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日本帝国海軍大佐総覧
 有泉 龍之介 茨城県  海軍兵学校(51期) 海軍水雷学校高等科、 海軍潜水学校(乙種学生)
昭和12年海軍大学校(甲種35期) 昭和15年)11月、海軍中佐に進級
太平洋戦争を迎えた。有泉は真珠湾攻撃に特殊潜航艇を使用することを主張し実現させた。
(昭和17年)3月、第8潜水戦隊参謀に発令され、第11潜水戦隊参謀、「伊号第八潜水艦」を歴任
昭和19年)10月、海軍大佐進級 同年12月、第六三一海軍航空隊司令兼副長兼第1潜水隊司令
昭和20年)7月23日、「伊号第四〇一潜水艦」に座乗し、ウルシー環礁を攻撃すべく大湊を出撃
攻撃開始の直前に終戦となり、降伏の命令を現地で受ける。艦内では自沈か攻撃かで激論と
なったが、結局は艦長の判断で帰還と決し、帰還途上の8月29日米軍により海上で接収され、
有泉は司令室で自決した
 青木泰二郎
   たいじろう
海軍兵学校(41期) 昭和12年)12月、大佐へ昇進
同期生に草鹿龍之介、木村昌福、田中頼三らがいる。
水上機母艦・「瑞穂」艦長、横須賀海軍航空隊予科練部長を経て、
土浦海軍航空隊司令として太平洋戦争を迎える
昭和17年)4月25日に「赤城」艦長に就任
しかし就任2ヶ月に満たない同年6月5日、ミッドウェー海戦において「赤城」は被弾・炎上。
青木は沈没まで指揮をとり、乗組員の退艦を図った。帰国後7月14日付けで
予備役に編入されたが、召集を受け海南警備府附となる。その後は海口海軍航空隊、
佐世保海軍航空隊、元山海軍航空隊の各司令を勤めて終戦を迎えた。
 稲葉 通宗
   みちむね
  
愛知県 海軍兵学校51期 大正13年)12月、少尉に任官
昭和15年)10月には「伊121」潜水艦長
空母「サラトガ」 を雷撃し、4ヵ月以上戦線離脱する損害を与えた「伊6」潜水艦長である。
木梨鷹一とともに山岡荘八の小説『海底戦記』 のモデルとなった 伊36潜水艦長
昭和19年)2月「伊121」潜水艦で潜水艦乗員の訓練にあたったのである。
翌年2月、佐世保潜水隊基地司令に転じ同職在職中に終戦を迎えた
19年9月、大佐へ進級。
 庵原 貢
 いはら みつぐ
兵庫県  海軍兵学校(52期) 海軍大学校(35期)
昭和16年):第三艦隊参謀 昭和17年):第二艦隊参謀
昭和18年):海軍省人事局
昭和33年)8月:第3代海上幕僚長に就任 昭和20年):首相秘書官
 犬塚 惟重
  これしげ
海軍大佐   本籍佐賀県 1911年7月、海軍兵学校(39期
1934年11月、海軍大佐に進級した。
太平洋戦争開戦に伴い召集され、支那方面艦隊司令部付
1946年3月から翌年7月まで、マニラにおいて戦犯容疑で拘留された。
 内野 信二

 
海軍大佐 鹿児島県出身 海軍兵学校49期を卒業
昭和8年)11月、少佐へ進級 潜水学校甲種
昭和17年)7月のことで、ガダルカナルの戦いに参戦し、同島への輸送作戦に従事。
「伊号第八潜水艦」長として第二次遣独潜水艦作戦を命じられる。
第十一潜水戦隊参謀に転じ、潜水学校教官、呉潜水戦隊参謀を経て
蛟竜12隻からなる小豆島突撃隊の司令を務め終戦を迎えた。
 江草 隆繁
 
たかしげ
 
   
海軍大佐  広島県芦品郡 海軍兵学校58期
艦上爆撃機の神様」として知られる 1933年11月館山海軍航空隊に配属
1936年11月、大尉となり佐伯航空隊分隊長として南京爆撃に参加
1941年12月8日、真珠湾攻撃
1942年1月、江草は再び「蒼龍」に乗り太平洋を南下セイロン沖海戦
ミッドウェー海戦、マリアナ諸島でのあ号作戦等にも参加
江草指揮官機を先頭に「銀河」8機はヤップ島を発進、サイパン島西沖の米空母群を襲う
高性能レーダーと近接信管を装備していた米艦隊の対空砲火は熾烈を極め、
江草の乗る指揮官機を含め8機の銀河は撃墜された。江草はこの戦闘で戦死
(享年34)し、死後1945年1月、二階級特進にて大佐に進級した。
 遠藤 忍

   
宮城県  海軍兵学校52期生
「伊159」(海大三型)、第六潜水戦隊所属「伊121」(機雷敷設潜水艦)潜水艦長
昭和17年2月末に竣工した「伊30」潜水艦の初代艦長に就任
同艦は日本海軍潜水艦部隊の主力艦種である巡潜乙型で、その十一番艦であった
昭和19年2月9日、出撃した「伊43」はトラックへ向かい、次いでサイパンで陸戦隊員を
乗艦させて出港した。15日、「伊43」は米海軍潜水艦「アスプロ」の雷撃で撃沈され、

遠藤ら166名が戦死した。海兵52期生は8名が潜水艦長として戦死したが、
遠藤はその最後の戦死者であった
 岡田 貞外茂
   さだとも
 
   
海軍大佐 海軍兵学校(55期)を次席
内閣総理大臣、海軍大将・岡田啓介の長男 海軍大学校甲種37期
第四艦隊水雷参謀に就任 昭和18年)11月中佐へ進級。
翌年12月視察に訪れていたマニラで戦死した。搭乗機の墜落事故であったともいう。
 大井 篤 山形県  海軍兵学校第51期 昭和3年)4月1日- 海軍大学校専攻科
昭和5年)3月31日- 東京外国語学校英語科
昭和7年)1月30日- 在アメリカ日本大使館附海軍武官府出張
昭和11年海軍大学校甲種第34期 昭和15年)11月30日- 海軍省軍務局調査課
昭和16年)11月16日- 海軍省人事局第1課 昭和18年)3月1日- 第21特別根拠地隊参謀
昭和19年)5月1日- 任 海軍大佐
 扇 一登
   かずと

  
広島県  海兵第51期、海大32期 1939年1月、第五艦隊参謀
海軍中佐昇進後の1941年、大臣官房調査課課員
1943年10月、伊29潜水艦による渡独を命じられ、12月16日、艦長の
木梨鷹一中佐以下122名とともにシンガポールを出発。幾多の苦難を乗り越え、
翌年3月10日、南仏のロリアンに到着。
駐独大使館付海軍武官補佐官となる
1944年9月22日、小野寺信スウェーデン公使館付武官と会談。国王グスタフ5世に日英間の
講和の仲介を要請するという和平工作を画策した。不法入国としてスウェーデンで軟禁され、
そのまま国内で敗戦を迎える。戦後も1年間の軟禁措置を受けたのち帰国
 岡村 基春
 
高知県  海軍兵学校第50期
戦闘機パイロット、航空隊司令。終戦時神雷部隊司令。岡村徳長は兄。
1942年10月5日第3航空隊司令 1944年2月15日神ノ池航空隊司令
   5月2日第341航空隊司令。  10月1日第721航空隊(神雷部隊)司令
身長は160センチ程度で52~53キロと小柄だが土佐っ子らしく豪放磊落で
細かいところに気を配る情熱家であった岡村基春は特攻兵器桜花を
専門とする神雷部隊の編成、指導を行う。
 沖野 亦男
   またお
海軍兵学校47期卒業
海軍大学校選科学生として中国語を学び、第一遣外艦隊参謀兼副官として、司令官・米内光政を補佐している
昭和17年)11月、大佐へ進級
昭和19年)1月、漢口から上海へ向かう途次、悪天候のため搭乗機が機位を失し不時着した。
不時着地点は国民政府軍の支配地で同軍の攻撃を受け、同乗の陸軍将校は戦死し、

沖野らは捕虜となった。この際沖野は右足の被弾により敗血症を起こし、切断手術によって
片足を失っている。沖野は連合国が得た日本軍捕虜のうち最も階級が高い人物の一人で、
重慶で英軍の尋問を受けたのち、米国に送られた。米国での沖野の尋問内容は公開されていない
 源田 実

 
海軍大佐  広島県山県郡 大正10年)、海軍兵学校に海兵52期
昭和12年)7月源田は海軍大学校を恩賜の成績
南雲忠一司令長官、草鹿龍之介参謀長とする第一航空艦隊が編成され
源田は航空参謀に任命される 各作戦参謀
昭和18年第343海軍航空隊を編成し自ら司令となる
第352航空隊司令、 8月15日の終戦を大村基地で迎えた。
平成元年)8月15日、松山市内の病院で脳血栓のため死去。享年84歳
 小園 安名
  こぞの やすな
鹿児島県  海軍兵学校第51期
戦闘機搭乗員として勇名を馳せ、空母龍驤の飛行隊長・第十二航空隊(以下、十二空)の飛行隊長を歴任した。
昭和13年4月29日に漢口で中華民国軍と行われた空戦においては、十二空戦闘機隊
(九六式艦上戦闘機30機)を率いて90機近い敵戦闘機と交戦。ほぼ無傷(被撃墜2機)で
敵戦闘機の半分以上を撃墜するという大戦果を挙げている。
昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦を迎える。開戦後、戦線の南下に伴って隊と共に
フィリピン、インドネシアを経てラバウルへ進出し、東部ニューギニア及びソロモン諸島に
展開する米豪軍と激戦を繰り広げることになる。
(昭和19年)3月第三〇二航空隊司令に任命
8月15日の玉音放送により「302空は降伏せず以後指揮下より離脱する。」
1945年10月小園は日本最後の軍法会議にかけられ無期禁錮刑と官籍剥奪が言い渡され
横浜刑務所に収監された。1952年(昭和27年)に減刑によりようやく釈放される。
 佐薙 毅
 さなぎさだむ
海軍大佐 東京都 大正11年)6月:海軍兵学校卒業(第50期)
昭和8年)11月:海軍少佐 昭和9年)7月:海軍大学校卒業(甲種第32期)
昭和17年)6月:軍令部第1部第1課作戦班長 昭和18年)5月:海軍大佐
11月:南東方面艦隊参謀兼第十一航空艦隊参謀兼第8方面軍参謀
昭和20年):南東方面艦隊首席参謀8月:終戦時は大佐
昭和31年)7月:第2代航空幕僚長に就任
 斎藤 正久 海軍大佐。  宮城県出身 大正8年)10月、海軍兵学校(47期)卒業。
昭和11年)12月、海軍中佐に昇進。
昭和16年)10月、海軍大佐に進級し台南海軍航空隊司令に転じ、太平洋戦争を迎える。
台南空は多くのエースパイロットを擁して南方攻略戦の成功に貢献し、ラバウル航空戦を戦った
昭和19年)1月、航空本部教育部第1課長に転じ、第二二一海軍航空隊司令、
第二五二海軍航空隊司令を経て(昭和20年)6月、横須賀空付となり終戦を迎えた。
 島村 信政
 
