世界最大・最強を誇る大艦巨砲の集大成 日本海軍の軍艦、航空母艦、巡洋艦など国防戦力の中核となる重要な艦である。軍艦の艦首には金色の 菊花紋が光り輝く。 明治時代の海戦においてロシア艦隊を撃滅、以来巨艦主動主義が太平洋戦争では 軍艦としての役割を 十分に発揮できたでしょうか? ここで各戦艦の働きについて記載する。
最後の軍艦である。本艦は、太平洋戦争で日本海軍が使用した唯一の外国製の戦艦であり、 唯一潜水艦の攻撃によって喪失した戦艦でもある 太平洋戦争開戦時は同型艦の榛名と共に南方攻略部隊の支援任務に就く、 1942年10月13日 榛名と共にガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を砲撃 1944年10月 レイテ沖海戦に参加、サマール島沖で米海軍カサブランカ級護衛空母「ガンビア・ベイ」と ジョン・C・バトラー級護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」 を撃沈。 1944年11月21日 台湾海峡で午前3時6分、米海軍バラオ級潜水艦「シーライオン」の雷撃を受け、 魚雷2発が命中する。午前5時30分、基隆北方で沈没。島崎利雄大佐艦長、 鈴木義尾中将第三戦隊司令官以下1300名と共に沈むこととなった。
高速戦艦として生まれ変わった「比叡」は姉妹艦「霧島」と共に第三戦隊第一小隊を編成、第八戦隊と共に 第一航空艦隊の支援部隊を形成した。 昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃を行う南雲機動部隊を護衛する。 昭和17年)1月8日トラック泊地へ向けて出港した。ラバウル攻略、インド洋方面の機動作戦に参加、 ポート・ダーウィン空襲、 セイロン沖海戦に参加してミッドウエー海戦となるが、空母喪失後アリューシャン作戦を 支援する。ガダルカナル島の攻略が激しくなった昭和17年8月からはソロモン海域に進出、第二次ソロモン海戦、 第十一戦隊で南太平洋海戦参戦。 11月12日、戦艦「比叡」を旗艦とする挺身艦隊(第十一戦隊(阿部弘毅中将、 戦艦:比叡、霧島)は猛烈なスコール襲われた 数時間続いた豪雨が「比叡」の運命を狂わせたと証言している。飛行場射撃困難と判断した 阿部中将/司令官は午後10時、 サボ島北で反転を命じたがところが反転直後に天候が回復、レカタ基地から 水上偵察機発進の通達と、ガダルカナル島の コカンボナ観測所から砲撃要請があった。 夜間に敵艦隊発見するが、味方同士の打ち合いもあり、夜間混乱で比叡は猛烈な 砲火を浴びて大火災を発生、操舵不能となり、13日敵機の雷爆撃を受けるにおよび、ついに自沈した。 太平洋戦争で最初の日本軍戦艦の沈没である。「比叡」の戦死者188名、負傷者は152名だった
開戦時は三川軍一中将率いる第三戦隊に僚艦三隻と共に配属、同型艦金剛と第一小隊を組み 南方作戦支援に回された。 同型艦4隻が揃ってインド洋作戦に従事。 同年6月5日ミッドウェイ海戦では、霧島と共に機動部隊の護衛に当たるが味方空母部隊は全滅、 奮戦のすえ攻撃を受け、 炎上する空母飛龍の乗員を救助するが、榛名自身も至近弾を受けて損傷した。 同年9月、激戦化したガダルカナル方面の戦闘に参加するため前進部隊本体に編入され、 トラック島へと本拠を移した。 1944年6月19日マリアナ沖海戦に参加、戦艦大和など前衛部隊の一艦として出撃するも サマール島沖海戦榛名も帰途スル海 (フィリピン西方海上)において米軍の追撃により至近弾を受け損傷する。 昭和20年呉で停泊中、艦載機による爆撃を受けたが、このときの被害は軽微だった。再度大規模な攻撃を受け、 20発以上の 命中弾を受け浸水、大破着底した。
