秋枝 三郎

   
海兵66期  山口  同期生 松尾敬宇、中馬兼四
昭和17年)5月31日夕刻、「伊二〇潜水艦」から艇附・竹本正巳一等兵曹と出撃。
「伊一六潜水艦」からは艇長・岩瀬勝輔少尉、艇附・高田高三二等兵曹が出撃している。
湾内に進入した特潜は英戦艦「ラミリーズ」及び油槽船1隻に魚雷を命中させ秋枝と竹本は
雷撃に成功した後、艇が座礁したため脱出しマダカスカル島に
上陸英軍部隊に発見された。
両名は降伏勧告を拒否し15名を相手に軍刀と拳銃で戦いを挑み戦死した。
戦死にて二階級特進により中佐
  板谷 茂
 いたや しげる

   
海兵(57期)首席  佐賀 実弟の板谷隆一は海兵60期(恩賜)第二水雷戦隊参謀
真珠湾攻撃では赤城乗組み、第一次攻撃隊制空隊指揮官として参加
1942年5月27日(海軍記念日)に赤城にて日本を出発し、ミッドウェー作戦に参加
中央部に命中した米軍機の爆弾が誘爆を始め、赤城の致命傷となった
赤城機関長の「自力航行不可能」の報告をもって、青木泰二郎艦長(大佐)は総員退去を
決定、自沈処理により赤城は沈没。
赤城の定員は1,630名、第一航空艦隊司令部員が64名で、准士官以上8名、
下士官兵213名の計221名が戦死、板谷少佐をはじめ、淵田中佐、村田少佐の
3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された
ミッドウェー海戦後、51航戦参謀へ転出。
昭和19年7月24日、アリューシャン列島千島方面にて戦死。戦死にて中佐特進
  板谷隆一 海兵(60期、恩賜) 佐賀  板谷茂海軍中佐(海兵57期首席)は実兄
和16年):長門乗組、分隊長  昭和17年):名取砲術長
昭和19年):第二水雷戦隊参謀
昭和20年)4月:菊水一号作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加(矢矧に乗艦)、
         後に連合艦隊防備参謀
昭和32年):アメリカ海軍大学校に留学
昭和41年)4月:第10代海上幕僚長に就任
  飯田 房太
  いいだ ふさた

   
海兵(62期)を五番 霞ヶ浦海軍飛行学生 山口 
1940年9月、華中方面の前線部隊第一二航空隊
1941年9月に、航空母艦「蒼龍」の分隊長で真珠湾攻撃に参戦、
カネオへ海軍基地を攻撃中、房太の操縦する零式艦上戦闘機二一型は、燃料タンクに
被弾した。房太は、隷下の第二小隊長藤田怡与蔵中尉に、燃料切れを意味する
手信号手を振って、カネオへ海軍基地格納庫に向かって突入し、現地時間午前9時30分、
妻帯士官宿舎付近の舗装道路に激突した。
真珠湾攻撃で、二番機の厚見峻一飛曹、三番機の石井三郎二飛曹、ニイハウ島付近で
海面に突入し自爆)も未帰還となった。   戦死にて中佐昇格
  折笠 重康
  おりかさ
   しげやす


    

海兵(64期)・ 群馬 
大尉時代に「阿武隈」航海長に補職され、キスカ島撤退作戦に参加。
「阿武隈」は第一水雷戦隊司令官・木村昌福が率いる作戦部隊の旗艦で、
艦長は渋谷紫郎、その後の折笠は砲術学校高等科を卒業し、「若月」砲術長となる
「若月」はオルモック輸送作戦に参加しレイテ島への輸送任務に就く。
第二水雷戦隊司令官・早川幹夫に率いられ第三次輸送作戦に従事中、
米機動部隊の攻撃により「若月」は撃沈され、折笠は戦死した。
「若月」の戦死者は艦長以下290名であった。
  奥宮 正武 海兵(58期・第24期飛行学生卒高知 高知 昭和9年)空母「龍驤」となり、大村空分隊長
(昭和11年)12月、海軍大尉に昇進
1938年11月、当時海軍次官であった山本五十六中将夫妻の媒酌により乃婦子と結婚
昭和17年)4月、第四航空戦隊参謀に就任し、第26航空戦隊参謀、第二航空戦隊参謀、
第25航空戦隊参謀を歴任
昭和19年)8月、軍令部第1部第1課部員に異動。同年11月、海軍中佐に昇進。
  岡村 徳長
    とくなが



海兵(45期) 高知
昭和3年)2月29日、悪天候の中、搭乗していた一三式艦上攻撃機が佐賀県鹿島付近に
墜落・炎上し、岡村は顔に大火傷を負った。昭和7年)に起きた五・一五事件では、
事件同調者の一人であった
(昭和10年)、航空の発展を目指し、自ら申し出て予備役に編入し、中島飛行機に入社。
昭和16年、会社を他人に任せ充員召集を受けた。
ガダルカナル島の戦いでは第13設営隊隊長として活躍。後に中佐となり終戦を迎えた
  菅野 直
    なおし 

    
海兵(70期)、第38期飛行学生  宮城
1944年4月第343海軍航空隊(初代、通称「隼」部隊)分隊長として南洋に進出
1944年7月10日343空解隊後に第201海軍航空隊戦闘306の分隊長を任ぜられる。
菅野は部下を連れヤップ島に移動し派遣隊として7月10日〜23日B-24迎撃任務に当たる
派遣隊は撃墜17機(不確実9)撃破46機の戦果を上げて1航艦司令長官から表彰を受けた
2代目第343海軍航空隊(通称「剣」部隊)の戦闘301飛行隊「新選組」隊長に着任。
剣部隊司令は源田実。菅野の隊の撃墜王杉田庄一は菅野を慕っており菅野の悪口を
言うものがいれば殴りかかって行った
1945年8月1日九州に向けて北上中のB-24爆撃機編隊迎撃のため、隊長菅野以下
紫電改20数機は大村基地を出撃した。屋久島近くに達すると島の西方にB-24の
一団を発見し敵上方より急降下に菅野の行方も生死も不明のまま終戦を迎えた。
9月20日源田は菅野を空戦での戦死として二階級特進を具申し、
8月1日の戦死と正式に認定され中佐に昇進した
 杉江 一三
 すぎえ いちぞう
海兵(56期)・海大(甲種37期) 愛知 昭和15年):海軍大臣副官兼秘書官
昭和18年):南西方面艦隊参謀  昭和19年):海軍省軍務局第1課
昭和20年):第11突撃隊副隊長(油壺湾にて特攻兵器震洋を運用)
昭和38年)7月:第5代海上幕僚長に就任
  鈴木 實 東京  海兵60期・第26期飛行学生(霞ヶ浦)佐伯空、大分空、鹿島空各分隊長を経て、
1938年6月、海軍大尉に昇進  1944年8月に中佐進級
主に神風特攻隊を送り出す立場となった
  工藤 俊作 海兵(第51期) 山形   同期には大井篤や実松譲、豊田隈雄、小園安名
1927年、駆逐艦「椿」に転属、1929年、駆逐艦「旗風」の航海長
1930年に軽巡洋艦「多摩」、翌年に水雷学校高等科で学ぶ。1932年に水雷学校を卒業
駆逐艦「桃」水雷長、重巡洋艦「鳥海」分隊長、駆逐艦「狭霧」水雷長、軽巡「球磨」水雷長、
「多摩」水雷長、軽巡「五十鈴」水雷長を歴任
1937年、海軍少佐に昇進 翌年、駆逐艦「太刀風」艦長
942年8月に駆逐艦「響」艦長に就任、11月に海軍中佐に進級した
「響」は改装空母「大鷹」を護衛し、横須賀とトラック島間を三往復
1944年11月から体調を崩し、翌年3月15日に待命となった。
身長185p、体重95sといった日本人離れした体格を誇り、柔道の有段者であったが、
性格ははおおらかで温和であった。そのため「工藤大仏」という渾名がついたという。
1942年3月、駆逐艦「雷」艦長であった際、スラバヤ沖海戦で撃沈された英国艦船の
漂流乗組員422名を救助した。
  小福田
     晧文

