陸軍戦記 本土決戦と終戦
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フィリピンの戦いで連合艦隊と30万人の守備隊が壊滅し、油田地帯を失ったことで戦争の勝敗は明らかとなった。
大本営は日本有利な講和の道を詮索するため、米軍に少しでも多くの打撃を与えることのみを考えた。
そのため一億玉砕を訴え、6月には義勇兵役法を定め国民2600万人を徴兵した。
特別攻撃はますます本格化した。

1944年(昭和19年)11月にサイパン島が占領され、サイパン基地から発進したB-29による本土空襲が開始された。

硫黄島の戦い 沖縄の戦い 本土空襲と原爆投下 本土決戦
菊水作戦 ソ連対日参戦 終戦(日本降伏) 捕虜(シベリヤ抑留)

  十・十空襲    1944年10月10日
10月10日に南西諸島の広い範囲でアメリカ海軍機動部隊が行った大規模な空襲。
フィリピン守備の支援拠点となりうる南西諸島から台湾方面に散在する日本軍基地を、
機動部隊による空襲で破壊することにした。
その一環として沖縄諸島も攻撃目標に選ばれた。ウィリアム・ハルゼー大将率いる第3艦隊の高
速空母部隊である第38任務部隊(指揮官:マーク・ミッチャー中将)が担当部隊となった。
陸軍の第32軍(司令官:牛島満中将)の下に4個師団・5個旅団の地上部隊が揃えられる一方、
日本本土や台湾への民間人の疎開が推進されていた。
海軍は沖縄方面根拠地隊(司令官:新葉亭造少将)を置いていた。

正規空母9隻・軽空母8隻を基幹とする大部隊となった。艦隊は8日に洋上給油をした後に、沖縄へと向かった
9日夜、アメリカ艦隊は、発見されることなく沖縄近海に接近した。10日午前6時前、アメリカ艦隊は沖縄本島に
向けて最初の攻撃隊を出動させた。
午後にも第5次攻撃隊を繰り出した。宮古島など他の島への攻撃を合わせると、10日の出撃機数は延べ
1396機に達した。本島以外の沖縄諸島各地にも攻撃は向けられた。慶良間諸島には8回にわたり延べ60機
宮古島では午前と午後に1回ずつ各16機(日本側記録)による空襲
石垣島には8機が早朝に飛来した。攻撃は沖縄諸島にとどまらず、鹿児島県の奄美群島にも及んでいる。

 11日以降の戦闘
「台湾沖航空戦」も参照
 
  天号作戦      1945年3月20日 
天号作戦は、連合軍の進攻に対して、作戦方面を東シナ海周辺および南西諸島方面に指向し、
航空兵力を主力として打撃を与えることを目的としていた。
天号作戦は、九州方面へのアメリカ海軍機動部隊の来襲を受けて1945年3月20日に大本営により下令され、
3月26日に連合艦隊により天一号作戦が発動された。
 天一号作戦 - 沖縄方面航空作戦
 天一号作戦 - 沖縄方面航空作戦
 天一号作戦 - 沖縄方面航空作戦
 天一号作戦 - 沖縄方面航空作戦
 
  菊水作戦   1945年4月6日-6月22日 
連合国軍の沖縄諸島方面への進攻(沖縄戦)を阻止する目的で実施された日本軍の特攻作戦である。
作戦名の「菊水」は楠木正成の旗印に由来する。

沖縄諸島周辺での特攻作戦において、海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を実施し、海軍では2,045名、
陸軍では1,022名が特攻により戦死した。

菊水一号作戦    (4月6日 - 11日)
4月6日正午、海軍の作戦機は391機、陸軍は133機が九州と台湾の航空基地を飛び立った。
うち特攻機は海軍215機、陸軍82機
戦果と損失
  撃沈
   沈没日    艦名     艦種 戦死者 負傷者
1945年4月6日 ブッシュ 駆逐艦 94 32
1945年4月6日 コルホーン 駆逐艦 35 21
1945年4月6日 エモンズ 掃海駆逐艦 64 71
1945年4月6日 ホッブス・ビクトリー 弾薬輸送船 13 2
1945年4月6日 ローガン・ビクトリー 弾薬輸送船 15 9
1945年4月7日 LST-447 戦車揚陸艦 5 17
  合計 6隻 226 152

  
撃破
 正規空母ハンコック  正規空母エンタープライズ   軽空母サン・ジャシント
 戦艦メリーランド   戦艦ミズーリ
被害甚大のためアメリカ本土回航後除籍となった艦
 
ロイツェ(駆逐艦) 、ニューコム(駆逐艦)、ウィッター(掃海駆逐艦)、モリス(駆逐艦)
大破したため、終戦まで戦線復帰できなかった艦 
 キッド(駆逐艦)、ハワース(駆逐艦)、マラニー (駆逐艦) 、ハイマン (駆逐艦)、ヘインズワース (駆逐艦)

 合計37隻 戦艦2隻 正規空母2隻 軽空母1隻 駆逐艦24隻 掃海艦4隻 哨戒艇3隻 上陸支援艇1隻
 戦死300名 負傷556名(撃沈艦との合計 戦死526名 負傷708名 死傷合計1,234名)

 日本軍損失
特攻機   海軍機 230機    日本陸軍機 125機 



菊水二号作戦   (4月12日 - 15日)   特攻機:海軍103機、陸軍72機
戦果と損失
 
撃沈
   沈没日    艦名     艦種 戦死者 負傷者
1945年4月12日 マナート・L・エベール 駆逐艦 82 32
1945年4月12日 LCS-36 上陸支援艇 4 2
  合計 2隻 86 34

  撃破
 戦艦アイダホ  戦艦テネシー   戦艦ニューヨーク
被害甚大のためアメリカ本土回航後除籍となった艦
 
スタンリー (駆逐艦)
大破したため、終戦まで戦線復帰できなかった艦
パーディ (駆逐艦、シグズピー (駆逐艦) 、 ゼラース (駆逐艦)、
ロール (護衛駆逐艦)、ホワイトハースト (輸送駆逐艦)、リンゼー (掃海駆逐艦)
合計22隻 戦艦3隻 駆逐艦15隻 掃海艦1隻 中型揚陸艦1隻 上陸支援艇1隻 輸送艦1隻
戦死204名 負傷495名(撃沈艦との合計 戦死290名 負傷529名 死傷者合計819名)

 日本軍損失
特攻機 海軍機 230機    日本陸軍機 125機       


菊水三号作戦   (4月1日 - 15日)   特攻機:海軍176機、陸軍52機

 撃沈
   沈没日    艦名  艦種 戦死者 負傷者
1945年4月16日 プリングル 駆逐艦 76 120
  撃破
正規空母イントレピッド  戦艦ミズーリ
合計14隻 戦艦1隻 正規空母1隻 駆逐艦8隻 上陸支援艇2隻 歩兵揚陸艇1隻 タンカー1隻
戦死170名 負傷339名(撃沈艦との合計 戦死246名 負傷459名 死傷者合計705名)

 日本軍損失
 特攻機 日本海軍機 120機   日本陸軍機 45機


菊水四号作戦   (4月21日 - 29日)   特攻機:海軍100機、陸軍59機 未帰還

 
撃沈
沈没日    艦名     艦種 戦死者 負傷者
1945年4月22日 スワロー(掃海艦) 掃海艦
   2
  9
1945年4月22日 LCS-15 上陸支援艇
   4
  2
1945年4月29日   カナダ・ビクトリー 弾薬輸送艦
   86
  34
  撃破
  軽空母バターン
被害甚大のためアメリカ本土回航後除籍となった艦、  ハガード(駆逐艦)
破したため、終戦まで戦線復帰できなかった艦
ヘーゼルウッド(駆逐艦)、イシャーウッド(駆逐艦) 、テラー(機雷敷設艦)
戦死229名 負傷403名(撃沈艦との合計 戦死249名 負傷428名 死傷者合計677名)

 日本軍損失
 特攻機 日本海軍機 65機   日本陸軍機 50機


菊水五号作戦   (5月3日 - 9日)   特攻機:160機 
戦果と損失
 
撃沈
沈没日    艦名     艦種 戦死者 負傷者
1945年5月3日 リトル 駆逐艦 30 79
1945年5月4日 LSM(R)-195 8 16
1945年5月4日   モリソン 駆逐艦 152 102
1945年5月4日  ルース  駆逐艦 150 94
1945年5月4日  LSM(R)-190 中型揚陸艦 13 18
1945年5月4日  LSM(R)-194 中型揚陸艦 13 23
1945年5月4日  オバーレンダー 護衛駆逐艦 54 51
 合計  7隻 420 383
  撃破
正規空母フォーミダブル   正規空母インドミタブル   正規空母ヴィクトリアス
戦艦アイダホ   軽巡洋艦バーミングハム(大破したため、終戦まで戦線復帰できず)
セイントジョージ (水上機母艦)
被害甚大のためアメリカ本土回航後除籍となった艦
サンガモン(護衛空母)  アーロン・ワード (掃海駆逐艦)  イングランド (護衛駆逐艦)
大破したため、終戦まで戦線復帰できなかった艦
イングラハム (駆逐艦)、 マコーム (駆逐艦)、シェイ (掃海駆逐艦)

合計25隻 戦艦1隻 正規空母3隻 護衛空母1隻 軽巡洋艦1隻 水上機母艦1隻 
     駆逐艦11隻 掃海艇1隻 中型揚陸艦1隻 上陸支援艇2隻 測量船1隻 輸送艦2隻
戦死253名 負傷582名(撃沈艦との合計 戦死673名 負傷965名 死傷者合計1,638名)

 日本軍損失
 特攻機 日本海軍機 75機   日本陸軍機 50機


菊水六号作戦   (5月11日 - 14日)   特攻機 海軍:133機  陸軍:35機
戦果と損失                  海軍作戦機582機   陸軍作戦機:80機 
 
撃沈:なし                           
 撃破
正規空母バンカーヒル(大破)  正規空母エンタープライズ(大破)  戦艦 ニューメキシコ
被害甚大のためアメリカ本土回航後除籍となった艦
ヒューW.ハドレイ(駆逐艦)、エヴァンス(駆逐艦)、 チェース(掃海駆逐艦) 、 サッチャー(駆逐艦)
大破したため、終戦まで戦線復帰できなかった艦
バーチェ(駆逐艦)、ダグラスH.フォックス(駆逐艦)
合計19隻 戦艦1隻 正規空母2隻 駆逐艦11隻 戦車揚陸艦1隻 上陸支援艇2隻 輸送艦2隻
戦死612名 負傷741名(死傷者合計1,353名)

