンタープライズ  
ベローウッド 、サンジャント  
戦艦 ワシントン 、アラバマ  
重巡洋艦 ニューオリンズ、ウィチタ  
駆逐艦 15隻  
第7艦隊 指揮官 トーマス・C・キンケード中将  
 砲火支援部隊 指揮官 ジェス・B・オルデンドルフ少将  
 中央隊 指揮官 ウェイラー少将  
戦艦 ミシシッピ 、メリーランド   
ウェストバージニア 、ペンシルニア  
テネシー 、カルフォルニア  
駆逐艦 16隻  
 左翼隊 重巡洋艦3 ルイスビル、ポートランド、
ミネアポリス
 
軽巡洋艦2 デンバー 、コロンビア  
駆逐艦 9隻  
 右翼隊 重巡洋艦1 シュロッブシャー  
軽巡洋艦1 ポイシXフェニックス  
駆逐艦 13隻  
空母群 指揮官 トーマス・L・スプレイグ少将  
  第1群 護衛空母4 サンガモン 、サンティー  
スワニー 、ペトロフ・ベイ  
駆逐艦3 3隻  
護衛駆逐艦 4隻  
  第2群
   
護衛空母6 ナトマ・ベイ 、マーカス・アイランド  
オマニー・ベイ 、サボ・アイランド  
カダシャン・ベイ 、マニラ・ベイ  
駆逐艦 3隻  
護衛駆逐艦 4隻  
  第3群 護衛空母6 ファンショー・ベイ 、セント・ロー  
ホワイト・ブレーズ 、カリニン・ベイ  
キトカン・ベイ 、ガンビア・ベイ  
駆逐艦 ホーエル 、ヒアマン 、ジョンストン  
護衛駆逐艦4  デニス 、ジョン・C・バトラー  
レイモンド、サミュエル・B・ロバーツ  
   


(第二十一駆逐隊はセブ島への航空機材等の輸送の為21日朝馬公から高雄へ出港し突入には参加せず)
第十六戦隊:元々第一遊撃部隊と行動を共にしていたが、編成替えにより第二遊撃部隊の指揮下となる。
「青葉」被雷のためマニラに回航され、旗艦を「鬼怒」に変更後、突入
  日本軍の動き
 10月22日:主力の栗田艦隊はブルネイを出撃。23日、パラワン水道にて米軍潜水艦の攻撃で旗艦「愛宕」が沈没
         「大和」に旗艦に変更し、その他に艦も沈没、大破してブルネイに引き返す。
     24日:シブヤン海で空襲にさらされ、戦艦「武蔵」が沈没し「大和」「長門」も小破となる。第二航空艦隊
         (基地部隊)と小澤機動部隊が米艦隊を攻撃し、軽微だが損害を与えている。
     25日:米軍、ハルゼー大将は栗田艦隊は戦闘不能と判断し、小澤機動隊こそ主力と判断、これを攻撃する
          おとりにひっかかったのである。
          未明、西村艦隊がスリガオ海峡に入り、レイテ近づきつつあった。栗田艦隊と同時にレイテ突入する
          予定であったが、栗田艦隊が反転したため、1日のズレが生じたのである。西村艦隊は夜戦を
          決意して戦艦6隻が待ち構える戦域へわずか7隻の艦隊で突入する。駆遂艦「時雨」を除き。全滅した。
          同じ日、小澤艦隊はおとり作戦を展開して米軍機動部隊の空襲を受け空母4隻は沈没
          おとり作戦がなぜ栗田長官のもとに届かないかったか?25日サマール沖で米護衛空母群に会い
          栗田艦隊は直ちに攻撃を命じるが正規空母の何隻かは沈めたと判断した栗田長官は艦隊の
          集結を命じサマール沖海戦は終了した。なぜ「謎の反転」したか?今でも疑問。
          フィリピンは米軍の手に渡ってしまう。
 
日本軍のの参加艦船と損害
艦船 参加隻数 沈没
軍艦 武蔵 、山城 、扶桑 、大和 、 長門
空母 瑞鶴 、瑞鳳 、千歳 、千代田
重巡洋艦 16 愛宕、鳥海 、麻耶、鈴谷、筑摩、最上、高雄、妙高
軽巡洋艦 能代、阿武隈、多摩
駆逐艦 35 12 早霜、岸波、藤波、野分、満潮、朝雲、山雲、不知火、若葉、初月、秋月、浦波

