阿部 俊雄 |
海軍少将 愛媛県出身海軍兵学校46期 |
阿部弘毅中将は兄 |
第八駆逐隊司令として太平洋戦争を迎え、バリ島沖海戦では駆逐艦4隻で |
優勢な連合国艦隊を撃退、 |
第十駆逐隊司令:ミッドウェー海戦に参戦。連合艦隊旗艦:軽巡洋艦「大淀」艦長を経て |
昭和19年)10月1日に「信濃」艦長に就任。同年11月29日、アメリカ海軍の
潜水艦「アーチャーフィッシュ」の攻撃を受け信濃は沈没し阿部は退艦せず戦死した。 |
一階級特進し少将に進級。享年48 |
朝倉 豊次 |
海軍少将 富山県出身大正5年)11月、海軍兵学校(44期) |
昭和5年)11月、海軍大学校(甲種28期) |
昭和13年、海軍大佐に進級し横須賀鎮守府付 |
昭和16年)8月、「高雄」艦長に着任し太平洋戦争を迎えた。 |
昭和18年)2月、艦政本部出仕となり、艦政本部総務部第2課長、兼総務部臨時魚雷艇班班長、 |
連合艦隊司令部付を歴任し、同年12月、「武蔵」艦長に就任。 |
昭和19年、海軍少将に進級。同年8月、第1南遣艦隊司令部付に転じ、
第1南遣艦隊参謀長兼補給長 |
第13航空艦隊参謀長兼第1南遣艦隊参謀長を経て、
第十方面艦隊参謀長兼第13航空艦隊参謀長 |
兼第1南遣艦隊参謀長として終戦を迎えた。 |
今里 博 |
海軍少将。 長崎県出身 |
大正6年)11月、海軍兵学校(45期) |
昭和4年)11月、海軍少佐に昇進 |
潜水学校で甲種 |
昭和10年)11月、海軍中佐に進級 |
昭和15年)11月、海軍大佐に昇進 |
昭和16年)8月、第1潜水隊司令となり太平洋戦争を迎えた。 |
昭和17年2月第2潜水隊司令、連合艦隊司令部付、特設巡洋艦「報国丸」艦長 |
10月イギリス海軍(植民地海軍)掃海艇「ベンガル」との交戦により「報国丸」が炎上沈没し戦死 |
海軍少将に特進した。 |
井原美岐雄
みきお |
最終階級は海軍少将。 福岡市 |
海軍兵学校40期卒業 |
大正15年(1926年) - 桃型駆逐艦「桃」駆逐艦長 |
昭和5年(1930年) - 睦月型駆逐艦「如月」駆逐艦長 |
昭和7年(1932年) - 睦月型駆逐艦「睦月」駆逐艦長・海軍中佐 |
昭和10年(1935年) - 第22駆逐隊司令・海軍大佐 |
昭和15年(1940年) - 佐伯防備隊司令 |
昭和17年(1942年) - 廈門警備隊司令 |
11月25日 - 海軍少将 |
石川信吾
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最終階級は海軍少将 山口県出身 |
海軍兵学校(42期) |
昭和2年)11月25日 - 海軍大学校(甲種25期) |
昭和11年11月2日 給油艦「知床」特務艦長 |
昭和11年12月1日 - 海軍大佐 |
昭和17年6月10日 南西方面艦隊参謀副長 |
昭和17年11月1日 - 海軍少将 |
昭和18年1月25日 第23航空戦隊司令官 |
昭和19年)11月15日 - 海軍省運輸本部長兼大本営海軍戦力補給部長 |
昭和39年)12月17日 - 死去 |
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入佐 俊家
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鹿児島県出身 |
1924年7月、海軍兵学校(52期)を卒業 |
日中戦争時から陸攻隊を率いて多大な戦果をあげ、
その技量と用兵から「陸攻の神様」「海軍の至宝」と言われた。 |
鹿屋空飛行長で太平洋戦争開戦を迎え、南方進攻作戦に活躍 |
昭和19年3月、再建された第一機動艦隊の601空司令兼航空母艦「大鳳」飛行長として |
小沢治三郎長官たっての希望で異例の人事 新鋭空母大鳳に乗り組むことになる。 |
あ号作戦、マリアナ沖海戦に臨むが、6月19日、大鳳爆沈の時に艦と運命を共にした。 |
戦死後、その功績に対し、二階級特進、海軍少将に任ぜられた |
上野 正雄 |
東京 北白川宮能久親王の第6男 |
海軍兵学校(40期)。海軍水雷学校高等科 |
昭和12年)12月、海軍中佐に進級し「鳴戸」副長に就任 |
(昭和13年)11月、海軍大佐に進級。同年12月、「北上」艦長に就任 |
昭和18年)3月、横須賀鎮守府付となり、第9特別根拠地隊付、第11潜水艦基地隊司令 |
兼第9警備隊司令、横須賀鎮守府付を歴任し、同年11月、海軍少将に進級 |
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待命・予備役編入 |
大林 末雄 |
最終階級は海軍少将。愛知県名古屋市出身 大正4年)12月16日- 海軍兵学校卒業 |
大正11年)11月30日- 海軍砲術学校高等科修了 昭和12年)12月1日- 任 海軍大佐 |
昭和15年)10月15日- 館山海軍航空隊司令 昭和16年)1月25日- 博多海軍航空隊司令 |
航空母艦「瑞鳳」艦長 |
昭和17年)12月5日- 聯合艦隊司令部附 |
昭和17年12月10日- 戦艦「日向」艦長 |
昭和18年)5月1日- 任 海軍少将 |
第51航空戦隊司令官 昭和19年)2月1日- 第3航空戦隊司令官兼 第653海軍航空隊司令 |
第1機動艦隊参謀長 兼第3艦隊参謀長 第一航空戦隊司令官 |
(昭和20年)2月10日- 第1特攻戦隊司令官 昭和58年)4月13日- 死去 享年88 |
小川 貫爾
かんじ |
最終階級は海軍少将。広島県広島市出身 |
大正4年)12月16日- 海軍兵学校卒業 |
大正15年)11月25日- 海軍大学校甲種卒業 昭和11年-任 海軍大佐・海軍軍令部第3部第5課長 |
昭和18年)12月1日- 海軍省軍務局御用掛 |
昭和19年)3月7日- 海軍大学校教頭 兼 研究部長 兼 総力戦研究所長 |
昭和20年)1月20日- 支那方面艦隊司令部附 |
支那方面艦隊参謀副長 兼 在中国国民政府日本大使館附海軍駐在武官 兼 南京在勤武官 |
岡田 次作
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最終階級は海軍少将。 石川県出身 |
大正3年)12月、海軍兵学校(第42期) |
大正15年)12月、海軍少佐に昇進 昭和7年「加賀」飛行長に就任。、海軍中佐に進級 |
昭和11年)12月、海軍大佐に昇進 |
昭和16年)9月、空母「加賀」艦長となり太平洋戦争を迎えた。 |
真珠湾攻撃などに参加後、ミッドウェー海戦で戦死し、海軍少将に特進した。 |
岡田は海軍爆撃術の開発にあたった人物で、爆撃の名手として知られた人物であった |
大野 竹二
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海軍少将。 東京出身 |
1916年11月、海兵(44期)を卒業 |
兄 伊集院松治(海軍中将) |
1928年12月、海大(甲種26期)を卒業 |
大野義方海軍大佐の養子となる |
1938年11月、海軍大佐に進級 |
太平洋戦争には「木曾」艦長として出征し、アリューシャン列島攻略作戦などに参加 |
「鈴谷」「大和」の各艦長などを歴任し、1943年11月に海軍少将に進級 |
軍令部第3部長などを経て、海軍省人事局長として終戦を迎えた |
岡田 為次
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海軍少将 奈良県出身 |
大正6年)11月、海兵(45期)を卒業 |
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昭和5年)11月、海大(甲種28期) |
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昭和13年)11月、海軍大佐に進級 |
