海軍 TOP 艦艇 TOP
 これまでの海戦は戦艦と戦艦が大砲打ち合うものであった、そんな時代に航空母艦主体の航空艦隊を編成し、艦上の戦闘機
 急降下爆撃機、雷撃機兼水平爆撃機の三機種が、一人の現場指揮官のもとに連携して敵に襲いかかるという作戦は、海戦の
 革命であったともいえる。その斬新な発案したのが、連合艦隊司令長官山本五十六大将であった。
 山本は「海軍航空隊の育ての親」といわれており、太平洋戦争開戦前から、これからの海戦は航空機が主役になると信じていた。
 しかし、真珠湾奇襲作戦に海軍首脳部のほとんどが反対した。連合艦隊司令長官の首をかけて決定した。
 以後米軍も空母艦強化し1942年以後空母主体の戦略で制空権を得て、ミッドウェー海戦・マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦に
 おいて日本海軍は敗北してしまう。


航空母艦:鳳翔
 しょうほう
日本海軍初の航空母艦

要目 竣立時 最終
標準排水量  7,470トン
全長  165.0m 179.5m
全幅  22.7m
機関出力  30,000hp
速度  25.0ノット
航続力 10,000海里
乗員数  550名
装甲 九六式25mm3連装機銃2基
九六式25mm連装機銃2基
兵装
搭載機 常用15機、 補用6機
艦歴
竣立地 浅野造船鶴見造船所
竣立日 1922年12月27日
1次改造
2次改造
戦中艦長 25.松浦義 大佐:1943年12月18日
26.国府田清 大佐:1944年3月1日
27.室田勇次郎 大佐:1944年7月6日
28.大須賀秀一 大佐:1945年3月5日
29.金岡国三 大佐:1945年9月20日
沈没日 1945年10月5日
沈没地 昭和22年
大阪の日立造船桜島工場で解体
 最初から航空母艦として起工された中で、世界で最初に完成して第二次世界大戦に実戦投入された艦である。
 昭和7年2月、上海事変で出撃。搭載機が日本機として初の撃墜を記録。
 1942年 ミッドウェー海戦第一艦隊所属で後、練習空母になる
 開戦時に日本海軍に在籍していた艦艇の中で無傷で終戦を迎えたのは鳳翔のみであった。
 戦後は延長した飛行甲板を撤去した上で復員輸送艦として使われおよそ4万人の将兵と民間人を輸送した。

航空母艦:天城 雲龍型の二番艦

要目 竣立時
標準排水量 17,480t 
全長 227.35m
全幅 22.00m
機関出力 152,000hp
速度 34.0kt
航続力 8,000nm
乗員数 1,556名
装甲
兵装 40口径12.7cm連装高角砲6基
25mm3連装機銃21基
25mm単装機銃30挺
搭載機 一六試艦爆(流星):27
合計:51+2機
艦歴
竣立地 三菱重工業長崎造船所建造
竣立日 1944年8月10日
1次改造
2次改造
戦中艦長 1.山森亀之助 大佐:1944年8月10日
2.宮崎俊男 大佐:1944年10月23日
3.平塚四郎 大佐:1945年4月20日
沈没日 1945年7月28日
沈没地 三ツ子島に碇泊 着定

空襲により横転した天城
 昭和19年)8月10日竣工
 竣工時に日本海軍は燃料や航空機不足となっていたために、作戦行動には従事せず、
 出撃機会のないまま呉港に対空砲台として停泊していた。
       9月 空母「雲龍」と第1航空戦隊を編成
 昭和20年)6月10日呉港外の三ツ子島に碇泊。3月19日、7月24日、7月28日に米軍機の空襲を受け損傷(呉軍港空襲)。
             応急処置の不備により浸水横転、着底


航空母艦:雲龍
うんりゅう
雲龍型の一番艦

要目 竣立時
標準排水量 17,480t 
全長 227.35m
全幅 22.00m
機関出力 152,000hp
速度 34.0kt
航続力 8,000nm
乗員数 1,556名
装甲
兵装 40口径12.7cm連装高角砲6基
25mm3連装機銃21基
25mm単装機銃30挺
搭載機 一六試艦爆(流星):27
合計:51+2機
艦歴
竣立地 横須賀海軍工廠
竣立日 1944年8月6日
1次改造
2次改造
戦中艦長 小西要人 大佐:1944年8月6日 戦死
沈没日 1944年12月9日
沈没地 東シナ海






 1942年8月1日起工、1943年9月25日進水、1944年8月6日竣工。
 日本海軍は捷一号作戦に敗北したため、組織的艦隊行動が不可能となった。さらに台湾沖航空戦で搭載する航空機を
 失った為、「雲龍」は姉妹艦の「天城」と第1航空戦隊を編成したものの空母機動部隊として運用されることはなく、
 空母として活躍することはなかった。
 そのかわり「雲龍」は重量物輸送船として用いられた。1944年12月17日、第五二駆逐隊「時雨」、 
 松型駆逐艦「檜」、「樅」に護衛されて呉を出港し、「緊急重要物資」を届けるためにマニラへ向かう。
 12月18日の時点で「雲龍」は米潜水艦と思われる電波を探知、この米潜水艦はバラオ級潜水艦「レッドフィッシュ」だった。
 右舷中央部(艦橋下部)に魚雷1本が命中した。16時45分、2本目の魚雷が右舷前部(艦橋のやや後方)に命中する。
 16時57分、海上に出ていた艦尾が水面下に消え、「雲龍」は沈没した。生存者89名、戦死者1241名、便乗者生存者57名
 陸軍兵の乗艦者の総計は不明だが、滑空歩兵第1連隊主力のほとんどが戦死した。


航空母艦:葛城 雲龍型の三番艦

要目 竣立時 1次改造後
標準排水量 17,150t 
全長 227.35m
全幅 22.00m
機関出力 104,000馬力
速度 32.0ノット
航続力 18ノットで8,000海里
乗員数 約1,500名
装甲
兵装 40口径12.7cm連装高角砲6基
25mm3連装機銃21基
搭載機 一六試艦爆(流星):27
合計:51+2機
艦歴
竣立地 呉海軍工廠
竣立日 1944年10月15日
1次改造
2次改造
戦中艦長 1.川畑正治 大佐:1944年
2.平塚四郎 大佐:1945年
3.宮崎俊男 大佐:1945年
沈没日 1945年10月20日
沈没地 復員輸送後解体
 日本海軍が建造した航空母艦の中で最後に完成した空母であった。
 1942年(昭和17年)12月8日、呉海軍工廠で起工し、1944年(昭和19年)1月19日進水、同年10月15日に竣工した。
 鹿児島沖などで公試を行ってはいるものの、搭載する航空機と搭乗員、さらに燃料の不足により作戦活動には従事せず、
 決号作戦に向けて温存されていた。終戦時には呉市の三ツ子島近海に擬装の上係留されていた。
 昭和20年)7月24日および7月28日の呉軍港空襲で被弾、中破する。
 終戦後の10月20日に除籍され、連合国軍による武装解除の後、特別輸送艦(復員輸送船)として用いられることとなった。
 葛城は約1年の間に8航海、計49,390名の復員者を輸送し、その中には歌手の藤山一郎もいた。
 復員する人々で鈴なりとなった写真に残されている。