   
 
殉職後は海軍大佐  長野県東筑摩郡 海軍兵学校卒(51期
太平洋戦争開戦、連合艦隊旗艦「長門」の司令部にて真珠湾攻撃作戦指揮に気象長として従事した
のちに古賀峯一連合艦隊司令長官のもと、トラック泊地でも旗艦「武蔵」の
連合艦隊司令部幕僚(気象長)として所属。
1944年3月31日夜、司令部が「武蔵」を離れてパラオからダバオへ向けて二式大艇で移動中、
福留繁参謀長ら同乗の二番機がフィリピンのセブ島沖合で着水した際に大破、
島村は機内にいて殉職したとされる(海軍乙事件)。
 柴 勝男  千葉県  海軍兵学校(50期) 海軍水雷学校高等科 海軍大学校(甲種32期)
「沼風」艦長、ドイツ駐在、ドイツ大使館付武官補佐官、「響」艦長、海大教官、
軍令部第1部員などを経て、1938年11月、海軍中佐に進級。
軍務局第2課局員として太平洋戦争を迎えた。
1943年5月、海軍大佐に昇進。1944年2月、「大井」艦長として前線に出征したが、
乗艦は同年7月に米潜水艦の雷撃を受け沈没し生還した。
軍令部第1部員兼参謀本部員として終戦を迎え、1945年9月2日にアメリカ海軍の
戦艦「ミズーリ」艦上で行われた降伏文書調印式に随員として参加。
 柴田 武雄 福島県 海軍兵学校52期
昭和2年)7月29日、空母「赤城」乗組、飛行士。同年12月1日、海軍中尉
昭和9年)7月、第4期高等科飛行学生、2番の成績で卒業
空母「加賀」戦闘機隊長に着任
1941年10月、海軍中佐。太平洋戦争開戦時は第3航空隊副長兼飛行長としてフィリピン攻略戦に参加。
昭和18年)3月、大分航空隊飛行長
昭和18年)9月、ラバウルに展開する第204航空隊司令に着任しソロモン航空戦を戦った。
柴田の統一指揮した201空、204空は僚隊253空と共に後に1943年12月17日から
1945年1月24日までに653機撃墜報告、未帰還33機とし感状を贈られる(1944年11月3日)。
第204空解隊と同時に、夜間戦闘機「月光」配備の251空司令。
1944年(昭和19年)7月10日、解隊により呉鎮守府付になり内地帰還。
同年8月1日、第332海軍航空隊司令兼副長
昭和20年)2月5日、第三一二海軍航空隊司令第312空はロケット戦闘機「秋水」配備の
特攻部隊として予定され秋水の実験部隊でもあった。
 清水 洋

   
栃木県 海軍兵学校52期 源田實、淵田美津雄、内藤雄、小田切政徳らが同期生
海軍大学校甲種36期
日中戦争における清水の配置は支那方面艦隊、第五艦隊の各司令部附である
昭和14年)12月には第二艦隊航空参謀に転じ、古賀峯一司令長官を補佐した。
清水は19年4月15日に第一航空艦隊先任参謀
7月24日にはテニアン島に連合国軍の上陸を迎え、第一航空艦隊は地上戦を戦い壊滅した
連合艦隊は、第一航空艦隊首脳や残存搭乗員の潜水艦による救出を図ったが
失敗している艦隊司令部関係者は全滅しているため、艦隊首脳の
最期の様子は不明であるが、参謀は自決
 高橋 赫一

   
海軍大佐。徳島県出身。 海軍兵学校56期
真珠湾攻撃では淵田美津雄中佐の信号弾を誤認して、雷撃隊より先に攻撃してしまう。
昭和17年)5月8日珊瑚海海戦で米海軍空母レキシントンに攻撃後、戦果確認と友軍機との
集合待ちのため上空を旋回中に、米軍戦闘機に撃墜される。戦死後二階級特進し大佐。
 立花 止
 
   いたる
熊本県 海軍兵学校52期 源田實、淵田美津雄、内藤雄、小田切政徳らが同期生
海大甲種36期 昭和14年)6月から米国ロサンゼルス駐在
昭和18年)10月に南東方面艦隊参謀に就任し草鹿任一を補佐
昭和19年)2月のトラック島空襲によりトラック基地が壊滅的被害を受け、ラバウルの航空兵力は
同基地へ転用された。航空兵力を失った南東方面艦隊はラバウルでの篭城態勢をとることになる。
同年4月には海軍乙事件が発生。古賀峯一をはじめ航海参謀・大槻俊一ら連合艦隊司令部が
ほぼ全滅し、
立花は大槻の後任として連合艦隊へ転出した。
同年10月には海上護衛総司令部参謀を兼務
昭和20年)5月に海軍総隊戦務参謀となる。レイテ沖海戦、天号作戦、海上護衛作戦などに
関わるが敗戦を迎え、同年11月予備役編入となった。
米国駐在時代に情報活動に従事しFBIに逮捕され国外追放処分を受ける(立花事件)。
最後の連合艦隊参謀の一人である。
 玉井 浅一 愛媛県   海軍兵学校(52期) 第19期飛行学生卒
昭和12年)12月、海軍少佐に進級
昭和17年)4月、第六航空隊飛行長に就任し、同年11月、海軍中佐に昇進。
昭和18年)9月、第二〇四海軍航空隊司令となり、同年10月、第二六三海軍航空隊司令に着任。
昭和19年)7月、第二〇一海軍航空隊副長(10月から司令代行)となり、関行男はじめ
神風特攻隊を見送る立場となる。
昭和20年)3月、第二〇五海軍航空隊司令に異動。昭和20年9月、海軍大佐に進級し終戦
 田村 久三
   きゅうぞう
栃木県  海軍兵学校(46期) 海軍水雷学校高等科卒
海軍大学校選科学生(1930年4月まで東大理学部で機雷兵器を専攻)
昭和10年)11月 - 海軍中佐 昭和15年)5月 - 横須賀工廠機雷実験部員
      11月 - 海軍大佐
昭和18年)6月 - 艦政本部第6部第1課長
昭和20年)3月 - 艦政本部第2部第2課長兼航空本部第4部第2課長
 千早 猛彦

  
戦死後二階級特進した海軍大佐である。 昭和9年)11月海軍兵学校を卒業(第62期
鹿児島 千早正隆海軍中佐は兄 昭和12年飛行学生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊
1941年4月「赤城」艦上爆撃機隊の分隊長となり真珠湾攻撃に参加することとなる。
インド洋方面の英国艦隊掃討、ミッドウェイ海戦に参加
千早は艦上偵察機「彩雲」に搭乗。テニアンからメジュロ環礁への長距離偵察を行う。
テニアンに帰還していた千早は空襲の合間をぬって出動。
再び還ることはなかった。「機動部隊に単機で向かうんじゃと笑いながら出撃したという
その功績は高く評価され二階級特進し海軍大佐に任ぜられた。
日本海軍始まって以来の若い大佐であった
 豊田 隈雄 大分県 海軍兵学校第51期 海軍大学校甲種第34期首席
昭和15年)11月15日- 在ドイツ日本大使館附海軍駐在武官補佐官
昭和20年)12月6日- 帰国 予備役編入
 渡名喜 守定
 となき しゅてい
沖縄  海軍兵学校50期
太平洋戦争中は海軍軍令部参謀、南西方面艦隊参謀、大本営参謀兼
海軍大学校教官、福山海軍航空隊司令にて階級大佐で終戦。戦後、沖縄に帰郷
オランダで駐在武官として任務にあたっていた際、ヒトラーのオランダ侵略を事前に
オランダ当局に警告し、当局の対応措置によって被害が軽減されたことから、
オランダ政府よりオレンジナッソウ勲三等が与えられた。
 樋端 久利雄
 といばな くりお

   
香川県 海軍兵学校(51期) 海軍大学校(甲種33期)
兵学校、飛行学生、海大甲種を全て首席
支那方面艦隊兼第3艦隊参謀、兼中支那派遣軍参謀、
連合艦隊参謀などを経て、1939年11月、海軍中佐に進級。第15海軍航空隊飛行長、
海軍省軍務局第1課局員などを歴任し、1942年11月、連合艦隊参謀(航空)となる。
1943年4月18日、山本五十六司令長官に随行し、前線視察のため訪れていた
ブーゲンビル島上空で、乗機一式陸上攻撃機をアメリカ陸軍航空隊P-38戦闘機に
撃墜され戦死し(海軍甲事件)、海軍大佐に特進した。
 長澤 浩 福島県 海軍兵学校卒業(第49期)。 海軍大学校(第30期)
昭和16年):第5戦隊参謀 昭和18年):海軍省人事局
昭和20年):海軍省軍務局第一課長兼軍令部第三課長
昭和29年)8月:第2代海上幕僚長に就任
 西田 正雄 兵庫県  海軍兵学校(44期)を3番昭和3年)12月、海軍大学校(甲種26期)を次席
イギリス大使館付武官補佐官としてロンドンに2年間駐在した
帰国後は、海軍省軍務局第1課付、駆逐艦「島風」駆逐艦長、海大教官などを歴任
昭和16年)9月、有馬馨大佐の後任として、戦艦「比叡」艦長となった
比叡を指揮してハワイ作戦に参加。ラバウル攻略戦や、ポートモレスビー攻略作戦などに参加。
第三次ソロモン海戦とよばれる会戦となる。米重巡艦隊との交戦。
西田艦長は艦と運命を共にすべく残ろうとしたが、「あまりにも優秀な未来の戦艦大和艦長、
さらには連合艦隊司令長官たりえる人物を死なせるのは忍びない」との比叡掌航海長
:坂本松三郎大尉が説得を試みた。総員退艦時の訓示を名目に艦橋から西田を
降ろそうとしたが頑なに拒否したため、坂本とその部下3人に羽交い絞めにされて甲板に
担ぎ下ろされた。後部砲塔の上から後甲板に並ぶ乗員に訓辞を述べたあと、再度坂本らと
1時間半にも渡る押し問答となった。 駆逐艦「雪風」から見ていた
第11戦隊司令官阿部弘毅中将も、「比叡の実情報告のため、雪風に移乗せよ」という
内容の命令を出し、西田艦長を退艦させるよう仕向けた。命令は退避する乗員を
運んでいたカッターで比叡艦上に残る西田に届けられた。西田は阿部中将の直筆と

確認するも、その命令を無視して比叡に残ろうとした。
海軍大臣:嶋田繁太郎海軍大将により現役を解き予備役とする懲罰処分を受ける。
これを知った山本五十六長官は「比叡1隻を失うことより、西田を失うことのほうが、
海軍にとって痛手である」連合艦隊参謀長の宇垣纏を嶋田のもとに派遣して猛烈に
抗議したが、もともと山本らと不仲だった嶋田の裁定は覆らなかった。 予備役編入後の
西田はアモイ在勤武官に就任。以後、第256航空隊司令、第951航空隊司令、
福岡地方人事部長など閑職を転々として終戦を迎え
 野中 五郎