 日本軍損失
 特攻機 日本海軍機 70機   日本陸軍機 80機


菊水七号作戦   (5月24日 - 27日)   海軍:作戦機387機/特攻機107機
                        陸軍:作戦機174機/特攻機61機
 撃沈
沈没日    艦名     艦種 戦死者 負傷者
1945年5月25日 ベイツ 輸送駆逐艦 21 35
1945年5月25日 LSM-135 中型揚陸艦 11 10

 撃破
被害甚大のためアメリカ本土回航後除籍となった艦
バトラー(掃海駆逐艦)、ローパー(輸送駆逐艦)、フォレスト(掃海駆逐艦)、スペクタクル(掃海艦)、PC1603
大破したため、終戦まで戦線復帰できなかった艦
ストームズ (駆逐艦)、ブレイン (駆逐艦)、レッドナー(輸送駆逐艦)
合計21隻 駆逐艦14隻 駆潜艇1隻 掃海艇1隻 測量船1隻 上陸支援艇3隻 輸送艦1隻
戦死153名 負傷242名(撃沈艦との合計 戦死185名 負傷287名 死傷者合計472名)

 日本軍損失
 特攻機 日本海軍機 35機   日本陸軍機 100機


菊水八号作戦   (5月28日 - 29日)   海軍:作戦機387機/特攻機107機
                        陸軍:作戦機174機/特攻機61機
 撃沈
沈没日    艦名     艦種 戦死者 負傷者
1945年5月28日 ドレクスラー 駆逐艦 168 52

 撃破  シュブリック(駆逐艦), サンドバル(攻撃輸送艦)
合計8隻 駆逐艦3隻 上陸支援艇1隻 攻撃輸送艦1隻 輸送艦3隻
戦死69名 負傷122名(撃沈艦との合計 戦死237名 負傷174名 死傷者合計411名)

 日本軍損失
 特攻機 日本海軍機 60機   日本陸軍機 50機



菊水九号作戦   (6月3日 - 7日)   海軍:作戦機387機/特攻機107機

 撃沈                        陸軍:作戦機174機/特攻機61機
沈没日    艦名     艦種 戦死者 負傷者
1945年6月10日 ウィリアム.D.ポーター 駆逐艦 0 61

 撃破
戦艦ミシシッピ  護衛空母ナトマ・ベイ  ウィリアム・ディッター(掃海駆逐艦)
合計10隻 戦艦1隻 重巡洋艦1隻 護衛空母1隻 駆逐艦3隻 上陸支援艇1隻 歩兵揚陸艇1隻 輸送艦1隻
戦死32名 負傷191名(撃沈艦との合計 戦死32名 負傷252名 死傷者合計284名)

 日本軍損失
 特攻機 日本海軍機 20機   日本陸軍機 55機


菊水十号作戦   (6月21日 - 22日)   海軍:作戦機387機/特攻機107機

戦果と損失
 撃沈
沈没日    艦名     艦種 戦死者 負傷者
1945年6月16日 トゥィッグス 駆逐艦 193 34
1945年6月21日 バリー 輸送駆逐艦 0 0
1945年6月21日  LSM-59  中型揚陸艦  2  8 

 撃破
カーティス(水上機母艦)   ケネス・ホワイティング(水上機母艦)  LSM-213(中型揚陸艦)
合計7隻 水上機母艦2隻 駆逐艦3隻 戦車揚陸艦1隻 中型揚陸艦1隻
戦死51名 負傷108名(撃沈艦との合計 戦死246名 負傷150名 死傷者合計396名)

 日本軍損失
 特攻機 日本海軍機 30機   日本陸軍機 15機

その後
沖縄戦の終了によって菊水作戦も終了し、日本軍は九州に侵攻してくる連合軍に備えて戦力温存していたが、
沖縄周辺や日本本土近海に接近する連合軍艦艇に対して、散発的に特攻や通常航空攻撃をおこなっていた
8月15日、菊水作戦を指揮した宇垣纏中将は、終戦の玉音放送を聴いた後に艦上爆撃機「彗星」で
出撃して「最後の特攻」を行い、沖縄諸島方面で戦死した。

            
  特攻により炎上する空母フォーミダブル    5月11日、空母バンカーヒル大破     特攻機の集中攻撃で大破した
       アーロン・ワード

             
  5月14日、空母エンタープライズ大破   4月7日、空母ハンコックに特攻機が
 命中した瞬間 
 沈没寸前の駆逐艦ウィリアム.D.ポーター
 から乗組員を救出する
 上陸支援艇LCS-122 

         
     デコイ艦隊を全滅させた練習機白菊      出撃直前の宇垣纏中将   

 
  陸軍特別攻撃
陸軍中央で1944年初頭に航空特攻の検討が始まった。主に艦船に対する体当たりについてで、春には機材、
春には機材、研究にも着手した。
マリアナ沖海戦の敗北で1944年6月25日元帥会議が行われた。伏見宮博恭王より「陸海軍とも、なにか特殊な
兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。
戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する
と発言がある。東條、嶋田はすでに考案中であると答えた。

特攻開始
陸軍の特攻開始は鉾田教導飛行師団の万朶隊と浜松教導飛行師団の富嶽隊よって最初に行われた。
1944年10月24日から特別任務要員として南方へ派遣した。26日参謀総長代理菅原道大航空総監が臨席し
出陣式が行われ、富嶽隊と命名された。
万朶隊は初出撃を待つが11月5日、第4航空軍の命令で作戦打ち合わせに向かった隊長の岩本大尉以下5名が
米戦闘機と遭遇し戦死。
富嶽隊も11月7日早朝、初出撃した。しかしこの出撃は空振りに終わり、山本中尉機が未帰還。富嶽隊は13日に、
隊長西尾常三郎少佐以下6名が米機動部隊に突入して戦死(戦果未確認)。
沖縄戦では、第6航空軍(福岡)所属の振武隊と第8飛行師団(台湾)所属の誠飛行隊が次々と編成され、出撃していった。
また飛行第62戦隊の重爆撃機による特攻も行われた。このうち、第6航空軍司令官は菅原道大中将が務め、
知覧・都城などを基点に作戦が遂行された。
決号作戦に参加した振武隊員1,276名のうち、航空機の故障などの理由によって帰投した605名

  陸軍基地・飛行隊
鉾田教導飛行師団
   原町飛行隊
:昭和19年11月 特別攻撃隊編成(勤皇隊、鉄心隊、皇魂隊 
八街飛行場(千葉) 大戦末期には武装して対B-29戦闘、対地攻撃及び特別攻撃隊
   
下志津陸軍飛行学校
  銚子分教場
昭和18年10月 陸軍熊谷飛行学校 児玉教育班として開設
 児玉基地と改称、各分科飛行部隊および特別攻撃隊の基地
 
調布飛行場 飛行第244戦隊、特攻掩護のため知覧基地へ移動
 
陸軍中津飛行場 第18振武隊、第19振武隊が知覧飛行場を出撃
特攻戦死者は計16名、殉職者1名、復員者7名
 
太刀洗飛行場 福岡県 西日本における陸軍航空発祥の地であり、大東亜戦争当時は
日本陸軍が
東洋一と誇った航空戦略の一大拠点で、
大正8年の創設以来
爆撃機「飛龍」の部隊が配備された。
 
目達原飛行場 佐賀県 昭和十八年陸軍太刀洗飛行学校目達原分校として
開設
特攻第二七三振武隊
 
都城陸軍飛行隊 都城を発進した特攻機は全部で10隊、全機四式戦「疾風」編成
出撃特攻隊員は79名にのぼり、ほとんどが
18歳から23歳の若者たちであった
 
知覧飛行場 (鹿児島) 昭和17年3月大刀洗陸軍飛行学校知覧分校が設けられた
昭和20年本土最南端航空基地として陸軍最後の特攻基地
特攻基地といえば
知覧が有名で戦後よく映画にでる。
内地の各飛行場から訓練を重ねて
特攻隊としての中継基地として数多くの
若き勇士が莞爾として
雲流るる果て遥か逝きて 帰らざる
壮途につかれた思いで深い土地である 

特攻 構成人数・比率と戦死者数
1945年1月25日までのフィリピンでの航空特攻は、特攻機数は陸軍202機、海軍333機。
           戦死者は陸軍252名、海軍420名であった。
沖縄への航空特攻は海軍1026機、1997名、陸軍886機、1021名を数える
殆どの特攻隊員は下士官・兵と学徒出陣の士官(将校)である。海軍では下士官・兵は予科練、
陸軍では少年飛行兵出身であり、部隊編成上特攻の主軸となった。
陸軍は主に幹部候補生・特別幹部候補生・特別操縦見習士官出身者からなる。
2010年8月現在確認されている特攻隊員戦死者数は
海軍 陸軍
海軍航空特攻隊員:2,531名 陸軍航空特攻隊員:1,417名
特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名 丹羽戦車特攻隊員:9名
回天特攻隊員:104名 陸軍海上挺身隊員(マルレ):263名
震洋特攻隊員:1,081名
合計:4,156名 合計:1,689名

陸軍 挺進連隊(ていしんれんたい)
大日本帝国陸軍の部隊編制(連隊)の一つで、空挺作戦用の空挺部隊(落下傘部隊)である。
第二次世界大戦時に創設されパレンバン空挺作戦(パレンバン降下作戦)などを行った。
通称は陸軍落下傘部隊、陸軍空挺部隊、挺進部隊など。愛称は空の神兵。
挺進連隊は、複数個連隊や支援部隊を合わせた旅団に相当する団である挺進団(ていしんだん)を構成し
戦闘序列に編入され、大戦後期には更なる上級部隊として師団に相当する集団である
創設から初陣
日本陸軍は、空挺部隊と空挺兵(落下傘兵)の創設育成に着手した。
太平洋戦争開戦直前の12月4日には、挺進第1連隊(1Ri)と、輸送機により空挺兵や物資の輸送降下を担当する
飛行戦隊である挺進飛行戦隊(RFR)から成る第1挺進団(1RB)が編成完結した
開戦後、蘭印作戦におけるスマトラ島パレンバンへの降下作戦には挺進第2連隊が投入され、
日本陸軍最初の空挺作戦を成功させた。

  戦歴
パレンバン空挺作戦
スマトラ島のパレンバンは蘭印最大かつ東南アジア有数の大油田地帯
1942年2月14日には挺進飛行戦隊、第12輸送飛行中隊、飛行第98戦隊(物資投下担当)、
飛行第64戦隊・飛行第59戦隊(戦闘機による直掩・間掩。戦闘機隊の総指揮官は第64戦隊・戦隊長加藤建夫)の支援で
約400名が降下しオランダ軍守備隊と戦闘、結果、パレンバン大油田とロイヤル・ダッチ・シェルの製油所、
および飛行場2箇所をほぼ無傷で制圧した。

ラシオ空挺作戦
1942年4月27日か28日に決行する予定であったが第5飛行師団長小畑英良は29日の決行を命じた。
この作戦はパレンバンと違い奪取すべき目標が無く、退路を遮断できる緊要地形が付近には無かった。