航空母艦:赤城 高速戦艦から改造された
超大型空母

要目 竣立時 最終
標準排水量 26,900t 36,500t 
全長 261.2m 260.67m
全幅 29.0m 31.32m
機関出力 131,200hp 133,000hp
速度 32.1ノット 30.2ノット
航続力 8,000カイリ 8,200浬
乗員数 1,297名 1,630名
兵装 20cm砲 6基6門
12cm連装高角砲 6基12門
25mm連装機銃 14基28門
搭載機 九七式艦上攻撃機:27機
零式艦上戦闘機:18機その他
常用66機、補用25機
艦歴
竣立地 佐世保海軍工廠
竣立日 1927年3月25日
1次改造 昭和13年)に飛行甲板に延長
戦中艦長 17.寺岡謹平 大佐:1938年11月15日
18.草鹿龍之介大佐:1939年11月15日
19.伊藤皎 大佐:1940年10月15日
20.長谷川喜一 大佐:1941年3月25日
21.青木泰二郎 大佐:1942年4月25日
沈没日 昭和17年)6月5日
沈没地 ミッドウェー海域
 「赤城」にとって、太平洋戦争(大東亜戦争)の真珠湾攻撃が本格的な初陣となった。
 11月26日単冠湾を出港し、第一航空艦隊(南雲機動部隊)の旗艦として一路ハワイ・真珠湾へと向かった。
 第一次攻撃隊 :10機が被弾、戦死者2名を出した
           九七式艦攻27機(水平爆撃隊15機=指揮官:飛行隊長淵田美津雄中佐
           雷撃隊12機=指揮官:飛行隊長村田重治少佐)
           零戦9機=指揮官:飛行隊長板谷茂少佐
 第二次攻撃隊 :九九艦爆4機を喪失し、13機が被弾、戦死者8名を出した
           九九式艦爆18機=指揮官:分隊長千早猛彦大尉
           零戦9機=指揮官:分隊長進藤三郎大尉
 1942年1月下旬ラバウルを攻撃し、2月中旬のオーストラリアの港湾都市ポートダーウィンを空襲
     3月5日チラチャップ攻撃と南太平洋を転戦する     
     3月26日、セレベス島を出港し、インド洋へ進出する。セイロン沖海戦
 「赤城」は1942年6月に生起したミッドウェー海戦に参加する。5月27日の海軍記念日に南雲機動部隊は日本を出撃する。
 南雲忠一司令官は兵装転換を各艦に命令出すが、その最中、南雲機動部隊はミッドウェー基地から飛来した米軍航空機の
 空襲を受けた。5時30分、ミッドウェー基地への攻撃をとりやめ、米軍機動部隊を攻撃するため魚雷兵装転換命令を出す。
 格納庫には、取り外された爆弾が乱雑に転がっている状態となっており、陸用爆弾に転換する作業が始まる
 「赤城」は第一次攻撃隊27機の収容を優先し、午前6時18分に収容を終える。
 午前7時26分、「赤城」はアメリカ海軍空母「エンタープライズ」から発進した艦載機SBD の急降下爆撃を受ける
 「赤城」の格納庫内には3機の零戦、魚雷装備艦攻18機、第一次攻撃隊として着艦収容したばかりの艦爆18機があった。
 南雲中将や草鹿龍之介参謀長ら司令部は艦橋前面の小窓から飛行甲板に下りた。
 彼らは艦首前甲板に移り、短艇で「赤城」を脱出した。源田実航空参謀は「(珊瑚海海戦で損傷・消耗した)翔鶴と瑞鶴」が
 いれば…」とつぶやき、その後は南雲中将以下、全員が無言だったという
 午前2時「赤城」の右舷に対し、第四駆逐隊各艦(嵐、萩風、野分、舞風)から各1本が発射される
 昭和17年)6月6日午前2時10分、北緯30度30分、西経178度40分の地点で、「赤城」は艦尾から沈んでいった
 乗員は1,630名、第一航空艦隊司令部員が64名で、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名が戦死した



航空母艦:加賀 最大の格納庫をもつ
戦艦改造母艦

要目 竣立時 最終
標準排水量 26,900t 38,200t 
全長 238.5m 240.30m
全幅 29.6m 32.50m
機関出力 91,000hp 127,400hp
速度 27.5ノット 28.3ノット
航続力 8,000カイリ 10,000カイ
乗員数 1,269名 1,708名
兵装 20cm単装砲 10基10門
12.7cm連装高角砲 8基16門
25mm連装機銃 11基22門
搭載機 九九式艦上爆撃機27機
零式艦上戦闘機:18機  他機
常用72機、補用18機
艦歴
竣立地 初期 川崎重工業神戸造船所
竣立地 横須賀海軍工廠で空母への改造着工
竣立日 1928年3月31日
1次改造 昭和3年)3月31日竣工
2次改造 昭和9年)6月より改装
戦中艦長 11.大野一郎 大佐:1938年4月25日
12.吉富説三 大佐:1938年12月15日
13.久保九次 大佐:1939年11月15日
14.山田定義 大佐:1940年10月15日
15.岡田次作 大佐:1941年9月15日戦死
沈没日 1942年6月5日喪失
沈没地 ミッドウェー海
 「加賀」の初の実戦参加は1932年(昭和7年)第一次上海事変で、これは史上初の空母の実戦参加でもあった。
 開戦時には「赤城」とともに真珠湾攻撃で第一航空戦隊を編成し、第一航空艦隊の主力とされた。
 加賀からの真珠湾攻撃参加機
  
第一次攻撃隊
 97艦攻26機(5機未帰還)(水平爆撃隊14機)=指揮官:飛行隊長橋口喬少佐
 雷撃隊12機=指揮官:分隊長北島一良大尉)
 零戦9機(2機未帰還)=指揮官:分隊長志賀淑雄大尉
  