昭和16年)9月、「利根」艦長に発令され開戦を迎え、真珠湾攻撃、インド洋作戦に参加。 |
昭和17年7月に「隼鷹」艦長に着任、南太平洋海戦に参加で損傷した「翔鶴」艦長転任 |
昭和18年)11月、海軍少将に進級。 |
軍令部出仕、第4南遣艦隊参謀長、兼補給長、兼第104建設部長、第25根拠地隊司令官 |
軍令部出仕などを歴任。呉鎮守府参謀副長として終戦を迎えた。 |
戦犯容疑により死刑判決を受け、1947年(昭和22年)9月、ラバウルで刑が執行された。 |
小川 莚喜
のぶき
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海軍少将 高知県高岡郡 |
大正7年11月、海軍兵(46期) |
海軍水雷学校高等科 |
第5駆逐隊司令などを歴任 |
太平洋戦争開戦当時は、第12駆逐隊司令としてマレー上陸作戦、ジャワ島上陸作戦、 |
ジャカルタ沖海戦などに参加 |
昭和17年)のミッドウェイ海戦には第8駆逐隊司令として参加。 |
昭和18年)4月に軽巡洋艦「龍田」艦長、同年11月に海上護衛総司令部が創設されると |
第二海上護衛隊運航指揮官に任命された。 |
昭和19年)2月24日、船団護衛中にトラック諸島周辺で戦死した
|
大石 保 |
海軍少将。 高知県出身 |
1920年7月、海兵(48期) |
1932年11月、海軍大学校(甲種30期)を卒業 |
太平洋戦争を第1航空艦隊首席参謀として迎え |
真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、ミッドウェイ海戦など緒戦の主要な海戦に参加 |
1942年8月25日付で「愛国丸」艦長となり11月に海軍大佐に進級する |
終戦時には横須賀突撃隊司令であった。 |
在職中の1946年2月に死去し、海軍少将に進級した。 |
鹿岡 円平
かのおか
えんぺい

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最終階級は海軍少将。福島県出身 |
1921年7月、海軍兵学校(49期) |
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1934年7月、海大(甲種32期)を首席 |
「嵯峨」艦長、軍令部第1部第2課部員、第2根拠地隊参謀、海軍省軍務局第1課局員など
歴任し東條英機首相秘書官となった。 |
1944年8月、「那智」艦長として出征した |
11月5日、マニラ湾において米空母「レキシントン」の艦載機による |
空襲を受け乗艦は沈没し、艦と運命を共にして戦死。一階級特進し海軍少将となった。 |
加来 止男
かく とめお


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最終階級は海軍少将 熊本県八代市出身 |
大正3年)12月19日- 海兵(42期) |
大正10年)11月30日- 海軍砲術学校高等科修了 |
大正15年)11月25日- 海大甲種 |
昭和7年)11月15日- 第1艦隊航空参謀 中佐 |
昭和12年12月1日-任 海軍大佐 |
昭和16年)9月5日- 航空母艦「飛龍」艦長 |
12月- ハワイ真珠湾攻撃作戦及びウェーク島攻略 |
昭和17年)1月- アンボン攻撃 ボートダーウィン攻撃 セイロン沖海戦 |
6月5日- ミッドウェー海戦 |
6月6日- 航空母艦「飛龍」沈没に拠り戦死 享年48・戦死後少将に特進 |
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神 重徳
かみ
しげのり

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最終階級は海軍少将。鹿児島県出水市出身 |
大正9年)7月16日-海兵 |
昭和8年)5月20日- 海軍大学校甲種卒業首席 12月6日- ドイツ駐在 |
昭和14年)5月1日- 第五艦隊司令部参謀 昭和16年)10月15日-任 海軍大佐 |
昭和17年 第八艦隊司令部参謀 第一次ソロモン海戦 |
昭和18年 軽巡洋艦「多摩」艦長 |
昭和19年)5月15日- 海軍省教育局第2第3課長兼務聯合艦隊司令部参謀 |
10月2日- 兼 南方軍司令部参謀 |
昭和20年)4月25日- 兼 海軍総隊司令部参謀 6月20日- 第10航空艦隊参謀長 |
9月15日- 青森県津軽海峡にて飛行機事故に因り殉職 享年45 海軍少将に特別進級 |
柿本権一郎
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最終階級は海軍少将。 京都五条 |
1913年12月、海兵(41期) |
1925年11月、海軍大学校(甲種23期 |
1935年11月、海軍大佐に進級 |
横須賀鎮守府付、「間宮」艦長、「高崎」「剣埼」の各艤装員長 |
軍令部出仕兼第4部第11課長、兼大本営通信部第12課長、軍令部課長、軍令部特務班長 |
兼第1連合通信隊司令官、大本営通信部特務班長などを勤め、 |
1941年10月に海軍少将となった |
1944年12月、予備役に編入された。 |
川井 巌
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最終階級は海軍少将。山形県山形市出身 |
大正8年)10月9日- 海軍兵学校卒業 |
昭和6年- 海大甲種 昭和11年 任海軍中佐・第2艦隊司令部砲術参謀 |
昭和17年)7月15日- 横須賀鎮守府附 9月20日- 軽巡洋艦「木曾」艦長 |
昭和18年)10月4日- 海軍軍令部出仕兼海軍省人事局第1課 |
昭和20年)4月1日- 兼第3課長 5月1日- 任 海軍少将 |
昭和47年)5月15日- 死去 享年77 |
亀井 凱夫
かめい よしお

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海軍少将 津和野藩主・亀井氏の一族 |
海兵46期 |
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昭15年)11月大佐に進級 |
翌年4月第三航空隊司令に就任し |
開戦初期、三空は台南空とともにフィリピン方面の米空軍撃破の任にあたる。 |
昭和17年)11月、空母へ改装中の「大鯨」艦長に転じる。「大鯨]は「龍鳳」と改称され |
第三艦隊に所属。亀井の在任中、「龍鳳」は一時第二航空戦隊旗艦になった |
昭和19年)3月、第一航空艦隊麾下の五二一空司令に就任。 |
陸上爆撃機96機をもって空襲などによって航空機の殆どを失った。 |
同年7月10日、マリアナ航空隊司令に転じ、7月21日にグアム島に米軍の上陸を迎える。 |
亀井は地上戦を戦い8月10日戦死した。 |
吉良俊一に続き空母への着艦を成功させ、また夜間における空母着艦を成し遂げた |
その後も航空隊や空母で飛行長等を務め、教官として源田實らを指導した。 |
香川 清登
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海軍少将。 兵庫県出身 大正7年)11月、海兵(46期) 海大航海 |
吹雪」駆逐艦長昭和5年) 12月、海軍少佐に昇進 |
昭和12年)11月、「東雲」駆逐艦長に就任 昭和11年)12月、海軍中佐に進級 |
昭和16年)10月、第1駆逐隊司令となり海軍大佐に昇進、そして太平洋戦争を迎えた。 |
昭和18年)1月、呉鎮守府付となり、翌月に第二水雷戦隊司令部付を経て
第31駆逐隊司令に就任 |
同年11月、セント・ジョージ岬沖海戦において戦死。没後、海軍少将に進級 |
鹿目 善輔 |
海軍少将 神奈川県出身 |
海軍兵学校44期 海大甲種(27期)を卒業 |
