海軍中将 |
有賀 幸作
あるが こうさく
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海兵(45期) 長野 1922年戦艦「長門」の四番砲台長 |
1929年11月若竹型駆逐艦「夕顔」艦長 1939年第二艦隊第二水雷戦隊第十一駆逐隊司令 |

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1940年11月、大佐に昇進。 |
太平洋戦争緒戦では、第四駆逐隊司令として近藤信竹海軍中将指揮する南遣艦隊に所属し
マレー作戦を支援した |
ミッドウェー海戦では、大破炎上した航空母艦「赤城」を指揮下の駆逐艦「野分」「嵐」の魚雷に
よって沈没処分するという悲劇を味わった。その後ソロモン方面の諸海戦に参加。
10月の南太平洋海戦では被弾した「翔鶴」から南雲忠一長官を迎え、
一時的に中将旗を掲げた。 |
昭和19年)11月6日、「大和」艦長 |
4月7日、坊ノ岬沖海戦にて米海軍空母艦載機386機の攻撃を受け、「大和」は沈没。
有賀も沈没した大和と運命を共にした。戦死時は海軍大佐であった。享年49。
戦死後、4月7日付で海軍中将に昇格した。 |
阿部 弘毅
あべ ひろあき
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海兵(39期)、海大(23期) 山形 昭和13年海軍少将、海軍兵学校教頭兼監事長 |
昭和16年重巡洋艦「利根」「筑摩」からなる第8戦隊司令官で真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦に |
昭和17年)7月、戦艦「比叡」、「霧島」からなる第11戦隊司令官 |
昭和17年)11月1日海軍中将に昇進 |
第三次ソロモン海戦において第11戦隊を中心とする挺身攻撃隊を率いたが、指揮下の
戦艦2隻を喪失し、責任を問われる形で予備役に編入された。航空母艦「信濃」の
艦長阿部俊雄少将は、彼の弟にあたる |
阿部 嘉輔
かすけ
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海兵(39期)・海大(甲種21期)・ 山口 1938年11月、海軍少将に進級 |
1938年11月、海軍少将に進級 |
太平洋戦争を第7根拠地隊司令官として迎え、父島の守備に当たった。
海軍航海学校長を経て、1942年11月、海軍中将となった。さらに水路部長を勤め
1945年5月、予備役に編入された
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有馬 正文
まさふみ
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海兵(43期) )・海大甲種(26期) 鹿児島 昭和12 任 海軍大佐 |
昭和17)5月10日- 横須賀鎮守府附 航空母艦「翔鶴」艦長 |
空母「翔鶴」艦長在任中は日本軍の一連のガダルカナル島作戦の時期にあたり、
第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加した。
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昭和18- 海軍省航空本部教育部長 少将 昭和19 第26航空戦隊司令官 |
昭和19 10月15日- 戦死 享年49 昭和20 1月海軍中将に特別昇進 |
あ号作戦を前に第26航空戦隊司令官に就任し、フィリピン、ミンダナオ島ダバオに
将旗を揚げたが上級管理司令部たる第1航空艦隊が所在地テニアンで玉砕したため、
一時期指揮系統が混乱するに至る
台湾沖航空戦末期、第26航空戦隊司令官時代に自らの死生観を暗示するが如く、
有馬自ら一式陸攻に搭乗し敵艦に突っ込み神風攻撃を前に特別攻撃隊の先駆けとされた |
有馬 馨
かおる
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海兵(42期)・海大(甲種25期) 宮崎 大正15年)12月、海軍少佐に昇進 |
昭和7年)1月、海軍中佐に進級し、軍令部参謀兼海大教官、兼参謀本部員に就任 |
昭和14年)11月、「熊野」艦長に就任。 昭和16年)9月、「二号艦」艤装員長 |