1941年11月26日 - 「比叡」「霧島」を含む機動部隊、単冠湾出撃 1941年太平洋戦争開戦時、比叡と共に第3戦隊第2小隊を編成、真珠湾攻撃・インド洋作戦・ミッドウェー海戦に参加 1942年11月15日には、第三次ソロモン海戦で米艦隊と交戦し、至近距離での砲撃戦を展開する。 霧島は戦闘開始後わずか7分にして9発の命中弾を受けた。 艦は停止する。艦長は総員退艦を命じ、キングストン弁を開いて自沈処理を行った。 (15日午前1時30分)、霧島はサボ島西方11マイルの地点に左舷後部から海中へと没した。
太平洋戦争緒戦では真珠湾攻撃に向かった南雲機動部隊の後詰め・曳航艦として 山本五十六連合艦隊司令長官が座乗する。 戦艦「長門」や「陸奥」と共に出撃した。 1942年のミッドウェー作戦では5月29日に日本を出撃、6月4日に戦艦「大和」以下主隊と 分離しアリュ−シャン諸島に向かう 1944年6月初旬の渾作戦に「扶桑」は第五戦隊、第十駆逐隊、第十九駆逐隊、第二十七駆逐隊と共に 出撃ビクア島に 上陸した米軍を撃退すべく同方面に進出した。 1944年10月レイテ沖海戦に参戦して「扶桑」は西村祥治中将の指揮の元、第二艦隊第三部隊として、 旗艦「山城」と共にブルネイ泊地から出撃した。明けて10月25日、ジェシー・B・オルデンドルフ少将が率いる 米軍第7艦隊第77任務部隊第2群は、 丁字陣形で西村艦隊を待ち構えていた。 アメリカ艦隊の雷撃を受け魚雷4本が命中し大爆発沈、 艦長以下全員未帰還
1944年になって戦況が悪化すると「山城」にも出撃命令が下った。作戦はレイテ湾への突入、輸送船団を撃破し すべしという無謀な作戦であった。 西村祥治中将の旗艦となった「山城」は、 リンガ泊地から10月22日午後3時に出撃した。 10月24日午前にスールー海でハルゼー指揮の機動部隊の攻撃を受けるが、米機動部隊が栗田艦隊を発見し そちらの攻撃に向かったため、西村艦隊はそれ以降機動部隊の攻撃を受けず予定通りスリガオ海峡を 目指して進撃した。 24日3時51分より「山城」はアメリカ海軍の戦艦と巡洋艦からレーダー射撃を受け、自らも前方に見える 砲火の閃光を目標に 応戦した。午前4時19分に右舷へ転覆して艦尾から沈没した。 生存者は10名足らずとされている
が生じたため再設計が行われ、準同型艦の伊勢型の一番艦として建造された。 開戦時、「伊勢」は第一艦隊第二戦隊に所属し、真珠湾攻撃を行った南雲機動部隊の損傷空母を収容するため 太平洋上に進出した。南雲機動部隊の奇襲は成功し、「伊勢」は予定を切り上げて12月13日に瀬戸内海に戻った ミッドウェー海戦で主力空母4隻を喪失した日本海軍は、空母の数を揃える必要にせまられた。 「伊勢」と「日向」の航空戦艦に改装を決定した。「伊勢」の工事は呉工廠で1942年12月に始まり、 1943年9月に完了した。 1944年5月1日、「伊勢」と「日向」は第四航空戦隊(戦隊旗艦「日向」、戦隊司令官松田千秋少将)を編成した 「伊勢」と「日向」は機動部隊本隊に所属し、10月20日に日本を出発し、レイテ沖海戦に参加した 「伊勢」は戦死7名・重軽傷者80名を出し至近弾4発により損傷を受け日本へ資源を輸送する「北号作戦」に参加する。 そこで本艦は連合軍制海権下の南シナ海などを強行突破して昭和20年)2月20日、奇跡的に無傷で呉に帰還を果たした 昭和20年)2月20日、奇跡的に無傷で呉に帰還を果たした。戦死者は573名に及んだ
