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 日本刀とは わが国最初の刀剣として、弥生時代(紀元前4世紀~紀元3世紀)に存在していたと言われます。
石剣から銅剣、鉄剣へ移行して奈良時代の聖徳太子佩用の七星剣や丙子椒林剣は有名な直刀で
刀工個々人でなく偉人が所有である。刀工で最古銘は平安時代初期810年 伯耆国(鳥取県)で
活躍した大原安綱だと言われ、中期には山城国(京都府)に三条宗近の名工が湾刀に進化し、
純国産の『日本刀』が誕生する。
   時代による流派と刀工名
 平安期
 
現存する名刀   
  名物童子切安綱 大原安綱 伯耆  天下五剣
  三日月宗近 三条宗近 山城
  大典太光世 三池光世 筑後
  数珠丸恒次 青江 恒次 備中
  鬼丸国綱 粟田口国綱 山城
 鎌倉 初期
鎌倉初期時代から各国で刀工が現れているがまだ実用性で無く祭祀などの用途に使われているが、
承久の乱で公卿から武家が台頭して鍛刀は進化して各国の名工が出てくる。
山城:三条吉家、五条兼永.国永、 粟田口派:国友、久国、国安、国清 伯耆系:真守、有綱、安家
備前:友成、正恒、信房、真恒、高平、包平、助平、則宗、成宗、助茂
備中:守次、貞次、助次、恒次、次家、正恒 豊後/豊前系:長円、定秀、行平 薩摩系:行安、行正
  御番鍛冶とは
後鳥羽上皇の命により院に上番して交代で御用を勤めた刀工を言う。山城粟田口派、備前古一文字派、備中古青江派に
限られている。1月=則宗 2月=貞次 3月=延房 4月=国安 5月=恒次 6月=国友 7月=宗吉
      8月=次家 9月=助宗 10月=行国 11月=助成 12月=助延

 鎌倉 中期
~後期
各地に個性的な作風が確立して華やか刃紋が現れるが、新藤五国光が相州伝を打ち立て、行光を経て
正宗によって完成の域に達した。ここに刀剣の重要な
”折れず、曲がらず、良く切れる” が確立さてた。
備前長船系:長光、景光、三郎国宗、一文字助真 山城系:来国俊、了戒、来国光 肥後系:延寿国村、国資 
綾小路派:定利、定吉、 その他備前:福岡一文字、吉岡一文字、片山一文字、岩戸一文字
美濃関系:金重  北陸系:為継、宇多国光、国宗、国房、藤島友重
  
大和五派千手院、手掻、当麻、保昌、尻懸を言う。
  
正宗十哲来国次(貞宗(養子)、長谷部国重、関金重、長義、筑州左、呉服郷則重、郷義弘、石州直綱
       備前兼光、長義、志津三郎兼氏

  
貞宗三哲:備前元重、山城信国、但州国光
  
短刀日本三作:粟田口国吉、新藤五国光、筑州大石左

 南北朝時代
鎌倉幕府打倒で新田義貞、楠木正成、足利尊氏が挙兵して戦乱の中、太刀が優美な姿から次第に豪壮に
なり、長大で幅広く重ね薄い、中には四尺から五尺以上の大太刀もある。室町末大磨り上げて刀として使用。
この時代では相州伝が全盛期で備前国では相伝備前として見られ、山城伝、大和伝は衰えて代わって
美濃伝が現れる。 相州伝:広光、秋広 山城系:信国、国重、国平、来倫国、国真
備前系:兼光、倫光、政光、基光、義光、義景  相伝備前系:長義、長重、兼長、秀光
備中系:次直、次吉、貞次、吉次、直次、守次  三原系:正家、正広、正信
美濃直江志津系:兼友、兼次、兼信、兼俊   美濃関系:金重
北陸系:為継、宇多国光、国宗、国房、藤島友重