昭和17年)8月、「武蔵」初代艦長 1942年11月、海軍少将に進級 |
昭和19年)2月、第4根拠地隊司令官兼第二海上護衛隊司令官に着任し、トラック島付近の
防衛と海上護衛を担った
以後、第四艦隊参謀長、兼第四艦隊補給長、南西方面艦隊司令部付、
第31特別根拠地隊司令官を務める。
1944年11月、南西方面艦隊参謀長となり、 第13航空艦隊参謀長(1945年2月まで)・
第三南遣艦隊参謀長・第31特別根拠地隊司令官を兼務し、終戦を迎えた
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1945年(昭和20年)11月、海軍中将 1949年(昭和24年)1月に復員 |
秋山 門造
もんぞう

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香川県 海軍兵学校(第42期) 海軍砲術学校 |
昭和12年)12月、大佐へ進級後は「間宮」特務艦長、呉海兵団副長、金沢地方人事部長、 |
厦門方面特別根拠地隊副長兼参謀、艦本広島監督官を歴任。 |
昭和17年)5月、少将へ昇進 |
昭和18年第六根拠地隊司令官、マーシャル群島クェゼリン島で指揮を執り、米軍迎撃中に戦死 |
クェゼリン島の戦い
タラワ、マキンを制圧した米軍はマーシャル諸島クェゼリン環礁の占領を乗りだした。
クェゼリンの日本軍は陸海軍合わせて約5000名、ルオット、ナムル島には海軍3000名がおり、
これらの部隊の指揮をとったのは、秋山門造少将(海軍第六根拠地隊司令官)である。
秋山が同島に赴任したのは、1943年11月。米軍上陸が明白だったが、独特の地形に阻まれ
陣地構築が不完全であった。絶対国防圏の圏外であったクェゼリン島には、初めから
救援部隊を送る予定はなかった。秋山は、米軍上陸初日、前線視察のため司令部壕を
出たところ米軍の砲弾を浴びて戦死。死後海軍中将に昇進
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秋山 輝男
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海兵(41期) 熊本 大正15年、海軍少佐に昇進し「橘」駆逐艦長 |
昭和12年海軍大佐に昇進し第30駆逐隊司令 昭和14年)11月、「那珂」艦長 |
昭和17年)3月、第21潜水艦基地隊司令に、同年11月、海軍少将に進級 |
昭和18年)3月、第3水雷戦隊司令官に着任した。同年7月、クラ湾夜戦において戦死。
没後、海軍中将に進級 |
阿部 孝壮
こうそう
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海兵(40期) 山形 1934年11月、海軍大佐、給油艦「襟裳」特務艦長 |
1942年2月 第6根拠地隊司令官 1943年11月、再び館山砲術学校長 |
1944年5月、海軍中将 |
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クェゼリンでの米兵捕虜処刑については、現地司令官に責任を負ってもらいたいとの
意向を受けている。自決せず戦犯裁判を受ける覚悟を決め、巣鴨プリズンに収容された。
3月21日、グアム島に移送。
5月22日に結審し絞首刑の判決が出された。阿部は裁判においてほとんど発言を行わず、
1947年6月19日、刑が執行され、事件当時の第4艦隊長官であった井上成美は
自分の責任を認め、阿部の子息に伝言する
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阿部 勝雄
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海兵(40期)・海大(甲種22期)次席 岩手 1938年11月、海軍少将 |
1942年11月、海軍中将イタリア大使館付武官 1945年5月、スウェーデンに移駐し終戦 |
阿部がベルリンを脱出する直前の4月15日、ドイツの崩壊を見越し東京の軍令部は
「残存するドイツ潜水艦をできるだけ多く日本に回航するようドイツ海軍に要請し、
その実現に努力せよ」との緊急電報を発信した。
燃料不足を理由にドイツ潜水艦隊の日本回航を拒絶した
阿部が最終的な拒否回答を受けたのは4月20日午前11時30分であった。