  こふくだ
   てるふみ

海兵(59期)・昭和8年)11月:霞ヶ浦海軍航空隊で学ぶ岡山
昭和17年)7月:第六航空隊(のち第204海軍航空隊)に配属
昭和18年)4月6日:横須賀海軍航空隊に配属、4月15日:厚木海軍航空隊に配属
                        6月:再度を海軍航空技術廠飛行実験部に配属 
昭和20年)8月15日:終戦を三沢基地(三沢飛行隊)で迎える
昭和40年)7月:中部航空方面隊司令官(空将)
  鈴木 勝
      すぐる


海軍大学校甲種38期に合格するが、教育課程は約半年で中断し第六航空戦隊参謀
第三艦隊参謀兼副官を経て人事局員となる。
すでに日米開戦は間近で鈴木は商船に乗り込み、南雲機動部隊による真珠湾攻撃の
予定航路の気象状況、商船通行状況などを実地調査し、在ホノルル日本総領事館との
秘密連絡も行った。
開戦後は海軍大学校で再度の甲種過程教育を受け卒業。第八五一航空隊飛行長、
第二十八航空戦隊参謀など南方戦線で飛行艇部隊による哨戒などを担当した。
航空本部員、軍令部作戦課員を歴任し終戦を迎える
陸軍大将・鈴木孝雄の次男で、妻は海軍大将・岡田啓介の次娘・喜美子。
   関  衛
     まもる

   
海兵(58期) 昭和8年)練習航空隊飛行学生 山形 
関は和田鉄次郎とともに、日本海軍の最初の急降下爆撃機操縦員の一人である
昭和16年)10月少佐に進級 昭和17年)7月、「翔鶴」飛行隊長に就任
昭和17年)8月24日、第二次ソロモン海戦に参戦し、関は第一次攻撃隊、
九九式艦上爆撃機27機、零式艦上戦闘機10機を率い「エンタープライズ」に爆弾3発を
命中させるなどの戦果を挙げた
同年10月26日南太平洋海戦で関隊は「エンタープライズ」に爆弾3発を命中させた
ただし関隊を第一次攻撃隊とし「ホーネット」を攻撃したとする資料もある。
米側の記録によれば、関機は被弾したのち「ホーネット」に突入し自爆した戦死
日本側の目撃証言によれば、駆逐艦への突入となっている
南太平洋海戦は日本機動部隊が収めた最後の戦勝であったが、未帰還機は69機を数え、
関、村田をはじめ歴戦の搭乗員多数を失った。
田辺 弥八

海兵(56期)香川  通信学校甲種  同期に高橋赫一、大谷藤之助、三上作夫
第二潜水戦隊参謀を1年8ヶ月務め、1940年(昭和15年)11月少佐へ進級
潜水学校甲種学生で4ヶ月ほどの教育を受け、「呂五九潜」艦長として太平洋戦争を迎えた。
昭和17年)1月、「伊一六八潜」艦長となり、ミッドウェー海戦に出撃する。
曳航されていた「ヨークタウン」及び駆逐艦「ハムマン」を雷撃し撃沈した。
海戦終了後に「伊一七六潜」艦長に転じ南方へ出撃。
10月20日には米重巡「チェスター」を雷撃。
ガダルカナル島への輸送任務に従事中、米戦闘機の銃撃により負傷し帰国
昭和19年)5月に中佐へ進級
 種子島 洋二 海兵(55期)  鹿児島
昭和13年)、第二連合航空隊参謀。(昭和14年)「若竹」艦長、(昭和15年)「薄雲」艦長、
(昭和16年)「汐風」艦長、(昭和17年)「村雨」艦長。
1942年「村雨」の艦長として、ブーゲンビル島ブイン基地に輸送の帰路、
ビラ・スタンモーア夜戦において米駆逐艦群のレーダー射撃攻撃を受け撃沈、
自力での20時間の漂流の末、コロンバガラ基地に収容された。
1943年内地帰還、横須賀鎮守府付より第1輸送隊長着任。当時米軍の
猛攻の前に玉砕寸前だった。コロンバンガラ島守備隊12000名を一隻の護衛艦艇もない
状況の中で大発艇100隻で救出し、
200km離れたブーゲンビル島に撤収させる「セ」号作戦を成功させた。
(昭和19年)第一輸送隊長、海軍中佐に進級。第88警備隊司令
昭和20年)8月、ブーゲンビル島にて終戦。
  千早 正隆
 ちはやまさたか



海兵(第58期)・砲術学校専攻科・海大甲種(39期) 鹿児島、
台湾、同期生に江草隆繁、村田重治、関衛
台湾総督府官吏である父・千早清次郎の長男、千早猛彦海軍大佐は弟
昭和17年)10月10日第十一戦隊参謀となる。
「比叡」に乗組み第三次ソロモン海戦に参加して負傷。
卒業後第四南遣艦隊作戦参謀となり、次いで
1945年(昭和20年)2月連合艦隊作戦乙参謀
4月には海軍総隊参謀を兼ね終戦を迎えた。
  友永 丈市
 ともなが
    じょういち
 
 
     
海兵(59期)・飛行学生25期  大分  日中戦争には空母「加賀」乗組みで参戦した。
太平洋戦争開戦当時は海軍大尉で霞ヶ浦空分隊長
昭和17年)4月空母「飛龍」の艦上攻撃機隊飛行隊長となった
友永はミッドウェー空襲隊隊長として、零式艦上戦闘機36機、九九式艦上爆撃機36機、
九七式艦上攻撃機36機、合計108機を率いて発進した
本来ならば淵田美津雄中佐が総指揮官として出撃するはずだったが、
友永の九七式艦上攻撃機(偵察員 赤松作 少尉、電信員 村井定 一飛曹)は、
ミッドウェー島を攻撃した際に被弾し、燃料タンクに穴が開いていた。
対空砲火で被弾炎上し「ヨークタウン型艦橋付近に激突自爆せること判明す」と記録
戦死
海軍中佐に2階級特進
  当山 全信
   とうやま
   ぜんしん