  神風特別攻撃隊の初出撃
レイテ沖海戦から「統率の外道」と最初の"発令者"第一航空艦隊司令長官大西中将自らが呼んだ、
神風特別攻撃隊通称「特攻隊」とよばれる、航空機による体当たり攻撃が実施された。

  
スリガオ海峡海戦
10月22日15時30分にブルネイを出撃した西村艦隊は23日、スールー海に入りスリガオ海峡へ向かった。24日、西村艦隊も
第38任務部隊第4群索敵隊に発見され、9時30分頃、「エンタープライズ」と「フランクリン」所属機約20機の空襲を受けた
栗田艦隊と西村艦隊はほぼ同時にレイテ湾に突入する予定であったが、栗田艦隊が一時反転したことにより予定より遅れた。
西村祥治中将は夜戦を企図し、西村艦隊単独でのレイテ湾突入を決断,志摩艦隊は西村艦隊の2時間後にスリガオ海峡に
到着した。西村艦隊は駆逐艦時雨を残して壊滅状態に陥り、西村中将も戦死して、レイテ湾への突入は失敗した。
戦艦扶桑,艦長 阪匡身少将以下1637名全員が戦死, 戦艦山城も生存者は2名のみ
志摩艦隊の本隊である、那智、足柄、霞、不知火は何度か空襲を受けたものの、損失艦はなしでコロン湾に到着した

   
エンガノ岬沖海戦
24日の14時39分、相次ぐ栗田艦隊の被害報告に小沢治三郎中将は小沢艦隊の存在をアメリカ軍第38任務部隊に
明らかにするため、航空戦艦日向、伊勢からなる松田千秋少将指揮の第四航空戦隊を基幹に前衛隊を編成して
第38任務部隊に砲撃戦を試みるべく南下をはじめた栗田艦隊も予定通り進撃を続けていると考えていた。
小沢中将は艦隊を本隊と松田少将の指揮する支隊の2隊に分け、南東に向け進路を取っていた。しかし、20時頃、
16時に栗田艦隊が発信した反転避退の電文が着電した。
25日8時15分、第1次攻撃隊180機が小沢艦隊に来襲した。千歳と駆逐艦秋月が被爆沈没。
10時ごろ第2次攻撃隊36機が来襲した。この攻撃で千代田が被爆、大破炎上して航行不能になった。
小沢機動部隊は空母4隻全てを失った。17時過ぎには第5波と第6波の第4次攻撃隊約150機が来襲、残存艦艇の中で
大型目標となった伊勢と日向に攻撃が集中された。

   
サマール沖海戦
反転後、再びレイテ湾を目指していた栗田艦隊は、アメリカ軍第38任務部隊による妨害を受けずに25日0時30分
サンベルナルジノ海峡通過、サマール島沖に差し掛かっていた。この時点での栗田艦隊の勢力は戦艦4隻、
重巡洋艦6隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻であった。栗田艦隊では第3集団(タフィ3)の航空隊や駆逐艦、それに他の
護衛空母群からの攻撃機などにより主に重巡洋艦が攻撃を受けた。9時11分、栗田中将は分散しきった艦隊に集合を命じた。
各隊・各艦は司令部に対し、米空母9隻が健在であると報告した
この戦いでの栗田艦隊通算3回目の艦隊針路反転、これが今日まで議論が続くいわゆる

栗田艦隊謎の反転問題」の始まりである。
その後
日本軍は空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻他多数の艦艇を失い、残存艦艇は燃料のない本土と燃料はあっても修理のできない
南方に分断され、組織的攻撃能力を失った。さらに本海戦後、戦艦金剛が本土への帰航中に米潜水艦シーライオン
に雷撃されて沈没、また損傷してマニラに避退していた重巡那智も空母レキシントン(CV-16)の空襲を受けて沈没している。

この海戦の直後、軍令部では、特攻機と護衛機を積んだ雲龍型航空母艦と駆逐艦で機動部隊を編成し、
びレイテ沖に殴りこむという「神武作戦」計画が企画されたが、実行されなかった。


  
作戦経過図


各将校のその後
小柳 富次少将 最終階級は海軍中将
レイテ沖海戦において戦傷を受け、重傷のため翌月に連合艦隊司令部付となった。
その後、横須賀鎮守府付、水雷学校長などを歴任
西村祥治中将 10月25日 スリガオ海峡夜戦において旗艦山城艦上で戦死
特に小沢治三郎は西村について「レイテで本当に真剣に戦ったのは西村だけだった。
志摩清英中将 1945年5月、高雄警備府司令長官後、大西瀧治郎中将の後を受けて第1航空艦隊司令長官に就任。
木村昌福少将 最終階級は海軍中将、昭和20年海軍対潜学校長で終戦
大村末雄少将 不明
松田千秋少将 戦艦大和の二代目艦長として知られる