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猪口 敏平
いのぐち
としひら
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海兵(46期) 鳥取 1939年11月、海軍大佐 |
太平洋戦争開戦時は砲術学校教頭。『キャノン・イノクチ』という名前で
海外にも知られる程の砲術理論の権威
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1944年8月、「武蔵」第4代艦長に就任し、、海軍少将に進級 |
レイテ沖海戦において、戦闘中に負傷した後、乗艦「武蔵」はシブヤン海で戦没し、
猪口は退艦せず戦死した。戦死後に1階級特進し海軍中将となった
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弟 猪口力平(海軍大佐)神風特別攻撃隊、命名者、息子 猪口智(海軍大尉) |
岩村 清一
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海兵学(第37期)・海大中首席 東京 昭和4年海軍大佐 |
同期に、井上成美海軍大将、小沢治三郎、草鹿任一、浮田秀彦、小松輝久、桑原虎雄、
桑折英三郎、大川内伝七海軍中将、岩下保太郎海軍少将などがいる
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昭和9年)11月15日- 戦艦「扶桑」艦長 昭和10年11月 海軍少将、第3艦隊参謀長 |
第2戦隊司令官 昭和14年任 海軍中将 |
昭和18年)4月 第2南遣艦隊司令長官 |
岩淵 三次
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海兵(43期)・海砲術高等科 新潟 昭和2年)12月1日- 任 海軍少佐 |
昭和12年)12月1日-任 海軍大佐 昭和17年)3月 聯合艦隊司令部附 戦艦「霧島」艦長 |
昭和18年 任 海軍少将 昭和19年- 第3南遣艦隊司令部附 |
昭和19年 第31特別根拠地隊司令官 昭和20年)2月26日-戦死 享年49 海軍中将進級 |
戦艦「霧島」艦長として第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加し、第3次ソロモン海戦では、
米戦艦「ワシントン」、「サウスダコタ」等と乱戦状態になり、舵を損傷した「霧島」は自沈。
岩淵は救出された。第31特別根拠地隊司令官となり、再び戦地へ向かう。同根拠地隊は
フィリピンの首都マニラ防衛のために組織された部隊であった。
第14方面軍司令官山下奉文陸軍大将は、マニラをオープンシティとする方針であったが、
岩淵は一歩も譲らず、このためマニラの戦いでは市民が巻き添えになり、
マニラ大虐殺が発生する原因になった。岩淵は戦闘中に自決し、海軍中将に特別進級した。
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伊集院
松治
いじゅういん
まつじ
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海兵(43期)・ 海潜水乙種 華族:男爵 昭和3年)12月10日- 任 海軍少佐 |
(昭和6年)12月- 1等駆逐艦「澤風」艦長 昭和13年)11月15日- 任 海軍大佐 |
昭和14年)11月15日- 第8駆逐隊司令 昭和16年)8月11日- 重巡洋艦「愛宕」艦長 |
昭和17年戦艦「金剛」艦長 昭和18年)7月- 第3水雷戦隊司令官 少将 |
ブーゲンビル島沖海戦 乗艦「川内」は撃沈されたが、潜水艦により救助され生還 |
昭和19年)3月7日- 臨時 海上護衛総隊司令部附米攻撃に依り戦死
享年51 海軍中将に特別進級 |
父は元帥伊集院五郎海軍大将、弟は大野竹二海軍少将 |
市岡 寿
ひさし
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海兵(42期)・海大(甲種26期) 岐阜 941年10月、海軍少将に進級 |
1941年10月、海軍少将に進級。 |
太平洋戦争には1942年2月、第2潜水戦隊司令官として出征した。