高千穂空挺隊
レイテ島の戦いにおいて、第2挺進団(団司令部の秘匿名「高千穂部隊」)が、地上総攻撃と呼応してレイテ島の
ブラウエン飛行場群及びタクロバン飛行場、ドラッグ飛行場への空挺攻撃を実施した。

義烈空挺隊
挺進第1連隊の抽出人員を基幹に編成され、第3独立飛行隊所属の九七式重爆撃機12機で、沖縄のアメリカ軍
飛行場への強行着陸を試みた。少なくとも1機は突入に成功し、アメリカ軍機や飛行場設備に被害を与えた。

輸送機
一〇〇式輸送機 - 主力輸送機。パレンバン空挺作戦や高千穂空挺隊で使用。
ロ式輸送機/一式貨物輸送機 - パレンバン空挺作戦でのみ使用
九七式重爆撃機 - 物資投下や強行着陸に使用。
一〇〇式重爆撃機 - 高千穂空挺隊が強行着陸用に4機を使用
九七式輸送機 - 教導挺進連隊・教導挺進飛行戦隊で降下訓練機として使用
ク1 - 最初の実用輸送グライダー。乗員を入れて8人乗りで主に練習機として使用。
ク7 - 試作大型グライダー。エンジン付きの派生型にキ105試作輸送機がある。
ク8 - 主力グライダー。量産型はク8-II。

挺進連隊一覧
挺進第1連隊(1Ri) 教導挺進第1連隊を復帰させて、その人員より編成。終戦時には主力は横芝、園田隊は千歳。
挺進第2連隊(2Ri) 終戦時には宮崎県唐瀬原
挺進第3連隊(3Ri) 時期により教導挺進第3連隊。レイテ作戦時の秘匿名は「香取部隊」。
レイテ島への降下参加者は連隊長の白井垣春少佐以下、全滅。
終戦時にはネグロス島に生存者数名、ルソン島に若干名。
挺進第4連隊(4Ri) 時期により教導挺進第4連隊。レイテ作戦時の秘匿名は「鹿島部隊」。
終戦時にはセブ島・ミンダナオ島・ネグロス島に生存者計24名。
レイテ作戦時の連隊長だった斉田治作少佐は、第35軍参謀長の友近美晴少将とともに
ミンダナオ島へ転進して1945年6月20日に同島で戦死。
挺進第5連隊(5Ri) 1943年9月に編成。当初は歩兵大隊のほか、重火器大隊を有した。
1944年11月に復帰し、滑空歩兵第1連隊及び滑空歩兵第2連隊に改編
滑空歩兵第1連隊(1Ki) 主力はルソン島進出時に海没して壊滅。第1挺進集団主力として別動の2個中隊は、
ルソン島の戦いでほぼ全滅した。
滑空歩兵第2連隊(2Ki) ルソン島の戦いでほぼ全滅。クラーク地区の第1挺進集団本隊全体で生存者約100名。

 
  硫黄島の戦い   1945年2月19日から3月26日
東京都小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いである。
アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦(Operation)
1944年8月、グアムの戦いにおいてグアム島をほぼ制圧し終えたアメリカ軍は、日本本土攻略に向けた
次の攻撃予定として、同年12月20日にフィリピンのレイテ島(のちのレイテ島の戦い)に上陸、
翌1945年2月20日にはルソン島(のちのルソン島の戦い)もしくは3月1日に台湾上陸、との作戦計画を
立案したが、台湾か沖縄かはこの時点では決定されていなかった。しかし、アメリカ海軍太平洋艦隊司令部では
1944年9月にレイモンド・スプルーアンスの献策から、台湾攻略は補給能力の限界に達していることと日本本土へ
への影響力行使の観点から、意味がないと判断した。
10月2日に硫黄島攻略という基本戦略が40日後の沖縄上陸への前提としてアメリカ軍全体の方針となった

背景
硫黄島は、東京の南約1,080km、グアムの北約1,130kmに位置し、小笠原諸島硫黄島村に属する火山島である。
島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われているところからこの島名がつけられた。
長径は北東から南西方向に8km未満、幅は北部ではおよそ4km、南部ではわずか800mである。
面積は21km?程度、最高点は島の南部にある標高169mの摺鉢山である。土壌は火山灰のため保水性はなく、
飲料水等は塩辛い井戸水か雨水に頼るしかなかった。戦前は硫黄の採掘やサトウキビ栽培などを営む住民が
約1,000人居住していた。

日本軍は1941年12月の太平洋戦争開戦時、海軍根拠地隊約1,200名、              
陸軍兵力3,700ないし3,800名を父島に配備し、硫黄島をこの部隊の
管轄下に置いていた。開戦後、南方方面(東南アジア)と日本本土とを結ぶ
航空経路の中継地点として硫黄島の重要性が認識され、
海軍が摺鉢山の北東約2kmの位置に千鳥飛行場を建設し、
航空兵力1,500名および航空機20機を配備した。
日本の大本営はカロリン諸島からマリアナ諸島、小笠原諸島を結ぶ線を
絶対国防圏として死守することを決定する。
防衛線の守備兵力として小畑英良陸軍中将の指揮する第31軍が編成され、
配下の小笠原地区集団司令官には、太平洋戦争緒戦の南方作戦・香港攻略戦で
第23軍参謀長として従軍、攻略戦後は留守近衛第2師団長として
内地に留まっていた栗林忠道陸軍中将が任命され就任した。     硫黄島と日本本土の位置

1944年5月、小笠原方面最高指揮官として栗林忠道陸軍中将は父島へ赴任した。
栗林中将は後方陣地および、全島の施設を地下で結ぶ全長28kmの坑道構築を計画
兵員に対して時間の7割を訓練、3割を工事にあてるよう指示した。硫黄島の火山岩は非常に軟らかかったため
十字鍬や円匙などの手工具で掘ることができた。また、司令部・本部附のいわゆる事務職などを含む
全将兵に対して陣地構築を命令、工事の遅れを無くすため上官巡視時でも作業中は一切の
敬礼をやめるようにするなど指示は合理的に徹底していた。 
地下工事は困難の連続であり、激しい肉体労働に加えて防毒マスクを着用せざるを
得ない硫黄ガスや、摂氏30度から50度の地熱に曝されることから連続した作業は5分間しか続けられなかった。
坑道は深いところでは地下12mから15m、長さは摺鉢山の北斜面だけでも数kmに上った。
栗林中将は島北部の北集落から約500m北東の地点に兵団司令部を設置した。司令部は地下20mにあり、
坑道によって接続された各種の施設からなっていた。島で2番目に高い屏風山には無線所と気象観測所が

兵力の増強
栗林中将はまず大須賀應陸軍少将指揮下の混成第2旅団5,000名を父島から硫黄島へ移動させた。
旅団長は12月に千田貞季陸軍少将に交代する。サイパン陥落に伴い、池田益雄大佐の指揮する歩兵第145連隊
2,700名も硫黄島へ転進した。海軍ではまず第204建設大隊1,233名が到着し、速やかに地下陣地の建設工事に
着手した。8月10日、市丸利之助海軍少将が硫黄島に着任し、続いて飛行部隊および
地上勤務者2,216名が到着した

              
  四式二十糎噴進砲     一式機動四十七粍砲      機動九〇式野砲     四式四十糎噴進砲

参加兵力
  日本軍    連合軍
陸軍 (総兵力 13,586名)
・小笠原兵団(兵団長:栗林忠道陸軍中将 ・硫黄島派遣軍総司令官:リッチモンド・ターナー海軍中将
参謀長:高石正陸軍大佐 次席指揮官: ハリー・ヒル海軍少将)
師団司令部附:大須賀應陸軍少将  ・第51任務部隊司令官:リッチモンド・ターナー海軍中将
 ・小笠原兵団直轄部隊  ・第53任務部隊(司令官:ハリー・ヒル海軍少将) 
  ・第109師団(師団長:栗林忠道陸軍中将・  ・第54任務部隊司令官:バトラム・ロジャース海軍少将
小笠原兵団長兼)  ・第58任務部隊(司令官:マーク・ミッチャー海軍中将)
  ・(混成第1旅団)  ・第56任務部隊(司令官:ホーランド・スミス海兵隊中将)
   ・歩兵第145連隊(連隊長:池田益雄陸軍大佐)  ・第5水陸両用軍団総兵力61,000名
   ・戦車第26連隊(連隊長:西竹一陸軍中佐) (指揮官:ハリー・シュミット海兵隊少将
   ・独立混成第17連隊 参謀長:ウイリアム・ロジャー海兵隊准将
   ・船舶工兵第17連隊・独立歩兵第314大隊  ・第3海兵師団 師団長:グレーブス・アースキン海兵隊少将
   ・独立機関銃第1大隊・独立迫撃第1中隊    
  ・師団工兵隊    ・第9、21海兵連隊・第12海兵砲兵連隊 
   ・混成第1旅団工兵隊・混成第2旅団工兵隊   ・第3海兵戦車大隊
   ・工兵第2中隊  ・第4海兵師団師団長: クリフトン・ケーツ海兵隊少将
  ・師団通信隊    ・第23、24、25海兵連隊
  ・師団高射砲隊    ・第14海兵砲兵連隊・第4海兵戦車大隊
   ・特設機関砲隊・旅団野戦病院   
  野口巌陸軍軍医大尉  ・第5海兵師団師団長: ケラー・ロッキー海兵隊少将
 ・混成第2旅団(旅団長: 千田貞季陸軍少将    ・第26、27、28海兵連隊    
  旅団司令部附:厚地兼彦陸軍大佐    ・第13海兵砲兵連隊
  旅団司令部附:堀静一陸軍大佐    ・第5海兵戦車大隊 
   ・独立歩兵第309、第310、第311、第312大隊    
   ・独立機関銃第1、第2大隊
   ・独立速射砲第8、第9、第10、第11、第12大隊
 ・旅団砲兵団(団長:街道長作陸軍大佐)
   ・噴進砲中隊・中迫撃第2、第3大隊
   ・独立臼砲第20大隊・旅団砲兵隊
   ・旅団通信隊 
海軍(総兵力 7,347名)
・小笠原兵団直轄部隊
 ・第27航空戦隊(司令官:市丸利之助海軍少将) 
 ・硫黄島警備隊(司令:井上左馬二海軍大佐)
 ・南方諸島海軍航空隊
 ・第204設営隊大隊
 戦力     22,786人       110,000人
     
 損失     
        戦死 17,845-18,375 軍属含む        戦死 6,821
        捕虜 1,023人       戦傷 19,217
     