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昭和14年)11月大佐へ進級し、「天龍」艦長 |
昭和16年)6月には軍令部先任副官となり、日米開戦を迎えた。 |
昭和17年)7月、日本北方を担当する第五艦隊附となり、「多摩」艦長に就任 |
陸軍部隊をアッツ島に輸送し、1943年(昭和18年)3月27日にはアッツ島沖海戦に参戦 |
昭和19年)10月少将へ昇進。第十二航空艦隊参謀長を兼務したが終戦を迎える。 |
木梨 鷹一
たかかず

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最終階級は海軍少将。大分県臼杵市 |
大正12年7月14日-海兵 |
日本海軍を代表する潜水艦艦長である。 |
昭和4年任 海軍大尉 |
昭和12年)12月1日- 任 海軍少佐・敷設艦「沖島」航海長兼分隊長 |
昭和16年)7月1日- 伊号第62潜水艦艦長 |
昭和17年)5月20日- 伊号第162潜水艦艦長 |
任 海軍中佐 |
昭和18年)9月27日- 佐世保鎮守府附 伊号第29潜水艦艦長 |
昭和19年)7月26日- 戦死認定 享年42 |
台湾バシー海峡を浮上航行中に米潜水艦「ソーフィッシュ」の雷撃を受け乗艦は沈没。 |
木梨は2階級特進し、海軍少将に進んだ。 |
山岡荘八の小説『海底戦記』に登場する潜水艦長の一人は木梨がモデルである |
菊池 朝三
ともぞう
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海軍少将。 福島県出身 |
1917年11月、海兵(45期) |
「鳳翔」「加賀」「赤城」の各分隊長 |
1939年11月、海軍大佐に進級 |
太平洋戦争を館山海軍航空隊司令として迎えた。 |
第11連合航空隊付、航空本部出仕、練習連合航空総隊参謀長、「瑞鶴」艦長、 |
「大鳳」2代目艤装員長・初代艦長、第25航空戦隊司令官などを歴任。 |
マリアナ沖海戦で「大鳳」は爆沈したが、大爆発の中を生還 |
1944年10月、海軍少将に進級。第2航空艦隊参謀長、第1航空艦隊参謀長、 |
、同参謀副長、海軍総隊参謀副長などを勤め終戦 |
|
吉川 潔
きよし
 |
海軍少将。広島県広島市段原町 |
大正11年)6月、海兵 |
海兵50期。「不滅の駆逐艦長」と称され、その名声を今に留める。 |
昭和17年)2月19日、バリ島沖海戦で吉川が最初の戦功を挙げた。 |
同年5月「夕立」駆逐艦長。同年9月4日、ガダルカナル島に味方陸兵の揚陸任務を
遂行した後、二隻の敵艦を発見すると猛然と二隻に襲い掛かり相次いで沈没させると、
他に敵艦がいないのを確認して帰路に着いた。 |
昭和18年)11月24日?25日夜、ニューアイルランド島南端でのセントジョージ岬沖海戦にて、
アーレイ・バーク大佐指揮の米駆逐艦隊の先制攻撃を受け応戦をする事も
出来ず撃沈された。「大波」の生存者は一人も無かった。吉川は戦死後、
一駆逐艦長としては異例の二階級特進の栄誉を受け提督・海軍少将に列せられた。 |
黒島 亀人
くろしま かめと
|
海軍少将 広島県呉市 海軍兵学校44期、 海軍砲術学校 |
1933年11月に海軍省軍務局一課局員へ転じた |
中佐進級後の1937年、第四戦隊先任参謀として重巡洋艦「足柄」に乗艦 |
1938年に大佐に進級、海大教官となる。 |
1939年8月、山本五十六が連合艦隊司令長官に就任 |
同年10月、山本に連合艦隊の実質最高位ポストである先任(首席)参謀に抜擢された |
昭和15年)2月-3月にかけて大西瀧治郎(第十一航空艦隊参謀長)と
源田実(第一航空戦隊参謀)は真珠湾攻撃の航空作戦草案を作成、源田実の案は
大西瀧冶郎が手を加えて提出される。
黒島は旗艦「長門」の私室にこもり心血を注いで全体成案を練った。 |
1942年6月のミッドウェー海戦でも作戦を立案する |
黒島ら連合艦隊幕僚は南雲忠一と草鹿龍之介に批判的であり山本五十六に
第一航空艦隊長官の交代を要望しているが聞き入れられなかった |
1943年7月、黒島は4年以上も務めた連合艦隊首席参謀から軍令部第二部部長就任 |
1945年5月、軍令部第2部部長、大本営の海軍参謀兼軍令部先任で終戦 |
山本五十六の懐刀として真珠湾攻撃を立案 また特攻を発案した異能の参謀 |
栗原 悦蔵
|
群馬県 海兵第44期 海軍水雷学校普通科, 海軍砲術学校普通科 |
昭和4年)- 海大甲種第27期 昭和14年任 海軍大佐・上海方面根拠地隊参謀 |
昭和18年海軍省軍務局第4課長兼大本営海軍参謀兼海軍報道部第1課長 |
昭和19年)3月2日- 免 海軍報道部第1課長 兼 海軍報道部長 |
昭和20年)3月1日- 免 海軍省軍務局第3課長 兼 海軍省軍務局第4課長 |
5月1日- 任 海軍少将 |
平出英夫海軍少将に代わり、海軍報道部第1課長に着任したが、早々に
「竹槍事件」が発生、筆者である毎日新聞記者新名丈夫を守るべ
く陸軍との対応にあたった。 |
く陸軍との対応にあたった。「竹槍では間に合はぬ |
飛行機だ、海洋航空機だ」として海軍航空力を増強すべきだと説いている |
黒木剛一 |
最終階級は海軍少将。宮崎県 |
大正4年12月16日-海兵卒業 |
大正10年)3月19日- 海大選科学生 昭和2年4月1日-第2駆逐隊附少佐 |
昭和13年)11月15日- 任 海軍大佐 |
昭和17年)第16警備隊司令 |
昭和18年 第1南遣艦隊司令部附海軍軍令部兼海軍省出仕 兼海軍省艦政本部
造船造兵監督官 兼フランス領インドシナ特命全権大使随員 |
昭和19年)10月5日- 任 海軍少将 |
昭和20年)2月20日- 海軍軍令部出仕 兼フランス領インドシナ特命全権大使随員 |
樺太庁附豊原地方在勤駐在海軍武官兼 第12航空艦隊司令部附 |
昭和47年)5月21日- 死去 享年78 |
小島 秀雄 |
兵庫県 , 海軍兵学校(第44期) |
昭和5年 海大甲種第28期 |
自他共に認める親ドイツ派の海軍軍人として鳴らし,、「ドイツ小島」と呼ばれることもあった |
昭和11年) 2月1日 - 在ドイツ日本大使館附海軍駐在武官 |
昭和12年)12月1日- 任 海軍大佐 昭和16年軽巡洋艦「香椎」艦長 |
昭和18年)5月1日 - 任 海軍少将 |
昭和19年)3月16日 - 免 第6艦隊司令部訪独潜水艦担当 |
古村 啓蔵
こむら けいぞう |
長野県 海軍兵学校卒(45期 海軍大学校甲種学生(27期) |
英国駐在、教育局第二課長等を経て太平洋戦争開戦を迎えた |
重巡洋艦「筑摩」艦長として真珠湾攻撃、ミッドウェイ海戦に参加。 |
南太平洋海戦では被弾により負傷しながら指揮をとった。 |
その後戦艦「扶桑」艦長となるも1943(昭和18)年6月8日柱島泊地の「扶桑」を離れ、 |
翌日「武蔵」第2代艦長に就任 |
連合艦隊司令長官古賀峯一大将と共にトラック諸島に赴く。11月1日少将に進級。 |
昭和19年は第一機動艦隊参謀長を兼ねた。マリアナ沖海戦を戦い、
|
第一航空戦隊司令官を経て、昭和20年)1月3日、第二水雷戦隊司令官となる。 |
4月7日坊の岬沖海戦でアメリカ航空艦隊の艦載機による攻撃を受け、
奮戦及ばず「矢矧」は沈没する艦長の原為一大佐と共に艦にとどまったが、
海に投げ出され漂流しながら戦艦「大和」が沈没する姿を目撃する事となる。 |
その後駆逐艦「初霜」に救助され生還する |
その後横須賀鎮守府参謀長就任兼副司令兼食料担当司令として終戦を迎えた。 |
上阪 香苗
かなえ |
最終階級は海軍少将。滋賀県大津市出身 |
海軍砲術学校高等科卒業後は砲術畑を歩んだが |
太平洋戦争中は一時的に航空戦隊司令官を、一貫して航空本部補職が続いた |
大正4年)12月16日- 海軍兵学校卒業 |
昭和3年)12月6日-海大甲種 |
