日本帝国海軍中尉以下総覧
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海軍中尉


豊田 穣 海兵(68期)・第36期飛行学生 岐阜 最終階級は海軍中尉
昭和17年6月、第36期飛行学生を卒業、艦上爆撃機操縦員となる.。12月、空母飛鷹所属となる
昭和18年4月、い号作戦に参加のため、ラバウルに移動。7日、九九艦爆を操縦しガダルカナル島
飛行場攻撃の際、ソロモン方面で撃墜され、アメリカ軍の捕虜になる。
アメリカ合衆国本土移送後、捕虜収容所を転々とする
昭和21年)3月、浦賀に上陸し、帰国する。

池田 清 海兵(73期)   鹿児島県
重巡洋艦「摩耶」乗組みとなり、砲術士としてレイテ沖海戦に参加。
摩耶が撃沈された後、戦艦「武蔵」に救助されるが、武蔵も撃沈され九死に一生を得る
の後海軍潜水学校普通科を経て「伊四七潜」砲術長兼通信長となり、回天「多聞隊」を乗せて出撃した。
昭和27年)東京大学法学部政治学科を卒業。専攻は「政治外交史」。

東中 光雄 海兵(73期)奈良
和20年)大日本帝国海軍中尉として、零式艦上戦闘機による特別攻撃隊の隊長で終戦を迎える。

北条 浩 海兵(第73期)  北条釐三郎の長男
元参議院議員(1期) 創価学会元会長(第4代)

前田 優 海兵第73期 兵庫    「鳳翔」乗組
1981年2月:第14代海上幕僚長に就任

酒巻 和男 徳島県 海軍兵学校(第68期生)同期生に豊田穣、広尾彰がいる 海軍少尉
帝国海軍によるハワイ・オアフ島のアメリカ軍基地に対する真珠湾攻撃に参戦。
昭和16年)12月8日に特殊潜航艇(甲標的)搭乗員として湾内に奇襲攻撃を行なう。しかし、アメリカ海軍の
駆逐艦の攻撃や羅針儀の故障などにより潜水艇が座礁する。その後、潜航艇の鹵獲を防ぐ為に
時限爆弾を仕掛け、同乗していた稲垣清二等兵曹と共に脱出するが、漂流中に稲垣ともはぐれ
(稲垣はその後行方不明)、自身も失神状態で海岸に漂着していた所を発見され太平洋戦争での
最初の日本人捕虜となる。この時真珠湾攻撃で使用された小型潜航艇は全部で5艇(乗員10名)であったが、
和男以外は稲垣を含め全員戦死扱いとされ、大本営は戦死した9名を「九軍神」として発表した。
捕虜収容所では自決を試みるも思いとどまり、また同じく自決しようとした日本人捕虜の説得
にもあたり多くの日本人を救っている。通訳としても働き、捕虜としての態度が立派であったため
アメリカ軍関係者も彼を賞賛した。その後ハワイの捕虜収容所からアメリカ本土の収容所に移され、
終戦後の1946年(昭和21年)に復員を果たした。

坂井 三郎 佐賀県  昭和8年)5月1日、四等水兵として佐世保海兵団へ入団する
昭和12年)3月10日に霞ヶ浦航空隊に入隊、第38期操縦練習生を首席で卒業
昭和14年)5月1日、二等航空兵曹に昇進
昭和16年)12月8日の開戦時はフィリピンに駐留するアメリカ陸軍航空隊と戦いこの方面の制圧後はラバウル、
ラエに移動、ニューギニアやソロモンに展開する連合国軍(米豪軍)と激戦を繰り広げた。
後にアメリカ大統領となるリンドン・B・ジョンソン(当時下院議員)が同乗していたB-26爆撃機を
撃墜しかけるという逸話を残している
坂井はソロモン航空戦でもっとも多く撃墜していて34機撃墜をしている。
硫黄島から帰還後の1944年(昭和19年)8月少尉に昇進
終戦までに大小多数の撃墜スコアを残す日本のエース・パイロットとして知られる。
戦後に海軍時代の経験を綴った著書『大空のサムライ』は世界的ベストセラー。