   
海兵(59期)    伊号第四八潜水艦艦長
1945年1月8日、回天特別攻撃隊金剛隊として4隻の回天を載せ出撃した。
この作戦行動はウルシー泊地に在泊する米国艦隊を攻撃目標
1945年1月11日に攻撃を行い、さらに1月21日に攻撃を行うというもので、
当山には21日の攻撃がじられた。同じ攻撃を三度繰り返す危険を
訴えたが受け入れられず、当山は出撃し、同泊地を攻撃した。
米国艦隊の重要拠点の警戒は厳重であり、
伊48潜は離脱することができず撃沈され、当山は戦死した。
  中島 親孝 海兵(54期)・海軍通信高等科を首席・海大甲種(37期)  佐賀  
1941年9月第二艦隊参謀
在任中に太平洋戦争開戦を迎え、南方平定作戦に参加し、インド洋平定作戦を担当
ミッドウェー海戦前に、南雲機動部隊の空母集中方式の危険性を指摘している
1942年4月に再編された第三艦隊通信参謀となり、南太平洋海戦などに参戦した。
横須賀鎮守府附を経て、1943年11月連合艦隊情報参謀となり、
次いで海軍総隊参謀を兼ね終戦まで同職にあった。
中島 正

海兵(第58期)・飛行第24期  福岡 1934年11月空母「赤城」乗組
1936年12月海軍大尉。空母「加賀」分隊長 1941年10月海軍少佐
太平洋戦争開戦後、台南空飛行隊長に就任、台南空は緒戦にフィリピン、蘭印など
各地を転戦した後、南太平洋のニューブリテン島ラバウル基地に進駐した。こののち、
台南空はガダルカナル島、東ニューギニア戦線において航空戦に参加。
1944年7月201空飛行長に就任  1945年1月制空部隊343空副長
隊員たちに343空も特攻へ使われるのかと不安が漂ったが、菅野直隊長が源田実司令に
働きかけて中島を早々に転任させた。  723空副長として終戦を迎える
  中山 定義 海兵(54期)・海水雷高等科(32期) 島根 昭和7年12月1日任 海軍大尉
海軍大学校甲種第36期 任 海軍少佐  昭和14年11月 支那方面艦隊通信参謀
昭和16年)8月 在ブラジル日本大使館附海軍駐在武官補佐官
昭和17年)5月  在チリ日本公使館附海軍駐在武官
昭和18年)1月- 日丁間国交断絶に拠り身柄抑留
昭和19年)11月- 海軍省軍務局先任局員  昭和36年)8月15日- 海上幕僚長
  中馬 兼四




   
海兵66期 鹿児島県 海兵66期は、219名の同期生のうち143名が戦死
中馬と同様に特殊潜航艇艇長としてシドニー湾攻撃で戦死した松尾敬宇、
同日にマダガスカル攻撃で戦死した秋枝三郎は同期生であった。
昭和14年6月、少尉任官。潜水艦砲術長などを経て、秋枝、松尾らとともに
特潜搭乗員として選抜され水上機母艦「千代田」乗組みとして訓練を受ける。
シドニー湾攻撃:昭和17年)5月18日、「伊27」に乗艇を搭載し、中馬は艇附きの
大森猛一等兵曹ととともにトラックを出撃した。中馬の属す東方先遣隊の指揮官は
真珠湾攻撃でも特潜部隊を指揮した。佐々木半九大佐で、佐々木は潜水艦搭載機の
偵察報告から攻撃目標をシドニー湾に定める。
当時のシドニー港は、磁気探知機、防潜網、探照燈、駆潜艇による防衛体制が
とられていたが軍港地帯である西港付近でスクリューが防潜網にからまり行動の自由を失う
監視員の報告から哨戒艇が爆雷攻撃を開始した直後、中馬艇は自爆装置によって自爆し、
中馬、大森は戦死した。二階級特進により最終階級は海軍中佐
中馬、大森艇は6月5日、松尾、都竹正雄艇はその前日に引揚げられ、遺体は収容された。
豪州海軍は四名の戦死者を海軍葬の礼をもって遇し、遺骨は交換船によって日本に戻り、
1943年(昭和18年)3月には呉で合同葬儀が行われた。
  橋本 以行
  はしもと
    もちつら

海兵(59期)・海軍潜水学校甲種 京都 昭和18年) - 潜水艦「伊158」、「呂44」艦長
昭和19年潜水艦「伊号第五八潜水艦」艦長(〜終戦)
昭和20年)7月30日 - 米海軍重巡洋艦『インディアナポリス 』を撃沈 有名
潜水艦『伊58』艦長時、撃沈した艦船は原子爆弾をテニアンまで運搬した
アメリカ海軍重巡洋艦である
平成12年)死去、享年91
  藤村 義朗 海兵(55期)・海大(甲種37期)を首席  大阪
1940年5月、ドイツ駐在(マクデブルク大学)となり、
同年11月、ドイツ大使館付武官補佐官に就任
昭和18年)11月、海軍中佐に進級、
昭和19年)6月、フランス大使館付武官補佐官に転じ、
同年10月、ドイツ大使館付武官補佐官を兼務
太平洋戦争末期の5月頃より、ドイツ人フリードリヒ・ハックを介して、アメリカの情報機関
(OSS)のヨーロッパでの責任者だったアレン・ウェルシュ・ダレスを相手とした対米和平・
終戦工作に奔走したとされる
 松尾 敬宇
    けいう

   
海兵(66期) 熊本   昭和16年)4月 - 「千代田」乗組
12月 - ハワイ真珠湾攻撃、第一次特別攻撃隊に指揮官付として参加
昭和17年)5月 - 海軍大尉。特殊潜航艇艇長としてシドニー湾を襲撃し、
戦死、海軍中佐に特進(2階級特進)
シドニー湾攻撃に特殊潜航艇艇長として参加。魚雷発射管の故障により攻撃が叶わず、
艇を米重巡「シカゴ」へ体当たりさせることで、魚雷を爆発させようと図ったが、
小接触におわり叶わなかった。その後松尾は部下の都竹正雄二等兵曹(戦死後海軍兵曹長)と
拳銃で自決した。オーストラリア海軍により遺体は海軍葬をもって葬られた。
戦時交換船の「鎌倉丸」により日本へ帰国した。
  三原 元一
   げんいち


   
海兵(55期) 広島
昭和12年9月30日、三原は大攻6機を率いて江湾鎮、南翔鎮を爆撃した。
高雄空は湖南省、江西省、福建省、広東省に所在する中国軍飛行場を連日のよう爆撃した。
昭和14年11月、少佐へ進級
昭和15年一五空飛行長、翌年4月第二三航空戦隊(高雄空、第三航空隊)参謀、
9月横空飛行長を歴任
昭和17年)10月、七〇五空飛行長に補される。この補職は同期生の
遠藤谷司少佐(のち戦死)が健康を損ねた。ことによる交代であった。12月には檜貝が
七〇一空飛行長に補され、三原、檜貝の二人が
ラバウル方面陸攻部隊を率いることとなった。この二人の着任は部隊の士気を高めたという
18年2月三原はラバウルブナカナウ飛行場から陸攻14機で薄暮攻撃に向かったが、
再び悪天候に妨げられ引き返す。三原は雲上飛行を選択し基地付近にたどり着いたが、
ここも悪天候に見舞われていた。三原機は後続機と接触し墜落。三原は戦死した。
  三上 作夫