 

多号作戦

昭和19年10月24日〜12月13日
           レイテ沖海戦後も行なわれた輸送作戦
多号作戦とは、マニラ(ルソン島)かたレイテ島に対して、陸軍部隊とその装備を輸送する作戦である。
その背景はいささか泥縄で、昭和19年10月20日、米軍のレイテ島侵攻に端を発する。フィリピン戦として、海軍は
捷一号作戦陸軍はマレーの虎こと山下泰文大将の第一四方面がルソンでの決戦を企図していた。しかし、敵の上
上陸地点はレイテ島・・・・マニラから600キロ以上も離れている。だが上陸にあわせた大本営は「レイテ決戦」を厳命、
仕方なく兵力の移動が行われることにとなった。最初の輸送を担当することとなったのが、左近允尚正少将の
第一六戦隊で、26日レイテ西海岸のオルモックへ陸軍部隊を無事揚陸した。
艦艇・船舶数
第一次10月24日〜27日 8隻 第六次11月27日〜30日 5隻
第二次10月30日〜4日 16隻 第七次11月29日〜4日 11隻
第三次11月9日〜12日 12隻 第八次12月5日〜9日 10隻
第四次11月18日〜20日 17隻 第三次12月9日〜13日 11隻
第五次11月23日〜25日 8隻

左近允尚正少将 昭和19年10月、中将に進級。12月、支那方面艦隊参謀長に就任し、終戦を迎えた
ビハール号事件の戦犯として逮捕され、イギリス軍により
香港スタンレー監獄で絞首刑にされた。

空母 「信濃」 の最期

昭和19年11月28日〜29日
            海軍最大の空母、潮ノ岬に没する
 
昭和17年6月ミッドウェー海戦で、正規航空母艦4隻を失った日本海軍は、大和型戦艦の3番艦として建造が進んでいた
 110号艦こと「信濃」も、空母化することを決定する。昭和19年11月に竣立した。横須賀から呉に回避することになって
 第一七駆遂隊「浜風」、「磯風」、「雪風」の3隻が護衛についたが、駆遂艦の電子探知機が使用不可であった。
 11月28日横須賀を出港し、三宅島付近で米軍潜水艦「アーチャーフィッシュ」に探知された。29日AM3時17分、
 追跡され魚雷4本命中し浸水が増水し、阿部艦長ほか1435名とともに和歌山県ノ岬に没する。
 搭載すべく航空機もなく、10日間の短命であった。

   
両軍の編成と損害
日本軍 アメリカ軍
 指揮官:阿部俊雄大佐  指揮官:ジョンセフ・F・エンライト中佐
   航空母艦  空母 信濃 潜水艦 1隻 アーチャーフィッシュ
 第一七駆遂隊  駆遂艦 浜風 、磯風、雪風
 空母 信濃

排水量 :62000トン
全長 :266・1m 全幅 :40m
速度 :26ノット  乗員 :2400名
搭載機 :50機

阿部俊雄大佐 海軍少将
バリ島沖海戦において武勲を挙げ、のち空母・「信濃」艦長として戦死した


ミンドロ島沖海戦

昭和19年12月26日
             連合艦隊最後の勝利
 昭和19年12月、日本軍がレイテ島を放棄すると、米軍はミンドロ島に上陸してきた。12月15日のことである。
 同島はフィリピンの中心・ルソン島の近くに浮かぶ島で、いわば作戦のための足掛かりとして利用すべく、米軍は同島に
 飛行場の建設を開始南西方面艦隊はミンドロ島の米軍を攻撃すべく、レイテ沖海戦を終えていた第五艦隊に命令を下す。
 作戦は「礼号作戦」と名付けられる。指揮官は奇跡の「キスカ撤収」を成功させた木村昌福少将と決まる。わずか8隻、
 駆遂艦「霞」を旗艦として挺身隊は12月24日にカムラン湾を出撃、途中駆遂艦「清霜」が沈没するが、ミンドロ島を
 砲雷撃をして効果をあげ帰港する途中に「清霜」の救助活動して258名もの乗員を救った。
 日本海軍としては最後の勝利である