伊勢型戦艦の2番艦。太平洋戦争中盤、航空戦艦に改造されたが、「航空戦艦」という 空母戦力を補填すべく、日本海軍は扶桑型戦艦と伊勢型戦艦の空母改装を決定した 1944年5月1日第四航空戦隊を編成し、松田千秋少将座乗の第四航空戦隊旗艦となる 昭和20年2月、戦略物資輸送作戦「北号作戦」で、カタパルトを撤去、更に機銃を一部撤去して現地部隊に引渡し 石油・ゴム・錫などの希少な戦略物資を航空機格納庫のスペースを生かして満載した。 北号作戦を終えた「日向」は呉軍港に停泊していたが、3月1日に第一予備艦に指定 7月24日の呉軍港空襲で米軍空母機の波状攻撃を受け、艦長草川淳少将(戦死後中将)も戦死する
40センチ砲を搭載した最初の 戦艦としても知られている。開戦時には山本長官の連合艦隊旗艦として 国内柱島泊地にあった。1942年2月になって旗艦を 「大和」と替り、ミッドウェー作戦に参加に出撃する。 大敗北後「陸奥」とともに第二戦隊に編入され、8月ソロモン方面の作戦支援 1944年6月マリアナ沖海戦、10月比島沖海戦参加、レイテ沖海戦後横須賀へ帰港、 1945年7月18日米艦載機の攻撃で中破 戦後、1996年7月1日ビキニ環礁で アメリカの原爆実験の標的艦となり沈没
第1艦隊第1戦隊に 所属、山本長官直率の連合艦隊主力部隊として柱島に泊地、その後は「長門」と同じ ソロモン方面の作戦支援して、1943年1月 横須賀に帰港して修理と訓練に励んでいた。 1943年8月昼柱島に停泊中、第3砲塔付近から大爆発を起こして船体は切断され 巨体は海中に没した。1474名中救助されたのは353名であった。原因は不明で「謎の爆沈」
昭和17年2月「長門」に代って連合艦隊の旗艦となる。 ミッドウェー作戦により山本五十六連合艦隊司令長官が 座乗して柱島泊地を出航、直接米軍と砲火を交えなかった。 昭和18年大和型2番艦「武蔵」に移譲、昭和18年)12月、「大和」は戊一号輸送部隊に参加する。 昭和19年)5月4日、宇垣纏中将が「長門」から移り、第一戦隊旗艦となる。マリアナ沖海戦に参加する 6月20日、「大和」はアメリカ軍攻撃隊に向けて三式弾27発を放った。実戦で主砲を発射したのはこれが最初である 昭和19年10月22日、「大和」はレイテ沖海戦に参加するため、第二艦隊(通称栗田艦隊)第一戦隊旗艦として アメリカ軍上陸船団の撃破を目指しブルネイを出撃した。 この戦闘で「大和」は主砲弾を104発発射した。レイテ沖海戦で連合艦隊は 事実上壊滅した。大和型戦艦3番艦を空母に改造した「信濃」も呉回航中に米潜水艦の襲撃で 沈没、「大和」と「信濃」が 合同することはなかった。「大和」以下残存艦艇は燃料不足のため満足な 訓練もできず、内地待機を続けている。 昭和20年3月19日、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦した。呉から徳山沖に退避したため、 目立った被害はなかった。 4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領。第二艦隊は「大和」以下、 第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、 旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(防空駆逐艦の冬月、涼月)、 第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、 第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)で編成された。 坊ノ岬沖海戦 4月7日6時30分ごろ、「大和」は対潜哨戒のため零式水上偵察機を発進させた。この機は鹿児島県指宿基地に帰投した。 