黒鳥 四朗 東京高等農林学校  1943年9月10日、土浦航空隊へ飛行予備学生
戦闘機搭乗員(偵察員)。夜間戦闘機(丙戦)月光に搭乗し、倉本十三飛曹長とのペアで
土防空戦を戦い、B-29を6機撃墜した。最終階級は中尉。

赤松 貞明 高知  昭和5年)5月、第17期操縦練習生、1932年(昭和7年)3月、同修了
太平洋戦争開戦時は、台湾の高雄基地に開隊の第三航空隊に所属
昭和17年)5月、内地に戻り、大村航空隊に勤務
昭和19年)1月、再び内地に戻り、厚木基地の第302航空隊に配属
九六艦戦、零戦、雷電の撃墜王。

赤松勇二 宮崎:1941年12月8日の真珠湾攻撃では雷撃隊に所属し、空母加賀から艦上攻撃機で飛び立ち攻撃に参加
沖縄での航空戦に参加し、鹿児島県の串良基地で終戦を迎えた

宅島 徳光 福岡  、慶應義塾大学法学部政治科  昭和18年(1943年)9月に海軍航空隊に志願し、
第13期海軍飛行科予備学生、昭和18年(1944年)5月に海軍少尉に任官
沖縄特攻作戦の開始により、昭和20年(1945年)4月9日に松島海軍航空基地を一式陸上攻撃機の
陸攻機長として出撃し、7機と共に宮城県牡鹿郡金崋山沖にて任務中遭難死した。24歳歿。
松島航空隊機長

角田 和男 千葉 昭和9年)6月に予科練5期生として横須賀空に入隊
昭和17年)4月1日、海軍飛行兵曹長に昇任 昭和19年5月に海軍少尉任官
昭和20年5月には海軍中尉に任官
戦争中の単独撃墜数は13機、共同撃墜数を含めると約100機になる

根本 正良 第十三期海軍飛行予備学生出身
一式陸上攻撃機の機長として比島作戦、硫黄島作戦、沖縄作戦等に転戦。
第2次世界大戦中 最後の硫黄島空輸往復行(物資と傷病兵の輸送)。

原田 要 長野 昭和8年、一般志願兵として海軍に入隊し、駆逐艦「潮」乗組みとなった。
(昭和10年)操縦練習生  昭和12年)に操縦練習生35期を首席で卒業
昭和16年)年9月、蒼龍の乗組員となり、真珠湾攻撃作戦では機動部隊上空直衛任務に就いた
昭和17年)6月5日から7日に発生したミッドウェー海戦では、戦闘機隊小隊長

藤田 信雄
藤田は1932年(昭和7年)に日本帝国海軍に入隊し、昭和8年)にパイロットとなった
1942年4月21日、軍令部に呼び出された藤田は、その場で首脳部より単独によるオレゴン山中への
空爆命令を拝する。藤田の操縦の腕を買われたものだった。
1942年9月のオレゴン州に対する2度にわたる攻撃は、アメリカ合衆国本土に対する史上唯一の
航空機による爆撃である。 終戦後、藤田は海軍特務中尉に昇進した

帆足 正音
ほあし まさと
大分県 海軍航空予備学生となり霞ヶ浦海軍航空隊
昭和16年)4月、訓練終了と共に予備少尉に任官
マレー沖海戦において、英国艦隊を発見し攻撃隊を誘導、戦果確認を行った。
17年3月、台湾へ向かう途中消息を絶ち戦死認定を受けた。

