山本 五十六

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海兵( )・海大乙種( )甲種 新潟 |
明治38年日露戦争日本海海戦にて戦傷 |
大正4年) 牧野忠篤子爵の口添え山本家を相続 |
大正8年 米国駐在、ハーバード大学に留学 |
大正12年 任海軍大佐 |
大正14年 米国在勤帝国大使館附武官 |
昭和4年 任海軍少将 |
昭和8年)10月 第一航空戦隊司令官 |
昭和9年 任海軍中将 |
昭和11年- 永野修身海相に引き抜かれ海軍次官 |
昭和14年)8月 - 連合艦隊司令長官 |
昭和15年)11月 - 任海軍大将 |
昭和16年太平洋戦争開戦。真珠湾攻撃の発案 |
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昭和18年4月18日 - ブーゲンビル島上空で、乗機が撃墜され戦死(海軍甲事件)。 |
第26、27代連合艦隊司令長官、真珠湾攻撃とミッドウェー海戦での総指揮
海外でも太平洋戦争の日本を代表する提督、同級生に塩沢幸一、吉田善吾、嶋田繁太郎、堀悌吉
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昭和8年)10月に第一航空戦隊司令官となり、空母「赤城」(塚原二四三艦長)に座乗した山本と永野の仲が
しっくりいかない事は、新聞記者達の間では周知の事実だったという、山本は日独伊三国軍事同盟
米内海軍大臣、海軍省軍務局の井上成美らとともに最後まで反対した人物であるこの事から
海軍条約派三羽鴉(海軍左派)とも言われているが、米内は山本が暗殺されることを恐れ、
連合艦隊司令長官。軍艦長門の中へ避難させる人事を行った。
日本海軍は総力をあげてミッドウェー作戦を発動。近藤信竹第二艦隊長官、上成美第四艦隊長官、
草鹿龍之介機動部隊参謀長、山口多聞第二航空戦隊司令官など多くの高級将校が作戦の再考や延期を
求めていたが山本や黒島亀人ら連合艦隊司令部が聞き入れることはなかった
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