九州近海までは、レイテ沖海戦で「大和」に乗艦していた宇垣中将率いる第五航空艦隊第二〇三航空隊 (鹿児島県南部笠、原飛行場)の零式艦上戦闘機が艦隊の護衛を行った。. 4月7日12時34分、「大和」は鹿児島県坊ノ岬沖90海里の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した。 能村副長(艦橋司令塔・防御指揮所)は魚雷命中12本と回想 中尾(中尉、高射長付。艦橋最上部・防空指揮所)は魚雷14本。戦闘詳報では、魚雷10本・爆弾7発 米軍飛行隊の戦闘報告では、367機出撃中最低117機(戦闘機ヘルキャット15機、戦闘機コルセア5機、 急降下爆撃機ヘルダイバー 37機、雷撃機アベンジャー60機)が「大和」を攻撃し、魚雷30-35本、爆弾38発が命中したと主張 「大和」では伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀幸作艦長以下2,740名が戦死、生存者269名
昭和18年1月、連合艦隊が集結している。 トラック島に進出して旗艦となる。 昭和18年) - 4月26日 古賀峯一大将、連合艦隊長官として武蔵に赴任 山本長官の遺骨を乗せてトラック島から横須賀へ帰還。これが武蔵の初任務となった。 昭和18年7月31日 長崎沖から第五戦隊(妙高、羽黒)、軽空母雲鷹、軽巡洋艦 長良、 駆逐艦 曙と共にトラック島へ向かう 昭和19年) - 6月15日 マリアナ沖海戦参加、すでに巨艦たちの出番はなく、空母対空母の対決である。 昭和19年) - 10月22日 レイテ沖海戦参加すべく、ブルネイを出撃。 「大和」と同じ第二艦隊(通称栗田艦隊)第一戦隊に所属 昭和19年) - 10月24日 米軍機の集中攻撃を受け、シブヤン海にて沈没 レイテ沖海戦 この海戦で「武蔵」は栗田健男中将指揮の日本軍第一遊撃部隊・通称「栗田艦隊」に所属し第一戦隊 (司令官、宇垣纏中将)の一艦として、和型戦艦「大和」、長門型戦艦「長門」と行動を共にした。 10月22日、「武蔵」はブルネイを出撃した。 1944年10月24日 9時30分:大和、武蔵の見張員がアメリカ陸軍B-24爆撃機(偵察機)を発見 10時25分:第一次空襲(44機。うち武蔵への来襲機数17機、1番主砲塔天蓋に命中するも、砲塔への被害無し 11時38分:第二次空襲(来襲機数16機)。被弾2、被雷3、至近弾5。 被雷の浸水により今度は左舷に5度傾斜するも回復 12時17分:第三次空襲(来襲機数13機)。被弾0、被雷1、至近弾3。 12時23分:第四次空襲(来襲機数20機)。12時53分、被弾4、被雷4 13時15分:第五次空襲(来襲機数0機)。艦隊輪型陣から離脱していたため攻撃を受けず。 米軍機は大和、長門に攻撃集中。 14時45分:第六次空襲(来襲機数75機)[107]。主砲発射10発、副砲58発[102]。集中攻撃を受け、 爆弾10発以上、魚雷11発以上、至近弾6発以上を受け大火災を起こす。 取舵と注排水により左6度まで回復 前部艦橋にも直撃弾、航海長・高射長など准士官以上11名を 含む57名戦死 19時15分:傾斜角暫時増大し左舷12度となり傾斜復旧の見込み無し。総員退去用意下命。軍艦旗降下 19時30分:傾斜角30度。総員退艦命令 19時35分:左舷に転覆、連続爆発2回、艦首より沈没。沈没位置東経122度32分・北緯13度7分・水深800m 米軍機の攻撃により、推定雷撃20本、爆弾17発、至近弾20発以上という軍艦史上最多・空前絶後の損害を受けたが 一方米軍は、爆弾命中44発、ロケット弾命中9発、魚雷の命中25本、総投下数161発中命中78発と記録した。 「武蔵」生存者420名、約3000名が戦死した。 |