アメリカ軍の上陸
1945年2月16日(日本時間)、アメリカ軍硫黄島派遣軍は硫黄島近海に集結し攻撃を開始した。
新鋭戦艦3隻、旧式戦艦3隻、巡洋艦5隻よりなる砲撃部隊は、偵察機によって調べられた既知の陣地に砲撃を加え、
撃破すれば海図に記載し、次の箇所を撃滅するというノルマンディー上陸作戦以来の方法で各受け持ち地区を砲撃
アメリカ軍は摺鉢山の重砲陣地に対して戦艦「ネバダ」より艦砲射撃を行い摺鉢山の主要な火砲はほぼ戦力を消失
19日、午前6時40分に艦砲射撃が始まり、8時5分にB-29爆撃機120機による爆撃に交代、8時25分から9時まで
再度艦砲射撃が続いた。9時、第4、第5海兵師団の第1波が上陸を開始した。
水際での日本軍の抵抗はなく、海兵隊は円滑な上陸に意外の感を受けつつ内陸へ前進した。
19日だけで海兵隊は戦死501名、戦傷死47名、負傷1,755名という損害を受けた。
夕方までに海兵隊30,000名が上陸し橋頭堡を築き、それまでの島嶼作戦で日本軍の常道だった夜襲
と万歳突撃(挺進斬込)を待ち構えたが、日本兵は来なかった。

摺鉢山の戦い
2月20日、準備砲爆撃の後、第28海兵連隊が摺鉢山へ、他の3個海兵連隊が元山方面の主防衛線へ向けて前進
海兵隊は火炎放射器と手榴弾でトーチカを処理しながら前進し、日本軍では摺鉢山守備隊長の
厚地兼彦陸軍大佐が戦死した。
21日、予備兵力の第3海兵師団が上陸する。同日、千葉県香取基地から出撃した爆撃機・彗星12機、
攻撃機・天山8機、直掩の零式艦上戦闘機12機の計32機からなる神風特別攻撃隊第二御盾隊による
攻撃が行われた。この特攻は日本本土から初めて出撃したもので、八丈島基地で燃料を補給したのちに
硫黄島近海のアメリカ艦隊に突入した。同隊突入前に、木更津の第七五二海軍航空隊の一式陸攻2機が
欺瞞隊として硫黄島上空に到達、錫箔を撒いてレーダーを攪乱した。御楯隊は艦隊の混乱に乗じ、
護衛空母「ビスマーク・シー」撃沈、正規空母「サラトガ」大破炎上、護衛空母「ルンガ・ポイント」と
貨物船「ケーカック」損害
23日午前10時15分、第5海兵師団は遂に摺鉢山頂上へ到達し星条旗を掲揚した。午後12時15分に改めて
5ft×8ftと先の旗の2倍となる星条旗を掲げることになり、AP通信の写真家・ジョー・ローゼンタールがその瞬間を

                     
    栗林忠道陸軍中将       西竹一陸軍中佐    ホーランド・M・スミス
    海兵隊中将 
   リッチモンド・K・ターナー
     海軍中将 

               
    デタッチメント作戦第1計画         硫黄島       砲撃を行う戦艦

             

元山周辺の戦い  
日本軍は戦車第26連隊を投入するも、2月26日夕刻、元山飛行場は陥落した。    
    摺鉢山に翻った星条旗 
この時点で日本軍の兵力は2分の1に減少、弾薬は3分の1に減少した。
3月初めには飛行場の機能が殆ど完成した。そして3月4日、東京空襲で
損傷したアメリカ軍のB-29爆撃機「ダイナ・マイト」号が、両軍砲火の中緊急着陸
に成功し、補修と燃料の補給を受けた。
元山正面の日本軍陣地は千田少将の率いる混成第2旅団が守備していた。
3月7日、栗林中将(第109師団)は最後の戦訓電報
組織的戦闘の終結
水の乏しい硫黄島で日本軍の飲用水は払底し、将兵は渇きに苦しんだ。
3月14日、小笠原兵団基幹部隊として栗林中将を支えてきた
歩兵第145連隊長・池田大佐が軍旗を奉焼する。
市丸少将以下の海軍残存兵力と合流した。戦車第26連隊を率いていた
西中佐は火炎放射器によって負傷してもなお戦い続け、  
正確な最期は分かっていないが19?21日頃に戦死したとされる。  
26日、17日以来総攻撃の時機を待っていた栗林大将は最後の反攻を敢行。  
栗林大将以下、約400名の将兵がアメリカ軍陣地へ攻撃をかけた。  
市丸少将は遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた『ルーズベルトニ与フル書』をしたため
これをハワイ生まれの日系二世三上弘文兵曹に英訳させ、アメリカ軍が将校の遺体を検査することを
見越して懐中に抱いて出撃した。
一方、栗林大将の最期の模様は正確には分かっていない。一説には、突撃時に敵迫撃砲弾の破片を大腿部に
受け前線から避退、近くの洞窟で中根中佐らと自決したとされている。

アメリカ軍硫黄島占領発表・日本軍玉砕大本営発表            
栗林大将による最後の総攻撃に先立つ3月6日、機能を回復した
硫黄島の飛行場に最初のP-51戦闘機部隊が進出 
3月15日アメリカ軍は硫黄島の完全占領を発表した。
また3月21日、日本の大本営は硫黄島守備隊の玉砕を発表した。
硫黄島の戦いで、日本軍は守備兵力20,933名のうち20,129名
(軍属82名を含む)が戦死した。捕虜となった人数は 
3月末までに200名、終戦までにあわせて1,023名であった。
アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を受けた。

 
  沖縄の戦い   1945年3月26日-6月20日
沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。
連合軍側の作戦名はアイスバーグ作戦、日本国内での最大規模の陸戦であり、
また日米最後の大規模戦闘となった
沖縄戦は1945年3月26日から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月23日に終るはずが
3日早く6月20日に終了した。米軍の作戦目的は本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であり、
日本軍のそれは当時想定されていた本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦」(出血持久作戦)であった。

首里北方で激戦となった。空でも特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が航空総攻撃を繰り返し、
陸軍空挺部隊から抽出されたコマンド空挺部隊・義烈空挺隊も投入され、戦艦「大和」などの海上特攻艦隊
と連合軍艦隊の間で海戦が行われた。上陸後2ヶ月経った1945年5月末に連合軍は首里を占領し、
日本軍は南部に後退したが6月下旬までに組織的戦力を失い、掃討戦は終戦まで続いた。
陸海空において日米の大兵力が投入され、両軍最高指揮官が戦死するなど第二次大戦における最激戦地の
のひとつとなった。使用された銃弾・砲弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と
手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。
また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄県では「鉄の雨」や「鉄の暴風」
沖縄戦での全戦没者は20~24万人とされる。沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、
日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である。
アメリカ軍側の死者・行方不明者は12,520人で、負傷者72,012人であった。

昭和19年)2月、第32軍を編成、軍司令官には渡辺正夫中将が任命された。                
島全体を航空基地として航空機によって抗戦する予定で、
当初の主な任務は飛行場建設であり、4月には、海軍の沖縄方面根拠地隊が
置かれるとともに、九州-沖縄県間の航路防衛を任務とする
第4海上護衛隊が創設され、沖縄県方面への軍需輸送や本土への住民
疎開船団の護衛を担当することとなった。
1944年7月のサイパン島陥落という事態に大本営は司令部人事を
一新し、新司令官に牛島満中将を任命した。
最終的な陸軍の沖縄守備軍の数は86,400人で、このほかに海軍陸戦隊が
約10,000人弱、学徒隊などが20,000人で、総計116,400人がいた。
1945年3月、連合軍は、予定よりは遅れながらもルソン島攻略と
硫黄島攻略をほぼ完了した。このときまでには、日本本土上陸作戦である
ダウンフォール作戦の立案もされており、沖縄本島は、九州上陸を支援する
拠点として利用されることに決まっていた。   アメリカ軍の沖縄上陸作戦
こうして、当初計画よりはちょうど1ヶ月遅れで、沖縄攻略を目的とした「アイスバーグ作戦」が発動されることとなった
                    
          牛島満中将       サイモン・B・バックナー中将
           
     日本軍守備隊指揮官と参謀の合影       十・十空襲に遭う那覇市街

参加兵力
   日本軍    連合軍
 陸軍 陸上部隊
第32軍司令部(司令官:牛島満中将) ・第10軍司令部(司令官
   ・参謀長 長勇中将  サイモン・B・バックナー・ジュニア中将)
   ・高級参謀 八原博通大佐  ・第24軍団
   ・参謀(後方担当)香月大輝中佐  ・第7歩兵師団
   ・参謀(航空担当)神直道少佐   ・第711戦車大隊、第776水陸両用戦車大隊、
   ・参謀(情報担当)薬丸兼致少佐     第718・第536水陸両用トラクター大隊、
   ・参謀(通信担当)三宅忠雄少佐 第91化学中隊ほか配属
   ・参謀(作戦担当)長野英夫少佐  ・第77歩兵師団
・第24師団(師団長:雨宮巽中将)   ・第706戦車大隊、第708水陸両用戦車大隊
 ・歩兵第22連隊・第32連隊・第89連隊基幹    第715・第773水陸両用トラクター大隊、
 ・野砲兵第42連隊 - 四年式十五糎榴弾砲×12    第88化学砲大隊の1個中隊ほか配属
  九一式十糎榴弾砲×16 九五式野砲×8  ・第96歩兵師団
・第62師団(師団長:藤岡武雄中将)   ・第763戦車大隊、第780水陸両用戦車大隊
 歩兵第63・第64旅団基幹    第728・第788水陸両用トラクター大隊
 ・賀谷支隊(支隊長:賀谷與吉中佐)    第88化学砲大隊の1個中隊ほか配属
  歩兵第63旅団の1個大隊基幹 ・第27歩兵師団 - 軍直轄
・独立混成第44旅団(旅団長:鈴木繁二少将)   ・第193戦車大隊ほか配属
  第2歩兵隊・砲兵隊(九一式十糎榴弾砲) ・第81歩兵師団 - 戦闘には不参加
  ・独立混成第15連隊基幹 ・沿岸砲兵隊
・第5砲兵司令部(司令官:和田孝助中将)   ・第53沿岸高射砲兵旅団
  野砲兵第42連隊、独混44旅団砲兵隊   ・第144沿岸砲兵群 - 155mm砲装備
  全砲兵部隊を軍砲兵として指揮 ・第3水陸両用軍団 - アメリカ海兵隊所属
 ・野戦重砲兵第1連隊 - 九六式十五糎榴弾砲×12   ・第1海兵師団
 ・野戦重砲第23連隊 - 九六式十五糎榴弾砲×24   ・第6海兵師団
 ・重砲兵第7連隊 - 加式十二糎速射加農×2   ・第2海兵師団 - 第8海兵連隊のみ参戦
    改造三八式野砲×12
 ・重砲兵第8連隊 航空部隊
 ・独立重砲兵第100大隊 ・第301戦闘航空団 - アメリカ陸軍航空軍所属
    八九式十五糎加農×8 ・第7爆撃コマンド - アメリカ陸軍航空軍所属
 ・独立臼砲第1連隊 - 九八式臼砲×24 ・第2海兵航空団 - アメリカ海兵隊所属
    九七式軽迫撃砲×6
   ・迫撃第42大隊
 ・独立迫撃砲第1・第2大隊
九七式曲射歩兵砲×96
 ・独立速射砲第3・第5・第7・第22大隊
 独立速射砲第23・第32中隊
   一式機動四十七粍速射砲×54
 ・第21野戦高射砲隊司令部
 野戦高射砲第79・第80・第81大隊
 独立高射砲第27大隊
    八八式七糎野戦高射砲×72
  ・機関砲第103・第104・第105大隊
   九八式二十粍高射機関砲×54
  ・特設第47・第48・第49機関砲隊
   九六式二十五粍高角機銃
・戦車第27連隊
   九七式中戦車改(新砲塔)×14
九五式軽戦車×12
  ・砲兵中隊 - 機動九〇式野砲×4
先島集団(宮古島に第28師団及び
     独立混成第59・第60旅団
石垣島に独立混成第45旅団)、
    大東島守備隊(第28師団の一部
奄美守備隊(独立混成第64旅団)
 海軍
・沖縄方面根拠地隊(司令官:大田実少将)
  ・先任参謀 前川新一郎大佐
・南西諸島航空隊(司令:棚町整大佐)
・第951航空隊派遣隊(司令:羽田次郎大佐)
・第2艦隊(司令長官:伊藤整一中将)
航空部隊
・第6航空軍 - 在九州・陸軍航空部隊
(司令官:菅原道大中将)
・第8飛行師団 - 在台湾・陸軍航空部隊
(師団長:山本健児中将)
・独立飛行第18中隊分遣隊
・第5航空艦隊 - 在九州・海軍航空部隊
(司令長官:宇垣纏中将)
     ・第3航空艦隊
     ・第10航空艦隊
・第1航空艦隊- 在台湾・海軍航空部隊
(司令長官:大西瀧治郎中将)
 戦力     116,400人   (陸軍:50,000人)       548,000人
               (海軍3,000人)   うち上陸部隊当初183,000人
              後方部隊20,000人     延べ陸軍190,300人
          沖縄現地召集約30,000人     海兵隊88,500人
       合計278,800人
     