第二次攻撃隊
 99艦爆26機(6機未帰還)=指揮官:分隊長牧野三郎大尉
 零戦9機(2機未帰還)=指揮官:分隊長二階堂易大尉

 昭和17年1月12日にトラック島に進出。1月19日、トラックを出撃してラバウル攻撃に向かった
   
「ミッドウェー海戦」
 6月のミッドウェー海戦には、「赤城」「蒼龍」「飛龍」の3空母とともに参戦した。日本時間6月5日午前1時30分、「加賀」からは
 ミッドウェー基地攻撃のための第1次攻撃隊に零戦9機、艦爆18機が参加、日本時間午前7時22分、雲間より
 米機動部隊艦載機30機の奇襲を受ける。艦橋のそばにあった航空機用ガソリンを満載した給油タンク車に命中した一発は
 大爆発を引き起こし、 爆風で基部を除いた艦橋を吹き飛ばした。艦長岡田次作大佐以下幹部のほとんどが戦死
 16時25分に2回の大爆発が起きた。 「加賀」は同海戦に参加した艦艇の中でも人的被害が一番多かった。
 岡田艦長以下約811人が犠牲となり、その多くは艦内の火災で脱出不可能となった機関部員で、生存者は40名程だった
 加賀搭乗員は機上で8名が戦死した。米軍機の攻撃と誘爆により搭乗員13名が戦死し、「加賀」搭乗員は
 機上・艦上あわせて楠美正飛行隊長以下21名(戦闘機6名、艦爆6名、艦攻9名)が戦死した



航空母艦:飛龍 新造時から左舷に艦橋を
置いた中型空母

要目 竣立時
標準排水量 17,300トン
全長 227.35m
全幅 22.32m
機関出力 153,000hp
速度 34.5ノット
航続力 7,670カイリ
乗員数 1,103名
兵装 40口径12.7cm連装高角砲:6基12門
九六式二十五粍高角機銃:3連装7基
搭載機 零式艦上戦闘機:18機
九九式艦上爆撃機:18機 他
常用57機、補用16機
艦歴
竣立地 横須賀海軍工廠
竣立日 1939年7月5日
2次改造
戦中艦長 2.横川市平 大佐:1939年11月15日
3.矢野志加三 大佐:1940年11月15日
4.加来止男 大佐:1941年9月5日 戦死
沈没日 1942年6月6日
沈没地 ミッドウェー海





 昭和15年4月、「飛龍」は第一航空戦隊と共に中国福建省を爆撃した
 昭和16年11月26日、真珠湾襲撃で「飛龍」と「蒼龍」は第一航空艦隊第二航空戦隊に所属し、
              第一航空戦隊(空母:赤城、加賀)
              第五航空戦隊(空母:翔鶴、瑞鶴)と共に日本を出撃した。
 「飛龍」からの真珠湾攻撃参加機
   
第一次攻撃隊
 九七式艦攻18機(水平爆撃隊10機=指揮官:飛行隊長楠美正少佐、雷撃隊8機=指揮官:分隊長松村平太大尉)
 零戦6機=指揮官:分隊長岡嶋清熊大尉
   
第二次攻撃隊
 九九式艦爆18機=指揮官:分隊長小林道雄大尉(発動機不調で引き返し不参加)
 零戦9機=指揮官:分隊長能野澄夫大尉(零戦1機、故障で引き返す)

 昭和17年1月12日、「飛龍」は日本を出撃し、パラオ諸島に向かう
             セイロン沖海戦4月5日、他艦艦載機と共に「飛龍」零戦9機、艦攻18機がセイロン島コロンボ空襲を行い、
             駆逐艦「テネドス」と仮装巡洋艦「ヘクター」を撃沈する
 1942年5月27日、空母「飛龍」は南雲忠一中将指揮のもと、第一航空艦隊(南雲機動部隊)第二航空戦隊旗艦として
           ミッドウェー海戦に参加すべく日本を出撃した。山口多聞少将指揮下、反撃を開始する
           日本時間6月5日午後2時3-5分、「飛龍」は空母「エンタープライズ」、「ヨークタウン」のSBDドーントレス
           急降下爆撃機24機の集中攻撃を受け、1,000ポンド爆弾4発を被弾した
 「飛龍」の定員は准士官以上95名、下士官兵1315名、傭人6名、計1,416名である
 「飛龍」の戦死者は戦闘詳報によると山口司令官、加来艦長ら准士官以上30名、下士官兵387名の計417名
 飛龍搭載機搭乗員の戦死者は機上64名、艦上8名の合わせて72名(戦闘機11名、艦爆27名、艦攻34名)に上り、
 同海戦で日本海軍が喪失した4空母中、群を抜いている(赤城7名、加賀21名、蒼龍10名)
 「飛龍」は海戦参加の日本空母中、最も搭載機搭乗員の戦死者が多かった艦となった。
炎上する飛龍。飛龍の最後の
姿を映し出す有名な写真である
同海戦で艦前部飛行甲板を
破損した飛龍。
炎上する飛龍。飛龍の最後の姿を
映し出す有名な写真である。


航空母艦:蒼龍
そうりゅう
日本空母のスタイルを
確立した傑作

要目 竣立時
標準排水量 15,900t
全長 227.5m
全幅 21.3m
機関出力 152,000hp
速度 34.5kt
航続力 7,680浬
乗員数 1,103名
兵装 40口径12.7cm連装高角砲6基12門
九六式二十五粍高角機銃
連装14基28門
搭載機 零式艦上戦闘機:18機
九九式艦上爆撃機18機 他
常用57機、補用16機
艦歴
竣立地 呉海軍工廠
竣立日 1937年12月29日
戦中艦長 4.山田定義 大佐:1939年10月15日
5.蒲瀬和足 大佐:1940年10月15日
6.上阪香苗 大佐:1940年11月25日
7.長谷川喜一 大佐:1941年9月12日
8.柳本柳作 大佐:1941年10月6日戦死
沈没日 1942年6月5日
沈没地 ミッドウェー海
 1938年 - 広東攻略作戦に参加
 1941年 - 12月8日 真珠湾攻撃 
 「蒼龍」からの真珠湾攻撃参加機
   第一次攻撃隊
 九七式艦攻18機(水平爆撃隊10機=指揮官:分隊長阿部平次郎大尉
 雷撃隊8機=指揮官:分隊長長井彊大尉)
 零戦8機=指揮官:分隊長菅波政治大尉
   第二次攻撃隊
 九九式艦爆18機=指揮官:飛行隊長江草隆繁少佐
 零戦9機=指揮官:分隊長飯田房太大尉