海兵(56期)・海大甲種37期、広島  同期生に高橋赫一、大谷藤之助、田辺弥八ら
第一水雷戦隊砲術参謀として太平洋戦争開戦を迎え、真珠湾攻撃などに参戦した。
(昭和17年)3月軍令部作戦部員(情報) 昭和19年)9月連合艦隊作戦参謀
昭和20年)5月海軍総隊参謀      (ミッドウェイ海戦、レイテ沖海戦、天一号作戦等に関与)
  吉田 俊雄
海兵(59期)・海大  長崎    昭和17年)11月少佐 
昭和19年)2月、軍令部勤務のまま永野修身元帥の副官となりまた米内光政、嶋田繁太郎の
副官を務めている。
    各艦艇の艦長
名前  艦艇名・艦長赴任年月・艦艇の最後 その後経歴
             水上機母艦
13.山県駿二 水上機母艦:能登呂(のとろ)1940年10月19日 -
             特設巡洋艦
 大石 保 愛国丸(あいこくまる):1942年8月15日 - 1943年4月5日   海軍少将
             駆遂艦歴代艦長
  吹雪型 駆逐艦:東雲(しののめ)
香川清登 駆逐艦:東雲(しののめ)1937年11月15日 - 昭和18年セント・ジョージ岬沖海戦において戦死、海軍少将
金岡国三 駆逐艦:東雲(しののめ)1938年12月15日 -
古閑孫太郎 駆逐艦:東雲(しののめ)1939年12月1日 -
笹川 博
   
駆逐艦:東雲(しののめ)1940年10月15日 - 1941年12月17日同艦と共に戦死
(昭和16年)12月東雲はミリ沖から東のセリアに向かう為に船団を離れ単独行動を取った。その後沈没
オランダ軍の所属飛行艇が駆逐艦を爆撃して3発の命中弾と至近弾1発を与えたと報告しているが不明戦死
 駆逐艦:薄雲 
小山猛夫 駆逐艦:薄雲(うすぐも)1941年2月10日 -1942年6月19日
 駆逐艦:磯波
緒方友兄 駆逐艦:磯波(いそなみ)1939年11月15日 -
 駆逐艦:浦波   
仙波繁雄 駆逐艦:浦波(うらなみ)1939年11月15日 -
 駆逐艦:綾波  
7.原為一 駆逐艦:綾波(あやなみ)1938年12月1日 - 川棚突撃隊司令を経て、第31突撃隊司令 大佐
9.作間英邇 駆逐艦:綾波(あやなみ)1941年9月12日 -
昭和16年)12月19日には「浦波」及び「夕霧」とともにオランダ海軍の潜水艦O-20を砲撃によって撃沈している
 駆逐艦:天霧  
9.芦田部一 駆逐艦:天霧(あまぎり)1940年9月1日 -
 駆逐艦:狭霧
10.白浜政七 駆逐艦:狭霧(さぎり)1939年11月15日 -
11.杉岡幸七 駆逐艦:狭霧(さぎり)1940年11月15日 -
昭和16年12月24日、クチンから約35マイル沖を航行中オランダ潜水艦「K XVI」の雷撃を受けて沈没した。
 駆逐艦:潮   
上杉義男 駆逐艦:潮(うしお)1941年10月1日 -
神田武夫 駆逐艦:潮(うしお)1943年1月20日 -
  初春型 初春
見豊治 駆逐艦:初春(はつはる)1943年5月20日 - 「村雨」,「白雲」,「巻波」「初春」,各駆逐艦長歴任
 駆逐艦:矢風 
23.土橋豪実 駆逐艦:矢風(やかぜ)1942年6月27日 -
 朝潮型 駆逐艦:朝潮
4.藤田勇 駆逐艦:朝潮(あさしお )1940年10月15日 -
 駆逐艦:大潮   
4.渡辺保正 駆逐艦:大潮(おおしお )1939年10月15日 -
5.吉川潔 駆逐艦:大潮(おおしお )1940年11月15日 - 駆逐艦「大波」艦長昭和18年11月25日沈没戦死、海軍少将
6.広瀬弘 駆逐艦:大潮(おおしお )1942年12月20日 -
昭和18年)2月アドミラルティ諸島のマヌス島沖で米潜「アルバコア」の雷撃を 受け航行不能となり、
翌21日沈没受け航行不能となり、翌21日沈没
 駆逐艦:満潮  駆逐艦:朝雲
7.戸村清 駆逐艦:満潮(みちしお )1942年8月20日 -
8.鈴木保厚 駆逐艦:満潮(みちしお )1943年1月25日 -
9.原口昇 駆逐艦:満潮(みちしお )1943年10月15日 -
3.脇田喜一郎 駆逐艦:朝雲(あさぐも)1939年10月10日 -
4.有近六次 駆逐艦:朝雲(あさぐも)1940年11月15日 -
5.岩橋 透 駆逐艦:朝雲(あさぐも)1941年8月20日 -
6.柴山一雄 駆逐艦:朝雲(あさぐも)1943年6月10日 -
昭和19年10月25日、レイテ沖海戦では西村艦隊に属してスリガオ海峡に突入、
米艦艇の攻撃により沈没。
 駆逐艦:夏雲  駆逐艦:峯雲  
5.塚本守太郎
    
駆逐艦:夏雲(なつぐも)1940年1月25日 - 1942年10月12日同艦と共に戦死
1942年10月12日サボ島沖海戦でサボ島沖で米軍機の至近弾を受け浸水により沈没。
3.鈴木保厚 駆逐艦:峯雲(みねぐも)1940年10月15日 -
4.上杉義男
   