 損失    
       県外出身者兵士死者: 65,908人      総死者20,195人
       沖縄県民死者:122,228人    
       内民間人死者:94,000人     
       後方部隊20,000人    
     合計 死者:18万8136人    
     

戦闘推移
アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、空母12隻を中心とした第58任務部隊を日本本土へと
差し向けた。第58任務部隊は1945年3月18日以降、九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対し空襲を開始
日本軍は、海軍の第5航空艦隊を中心に反撃を行った。4日間の戦闘で、日本軍は空母3隻の撃破に
成功したものの第5航空艦隊は戦力の過半を失ってしまった
3月23日、第58任務部隊は沖縄県周辺に対する本格空襲を開始し、初日だけで延べ2000機を出撃させた。
翌日には第59任務部隊の戦艦5隻などが本島南部に対する艦砲射撃を行い、上陸予定地点の掃海作業も
始められた。このほか日本軍の反撃を妨害する目的で、アメリカ軍はB-29爆撃機による
機雷投下を関門海峡などに行っている(飢餓作戦)。 
。艦艇1500隻、輸送船450隻、兵員54万8000人の攻略部隊もサイパン島やレイテ島から続々
と出発し、沖縄洋上に集結した。

慶良間諸島の戦い
沖縄戦が開始される直前まで、日本軍はアメリカ艦隊の動向を把握できずにいた。3月24日、沖縄戦開始初頭の
夜間強行偵察で、鹿児島より飛来した岩本徹三少尉が、単機でアメリカ海軍の防空網を突破して慶良間諸島に
遊弋する米軍艦艇を銃撃し損害を与えた。この時に岩本機から発信された無線電信によって、
日本軍司令部は米軍の本格的上陸を認知し、沖縄戦が開始された。

連合艦隊は、天号作戦のうちの沖縄防衛計画である天一号作戦を発動して第3航空艦隊などを
九州方面へ移動させるとともに、戦艦「大和」を中心とした第一遊撃部隊、回天特攻「多々良隊」(潜水艦4隻)
にも出撃準備を命じた。3月31日、アメリカ軍は慶伊瀬島に上陸し、
そのうち神山島に野戦重砲24門を展開させて那覇への砲撃を開始した。

米軍の上陸
4月1日、アメリカ軍は、守備陣の薄い本島中西部で、陸軍2個師団と海兵2個師団による上陸を開始した。
北飛行場(読谷村)と中飛行場(嘉手納町)の占領が第一目標とされた。
4月5日までには中部の東海岸までを占領した。これにより、第32軍は沖縄本島南北に分断された。
4月6日から、日本軍は特攻機多数を含む航空機による大規模反撃を、連合軍艦隊・船団に対して開始した。
海軍による菊水一号作戦には約390機、陸軍の第一次航空総攻撃には約130機が投入された。さらに海軍は、
戦艦大和以下の第一遊撃部隊も出撃させた。特攻機などの攻撃により連合軍艦艇6隻が撃沈されたが、
他方で日本軍機は200機以上が失われ、大和も撃沈される結果となった(坊ノ岬沖海戦)。

北部の戦い
4月16日に、アメリカ軍第77歩兵師団は、本島の北西海上に浮かぶ伊江島に飛行場を設置するため上陸した。
伊江島には独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊650名を基幹とする日本軍守備隊2000人が配置されて
いたほか、陸軍飛行場も存在したが、連合軍の上陸が迫った3月に飛行場は破壊放棄されていた。
アメリカ軍は、伊江島飛行場の本格使用を5月10日に開始した。

首里戦線
南部の日本軍は賀屋支隊を主体として、島袋方面から嘉数陣地へ遅滞行動をとりつつアメリカ軍を誘導した。
アメリカ軍は首里(現那覇市の一部)の司令部を目指して南進するが、途中の宜野湾市付近には守備軍が
丘陵地形と地下壕を利用した陣地で構え、進軍してくるアメリカ軍を何度も撃退した。
賀屋支隊をはじめ、主陣地を守備した第62師団、第2線陣地を守備した第24師団の歩兵第22連隊などが
激しい抵抗を見せている。戦闘は約50日間続き、この遅滞作戦は一定の成功を収めた。
5月4~5日に、日本軍は反転攻勢に転じた。第32軍は、温存していた砲兵隊に砲撃を開始させ、
第24師団と戦車第27連隊などを繰り出して普天間付近までの戦線回復を図った。
5月12日~18日にかけては、北部戦線より転進したアメリカ軍の第6海兵師団が、安謝川を渡り、首里西方の
安里付近の高地で日本軍の独立混成第44旅団配下の部隊と激しい攻防戦を繰り広げた。

 
  嘉数の戦い    1945年4月8日(7日)~23日(24日)
嘉数高台をめぐって1945年4月8日(7日)からの16日間に行われた戦いである。この戦いは沖縄戦最大級の戦闘
の1つとしても知られるほどの激戦であった。
嘉数高台は、沖縄本島の中心部から南に下った現在の宜野湾市に位置する。戦時中は第七〇高地と命名
戦闘は4月8日(7日)から16日間にわたって展開され、その間の両軍の戦死傷者は合わせて約10万にのぼった。

嘉数においての勢力
    日本軍     アメリカ軍
・:第62師団独立混成旅団(師団長藤岡武雄中将)  ・第24軍団S・B・バックナー 
  ・旅団(連隊):歩兵第63旅団(旅団長中島徳太郎少将)   ・第96師団・第7師団 
   ・歩兵第64旅団(旅団長有川主一少将)等  歩兵383連隊(指揮官メイ大佐)
歩兵大隊は約1233名 第381歩兵連隊ほか
    ・独立歩兵第11大隊(三浦日出四郎大佐)    ・第24軍団外:第27師団
    ・独立歩兵第12大隊(賀谷興吉大佐) 第105歩兵連隊、第106歩兵連隊
    ・独立歩兵第13大隊(原宗辰大佐) 第102工兵大隊ほか
    ・独立歩兵第14大隊(内山幸雄大尉)
   ・歩兵第64旅団:所属部隊(有川主一少将)
    ・独立歩兵第15大隊(飯塚豊三郎大佐) ?
    ・独立歩兵第21大隊(西林鴻介大佐)  ?
    ・独立歩兵第22大隊(磯崎幾中佐)  ?
    ・独立歩兵第23大隊(山本重一少佐)
    ・第62師団輜重隊
 ・32軍直轄部隊
  ・野戦高射砲第81大隊
  ・独立臼砲第1連隊(入部兼廣中佐)
  ・独立速射砲第22大隊(高橋巖大尉)
  ・独立機関銃第4大隊(陶山勝章少佐)
 ・その他
  ・歩兵第22連隊(吉田勝大佐)
  ・歩兵第32連隊(北郷格郎大佐)
  ・独立第2大隊
  ・独立歩兵第272大隊(下田直美大尉)
  ・独立歩兵第273大隊(楠瀕一珍大尉)ほか。
*通常、大隊の指揮官は中佐か少佐である。
第62師団の所属大隊長には少なからず大尉が
当てられており、指揮官不足が顕著だったことが伺える
 戦力
     約6万      18万
 損失
     戦死傷:64,000     戦死傷:24,000(12,000とも)

4月24日16日間にわたる嘉数の戦いは終わったのである。
 
日本軍守備隊の壊滅
5月26日、陸軍参謀本部は沖縄諸島方面での継戦を断念し、以後は航空作戦を縮小することとした。
反面、海軍軍令部はなお戦闘に固執し、練習機まで投入して菊水作戦を継続した
海軍部隊司令官の大田実少将は6月6日に豊見城の海軍司令部壕内で6月13日頃に自決した。
日本の陸軍部隊も急速に戦力を失いつつあった。八重瀬岳方面の
独立混成第44旅団は、6月14日までにほぼ全滅
6月15日頃、第32軍司令部への侵攻を防ぐため第62師団は全力反撃を実施したが、残存戦力の大半を失った。
喜屋武地区の第24師団も、6月17日には師団としての組織的抵抗が不能の状態となった。