      12月21日、22日飛龍と共に第2次ウェーク島攻略作戦
 1942年 - 1月アンボン島攻略作戦を支援 
      2月19日、ポート・ダーウィン空襲に零戦9、艦爆18、艦攻18が参加
      4月5日から4月9日 - セイロン沖海戦に参加 
       空母「ハーミーズ」、重巡洋艦「ドーセットシャー」、「コーンウォール」、駆逐艦「ヴァンパイア」、
       コルヴェット艦「ホリホック」、給油艦「アセルステーン」、「ブリティッシュ・サージャント」を撃沈した。
 ミッドウェー海戦では第二航空戦隊(山口多聞少将)に飛龍と所属参戦、5月27日、「蒼龍」は日本を出発した
 6月5日 ミッドウェー海戦にて沈没
 艦と運命を共にした柳本柳作艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戦死
 搭乗員戦死者は機上6名、艦上4名の合わせて10名(戦闘機4名、艦爆1名、艦攻5名)で、江草隆繁飛行隊長以下、
 搭乗員の多くは救助された

航空母艦:翔鶴
しょうかく
日本海軍が追い求めた
艦隊空母の完成型

要目 竣立時
標準排水量 25,675t
全長 257.5m
全幅 26.0m
機関出力 160,000hp
速度 34.2kt
航続力 9,700海里
乗員数 1,660名
兵装 40口径12.7cm連装高角砲8基
25mm3連装機銃12基
搭載機 零式艦上戦闘機:18機
九九式艦上爆撃機27機
九七式艦上攻撃機:27機
常用72機、補用12機
艦歴
竣立地 横須賀工廠
竣立日 1941年8月8日
戦中艦長 城島高次 大佐:1941年4月17日
有馬正文 大佐:1942年5月25日
岡田為次 大佐:1943年2月16日
松原博 大佐:1943年11月25日
沈没日 1944年6月19日
沈没地 マリアナ海峡

 昭和16年)8月8日 就役。8月25日、第五航空戦隊に編入
       11月26日 単冠湾出撃    
       12月8日真珠湾攻撃参加 第五航空戦隊(原忠一少将:司令)に所属して「瑞鶴」と参戦
 「翔鶴」からの真珠湾攻撃参加機
   
第一次攻撃隊
 99艦爆26機=指揮官:飛行隊長高橋赫一少佐
 零戦5機=指揮官:分隊長兼子正大尉
   第二次攻撃隊
 97艦攻27機=指揮官:分隊長市原辰雄大尉

 昭和17年)1月17日 ラバウル攻略戦でトラック諸島出撃、同20日ラバウル、同21日ラエ攻撃
       3月26日セイロン沖海戦参加。翌4月5日コロンボ攻撃、
       5月7日珊瑚海海戦参加で損害甚大 5月17日、戦死者107名、負傷者128名を出して「翔鶴」は呉に戻った
       8月24日 第二次ソロモン沖海戦参加
 10月26日 南太平洋海戦に参加
   ミッドウェー海戦で主力空母4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)が沈没すると、「翔鶴」は「瑞鶴」とともに
 航空艦隊の中核となった。   修理を終えた「翔鶴」は第三艦隊第一航空戦隊旗艦となり、南雲忠一中将、
 草鹿龍之介参謀長、有馬正文翔鶴艦長が着任した。
 昭和19年)3月1日、日本海軍は第一機動艦隊を編成し、「翔鶴」は旗艦となった
       6月、米軍のサイパン島襲来に伴い、日米両軍の間でマリアナ沖海戦が生起、「翔鶴」も参加する
       6月19日11時20分、飛行機発進中に米ガトー級潜水艦「カヴァラ」が発射した魚雷4本が右舷に命中する
       14時1分、沈没。1,272名の乗組員が戦死した。 艦歴は2年10ヶ月であった

航空母艦:瑞鶴 回の空母決戦に参加した
海軍最大の殊勲艦

要目 竣立時 最終
標準排水量 25,675t
全長 257.5m
全幅 26.0m
機関出力 160,000hp
速度 34.2kt
航続力 9,700海里
乗員数 1,660名 1,712名
兵装 40口径12.7cm連装高角砲8基
25mm3連装機銃12基
搭載機 零戦戦闘爆撃機型:16機
零戦:28機
天山艦上攻撃機:14機
常用72機、補用12機
艦歴
竣立地 川崎重工業神戸造船所
竣立日 1941年9月25日
戦中艦長 横川市平 大佐(1941年9月25日 -)
野元為輝 大佐(1942年6月5日 -)
菊池朝三 大佐(1943年6月20日 -)
貝塚武男 大佐(1943年12月18日
沈没日 1944年10月25日沈没
沈没地 フィリピン沖  エンガノ岬沖
 昭和16年)9月25日に就役。姉妹艦の「翔鶴」とともに第五航空戦隊(原忠一少将)を編成した。
        第五航空戦隊は南雲忠一中将指揮下の第一航空艦隊に属し、真珠湾攻撃に参加した。
 「瑞鶴」からの真珠湾攻撃参加機
   第一次攻撃隊
 九九式艦爆25機=指揮官:分隊長坂本明大尉
 零戦6機=指揮官:分隊長佐藤正夫大尉
   第二次攻撃隊
 九七式艦攻27機=指揮官:飛行隊長嶋崎重和少佐(第二次攻撃隊指揮官)

 1942年)1月20日、ラバウルを攻略作戦、 ニューギニア島ラエを攻撃した。4月、セイロン沖海戦に参加
 1942年)5月、MO作戦においてMO機動部隊に編入されポートモレスビー攻略作戦の支援
 ミッドウェー海戦には不参加、 昭和17年6月末にはアリューシャン攻略部隊の支援として北太平洋方面に進出
 1942年)8月、アメリカ軍のガダルカナル島上陸に呼応して「翔鶴」、「龍驤」らと共に南東方面へ進出。
 1944年6月19日、20日マリアナ沖海戦に参加
 1944年10月23日レイテ沖海戦 参戦で小沢治三郎中将が指揮する囮部隊の旗艦
 真珠湾攻撃に参加した日本の空母6隻のうち、最後まで残ったのが本艦である。
 1944年)10月25日エンガノ岬沖海戦で沈没した。最終的に、士官49名、下士官兵794名が戦死した

航空母艦:瑞鳳
ずいほう
祥鳳型航空母艦2番艦

要目 竣立時
標準排水量 11,200トン
全長 205.50m
全幅 18.0m
機関出力 52,000馬力
速度 28 ノット
航続力 7,800カイリ
乗員数 792名
兵装 40口径12.7cm連装高角砲4基
12cm28連装噴進砲6基
搭載機 艦上戦闘機18機
艦上攻撃機9機
補用3機(艦戦)
艦歴
竣立地 横須賀海軍工廠
竣立日 1940年12月27日
戦中艦長 1.野元為輝 大佐:1940年12月27日
2.大林末雄 大佐:1941年9月20日
3.山口文次郎 大佐:1942年7月14日
4.服部勝二 大佐:1943年7月5日
5.杉浦矩郎 大佐:1944年2月15日
沈没日 1944年10月25日
沈没地 エンガノ岬