昭和13年)3月23日- 第13海軍航空隊司令 |
12月15日-航空母艦「龍驤」艦長 |
昭和17年)11月1日 任 海軍少将 昭和18年第50航空戦隊司令官 海軍航空本部総務部長 |
昭和19年海軍航空本部教育部長 兼 練習聯合航空総隊参謀長 |
昭和20年)4月7日- 兼大本営海軍参謀 兼海軍戦力練成部副部長 |
昭和49年)12月10日- 死去 享年82 |
|
近野 信雄 |
海軍少将 山形県米沢 |
海軍兵学校48期を卒業 |
1938年11月15日 - 海軍中佐 |
1942年6月25日-戦艦長門副長 |
1943年5月1日 - 海軍大佐 |
1944年1月7日 - 機雷学校教頭兼研究部長 2月25日- 潜学校教頭兼研究部長 |
3月13日 - 東松2号船団運航指揮官として特設運送船「国陽丸」に乗船
アメリカ潜水艦「サンドランス」により撃沈され戦死 戦死後、少将 |
|
佐々木半九
はんく |
海軍少将。 広島県出身 |
海軍兵学校45期 |
昭和16年)7月に第3潜水隊司令に就任 |
特殊潜航艇(以下「特潜」)5隻で構成、特別攻撃隊指揮官として真珠湾攻撃に参加 |
昭和18年)1月には潜水学校教頭 昭和19年)7月18日には第一特別攻撃隊附となる
同部隊は特攻兵器・回天搭乗員の訓練部隊である10月に少将へ昇進
第六艦隊参謀長に就任 |
作戦首脳の一人として回天作戦に関わった。 |
1971年10月6日(満75歳没) |
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酒井原繁松
 |
最終階級は海軍少将 山形県出身 |
大正7年)11月、海兵(46期) |
昭和10年、海軍中佐に進級し「陸奥」砲術長に就任。昭和15年)11月、海軍大佐 |
昭和16年)11月、佐世保第2海兵団副長兼教頭となり太平洋戦争を迎えた。 |
昭和17年)11月、横須賀鎮守府付さらに第4艦隊司令部付に発令 |
同年12月、第65警備隊司令に就任しウェーク島(日本名:大鳥島)の警備を担当した |
昭和18年)10月、ウェーク島では空襲と艦砲射撃を受け上陸戦間近と判断し、
捕虜100名の銃殺を実行したが、米軍の上陸は終戦まで行われなかった。 |
昭和19年)10月、海軍少将に進み、ウェーク島で終戦を迎えた。 |
戦後、ウェーク島での捕虜処刑によりグアム島で戦犯裁判を受け死刑判決が出され、 |
昭和22年)6月に刑が執行された。 |
佐藤正四郎 |
海軍少将 新潟県出身 |
海軍兵学校 |
同期生に井上成美、草鹿任一、小澤治三郎 |
少佐に昇進後、「長良」、「日向」及び「長門」の各砲術長 |
(昭和6年)、大佐に昇進。「隠戸」特務艦長、第二艦隊、第一艦隊 |
同職在任中に二・二六事件が発生し、陸戦隊指揮官として東京に出動した |
「広徳丸」艦長、昭和12年12月1日、少将に昇進、同年12月25日、予備役編入 |
二・二六事件において、東京に出動した海軍陸戦隊の指揮官を務めた |
城 英一郎
 |
最終階級は海軍少将 熊本市出身 |
海兵(47期) |
霞ヶ浦海軍航空隊では副長の山本五十六に操縦を教授し、また山本が |
太平洋戦争開戦前に最後に昭和天皇に拝謁した際は、侍従武官として介添えした。 |
昭和7年)、海軍大学校甲種学生卒 |
昭和19年)に「千代田」艦長に就任し、小沢治三郎指揮下でレイテ沖海戦に参戦
おとり艦隊としてハルゼー艦隊の誘引に成功したが、「千代田」は撃沈された。
乗員に救助されたものはおらず、城を含め総員戦死であった。侍従武官としての
城は、昭和天皇の評価が高かったといわれる。 美男であったといわれる |
神風特別攻撃隊構想の考案者。 |
城島 高次 |
最終階級は海軍少将 佐賀県出身 |
1912年7月 海兵(40期) |
|
海大航海科 |
給油艦「鶴見」・「鳳翔」の各艦長、呉海軍航空隊司令、「翔鶴」艤装員長 |
初代艦長として真珠湾攻撃に参加 |
1942年5月 海軍少将 |
以後、連合艦隊司令部付、第11航空戦隊司令官、第50航空戦隊司令官、
第2航空戦隊司令官、第21航空戦隊司令官、第11連合航空戦隊司令官、 |
第12連合航空戦隊司令官、第12航空戦隊司令官などを歴任し |
1945年9月 予備役に編入された。 |
島本久五郎 |
海軍少将 和歌山県出身 |
1916年11月、海兵(44期) |
1930年11月、海軍大学校(甲種28期) |
開戦時、第7潜水戦隊司令 |
標的艦「摂津」艦長、第6艦隊参謀長などを経て、1943年5月に海軍少将に進級。 |
海上護衛総隊参謀長、同参謀副長、第3南遣艦隊参謀長、
兼南西方面艦隊参謀副長を勤め |
渋谷 清見 |
海軍少将。 高知県 |
大正6年)11月、海兵(45期) |
海軍大学校で航海学生 |
昭和4年)11月、海軍少佐 |
昭和10年)11月、海軍中佐に進級 |
海軍大佐に昇進。1941年(昭和16年)9月、「球磨」艦長となり太平洋戦争を迎えた。 |
昭和19年)2月、「隼鷹」艦長となる。マリアナ沖海戦で善戦するが乗艦が損傷を受け、 |
同年12月、「長門」艦長に転じた。 |
昭和20年)4月、横須賀鎮守府付となり、同年5月、海軍少将に進む。同月、 |
第3特攻戦隊司令官に発令され終戦を迎える |
高田 利種 |
海軍少将 本籍鹿児島県海軍兵学校に45期生兄 高田利貞(陸軍少将) |
1930年11月、海軍大学校(甲種28期) |
ドイツ駐在(ベルリン大学)、海大教官、海軍省軍務局第1課局員を経て |
支那方面艦隊兼第3艦隊参謀としてパナイ号事件の解決にあたる。 |
太平洋戦争には1942年7月、第3艦隊首席参謀として出征し、機動部隊の再建、 |
作戦指導の中心で以後、連合艦隊首席参謀、横須賀航空隊副長、
連合艦隊参謀副長兼海軍総隊参謀副長などを歴任 |
1944年10月、海軍少将に進級 |
軍務局次長、兼軍令部第2部長、兼大本営海軍戦備部長、終戦 |
高木惣吉
そうきち |
海軍少将 熊本県人吉市出身 |
大正4年)12月16日- 海兵 |
昭和2年)11月25日- 海軍大学校 |
昭和16年)12月6日- 兼 南方政策部副長 |
任 海軍少佐・在フランス日本大使館 |
昭和17年)6月1日- 軍令部出仕 |
6月10日- 舞鶴鎮守府参謀長 |
昭和18年)5月1日- 任 海軍少将 |
昭和19年)3月1日- 海軍省教育局長 この頃から東條首相暗殺計画実行に奔走 |
井上海軍次官から終戦工作の密命を受け行動に移す |
昭和20年)8月17日- 東久邇宮内閣内閣副書記官長 |
首相・東條英機の暗殺計画を立案するに至る。 |
サイパン失陥の責任を問われた東條内閣が総辞職したため計画は実行されなかった |
昭和54年)7月27日- 神奈川県茅ヶ崎市自宅で死去 享年85 |
|
富岡 定俊 |
海軍少将。男爵 広島県出身 |
1917年11月、海軍兵学校(45期) |
富岡定恭海軍中将の長男 |
1929年11月、海軍大学校(甲種27期)を首席で卒業 |
フランス駐在(国際連盟海軍代表部)、「衣笠」航海長、軍令部出仕兼参謀、第7戦隊参謀 |
1943年11月、海軍少将に進級 |
南東方面艦隊兼第11航空艦隊参謀長を経て、終戦時には軍令部第1部長であった |
アメリカ海軍の戦艦ミズーリで行われた降伏文書調印式には随員として参加している |
楢原 省吾
 |
最終階級は海軍少将。 高知市水道町 |
大正9年)7月、海兵(48期) |
昭和9年)3月から7月まで潜水学校甲種学生 |
昭和13年)11月、海軍中佐に進級 |
伊号第57潜水艦」艦長となり真珠湾攻撃において第一航空艦隊の哨戒隊 |
昭和17年)7月、横須賀鎮守府付となり、同月、第6潜水隊司令に着任 |
昭和18年)5月、海軍大佐に昇進。以後、第33潜水隊司令、第6艦隊司令部付、第12潜水隊司令、 |
第12潜水隊司令、第7潜水隊司令等を歴任 |