日米両軍司令官の戦死と自決
6月18日、アメリカ第10軍司令官(沖縄上陸軍最高指揮官)・サイモン・バックナー中将は、喜屋武半島の
最前線視察中、野戦重砲兵第1連隊第2大隊の九六式十五糎榴弾砲の砲撃を受け戦死した。
これはアメリカ軍史上(2010年現在に至るまで)最高位の階級(中将)で戦死した唯一の軍人であると同時に、
将官クラスの敵軍部隊最高指揮官を戦闘行為にて討ち取った大戦果であったものの、日本軍が総崩れ
状態であった沖縄戦末期においてアメリカ軍有利の状況には変化がなかった。
6月23日午前4時ごろ(6月20日、6月22日との説もある)、日本の沖縄守備軍最高指揮官の第32軍司令官・
牛島満中将と参謀長・長勇中将が、摩文仁の軍司令部で自決した。長勇中将は自決の前に八原大佐に
「八原、後学のため予の最後を見よ」と言った。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅した。24日頃
には基幹部隊であった歩兵第22・第89連隊は、連隊旗を奉焼し全滅。大本営も、6月22日の
菊水十号作戦をもって菊水作戦を終了し、6月25日に沖縄本島における組織的な戦闘の終了を発表した。

その後の戦闘
第24師団配下の歩兵第32連隊(連隊長:北郷格郎大佐)、並びに同連隊指揮下の2個大隊などが降伏まで
徹底抗戦している。北郷大佐をはじめとするこれらの部隊の生き残りの将兵たちが米軍に投降したのは、
日本政府が8月15日に国民へ停戦を発表してから2週間後の8月29日のことである。8月15日の玉音放送後にも、
菊水作戦の指揮をとった宇垣纏海軍中将が部下を引き連れて沖縄方面へ特攻出撃している。

犠牲者数
沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は不明だが、9万4000人が
住民犠牲とされる。戦闘参加者(援護法で日本軍に協力して死んだと認定された人数) 5万5246人
一般住民(県の避難勧告を拒否したものが多数) 3万8754人(推定)

ひめゆりの塔
慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなむ。
「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の
校誌名「白百合」とを組み合わせたもとは「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになった。
と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある
沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。しかしその後激しい戦闘が続き、日本軍の防衛戦が
前田高地附近に撤退した4月24日頃には山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされるようになったため、
南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜んだ。
最も被害を受けたのは第三外科壕の学徒隊である。第三外科壕は19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、
壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した。さらに壕の生存者8名のうち
教師1名(玉代勢秀文)と生徒2名(仲田ヨシ、又吉キヨ)は壕脱出後に死亡した。
従って、第三外科壕にいたひめゆり学徒隊のうち沖縄戦終結まで生き残ったのはわずかに生徒5名のみである。

外疎開船の悲劇
県外疎開は1944年7月から海上交通が途絶する翌年3月上旬まで続き、海軍艦艇を含む
延べ187隻の疎開船により学童疎開5,586人を含む約80,000人が疎開した。
3月上旬までの県外疎開船延べ187隻のうち犠牲になったのは「対馬丸」(約1500人死亡)一隻
のみであるとされているが、一般疎開者が乗船して航行中に撃沈された船舶が32隻と報告されたとしている

         
     上陸中の米軍 第24師団四年式十五糎榴弾砲  神山島のM2 155mmカノン砲   避難民の子ども
             
        沖縄における収容所  艦砲射撃をおこなう戦艦アイダホ

 
 日本本土空襲
太平洋戦争中に連合国軍が日本各都市に対して行った爆撃である。1944年(昭和19年)末から
本格的な戦略爆撃となり、長期間の大規模な無差別爆撃も実施された。
経過
戦略爆撃の実施前
日中戦争(支那事変)中の1938年(昭和13年)2月23日に当時は日本領外地だった台湾の
台北松山基地にソ連空軍志願隊と中華民国空軍が共同で空襲を行い、民間人に若干の被害。
その後、日本軍は同年12月から重慶爆撃を開始。

第二次世界大戦における日本本土の初空襲は1942年(昭和17年)4月18日のドーリットル空襲で、
航空母艦「ホーネット」から陸上機の16機のB-25中型爆撃機を発進、東京、川崎、名古屋、四日市、
神戸などへ空爆。その後、日本軍も6月と9月にアメリカ本土空襲。

1944年(昭和19年)6月にB-29爆撃機による初めての空襲が八幡製鉄所を目標にして中国の成都の
基地から行われた(八幡空襲)。

空襲は1945年(昭和20年)8月15日の終戦当日まで続き、全国(内地)で200以上の都市が被災、
被災人口は970万人に及んだ。被災面積は約1億9,100万坪(約6万4,000ヘクタール)で、
内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した。その他、多くの国宝・重要文化財が焼失した。
米国戦略爆撃調査団は30万人以上の死者、1,500万人が家を失ったとしている。

都道府県別被害数
 (各県の空襲を受けた市村町の多い順)
都道府県 市町村数 死者数 行方不明 負傷者 損失家屋 備 考
北海道 52 1210 20  
鹿児島県 51 4,601 48 2,219  
東京都 29 116,959 6,034 109,567 770,090  
愛知県 26 13,359 231 15,565 168,119  
静岡県 15 6,539 10 9,808 96,774  
群馬県 15 1,237 1,538 15,052  
大阪府 15 15,784 28,347 364,422  
奈良県 12 31 122  
和歌山県 12 1830 5 5255 30276  
千葉県 12 1448 14,181  
熊本県 11 869 11,657  
宮城県 11 1118 82 1,936 11,603  
長崎県 10 75,380 48 2,219 50,079 原爆 
埼玉県 10 392 8 955 3797  
兵庫県 10 12,427 21,619 212,968  
神奈川県 9 9,197 16,202 146,493  
栃木県 9 612 1181 10,835  
山口県 9 3,493 161 3,878 23,106  
福島県 8 661 66 412 2730  
宮崎県 8 646 559  
三重県 8 5,612 3,749 3,749 32,837  
茨城県 7 3,299 60 3190 14952  
大分県 7 710 16 521 2486  
茨城県 7 3,299 60 3,190 14,952  
山形県 6 42 37  
岩手県 5 616 10 664 4850  
愛媛県 5 546 2219 21,552  
青森県 5 1,772 890 17,863  
滋賀県 4 45 7 79  
福岡県 4 5,776 5011 62,048  
長野県 4 52 46 106  
佐賀県 3 138 192  
岐阜県 3 1,191 23 1071 33,963  
岡山県 3 1773 127 1114 23,800  
広島県 3 262,425 14,394 46,672 101,628 原爆
徳島県 3 1,710 450 1210  
石川県 3 27 25  
鳥取県 3 61 9 12  
富山県 2 2300 3,801 22,490  
山梨県 2 1181 885 17,364  
新潟県 2 1467 472 15123  
福井県 2 1809 14 1907 16966  
秋田県 2 94 8  
島根県 1 38 16  
香川県 1 1369 186 1034  
高知県 1 647 43 1055 12237  
 
合計 565792 25869 300,444 2,347,399  

 
主な空襲一覧
東京  106回
昭和19年)11月24日 マリアナ諸島のB29による初空襲。B29・111機が出撃し、         
途中故障で引き返した機を除き88機が爆撃に参加。
中島飛行機武蔵製作所(現在の武蔵野市)が目標。
東京はこれ以後106回の空襲を受けた。
昭和20年)2月16日 - 米空母機動部隊艦載機による本土初空襲
3月10日 - 東京大空襲(下町大空襲)。
死者約8万-10万。負傷4万-11万名。焼失26万8千戸
          空襲後の青森市街
名古屋 63回               
1944年(昭和19年)12月13日以降、名古屋は軍需工業地帯が
集中していたため下記の大空襲を含む63回の空襲を受けて
死者8630名、負傷者11164名、罹災者52万3千名の被害を出した。
1945年3月12日 名古屋大空襲 B29・288機。死者602名。
5月14日 B29・480機。この日の空襲で名古屋城が焼失した。
6月9日 熱田空襲 B29・43機。死者2068名。負傷1944名。
大阪 33回          福山城と福山市街地
大空襲を含む33回の空襲を受けた。            
1945年3月13日 大阪大空襲 B29・279機。死者3115名。
       焼失13万2459戸。
神戸 83日・128回
1945年3月17日 神戸大空襲 B29・309機。死者2598名
京都 20回
1945年5月11日 京都御所へ空襲
        空襲を受ける東京市街
横浜 合計52回   広島の原爆ドーム  長崎への原爆投下 
和20年)5月29日 横浜大空襲 B29・475機、P51・約100機。
その他主要地方都市
1945年
4月15日 川崎空襲 死者約1000人、負傷者15,000人
4月21日 鹿児島空襲 鹿児島市電上町線
5月10日 徳山大空襲 第三海軍燃料廠を狙った空襲
5月31日 台北大空襲 B24・117機日本統治時代の台北市
6月1日 尼崎空襲 死者231人。奈良市内に初空襲  
6月10日 日立空襲 死者1200人                空襲後の鹿児島市街  
6月10日 千葉空襲 B29・約100機
6月17日 鹿児島大空襲 B29・117機
6月18日 浜松空襲 死者1720人
6月19日 福岡大空襲 B29・239機
6月19-20日 静岡大空襲 B29・137機
6月22日 呉空襲 工廠への爆撃
6月29日 佐世保大空襲 B29・141機。焼夷弾約1200トン
6月29日 岡山空襲 B29・137機。死者1737人
7月1-2日 熊本大空襲 呉市空襲 B29・150機
7月3日 姫路大空襲B29・106機           
7月4日 高松空襲 B29・116機
7月4日 徳島大空襲B29・129機  高知大空襲 B29・125機
7月6日 千葉空襲 B29・124機    甲府空襲 B29・131機
7月9日 和歌山大空襲 B29・約100機
7月9日 堺空襲 B29・約100機     岐阜空襲 B29・約130機
月10日 仙台空襲 B29・124機
7月12日 宇都宮大空襲 B29・133機   敦賀空襲 死者109人
7月14-15日 北海道空襲 米機動部隊艦載機約2,000機による空襲
7月16日 平塚大空襲 B29・136機          空襲後の大阪市街
7月17日 沼津大空襲 B29・130機        
7月19日 福井空襲 B29・120機   日立空襲 B29・127機
7月19日 銚子空襲 B29・91機    岡崎空襲 B29・126機
7月24日、28日 津大空襲 死者1,239人
7月24日、28日 呉軍港空襲 米艦載機950機、B29・110機
      航空母艦3 巡洋艦5が大破沈没 死者780人。
7月28日 青森大空襲 B29・61機
7月28日-29日 宇治山田空襲
7月29日 大垣空襲 大垣城、開闡寺などが焼失
8月1日 水戸空襲 B29・99機   八王子空襲 B29・169機            呉軍港空襲
8月1日 長岡空襲 B29・125機           
8月2日 富山大空襲 B29・174機
8月5-6日 今治空襲 B29・約70機
8月6日 広島原爆
8月7日 豊川空襲。豊川海軍工廠が空襲
8月8日 福山大空襲 B29・91機
8月8日 八幡大空襲。B29・127機
8月9日 長崎原爆
8月9日 大湊空襲        焼け野原となった東京市街
8月11日 久留米空襲  加治木空襲 ダグラスA-20爆撃機18機          
      東京大空襲による死者
8月12日 阿久根空襲
8月13日 長野空襲 長野市、上田市
8月14日 岩国大空襲
8月14-15日 熊谷空襲 B29・89機   伊勢崎空襲 B29・93機
8月14-15日 小田原空襲   8月14-15日 土崎空襲 B29・132機
8月22日 豊原空襲 樺太の戦いにおいて