     
両軍の編成と損害
日本軍 アメリカ軍
第五艦隊 指揮官 木村昌福少将    ミンドロ島基地
 第一挺身隊 駆遂艦1 侵害
  一番隊 駆遂艦2 清霜 、朝霜 輸送船 沈没 4隻
  二番隊 駆遂艦 榧 、杉 、樫  物 喪失 物質集積所
 第一挺身隊 重巡洋艦1 足柄 アメリカにとってはカスリ傷程度の損害で戦局には変化なし。
軽巡洋艦1 大淀




北号作戦

昭和20年2月10日〜20日
           艦船による輸送作戦成功す
 昭和20年2月、エンガノン岬海戦を生き延びた航空戦艦「日向」「伊勢」はリンガ泊地で待機していた。一方の米軍は、
フィリピンから南シナ海、東シナ海、台湾海峡に至るまで制海権、制空権を掌握しつつあった。南方から戦略物資を
本土へ輸送していた日本だが、アメリカは潜水艦を送り出しこれを妨害、輸送船は次々と沈められていった。
そこで、潜水艦や航空機の襲撃をかいくぐって、本土までらどりつけると白羽の矢が立ったのが、航空戦艦「日向」「伊勢」である。
2月6日に両艦はシンガポールへ移動、本土への物資輸送を命じられるとともに、物資搭載をおこなった。作戦には
軽巡洋艦「大淀」駆遂艦3隻も加わり、松田千秋司令官は「完遂」の願いをこめてこれら「完部隊」との名付けした。

    
両軍の編成と損害
日本軍 アメリカ軍
完部隊 司令官 松田千秋少将 無し

損害不明
   航空戦艦 戦艦 日向 、伊勢
軽巡洋艦 大淀
駆遂艦 朝霜、初霜、霞
航空燃料用のガソリン・生ゴム・錫などの当時稀少な
物資を目一杯積み込んだ
搭載物資は以下の通りである。

「日向」と「伊勢」はそれぞれ、航空揮発油ドラム缶5000個、
航空機揮発油タンク内100トン、普通揮発油ドラム缶330個、
ゴム520トン、錫820トン、タングステン50トン、水銀30トン
、輸送人員約500名。

大淀は、輸送人員159名、ゴム50トン、錫120トン、亜鉛40トン、
タングステン20トン、水銀20トン
航空揮発油ドラム缶86個、航空機揮発油タンク内70トン。

 

菊水作戦

昭和20年4月6日〜22日
         凄惨にすぎる特攻作戦
 
菊水作戦は、太平洋戦争末期、連合国軍の沖縄諸島方面への進攻を阻止する目的で実施された日本軍の
 特攻作戦である。作戦名の「菊水」は楠木正成の旗印に由来する。
 第一号(1945年4月6日-11日)から(6月21日-22日)まで実施され、その後も終戦までの間、断続的に特攻が続けられた。
 沖縄諸島周辺での特攻作戦において、海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を実施し、海軍では2,045名、陸軍では
 1,022名が特攻により戦死した。そのうち133機が命中、122機が至近弾となり、アメリカ軍の艦艇36隻を撃沈し、
 主力艦艇の多数を損傷させた。しかし、菊水作戦では遂に1隻の戦艦も、空母も、巡洋艦も撃沈できなかった。