駆逐艦:峯雲(みねぐも)1943年2月1日 - 3月5日戦死
昭和18年)3月5日コロンバンガラ輸送作戦に「村雨」と共に従事中、ビラ・スタンモーア夜戦において
米駆逐艦群のレーダー射撃攻撃を受け、両艦とも撃沈された。
 駆逐艦:霞  
3.戸村清 駆逐艦:霞(かすみ)1940年11月15日 -
駆逐艦:霰(あられ)1939年4月15日 -   
1.大原利通 駆逐艦:霰(あられ)1939年4月15日 -
 陽炎型 陽炎
2.天野重隆 駆逐艦:陽炎(かげろう)1939年11月1日 -
3.横井稔 駆逐艦:陽炎(かげろう)1940年10月15日 -
4.有本輝美智 駆逐艦:陽炎(かげろう)1941年12月22日 -
 1943年5月8日コロンバンガラ島ビラ沖陽炎が触雷し航行不能で再度爆撃で沈没
 駆逐艦:不知火   
1.中村謙治 駆逐艦:不知火(しらぬい )
2.赤沢次寿雄 駆逐艦:不知火(しらぬい )
3.安並正俊 駆逐艦:不知火(しらぬい )
 駆逐艦:黒潮(くろしお)1940年1月27日 -   
1.岡本次郎 駆逐艦:黒潮(くろしお)1940年1月27日 -
2.前川新一郎 駆逐艦:黒潮(くろしお)1940年11月15日 -
3.宇垣環 駆逐艦:黒潮(くろしお)1941年9月10日 -
4.竹内一 駆逐艦:黒潮(くろしお)1942年11月10日 -
5.杉谷永秀 駆逐艦:黒潮(くろしお)1943年2月23日 -
 1943年5月8日コロンバンガラ島ビラ沖陽炎が触雷し沈没
 駆逐艦:親潮   
1.金岡国三 駆逐艦:親潮(おやしお)1940年8月20日 -
2.有馬時吉 駆逐艦:親潮(おやしお)1941年9月12日 -
 駆逐艦:早潮   
1.山隈和喜人 駆逐艦:早潮(はやしお)1940年8月31日-
2.金田清之 駆逐艦:早潮(はやしお)1941年9月1日-
 昭和17年11月24日ラエ東方でB-17爆撃機7機の攻撃を受ける。火災が発生し、誘爆を起こして沈没
 駆逐艦:夏潮  
1.野間口兼知 駆逐艦:夏潮(なつしお)1940年8月31日 -
2.長井純隆 駆逐艦:夏潮(なつしお)1941年10月20日 -
 1942年2月8日マカッサル沖で米潜「S37」の雷撃を受け艦後部に命中、船体水没後水中にて夏潮は自爆した。
 駆逐艦:初風  
1.高橋亀四郎 駆逐艦:初風(はつかぜ)1940年2月15日 -
2.岡三知夫 駆逐艦:初風(はつかぜ)1942年12月15日 -
3.渡辺保正 駆逐艦:初風(はつかぜ)1942年12月28日 -
4.芦田部一
   
駆逐艦:初風(はつかぜ)1943年7月1日 - 11月2日同艦と共に戦死
昭和18年11月2日ブーゲンビル島沖海戦に参加。「妙高」と衝突し艦首を切断、航行不能となる、
その後敵駆逐艦隊の集中砲火を浴び戦没。艦長以下164名戦死。
 駆逐艦:雪風
1.田口正一 駆逐艦:雪風(ゆきかぜ)1939年12月5日 -
2.脇田喜一郎 駆逐艦:雪風(ゆきかぜ)1940年11月15日 -
3.飛田健二郎 駆逐艦:雪風(ゆきかぜ)1941年7月25日 -
4.菅間良吉 駆逐艦:雪風(ゆきかぜ)1942年6月23日 -
6.古要桂次 駆逐艦:雪風(ゆきかぜ)1945年5月10日 -
7.橋本以行 駆逐艦:雪風(ゆきかぜ)1945年11月20日 - 潜水艦『伊58』艦長   海軍中佐
10.東日出夫 駆逐艦:雪風(ゆきかぜ)1947年4月 - 8月
本艦は16回以上の主要な作戦に参加し、戦果を上げつつほとんど無傷で終戦を迎え
「奇跡の駆逐艦」と呼ばれた。1947年7月3日、「雪風」は上海に到着、7月6日に中華民国に
引き渡されて「丹陽(タンヤン)」と改名された。
 駆逐艦:天津風  
1.原為一 駆逐艦:天津風(あまつかぜ)1940年10月26日 -
2.田中正雄 駆逐艦:天津風(あまつかぜ)1943年1月10日 -
 駆逐艦:時津風  
1.中原義一郎 駆逐艦:時津風(ときつかぜ)1940年12月15日 -
2.本倉正義 駆逐艦:時津風(ときつかぜ)1942年9月3日 -
 昭和18年3月3日、ビスマルク海海戦においてアメリカ軍機およびオーストラリア軍機の空襲を受けた。
 漂流中の同艦を日本軍が艦爆9機で爆撃を行ったが失敗に終わった。同日午後に米軍が爆撃を行い撃沈した。
 駆逐艦:浦風 
1.白石長義 駆逐艦:浦風(うらかぜ)1940年12月15日 -
2.岩上次一 駆逐艦:浦風(うらかぜ)1942年 9月 8日 -
3.吉田正一 駆逐艦:浦風(うらかぜ)1943年 8月20日 -
駆逐艦:磯風  
1.白浜政七 駆逐艦:磯風(いそかぜ)1940年11月15日-
2.磯久研磨 駆逐艦:磯風(いそかぜ)1941年 2月25日-
3.豊島俊一 駆逐艦:磯風(いそかぜ)1941年 9月10日-
駆逐艦:浜風  
1.折田常雄 駆逐艦:浜風(はまかぜ)1941年6月30日 -
3.前川万衛 駆逐艦:浜風(はまかぜ)1943年9月20日 -
 昭和20年4月7日、戦艦「大和」を護衛し坊ノ岬沖海戦に参加する魚雷が
 右舷船体中央部に命中し沈没した
 駆逐艦:谷風  
1.新谷喜一 駆逐艦:谷風(たにかぜ)1941年 4月25日 -
2.勝見基 駆逐艦:谷風(たにかぜ)1941年 9月15日 - 1943年1月15日ラエ輸送作戦中に勝見艦長戦死
3.戸村清 駆逐艦:谷風(たにかぜ)1943年 1月25日 -
4.前川新一郎 駆逐艦:谷風(たにかぜ)1943年 4月25日 -
 駆逐艦:野分  
1.古閑孫太郎 駆逐艦:野分(のわき)1941年 4月28日 -
3.神田武夫 駆逐艦:野分(のわき)1943年 7月 3日 -
4.守屋節司
   
駆逐艦:野分(のわき)1943年12月25日 - 1944年10月25日同艦と共に戦死
1944年10月25日巡洋艦「ヴィンセンス」、「ビロックス」、「マイアミ」、駆逐艦「オーエン」、
「ミラー」によるレーダー射撃を受け大破後、駆逐艦の魚雷を受け沈没
 駆逐艦:嵐
1.渡辺保正 駆逐艦:嵐(あらし)1940年11月25日 -
2.杉岡幸七
   
駆逐艦:嵐(あらし)1942年11月15日 - 1943年8月6日同艦と共に戦死
1943年8月6日ベラ湾夜戦で米水上部隊と交戦しソロモン諸島コロンバンガラ島沖にて
魚雷が命中し戦没
 駆逐艦:萩風 
1.井上良雄 駆逐艦:萩風(はぎかぜ)1941年 3月31日 -
2.岩上次一 駆逐艦:萩風(はぎかぜ)1942年 5月 5日 -
 駆逐艦:舞風  
1.中杉清治 駆逐艦:舞風(まいかぜ)1941年 7月15日 -
2.萩尾力
    