昭和19年)7月、内南洋方面で乗艦「伊号第6潜水艦」が戦没。
戦死と同時に海軍少将に特進した。 |
中瀬 泝
のぼる |
海軍少将。宮崎県 |
海兵第45期 |
昭和6年)11月27日- 海大甲種 昭和9年在ソ連日本大使館附海軍駐在武官 |
11月15日- 任 海軍中佐 |
昭和16年)4月7日- 第2遣支艦隊司令部附 |
4月17日- 第14航空隊司令 |
昭和18年)11月18日- 聯合艦隊司令部附 |
航空戦艦「伊勢」艦長 |
昭和19年)10月15日- 任 海軍少将 |
昭和20年)2月25日- 呉鎮守府附 |
昭和58年)9月17日- 死去 享年87 |
航空戦艦「伊勢」艦長在任中は、囮部隊 小沢艦隊の一員としてレイテ沖海戦に参戦 |
長井満 |
海軍少将。福井県海兵45期 昭和9年任 海軍中佐 弟の長井洗は陸軍中佐 |
昭和13年 任 海軍大佐 |
昭和16.10.15 - 長鯨艦長 |
昭和17. 4. 5 - 第4潜水隊司令 |
日米開戦時にはカムラン湾に進出(9日)、31日ダバオに警泊し、翌年1月4日、サマール島に |
陸戦隊を揚陸して全島を占領した。 |
第4潜水隊司令となり、6月5日のミッドウェー作戦の陽動作戦を兼ねて
アリューシャン侵攻に参戦。 |
昭和18年)2月12日、航空母艦「隼鷹」艦長となるが、同年11月5日 、沖ノ島近海、
豊後水道沖にて米潜水艦「ハリバット」の魚雷攻撃を受けて乗艦が大破し、
12月25日、佐伯海軍航空隊司令に転じた。 |
昭和19年)5月1日、海軍少将に昇進 |
昭和20. 3. 1 - 第2特攻戦隊司令官/光突撃隊司令 |
昭和53(1978).12.13 - 没(83歳) |
鍋島 俊策 |
熊本県 大正3年)海軍兵学校 |
海大甲種25期 |
昭和12年)に海軍大佐に進級 昭和15年)「鹿島」の艦長に就任 |
以後「北上」「鬼怒」「摩耶」の艦長を歴任する。 |
昭和17年)海軍少将に昇進し、第四艦隊参謀長となる。
1944年(昭和19年)海軍機雷学校長 |
昭和20年)6月に四国地方海軍部長、及び四国海軍軍需監督部長を兼務 |
同年10月予備役となる。 |
野元 為輝
ためき |
海軍少将。 本籍鹿児島県 |
大正5年)11月海兵44期 |
昭和4年)11月、海軍大学校甲種27期 |
昭和14年海軍大佐へ昇進する第14航空隊司令に就任 |
昭和16年筑波航空隊司令として太平洋戦争を迎え、
1942年(昭和17年)6月、「瑞鶴」艦長に就任 |
第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦と歴戦した。
以後、練習連合航空隊総参謀長を経て |
昭和19年少将昇進。第11連合航空隊司令官を経て、
第903航空隊(大湊)司令官として終戦を迎えた。 |
橋本 象造 |
海軍少将 和歌山県 海兵第43期 海大甲種 |
軍令部第2部第4課長在任中に、日独伊三國間同盟条約締結問題で、
第3課長柳本柳作と共に強硬な反対意見を表明その後総力戦研究に没頭した。 |
(昭和17年)10月20日- 免 運輸部第1課長 |
昭和18年)1月3日- 第3南遣艦隊 |
第3南遣艦隊参謀長 任 海軍少将 |
昭和19年)5月20日- 兼 同補給長 |
9月10日- 呉鎮守府参謀長 |
人見 錚一郎
そういちろう
 |
東京都出身 |
大正8年)- 海兵(47期) |
昭和4年) 11月30日- 海軍大学校甲種学生(29期) |
昭和11年) 12月1日- 任 海軍中佐 |
昭和16年)8月11日-海軍省教育局第二課長 |
10月15日- 任 海軍大佐 |
昭和18年)7月7日- 第一艦隊参謀 |
昭和19年)3月15日- 第二艦隊第七戦隊司令部附 |
3月29日- 重巡洋艦「熊野」艦長リアナ沖海戦 マール島沖海戦 |
11月25日- 米空母艦載機の空襲により「熊野」が撃沈され戦死 享年45、戦死後少将に特進 |
福村 利明
 |
熊本県出身 |
大正15年)3月、海軍兵学校(54期) |
昭和16年)4月、第6艦隊参謀に就任し太平洋戦争を迎えた。 |
昭和17年)11月、「伊号第159潜水艦」艦長に転じ |
昭和18年)2月、「伊号第二七潜水艦」艦長に異動 |
同年11月、海軍中佐に進級。インド洋などで通商破壊任務を遂行した。 |
1944年(昭和19年)、インド洋で戦死2階級特進で海軍少将 |
|
松田 千秋 |
最終階級は海軍少将。熊本県 |
大正5年)12月11日- 海軍兵学校卒業 |
昭和3年)11月6日- 海大卒業 昭和5年在アメリカ大使館附海軍駐在武官府補佐官 |
昭和10年 任 海軍大佐 |
昭和16年)9月1日-標的艦「摂津」艦長 |
昭和17年)2月10日- 聯合艦隊司令部附 |
2月20日- 戦艦「日向」艦長 |
12月17日- 戦艦「大和」艦長 |
昭和18年)5月1日- 任 海軍少将 9月7日-軍令部第1部第1課出仕 兼大本営参謀 |
昭和19年)5月1日- 第4航空戦隊司令官 |
昭和20年)3月1日- 軍令部出仕 |
横須賀海軍航空隊司令 |
松本 毅 |
海軍少将。山形県鶴岡市 大正6年)11月24日 - 兵学校(45期) |
昭和3年)12月6日 - 海軍大学校(甲種26期) |
昭和4年11月30日 -海軍少佐 |
昭和16年)5月10日 - 馬公要港部参謀長兼馬公通信部長 馬公警備府参謀長 |
昭和17年)5月25日 - 「磐手」艦長 9月30日 - 「摩耶」艦長 |
昭和18年)11月17日 - 第五艦隊参謀長 |
昭和19年10月15日- 海軍少将 |
昭和20年)2月5日 - 軍令部出仕 |
2月6日-第十二航空艦隊参謀長 |
7月1日 - 第11水雷戦隊司令官 |
8月15日- 31戦隊司令官 |
松本象二郎
しょうじろう

|
鳥取県 海軍兵学校(40期) 海軍砲術学校高等科、昭和13年 海軍大佐 |
昭和16年)8月 - 特設工作艦「松栄丸」特務艦長 |
昭和17年)5月 - 戦死・海軍少将 |
昭和17年)5月8日、珊瑚海海戦があり、その直後の5月12日、基地に戻ろうとしていた
「松栄丸」は米海軍潜水艦「S-44」の雷撃を受けて沈没。松本艦長は、乗組員全員を
脱出させた後、従容として艦と運命を共にしたという。。没後、少将に昇進。 |
美濃部貞功
さだかつ |
海軍少将 福島県出身 |
海軍兵学校42期 |
昭和2年)12月少佐、1933年(昭和8年)11月中佐 へ進級 |
岩国海軍航空隊司令に転じ、太平洋戦争の開戦を迎えた。 |
昭和14年)11月15日に大佐 |
昭和19年)9月、第一海上護衛方面司令 |
昭和20年)5月1日少将へ昇進。ハンモックナンバーが下位であった |
美濃部の昇進は同期の出世頭に比して4年遅れであった。 |
光延 東洋
みつのぶ
とうよう
 |
岡山県, 海兵第47期 海軍砲術学校普通科,海軍水雷学校普通科 |
大正13年12月任 海軍大尉・海軍航海学 昭和15年在イタリア日本大使館附海軍駐在武官 |
昭和15年11月15日- 任 海軍大佐 |
昭和19年)6月5日-スイス業務出張 6月9日-イタリア山中においてパルチザン襲撃により戦死 |
享年46 海軍少将特別進 |
三木 森彦 |
東京都目黒区 明治45年7月17日- 海兵 |
大正8年12月1日-海軍大尉 昭和12年11月15日-第12海軍航空隊司令 2月1日 海軍大佐 |
昭和15年)11月15日- 博多海軍航空隊司令 |
昭和16年)1月25日- 海軍省軍務局御用掛兼商工省航空局乗員課長 |
昭和17年)5月1日- 免 商工省航空局乗員課長 兼商工省航空局第3部長 |
昭和18年)4月20日- 海軍航空本部総務部 |
5月1日-任海軍少将 8月9日-霞ヶ浦海軍航空隊司令
11月15日- 兼 谷田部海軍航空隊司令 |
昭和19年)2月1日 第27海軍航空戦隊司令官 3月1日- 第14海軍聯合航空隊司令官 |