 室町時代
応仁の乱が長く戦乱続き、明や朝鮮への刀剣輸出、織田信長天下統一戦国時代等により作刀が一番多い
時代であり、特に輸出刀剣は数物で備前・美濃・豊後・北陸の量産が多く美術価値の無
応永備前系:盛光、康光、師光、家助、経家 末備前系:則光、祐光、利光、忠光、勝光、宗光、清光、祐定
末美濃系:兼定、兼吉、兼光、兼常、兼貞、兼房  山城系:信国、吉則、長吉
相模系:正広、綱広、康国、総宗、助宗、義助、広助 伊勢系:村正、正重
北国系:友重、景光、行光、清光 豊後系:鎮政、鎮教、鎮忠、統正、統行、長盛、鎮守

 
桃山~江戸初期
天下安定後豊臣秀吉が亡くなり、最後の戦いが関が原で行われていよいよ徳川時代の幕開けとなる。
その頃に洋鉄が入り、家康のお抱え刀工の越前康継が南蛮鉄を用いて作刀する。新刀の始まりであり、
古刀と違いがある、南蛮鉄を使用して刀工として肥前土佐守忠吉や越前守助広、近江守助直等いる
新刀の祖:埋忠明寿で門人は東山美平、肥後守輝広,肥前忠吉
山城:信濃守国広の門人は国安、正弘、国路、国とも、
国貞、国助、国清 伊賀守金道、丹波守吉道、越中守正俊、来金道
江戸では繁慶 、仙台=国包、 尾張=政常、氏房、信高  
紀伊=重国、 加賀=兼若 、肥前=忠吉一門
肥後=同田貫一門、 薩摩=波平一門
寛文新刀は反り浅く刃紋は斬新で華やか物が現れる。
長曽根虎徹の数珠刃、津田越後守助広の濤瀾乱、二代河内守国助の拳形丁子、丹波守吉道の簾刃、
菊水刃、富士見西行慶長新刀の相州伝偏重に対し、古作五か伝全般を狙う
摂津、山城では助広と井上真改は洗練された綺麗な肌であるに対し、江戸は虎徹で素朴の中にも力強い
 京大阪の新刀五鍛冶
初代伊賀守金道、初代丹波守吉道、初代越中守正俊、初代近江守久道、初代越前守信吉を江戸初期に認定されている。

 江戸中期

元禄頃は刀剣の需要は減り、刀工の数も激減する。豪商の後援で脇差が多くなっている。
主水正清、一平安代、近江守久道、三代伊賀守金道、信国重包、安国、一竿子忠綱、
井上奇峰、伊勢守国輝、陸奥守包保、多々良長幸、伊賀守金道二代、大和守吉道、
総介兼重、大和守安定、三善長道、など有名刀工

 江戸中期以後
江戸末期には幕藩体制に動揺の兆しが見られ尊皇攘夷運動が激しくなるが 江戸時代天明より
明治9年の廃刀令までの作刀を新々刀と呼ばれる。
新々刀で一番の刀工は川部儀八郎正秀(水心子正秀)、南海太郎朝尊、大慶直胤、、源清麿(山浦正行)
清人、左行秀、細川正義、太郎直勝、加藤綱英、固山備前介宗次、運寿是一、栗原信秀、山浦真雄、
尾崎助隆、月山貞吉、手柄山正敏、御勝山永貞、横山祐永、祐包、八代忠吉、奥大和守元平、正幸など