   
戦死時は海軍少佐(二階級特進で海軍大佐)
兄に二・二六事件の中心的人物の一人で
自決した野中四郎大尉がいる。  岡山県出身
太平洋戦争開戦直後には分隊長としてフィリピンを空襲ギルバート諸島沖航空戦やマーシャル諸島
昭和19年)10月1日、人間ロケット爆弾「桜花」による特攻の第721航空隊
が編成され、野中は「桜花」を搭載して出撃地点まで運ぶ陸攻隊の指揮官に任じられた。
昭和20年)3月21日、野中らの反対にも拘らず第721航空隊の陸攻(母機)18機に「桜花」
15機を搭載した第一神風特別攻撃隊神雷部隊に出撃命令が下され、指揮官として出撃。
アメリカ第58機動部隊の遥か手前で迎撃戦闘機に襲撃され全機撃墜され、全滅した。
父の野中勝明は陸軍少将 兄の次郎(中佐)、
 原 為一

  
香川県大正10年)7月、海軍兵学校(49期)昭和8年)11月、海軍少佐に進級
駆逐艦:綾波艦長 1938年12月1日 - 太平洋戦争を「天津風」艦長として迎えた。
第19駆逐隊司令、第27駆逐隊司令を経て、1943年(昭和18年)5月、海軍大佐となった。
昭和19年)12月、「矢矧」艦長に就任。1945年(昭和20年)4月6日、天一号作戦に参加し
「大和」以下駆逐艦8隻と共に沖縄へ出撃するも、4月7日、米軍の航空攻撃により
大火災をおこし
乗艦は戦没したが同艦座乗の第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将と
共に無事生還し、
その後は川棚突撃隊司令を経て、第31突撃隊司令として終戦を迎える
 檜貝 嚢治
 ひがい じょうじ
海軍大佐   千葉県佐倉町海軍兵学校(第57期
23期飛行学生を経て、大湊海軍航空隊、鹿屋空に勤務。支那事変(日中戦争)開始以来、
中支(華中)戦線での彼の爆撃行は数十回におよび、輝かしい戦果をあげた。
昭和16年)11月、霞空飛行隊長、(昭和17年)12月、701空飛行長としてラバウルに赴任。
昭和18年)1月19日、九六式陸上攻撃機に搭乗してレンネル島沖海戦に参加、撃墜され戦死した。
二階級特進して大佐に任ぜられた。
美男子として知られていた。当時の著名女優高峰三枝子の片思いの相手としても知られた。
 淵田美津雄
海軍大佐 奈良県北葛城郡 1924年)7月、海軍兵学校卒業(52期)。
開戦前、第三航空戦隊参謀から2度目の空母・赤城飛行隊長へと就任した。
昭和16年ミッドウェー海戦で沈没するまで、淵田中佐(10月昇進)、板谷茂少佐、村田重治少佐と
3人の飛行隊長がいる異例の配置となった。
1941年)12月8日、真珠湾攻撃における第1次攻撃隊(及び隷下の水平爆撃隊)を指揮し、「ト・ト・ト」
(全軍突撃せよ)及び「トラトラトラ」(奇襲ニ成功セリ)が淵田中佐機から打電されたことで知られる。
昭和17年南方作戦やインド洋作戦に参加。
18年7月、決戦部隊である角田覚治第一航空艦隊司令長官の下で作戦参謀。
昭和19年2月マリアナ諸島テニアン島に進出直後に敵機動部隊によるマリアナ諸島空襲に遭遇
4月、豊田副武連合艦隊司令長官の下で連合艦隊参謀・南方軍参謀を務めた。
10月、大佐に昇進。
昭和20年8月5日、会議で訪れていた広島を離れ、広島市への原子爆弾投下から間一髪で逃れた。
昭和51年5月30日、糖尿病の合併症により74歳で死去。
 福地 誠夫
  
のぶお
東京 海軍兵学校52期海軍大学校甲種(35期)
昭和14年)12月海軍省副官兼大臣秘書官を実松譲から引継ぐ。
引き続き及川古志郎、嶋田繁太郎のもとで秘書官を務め、太平洋戦争開戦を迎えた。
1942年(昭和17年)6月、支那方面艦隊参謀となり占領地政策の立案に追われた。
 福地 周夫 海軍大佐  佐賀県 海兵学52期生、同期生に源田實、内藤雄、淵田美津雄などがいる。
昭和16年)8月「翔鶴」運用長に就任。真珠湾攻撃、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦
戦艦「陸奥」運用長に転じるが海兵運用科長、
舞鶴鎮守府副官兼参謀を歴任し、1945年(昭和20年)9月大佐に進級
 堀内 豊秋


   
海軍大佐。熊本県熊本市出身 大正11年海軍兵学校卒業
大正14年霞ヶ浦海軍航空隊附 昭和2年)12月1日- 任 海軍大尉
昭和15年任 海軍中佐  昭和16年)9月25日- 横須賀鎮守府附第1特別陸戦隊司令
日本初の落下傘部隊として、翌年の1月11日にはメナドへの奇襲降下作戦を指揮し成功を収める。
昭和19年)5月1日- 任 海軍大佐
昭和22年)1月6日- オランダ政府よりB級戦争犯罪人容疑指名により巣鴨刑務所に収監
(昭和23年 5月12日- 死刑判決  9月25日- メナドにおいて死刑執行 享年47
昭和28年)4月29日- 戦争犯罪人指定解除
残虐行為により戦犯裁判に関しては部下の罪を被って死を選んだと言われた。
堀内は占領下の住民から残留嘆願されるほど慕われた誠実な人物であった。
刑場では目隠しを断って刑に伏した。1995年インドネシア人の人々によって
堀内が埋葬されていた地に慰霊碑が建立された
 黛 治夫
   はるお

  
 
海軍大佐 群馬県北甘楽郡 1919年10月、海軍兵学校(47期
1930年11月、海軍大学校(甲種28期)
930年11月、海軍大学校(甲種28期) 1934年6月、アメリカ駐在となり、
1941年10月、海軍大佐に進級し太平洋戦争を迎えた。
水上機母艦「秋津洲」艦長、第11航空艦隊兼第8艦隊参謀
1943年12月、「利根」艦長となり、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦などを戦い生還した。
1946年3月、利根艦長時のビハール号事件により戦犯容疑で拘束された。
1947年10月29日に香港法廷で懲役7年の判決を受け、1951年9月まで拘留された。
 三代 一就
  みよ かずなり
茨城県 海軍兵学校(51期) 海軍大学校(甲種33期)
1935年10月、「加賀」飛行隊長に就任
以後、第三航空戦隊参謀、霞ヶ浦空教官、第四航空戦隊参謀、第二連合航空隊参謀、
第二艦隊参謀を歴任。 1939年(昭和14年)11月、海軍中佐に昇進し
昭和17年)12月、第11航空艦隊参謀
昭和17年)12月、第11航空艦隊参謀 昭和18年)1月、南東方面艦隊参謀を兼務
昭和19年)5月、海軍大佐に進級
 宮崎 俊男 兵庫県 海兵48期 水雷学高科首席 海軍大学校甲種30期
昭和16年)10月大佐へ進級し、第五艦隊先任参謀として太平洋戦争を迎える。
連合艦隊司令長官・山本五十六は先任参謀後任の推薦を頼まれた小沢が推したのは宮崎であった
しかし直後に山本は戦死したためこの人事案は実現していない
宮崎は第二遣支艦隊先任参謀を経て、海大教官を務めていたが、その後第十七駆逐隊司令、
水雷学校教官、「天城」艦長を歴任。「天城」が予備艦となったことに伴い、「橘花」[注 1]搭載予定の
「葛城」艦長を志願し、同艦長として終戦を迎えた
  村田 重治

   
    
海軍大佐。長崎県出身 海軍兵学校58期で卒業
雷撃の神様として有名 昭和10年)10月 - 空母「加賀」乗組
昭和13年)12月 - 空母「赤城」分隊長 (昭和14年 - 横須賀海軍航空隊付 少佐任官
セイロン沖海戦 ミッドウェー海戦 空母「翔鶴」飛行隊長、第二次ソロモン海戦
昭和17年)10月26日、南太平洋海戦で第一次攻撃隊を指揮して、米空母「ホーネット」を
肉薄雷撃後に乗機が被弾炎上、そのまま同艦に突入し自爆
死後二階級特進し大佐。
 山田 盛重 栃木県   海軍兵学校(51期)  海軍大学校(甲種34期)
昭和12年)7月13日 - 「疾風」駆逐艦長 昭和16年)7月31日- 第三水雷戦隊参謀 
昭和17年)7月10日 - 第四水雷戦隊参謀 11月25日 - 第五戦隊参謀
昭和19年)10月15日 - 海軍大佐 昭和20年)4月20日 - 大神突撃隊司令
 横田 稔 岡山県 海軍兵学校 (51期)
昭和4年)11月、大尉に進級した。水雷学校高等科
潜水学校甲種学生として潜水艦長教育課程を修了
12月8日の開戦を迎えた直後、「伊26」は米輸送船「シンシア・オルソン」(2140t)を
砲撃によって撃沈した。翌年1月にクェゼリン環礁に戻った「伊26」に待っていたのは
K作戦である。レキシントン型空母を発見する。これが戦艦1、巡洋艦3、駆逐艦7に
よって護衛されていた「サラトガ」であった。横田は距離3000メートルから魚雷6本を
発射し2本の命中を得て、「サラトガ」を自力航行不能に陥れる
11月13日早朝、ガダルカナル島付近での哨戒を命じられた「伊26」は
重巡洋艦「サンフランシスコ」、軽巡洋艦「ジュノー」などを発見した。
一本が「ジュノー」に命中し同艦は撃沈された
横田は第一潜水戦隊(司令官古宇田武郎少将)の首席参謀に補された。
ラバウル輸送団の護衛
昭和19年)1月、「伊44」潜水艦の艤装委員長となり、竣工後に初代艦長に就任。
10月に大佐へ進級。第十一潜水戦隊参謀
昭和20年)7月、第五十二潜水隊司令となるもほどなく終戦を迎えた。
 吉田 英三 福島県大正11年)6月海軍兵学校(第50期海軍大学校(32期)。
昭和10年)10月 「睦月」駆逐艦長 昭和13年)11月 海軍中佐
昭和16年)10月 海軍省軍務局第1課局員
昭和29年)7月1日 - 初代自衛艦隊司令 昭和18年)5月 海軍大佐
昭和20年)2月 軍務局第1課付
 和智 恒蔵

   
海軍大佐  神奈川県横須賀 1922年6月、海軍兵学校(50期)
和智熊太の養子 1940年11月には、メキシコ公使館付
1942年にニューヨークに呼び集められ野村吉三郎と共に帰国した。
硫黄島警備隊司令を拝命し、1944年3月に同島に赴して、海軍中佐として1362名の部下を持つ。
大佐に昇進するが作戦口論で1944年10月15日付けで横須賀鎮守府付として内地に転属になる。
1944年12月、南西方面艦隊司令部付となり、フィリピン大使館付武官を経て
1945年2月15日に海軍水雷学校教官として長崎県川棚に赴任する
同年3月より第5特攻戦隊第32突撃隊司令に転任して、鹿児島で本土決戦に備える。
1946年4月25日から9月まで巣鴨プリズンに拘禁された。
天台宗の僧侶になる
 人見 豊治