3月1日- 第14海軍聯合航空隊司令官 5月15日- 兼 台南海軍航空隊司令官 |
昭和20年3月1日- 第21海軍聯合航空隊司令官 8月3日-第15海軍聯合航空隊司令官 |
昭和48年)7月6日- 死去 享年83 |
三和 義勇
 |
海軍少将 岡山県出身 |
海兵48期 |
霞空航空術学生9期を卒業した戦闘機搭乗員である |
大尉時代に3年間の駐米大使館附武官補佐官時代を経て |
海軍大学校甲種31期少佐、中佐時代は「赤城」、「加賀」の各飛行隊長 |
昭和16年)10月に大佐へ進級し霞空副長に就任したが、1月あまりで連合艦隊参謀 |
山本が三和を作戦参謀として求めたためである |
連合艦隊参謀としての三和は参謀間の人間関係に苦しんだ |
三和は第十一航空艦隊先任参謀へ転出し、南東方面艦隊参謀を兼任した。 |
昭和18年)7月に第一航空艦隊参謀長に就任。 |
三和はテニアン島に連合国の上陸を迎え、他の幕僚とともに自決したと推測されている |
湊 慶譲
けいじょう |
海軍少将。鹿児島県姶良郡出身 |
海兵第44期 |
大正12年)3月20日 - 海軍大学校 |
昭和2年)12月1日 - 兼 元帥東郷平八郎海軍大将副官 |
昭和8年)10月1日 - 元帥伏見宮博恭王海軍大将軍令部総長副官 |
昭和16年)11月15日 - 横須賀鎮守府附 |
昭和17年)8月31日 - 航空母艦「雲鷹」艦長 |
昭和18年)1月28日 - 横須賀鎮守府附 |
兼海軍兵学校教頭兼監事長 |
昭和19年)5月1日 - 任 海軍少将 |
支那方面艦隊司令部附 |
支那方面艦隊参謀副長 兼上海在勤海軍武官 |
昭和57年)10月19日 - 死去 享年86 |
三好 輝彦
 |
海軍少将。大分県竹田市 |
海軍兵学校第43期 |
大正14年)4月1日- 海軍潜水学校甲種 |
昭和8年)11月15日-任 海軍中佐 |
昭和13年)11月15日- 任 海軍大佐 |
昭和16年9月1日-軽巡洋艦「由良」艦長 |
昭和16年)9月1日- 軽巡洋艦「由良」艦長 |
昭和17年)4月20日- 第5潜水戦隊司令部附重巡洋艦「妙高」艦長 |
昭和18年)3月2日- 横須賀鎮守府附3月10日- 戦艦「陸奥」艦長 |
6月8日- 瀬戸内海柱島水道において乗艦爆発事故により殉職
享年49 海軍少将特別進級 |
牟田口格郎
むたくち かくろう
 |
海軍少将 東京府出身 |
大正5年)11月、海兵(44期) |
昭和10年)11月、海軍中佐に進級。 |
昭和16年)10月、「安宅」艦長に就任。同月、海軍大佐に昇進し太平洋戦争を迎えた。 |
昭和17年)12月、横須賀鎮守府付となり、第二水雷戦隊司令部付、第15駆逐隊司令 |
昭和19年)8月、「大淀」艦長に着任。レイテ沖海戦、礼号作戦、北号作戦に参加した。 |
昭和20年)2月、「伊勢」艦長に就任。同年7月、呉軍港空襲により戦死し |
海軍少将へ特進した。 |
森 友一 |
海軍少将 石川県出身海軍兵学校42期 |
大尉で「有明」駆逐艦長、「葦」駆逐艦長にて以来、6艦の艦長、2隊の駆逐隊司令 |
「羽黒」艦長として太平洋戦争を迎えた。第二艦隊に属し南方攻略戦に参加 |
スラバヤ沖海戦で武勲を揚げたほか、珊瑚海海戦ではMO機動部隊、 |
ミッドウェー海戦では攻略部隊の一員として参戦している。 |
昭和17年)11月少将へ昇進し、第一水雷戦隊司令官に就任 |
北方部隊に属しアッツ島への輸送任務に従事中、アッツ島沖海戦が生起。 |
2ケ月あまりのち病に倒れ離任1年近くの療養を経て、横須賀海軍工廠機雷実験部長、 |
呉練習戦隊司令官を歴任して終戦を迎えた。 |
森下 信衛 |
海軍少将。愛知県出身 |
大正6年)11月24日 - 海軍兵学校(45期) |
|
昭和6年)11月27日 - 海軍大学校(29期) |
日本海軍屈指の操艦の名手だった。 |
昭和14年)11月15日 - 任 海軍大佐 |
昭和16年)9月1日 - 軽巡洋艦大井艦長 |
昭和18年)6月14日 - 戦艦榛名艦長 |
昭和19年)1月25日 - 戦艦大和艦長 |
任 海軍少将 |
1月25日 - 第2艦隊参謀長 |
昭和20年)9月15日 - 呉海兵団長 |
|
昭和35年)6月17日 - 死去。享年65 |
有賀艦長の着任後は、少将に進級し第2艦隊参謀長として引き続き大和に乗艦、
坊ノ岬沖海戦でも無事に生還している。 |
山本 善雄 |
最終階級は海軍少将。山形県鶴岡市 |
大正8年)10月9日 - 海兵学 |
昭和6年)11月27日- 海軍大学校卒業 |
昭和10年 5月15日 - 在イギリス日本大使館附海軍駐在武官府補佐官附 |
11月15日 - 任 海軍中佐 |
昭和15年)11月15日- 任 海軍大佐 |
昭和17年)2月5日 - 海軍省軍務局第1課兼軍令部出仕 |
昭和20年)4月25日 - 兼 軍令部第1部第2部員 |
5月1日 - 任 海軍少将5月21日 - 兼 軍令部第2部第3課長 |
昭和53年)11月28日 - 死去 享年80 |
山本 祐二
 |
鹿児島県出身 |
1923年海兵 次席、御下賜の短剣拝受 |
山本の岳父は海軍大将・豊田貞次郎である1932年12月 - 海大甲種学生 |
1939年11月 - 海軍中佐、連合艦隊参謀 兼 第一艦隊参謀 |
1943年12月 - 連合艦隊参謀(旗艦「武蔵」) |
1944年5月 - 海軍大佐、第21駆逐隊司令 |
1944年8月 - 第二艦隊参謀(旗艦「大和」) |
1945年4月7日 - 戦死山本は大和座乗の長官・伊藤整一中将とともに戦死した。 |
勲功により少将に進級 享年42 |
|
山本 岩多
いわた
 |
海軍少将 栃木県 |
大正7年)11月21日 - 海兵学校(46期 |
昭和6年)4月15日 - 「栂」駆逐艦長 |
海軍少佐昇進 |
昭和12年)7月15日 - 「叢雲」駆逐艦長兼「白雲」駆逐艦長 |
12月1日 - 海軍中佐昇進・「叢雲」駆逐艦長 |
昭和16年)3月5日 - 佐伯防備隊副長兼「釣島」艤装員長 |
昭和18年)1月6日 - 聯合艦隊司令部附 |
1月12日 - 第7駆逐隊司令 |
5月1日 - 海軍大佐昇進 2月15日 - 「多摩」艦長 |
昭和19年)10月25日 - 「多摩」、エンガノ岬沖海戦で空襲により大破 |
アメリカ海軍の潜水艦「ジャラオ」 の雷撃により撃沈され、 |
戦死、海軍少将に特進、享年48 |
山本 親雄 |
愛媛県, 海軍兵学校第46期次席 |
海大甲種 首席第30期 |
霞ヶ浦海軍航空隊航空術学生 |
昭和10年)11月15日-第1航空戦隊参謀 |
昭和14年)11月15日-任 海軍大佐・第15海軍航空隊司令 兼支那方面艦隊司令部附 |
昭和18年)1月20日- 軍令部第1部第1課出仕 |
昭和19年)10月15日- 任 海軍少将 |
昭和20年)1月6日- 第11航空戦隊司令官 |
第5航空艦隊司令部附 |
第72航空戦隊司令官 |
柳澤 蔵之助
 |
長野県佐久市海軍兵学校第46期海軍大学校甲種学生29期を首席 |
第二航空戦隊首席参謀、支那方面艦隊作戦参謀 |
昭和14年 任 海軍大佐 |
第二艦隊首席参謀、開戦を迎え南方攻略作戦の計画にあたり、この作戦は成功した |
古賀峯一連合艦隊司令長官のもと連合艦隊首席参謀となった |
パラオにあった連合艦隊司令部は機動部隊空襲を受けてダバオに脱出することとなり、 |
柳澤は古賀と同じ飛行艇に搭乗したが、同機は行方不明となった(海軍乙事件)。 |
柳澤は殉職認定を受け海軍少将に特別進級している。 |
昭和19年)3月31日搭乗機行方不明に依り殉職認定 享年46 |
柳本 柳作
りゅうさく

|
海軍少将。長崎県平戸市出身 |
大正5年11月22日- 海軍兵学校 |
大正9年)5月31日- 海軍水雷学校 |
昭和2年11月25日- 海大甲種 |