    
                  赤字は沈没  紫字は大破  緑字は中破  茶字は小破
「菊水一号作戦」 「第一次航空総攻撃」(4月6日 - 11日)
駆逐艦
「ブッシュ」、「コルフーン」、「エモンズ」、貨物船2隻、戦車揚陸艦1隻が特攻機の命中により沈没。
空母「サン・ジャシント」以下18隻が大中破した。アメリカ軍の戦死・行方不明者は272名
翌4月7日には、空母「ハンコック」などが損傷した。
11日の攻撃では、空母
「エンタープライズ」や戦艦「ミズーリ」などが特攻機の命中により損傷
空母
「エセックス」損破
「菊水二号作戦」 「第二次航空総攻撃」(4月12日 - 15日)
海軍の作戦機354機、陸軍の作戦機124機、うち特攻機として海軍103機、陸軍72機が出撃した。
12日の出撃には「桜花」8機が参加していた。駆逐艦
「マンナート・L・エーブル」を撃沈する。
戦艦
「ニューヨーク」などに損傷
「菊水三号作戦」 「第三次航空総攻撃」(4月16日 - 17日)
この日海軍は作戦機415機、陸軍は92機を投入。うち特攻機は海軍176機、陸軍52機であった。
特攻機の未帰還は海軍106機、陸軍51機。  駆逐艦
「プリングル」を撃沈
空母
「イントレピッド」、戦艦「ミズーリ」などが損傷
サイパンにあったB-29を動員し、21日と22日に南九州の日本軍飛行場を爆撃した。
「菊水四号作戦」 「第四次・第五次航空総攻撃」(4月21日 - 29日)
20日から22日にかけ、海軍は作戦機258機、うち特攻機26機を投入。特攻機の未帰還は3機であった。
陸軍も作戦機11機を投入した。
27日から30日海軍は再び全力を動員し、作戦機587機、うち特攻機100機を投入、
特攻機59機が未帰還となった。駆逐艦
「ヘールズウッド」「ハッガード」「ベニオン」などに損傷
「菊水五号作戦」 「第六次航空総攻撃」(5月3日 - 9日)
海軍は1日から4日にかけて、作戦機449機、うち特攻機160機を投入、特攻機の未帰還は65機であった
駆逐艦
「リトル」撃沈、護衛空母「サンガモン」が損傷、イギリス軍の空母「フォーミダブル」と
「インドミタブル」が損傷 9日には、イギリス海軍空母
「ヴィクトリアス」「フォーミダブル」に損傷
「菊水六号作戦」 「第七次航空総攻撃」(5月11日 - 14日)
海軍は8日から11日にかけて作戦機345機、うち特攻機86機を投入、12日から15日にかけても
作戦機237機、うち特攻機47機を投入した。特攻機の未帰還はあわせて95機であった。
陸軍も作戦機80機、うち特攻機35機を投入した。 空母「バンカーヒル」に特攻機2機が命中、
同艦は大破して戦死402名、戦傷264名という損害を受けた。
旗艦空母
「エンタープライズ」も、14日に特攻を受けて損傷
「菊水七号作戦」 「第八次航空総攻撃」(5月24日 - 25日)
23日から25日にかけて、海軍は作戦機387機、うち特攻機107機を投入。
特攻機の未帰還機は32機であった。陸軍は作戦機174機、うち特攻機61機を投入した。
高速輸送艦
「ベイツ」を撃沈 護衛空母「スワニー」他数隻を損傷
「菊水八号作戦」 「第九次航空総攻撃」(5月28日 - 29日)
26日から28日にかけて、海軍は作戦機217機、うち特攻機51機を投入し、特攻機の未帰還機は26機
陸軍は作戦機71機、うち特攻機57機を投入した。
駆逐艦
「ドレクスラー」を撃沈、アメリカ軍の戦死者は290名、負傷者は207名だった
「菊水九号作戦」 「第十次航空総攻撃」(6月3日 - 7日)
1日から7日にかけて、海軍は作戦機367機、うち特攻機23機を投入し、特攻機の未帰還機は5機。
陸軍は作戦機71機、うち特攻機31機を投入した。
戦艦
「ミシシッピ」と重巡「ルイスビル」他が損傷、護衛空母「ナトマ・ベイ」他が損傷
「菊水十号作戦」 「第十一次航空総攻撃」(6月21日 - 22日)
23日、第32軍司令官牛島満中将が自決し、沖縄本島での日本軍の組織的抵抗は終わった
大規模な特攻作戦も、21日に発令された「菊水十号作戦」と「第十一次航空総攻撃」が最後となった。
16日から22日にかけて、海軍は作戦機271機、うち特攻機67機を投入し、
28機の特攻機が未帰還となった。
駆逐艦
「トウィグス」を雷撃により撃沈

  両軍の損害
日本軍 連合軍
戦死者 3067 戦死者 4907
特攻機 海軍:940機、陸軍:887機 戦傷者 4824
命中 133機 損傷 218隻
至近弾 122機 船舶 駆逐艦など撃沈36隻


1945年4月12日
知覧飛行場から出撃する特攻機と、見送る女学生たち 5月9日、空母ヴィクトリアス損傷

 