その後、海大教頭、第8潜水戦隊司令官、兼第15根拠地隊司令官(ペナン)、
海上護衛参謀副長などを勤め海軍中将となった。
海軍潜水学校長兼呉潜水戦隊司令官として終戦を迎え、同年10月に予備役に編入
1947年2月、戦犯容疑で拘留され、裁判において軍令部第一部長であった中澤佑と対立した。
翌年2月に重労働20年の判決があったが、1958年5月に釈放された。
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伊崎 俊二
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海兵(42期) 福岡 海軍水雷学校 大正15年「楢」駆逐艦長、翌月、海軍少佐 |
昭和6年)12月、海軍中佐 兼「夕凪」駆逐艦長 昭和11年)12月、海軍大佐 |
昭和14年から昭和16年1月まで「最上」艦長、この間「神通」艦長・「摂津」特務艦長を兼務した |
昭和16年4月、「摩耶」艦長 昭和16年1月、呉港務部長 |
昭和17年)11月、海軍少将 昭和18年)1月、第二水雷戦隊司令官 |
同年7月、コロンバンガラ島沖海戦において旗艦「神通」が戦没し運命を共にした。
死後、海軍中将に進級 |
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宇垣 纏
うがき まとめ


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海兵(40期)・海大甲種(22期) 岡山 昭和3年11月15日-ドイツ駐在海軍武官補 |
海兵同期に、大西瀧治郎、多田武雄、山口多聞、吉良俊一ら |
昭和3年12月-任 海軍中佐 昭和13年11月-任 海軍少将、軍令部出仕 |
昭和16年4月10日-第8戦隊司令官 連合艦隊参謀長(兼第1艦隊参謀長 |
昭和17年11月1日-任 海軍中将 昭和18年山本長官の僚機で被弾)負傷 |
昭和19年2月25日-第1戦隊司令官 昭和20年2月10日-第5航空艦隊司令長官 |
第一戦隊(大和、武蔵)司令官として復帰しあ号作戦、捷号作戦に従事する |
昭和20年8月15日-沖縄方面へ特攻。戦死
行方不明(ポツダム宣言受諾直後、航空特攻にて死亡) |
宇垣一成陸軍大将、宇垣完爾海軍中将とは遠戚 |
宇垣 完爾
うがき かんじ |
海兵(39期)・海大(甲種23期) 岡山 連合艦隊参謀、水雷学校教官 |
太平洋戦争を海南警備府参謀長として 1943年5月海軍中将 支那方面艦隊参謀長 |
大湊警備府兼第12航空艦隊司令長官として終戦 |
叔父 宇垣一成(陸軍大将)、遠縁 宇垣纏(海軍中将) |
上野 敬三 |
海兵(41期)岩手 航空術学生として学び、横須賀航空隊付、同教官、「三笠」乗組 |
佐世保航空隊分隊長、霞ヶ浦航空隊分隊長、同飛行隊長心得、大村航空隊飛行隊長、
「鳳翔」航空長、霞ヶ浦航空隊飛行隊長、「赤城」・「加賀」の各飛行長などを歴任。 |
1941年10月、海軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。第25航空戦隊司令官、
第61航空戦隊司令官などを経て |
1944年10月、海軍中将となった。 |
以後、軍令部出仕、艦政本部造船造兵監督長、東海海軍監理長・監査長、
東海北陸地方海軍部長 |
東海北陸海軍軍需監督部長として終戦を迎えた。 |
岡 新
あらた
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海兵(40期)・ 首席海大甲種(22期)東京 昭和7年在イギリス日本大使館海軍駐在武官 |
任 海軍大佐 昭和17年11月 海軍中将支那方面艦隊司令部附 |
昭和18年 第3南遣艦隊司令長官 昭和19年 大阪海軍警備府長官 |
昭和19年 大阪海軍警備府長官 |
上海在勤海軍駐在武官 |
岡 敬純
たかずみ

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海兵(39期)・海大(21期主席) 大阪 1928年12月10日 - 海軍中佐 |
1933年11月15日 - 海軍大佐 1936年12月1日 - 潜水母艦迅鯨艦長 |
1939年10月10日 - 軍令部第三部長 少将 1942年11月1日 - 海軍中将に進級 |