駆逐艦:舞風(まいかぜ)1943年 6月22日 - 1944年2月17日戦死
昭和19年2月17日トラック島付近にて、米軍戦艦と重巡洋艦の集中砲撃を受けて沈没した。
磯久研磨第四駆逐隊司令、萩尾力艦長、以下240名戦死
駆逐艦:秋雲  
1.有本輝美智 駆逐艦:秋雲(あきぐも)1941年 9月27日 -
2.相馬正平 駆逐艦:秋雲(あきぐも)1941年12月23日 -
 島風型 島風
1.広瀬弘 駆逐艦:島風(しまかぜ)1943年5月10日 -
2.上井宏 駆逐艦:島風(しまかぜ)1943年10月5日 -
昭和19年11月4日、第二水雷戦隊旗艦となり、司令官早川幹夫少将の将旗が翻った。
敵艦載機347機はオルモック湾に至る水道内で攻撃され早川少将以下
第二水雷戦隊司令部と乗員合わせて430名が戦死
 秋月型 秋月
1.古賀弥周次 駆逐艦:秋月(あきづき)1942年6月11日 -
2.緒方友兄 駆逐艦:秋月(あきづき)1943年10月8日 -
1944年10月25日エンガノ岬沖海戦に参加機動部隊の援護射撃中爆発、沈没する
 駆逐艦:涼月  
1.赤沢次寿雄 駆逐艦:涼月(すずつき)1942年12月29日 -
2.瀬尾昇 駆逐艦:涼月(すずつき)1944年1月10日 - 1944年1月16日戦死( 沖の島西方海上アメリカ潜水艦爆撃)
4.杉谷長秀 駆逐艦:涼月(すずつき)1944年7月10日 -
5.平山敏夫 駆逐艦:涼月(すずつき)1945年3月10日 -
昭和20年4月6日坊ノ岬沖海戦参戦し大和の護衛で戦闘不能で「大和」沈没ご帰投するが、
損傷が酷く、沈没したと思われていたが、
4月8日9時32分、
指宿航空隊機により、発見 佐世保に帰投する
 駆逐艦:初月
1.田口正一 駆逐艦:初月(はつづき)1942年12月29日 -
2.橋本金松
  
駆逐艦:初月(はつづき)1944年 8月 1日 - 10月25日同艦と共に戦死
昭和19年エンガノ岬沖海戦で瑞鶴の護衛艦として参加、米艦隊が接近し砲戦となる。
初月は撃沈された
 駆逐艦:新月  
1.金田清之
  
駆逐艦:新月(にいづき)1943年3月31日 - 7月6日同艦と共に戦死
1943年7月、コロンバンガラ島輸送任務中、米艦隊との戦闘となり、敵艦の集中砲火を受け沈没
 駆逐艦:若月
1.鈴木保厚
  
駆逐艦:若月(わかつき)1943年5月31日 - 1944年11月11日同艦と共に戦死
1944年11月11日、オルモック輸送作戦における船団護衛中米軍機の攻撃を受け沈没
 駆逐艦:冬月  
1.作間英邇 駆逐艦:冬月(ふゆづき)1944年5月25日 -
2.山名寛雄 駆逐艦:冬月(ふゆづき)1945年3月1日 -
門司で防空砲台として使用されて終戦を迎える。戦後工作艦として使用。1948年解体
 駆逐艦:春月  
1.古浜智 駆逐艦:春月(はるつき)1944年12月28日 -
ソ連に賠償艦として引き渡された。
 駆逐艦:宵月  駆逐艦:夏月
1.中尾小太郎 駆逐艦:宵月(よいづき)1945年1月31日 -
2.荒木政臣 駆逐艦:宵月(よいづき)1945年2月10日 -
昭和20年7月24日の呉軍港空襲で被弾損傷。損傷箇所を残したまま8月15日の終戦を迎えた。
賠償艦として中華民国に引き渡された
1.西野繁 駆逐艦:夏月(なつづき)1945年4月8日 -
1945年4月8日、佐世保工廠にて竣工。戦後復員輸送に従事。
1947年戦時賠償艦としてイギリスに引き渡れた
 夕雲型 夕雲
1.仙波繁雄 駆逐艦:夕雲(ゆうぐも)1941年12月5日 -
2.大迫東
  
駆逐艦:夕雲(ゆうぐも)1943年3月25日 - 10月6日同艦と共に戦死
1943年10月6日、第二次ベララベラ海戦で米水上部隊と
交戦しソロモン諸島ベララベラ島沖にて戦没
 駆逐艦:風雲  
1.吉田正義 駆逐艦:風雲(かざぐも)1942年3月28日 -
 駆逐艦:長波  
1.隈部伝 駆逐艦:長波(ながなみ)1942年6月30日 -
 駆逐艦:巻波
1.人見豊治
   
駆逐艦:巻波(まきなみ)1942年8月18日 - 1943年11月25日同艦と共に戦死
1943年11月25日、セントジョージ岬沖海戦で米水上部隊と交戦しブーゲンビル島沖にて戦没
 駆逐艦:高波  
1.小倉正身
   
駆逐艦:高波(たかなみ)1942年8月31日 - 11月30日同艦と共に戦死
1942年11月30日、ルンガ沖夜戦で米水上部隊と交戦しガダルカナル島沖にて戦没
 駆逐艦:大波
1.吉川潔 駆逐艦:大波(おおなみ)1942年12月29日 - 1943年11月25日同艦と共に戦死
    1943年11月25日セントジョージ岬沖海戦にて米水上部隊に奇襲を受け被雷。その後僅か4分で沈没
 駆逐艦:清波  
1.有馬時吉
   
駆逐艦:清波(きよなみ)1943年1月25日 - 7月20日同艦と共に戦死
1944年7月7日、米潜水艦「ミンゴ」の雷撃によりフィリピン諸島ルソン島マニラ湾沖にて戦没
 駆逐艦:玉波  
1.作間英邇 駆逐艦:玉波(たまなみ)1943年4月30日 -
2.青木久治 駆逐艦:玉波(たまなみ)1943年7月7日 -
3.千本木十三四
   
駆逐艦:玉波(たまなみ)1944年6月15日 - 7月7日同艦と共に戦死
1944年7月7日、米潜水艦「ミンゴ」の雷撃によりフィリピン諸島ルソン島マニラ湾沖にて戦没
 駆逐艦:涼波  
1.神山昌雄 駆逐艦:涼波(すずなみ)1943年7月31日 - 11月11日同艦と共に戦死
1943年11月11日、米空母艦載機の攻撃によりラバウル港沖にて戦没
 駆逐艦:藤波  
1.松崎辰治 駆逐艦:藤波(ふじなみ)1943年7月31日 - 1944年10月27日同艦と共に戦死
     1944年10月27日、レイテ沖海戦で米空母艦載機の攻撃によりシブヤン海にて戦没
 駆逐艦:早波  
1.清水逸郎
   
駆逐艦:早波(はやなみ)1943年7月31日 - 1944年6月7日同艦と共に戦死
1944年6月7日、米潜水艦「ハーダー」の雷撃によりタウイタウイ島沖にて戦没。
 駆逐艦:浜波
1.本倉正義 駆逐艦:浜波(はまなみ)1943年10月15日 -
1944年11月11日、第三次オルモック輸送作戦で米空母艦載機の攻撃により戦没
 駆逐艦:沖波 
1.牧野坦 駆逐艦:沖波(おきなみ)1943年12月10日 -
1944年11月13日、米空母艦載機の攻撃によりマニラ湾にて戦没
 駆逐艦:岸波  
1.三船敏郎
   