             
           空襲後の静岡市街              空襲後の仙台市街

 
 B-29 スーパーフォートレス
 
      B-29の性能
 全幅:43.1 m
 全高:8.5 m
 自重:32.4 t
 全備重量:62.0 t
 最大速度:576
 航続距離:6,600 km
 (爆弾7,250 kg搭載時)
 最大爆弾搭載量:9 t
 乗員:10名
 武装:12.7 mm AN/M2機銃 12門
 20 mm 機関砲 1門
  
     米軍の空爆予告の伝単
     B-29の機体数約3,900機   
      喪失数は774機   
 
  ソ連対日参戦     1945年(昭和20年)8月9日 -1945年(昭和20年)9月5日
満州国において1945年(昭和20年)8月9日未明に開始された日本の関東軍と
極東ソビエト連邦軍との間で行われた。満州・北朝鮮における 
一連の作戦・戦闘と、日本の第五方面軍とソ連の極東ソビエト連邦軍との間で行われた
南樺太・千島列島における一連の作戦・戦闘である。
この戦闘の勃発により、日本の降伏を決定付ける事となった。

ソ連対日宣戦布告
布告はモスクワ時間1945年8月8日午後5時(日本時間:午後11時)、ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣から
日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされた。
連合国が発表したポツダム宣言を黙殺した日本に対し、世界平和を早急に回復するために
「武力攻撃を行うこと」が宣言されている。

戦闘状況
8月9日以降満州国や日本領樺太にソ連軍が軍事侵攻した当時関東軍は南方へ兵力の過半数を
引き抜かれていたが満州居留邦人15万名、在郷軍人25万名を根こそぎ動員、さらに中国戦線から
4個歩兵師団を戻してなんとか74万人の兵員を調達した。

 作戦の概要  
    戦闘序列 ソ連軍  
極東ソビエト軍総司令官:アレクサンドル・ヴァシレフスキーソ連邦元帥 
モンゴル人民革命軍総司令官:ホルローギーン・チョイバルサン元帥 
 ・第1極東戦線:司令官キリル・メレツコフソ連邦元帥    1945年の満州方面における日ソ両軍の配置                  
   ・第1赤旗軍:司令官アファナシー・ベロボロドフ大将
   ・第5軍:司令官ニコライ・クルイロフ大将
   ・第25軍:司令官イワン・チスチャコフ大将
   ・第35軍   ・第10機械化軍団   ・第9航空軍
 ・第2極東戦線:司令官マクシム・プルカエフ上級大将
   ・第2赤旗軍  ・第15軍  ・第10航空軍
   ・第16軍:司令官レオンチー・チェレミソフ少将
   ・第5独立狙撃軍団
   ・カムチャッカ防衛地区:司令官アレクセイ・グネチコ少将
 ・ザバイカル戦線:司令官ロディオン・マリノフスキーソ連邦元帥
   ・第17軍  ・第36軍:司令官アレクサンドル・ルチンスキー
   ・第39軍  ・第53軍
   ・第6親衛戦車軍:司令官アンドレイ・クラフチェンコ大将
   ・第12航空軍
   ・騎兵・機械化群:司令官イッサ・プリーエフ。
       ソビエト・モンゴル合同部隊
 ・太平洋艦隊:司令官イワン・ユマシェフ大将。巡洋艦×2隻、
   響導艦×1隻、駆逐艦・掃海艇×12隻、潜水艦×78隻。
   兵員11万人。航空機1,549機
 ・アムール小艦隊:司令官ニコライ・アントノフ少将
 
兵員1,577,725人、火砲26,137門(迫撃砲含む)、  
戦車・自走砲5,556両、航空機3,446機を装備  
(海軍の装備を考慮しない数)。  
 

日本軍  
  関東軍           
     豊原市の大通りの風景
関東軍は満州防衛の為、ソ連との国境に14の永久要塞を建設していた。
関東軍総司令官 山田乙三 大将(14期)
 ・第一方面軍:司令官 喜多誠一 大将(19期)
   ・第3軍:池谷半二郎少将
   ・第5軍:清水規矩 中将
   ・直轄部隊
 ・第三方面軍:司令官 後宮淳 大将(17期)
   ・第30軍:飯田祥二郎 予備役中将
   ・第44軍:本郷義夫 中将              恵須取町の市街地   
   ・直轄部隊
   ・第4軍:上村幹男 中将
   ・第34軍:櫛淵?一 中将
 ・関東軍航空部隊
   ・戦闘飛行部隊
   ・教育飛行部隊(独立第101教育飛行団)
   ・陸軍士官学校満州派遣隊
兵員約70万(詳細な個別師団・部隊の兵員数は不明)、火砲約1,000門
(歩兵砲・山砲などすべてを含む)、戦車約200両、航空機約350機      ソ連軍侵攻以前の真岡町の市街
(うち戦闘機は65機。練習機なども含む)
第五方面軍 樋口季一郎 中将
  ・南樺太
     ・第88師団:司令官 峯木十一郎 中将
  ・千島列島
     ・第91師団:司令官 堤不夾貴 中将
これ以外に、内蒙古では駐蒙軍がソ連・モンゴル連合軍から張家口の防衛を続け、 
在留邦人の後送が完了した8月21日には占領されて内蒙古から放逐された。 

居留民への措置
開拓団は、およそ132万人と考えられていた。
当時満州国の首都新京だけでも約14万人の日本人市民が居留していたが、
8月11日未明から正午までに18本の列車が新京を後にし3万8000人が脱出した。
8月9日午前1時(ハバロフスク時間)にソ連軍は対日攻勢作戦を発動した。
敵が攻撃を開始したとの報告を受けた。さらに牡丹江市街が敵の空爆を受けていると
報告を受け、さらに午前1時30分ごろに新京郊外の寛城子が空爆を受けた。

ソ連軍ではザバイカル正面軍、関東軍では第3方面軍がこの地域を担当していた。
日本軍の9個師団・3個独混旅団・2個独立戦車旅団基幹に対し、ソ連軍は
狙撃28個・騎兵5個・戦車2個・自動車化2個の各師団、戦車・機械化旅団等18個という大兵力であった。
第6親衛戦車軍はわずか3日で450キロも進撃した。
8月15日までに第6親衛戦車軍は大興安嶺を突破し、第3方面軍の残存部隊を
掃討しつつ満州の中央渓谷に突入した。
ソ連進攻当時国境線に布陣していたのは第107師団で、ソ連第39軍の猛攻を一手に引き受けることとなった。
ソ連・モンゴル軍は外蒙古から内蒙古へと侵攻し、多倫・張家口へと進撃、関東軍と
支那派遣軍の連絡線を遮断した。
ザバイカル正面軍は西方から関東軍総司令部の置かれた新京へと猛進撃し、8月15日には間近にまで迫り
北東部・東部で奮戦する関東軍の連絡線を断ちつつあった。

東方面においては日本軍は第1方面軍が、ソ連軍は第1極東正面軍が担当していた。
日本軍の10個師団と独立混成旅団・国境守備隊・機動旅団各1個に対し、
ソ連軍は35個師団と17個戦車・機械化旅団基幹であった。
牡丹江以北約600キロに第5軍(清水規矩中将)、南部に第3軍(村上啓作中将)を配置、
満州国と朝鮮半島の交通路の防衛、方面軍左翼の後退行動の支援があった。
満州国の北部国境地域、孫呉方面及びハイラル方面でも日本軍(第4軍)は抵抗を試みるもソ連軍の
物量を背景にした攻撃で後退を余儀なくされていた。
日本軍は第119師団と独立混成第80旅団によって抵抗を試み、極力ハイラルの陣地で抵抗しながらも、
戦況が悪化すれば後退することが指示されていた。第119師団は停戦するまでソ連軍の突破を阻止し、
戦闘ではソ連軍の正面からの攻撃だけでなく、南北の近接地域から別働隊が
侵攻してきたために後退行動を行った。

北朝鮮の状況
北朝鮮においては第34軍(主力部隊は第59師団、第137師団「根こそぎ動員」師団、独立混成第133旅団)が
6月18日に関東軍の隷下に入り、7月に咸興に終結した。
8月13日にソ連軍の偵察隊が清津に上陸し、その日の正午に攻撃前進を開始した。
14日払暁まで清津に圧迫し、ソ連軍の侵攻を阻止する中15日には新たにソ連第13海兵旅団が上陸、
北方から狙撃師団が接近したので決戦を断念し、防御に転じた時に8月18日に停戦命令を受領した。
 
  樺太の戦い   1945年8月11日-8月25日
日本の内地であった樺太南部で、日本とソビエト連邦の間で行われた戦闘である。
1945年8月9日に対日参戦したソ連は、8月11日に南樺太の占領作戦を開始した。
その目的は南樺太の獲得と、次に予定された北海道侵攻の拠点確保だった。

戦闘経過  
日ソ開戦前、日本軍の配置は北地区(敷香支庁・恵須取支庁)と
南地区(豊原支庁・真岡支庁)に分かれていた。
 
北地区は歩兵第125連隊が、南地区は第88師団主力が分担し、                     
対ソ戦・対米戦のいずれでも各個に持久戦を行う作戦であった。
第88師団は、8月9日に防衛召集をかけて地区特設警備隊を動員した。
8月10日には上敷香に戦闘司令所を出して参謀数名を送り、
13日には国民義勇戦闘隊の召集を行った
師団は、8月15日に玉音放送などでポツダム宣言受諾を知り、
防衛召集解除・一部兵員の現地除隊・軍旗処分など停戦準備に移った。
8月16日に塔路上陸作戦が始まると、同日午後、第5方面軍司令部は
ソ連軍が樺太経由で北海道に侵攻する可能性があると判断、
第88師団に対して自衛戦闘を継続してソ連軍の転進を阻止し、
特に北海道への侵攻拠点に使われるおそれがある南樺太南部を
死守するよう命令した。
8月16日以降も、ソ連軍は引き続き侵攻作戦を続けた。
8月21日に峯木第88師団長が第5方面軍の萩三郎参謀長に電話で
ソ連軍が進撃停止に応じない状況を説明し、
全面衝突回避のため武装解除とソ連軍の進駐容認の承諾を得た
翌8月22日には上記の大本営からの武器引き渡し許可が伝えられ、
知取でソ連軍との停戦合意に達した。  