 昭和13年)9月15日 - 建造中に潜水母艦へ計画変更
 昭和15年)1月 - 更に計画を変更、航空母艦改造に着手
 昭和16年)4月10日 - 第1艦隊第3航空戦隊に編入
 昭和17年柱島泊地を出撃しミッドウェー海戦、続いてアリューシャン攻略作戦に参加
      10月26日 - 南太平洋海戦にて中破
 昭和19年タウイタウイに進出してマリアナ沖海戦に参加被害なく瀬戸内西部に帰還。
     10月25日レイテ沖海戦に小沢部隊として参加し8時30分エンガノ岬東方海上を南下中に戦爆連合の
      米軍150機から攻撃を受け、爆弾2発命中 さらに魚雷2本艦体切断により大浸水。
      軍艦旗収容し総員退艦。午後3時27分沈没。

航空母艦:祥鳳
しょうほう
祥鳳型航空母艦1番艦
空母改造を前提に建造された
潜水母艦と給油艦

要目 1次改造後
標準排水量 11,200トン
全長 205.50m
全幅 18.0m
機関出力 52,000馬力
速度 28 ノット
航続力 7,800カイリ
乗員数 785名
兵装 40口径12.7cm連装高角砲4基
25mm機銃 三連装4基
搭載機 艦上戦闘機18機
艦上攻撃機9機
補用3機(艦戦
艦歴
竣立地 横須賀海軍工廠
竣立日 1942年1月26日(航空母艦)
戦中艦長 1.橋本愛次 大佐:1938年9月20日
2.福沢常吉 大佐:1938年12月15日
3.伊藤尉太郎 大佐:1939年11月15日
空母艦長 1.伊沢石之助 大佐:1942年1月5日
沈没日 1942年5月7日
沈没地 珊瑚海

 昭和9年12月3日高速給油艦「剣埼」として横須賀横須賀海軍工廠にて起工
 昭和13年9月15日、潜水母艦への改装に着手
 昭和15年)11月15日に予備艦となり航空母艦への改造工事着手
 昭和16年)12月22日、「祥鳳」と改名、航空母艦に類別変更
 昭和17年)1月26日、第4航空戦隊所属となる。2月4日に横須賀港出港し、トラックへの航空機輸送任務につく
       5月7日、珊瑚海海戦に参加、アメリカの空母レキシントンとヨークタウンから攻撃隊が発進した
       1時20分(現地時間)に最初の爆弾が命中し、また魚雷の命中によって操舵装置が作動しなくなり
       直進しかできなくなった。最終的に祥鳳には爆弾13発、魚雷7本が命中し、11時35分に沈没した。
       乗員839名中生存者は203名であり、艦長伊沢石之助大佐も生還した


航空母艦:龍鳳
りゅうほう
潜水母艦「大鯨」として竣工し後に
航空母艦へ改装された

要目 1次改造後
標準排水量 13,360t
全長 215.65m
全幅 19.58m
機関出力 52,000HP
速度 26.5 ノット
航続力 8,000浬
乗員数 989名
兵装 40口径12.7cm連装高角砲4基
25mm3連装機銃10基
搭載機 艦上戦闘機18+6機
艦上攻撃機6+1機
計24+7機
艦歴
竣立地
竣立日 1942年11月空母
戦中艦長 1.亀井凱夫 大佐:1942年11月30日
2.松浦義 大佐:1944年3月16日
3.高橋長十郎 大佐:1945年1月20日
4.佐々木喜代治 大佐:1945年4月28日
除籍 1945年3月19日呉港にて空襲で着底
その後 1946年より解体
 昭和16年航空母艦への改装に着手
 昭和17年11月30日 - 軍艦「龍鳳」と命名され、第三艦隊編入12月11日 - トラック島に向け横須賀出港。
 昭和18年6月13日 - 横須賀帰着。第三艦隊第二航空戦隊に編入
 昭和19年6月19日 - マリアナ沖海戦に参加 11月15日 - 連合艦隊第一航空戦隊に編入。
 昭和20年3月19日 - 呉軍港空襲にて敵艦載機の攻撃をうけ、飛行甲板等に爆弾3発が命中し大破
 昭和21年)4月2日 - 播磨造船所呉船渠(旧呉海軍工廠)の第3船渠にて解体開始。
新造時の潜水母艦「大鯨」(後の空母「龍鳳)

航空母艦:大鳳
たいほう
飛行甲板に防衛を施した
日本初の装甲空母

要目 竣立時
標準排水量 29,300t
全長 260.6m
全幅 27.7m
機関出力 160,000 shp
速度 33.3 ノット
航続力 10,000浬
乗員数 2,038名
装甲 飛行甲板:95mm  ・甲板48mm
兵装 10cm連装高角砲6基12門
25mm3連装機銃22基66挺
搭載機 常用52機、補用1機
艦歴
竣立地 川崎造船所
竣立日 1944年3月7日
戦中艦長 1.菊池朝三 大佐(1944年3月7日 -)
沈没日 1944年6月19日
沈没地 マリアナ海
 日本海軍の正規空母の中では最後に竣工した
 1944年(昭和19年)6月18日、マリアナ沖海戦に参加
 ガトー級潜水艦「アルバコア」からの魚雷が午前8時10分に1本が右舷前部に命中した
 被雷から約4時間後、気化したガソリンに引火し、「大鳳」は大爆発を起こす、「大鳳」は左舷に大きく傾斜し、
 午後4時28分、艦尾から沈没した。
 大鳳」の沈没は、魚雷被弾後に胴体着艦をした戦闘機の衝撃で格納庫内に充満した気化燃料(ガソリン)に引火、
 爆発したことが原因だった。