武藤 金義
愛知県 昭和10年)6月1日呉海兵団に入団し駆逐艦浦波に乗艦
第32期操縦練習生として採用、1936年(昭和11年)7月卒業、太平洋戦争開戦時は第三航空隊に所属
1945年6月末第三四三航空隊戦闘301飛行隊(新撰組)に異動する。
1945年7月24日343空は10倍以上の米機動部隊艦載機を迎撃するため大村から出撃
この戦闘で武藤は未帰還となった。詳細は不明であった。中尉に昇進

海軍少尉

樫村 寛一


香川県  呉海兵団入団。第二十四期操縦練習生を卒業
1937年12月9日、九六式艦上戦闘機で南昌攻撃の際、中国軍機と接触して左翼の1/3以上を
失ったが、600km以上操縦を続けて南京基地に帰還した。。「片翼帰還の英雄」として知られる。
太平洋戦争開戦時は横須賀海軍航空隊所属。ドーリットル空襲の際には邀撃にあがりB-2
を視認したが、事前情報からこれを味方機と誤認して見逃した
1942年12月、五八二航空隊に配属となりラバウルに進出した。
 ラバウルでの樫村は戦闘機隊隊員に対し鉄拳を含む厳しい姿勢で指導訓練しており
隊員たちからは煙たがられていた
1943年3月6日にルッセル島上空でF4Fと交戦し戦死した。存命時の階級は海軍飛行兵曹長、
戦死認定後海軍少尉に進級した。

岩本 徹三

昭和9年)に呉海兵団に四等航空兵として入団した
航空科として半年後第三一期普通科整備術練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊
昭和10年)8月20日付けで航空母艦龍驤乗組み。次いで操縦員を志望し、難関を越えて入団から
二年後、1936年(昭和11年)4月28日付けで第三四期操縦練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊し、
昭和11年)12月26日付けで卒業して佐伯海軍航空隊勤務、翌年7月に大村航空隊勤務となった。
太平洋戦争開戦時は、第一航空艦隊所属の航空母艦「瑞鶴」戦闘機隊員で、真珠湾攻撃
時は艦隊の上空直衛任務に就き戦果はなかったが、その後母艦と共にインド洋作戦で4月5日
機動部隊に接触してきたコンソリーデーテッドPBY飛行艇を撃墜し太平洋戦争における岩本の
初撃墜の戦果を得た。その後珊瑚海海戦と転戦する。
1943年4月には飛曹長に任官し分隊士となる  1944年11月1日 - 海軍少尉
日本海軍のエース・パイロット。「最強の零戦パイロット」[要出典]と謳われた名操縦士である
日中戦争から太平洋戦争終戦までほぼ最前線で戦い続け、撃墜数202機を誇る。

西澤 廣義



長野県:存命時の階級は飛曹長。戦死後、「全軍布告二階級特進」の栄に浴し中尉に任ぜられた。
昭和11年)6月1日、横須賀航空隊の乙種飛行予科練習生第7期
昭和16年)10月1日千歳海軍航空隊に配属される。日米開戦に備え訓練を受けていた
西澤は後1941年サイパンに赴任するが出撃の機会を得ず、昭和17年)2月、トラック島からラバウルに進出して20歳にして初陣を飾る。
4月1日、台南海軍航空隊(台南空)に配属される。坂井三郎は西澤と太田敏夫とともに
台南空の三羽烏と呼ばれたと主張している。
昭和19年九月下旬、千葉県茂原基地の角田和男飛曹長の部屋に南東方面の激戦を戦った
戦闘機搭乗員である西澤、岩本徹三、長田延義、尾関行治、斎藤三朗の撃墜王たちで談話をしている
昭和19年10月26日新しい飛行機受領のためマバラカット基地へ輸送機に便乗して移動する。
その途中、輸送機がミンドロ島北端上空に達したところで、ハロルド・P・ニュウェル中尉の
グラマンF6Fに攻撃を受けて撃墜され、戦死した。
美男子であり身長は180センチ以上あった