 明治時代~現代
明治維新で王政復古となり、近代国家の道を歩み始めて日本刀は無用の長物となり、帯刀の廃止になり
鍛刀界も衰退して行くが、明治天皇は非常な愛刀家で明治23年に帝室技芸員が設けられ作刀が許され、
月山貞一、宮本包則だけでその他に堀井胤吉、和泉守兼定、逸見義隆、桜井正次、月山貞勝、円真
笠間敏継、らが知られているが、昭和6年第1次世界大戦シベリア出兵で再び実用刀の需要が高まり、
太平洋戦争で軍刀ブーム到来する。その中で伝統的な鍛法を守った刀工が、前述以外に高橋貞次、
栗原明秀門人の秋元昭友、石井明房、宮入昭平、今野昭宗、吉原国家、池田靖光、梶山靖徳、宮口寿広、
酒井敏正、塚本起正などが名工と言えるが、昭和刀とは古来の鍛錬しない素述べ刀が多く造られ
美術価値のない物で敗戦後美術刀も含め消し去られる危機に見舞われました。
作刀も禁止、保持しても禁止と進駐軍に定められてしまうが有志の皆さんが努力して美術的価値のある
刀剣は美術品26年から銃砲刀剣類登録証付く事で保持許可されるようになる。
昭和23年に日本美術刀剣保存協会が設立し、25年に国宝保存法及び重要美術品認定法改正し、
文化財保護法が制定される。26年から銃砲刀剣類登録証付く事で保持許可されるようになる。
この登録証は現在も1振りごとに付き保持しないと銃砲刀剣保持違反として犯罪になる。
28年からは武器製造法制定施行され、文化財保護委員の承認を得れば自由に刀剣を製作できます。
30年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定
刀匠として高橋貞次、宮入昭平、月山貞一、隅谷正峯、大隈俊平
研磨師:本阿彌日洲、小野光敬、藤代松雄、永山光幹、*本阿弥光洲

      
この地球には数多くの金属が存在しますが、25%を占めるのが鉄と言われている。日本では鉄器が
用いられたのは縄文末期か弥生時代で朝鮮、中国からの輸入品で日本での製鉄は6世紀頃と推測できる。
朝鮮半島から現山陰地方へ来日した人の名が多々良公と言うそうである。
 たたら製鉄
”たたら製鉄”とは粘土で築いた炉で 砂鉄(さてつ)を原料とし、木炭を燃料に用い、鞴(ふいご)を
送風動力して、きわめて純度の高い鉄類を生産する、日本古来の製鉄技術をいう。そしてここに、
日本刀製作に欠かすことのできない”玉鋼”(玉鋼)が生産されました。鳥取県の安来市には良質の
″真砂砂鉄” (まささてつ)が豊富に産出し、河川と木炭の森林が恵まれていたからです。
時代の経過とともにたたら製鉄は改良が加えられて現在に至っております。日本刀が今日に至って
美術工芸品にまで高められた理由として たたらによって生産された和鉄、最も品質の高い玉鋼を主材料と
していることで、銃砲刀剣類所持取締法 によれば”日本刀とは武用または鑑賞用として、伝統的な製作法
によって鍛錬し焼き入れを施したものをいう”とあり、洋鉄と和鉄があるが和鉄を使用しなければならないこと
洋鉄は明治時代から製鉄技術が始まりすべての鉄製品になってくるが、日本刀も昭和刀として洋鉄で
鍛えのない素延べ刀がかなりの本数が生産されましたが、たたら製鉄の玉鋼は戦時中でも
靖国神社鍛錬所以外に5ケ所の鍛錬所に送られいますので古来鍛錬刀もあります。

 日本刀を鍛える
日本刀の鍛錬技法は、時代、流派、刀匠によってそれぞれ微妙に異なります。日本刀の素材として和鉄である
最も優れた部分の ”玉鋼”(たまはがね)や卸し鉄(おろしかね)といって玉鋼以外のものや古釘などを集めて
刀匠がもう一度玉鋼同様なものに加工して素材とす方法があります。
玉鋼は大変優秀な鋼で炭素の含有量も日本刀製作にてきしているのでそんまま鍛え込むことができるが、
卸し鉄は炭素量がバラツキがある。鍛錬とは鋼の中に含まれる鉱涬をはじき出し、また炭素量を平均化する。
つまり鍛錬することによりある程度まで炭素含有量の均一化されます。
次ページの図ように折り返し、折り返しを平均15回すると約1万の重ね層が出来る。これが後で説明する
地鉄の模様として現れてるが流派および刀匠によって折り返し鍛錬方法が違うのでいろいろな地肌が現れる。
  刀剣にまつわることわざ1
    