   
栃木県 海軍兵学校(50期)
「村雨」,「白雲」,「巻波」「初春」,各駆逐艦長歴任
昭和18年11月25日 - セント・ジョージ岬沖海戦で米水上部隊と交戦しブーゲンビル島沖にて戦没
 宇津木
   秀次郎

   
栃木  海軍兵学校(52期) 伊号第一七八潜水艦艦長
昭和18年)6月1日 - 海軍中佐
昭和18年6月4日 - 豪州方面での作戦のためトラック出撃後、消息不明
    8月4日 - 戦死認定、海軍大佐に特進。
 加藤行雄
   
第28潜水隊司令
伊六〇潜水艦に乗船中 昭和17年)1月17日 英駆逐艦と交戦し沈没(スンダ海峡)
 
      海軍根拠地隊
 広瀬末人 第2根拠地隊(II) - ボルネオ島
1941年1月15日 - 1942年3月10日 解散・第22特別根拠地隊に改編
 田村劉吉 第14根拠地隊 - ニューアイルランド島 1944年2月10日 - 終戦
 森国造 第23特別根拠地隊 - マカッサル 1942年3月10日 -
 佐藤四郎 第27特別根拠地隊 - 東部ニューギニアの 1944年3月25日 - 終戦
カイリル島
 小畑長左衛門 香港方面特別根拠地隊 - 香港 1942年9月1日 -
 大熊譲 香港方面特別根拠地隊 - 香港 1943年10月19日 - 終戦
 緒方真記 青島方面特別根拠地隊(I) - 青島。 1941年5月24日 -
 大杉守一 青島方面特別根拠地隊(I) - 青島。 1941年8月20日 - 1942年4月10日
 藤田類太郎 青島方面特別根拠地隊(II)- 青島 1943年11月10日 -
 高橋一松 羅津方面特別根拠地隊 - 羅津 1943年10月10日 -
 片原常次郎 馬公方面特別根拠地隊 - 馬公 予備 1943年4月1日 -
 磯久研磨
  
第四駆逐隊司令 昭和19年2月17日トラック島付近にて
       駆逐艦:舞風沈没で戦死
        各艦艇の歴代艦長 総覧
     塗潰し薄グレーは進級経歴(それぞれの将校で確認可)
       (全員大佐)
 戦艦 
 金剛
名前  艦艇名・艦長赴任年月・艦艇の最後 その後経歴
大杉守一 戦艦:金剛 艦長 1941年4月15日 -
小柳富次 戦艦:金剛 艦長 1941年8月15日 - 1944年10月レイテ沖海戦にて戦傷 海軍中将
伊集院松治 戦艦:金剛 艦長 1942年12月26日 - 乗艦「壱岐」が撃沈され戦死 享年51海軍中将に特別進
島崎利雄 戦艦:金剛 艦長 1943年7月17日 -
1944年11月21日 台湾海峡で沈没
 比叡
阿部孝壮 戦艦:比叡 艦長 1939年11月15日 - 1942年2月第6根拠地隊司令官 中将 戦犯で絞首刑
有馬 馨 戦艦:比叡 艦長 1940年10月15日 - 昭和17年)8月、「武蔵」初代艦長    中将
西田正雄 戦艦:比叡 艦長 1941年9月10日 - 詳細参照
昭和17年11月12日ガ島飛行機攻撃中米艦隊と第3次ソロモン海戦で大火災を起こし自沈海戦後最初の戦艦の沈没

 榛名
高間完 戦艦:榛名 艦長 1941年8月20日 -
石井敬之 戦艦:榛名 艦長 1942年6月20日 -
森下信衛 戦艦:榛名 艦長 1943年6月14日 - 昭和19年戦艦大和艦長、第2艦隊参謀長、少将
重永主計 戦艦:榛名 艦長 1944年1月25日 -
吉武真武 戦艦:榛名 艦長 1944年10月15日 -
呉軍港空襲により大破着底した

  霧島
久保九次 戦艦:霧島 艦長 1939年11月15日 -
友成佐市郎 戦艦:霧島 艦長 1939年12月27日 -
白石万隆 戦艦:霧島 艦長 1940年10月19日 - 第二艦隊参謀長、第七戦隊司令官、中将へ進級
河野千万城 戦艦:霧島 艦長 戦艦:扶桑 艦長
山口次平 戦艦:霧島 艦長 1941年8月15日 -
岩淵三次 戦艦:霧島 艦長 1942年4月20日 - 昭和20年)2月- 戦死 享年49 海軍中将に特別進級
1942年、第三次ソロモン海戦で沈没
 扶桑
河野千万城 戦艦:扶桑 艦長 1940年10月15日 - 「那珂」、「愛宕」の艦長、第6潜水戦隊司令官 中将
木下三雄 戦艦:扶桑 艦長
古村啓蔵 戦艦:扶桑 艦長 「武蔵」第2代艦長、天一号作戦「矢矧」に乗艦 少将
鶴岡信道 戦艦:扶桑 艦長
阪匡身 戦艦:扶桑 艦長 同艦と共に戦死
1944年10月スリガオ海峡夜戦にて沈没
  山城
小畑長左衛門 戦艦:山城 艦長 1941年5月24日 -
大和田昇 戦艦:山城 艦長 1942年9月1日 -
早川幹夫 戦艦:山城 艦長 1943年3月1日 - 「長門」艦長, オルモック湾海戦にて戦死 中将
久宗米次郎 戦艦:山城 艦長 1943年8月2日 -
田原吉興 戦艦:山城 艦長 1943年12月25日 - 1944年5月5日同艦と共に戦死
山城の最期は篠田勝清少将が艦長 1944年10月25日スリガオ海峡にて沈没 
  伊勢
高柳儀八 戦艦:伊勢 艦長 1940年10月15日 -   「大和」の第2代艦長、軍令部次長  海軍中将
武田勇 戦艦:伊勢 艦長 1941年9月25日 -
長谷真三郎 戦艦:伊勢 艦長 1943年4月25日 -
中瀬泝 戦艦:伊勢 艦長 1943年12月25日 -   昭和20年海軍軍令部第3部長
兼大本営海軍参謀 海軍少将
牟田口格郎 戦艦:伊勢 艦長 1945年2月25日 - 7月24日の呉軍港空襲により戦死し、海軍少将
呉工廠米軍艦載機の空襲により大破着底
   日向
石崎昇 戦艦:日向 艦長 1941年9月1日 -
松田千秋 戦艦:日向 艦長 1942年2月20日 - 戦艦「大和」艦長  、第4航空戦隊司令官 海軍少将
大林末雄 戦艦:日向 艦長 1942年12月10日 - 航空母艦「瑞鳳」艦長、第3航空戦隊司令官 海軍少将
荒木伝 戦艦:日向 艦長 1943年7月1日 -
中川浩 戦艦:日向 艦長 1943年9月1日 -
野村留吉 戦艦:日向 艦長 1943年12月5日 -
フィリピン方面へ軍需品輸送準備中1945年7月24日呉港で大破し、着底
   長門
矢野 英雄 戦艦:長門 艦長 1941年8月11日 - サイパンにて戦死  海軍中将特別昇進
久宗米次郎 戦艦:長門 艦長 1942年11月10日 -
早川幹夫 戦艦:長門 艦長 1943年8月2日 - オルモック湾海戦により戦死    海軍中将
兄部勇次 戦艦:長門 艦長 1943年12月15日 -
渋谷清見 戦艦:長門 艦長 1944年12月20日 - 第3特攻戦隊司令官          海軍少将
杉野修一 戦艦:長門 艦長 1945年7月24日 -
アメリカ軍の核実験)に標的艦として参加
  陸奥
小暮軍治 戦艦:陸奥 艦長 昭和16年)8月11日 -
山澄貞次郎 戦艦:陸奥 艦長 昭和17年)6月20日 -
三好輝彦 戦艦:陸奥 艦長 昭和18年)3月10日 - 6月8日殉職 乗艦爆発事故により殉職  海軍少将特別進級
1943年6月8日柱島停泊中第三砲塔より大爆発し船体は切断して海中へ
  大和 
1.宮里秀徳 戦艦:大和 艦長 昭和16年)9月5日 - 第11特別工作部長、船舶救難本部長 海軍中将
2.高柳儀八 戦艦:大和 艦長 昭和16年)11月1日 - 海軍省教育局長、最後の軍令部次長、海軍中将
3.松田千秋 戦艦:大和 艦長 昭和17年)12月17日 - 第4航空戦隊司令官、横須賀海軍航空隊司令、海軍少将
4.大野竹二 戦艦:大和 艦長 昭和18年)9月7日 - 軍令部第3部長、海軍省人事局長  海軍少将
5.森下信衛 戦艦:大和 艦長 昭和19年)1月25日 - 第2艦隊参謀長、呉海兵団長     海軍少将
6.有賀幸作 戦艦:大和 艦長 昭和19年)11月25日 - 戦死時は4月7日付で海軍中将に昇格
4月7日、坊ノ岬沖海戦にて米海軍空母艦載機386機の攻撃を受け、「大和」は沈没
  武蔵
1.有馬 馨 戦艦:武蔵 艦長 昭和17年)8月5日~ 海軍中将
2.古村啓蔵 戦艦:武蔵 艦長 昭和18年)6月9日~ 海軍中将
3.朝倉豊次 戦艦:武蔵 艦長 昭和18年)12月6日~ 海軍中将
1944年10月24日レイテ湾を目指して途中シブヤン海峡にて沈没