大田正一 山口県  呉海兵団を経て航空機偵察員となる。
1944年6月、第一〇八一海軍航空隊特務少尉の時に「人間爆弾の試案」を1944年5月に司令菅原英雄中佐
に対して上申する。その後、菅原中佐の紹介で航空技術廠長和田操中将に上申され、和田中将は
航空本部伊東裕満中佐へこれを提案する。大田は桜花専門部隊神雷部隊の隊付となる
7月ごろ桜花の使用が中止されると方々に再開するように説いて回ったが終戦まで再開されることはなかった
終戦直後の1945年8月18日、茨城県の神ノ池基地において零式練習戦闘機に突然乗り込んで離陸、
そのまま行方不明となった。基地には遺書が残されており自殺と推定されたため、9月5日に死亡認定
大田の戦後追跡が行われた。取材によると、大田は基地から離れた金華山沖の洋上に着水し、
漁船に救助され生還。行方不明者として名乗り出ることもなく、戦後の混乱に乗じて別人を装い
新しい戸籍を作成、家庭を持ち二人の子どもをもうけたとされる。

佐々木 直吉



島根県 昭和7年)呉海兵団に入団した。 駆逐艦「薄雲」、「蔦」、「磯波」乗組みの艦隊勤務
潜水学校、水雷学校高等科を修了している。戦技優等賞を2度受賞した優秀な下士官であった
特殊潜航艇(以下「特潜」 )搭乗員に選抜され、下士官搭乗員の最先任者であった佐々木は、
訓練中士官搭乗員の最先任者である岩佐直治大尉の補佐役的存在であった
昭和16年)10月13日、特潜の真珠湾攻撃参加が正式決定され、佐々木は岩佐艇の艇附として
特別攻撃隊員に選抜された
12月7日午前1時16分(以下現地時間)、真珠湾の湾口171度、9海里の地点から艇長・岩佐大尉とともに「伊二二潜水艦」から出撃した。
佐々木・岩佐艇は真珠湾港内まで潜入し、雷撃を行った唯一の艇と推測されており、
真珠湾攻撃数日後に米海軍が引き上げた特潜艇内から大尉の階級章が発見されている
なお佐々木、岩佐ら特潜搭乗員4名は米海軍によって埋葬されたとする説があるが、墓は未発見
二階級特進により最終階級は海軍特務少尉。 九軍神の一人

横山薫範
 
しげのり
鳥取県 (昭和9年)6月呉海兵団に入団。同期生に同じく九軍神とされた稲垣清がいる。
海軍水兵としての基礎訓練を受け、戦艦「扶桑」乗組となる。水雷学校及び潜水学校を卒業。
横山は成績優秀で、水雷学校は優等卒業であり、懐中時計を授与された。進級は速く
4年目に下士官、7年目に一等兵曹に昇進している。
昭和16年)10月13日、特潜の真珠湾攻撃参加が正式決定し、さらに難しい条件が重なる
特別攻撃隊員に選ばれる。12月7日午前2時15分(以下、現地時間)、真珠湾の湾口150度、12.6海里の地点から艇長・古野繁実中尉とともに伊一八潜水艦から出撃。
米海軍掃海艇に発見され、飛行艇が発見位置に発炎筒を投下。15分後駆逐艦「ウォード」は
砲撃を開始し、続けて爆雷攻撃により特潜を撃沈した。この時撃沈された特潜が横山・古野艇と
推測されている
二階級特進により最終階級は海軍特務少尉。 九軍神の一人 

荻谷 信男

茨城  (昭和15年)1月 48期操縦練習生を卒業
昭和18年)3月 新編成の281空に所属、北千島へ進出、北方方面守備
昭和19年2月13日 ラバウル上空迎撃戦で自爆戦死。戦死時は飛曹長、最終階級は少尉