航空母艦:龍驤
  りゅうじょう
過大な性能要求に翻弄
された小型空母

要目 竣立時 最終
標準排水量 12,732t 10,600t
全長 180.0m 180.0m
全幅 20.3m 20.78m
機関出力 65,000hp
速度 29.0kt 28kt前後
航続力 10000浬
乗員数 924名
兵装 八九式 12.7cm(40口径)           高角砲 連装6基12門
九三式 13.2mm(76口径)         機銃四連装24門
搭載機 九六式艦上戦闘機18機
九七式艦上攻撃機12機
艦歴
竣立地
竣立日 1933年 4月1日
戦中艦長 6.岡田次作 大佐:1937年12月1日
7.上阪香苗 大佐:1938年12月15日
8.長谷川喜一 大佐:1939年11月15日
9.杉本丑衛 大佐:1940年6月21日
10.加藤唯雄 大佐:1942年4月25日
沈没日 1942年 8月24日
沈没地 ソロモン海
 太平洋戦争開戦時には、小沢治三郎海軍中将の南遣艦隊の一員としてマレー作戦を支援し、
 南方攻略作戦を成功させた。
 スラバヤ沖海戦の終盤には、龍驤艦載機が逃走する米駆逐艦「ポープ」を航行不能にさせ、
 46時間続いた海戦に終止符を打った。
 昭和17年)6月のミッドウェー攻略作戦(MI作戦)を支援するアリューシャン攻略作戦(AL作戦)に参加。
      空母「隼鷹」と共に第四航空戦隊を編成してダッチハーバーを空襲する。
 第三艦隊(南雲機動部隊)の第一航空戦隊に加わり、第二次ソロモン海戦にのぞんだ
 1942年 - 8月24日 第二次ソロモン海戦に参加。米軍機艦爆18機、艦攻9機の攻撃を受け大破、沈没


航空母艦:千歳
  ちとせ
当初は水上機母艦として
建造された太平洋戦争中に
空母に改装され
姉妹艦は千代田

要目 1次改造後
標準排水量 11,190トン 
全長 192.5m
全幅 20.8m
機関出力 56,800hp
速度 29.0ノット
航続力 11,810浬
乗員数 785名
40口径12.7cm連装高角砲4基
兵装 25mm3連装機銃10基
搭載機 艦戦21機 艦攻9機
艦歴
竣立地 呉海軍工廠 水上機母艦
佐世保海軍工廠にて空母
竣立日
1次改造 1943年空母へ改装
戦中艦長 6.山本親雄 大佐:1940年11
7.古川保 大佐 :1941年8月
8.佐々木静吾 大佐:1941年8月
空母艦長 1.三浦艦三 大佐:1943年8月4日
2.岸良幸 大佐:1944年4月7日 戦死
沈没日 1944年10月25日喪失
沈没地 フィリピン エンガノ岬沖
 ミッドウェー海戦で4隻の正規空母を失った日本海軍は、空母不足を解消するため軽空母に改装することを
 1942年6月30日に決定する。空母改装後は第三航空戦隊に所属し船団護衛に従事、
 1944年6月のマリアナ沖海戦にも参加した。
 1944年10月25日、レイテ沖海戦でアメリカ海軍機動部隊の艦載機による攻撃で航行不能になり、
 米第38任務部隊から 分派され追撃してきたデュポーズ隊に捕捉されてしまい、
 米重巡洋艦「ウィチタ」(USS Wichita, CA-45) 以下の攻撃をうけ
 16時40分、左に転覆後沈没。艦長 城英一郎大佐以下乗組員全員が艦と運命を共にした。


航空母艦:千代田
  ちよだ
千歳型水上機母艦の2番艦
後に航空母艦へ改装された

要目 竣立時 1次改造後
標準排水量 11,190トン 
全長 185.93m
全幅 21.5m
機関出力 56,800hp
速度 29.0ノット
航続力 11,810浬
乗員数 785名
40口径12.7cm連装高角砲4基
兵装 25mm3連装機銃10基
搭載機 艦戦21機 艦攻9機
艦歴
呉海軍工廠 水上機母艦
竣立地 横須賀海軍工廠にて空母
竣立日 1943年空母へ改装
1次改造
2次改造
水上艦長 2.加来止男 大佐:1938年12月15日
3.横井忠雄 大佐:1939年11月15日
4.原田覚 大佐:1940年8月20日
空母艦長 1.別府明朋 大佐:1943年10月31日
2.城英一郎 大佐:1944年2月15日戦死
沈没日 1944年10月25日喪失
沈没地 フィリピン エンガノ岬沖
 1938年(昭和13年)に水上機母艦として竣工した。本艦の場合、水上機母艦としての役割に加えて、
 甲標的(特殊潜航艇) 母艦としても使用できるように設計・建造された。


 ミッドウェー海戦で4隻の正規空母を失った日本海軍は、空母不足を解消するため軽空母に改装することを
 1942年6月30日に 決定する。空母改装後は第三航空戦隊に所属し船団護衛に従事、
 1944年6月のマリアナ沖海戦にも参加した。
 1944年10月25日、レイテ沖海戦でアメリカ海軍機動部隊の艦載機による攻撃で航行不能になり、
 米第38任務部隊から 分派され追撃してきたデュポーズ隊に捕捉されてしまい、
 米重巡洋艦「ウィチタ」(USS Wichita, CA-45) 以下の攻撃をうけ
 16時40分、左に転覆後沈没。艦長 城英一郎大佐以下乗組員全員が艦と運命を共にした。

水上機母艦時代の「千代田」

航空母艦:神鷹
  しんよう
ドイツ客船シャルンホルスト
を日本海軍が買収し、
航空母艦に改造した。

要目 1次改造後
標準排水量 17,500トン 
全長 198.34m
全幅 25.6m
機関出力 26,000hp
速度 21.0ノット
航続力 8,000浬
乗員数 834名
兵装 2.7cm連装高角砲4基
25mm3連装機銃10基
搭載機 艦上戦闘機9+3機
艦上攻撃機18+3機 合計27+6機
艦歴
竣立地
竣立日 1943年12月15日空母
艦長空母 石井芸江 大佐(昭和18年12月15日
沈没日 1944年11月17日戦没
沈没地 済州島 付近






 第二次世界大戦勃発時に神戸港に係留されていたドイツ客船シャルンホルストを日本海軍が買収し、
 航空母艦に改造した。 1942年9月から空母への改造工事が始まった。
 1943年(昭和18年)12月シャルンホルストの空母への改造完了。「神鷹」と命名された。
 1943年(昭和18年)11月に設立されたばかりの海上護衛総司令部属となり、船団護衛任務につくことになった。
 マニラ行きの軍隊輸送船とシンガポール行きのタンカーで編成されたヒ81船団の護衛の任務につき、
 1944年(昭和19年)11月13日に九州の伊万里湾から東シナ海を横断し、中国東岸の舟山列島の経由で
 マニラ・シンガポール方面へ向かった。しかし、対馬海峡付近で米軍潜水艦群に船団の存在が
 完全に探知されてしまった。 11月17日23時7分に米バラオ級潜水艦スペードフィッシュが発射した
 魚雷6本のうち4本が神鷹の右舷に命中した。
 この魚雷の爆発によって航空機用燃料槽が爆発し、大量のガソリンの爆発により大火災が発生し、
 魚雷命中後30分で沈没した。 生存者は全乗組員1160名中わずか60名であった。