      航空母艦艦 
    鳳翔
21.梅谷薫 航空母艦:
 1941年9月15日 -
22.山口文次郎 航空母艦:鳳翔 1942年8月1日 -
23.服部勝二 航空母艦:鳳翔 1942年11月25日 -
24.貝塚武男 航空母艦:鳳翔 1943年7月5日 -
25.松浦義 航空母艦:鳳翔 1943年12月18日 -
26.国府田清 航空母艦:鳳翔 1944年3月1日 -
27.室田勇次郎 航空母艦:鳳翔 1944年7月6日 -
28.大須賀秀一 航空母艦:鳳翔 1945年3月5日 - 5月1日
29.金岡国三 航空母艦:鳳翔 1945年9月20日 -
1942年 - ミッドウェー海戦後、練習空母になる946年 - 8月31日 解体開始
    天城
20.長谷川喜一 航空母艦:天城 1941年3月25日 - 1944年3月、トラック諸島で同乗中爆発事故戦死、海軍中将
21.青木泰二郎 航空母艦:天城 1942年4月25日 -
昭和17年)6月5日 - ミッドウェー海戦で大破、翌日駆逐艦の雷撃により処分
    加賀
14.山田定義 航空母艦:加賀 1940年10月15日 -
15.岡田次作 航空母艦:加賀 1941年9月15日 - 1942年6月5日ミッドウェーで同艦と共に戦死   海軍少将に特進
1942年 - 6月5日 ミッドウェー海戦で大破、沈没
    龍驤
9.杉本丑衛 大 航空母艦:龍驤 1940年6月21日 -
10.加藤唯雄           航空母艦:龍驤 1942年4月25日 -
 1942年 - 8月24日 第二次ソロモン海戦に参加。米軍機艦爆18機、艦攻9機の攻撃を受け大破、沈没。
    蒼龍
5.蒲瀬和足 航空母艦:蒼龍 1940年10月15日 -
6.上阪香苗 航空母艦:蒼龍 1940年11月25日 - 第26航空戦隊司令官、第50航空戦隊司令官、海軍少将
7.長谷川喜一 航空母艦:蒼龍 1941年9月12日 - 1944年3月、トラック諸島で同乗中爆発事故戦死、海軍中将
8.柳本柳作 航空母艦:蒼龍 1941年10月6日 - 1942年6月5日同艦と共に戦死  海軍少将に特別昇進
1942年6月5日 ミッドウェー海戦にて沈没
    飛龍
1.竹中龍造 航空母艦:飛龍 1939年4月1日 -
2.横川市平 航空母艦:飛龍 1939年11月15日 -
3.矢野志加三 航空母艦:飛龍 1940年11月15日 - 海軍総隊参謀副長兼聯合艦隊参謀副長、任 海軍中将
4.加来 止男 航空母艦:飛龍 1941年9月5日 - 1942年6月6日同艦と共に戦死    戦死後少将に特進
1942年6月6日 ミッドウェー海戦にて沈没
    翔鶴 
城島高次 航空母艦:翔鶴 1941年4月17日 -
有馬正文 航空母艦:翔鶴 1942年5月25日 - 昭和20)1月7日- 戦死公報を以って海軍中将に特別昇進
岡田為次 航空母艦:翔鶴 1943年2月16日 - 戦犯容疑により死刑判決   海軍少将
松原博 航空母艦:翔鶴 1943年11月17日 -
昭和19年)6月19日 マリアナ沖海戦で沈没。艦長以下救出
    瑞鶴
横川市平 航空母艦:瑞鶴 1941年9月25日 -
野元為輝 航空母艦:瑞鶴 1942年6月5日 - 海軍少将
菊池朝三 航空母艦:瑞鶴 1943年6月20日 - 海軍少将
貝塚武男 航空母艦:瑞鶴 1943年12月18日 - 1944年10月25日
昭和19年)10月25日エンガノ岬沖海戦で沈没
    雲龍
1.小西要人 航空母艦:雲龍 1944年8月6日 - 12月19日同艦と共に戦死
1944年12月19日、「雲龍」は沈没した(呉港からマニラへ向かう)
    天城
2.宮崎俊男 航空母艦:天城 1944年10月23日 - 「橘花」搭載予定の「葛城」艦長
3.平塚四郎 航空母艦:天城 1945年4月20日 -
昭和20年)6月10日呉港外の三ツ子島に碇泊 米軍機の空襲、浸水横転、着底
    葛城
1.川畑正治 航空母艦:葛城 昭和19年)10月15日 -
2.平塚四郎 航空母艦:葛城 昭和20年)4月1日 -
3.宮崎俊男 航空母艦:葛城 昭和20年)4月20日 - 航空母艦:天城の艦長
搭載する航空機と搭乗員、さらに燃料の不足により作戦活動には従事せず、決号作戦に向けて
温存されていた。昭和20年呉軍港空襲で被弾、中破する。
特別輸送艦(復員輸送船)として用いられることとなった。
    大鳳
1.菊池朝三 航空母艦:大鳳 1944年3月7日 - 7月1日 第1航空艦隊参謀長、海軍総隊参謀副長 海軍少将
昭和19年)6月18日、マリアナ沖海戦で爆発・沈没
    祥鳳
1.伊沢石之助 航空母艦:祥鳳 1941年12月22日 -
昭和17年5月7日、珊瑚海海戦にて沈没
    瑞鳳
1.野元為輝 航空母艦:瑞鳳 1940年12月15日 -
2.大林末雄 航空母艦:瑞鳳 1941年9月20日 - 戦艦「日向」艦長、第51航空戦隊司令官   海軍少将
3.山口文次郎 航空母艦:瑞鳳 1942年12月5日 -
4.服部勝二 航空母艦:瑞鳳 1943年7月5日 -
5.杉浦矩郎 航空母艦:瑞鳳 1944年2月15日 -
昭和19年10月25日レイテ沖海戦軍艦旗収容し総員退艦。午後3時27分沈没
    龍鳳
1.亀井凱夫 航空母艦:龍鳳  1942年11月30日 - 五二一空司令、マリアナ航空隊司令 海軍少将
2.松浦義 航空母艦:龍鳳  1944年3月16日 -
3.高橋長十郎 航空母艦:龍鳳  1945年1月20日 -
4.佐々木喜代治 航空母艦:龍鳳  1945年4月28日 -
「大鯨]は「龍鳳」改称され空母に改造された。昭和20年3月19日呉軍港空襲にて大破
   千歳
1.三浦艦三 航空母艦:千歳 1943年8月4日 -
2.岸良幸 航空母艦:千歳 1944年4月7日 - 10月25日戦死
水上機母艦から空母に改装された。昭和19年10月25日 - レイテ沖海戦に参加、戦没
   千代田
5.別府明朋 航空母艦:千代田 1943年1月9日 -
6.城英一郎 航空母艦:千代田 1944年2月15日 - 10月25日同艦と共に戦死
昭和18年11月15日 - 航空母艦に艦種変更、昭和19年10月25日 - レイテ沖海戦に参加、喪失
    神鷹
石井芸江 航空母艦:神鷹 1943年12月15日 - 1944年11月17日戦死 中将に特進
  ドイツ客船シャルンホルストを日本海軍が買収し、航空母艦に改造した
  昭和19年)11月17日済州島沖でアメリカ軍潜水艦スペードフィッシュの魚雷攻撃によって撃沈された。
    海鷹
1.高尾儀六 航空母艦:海鷹 1943年11月23日 -
2.北村昌幸 航空母艦:海鷹 1944年7月24日 -
3.有田雄三 航空母艦:海鷹 1944年8月1日 -
4.国府田清 航空母艦:海鷹 1945年3月15日 -
5.大須賀秀一 航空母艦:海鷹 1945年5月1日 -
大阪商船所属の客船「あるぜんちな丸」で、太平洋戦争勃発により日本海軍に売却され、
空母に改装された。
1943年11月23日空母へ改装完了、昭和20年触雷、大分県日出町の城下(しろした)海岸に座礁
その後米軍空襲で浸水し、船体放棄
    飛鷹
1.別府明朋 航空母艦:飛鷹 1942年7月31日 - 予備
2.澄川道男 航空母艦:飛鷹 1942年11月21日 -
3.別府明朋 航空母艦:飛鷹 1943年8月15日 - (兼)、予備
4.古川保 航空母艦:飛鷹 1943年9月1日 -
5.横井俊之 母艦:飛鷹 1944年2月16日 - 第25航空戦隊司令官、第5航空艦隊参謀長海軍少将
昭和19年)6月19日 - マリアナ沖海戦に参加。翌20日米軍機の攻撃を受け沈没。
    隼鷹
石井芸江 航空母艦:隼鷹 1942年5月3日-  中将に特進
岡田為次 航空母艦:隼鷹 1942年7月20日- 「翔鶴」艦長に転任、第4南遣艦隊参謀長、海軍少将
長井満 航空母艦:隼鷹 1943年2月12日- 佐伯海軍航空隊司令、    海軍少将に昇進
大藤正直 航空母艦:隼鷹 1943年12月25日-
渋谷清見 航空母艦:隼鷹 1944年2月21日- 「長門」艦長に転じた、海軍少将に進
航空母艦:隼鷹 1944年12月20日-
前原富義 航空母艦:隼鷹 1945年5月12日-
昭和19年)6月20日 - マリアナ沖海戦にて煙突付近に直撃弾二発を受け
              発着艦不能に 翌年3月末まで修理
昭和20年第一航空戦隊から外され、第四予備艦となる
    大鷹
1.高次貫一 航空母艦:大鷹 1941年9月5日 -
2.篠田太郎八 航空母艦:大鷹 1942年10月24日 -
3.松田尊睦 航空母艦:大鷹 1943年5月29日 -
4.松野俊郎 航空母艦:大鷹 1943年11月17日 -
5.別府明朋 航空母艦:大鷹 1944年2月15日 - 予備
6.杉野修一 航空母艦:大鷹 1944年3月20日 -
日本郵船の客船・春日丸を1941年(昭和16年)5月に海軍が徴用して佐世保海軍工廠へ回航、
航空母艦として改装工事が行われた。
1942年8月31日「大鷹」と命名され正規の航空母艦となった。  ルソン島東方にて沈没
    雲鷹
1.湊慶譲 航空母艦:雲鷹 1942年5月31日 -
2.相徳一郎 航空母艦:雲鷹 1943年1月28日 -
3.関郁乎 航空母艦:雲鷹 1943年4月14日 -
4.平塚四郎 航空母艦:雲鷹 1944年3月1日 -
5.木村行蔵 航空母艦:雲鷹 1944年7月1日 - 9月17日同艦と共に戦死
 日本郵船所有の客船「八幡丸」を改装し、航空母艦としたもの1942年5月31日空母に改装完了
 昭和19年)1月19日 - サイパン島近海にて雷撃により、二本被雷し、8月12日 - 修理完了