杉田 庄一
新潟県  昭和15年)、舞鶴海兵団に入団  昭和17年)4月木更津基地の第6航空隊に配属
昭和18年)4月18日杉田は前線視察のため訪れていた山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗する
一式陸上攻撃機の護衛戦闘機6機の1機(1小隊3番機)に選ばれる。
鹿屋基地に移った後の4月15日敵機接近の報を受けて源田実司令は出撃命令を発する。
敵機グラマンF6Fヘルキャット数機が上空へ来襲、杉田と3番機宮沢豊美が滑走しており、発進中の杉田に敵が群がり撃墜され、黒煙を吐きながら基地滑走路の端に墜落炎上、戦死した
源田は杉田の2階級特進を具申し、単独撃墜70機、協同撃墜40機の功績で少尉に昇格した
撃墜数は120機以上だったとも言われる

中瀬 正幸
徳島 昭和9年) 「乙種飛行予科練習生」となり横須賀海軍航空隊に入隊
昭和16年)12月8日 太平洋戦争開戦。フィリピン島攻撃に参加
昭和17年)2月9日 セレベス島マカッサル付近で装甲車を銃撃中に被弾して戦死
(2階級特進により飛行特務少尉)  エース・パイロットと呼ばれる撃墜王

本田 稔 熊本県 昭和14年)10月に予科練 (甲飛5期)合格  昭和17年)4月、鹿屋空に配属
昭和19年4月に第361航空隊戦闘第407飛行隊
本田は343空時代に2度の原爆投下を目撃した。広島の原爆投下を空中で目撃しその衝撃波で
500m落下を経験した。長崎の原爆の日、登山訓練途中の山中で原爆投下を目撃する
撃墜17機が記録されているが本田によればラバウル時代だけでも43機を撃墜したという。

宮崎 勇 広島県 昭和11年)6月香川県立丸亀中学(現:丸亀高校)を3年で中退し、佐世保海兵団に入団
昭和17年)10月、二五二空編成   昭和18年)2月、252空は内南洋方面への転進
1944年12月第三四三海軍航空隊(剣部隊)戦闘301飛行隊(新撰組)へ転属
総撃墜機数は13機以上。宮崎によれば共同撃墜を含め120〜130機ほど。


海軍下士官


片山 義雄

岡山 昭和11年1月呉海兵団入団。海軍水兵、潜水学校及び水雷学校高等科
昭和16年)10月13日、特潜の真珠湾攻撃参加が正式決定し、狭い湾口から軍港に侵入する難しい
条件が重なる特別攻撃隊員に選ばれる。
12月7日午前2時57分(以下、現地時間)、真珠湾の湾口151度、5.3海里の地点から
艇長・広尾彰少尉とともに「伊二〇潜水艦]」から出撃。
駆逐艦が爆雷攻撃を実施。別の駆逐艦がソナーで探知した目標に対し、爆雷攻撃を実施している。
この攻撃を受けた特潜が片山・広尾艇であると推定されている
二階級特進により最終階級は海軍兵曹長  九軍神の一人

稲垣 清

三重 1934年6月に呉海兵団に入団し、訓練修了後に駆逐艦「早苗」乗組。
駆逐艦「呉竹」に着任。その後、海軍水雷学校高等科水雷術練習生課程を修了
昭和16年)11月18日にハワイ真珠湾への特別攻撃隊員として潜水艦(伊-24)に乗り込み
倉橋島を出撃する。
同年12月8日、特殊潜航艇「通称:甲標的」に艇長である酒巻和男少尉と共に真珠湾攻撃へ出撃。
しかし出撃時に潜航艇のジャイロ(羅針儀)の故障に気付くが強行出撃する。
湾内進撃中、米駆逐艦「ヘルム」に発見され攻撃を受ける。
二階級特進により海軍兵曹長となる     九軍神の一人