坊ノ岬沖海戦

昭和20年4月7日
          不沈戦艦「大和」坊の岬沖に消える
 
縄に上陸した米軍を攻撃するため、陸海軍がおこなった菊水作戦であるが、戦艦「大和」ほか第二艦隊もこの作戦に
 呼応して出撃することになった。この頃連合艦隊は燃料もなく「大和」は本土決戦の際に砲台として活用する予定であった
 しかし、連合艦隊の神重徳参謀が、(「大和」を沖縄に突入させ、そんまま乗り上げて砲台とする)作戦を発案する。
 あまりに無謀ゆえ反対意見も続出したが、豊田長官は「できることはなんでもやる」という心境でこれを承認した。
 「大和」ほか、第二艦隊の10隻は、最後の水上部隊として沖縄に出撃が決定する。片道の燃料とされてたとの
 報道されたが実際は違う機関参謀:小林儀作中佐の好意で往復燃料は搭載された。
 連合艦隊の草鹿参謀長から出撃を命じられた、伊藤整一中将ほか第二艦隊首脳は当然反対したが
 「一億総特攻の先駆けに」という言葉に、これを了解する。

    
両軍の編成と損害
日本軍 アメリカ軍
第1遊撃部隊 指揮官:伊藤整一中将 第58任務部隊 指揮官:マーク・A・ミッチャー中将
 第1戦隊 戦艦 大和   空母 14隻
  第二水雷戦隊 司令官:古村哲蔵少将   戦艦
  ・ 軽巡洋艦 矢矧   重巡洋艦
   第一七駆遂隊 駆遂艦 磯風、浜風、雪風   軽巡洋艦
   第二一駆遂隊 駆遂艦 朝霜、霞、初霜   駆遂艦 31
   第四一駆遂隊 駆遂艦 冬月 、涼月

  
日本軍の人事構成
日本軍では、作戦のために第2艦隊からなる第1遊撃部隊が編成され、水上特攻を担当する部隊となった。
出撃した部隊は以下の編制であった。参加兵力は計4,329名。平均年齢は27歳であったという

第1遊撃部隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)
     第1戦隊:戦艦大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)

                  沈没。被雷8本以上、直撃弾10発以上。戦死2,740、戦傷117名。
第2水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将)
    軽巡洋艦:矢矧(艦長:原為一大佐):
     沈没:被雷7本、直撃弾12発。戦死446、戦傷133名。
     ※矢矧に座乗していた第2水雷戦隊司令官古村啓蔵少将、矢矧艦長原為一大佐は、ともに生還。
第41駆逐隊(司令:吉田正義大佐)
     
冬月(艦長:山名寛雄中佐):帰還。中破。直撃弾2発(不発)。戦死12、戦傷12名。
     
涼月(艦長:平山敏夫中佐):帰還。大破、艦首部に直撃弾を受け大破。後進で佐世保に帰還。戦死57、戦傷34名
第17駆逐隊(司令:新谷喜一大佐)
     
磯風(艦長:前田実穂中佐):至近弾により機関室浸水。航行不能になり処分。戦死20、戦傷54名
     
浜風(艦長:前川万衛中佐):沈没。被雷1本、直撃弾1発。被弾で航行不能になった後、被雷し轟沈。戦死100、戦傷45名

第21駆逐隊(司令:小滝久雄大佐)
     
朝霜(艦長:杉原与四郎中佐):機関故障を起こし艦隊より落伍、正午過ぎに敵機と交戦中との無電を発信後連絡が
                         途絶える。撃沈されたものと推定。隊司令及び艦長以下326名全員戦死。
     初霜(艦長:酒匂雅三少佐):帰還。至近弾のみ。損傷無し。戦傷2名のみ
     
(艦長:松本正平少佐):直撃弾2発。うち1発が機関室直撃、破壊。航行不能により処分。戦死17、戦傷47名。
第31戦隊(司令官:鶴岡信道少将)     対潜掃討隊(瀬戸内海離脱後、命令により反転帰還)
     花月(艦長:東日出夫中佐)
     榧(艦長:岩淵悟郎少佐)
     槇(艦長:石塚栄少佐)
  アメリカ軍 編成
第58機動部隊(司令官:マーク・ミッチャー中将)
空母9隻:(エンタープライズ、ホーネット(CV-12)、ベニントン、ベローウッド、サンジャシント、エセックス、バンカーヒル、
       ハンコック、バターン、イントレピッド、ヨークタウン(CV-10)、ラングレー)
戦艦6隻:(マサチューセッツ、インディアナ、ニュージャージー、サウスダコタ、ウィスコンシン、ミズーリ)
その他の支援艦艇(大型巡洋艦アラスカ、グアムと多数の駆逐艦)
空母艦載機 386機(367機)
 その後の司令官
伊藤整一中将 最終階級は海軍大将
伊藤は艦長の有賀幸作大佐と共に退艦を拒否し戦死する。
有賀幸作大佐 最終階級は海軍中将
昭和19年11月6日「大和」艦長を内示される命ぜられる。享年49。戦死後、
4月7日付で海軍中将に昇格した。
「大和」は沈没。有賀も沈没した大和と運命を共にした。戦死時は海軍大佐であった。
森下信衛少将 第1遊撃部隊参謀長:数少ない戦艦大和沈没時の生存者であった。
古村啓蔵少将 第2水雷戦隊司令
海に投げ出され漂流しながら戦艦「大和」が沈没する姿を目撃する事となる。
その後駆逐艦「初霜」に救助され生還する。