       9月17日 - ヒ74船団の護衛任務中にアメリカ潜水艦の雷撃を受け、二本被雷、沈没
    冲鷹
1.石井芸江 航空母艦:冲鷹 1942年11月20日 - 航空母艦:隼鷹 1942年5月3日-  中将
2.加藤与四郎 航空母艦:冲鷹 1943年2月1日 -
3.大倉留三郎 航空母艦:冲鷹 1943年9月27日 - 12月4日同艦と共に戦死
 日本郵船の客船新田丸を航空母艦に改造、1942年11月25日空母へ改装完了
 昭和18年トラックを出港し日本へ向かった。
 12月3日夜に荒天の中八丈島東方で被雷し沈没した   
   信濃
 阿部俊雄 航空母艦:信濃 1944年10月1日 - 11月29日同艦と共に戦死
第八駆逐隊司令として太平洋戦争を迎え、第十駆逐隊司令
、巡洋艦「大淀」艦長    特進し少将に進級
 建造中の大和型戦艦三番艦を、戦局の変化に伴い戦艦から航空母艦に設計変更したものである。
 上最大の排水量を持つ空母だった。1944年11月28日午後1時30分、
 巨大な空母「信濃」は横須賀を出港した。
 静岡県浜名湖南で待機していたアメリカ海軍のバラオ級潜水艦が11月29日魚雷発射する。
 「信濃」は軍艦籍に入って完成艦として扱われているが、実際は未だ建造中の未完成艦だった。
 潮岬沖南東48kmの地点で「信濃」は転覆し、艦尾から沈没した
    重巡洋艦
   青葉 
15.久宗米次郎 重巡洋艦:青葉 1941年7月25日 -
16.荒木伝 重巡洋艦:青葉 1942年11月10日 -
17.田原吉興 重巡洋艦:青葉 1942年12月31日 -
18.山森亀之助 重巡洋艦:青葉 1943年2月24日 -
19.山澄忠三郎 重巡洋艦:青葉 1943年6月8日 -
20.村山清六 重巡洋艦:青葉 1945年1月1日 -
1944年10月23日 ルソン島西方で雷撃を受け大破、にかろうじて呉軍港に帰投
1945年3月に米軍空母機動部隊よる攻撃が開始されると、青葉も防空砲台として
         奮戦したが、大破着底
    衣笠
16.難波祐之 重巡洋艦:衣笠 1939年11月15日 -
17.清田孝彦 重巡洋艦:衣笠 1940年9月25日 -
18.沢正雄 重巡洋艦:衣笠 1941年8月20日 - 1942年11月13日同艦と共に戦死
1942年10月11日にはサボ島沖海戦に参加し、艦載機の攻撃を受け
           ガダルカナル島水域で沈没。
    古鷹
16.白石万隆 重巡洋艦:古鷹 1939年11月15日 - 第二艦隊参謀長、第七戦隊司令官   中将へ進級
17.中川浩 重巡洋艦:古鷹 1940年10月19日 -
18.荒木伝 重巡洋艦:古鷹 1941年11月28日 -
1942年10月12日のサボ島沖海戦で、沈没
    加古
19.木下三雄 重巡洋艦:加古 1940年10月15日 -
20.高橋雄次 重巡洋艦:加古 1941年9月15日 -
昭和17年)8月8-9日、第一次ソロモン海戦に参加し、帰還中の8月10日に米潜水艦の攻撃され沈没
   妙高
15.山澄貞次郎 重巡洋艦:妙高 1941年8月11日 -
16.三好輝彦 重巡洋艦:妙高 1942年5月23日 - 戦艦「陸奥」艦長当時、爆発沈没事故により殉職、海軍少将
17.中村勝平 重巡洋艦:妙高 1943年3月2日 -
18.石原聿 重巡洋艦:妙高 1943年12月5日 -
19.小野田捨次郎 重巡洋艦:妙高 1945年1月15日 - (兼任)
20.加賀山外雄 巡洋艦:妙高 1945年3月22日 -
 1944年12月13日、レイテ沖海戦で日本本国に戻るためサイゴン沖を航行中米潜水艦夜間雷撃を受ける。
    那智
14.清田孝彦 重巡洋艦:那智 1941年8月20日 -
15.曽爾章 重巡洋艦:那智 1942年11月16日 -
16.渋谷紫郎 重巡洋艦:那智 1943年9月10日 - 少将昇進後第百一戦隊司令官 戦死中将
17.鹿岡円平 重巡洋艦:那智 1944年8月20日 - 11月5日 同艦と共に戦死
  19年11月5日、マニラ湾で米空母の艦載機による空襲を受け多数の爆弾、魚雷の命中により沈没
    足柄
12.一宮義之 重巡洋艦:足柄 1941年7月5日 -
13.阪匡身 重巡洋艦:足柄 1942年9月25日 -
14.三浦速雄 重巡洋艦:足柄 1944年1月30日 -
  1945年バタビアから6月7日にシンガポールに向け出港、6月8日イギリス海軍潜水艦により沈没
    羽黒
13.浜田浄 重巡洋艦:羽黒 1940年10月15日 - 第一〇二戦隊司令官:少将
14.森友一 重巡洋艦:羽黒 1941年7月25日 - 第一水雷戦隊司令官、呉練習戦隊司令官、少将へ昇進
15.魚住治策 重巡洋艦:羽黒 1942年10月20日 - 第15根拠地隊 - ペナン島 少将
16.杉浦嘉十 重巡洋艦:羽黒1943年12月1日 - 1945年5月 ペナン沖海戦で「羽黒」は戦没し運命を共にした戦死海軍中将
昭和20年5月ペナン沖海戦マラッカ海峡にて沈没
    高雄
10.山口次平 重巡洋艦:高雄 1940年11月1日 - 第一海上護衛隊参謀長(1942年4月10日-)
11.朝倉豊次 重巡洋艦:高雄 1941年8月15日 - 「武蔵」艦長、第十方面艦隊参謀長、海軍少将に進級
12.猪口敏平 重巡洋艦:高雄 1943年2月23日 - 「武蔵」第4代艦長、レイテ沖海戦にて戦死 特進し海軍中将
13.林彙邇 重巡洋艦:高雄 1943年10月28日 -
14.小野田捨次郎 重巡洋艦:高雄 1944年8月29日 -
15.石坂竹雄 重巡洋艦:高雄 1945年3月21日 -
    戦後はイギリスに引渡された。   
    愛宕
13.小柳富次 重巡洋艦:愛宕 1940年10月15日 - 第10戦隊司令官、レイテ沖海戦において戦傷、海軍中将
14.伊集院松治 重巡洋艦:愛宕 1941年8月11日 - 乗艦「壱岐」が撃沈され戦死、海軍中将に特別進級
15.中岡信喜 重巡洋艦:愛宕1942年12月1日- 1943年11月5日 昭和18年ラバウル空襲で攻撃を受け戦死
16.荒木伝 重巡洋艦:愛宕 1943年11月15日 -
昭和19年)10月レイテ沖海戦にて沈没
    摩耶
11.鍋島俊策 重巡洋艦:摩耶 1941年8月11日 - 特設護衛船団司令部第一〇四戦隊司令官:少将
12.松本毅 重巡洋艦:摩耶 1942年9月30日 - オルモック湾海戦にて戦死 海軍中将
13.加藤与四郎 重巡洋艦:摩耶 1943年10月16日 - 大和」艦長、坊ノ岬沖海戦沈没し、戦死 2階級特進 中将
14.大江覧治 重巡洋艦:摩耶 1943年12月26日 -10月23日 同艦と共に戦死
昭和19年レイテ沖海戦で沈没
    最上
8.曽爾章 重巡洋艦:最上 1941年9月10日-
9.佐々木静吾 重巡洋艦:最上 1942年11月10日-
10.相徳一郎 巡洋艦:最上 1943年4月14日-
11.藤間良 重巡洋艦:最上 1944年4月10日-10月25日 艦橋への直撃弾により戦死。同日、最上沈没
1944年10月25日のスリガオ海峡海戦、退避中重巡「那智」と衝突航行不能となり、雷撃処分となる。
   三隈
8.木村進 重巡洋艦:三隈 1939年11月15日 - 最後の海軍航海学校長、海軍中将に進み水路部長
9.崎山釈夫 重巡洋艦:三隈 1940年11月1日 - 1942年6月7日戦死
ミッドウェー海戦で沈没、太平洋戦争で最初に失われた日本海軍の重巡洋艦となった。
    鈴谷
6.木村昌福 重巡洋艦:鈴谷 1940年10月15日 - 『キスカ島撤退作戦』を指揮5000名救出  海軍中将
7.大野竹二 重巡洋艦:鈴谷 1942年11月24日 - 「木曾」」「大和」の各艦長、海軍省人事局長、海軍少将
8.高橋雄次 重巡洋艦:鈴谷 1943年9月4日 - 電測学校長 少将 1944年9月1日 -
9.寺岡正雄 重巡洋艦:鈴谷 1944年8月29日 -
1944年レイテ沖海戦、10月25日のサマール沖海戦にて大破沈没した
    熊野
6.小畑
  長左衛門
重巡洋艦:熊野 1940年10月15日 -
7.田中菊松 重巡洋艦:熊野 1941年5月24日 - 第21特別根拠地隊 - スラバヤ 少将
8.藤田俊造 重巡洋艦:熊野 1943年2月17日 - 第一海上護衛隊運航指揮官1944年8月-
9.人見錚一郎 重巡洋艦:熊野1944年3月29日 - 11月25日戦死 1944年10月25日 サマール沖海戦で戦死後少将に特進
1944年10月25日 サマール沖海戦にて中破、サンタクルーズから台湾への輸送中米空母空襲により沈没
    利根
3.西田正雄 重巡洋艦:利根 1940年10月15日 - 第256航空隊司令   大佐
4.岡田為次 重巡洋艦:利根 1941年9月10日 - 海軍少将、第25根拠地隊司令官、戦犯容疑により死刑
5.兄部勇次 重巡洋艦:利根 1942年7月14日 -
6.黛治夫 重巡洋艦:利根 1943年12月1日 - ビハール号事件により戦犯容疑懲役7年の判決、大佐
7.岡田有作 重巡洋艦:利根 1945年1月6日 -
レイテ沖海戦後、舞鶴に帰還、空襲を受けて損傷。大破着底し、終戦を迎えた。
    筑摩
4.小暮軍治 重巡洋艦:筑摩 1940年11月1日 -
5.古村啓蔵 重巡洋艦:筑摩 1941年8月11日 - 「武蔵」第2代艦長、、第二水雷戦隊司令官、海軍少将
6.荒木伝 重巡洋艦:筑摩 1942年11月10日 -
7.重永主計 重巡洋艦:筑摩 1943年1月20日 -
8.則満宰次 重巡洋艦:筑摩 1944年1月7日 - 10月25日戦死
1944年10月25日、サマール島沖海戦で、米軍機の空襲を受け沈没
 