昭和12年-任 海軍大佐・水上機母艦「能登呂」艦長 昭和16年10月6日-航空母艦「蒼龍」艦長 |
ハワイ作戦、ウェーク島攻略作戦、インド洋作戦等の一連の作戦に参加する。 |
しかしミッドウェー海戦で米軍急降下爆撃機から投下された爆弾三発が蒼龍に命中し
大破炎上柳本自身は退艦を潔しとせず艦橋に残った。蒼龍沈没により戦死認定
翌年戦死公表と同時に海軍少将に特別進級した。 |
柳澤蔵之助
 |
長野県, 海軍兵学校第46期 |
海大甲種29期を首席 |
第二艦隊首席参謀として太平洋戦争開戦を迎え南方攻略作戦の計画にあたり、 |
この作戦は成功した。その後内地へ帰還し海軍省首席副官を務めた。 |
昭和18年,連合艦隊首席参謀 |
パラオにあった連合艦隊司令部は機動部隊空襲を受けてダバオに脱出することとなり、
柳澤は古賀と同じ飛行艇に搭乗したが、同機は行方不明となった(海軍乙事件)。
柳澤は殉職認定を受け海軍少将に特別進級している |
山形 政二
 |
鳥取県 海軍兵学校(第43期) |
昭和4年 海軍少佐 |
昭和10年 海軍中佐 |
昭和16年)4月 - 「駒橋」艦長 海軍大佐 |
昭和17年)2月 - 「室戸」特務艦長 |
昭和18年9月 - 第61警備隊司令兼第6潜水艦基地隊司令 |
昭和19年)2月 - 戦死・海軍少将 |
クェゼリンの戦いにより、昭和19年2月6日、戦死。2月6日は奇しくも彼の誕生日であった。 |
海軍少将に昇進する |
横山 一郎 |
最終階級は海軍少将 |
大正8年)10月9日- 海兵 |
神奈川県横須賀市 |
昭和5年)11月28日-海軍大学校甲種卒業 |
昭和6年)5月1日- アメリカ駐在 |
7月1日- エール大学語学研修留学 |
|
昭和10年)11月15日- 任 海軍中佐 |
昭和15年9月10日- 在アメリカ日本大使館附海軍駐在武官 11月15日- 任 海軍大佐 |
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11月15日- 任 海軍大佐 |
昭和16年)12月7日- 日米開戦により身柄抑留 |
昭和17年)6月18日- 交換船ニューヨーク出発11月14日- 軽巡洋艦「球磨」艦長 |
昭和19年)7月20日- 兼 東京警備隊司令 |
昭和20年)5月1日- 任 海軍少将 |
9月2日- 米戦艦ミズーリ艦上 降伏文書調印使節 |
平成5年)7月28日- 死去 享年93 |
横井 俊之 |
海軍少将 愛知県出身 |
1918年11月、海軍兵学校(46期) |
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1930年11月、海軍大学校(甲種28期) |
以後、第2艦隊参謀、横須賀航空隊教官、同飛行隊長、連合艦隊参謀などを歴任し |
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1940年11月、海軍大佐に進級。 |
太平洋戦争を横浜海軍航空隊司令として迎えた |
横須賀航空隊副長、「飛鷹」艦長、呉鎮守府付、第25航空戦隊司令官、第5航空艦隊参謀長などを |
1945年5月、海軍少将に進級。同年10月、予備役に編入された |
吉見 信一 |
海軍少将 江田島 |
海軍兵学校卒業(43期 |
昭和15年)11月海軍大佐へ進級 |
昭和18年)7月13日第64警備隊司令に就任。
終戦までマーシャル諸島のウォッゼ島の守備にあたった |
昭和19年)10月15日、海軍少将に昇進。 |
同期の出世頭より大佐昇進は4年、少将昇進は2年遅れであった。 |
戦後は慶應義塾大学医学部を卒業し、医師として活躍した。 |
横井 忠雄 |
海軍少将。大分県大分市出身 |
大正4年)12月16日- 海兵 |
昭和3年- 海軍大学校甲種卒業 |
昭和8年 在ドイツ日本大使館附 |
昭和11年)2月1日- 帰朝 任 海軍大佐 |
昭和16年 兼 在フィンランド日本公使館府 |
昭和17年)11月1日- 任 海軍少将 |
昭和19年)3月1日- 横須賀鎮守府参謀長 |
昭和20年)5月20日- 田辺海兵団長 6月1日-兼 第6特攻戦隊司令官 |
昭和40年)9月10日- 死去 享年70 |
嶋崎 重和
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大分 、海軍兵学校(第57期) |
昭和15年)11月、海軍少佐に昇進 |
昭和16年)9月、「瑞鶴」飛行隊長に異動し太平洋戦争を迎え、 |
12月8日の真珠湾攻撃おいて第二次攻撃隊長として参戦した。 |
昭和17年)8月、名古屋海軍航空隊飛行長、横須賀空飛行隊長、第752航空隊飛行長 |
昭和19年)10月、海軍中佐に進み第2航空艦隊参謀に就任 |
昭和20年)1月8日、第3航空艦隊司令部付となり、翌日、台湾方面で戦死 |
2階級特進し海軍少将 |
加藤与四郎 |
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中円尾義三 |
予備 |
水野孝吉 |
予備 |
槙喜久太 |
予備 |
三木高秀 |
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海軍根拠地隊とは、大日本帝国海軍の陸上部隊の一つで、占領地などに置かれた臨時の
海軍基地を防衛・管理するための部隊である。特設根拠地隊と特別根拠地隊の2種類が存在した。 |
板垣盛 |
第1根拠地隊(III)-ブ ーゲンビル島ブイン。ソロモン諸島北部で活動 1942年10月31日 - |
武田勇 |
第1根拠地隊(III)-ブーゲンビル島ブイン。ソロモン諸島北部で活動 1943年11月1日 -終戦 |
鋤柄玉造 |
第2根拠地隊(I) - 広東・ |
緒方真記 |
第2特別根拠地隊 - 東部ニューギニア・ |
第9艦隊の主力部隊の一つとなり、1944年3月に第7根(II)と合併して第27特根に改編 |
宮田義一 |
第3根拠地隊(I) - 厦門 |
1938年11月15日 - 1939年11月15日解散 |
中村一夫 |
第3根拠地隊(II) - パラオ |
1940年11月15日 - |
武田盛治 |
1942年3月20日 - 1942年4月10日 |
1942年4月10日に第3特別根拠地隊と改称 |
友成佐市郎 |
第3特別根拠地隊(II)- タラワ島 |
1943年2月16日 - |
茂泉慎一 |
第4根拠地隊(II) - チューク諸島(トラック) |
1941年8月11日 - |
元泉威 |
第5根拠地隊(I) - サイパン島。 |
1940年11月15日 - |
辻村武久
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第5根拠地隊(II)- サイパン島。 |
1944年3月1日 - 1944年7月8日戦死 |
1944年3月1日、第5特別根拠地隊を改編。サイパンの戦いで全滅。 |
第二海上護衛隊司令官 |
春日篤 予備役 |
第5特別根拠地隊 - サイパン島 |
1942年4月10日 - |
福沢常吉 |
第5特別根拠地隊 - サイパン島 |
1943年2月16日 - |
八代祐吉 |
第6根拠地隊 - ロイ=ナムル島(ルオット)。 |
1941年1月15日 - 1942年2月1日戦死 |
藤森清一朗 |
第7根拠地隊(I) - 父島。 予備役 |
1942年4月10日 - 1942年6月15日 |
藤田類太郎 |
第7根拠地隊(II) - ラエ、後ウェワク |
1942年7月14日 - |
工藤久八 |
第7根拠地隊(II) - ラエ、後ウェワク |
1943年10月25日 - 1944年3月25日 |
金沢正夫 |
第8根拠地隊 - ラバウル |
1942年4月10日 - |
徳永栄 |