 

      海軍陸戦隊
日本海軍が編成した陸上戦闘部隊である。単に陸戦隊と呼ぶこともある。もともとは恒常的な部隊ではなく、
 艦船の乗員などの 海軍将兵を臨時に武装させて編成することを原則としたが、
 1930年代には常設的な部隊も誕生した。
 太平洋戦争では戦域が拡大するにつれ、島嶼や局地防衛の必要から、特別陸戦隊のほか警備隊や
 防衛隊などの名称で陸戦隊 が次々と編成された。また、ドイツで訓練を受けた海軍独自の空挺部隊
 (パラシュ−ト部隊)(1942年1月にセレベス島メナドで
 日本最初の落下傘降下作戦を実施し陸軍の空挺部隊とともに空の神兵と称された。

    
太平洋戦争の主な戦歴

ウェーク島の戦い


ウェーク島は、アメリカ本土とグアム、フィリピンを結ぶ作戦線上にあるアメリカ軍の中部太平洋における重要な拠点の
ひとつであり、日本側から見れば、日本本土とマーシャル諸島を結ぶ作戦線上にひっかかる楔のような存在であった
日本海軍単独での作戦とされ、主にトラック諸島を拠点にしていた第4艦隊が割り当てられた。
アメリカ軍はウェーク島に海兵隊1個大隊を配備し、砲台を設置するなど防備を強化していた。1941年夏ごろには
滑走路を完成させ1941年12月ごろには守備隊522名、民間人1,236名がウェーク島に配備されていた
  第一次攻略戦の日本側参加兵力
 ウェーク島沖海戦の資料参考      海軍陸戦隊:舞鶴特陸一個中隊(350名)、第6根拠地隊一個中隊(310名)
1941年12月8日の開戦と同時に攻撃を開始した。まず5時10分、第24航空戦隊の陸上攻撃機34機がルオット島から
ウェーク島を空襲


  陸戦隊の派遣
12月23日10時40分、日本軍はウェーク島の完全攻略を宣言、通報した。占領が確認されると、攻略部隊は追加の陸戦隊と
医療班を上陸させて処理に当たらせ、水上機隊や飛行艇の基地を整備した。上海海軍特別陸戦隊から一個大隊が
ウェーク島に派遣されることとなり、1942年1月12日にウェーク島に到着

1942年12月10日付で、第65警備隊司令に酒井原繁松大佐が着任し、以後終戦までウェーク島で指揮を執る事となる
1943年10月6日と7日ウェーク島に対して合計738機を繰り出して空襲を行い、また重巡洋艦によって艦砲射撃を実施した
1944年1月1日にウェーク島に更なる部隊が送られた。第一陣として、満州から独立混成第5連隊と戦車第16連隊主力
     5月22日、ウェーク島の在陸軍部隊は再編成により独立混成第13連隊となり、第31軍の直轄部隊となった
1945年に入り、防備部隊が口に出来る食糧は、潜水艦が輸送してくれる缶詰肉20グラムと調味品10グラムに激減し
     3月10日に海軍部隊、3月25日に陸軍部隊がそれぞれ1日2食制となった

終戦
11月17日までに陸軍部隊1,093名、海軍部隊897名が復員した
1944年4月から5月の時点では陸海軍部隊合わせて4,000名近くを擁していたウェーク島守備部隊は終戦までに
栄養失調による戦病死者1,040名(陸軍834名、海軍506名)、戦死者291名(陸軍87名、海軍204名)、
守備部隊最高司令官だった酒井原は、戦犯容疑により関係者17名とともにウェーク島に残された
やがて酒井原は、1943年10月の捕虜虐殺の罪によりグアムで戦犯裁判を受け死刑判決が下され、
1947年6月に刑が執行された。