駆逐艦:岸波(きしなみ)1943年12月3日 - 12月4日同艦と共に戦死
1944年12月4日、米潜水艦「フラッシャー」の雷撃によりパラワン島沖にて戦没
 駆逐艦:朝霜  
1.前川二三郎 駆逐艦:朝霜(あさしも)1943年11月27日 -
2.杉原与四郎
   
駆逐艦:朝霜(あさしも)1944年1月27日 - 1945年4月7日同艦と共に戦死
天一号作戦昭和20年4月6日奄美大島近海朝霜は艦尾部に爆弾3発が命中して艦尾から沈没
 駆逐艦:早霜  
1.荒井靖夫 駆逐艦:早霜(はやしも)1944年2月20日 -
 駆逐艦:清霜  
2.梶本 駆逐艦:清霜(きよしも)1944年9月5日 -
 白露型 駆逐艦:夕立
6.吉川潔 駆逐艦:夕立(ゆうだち)1942年5月25日 - 12月20日 「大波」艦長セントジョージ岬沖海戦にて戦死 中佐
 駆逐艦:海風   
6.三船敏郎 駆逐艦:海風(うみかぜ)1943年2月10日 - 駆逐艦:岸波で戦死
 松型 
1.山下正倫
   
駆逐艦:桑(くわ)1944年7月25日 - 12月3日戦死
1944年7月25日竣工(藤永田)。同年12月3日オルモック湾で沈没
       一等潜水艦
 巡潜1型 伊号第一
12.小田為清 伊号第一潜水艦 1940年7月6日 -
13.大谷清教 伊号第一潜水艦 1940年10月30日 -
14.安久栄太郎 伊号第一潜水艦 1941年8月25日 -
 伊号第三潜水艦  
16.殿塚謹三 伊号第三潜水艦 1940年11月5日 -
17.戸上一郎
    
伊号第三潜水艦 1942年5月20日 -  同艦と共に戦死
昭和17年12月9日、ガダルカナル島輸送中に、アメリカ海軍魚雷艇「PT−59」の攻撃により戦没
 伊号第四潜水艦  伊号第五潜水艦  
9.中川肇 伊号第四潜水艦 1941年10月31日 -
9.七字恒雄 伊号第五潜水艦 1940年10月19日 -
10.中村乙二 伊号第五潜水艦 1942年2月5日 -
 巡潜2型 伊号第六潜水艦
6.楢原省吾 伊号第六潜水艦1940年10月30日-   昭和19年)7月「伊号第6潜水艦」が戦没 海軍少将
 巡潜3型 伊号第七潜水艦
6.永井宏明 伊号第七潜水艦1940年10月30日 -
7.小泉麒一 伊号第七潜水艦1941年8月20日 -
 伊号第八潜水艦
3.江見哲四郎 伊号第八潜水艦1941年10月31日
4.内野信二 伊号第八潜水艦1942年7月25日 - 小豆島突撃隊の司令  海軍大佐
5.有泉龍之介 伊号第八潜水艦1944年1月15日 -
 巡潜甲型 伊号第九潜水艦
1.大山豊次郎 伊号第九潜水艦1941年2月13日 -
2.藤井明義
   
伊号第九潜水艦1941年7月31日 - 1943年6月14日戦死
1943年(昭和18年)キスカ島付近で戦没
 伊号第一〇潜水艦  
1.栢原保親 伊号第一〇潜水艦:1941年10月31日 -
2.山田隆 伊号第一〇潜水艦:1942年9月15日 -
3.殿塚謹三 伊号第一〇潜水艦:1943年4月15日 -
4.中島清次
   
伊号第一〇潜水艦:1944年1月18日 - 7月4日戦死
1944年7月、サイパン島付近で戦没
 伊号第一一潜水艦  
1.七字恒雄 伊号第一一潜水艦:1942年5月16日 -
2.田上明次 伊号第一一潜水艦:1943年7月7日 -
3.伊豆寿市
   
伊号第一一潜水艦:1943年10月10日 - 1944年3月20日戦死
昭和19年3月、フナフチ南方方面で沈没
1.工藤兼男 伊号第一二潜水艦1944年5月25日 -
1945年1月15日、マーシャル諸島近辺で消息
 巡潜甲型改2 伊号第一三潜水艦
大橋勝夫
   
伊号第一三潜水艦:1944年12月16日 - 1945年7月16日戦死
20年7月16日米護衛駆逐艦「ローレンス・C・テイラーの攻撃により小笠原北東方で
海中で撃沈された
  伊号第一四潜水艦
清水鶴造 伊号第一四潜水艦:1945年3月14日 -
戦後はアメリカに回航されて1946年5月28日自沈させられ、現在ハワイ沖に沈
 巡潜乙型 伊号第一五潜水艦
1.大山豊次郎 伊号第一五潜水艦:1940年9月30日 -
2.石川信雄
   
伊号第一五潜水艦:1940年12月20日 - 1942年11月10日戦死
1942年11月3日以降消息不明となり、ガダルカナル島周辺で撃沈されたものと認定
伊号第一七潜水艦  伊号第一九潜水艦:1941年4月28日 -  
1.西野耕三 伊号第一七潜水艦:1941年1月24日 -
楢原省吾 伊号第一九潜水艦:1941年4月28日 -
 伊号第二一潜水艦 
入江 達 伊号第二一潜水艦1941年7月15日 -
松村寛治 伊号第二一潜水艦1941年10月31日 - 第三十四潜水隊司令、パラオ方面に出撃絶つ海軍中将
稲田洋 伊号第二一潜水艦1943年3月16日 -
1943年11月27日以降消息を絶つ1944年2月4日米海軍の駆逐艦「チャレットによりマーシャル諸島で撃沈された
 伊号第二三潜水艦  伊号第二五潜水艦  
柴田源一
 
  
伊号第二三潜水艦:1941年9月27日 - 1942年2月28日戦死認定
17年2月敵空母追撃に出撃し、さらにハワイ方面へ向かったが2月14日消息を絶つ。
2.小比賀勝
   
伊号第二五潜水艦:1943年7月15日 - 10月24日戦死認定
1943年9月下旬に消息を絶っており、そのころ沈没したと考えられている。
 伊号第二六潜水艦  伊号第二七潜水艦
1.横田 稔 伊号第二六潜水艦:1941年11月6日 -
1.吉村 巌 伊号第二七潜水艦:1942年2月24日 -
 伊号第二九潜水艦
1.伊豆寿一 伊号第二九潜水艦:1942年2月27日 -
2.木梨鷹一 伊号第二九潜水艦:1943年10月10日 - 1943年7月26日殉職、伊号第一九潜水艦長 海軍少将特進
18年7月26日、フィリピンバシー海峡でアメリカ海軍潜水艦ソーフィッシュ の発射した魚雷3発が命中し戦没
 伊号第三〇潜水艦  伊号第三二潜水艦  伊号第三三潜水艦
遠藤 忍 伊号第三〇潜水艦:1942年2月28日 -  「伊43」艦長で昭和19年2月 米軍潜水艦の雷撃で撃沈
1.池沢政幸 伊号第三二潜水艦:1942年4月26日 -
1.小川綱嘉 伊号第三三潜水艦:1942年6月10日 -
 伊号第三四潜水艦 
1.殿塚謹三 伊号第三四潜水艦:1942年8月31日 -
2.入江 達
   