 結果
日本軍の損害は、戦死者700人ないし戦死・行方不明2,000人とされる。
ソ連軍の記録によれば、日本兵18,302人が捕虜となった。
戦闘中の民間人の被害は軍人を上回っており、3,700人に及ぶと見られている
厚生労働省の資料で「樺太・千島等」の戦没者総数24,400人となっているのはアッツ島の戦いなど
アリューシャン方面の戦いを含めた数値で、樺太・千島及び周辺海域での大戦全期間の
戦没者数は18,900人とされている。

参加兵力
日本軍
   陸軍
第88師団(峯木十一郎中将) - 編制定員は20,388人
  ・配属部隊:特設警備第351-第353大隊、特設警備第301-第306・第308中隊、
        第301-第303特設警備工兵隊
・宗谷要塞重砲兵連隊第2中隊 - 西能登呂。15cmカノン砲4門。
  ・配属部隊:特設警備第307中隊
・豊原地区司令部(柳勇少将) - 対ソ開戦後は第88師団指揮下に編入。
  ・豊原地区第1-第9特設警備隊 - 計3,628人を防衛招集。
   海軍
  ・北東航空隊樺太地区隊(久堀通義大尉) - 敷香基地、大泊基地。地上要員のみ。
  ・大湊防備隊の一部 - 主に基地防空部隊。うち敷香に12.7cm連装高角砲3基、20mm連装機銃5基
  ・宗谷防備隊の一部 - 砕氷艦「大泊」、特設砲艦「千歳丸」、宗谷防備衛所、西能登呂防備衛所
  ・豊原海軍武官府 - 武官:黒木剛一少将
・樺太庁警察部(国境警察隊) - 重機関銃8丁、軽機関銃10丁、小銃141丁
・航空部隊
  ・陸軍第1飛行師団 - 在北海道。稼働航空機44機。
・民兵・自警組織
  ・国民義勇戦闘隊 - 樺太鉄道連合義勇戦闘隊ほか、職場や地域ごとに編成。
・その他 - 樺太庁管轄の防空監視隊(20歳前後の女性を主力)、旧制中学校生徒による学徒隊ほか。
ソ連軍
   陸軍
第16軍(レオンチー・チェレミソフ少将
  ・第56狙撃軍団 - 北樺太より出撃
    ・第79狙撃師団  ・第2狙撃旅団   ・第5狙撃旅団 - オハ方面の守備配置
    ・独立サハリン機関銃連隊、第82独立機関銃狙撃中隊
    ・第214戦車旅団  ・第178・第678独立戦車大隊
    ・第433砲兵連隊、第487榴弾砲連隊
・第113狙撃旅団 - ソヴィエツカヤ・ガヴァニより出撃
   海軍
・北太平洋艦隊(ウラジーミル・アンドレエフ中将
    ・警備艦「ザルニーツァ」(en)、機雷敷設艦「オケアン」、潜水艦「L-12」「L-19」
     など12隻、掃海艇8隻、哨戒艇・魚雷艇多数、輸送船3隻以上
    ・海軍歩兵 - 第365独立海兵大隊など3個大隊以上、艦隊空挺部隊
  航空部隊
・第255混成飛行師団 - 106機
・海軍航空隊 - 80機

 
  占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)  1945年8月17日-8月21日 
占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)とは、太平洋戦争末期の1945年8月18日~21日に、千島列島東端の
占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘である
21日に日本軍の降伏により停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。
捕虜となった日本兵はその後大勢が法的根拠無く拉致されシベリアへ抑留された

千島列島のほぼ最北端にあり、北東は千島海峡を挟んで  
カムチャツカ半島ロパトカ岬に面する。南にはパラムシル海峡        



                      
幌筵島がある。面積は230平方キロメートルで、海抜200メートルくらいの
緩やかな丘陵が続き、沼地と草原である。
日本側は、第5方面軍(司令官:樋口季一郎中将)隷下の諸部隊が、
対アメリカ戦を予想して占守島・幌筵島の要塞化を進めていた。
昭和20年になると本土決戦や北海道本島防衛のため兵力が引き抜かれたが、
終戦時点でも第91師団(2個旅団基幹)を擁していた。
14日、カムチャッカ半島ロパトカ岬のソ連軍砲台が、竹田浜付近の砂浜に
数発の砲撃を行った。17日午前5時に、ソ連軍上陸船団は泊地から出航し、
同日午前6時半頃には、海軍飛行連隊の3機が占守島の偵察と爆撃を行った。
8月18日午前2時半頃(日本時間[10])、ソ連軍先遣隊の海軍歩兵大隊が
占守島竹田浜から上陸した。ソ連軍は武器の過重積載のため接岸できず、
泳いでの上陸であった。竹田浜を防衛する独立歩兵第282大隊は直ちに
ちにこれを攻撃し、ソ連軍も艦砲射撃を行ったほか
ロパトカ岬からの支援砲撃を開始した。
3時30分頃、ソ連軍上陸部隊の主力第一梯団(第138狙撃連隊基幹)が上陸を開始した。

 参加兵力
    日本軍    ソ連軍
 陸軍(約23,000人)
 ・第91師団:師団長・堤不夾貴中将 第二極東方面軍司令部
  師団司令部と歩兵第74旅団(5個大隊)は幌筵島 司令官:マクシム・プルカエフ上級大将
 ・歩兵第73旅団:旅団長・杉野巌少将、千歳台 太平洋艦隊司令部
  ・独立歩兵第282大隊:大隊長・村上則重少佐 司令官:イワン・ユマシェフ大将
  ・独立歩兵第283大隊:千歳台  陸軍(8363人)
 ・戦車第11連隊(中戦車39両、軽戦車25両)   ・カムチャツカ防衛区(司令官:グネチコ少将)
  連隊長・池田末男大佐    ・第101狙撃師団(師団長:P.I.ジヤコフ少将)
  第1中隊:山田野、第2中隊:田沢台    ・第198狙撃連隊
  第3中隊:天神山、第4中隊:大和橋    ・第5独立狙撃大隊
  第5中隊:緑ヶ岡、第6中隊:基谷    ・第7独立狙撃大隊ほか
  第11対空無線隊
 ・船舶工兵第57連隊残留隊 特大発動艇20隻  海軍
 ・ペトロパブロフスク海軍基地
 海軍(伊藤春樹中佐。約1,500人) 司令官:D.G.ポノマリョフ海軍大佐
 ・占守通信隊(司令:伊藤春樹中佐)    ・警備艦2隻、機雷敷設艦1隻、掃海艇4隻
 ・第51警備隊、第52警備隊     輸送艦14隻、上陸用舟艇16隻、海軍歩兵1個大隊
航空部隊
 ・陸軍飛行第54戦隊残留隊 -式戦闘機4機。 航空部隊(計78機)
 ・海軍北東航空隊北千島派遣隊   ・陸軍第128混成飛行師団
   九七式艦上攻撃機4機。   ・海軍飛行連隊1個
日本軍は直接戦闘に加わったのは在占守島の
8,500人のみで残りの兵力は幌筵島にあった。
茶文字の軍隊参戦
 
   
 戦力      
        23,000人 内 8500人参戦       8,363人
 損害死傷    256人   死傷者:561人
 負傷      762人   負傷もしくは行方不明 :1051人  

ソ連軍の上陸
8月18日午前2時半頃(日本時間)、ソ連軍先遣隊の海軍歩兵大隊が占守島竹田浜から上陸した。
ソ連軍は武器の過重積載のため接岸できず、泳いでの上陸であった。
竹田浜を防衛する独立歩兵第282大隊は直ちにこれを攻撃し、ソ連軍も艦砲射撃を行ったほか、
ロパトカ岬からの支援砲撃を開始した。
日本軍は第91師団部隊を掩護すべく陸海軍の飛行部隊も出撃させたが、対空砲火で
九七式艦上攻撃機1機を失い、
ソ連軍が占守島に上陸したとの報を受け、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は、第91師団に
「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出した。師団長の堤中将は、射撃可能な砲兵に
上陸地点への射撃を命ずるとともに、池田末男大佐(死後、少将へ進級)率いる戦車第11連隊に対し
師団工兵隊の一部とともに国端方面に進出して敵を撃滅するように命じた。
同時に他の第73旅団隷下部隊に対してもできる限りの兵力を集結して全力でこの敵に
当たるように命じ、幌筵島の第74旅団にも船舶工兵の舟艇による占守島への移動を命じた。
これを受けて戦車第11連隊は直ちに出撃し、第73旅団でも沼尻に配備されていた
独立歩兵第283大隊(大隊長:竹下三代二少佐)をソ連軍の東翼へ差し向け、その他の隷下部隊を
国端崎へ前進しようとした。ソ連軍は対戦車火器(対戦車砲4門のほか対戦車銃約100挺)を結集して激しく抵抗
戦車第11連隊は27両の戦車を失い、池田連隊長以下、将校多数を含む96名の戦死者を出した
18日午後4時第5方面軍司令官から、戦闘停止・自衛戦闘移行の命令があったため、第91師団はそれに従い、
積極戦闘を停止することとした。しかし、実際には戦闘は続いた。
停戦交渉
20日、地上でも戦闘は再開した。ソ連側は、幌筵海峡での日本側の背信があったため、攻撃に移ったとしている。
20日夕、堤師団長は軍使を通じてソ連軍に降伏することを確約したが、その後も、武装解除を遅らせようとした。
21日7時、ソ連軍司令官グネチコ少将は代理を通じて、堤師団長に対して、
日本軍の降伏・武装解除の最後通牒を渡した。
21日21時、日本軍から回答が得られ、ソ連艦上で、堤師団長は日本軍の降伏文書に調印した。
23日にはソ連軍の監視の下で武装解除された

  シベリア抑留 
終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソビエト連邦(ソ連)によって主にシベリアなどへ労働力として
移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する
日本側の呼称である。ソ連によって戦後に抑留された日本人は約57万5千人に上る。
厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万5千人が死亡した
アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、
事実上、約34万人の日本人が死亡したという。
北海道代償説
8月16日にスターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、
日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領(留萌町(当時)から
釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。
トルーマンはこれを一蹴した返書を8月18日に送った。このため「北海道の代償として捕虜を
シベリアに送った」という説がある
1945年(昭和20年)11月になって日本政府は関東軍の軍人がシベリアに連行され
強制労働をさせられているという情報を得る。
帰国
1947年(昭和22年)から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰
帰国事業が行われた。シベリア抑留中にソ連の軍事法廷で日本人144人が銃殺刑の判決を受けたことが
判明しており、うち33人への執行が確認されている(79人のその後は不明)
 
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