上田 定 さだむ

広島県 ,呉海兵団に入団し、水雷学校普通科、舞鶴防備隊潜水学校、水雷学校高等科を修卒業。
12月7日午前0時42分(以下、現地時間)、真珠湾の湾口212度、7海里の地点から
艇長・横山正治中尉とともに「伊一六潜水艦」から出撃した。特別攻撃隊5隻の先陣である。
午前10時4分、上田・横山は真珠湾口で「セントルイス」を雷撃したが、命中はしていない
1世紀に入り上田・横山艇と推測される特潜が真珠湾外で発見された
二階級特進により最終階級は海軍兵曹長
                        九軍神の一人

九軍神 太平洋戦争(大東亜戦争)中のハワイ海戦(真珠湾攻撃)に
おいて、甲標的に乗組み、甲標的に乗組み、未帰還となった
(戦死後に海軍中佐)岩佐直治ら以下の9名が
「特別攻撃隊の偉勳」として軍神とされた
岩佐直治 中佐 佐々木直吉 特務少尉
横山正治 少佐 上田定 兵曹長
古野繁実 少佐 横山薫範 特務少尉
広尾彰 大尉 片山義雄 兵曹長
酒巻和男少尉   稲垣清 兵曹長

*酒巻少尉はアメリカ捕虜となる

伊藤 清 新潟県 昭和14年)6月1日横須賀海兵団に入隊
昭和15年)11月、海軍飛行予科練習生丙2期生として土浦海軍航空隊に入隊した。
昭和16年)11月、台湾高雄で開隊したばかりの第三航空隊に配属

太田 敏夫
長崎県  昭和10年)佐世保海兵団に入団  昭和14年)操縦練習生課程修了
昭和17年8月7日、ガダルカナル島攻撃での戦闘ではF4Fワイルドキャット4機を撃墜した。
           10月21日、ガダルカナル島への爆撃機護衛任務に大野竹好中尉の2番機として出撃、
           F4Fと交戦し敵機 1機を撃墜するも、他のF4Fに撃墜され戦死した。
日本海軍の戦闘機搭乗員。総撃墜数は34機。  海軍飛行兵曹長

笠井 智一 兵庫県  昭和17年)4月1日、甲飛10期生として土浦空に入隊
第32期飛行練習生として霞ヶ浦空千歳分遣隊で初歩飛行訓練を受ける。
4月17日ごろ鹿屋基地から10メートルほど離陸した笠井はエンジントラブルで小山に激突し右足を
骨折する。霧島の海軍病院に半月ほど入院した。8月15日終戦 最終階級は海軍上等飛行兵曹。

小町 定
こまち さだむ
石川県  昭和13年) 志願兵として呉海兵団入団 昭和15年)6月 第49期操縦練習生(戦闘機専修)
昭和16年)5月 空母「翔鶴」乗組、12月真珠湾攻撃に参加
昭和17年)4月 セイロン沖海戦・5月珊瑚海海戦・8月第二次ソロモン海戦・10月南太平洋海戦に参加
昭和18年)12月 第二〇四海軍航空隊に転じ、ラバウルに赴任。
昭和19年)1月 第二五三海軍航空隊  海軍飛行兵曹長に進級
昭和20年8月18日 関東上空で帝国海軍航空隊の最後の空戦に参加。
2012年(平成24年)7月15日 死去

羽藤 一志
うとう かずし
愛媛県  昭和13年)6月、海軍飛行予科練習生乙飛9期生
昭和16年)11月、三等飛行兵曹に任官される。
1942年4月1日付で台南航空隊(台南空)に編入され、4月16日にラバウルに進出
羽藤は9月2日、5日、10日とガダルカナル攻撃に出撃
最期となった9月13日はガダルカナル飛行場強行偵察の二式陸上偵察機2機を護衛、
稲野菊一大尉指揮の台南空零戦9機の第三小隊三番機という、奇襲を受けた場合、最も敵機に狙わ
われやすいとされる編隊最後尾で出撃した。
9月13日グラマンF4F戦闘機20数機により奇襲を受け、編隊最後尾の羽藤、そして第二小隊の全3機
が撃墜される

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