航空母艦:海鷹
  かいよう
元は大阪商船所属の客船
「あるぜんちな丸」で、
太平洋戦争勃発により日本海軍に
売却され、空母に改装された

要目 1次改造後
標準排水量 13,600t 
全長 166.55m
全幅 21.9m
機関出力 52,000hp
速度 23.0kt
航続力 7,000浬
乗員数 587名
兵装 12.7cm連装高角砲4基
25mm3連装機銃8基
搭載機 艦上戦闘機18機
艦上攻撃機6機
艦歴
竣立地 三菱重工業長崎造船所 空母改造
竣立日 1939年5月31日「あるぜんちな丸」
1次改造 1943年11月23日空母
戦中艦長 1.高尾儀六 大佐(1943年11月
2.有田雄三 大佐(1944年8月
3.国府田清 大佐(1945年3月
4.大須賀秀一 大佐(1945年5月1日
沈没日 1948年解体完了
沈没地
 昭和17年)5月1日、特設輸送艦として徴用されたが、直後にミッドウェー海戦で正規空母4隻が沈没、
 急遽空母へ改造が6月30日に決定した。
 昭和18年)11月23日に完成、船籍も日本海軍に移り航空母艦海鷹になった。
 昭和19年)2月11日 - 海上護衛総司令部付属となる。以降サイパン島、シンガポールなどへ輸送、船団護衛任務
 昭和20年)3月19日 - 呉にて爆撃を受け損傷(呉軍港空襲)
       4月10日 - 連合艦隊付属になる。以後は訓練目標艦として別府湾方面で行動
       7月24日 - 触雷、大分県日出町の城下(しろした)海岸に座礁
       7月28日 - 空襲による直撃弾により発電機停止、浸水増大により船体放棄
 昭和21年)9月1日 - 解体開始

航空母艦:飛鷹
  ひよう
飛鷹型航空母艦の1番艦

要目 竣立時
標準排水量 24,240トン
全長 219.32m
全幅 26.7m
機関出力 56,250hp
速度 25.5 ノット
航続力 12,251海里
乗員数 1,330名
兵装 40口径12.7cm連装高角砲6基
25mm3連装機銃8基
搭載機 艦戦12+3機 艦爆18+2機
艦攻18+5機 合計48+10機
艦歴
竣立地
竣立日 1942年7月31日
戦中艦長 1.別府明朋 大佐(1942年7月31日
2.澄川道男 大佐(1942年11月22日
3.別府明朋 大佐(1943年8月15日
4.古川保 大佐(1943年9月1日
5.横井俊之 大佐(1944年2月16日
沈没日 1944年6月20日喪失
沈没地 マリアナ海



 飛鷹は日本郵船が北米航路用に新造した橿原丸級貨客船「出雲丸」を建造途中で航空母艦に改装したものである。
 空母への改造は1940年(昭和15年)10月に決定し、翌年1月に改造工事が開始された。竣工は1942年(昭和17年)
 完成後は「隼鷹」と共に第二航空戦隊を編成し、同戦隊旗艦としてトラック島に進出した。
 昭和19年)6月13日、タウイタウイ泊地を出港し、空母「隼鷹」、「龍鳳」、戦艦「長門」と共にマリアナ沖へ進出する
 昭和19年)6月19日 - マリアナ沖海戦に参加。翌20日米軍機の攻撃を受け沈没

航空母艦:隼鷹
  じゅんよう
飛鷹型航空母艦の2番艦

要目 竣立時
標準排水量 24,140トン
全長 219.32m
全幅 26.7m
機関出力 56,250hp
速度 25.68 ノット
航続力 10,150海里
乗員数 1,187名
兵装 40口径12.7cm連装高角砲6基
25mm3連装機銃8基
搭載機 艦戦12+3機 艦爆18+2機
艦攻18+5機 合計48+10機
艦歴
竣立地 三菱重工業長崎造船所
竣立日 1942年5月3日
戦中艦長 岡田為次 大佐:1942年7月20日
長井満 大佐:1943年2月12日
大藤正直 大佐:1943年12月25日
渋谷清見 大佐:1944年2月21日
前原富義 大佐:1945年5月12日
沈没日
沈没地 1947年にスクラップとして解体
 有事の空母改造を前提に建造中の日本郵船の橿原丸級貨客船「橿原丸」(かしはらまる)を空母へ改装したものである。
 昭和17年)5月3日 - 竣工、空母「隼鷹」と命名。第二機動部隊第四航空戦隊に編入
 昭和18年)11月5日 - 沖ノ島近海にて米潜水艦の魚雷攻撃を受けて損傷
 昭和19年)6月20日 - マリアナ沖海戦にて煙突付近に直撃弾二発を受け発着艦不能に
       12月9日 - 女島付近にて米潜水艦の魚雷攻撃を受けて損傷、翌年3月末まで修理
 昭和20年)2月11日 - 第一航空戦隊から外される
 昭和21年)6月1日 - 旧佐世保工廠ドックにて解体開始

航空母艦:大鷹
  たいよう
大鷹型航空母艦の一番艦

要目 1次改造後
標準排水量 17,830t 
全長 180.24m
全幅 22.5m
機関出力 25,200hp
速度 21.0ノット
航続力 8,500浬
乗員数 747名
兵装 12cm単装高角砲4基
25mm連装機銃2基
13mm4連装機銃2基
搭載機 艦上戦闘機 9+2機
艦上攻撃機 14+2機
艦歴
竣立地 三菱重工業長崎造船所
竣立日 1940年9月19日「春日丸」として進水
1次改造 1941年9月5日特設航空母艦 竣工
2次改造 佐世保海軍工廠
戦中艦長 2.篠田太郎八 大佐:1942年10月
3.松田尊睦 大佐:1943年5月29日
4.松野俊郎 大佐:1943年11月
5.別府明朋 大佐:1944年2月15日
6.杉野修一 大佐:1944年3月20日
沈没日 1944年8月18日
沈没地 ルソン島
 建造中であった日本郵船の客船・春日丸を昭和16年)5月に海軍が徴用し、航空母艦としての改装工事が行われた
 1941年9月25日には第一航空艦隊第四航空戦隊に編入され、南方へ航空機と搭乗員、物資の輸送作戦に従事した。
 1942年9月28日からマーシャル諸島方面への輸送に従事中、トラック付近で米潜水艦に雷撃される。
 1943年7月23日より、トラックへの輸送に3回従事し、9月24日横須賀へ帰港中、父島の北東200海里で米潜の雷撃を
 受け航行不能、冲鷹に曳航されて横須賀に入港。1944年4月まで修理
 1944年8月8日、3度目の護衛航海として駆逐艦3隻、海防艦9隻とともに、タンカー、陸軍特殊船、貨物船などからなる
 重要船団「ヒ71船団」を護衛して、8月17日台湾の馬公よりフィリピンマニラ湾へ20日午後5時到着の予定で出撃。
 8月18日午後10時ごろ、本艦は、ルソン島東方にてアメリカ海軍のガトー級潜水艦「ラッシャー」の雷撃により、
 魚雷1本が命中し沈没した。