”相槌(あいづち)を打つ”:これは鍛錬するときに刀匠が小槌で合図しながら 2人、3人の弟子が大槌を打つ
                ことから生まれたことわざである

 心鉄を鍛える
日本刀は常に折れず、曲がらず、よく切れる武器と
しての一番重要であるがその為には多大な研究心と
努力があったらこそで、その1つに炭素量が少なく
軟らかい心鉄(しんがね)を、炭素量が多い皮鉄で
包むという技法の開発があり日本刀製作の大きな
特徴とされている。心鉄になる ”包丁鉄”はたたら
生産した銑などを処理されたもので5,6回折り返し
鍛錬を加える。処理するには時間と労費がかかる。
 
   
 造り込み
日本刀は心鉄を皮鉄で包んで作るところに特徴が
あることは前述べましたがその包むことを ”造り込み”
といい、その方法はいろいろあります。
甲伏(こうぶ):皮鉄をU字型に折り曲げ、その中へ
心鉄を入れて包む方法でこの方法が最も一般的で、
流派、刀匠によっても違いある 右図の4種 参考

 素延べ
造り込みが終わていよいよ刀の形に延ばす
一番最初の段階です。この時は慎重に延ばして行く
技法で刀身の良し悪しが決定される。
つまり心鉄と皮鉄が密着しないと空気が入り膨れで
庇(傷)や心鉄が表面に出る

   

           

 センガケと鍛冶研ぎ
素延べで刀の形にしているが表面は金槌で
打つて凸凹になっている為にに右図のように
センガケをして表面を平面にして削る。
鍛冶研ぎは全体を荒研ぎして鎬線や地鉄の
均一を研磨する。焼き前に全体を研磨することで
完成後の研磨師が作業性が良くなる。
 
    
 焼き入れ
焼き入れは刀身に焼刃土を塗る作業があるが、
焼刃土の材料は普通は耐久性のある粘土の木炭や
砥石の粉等をまぜて作る。 右図刀身を図ように
設置して焼刃土の塗り方はそれぞれ人によって、
焼こうとする刃紋によって異なりますが、焼きの入る
部分は薄く塗り、他は厚めに塗る全体にムラの無いように
塗りますが、ムラがあって土が露出している所は
シミとしてのこる。焼き入れは焼刃土が十分
乾燥し、塗りムラがないかを確かめ焼き入れの
準備する。焼き入れは普通、夕刻日が沈んで暗く
なってから行うが、部屋を真っ暗に遮断するのは木炭の
炎の色および刀身の色合い等をよく見て、水槽の中に
一気に入れるが焼き温度800C°のタイミングにより焼き
具合の良し悪しが決定される。焼き入れが終わると
次に再び刀身をごく軽く熱して水につけることを
必要に応じて数回くり返す。焼き入れの温度は、
相州伝は火を強く、備前伝は弱くと一般的には言われる。
   
 鍛冶研ぎ
鍛冶研ぎとは無事焼き入れが終わって、さらに刀身に生じた曲がり、反り格好が修正された後に、刀匠が自ら行う研磨のことで
別名 ”鍛冶押し”と呼ばれる作業

 茎仕立て
打ち上がったばかりの刀身は茎をも含めて焼けただれているので、これを鑢を用いてきれいに整形する。
この作業を ”茎仕立て”(なかごしたて)と呼ぶ
この作業は古刀時代から行っていますが 鑢のかける角度や方法によって流派や刀匠によって違います。
鑑定上で重要な判断となります。
           
           大阪新刀   薩摩    関系                     古刀・新々刀
 銘切り
刀匠は研磨の後、自分で納得いく出来であるかどうかを判断して、銘を入れることとなります
作者の銘は:太刀であれば原則として茎の佩表(はきおもて)に太刀以外であれば指表(さしおもて)
     に刻み、これを“表銘” という、 製作年月日は裏側に刻む ”裏銘”
銘切りタガネと小金槌を用いて切る。