   軽巡洋艦 
   大淀     
1.富岡定俊 軽巡洋艦:大淀 1943年2月28日 -
2.篠田勝清 軽巡洋艦:大淀 1943年8月29日 -
3.阿部俊雄 軽巡洋艦:大淀 1944年5月6日 - 昭和19年10月に「信濃」艦長 信濃は沈没 少将に進級
4.牟田口格郎 軽巡洋艦:大淀 1944年8月15日 - 伊勢」艦長、呉軍港空襲により戦死 海軍少将へ特進
5.松浦義 軽巡洋艦:大淀 1945年2月25日 -
6.田口正一 軽巡洋艦:大淀 1945年5月15日 -
昭和20年7月28日、米艦載機の空襲(呉軍港空襲)を受けた転覆着底
    天龍
28.高橋雄次 軽巡洋艦:天龍 1940年10月15日 -
29.後藤光太郎 軽巡洋艦:天龍 1941年8月28日 -
30.浅野新平 軽巡洋艦:天龍 1942年6月5日 -
31.上田光治 軽巡洋艦:天龍 1942年12月5日 -
1942年12月18日、マダン上陸作戦の支援中に米潜水艦アルバコア の雷撃を受け沈没した
    龍田 
28.沢 正雄 軽巡洋艦:龍田 1940年9月25日 -
29.馬場良文 軽巡洋艦:龍田 1941年8月20日 -
30.吉武真武 軽巡洋艦:龍田 1942年7月20日 -
31.船木守衛 軽巡洋艦:龍田 1943年1月7日 -
32.小川莚喜 軽巡洋艦:龍田 1943年4月5日 - 海軍少将、戦死
33.島居威美 軽巡洋艦:龍田 1943年12月22日 -
1944年3月サイパン島への輸送作戦中13日八丈島沖で雷撃を受け沈没
    球磨
25.江口松郎 軽巡洋艦:球磨 1940年10月15日 -
26.渋谷清見 軽巡洋艦:球磨 1940年10月15日 - 「隼鷹」艦長、「長門」艦長、第3特攻戦隊司令官、海軍少将
27.横山一郎 軽巡洋艦:球磨 1942年11月14日 - 妙高艦長、連合艦隊首席参謀    海軍少将
28.杉野修一 軽巡洋艦:球磨 1943年8月14日 -
1944年1月11日マラッカ海峡付近で魚雷2本を受け沈没
   多摩
29.新美和貴 軽巡洋艦:多摩 1940年11月1日 -
30.川畑正治 軽巡洋艦:多摩 1941年9月20日 -
31.鹿目善輔 軽巡洋艦:多摩 1942年8月1日 - 第十二航空艦隊参謀長   少将へ昇進
32.神重徳 軽巡洋艦:多摩 1943年6月22日 - 飛行機事故により殉職 享年45 海軍少将に特別進級
33.山本岩多 軽巡洋艦:多摩 1943年12月15日 - 1944年10月25日戦死エンガノ岬沖海戦雷撃により撃沈、海軍少将
昭和19年)10月25日エンガノ岬沖海戦で空襲により大破、アメリカ海軍の潜水艦 の雷撃により撃沈
    北上
24.荒木伝 軽巡洋艦:北上 1941年9月1日 -
25.則満宰次 軽巡洋艦:北上 1941年11月28日 -
26.鶴岡信道 軽巡洋艦:北上 1942年9月5日 -
27.野村留吉 軽巡洋艦:北上 1943年5月17日 -
28.田中穣 軽巡洋艦:北上 1943年11月21日 -
29.加瀬三郎 軽巡洋艦:北上 1944年6月10日 -
30.清水正心 軽巡洋艦:北上 1944年8月29日 -
31.金岡国三 軽巡洋艦:北上 1944年12月1日 -
1945年7月24日、呉に於いてアメリカ海軍第38任務部隊艦載機による空襲を受け大破
    大井
21.金桝義夫 軽巡洋艦:大井 1940年11月15日 -
22.森下信衛 軽巡洋艦:大井 1941年9月1日 - 戦艦榛名、大和などの艦長、第2艦隊参謀長  海軍少将
23.成田茂一 軽巡洋艦:大井 1942年4月10日 -
24.長井武夫 軽巡洋艦:大井 1942年10月3日 -
25.相馬信四郎 軽巡洋艦:大井 1942年12月24日 -
26.川井繁蔵 軽巡洋艦:大井 1943年7月23日 -
27.柴勝男 軽巡洋艦:大井 1944年2月12日 - 降伏文書調印式に随員として参加  大佐
1944年7月19日マレー-フィリピン間の輸送任務でマニラ湾において米潜水艦の魚雷にて沈没
    木曾
27.木山辰雄 軽巡洋艦:木曾 1940年10月15日 -
28.大野竹二 軽巡洋艦:木曾 1941年11月10日 - 「鈴谷」「大和」の各艦長   海軍少将に進級
29.川井 巌 軽巡洋艦:木曾 1942年9月20日 -
30.沢 勇夫 軽巡洋艦:木曾 1943年10月4日 -
31.今村了之介 軽巡洋艦:木曾 1944年2月7日 -
1944年11月13日、マニラ湾に停泊中に米軍機の攻撃を受け沈没
    長良
25.曽爾章 軽巡洋艦:長良 1940年11月1日 -
26.直井敏夫 軽巡洋艦:長良 1941年9月10日 -
27.田原吉興 軽巡洋艦:長良 1942年7月10日 -
28.篠田勝清 軽巡洋艦:長良 1942年12月17日 -
29.北村昌幸 軽巡洋艦:長良 1943年8月16日 -
30.近藤新一 軽巡洋艦:長良 1944年4月7日 -
31.中原義一郎 巡洋艦:長良 1944年5月8日 - 8月7日戦死 艦と運命を共にした。没後、2階級特進し海軍中将とる
昭和19年)8月7日、天草諸島の西で米潜水艦「クローカー」 の雷撃により沈没
    五十鈴
10.山本五十六 軽巡洋艦:五十鈴 1928年8月20日 - 連合艦隊司令長官
28.鶴岡信道 軽巡洋艦:五十鈴 1939年11月15日 -
29.浦孝一 軽巡洋艦:五十鈴 1941年9月1日 -
30.篠田清彦 軽巡洋艦:五十鈴 1943年1月30日 -
31.松田源吾 軽巡洋艦:五十鈴 1944年6月20日 -
1945年スンバワ島のビマ出航後、米潜水艦「ガビラン」 魚雷を受け沈没
    名取
26.山澄貞次郎 軽巡洋艦:名取 1940年11月15日 -
27.佐々木静吾 軽巡洋艦:名取 1941年7月28日 -
28.猪口敏平 軽巡洋艦:名取 1942年7月1日 -
29.植田弘之介 軽巡洋艦:名取 1943年1月20日 -
30.平井泰次 軽巡洋艦:名取 1943年7月20日 -
31.久保田智 軽巡洋艦:名取 1944年3月18日 - 8月18日同艦と共に戦死
1944年8月18日、サマール島東方水域で、米潜水艦の雷撃を受け沈没
    由良
19.魚住治策 軽巡洋艦:由良 1939年11月1日 -
20.三好輝彦 軽巡洋艦:由良 1941年9月1日 - 戦艦「陸奥」艦長当時、爆発沈没事故により殉職、海軍少将
21.佐藤四郎 軽巡洋艦:由良 1942年4月20日 -
1942年10月24日ガダルカナル島へB-17爆撃機とドーントレス混成攻撃隊の攻撃を受け沈没
    鬼怒
19.伊藤徳堯 軽巡洋艦:鬼怒 1940年4月20日 -
20.矢牧章 軽巡洋艦:鬼怒 1940年12月2日 -
21.鍋島俊策 軽巡洋艦:鬼怒 1941年3月15日 - 第四艦隊参謀長   海軍少将に昇進
22.加藤与四郎 軽巡洋艦:鬼怒 1941年8月11日 -
23.上原義雄 軽巡洋艦:鬼怒 1942年12月12日 -
24.板倉得止 軽巡洋艦:鬼怒 1943年3月22日 -
25.川崎晴実 軽巡洋艦:鬼怒 1944年2月4日 -
1944年10月パナイ島とマスバテ島の間に達したころ護衛空母搭載機による攻撃を受け沈没
   阿武隈
17.村山清六 軽巡洋艦:阿武隈 1940年11月1日 -
18.渋谷紫郎 軽巡洋艦:阿武隈 1942年9月20日 -  第百一戦隊司令官として戦死した海軍中将
19.小西要人 軽巡洋艦:阿武隈 1943年8月28日 -
20.花田卓夫 軽巡洋艦:阿武隈 1944年3月26日 -
1944年10月26日戦没 ネグロス島沖に沈んだ。
    川内
21.久宗米次郎 軽巡洋艦:川内 1939年11月15日 -
22.島崎利雄 軽巡洋艦:川内 1941年7月25日 -
23.森下信衛 軽巡洋艦:川内 1942年4月25日 - 第2艦隊参謀長、呉海兵団長  海軍少将
24.荘司喜一郎 軽巡洋艦:川内 1943年5月20日 - 11月2日戦死
1943年11月2日ブーゲンビル島沖海戦で米艦隊と交戦、沈没
    神通
19.河西虎三 軽巡洋艦:神通 1940年10月15日 -
20.藤田俊造 軽巡洋艦:神通 1942年12月26日 -
21.佐藤寅治郎 軽巡洋艦:神通 1943年2月12日 - 艦長佐藤寅治郎、第2水雷戦隊司令官伊崎俊二少将 戦死
昭和18年)7月13日、コロンバンガラ島沖海戦において雷撃を集中して受け被弾沈没
    那珂
6.南雲忠一 軽巡洋艦:那珂 1929年11月30日 - 第一航空艦隊司令長官、昭和19年戦死海軍大将に昇進
20.伊集院松治 軽巡洋艦:那珂 1940年10月15日 - 昭和19年、乗艦「壱岐」が撃沈され戦死、海軍中将に特別進
21.田原吉興 軽巡洋艦:那珂 1941年8月11日 - 
22.中里隆治 軽巡洋艦:那珂 1942年7月10日 -
23.高木伴治郎 軽巡洋艦:那珂 1942年10月1日 -
24.今和泉喜次郎 軽巡洋艦:那珂 1943年3月25日 -
25.末沢慶政 軽巡洋艦:那珂 1944年1月7日 -
1944年2月17日トラック島を出港した直後、トラック島西方で艦載機部隊による攻撃を受け沈没
    夕張
20.阪匡身 軽巡洋艦:夕張 1940年11月1日 -
21.平井泰次 軽巡洋艦:夕張 1942年8月15日 -
22.舟木守衛 軽巡洋艦:夕張 1943年5月3日 -
23.大江覧治 軽巡洋艦:夕張 1944年1月20日 -
24.奈良孝雄 軽巡洋艦:夕張 1944年2月20日 -
1944年4月27日 - パラオ諸島南西で米潜水艦ブルーギルの雷撃により沈没
   阿賀野 
1.中川 浩 軽巡洋艦:阿賀野 1942年10月31日 -
2.松原 博 軽巡洋艦:阿賀野 1943年8月5日 - 
3.松田尊睦 軽巡洋艦:阿賀野1943年11月17日 - 1944年2月18日戦死
1944年2月2月16日 トラック島北方沖にて米潜水艦スケートの魚雷2本を受け炎上後、沈没
   能代
1.田原吉興 軽巡洋艦:能代 1943年5月20日 -
2.梶原季義 軽巡洋艦:能代 1943年12月15日 -
1944年10月26日 ミンドロ島南方にて空襲を受け魚雷2本、爆弾1発が命中。沈没。
   矢矧
1.吉村真武 軽巡洋艦:矢矧  1943年12月29日 -
2.原為一 軽巡洋艦:矢矧  1944年12月20日 -
昭和20年天一号作戦に参加、戦艦大和の護衛で4月7日の坊ノ岬沖海戦で「矢矧」は 
米軍機混成部隊に襲われ最終的に合計魚雷6-7本、爆弾10-12発を被弾で沈没した。大和より早く沈没、戦死
   酒匂
1.大原利通 軽巡洋艦:酒匂 1944年11月31日就任
作戦参加の機会もなくもっぱら内地で訓練に従事していた。終戦時は舞鶴にて無傷で残存。
    水上機母艦 
   能登呂      
14.堀内馨 水上機母艦:能登呂(のとろ)1941年6月25日 -
15.吉田四郎 水上機母艦:能登呂(のとろ)1942年7月15日 -
1944年6月29日 シンガポール南東沖でアメリカ潜水艦「フラッシャー」の魚雷3本を受ける
1947年1月12日 海没処分
   神威
10.古川保 水上機母艦:神威(かもい)1940年11月15日-
11.伊藤徳堯 水上機母艦:神威(かもい)1941年7月1日 -
12.長谷部喜蔵 水上機母艦:神威(かもい)1941年8月20日 -
13.山崎助一 水上機母艦:神威(かもい)1942年8月7日 - 予備
14.清水他喜雄 水上機母艦:神威(かもい)1943年5月3日 -
1945年1月16日 ヒ87船団に加入して香港在泊中に爆弾4発を受け大破、4月13日 浸水により着底
   瑞穂
3.澄川道男 水上機母艦:瑞穂(みずほ)1940年10月15日 -
4.大熊譲 水上機母艦:瑞穂(みずほ)1941年9月5日 -
1942年改造後、5月1日横須賀を出航し米潜水艦「ドラム」の雷撃を受け撃沈
    日進
1.駒沢克己 水上機母艦:日進(にっしん)1942年1月28日 -
2.伊藤尉太郎 水上機母艦:日進(にっしん)1942年12月5日 - 1943年7月22日同艦と共に戦死
1943年7月22日、ブイン輸送作戦従事中に、ブーゲンビル島沖で米軍機の爆撃を受け沈没
   秋津洲       飛行艇母艦
1.黛治夫 水上機母艦:秋津洲(あきつしま)1942年4月29日 -
2.高尾儀六 水上機母艦:秋津洲(あきつしま)1942年12月3日 -
3.藤牧美徳 水上機母艦:秋津洲(あきつしま)1943年8月26日 -
1944年9月、フィリピンのコロン湾で米空母艦載機の攻撃を受け沈没した。
    迅鯨        潜水母艦
20.佐藤四郎 潜水母艦:迅鯨(じんげい)1940年10月19日-
21.大倉留三郎 潜水母艦:迅鯨(じんげい)1942年4月20日 -
22.佐藤敬三 潜水母艦:迅鯨(じんげい)1943年9月8日 -
23.大山豊次郎 潜水母艦:迅鯨(じんげい)1944年2月5日 -
沖縄本島西の瀬底島まで曳航されたが19年10月10日にアメリカ第38任務部隊による空襲を受け沈没
    長鯨
18.長井満 潜水母艦:長鯨(ちょうげい)1941年10月15日 - 航空母艦「隼鷹」艦長、海軍少将に昇進
19.小田為清 潜水母艦:長鯨(ちょうげい)1942年4月5日 -
20.貴島盛次 潜水母艦:長鯨(ちょうげい)1943年9月17日 -
21.寺岡正雄 水母艦:長鯨(ちょうげい)1943年12月20日 -
22.溝畠定一 潜水母艦:長鯨(ちょうげい)1944年7月27日-
昭和20年7月30日 敵機の攻撃を受け中破、舞鶴で終戦を迎える
  報国丸             特設巡洋艦
藍原有孝 報国丸(ほうこくまる):1941年9月20日 - 1942年8月25日
今里博 報国丸(ほうこくまる):1942年8月25日 - 11月11日戦死    海軍少将
1942年11月11日スンダ海峡を抜けインド洋で掃海艇ベンガルより4インチ(102 mm)単装砲で撃沈
   愛国丸
水崎正次郎 愛国丸:1943年4月5日 - 1943年9月17日 予備
中円尾義三 愛国丸:1943年10月20日 - 1944年2月17日戦死  同日、海軍少将へ特進
昭和19年2月17日ウォレアイ環礁にて第58任務部隊の艦載機による波状攻撃を受け沈没
  護国丸
水野孝吉 護国丸(ごこくまる):1942年9月25日 - 1943年10月1日 予備
指揮官:水野孝吉 予備海軍大佐:1943年10月1日 - 1944年11月10日戦死 ※同日、海軍少将に特進。
1944年11月10日、古志岐島近海にてアメリカ潜水艦「バーブ」撃沈
  浅香丸
黒崎林蔵 浅香丸(あさかまる):1940年4月15日 - 6月24日 予備
三浦速雄 浅香丸(あさかまる):1940年12月27日 - 1941年5月1日
1944年10月12日に沈没
  能代丸
古川保 能代丸:1941年7月1日 - 8月20日
大塚幹 能代丸:1941年9月29日 - 1942年2月1日 予備
1944年9月24日に沈没 (沈没地点はマニラ港)
  清澄丸
黒崎林蔵 清澄丸:1942年7月10日 - 12月29日
槙喜久太 清澄丸):1943年8月18日 - 1943年10月1日
槙喜久太 予備海軍大佐:1943年10月1日 - 1944年2月17日戦死 ※同日、海軍少将に特進。
1944年2月17日戦没(トラック島空襲)
 