航空母艦:雲鷹
  うんよう
客船「八幡丸を改装し、
航空母艦としたもの

要目 1次改造後
標準排水量 17,830t 
全長 180.24m
全幅 22.5m
機関出力 25,200hp
速度 21.0ノット
航続力 8,500浬
乗員数 747名
12cm単装高角砲4基
兵装 25mm3連装機銃2基
25mm連装機銃4基
搭載機 艦戦9機 艦攻14+4機
合計23+4機
竣立地 三菱重工業長崎造船所で起工
呉海軍工廠にて改装
竣立日 1940年7月31日「八幡丸」として竣工
1次改造 1942年5月31日空母に改装完了
戦中艦長 1.湊慶譲 大佐:1942年5月
2.相徳一郎 大佐:1943年1月
3.関郁平 大佐:1943年4月
4.平塚四郎 大佐:1944年3月
5.木村行蔵 大佐:1944年7月 戦死
沈没日 1944年9月17日戦没
沈没地

 日本郵船所有の客船「八幡丸(やわたまる)」を改装し、航空母艦としたもの。
 1942年 1月21日 - 呉海軍工廠にて改装工事開始
     8月31日 - 「雲鷹」に改名。これ以降、南方方面への航空機輸送任務に就く。
 1944年1月19日 - サイパン島近海でアメリカの潜水艦「ハダック」の雷撃により、二本被雷。
     2月8日 - 横須賀に帰投。ドック入りし、船体の修理及び高角機銃の増備を行う。
 昭和19年)8月より船団護衛任務につくが、9月17日にはアメリカ潜水艦の雷撃により、短い生涯を終えた

航空母艦:冲鷹
  ちゅうよう
日本郵船の客船新田丸を
航空母艦に改造した

要目 1次改造後
標準排水量 17,830t 
全長 180.24m
全幅 22.5m
機関出力 25,200hp
速度 21.0ノット
航続力 8,500浬
乗員数 約850名
兵装 12.7cm連装高角砲4基
25mm3連装機銃10基
搭載機 艦上戦闘機 9+2機
艦上攻撃機 14+2機
艦歴
竣立地 三菱重工業長崎造船所
竣立日 1940年3月23日「新田丸」として竣工
1次改造 1942年11月25日空母へ改装完了
2次改造 呉海軍工廠で航空母艦
戦中艦長 1.石井芸江 大佐(昭和17年11月
2.加藤与四郎 大佐(昭和18年2月
3.大倉留三郎 大佐(昭和18年9月戦死
沈没日 1943年12月4日戦没
沈没地 八丈島東方
 日本郵船の客船新田丸を航空母艦に改造したものである。
 昭和17年)8月に海軍が買収し、呉海軍工廠で航空母艦への改装が開始される
 改装完了後連合艦隊付属として海軍籍に入り、12月13日に横須賀を出撃しトラック島へ
 陸軍の白城子教導飛行団を運んだ。
 昭和18年)4月25日〜5月13日、5月24日〜6月9日、6月16日〜7月2日にトラック島への航空機の輸送を行った。
 昭和18年)11月30日、冲鷹は空母雲鷹、瑞鳳、重巡洋艦摩耶、駆逐艦曙、朧、漣、浦風とともに
 トラックを出港し日本へ向かった。空母にはソロモン・ニューギニアからの人員、機材が搭載されており、
 また冲鷹には民間人や20名の捕虜も乗っていた
 12月3日夜に荒天の中八丈島東方でアメリカ潜水艦セイルフィッシュはレーダーで目標を探知、
 、4本の魚雷を発射した
 セイルフィッシュはさらに艦尾発射管から雷撃を行い、三度び冲鷹は被雷し沈没した
 冲鷹には約3000名(内乗員は553名)が乗っており、救助されたのは約170名
空母改装前の新田丸(1940年

航空母艦:信濃
  しなの
建造中の大和戦局の変化に伴い
戦艦から型戦艦三番艦
航空母艦に設計変更

要目 竣立時
標準排水量 62,000 トン
全長 266.1 m
全幅 40 m
機関出力 153,000
速度 27 ノット
航続力 10,000 海里
乗員数 2,400名
兵装 12.7cm連装高角砲8基16門
25mm3連装機銃37基
25mm単装機銃40基
12cm28連装噴進砲12基
搭載機 常用42機、補用5機
艦歴
竣立地 横須賀海軍工廠
竣立日 1944年11月19日
戦中艦長 阿部俊雄大佐  戦死
沈没日 1944年11月29日
沈没地 和歌山潮岬沖
 日本海軍に所属した航空母艦である。建造中の大和型戦艦三番艦を、戦局の変化に伴い戦艦から航空母艦に
 設計変更したものである。1942年(昭和17年)7月末、空母への設計変更が決定
 固有の航空機には、新鋭の艦上戦闘機「烈風」18機、流星艦上攻撃機18機、高速偵察機「彩雲」6機、補用5機、
 合計47機の 搭載が検討・予定されていた
 対空火器として、12.7cm連装高角砲8基16門(片弦4基)、25mm機銃(単装、連装、三連装合計)141門、
 28連装ロケット噴進砲12基を舷側に装備する予定だった
 残された艤装や兵装搭載の実施と、横須賀地区の空襲から逃れるための呉海軍工廠回航を意味していた。
 護衛の駆逐艦は第十七駆逐隊の陽炎型駆逐艦「浜風」(司令艦)、「磯風」、「雪風」の三隻だったが
 1944年11月28日午後1時30分、巨大な空母「信濃」は横須賀を出港した。先頭は第十七駆逐隊旗艦「浜風」、
 中央に「信濃」、信濃右舷に「雪風」、左舷に「磯風」である
 11月29日午前3時13分、浜名湖南方176kmにて「アーチャーフィッシュ」は魚雷6本を発射した
 「信濃」右舷後部のコンクリートが充填されたバルジより浅い部分に命中し、ガソリン貯蔵用空タンク、
 右舷外側機械室付近、 3番罐室即時満水、亀裂で隣の1番罐室・7番罐室に浸水、10時57分潮岬沖南東48kmの
 地点で「信濃」は転覆し、艦尾から沈没した。空母「信濃」の艦歴は、世界の海軍史上最も短いものとなった。





海軍 TOP 艦艇 TOP




日本帝国海軍 航空母艦 総覧