伊号第三四潜水艦:1943年3月20日 - 11月13日戦死
1943年11月13日にペナン島沖でイギリス海軍潜水艦「トーラス」による魚雷攻撃を受け沈没
伊号第三七潜水艦  
1.大谷清教 伊号第三七潜水艦:1943年3月10日 -
2.中川肇 伊号第三七潜水艦:1943年12月27日 -
3.河野昌通 伊号第三七潜水艦:1944年5月10日 -
4.神本信雄

   
伊号第三七潜水艦:1944年10月11日 - 11月19日戦死
1944年11月19日伊三七潜はパラオ本島北方で発見され、17時01分に水中爆発を認めた。
撃沈と判定された。
 伊号第三八潜水艦  伊号第三九潜水艦  
1.安久栄太郎 伊号第三八潜水艦:1943年1月31日 -
5.下瀬吉郎
  
伊号第三八潜水艦:1944年4月27日 - 11月12日戦死
1944年11月12日にアメリカ海軍駆逐艦「ニコラス」により撃沈された。
ニューギニア島、コロンバンガラ島付近
田中万喜夫
 
  
伊号第三九潜水艦:1943年4月22日 - 11月26日戦死
1943年11月26日マキン島周辺海域においてアメリカ海軍駆逐艦の爆雷攻撃によって撃沈
巡潜乙型改T 伊郷第四二潜水艦  伊号第四三潜水艦   伊号第四五潜水艦
1.小川綱嘉 伊第四二潜水艦:1943年11月3日 - 1944年3月23日戦死
   昭和19年3月23日にラバウルに向け出港,アメリカ海軍潜水艦タニーの雷撃を受け沈没
1.遠藤 忍
   
伊号第四三潜水艦:1943年11月5日 - 1944年2月15日戦死
1.横田稔 伊号第四四潜水艦:1944年1月31日 -
1.田上明次 伊号第四五潜水艦:1943年12月28日 -
1994年10月28日 レイテ島東方で、米駆逐艦「ホワイトハースト」の攻撃を受け沈没
1.大橋勝夫 伊号第五四潜水艦:1944年3月31日 -
巡潜丙型 伊号第一六潜水艦
小林 一 伊号第一六潜水艦:1939年9月20日 -
山田 薫 伊号第一六潜水艦:1941年7月31日 -
 伊号第一八潜水艦:1941年1月31日 -  
畑中純彦 伊号第一八潜水艦:1941年1月31日 -
大谷清教 伊号第一八潜水艦:1941年8月25日 -
村岡富一
   
伊号第一八潜水艦:1942年12月1日 - 1943年2月11日戦死
1943年2月に入るとガダルカナル島への輸送任務にアメリカ海軍駆逐艦「フレッチャー 」の
爆雷攻撃により戦没
 伊号第二〇潜水艦 
山田 隆 伊号第二〇潜水艦:1940年9月26日 -
吉村 巌 伊号第二〇潜水艦:1942年9月15日 -
伊号第二二潜水艦 伊号第五二潜水艦     
1.揚田清猪 伊号第二二潜水艦:1941年3月10日 -
1.花房博志
 
   
伊号第二二潜水艦:1941年10月31日 - 1943年6月11日戦死
1943年6月11日にアッツ島沖でアメリカ海軍駆潜艇(PC487)の爆雷攻撃によって撃沈された
1.宇野亀雄
   
伊号第五二潜水艦1943年12月28日 - 1944年6月24日戦死
昭和19年6月23日護衛空母ボーグを飛び立ったアベンジャー雷撃機より最初の攻撃を受ける。
24日午前1時に第二派攻撃を受けて沈没8月2日大西洋方面で喪失と認定、
機雷潜 伊一二一型潜水艦
18.入江達 伊一二一型潜水艦:1941年7月15日 -
22.稲葉通宗 伊一二一型潜水艦:1944年2月23日 -
 海大III型b  伊号第一五六潜水艦  伊号第一五七潜水 伊号第一五九潜水艦   
河野昌通 伊号第一五六潜水艦:1944年10月11日 -
堀 武雄 伊号第一五七潜水艦:1944年1月31日 -
中村省三 伊号第一五七潜水艦:1944年2月25日 -
(兼)栢原保親 伊号第一五九潜水艦:1943年3月16日 -
 海大V型 伊号第六七潜水艦 
大畑 正 伊号第六七潜水艦:1939年11月15日 - 1940年8月29日殉職
昭和15年)8月29日訓練中に急速潜航したが、そのまま沈没した
 海大VI型a 伊号第七〇潜水艦  伊号第一七二潜水艦
佐野孝夫
    
伊号第七〇潜水艦:1940年10月30日 - 1941年12月10日戦死
兼)江見哲四郎 1941年12月10日 ハワイ付近で艦載機の攻撃を受け沈没。
伊号第一七二潜水艦:1942年5月20日 - 1942年6月30日
 海大VI型b 伊号第一七四潜水艦
池沢政幸 伊号第一七四潜水艦:1940年10月15日 -
  海大VII型  伊号第一七七潜水艦  伊号第一八一潜水艦
1.中川肇 伊号第一七七潜水艦:1942年12月28日 -
大橋勝夫 伊号第一八一潜水艦:1943年5月24日 -
  潜特 伊号第四〇〇潜水艦  伊号第四〇二潜水艦 
1.日下敏夫 伊号第四〇〇潜水艦:1944年12月30日 -
8月15日、終戦をウルシー南方海面で迎え、日本へ帰投中、8月29日三陸沖で米駆逐艦に発見、捕獲される
1.中村乙二 伊号第四〇二潜水艦:1945年7月24日 -
昭和21年4月1日長崎県五島列島北方の東シナ海でアメリカ軍の実艦標的として撃沈処分。
    L4型       二等潜水艦(呂号)
兼)大竹寿雄 呂号第六五潜水艦:1940年8月10日 -
             敷設艦
近藤脩三 敷設艦勝力(かつりき):1940年6月1日 -
柳川正男 敷設艦厳島 (いつくしま):1942年6月1日 -
             急設網艦
森川亦男 敷設艦白鷹 (しらたか):1940年11月1日 -
浜野元一 敷設艦白鷹 (しらたか):1941年9月12日 -
吉川唯喜 敷設艦初鷹(はつたか):1941年8月15日 -
宮下頼永 敷設艦蒼鷹(あおたか):1941年2月15日 -
小山猛夫 敷設艦蒼鷹(あおたか):1941年9月12日 -
太田良直治 敷設艦蒼鷹(あおたか):1944年5月1日 -
1944年9月26日 ボルネオ北方にて米潜水艦「パーゴ」の雷撃を受け戦没
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