             駆遂艦
(兼)脇田喜一郎 駆逐艦:沼風(ぬまかぜ)1943年5月17日 -
兼)高橋亀四郎 駆逐艦:満潮(みちしお) 1944年5月10日 -
3.管 明次 駆逐艦:天津風1944年1月10日 -
4.佐々木高信 駆逐艦:天津風1944年3月13日 - 8月29日
5.長谷部喜蔵 駆逐艦:天津風 特務艦「早鞆」艦長兼任
3.(兼)天野重隆 駆逐艦:涼月1944年7月7日 - 7月10日
            一等潜水艦
 巡潜乙型
2.堀武雄 伊号第三二潜水艦:1942年11月1日 -
 海大III型b
19.兼)浜野元一 伊一二一型潜水艦1944年2月15日 - 務・第一九潜水隊司令
 L4型
(兼)大谷清教 呂号第六三潜水艦:1944年2月23日 -
  呂号
(兼)楢原省吾 呂号第六四潜水艦:1943年9月1日 - 内南洋方面で乗艦「伊号第6潜水艦」が戦没海軍少将に特進
(兼)大谷清教 呂号第六四潜水艦:1945年2月15日 -
(兼)安久栄太郎 呂号第六四潜水艦:1945年3月15日 - 4月12日殉職
昭和20年)4月12日広島湾において教務訓練での潜行中に、米軍が投下していた磁気機雷に触雷し沈没
             敷設艦
中野勝次 敷設艦勝力(かつりき):1940年5月2日 -
千葉次雄 敷設艦勝力(かつりき):1942年1月5日 -
寺島昌善 敷設艦勝力(かつりき):1943年11月10日 -
志和彪 敷設艦勝力(かつりき):1944年9月1日 - 9月21日戦死
1944年9月21日 マニラ南西方にて戦没
稲垣義龝 敷設艦常磐(ときわ):1940年3月1日 -
富澤不二彦 敷設艦常磐(ときわ):1940年11月15日 -
渓口豪介 敷設艦常磐(ときわ):1942年4月1日 -
千葉成男 敷設艦常磐(ときわ):1943年11月1日 -
河辺虎三 敷設艦常磐(ときわ):1944年1月15日 - (終戦)
20年8月9日 大湊において米艦載機の攻撃を受け損傷
香春克己 敷設艦厳島 (いつくしま):1940年11月15日 -
森川亦男 敷設艦厳島 (いつくしま):1941年9月12日 -
大石新一 敷設艦厳島 (いつくしま):1944年6月1日 -
1944年10月7日 スラバヤへ曳航の途中、オランダ潜水艦の雷撃を受け戦没
(兼)秋山勝三 敷設艦八重山(やえやま):1940年6月10日 -
山森亀之助 敷設艦八重山(やえやま):1940年7月20日 -
川井繁蔵 敷設艦八重山(やえやま):1940年11月1日 -
能美 実 敷設艦八重山(やえやま):1941年5月10日 -
副田久幸 敷設艦八重山(やえやま):1941年9月12日 -
堤 道三 敷設艦八重山(やえやま):1943年5月7日 -
1944年9月24日 ミンドロ島南端で敵機の攻撃を受け戦没
(兼)高橋一松 敷設艦沖島(おきのしま):1940年3月22日 -
小畑長左衛門 敷設艦沖島(おきのしま):1940年4月15日 -
小豆沢成 敷設艦沖島(おきのしま):1940年10月15日 -
能美 実 敷設艦沖島(おきのしま):1941年9月12日 -
1942年5月11日にクインカロラ沖でアメリカ潜水艦の雷撃を受け左舷に魚雷2本が命中
稲垣義龝 敷設艦津軽(つがる):1941年9月10日 -
高橋一松 敷設艦津軽(つがる):1942年11月30日 -
中津成基 敷設艦津軽(つがる):1943年9月20日 - 1944年6月29日戦死
1944年6月29日 モロタイ水道にて米潜水艦「ダーター」の雷撃を受け戦没
             急設網艦
和田純久 敷設艦初鷹(はつたか):1940年10月15日 -
土井申二 敷設艦初鷹(はつたか):1942年12月22日 -
藤村白鷹 敷設艦蒼鷹(あおたか):1940年6月30日 -
能美 実 敷設艦蒼鷹(あおたか):1940年11月15日 -
上田光治 敷設艦若鷹(わかたか):1941年11月30日 -
斎藤泰蔵 敷設艦若鷹(わかたか):1942年11月30日 -
             給油艦
杉本道雄 隠戸(おんど):1941年11月1日 -
松良考行 隠戸(おんど):1942年9月20日 -
池内正行 隠戸(おんど):1942年12月26日 -
辻田正一 隠戸(おんど):1943年10月15日 -
昭和19年)11月13日にマニラ湾でアメリカ第38任務部隊の艦載機による空襲を受け沈没
松良考行 早鞆(はやとも):1940年10月15日 -
中尾八郎 早鞆(はやとも):1942年5月15日 -
長谷部喜蔵 早鞆(はやとも):1943年8月17日 -
イギリス海軍に接収された後、1946年(昭和21年)に海没処分
西岡茂泰 鳴戸(なると):1941年7月28日 -
瀬戸山安秀 鳴戸(なると):1943年5月7日 - 1943年10月13日戦死
岡野慶三郎 鳴戸(なると):1943年11月1日 -
昭和19年)1月14日の空襲により大破擱座
金桝義夫 風早:1943年3月31日 - 10月10日
昭和18年)にトラック沖で戦没
1.宮田栄造 針尾(はりお):1944年12月1日-
昭和20年3月3日,?瑯湾口にて二度触雷して沈没
1.新美和貴 洲埼(すのさき):1943年5月15日 -
2.島津信夫 洲埼(すのさき):1943年11月4日 -
3.東郷二郎 洲埼(すのさき):1943年11月15日 -
1944年10月4日アメリカ第38任務部隊艦載機の爆撃を受けて擱座放棄
1.吉田利喜蔵 高崎(たかさき):1943年9月2日-
1944年6月5日アメリカ潜水艦「パファー」 の攻撃により沈没
大橋富士郎 千歳海軍航空隊(第七〇三海軍航空隊)司令官:昭和16年9月15日 - 昭和18年3月15日解隊
藤吉直四郎 木更津海軍航空隊(第七〇七海軍航空隊):昭和17年4月1日 -
 
 
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