第8根拠地隊 - ラバウル |
1942年11月29日 - |
入船直三郎 |
第8根拠地隊 - ラバウル |
1943年11月8日 - 1944年12月1日解散 |
平岡粂一 |
第9特別根拠地隊 - スマトラ島サバン |
1942年2月25日 - |
広瀬末人 |
第9特別根拠地隊 - スマトラ島サバン |
1944年2月22日 - 終戦 |
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第10特別根拠地隊 - シンガポール |
1942年1月15日 - |
山口儀三朗 |
第10特別根拠地隊 - シンガポール |
1942年12月2日 - |
今村脩 |
第10特別根拠地隊 - シンガポール |
1943年11月25日 - 終戦 |
石川茂 |
第12特別根拠地隊 - アンダマン諸島 |
1942年2月15日 - |
原鼎三 |
第12特別根拠地隊 - アンダマン諸島 |
1944年6月26日 - 終戦 |
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魚住治策 |
第15根拠地隊 - ペナン島。 |
1944年8月4日 - |
久保九次 |
第21特別根拠地隊 - スラバヤ |
1942年3月10日 - |
伍賀啓次郎 |
第21特別根拠地隊 - スラバヤ |
1942年9月25日 - |
星野応韶 |
第21特別根拠地隊 - スラバヤ |
1943年9月13日 - |
田中菊松 |
第21特別根拠地隊 - スラバヤ |
1944年11月17日 - 終戦 |
広瀬末人 |
第22特別根拠地隊 - バリクパパン |
1942年3月10日 -ボルネオ防衛戦に参加 |
下村勝美 |
第23特別根拠地隊 - マカッサル |
1942年11月25日 - |
大杉守一 |
第23特別根拠地隊 - マカッサル |
1944年1月26日 - 終戦 |
畠山耕一郎 |
第24特別根拠地隊 - アンボン |
1942年12月29日 - |
柴田弥一郎 |
第24特別根拠地隊 - アンボン |
1943年3月10日 - 1943年11月30日 |
福田貞三郎 |
第24根拠地隊 - フロレス島 |
1944年2月1日 - 1944年9月10日 |
鈴木長蔵 |
第25特別根拠地隊 - マノクワリへ |
1942年12月29日 - |
長谷真三郎 |
第25特別根拠地隊 - アンボンへ転進 |
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横川市平 |
第26特別根拠地隊 - ハルマヘラ島カウ |
1943年11月1日 - |
伊藤賢三 |
第30特別根拠地隊 - パラオ |
1944年1月10日 - 1944年3月1日 |
小林徹理 |
第31特別根拠地隊(I) - マニラ |
1942年1月3日 - 1943年2月20日解散 |
有馬馨 |
第31特別根拠地隊(II)- マニラ |
1944年9月10日 -1944年11月16日 |
代谷清志 |
第32特別根拠地隊 -南方作戦後はダバオ |
1943年3月15日 - |
土井直治 |
第32特別根拠地隊 -南方作戦後はダバオ |
1944年10月6日 - 終戦 |
秋山勝三 |
第51根拠地隊 - キスカ島 |
1942年9月15日 - 1943年8月5日 |
水井静治 |
第52根拠地隊 - 大湊 |
1943年5月1日 - 1944年1月20日解散 |
鈴木長蔵 |
上海方面根拠地隊 - 上海 |
1944年3月20日 - |
森徳治 |
上海方面根拠地隊 - 上海 |
1944年8月18日 - 終戦 |
新葉亭造 |
沖縄方面根拠地隊 - 沖縄島 |
1944年4月10日 - |
第四海上護衛隊司令官 |
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黒瀬浩 |
高雄方面根拠地隊 - 高雄 |
1945年5月1日 - 終戦 |
新葉亭造 |
千島方面特別根拠地隊 - 千島列島 |
1945年2月25日 - |
久保九次 |
千島方面根拠地隊 - 千島列島 |
1945年6月18日に解散 |
中邑元司 |
父島方面特別根拠地隊 - 父島 |
1942年11月1日 - |
第三海上護衛隊司令官 |
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森国造 |
父島方面特別根拠地隊 - 父島 |
1944年2月15日 - 終戦 |
松永次郎 |
漢口方面特別根拠地隊 - 漢口 |
1940年11月15日 - |
副島大助 |
広東方面特別根拠地隊 - 広州 |
1939年11月15日 - |
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安場保雄 |
香港方面特別根拠地隊 - 香港 |
1942年3月10日 - |
原田清一 |
廈門方面特別根拠地隊(II)- 廈門 |
1942年11月1日 - 終戦 |
大島四郎 |
青島方面特別根拠地隊(I) - 青島 |
1939年11月15日 - |
金子繁治 |
青島方面特別根拠地隊(II)- 青島 |
1945年1月29日 - 終戦 |
中村重一 予備 |
旅順方面特別根拠地隊 - 旅順 |
1942年1月15日 - |
堀勇五郎 |
羅津方面特別根拠地隊 - 羅津 |
1945年3月20日 - 1945年7月25日解散 |
相馬信四郎 |
馬公方面特別根拠地隊 - 馬公 |
1945年7月15日 - 終戦 |
福田良三 |
海南島根拠地隊 - 海南島 |
1939年11月15日 - |
井上保雄 |
海南島根拠地隊 - 海南島 |
1940年11月15日 - 1941年4月10日 |
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海軍艦艇艦長・その他追加
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篠田勝清 |
戦艦:山城 艦長 1944年5月6日 - 10月25日戦死 |
昭和19年レイテ沖海戦沈没 |
草川淳予備 |
戦艦:日向 艦長 1945年3月1日 - 7月24日の空襲で戦死 戦死後中将 |
「日向」は呉軍港に停泊中米軍空母機の波状攻撃着底した |
大塚幹予備 |
戦艦:長門 艦長 1945年4月28日 - |
猪口敏平
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戦艦:武蔵 艦長 昭和19年)8月12日~1944年10月24日 |
武蔵最後の艦長前:、「名取」「高雄」の各艦長 |
1944年8月レイテ沖海戦においてシブヤン海で戦没し、猪口は退艦せず戦死
1階級特進し海軍中将 |
鳥越新一 |
第一護衛艦隊参謀長 |
後藤光太郎 |
第七艦隊参謀長, 第一護衛艦隊参謀長 |
井上保雄 |
第一海上護衛隊司令官 |
中島寅彦少将 |
第一海上護衛隊司令官 |
鶴岡信道 |
第31戦隊司令官, 第三護衛船団司令部 |
松山光治 |
第一〇五戦隊司令官, 第七護衛船団司令部 |
久宗米次郎 |
第一〇三戦隊司令官 |
浜田 浄 |
第一〇二戦隊司令官 |
佐藤勉 |
第八護衛船団司令部 |
駒沢克己 |
第七護衛船団司令部, 第四海上護衛隊司令官 |
吉富説三 |
第五護衛船団司令部 |
門前鼎 |
第三護衛船団司令部 |
清田孝彦 |
第二護衛船団司令部 |
高橋一松 |
第二護衛船団司令部 |
有馬馨 |
第二海上護衛隊司令官 |
入船直三郎 |
第十一航空艦隊 参謀長 |
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