メナドの戦いの戦い


1942年1月11日未明、坂口支隊と呉第2特別陸戦隊(呉二特)はボルネオ島北部の油田地帯タラカン島に上陸した。
海軍は戦死156名を出した。
同じく11日、海軍単独によるセレベス島メナドへの進攻が行われた。佐世保連合特別陸戦隊(佐連特)直率部隊及び
佐世保第1特別陸戦隊)(兵力は合計で1,800名)がメナドの西岸に、佐世保第2特別陸戦隊(佐二特)(兵力1,400名)が
東岸に上陸し、海軍空挺部隊の横須賀第1特別陸戦隊(横一特、司令官:堀内豊秋中佐)の落下傘兵334名が
ランゴアン飛行場へ空挺降下した。これは日本軍としては史上最初の空挺作戦であったが、陸軍に配慮して報道発表は
留め置かれた。日本軍の損害はほとんどなし


ラビの戦いの戦い


1942年8月下旬、東部ニューギニアのミルン湾ラビにおいて、日本軍とオーストラリア・アメリカ連合軍との間で行われた
戦闘である。呉第3及び第5特別陸戦隊や、佐世保第5特別陸戦隊などが次々と投入され、海軍単独での上陸作戦を行った。
しかし、オーストラリア軍・アメリカ軍との交戦の結果、大損害を受けて敗退した。


ブナ・ゴナの戦い


1943年1月2日横須賀第5特別陸戦隊(安田義達大佐)を中心に設営隊など900名ブナの防衛戦に参加した。陸軍部隊とともに
長期の抵抗の末に全滅。安田大佐は陸戦専攻の海軍士官で、館山砲術学校の教頭を務めたこともあった。
安田大佐は戦死後2階級特別進級した海軍中将


タワラの戦い


1943年11月21日から11月23日にかけて、ギルバート諸島タラワ島(現在のキリバス共和国)で日本軍守備隊と米軍との戦闘
日本軍(海軍部隊のみ) アメリカ軍
第3特別根拠地隊本隊(司令官:柴崎恵次 少将)902名
佐世保第7特別陸戦隊 1669名
第755航空隊基地員 30名
第111設営隊 1247名(主に軍属。朝鮮出身の労務者を含む。)
第4艦隊設営派遣隊 970名(同上)
    兵力合計:約4800名

    戦死者 : 4713名 
第2海兵師団 約16000名(指揮・ハリー・ヒル 少将



   兵力合計 :16000名

   戦死者 : 1009名
戦いは守備隊司令官含め全滅状態で敗北する

マニラの戦い


1945年2月3日から同年3月3日までフィリピンの首都マニラで行われた日本軍と連合軍の市街戦のことを指す。
日本軍は敗れ、三年間に及んだ日本のフィリピン支配は幕を閉じた。
現地でも第4航空軍(司令官:冨永恭次陸軍中将)は強硬なマニラ死守派であった、海軍もマニラ放棄に反対し、
マニラ駐留の第31特別根拠地隊(司令官:岩淵三次海軍少将)を基幹にレイテ沖海戦の沈没艦乗員などを
集めた海軍陸戦隊マニラ海軍防衛隊(マ海防)を編成し、市街戦の態勢を作った。

日本軍 アメリカ軍
指揮官 岩淵三次少将(海軍) 指揮官 オスカー・グリズワルド中将
   兵力 日本海軍 10,000名 兵力 米軍 : 35,000名
日本陸軍 4,300名 フィリピン人ゲリラ: 3,000名
兵力合計 15300名 兵力合計 約38000名
戦死者 12000名 戦死者 1010名     民間人:10万円
 


硫黄島の戦い


詳細は陸軍戦記を参照
1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に東京都小笠原諸島の硫黄島において
日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。
海軍の指揮官として8月10日、市丸利之助海軍少将が硫黄島に着任し、続いて飛行部隊および
地上勤務者2,216名が到着した。


沖縄の戦い


詳細は陸軍戦記を参照
昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである
沖縄方面根拠地隊(大田実少将)指揮下の陸戦隊が参加。小銃が数人で1丁などの乏しい武装で戦闘した。

沖縄方面根拠地隊(司令官:大田実少将)
             先任参謀 前川新一郎大佐
             南西諸島航空隊(司令:棚町整大佐)
             第951航空隊派遣隊(司令:羽田次郎大佐)

 
海軍 TOP 海戦 TOP
海軍 TOP 海戦 TOP