 鍛冶研磨時に欠点が発見される場合もあります。
刃切れとは :焼刃が縦に裏表共ヒビ割れ  焼刃時に発生する
刀身の庇 :心鉄と皮鉄との接着が空気が入り鍛え傷および膨れとなる
焼刃切れ :匂、沸 切れとして焼刃土の問題

       
日本刀の研磨技術は日本刀の完成と相あって 高度な進展をとげてきました。刀剣自体は平安時代より
現存しているが研磨としてそれぞれの時代の遺産がまったく無く不明である現在の研磨の基礎は
明治時代の名人本阿弥十郎成重が伝統技術に美的感覚を加え今風の研ぎを確立したと
言われております。拭いと刃取りは明治時代からの手法と言われます。現在の研磨工程を順次見ていこう  

砥石の種類
金剛砥石250番~350番程度の人工砥石、自然砥石では大村・伊予砥がある。この砥石は錆や刃コボレや
      変形直し等を修正する
備水砥:400番:下地研ぎで最初に使用する砥石で錆や変形、刃付け等の基本的な物である
改正砥:600番:下地研ぎの最後の砥石で、主に研ぎ目を細かくしていゆ作業で効きが強く平肉を落とすので
      
注意筋違いの研ぎする
中名倉砥:800~1200番砥ぎ目を細くし、針気のない軟らかい物を使用し、最初は大筋違いで次にやや斜目に
     刀身をおく角度を定め
細名倉砥:1500~2000細名倉砥も前と同じように研ぎ砥ぎ目を無くす。下地研ぎの総仕上げともいうべき、
      時間掛けて仕上げる事
内曇刃砥:4000~6000内曇砥石は人工砥は使用出来ず、刀剣用専門でないと刀身の地肌、焼き刃の
     働きは出ません。地砥と刃砥の2種類があり、軟らかい物が刃引き用と使用される。刃紋や鍛え肌が
     鮮明に出てきて重要な砥石である、最近この砥石がなくなっております。内曇砥に代わりスイタ砥石
刃艶砥:内曇砥を小さく薄く裂き、平らにすり、1cmぐらいとして、裏に吉野紙を漆で裏打ちして作る。砥汁を付けて
     親指に乗せて研ぐ
地艶砥:成滝砥を小さく薄く裂き、平たくして刃艶砥と同じように裏張り物と指で砕いてそのまま親指に乗せて研ぐ
拭い :研ぎされた刀身に独特の光沢をつけるに拭いをするがこの拭いとは一種の磨き粉のようなものでその
    作り方は流派によって秘伝とされ、いろいろな方法がある。最も多く用いられる方法として金肌(酸化鉄)を
    長時間焼き、乳鉢で微粉末にして丁子油を混ぜて吉野紙で透かし汁を青梅綿で刀身をこする。金肌に
    青粉や金粉混ぜることもある。青黒くすることで地肌が鮮明に現れてくる。
刃取り: 刃取りとは、焼きの入った刃紋の部分を白く、美しく研磨して仕上げる事で、砥石は刃艶砥と同じの物で
    軟らかい物で小判型や菱型にして刃縁に添って白くする。地は黒く、刃は白く
    刃取りしないで刃紋その状態を引き立てる方法として差し込み研ぎがあります。この場合は磁鉄鉱を
    粉末にして金肌と同じように処理する。備前刀のような丁子刃紋は見栄えがいいでしょう。
磨き: 鎬地と棟を、磨き棒やへラを用いて磨く、磨き棒は合金の硬い金属を使用する。鏡の様にする
帽子の仕上げ:横手を切るという 直角に切るのが常識である。
ナルメ:帽子の横手を揃えてナルメ台に薄い内曇り砥の小さい物をのせて軽い力でゆっくり研磨すると
    帽子が白くなる
   
   
      
      

         
  

  
平造り:  主に短刀が多く脇差でも40cm以下である
片切り刃: 片面は平造りで片面は刃紋縁から鎬線のようになっているはあんまり見かけない
鎬造り:  一般的な造りで平安時代初期から現在まで続く
小鳥造り: 直刀に多く奈良時代から平安初期に多く、公家、皇族帯刀、儀礼刀に見られる

      
   

帽子の焼きの無いものは美術価値がありません。実戦で先折れたものが多く見る。焼き種類は流派及び刀匠に
よって異なるが、この帽子の焼きによっての鑑定に重要

素延べ昭和刀の軍刀は油焼きで帽子の焼きで判明可能です。

      

   

        
              
折り返し鍛錬で上図のような肌が現れます。各流派及び刀匠によって鍛え方が違います。その他に小糠肌があり
無地風に見える。昭和刀の美術価値の無い素延べは無地風な肌となります。

      

        

         

       

     

       
    

    

     
   
直刃(すぐは) 一般的の真っ直ぐな刃紋で全流派同様に焼く
直刃小乱れ 古刀備前、粟田口、山城、相州、石堂、水心子
互の目(ぐのめ) 兼光、景光、
数珠 互の目 村正、
湾 (のたれ) 村正、長吉、氏房、康継、初代忠吉、信国、兼重
皆焼(みなやき) 相州広光、秋広、長谷部、末関、越前、祐定
濤瀾刃(とうらんば) 新刀助広系、一竿子忠綱、尾崎助高、綱俊、正敏
簾刃 (すだれば) 三品系、丹波守吉道、
丁子 (ちょうじ) 備前系、青江、宗近、古備前、粟田口系、直胤、・・
重花丁子(じゅうか) 一文字系、畠山系、石堂、光平
蛙子丁子(カワズコ) 古刀一文字、光忠、石堂系
三本杉(尖互の目 関の孫六系

    
    

   

   

   

   

    

    

    

   

     

    

    


      

    

    

    
   


    

       刀装具     
    

   

   
    白鞘は休み鞘とも言われて保存時に使用
 刀剣の外装
外装の目的は鋭利な刃物を自分には安全で、いつでも敵を殺傷することができる最良の状態を保つことであり、
保管中の錆を防止し、移動中の危険をするため刀身を鞘で覆い、持ち歩きに便利にする。戦闘の場合に、
柄が壊れないように柄に金具をはめ、握りやすく滑らぬように柄を鮫の皮で包んで糸を巻く拳を守るために
鍔を付ける。太刀拵えは平安時代~室町末戦国時代まで戦闘時に使用し、刃を下にして腰に下げる。
太刀の指添えとして腰紐に指す物は鎌倉時代~幕末まである。太刀拵えには儀式用もあり、江戸時代にも
製作されています。打刀拵えは室町時代に天正拵えが生まれ江戸時代に続いて使用され刃を上に向くように
腰紐に指す。平和な江戸時代になると打刀拵え、その他の拵えに装飾意識して鍔、目貫、縁頭、小柄等が
金工の高価品が多くなる。白鞘は刀を油を付けて休めるための鞘であり、武士は外出には拵えに入れ替える。
武士の女性方は合口拵えを胸の帯に指す。

     刀装具の種類
 
    
   材質は赤銅・鉄地・真鍮・素銅・四分一地
  
ことわざ2 : 鍔迫り合い    
縁頭    
    材質は赤銅・鉄地・真鍮・素銅・四分一地
 目貫/
 小柄/
 鍔
 

 

 ハバキ ハバキの目的は刀身の区に取付けて鞘と刀身が抜けないようにする目的で鞘の入り口を
鯉口と言い、抜け落ちても危険で抜けないと敵に切る付けられる。一般的には素銅の
一重作りで右図は金色上げ材質:素銅・銀・金無垢

    

     


 切羽 柄と鍔及び鍔とハバキの間に入れる物で刀身のガタツキをなくする。通常2枚
用いる。材質は素銅・銀・金無垢


      
ことわざ3: 切羽つまる     
ことわざ4: シノギを削る
ことわざ5: 目貫通り

        
    

    

    

    

   

   


        
       


        
        

          
 
 
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