1944年7月18日 - 海軍次官 鎮海警備府司令長官 |
1945年6月20日 - 予備役編入 |
太平洋戦争後、極東国際軍事裁判で終身禁錮の判決を受け服役。1954年に釈放 |
小沢 治三郎
じさぶろう
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海兵(37期)・海大甲種 宮崎 最後の連合艦隊司令長官 |
第一次世界大戦では第二特務艦隊所属の駆逐艦乗組み、
中佐時代は第一水雷戦隊参謀に就任 |
開戦直前まで第一航空戦隊司令官を務め、海上決戦の主力は航空部隊合艦隊の
全航空兵力を集中させた。航空艦隊を編成すべきという意見を海軍大臣に具申。
後に連合艦隊の主力となった機動部隊の生みの親ともいわれる。
後に南雲忠一中将の後任として第一機動艦隊兼第三艦隊司令長官に就任した
マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦時には第三艦隊を率いて出撃した。
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昭和17年第三艦隊司令長官 昭和19年(第一機動艦隊司令長官(兼任) |
軍令部次長。海軍大学校校長 昭和20年海軍総隊司令長官。連合艦隊司令長官 |
昭和20年5月、最後の連合艦隊司令長官(海軍総隊司令長官と
海上護衛司令長官を兼任)に就任 |
昭和41年11月9日、多発性硬化症のため死去。享年80 |
大川内 傳七
でんしち
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海兵(37期)・海大乙種・甲種 佐賀 昭和5年)12月 海軍大佐・横須賀鎮守府附 |
昭和11年上海海軍特別陸戦隊司令官 兼第3艦隊司令部 任 海軍少将 |
昭和17年)3月16日- 海軍軍令部出仕 昭和20年)1月 第13航空艦隊司令長官 |
1936年、上海の日本租界の警備にあたる上海海軍特別陸戦隊の司令官に就任
太平洋戦争中は、舞鶴鎮守府司令長官、海軍省電波本部長、海軍兵学校長などを
短期間勤め後半には南西方面艦隊司令長官に親補された。しかし艦隊とは名ばかりの
主要艦船など存在しない司令長官職で、ルソン島で地上戦を戦って終戦を迎えた。
戦後、アメリカ軍から捕虜虐待等の容疑でB級戦犯に指定されたが、
証拠不十分により無罪が確定
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大西 新蔵
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海軍兵学校(42期) また東京帝国大学で教育学を学んでいる 東京 |
連合艦隊旗艦である戦艦「長門」艦長等 |
第7潜水戦隊司令官として太平洋戦争開戦を迎えた |
第八艦隊参謀長在任中の昭和17年)第1次ソロモン海戦で敵重巡洋艦5隻を数十分で
撃破する戦果をあげたが輸送船団攻撃を省略した戦術には内外の批判もある。
その後呉鎮守府参謀長、教育局長を経て、海軍兵学校副校長として江田島に赴任
広島に投下された原爆の閃光を目撃した。教育局長就任時はすでに敗戦を予期している。
昭和18年3月18日にニューブリテン島ラバウルで発生した外国人殺害容疑で、司令長官であった
三川軍一と共に豪州政府からB級戦犯に指名された。結局三川、大西は起訴却下となった
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大森 仙太郎
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海兵(41期)・海水雷高等科 熊本 |
第15艇隊艇長、「葦」艦長、「陸奥」分隊長、「野風」水雷長、「響」艦長、「榛名」分隊長、
水雷学校教官となる。この教官時代に魚雷の『命中射角図による射法計画法』を発表。
海軍魚雷射法を完成する業績を残した。以後連合艦隊参謀、「波風」艦長、
「夕霧」艦長、第16駆逐隊司令、第21駆逐隊司令などを経て
1940年11月、海軍少将に進級、太平洋戦争を第1水雷戦隊司令官として迎えた。
第5戦隊司令官 1944年5月、海軍中将 第7艦隊司令長官
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大田 実
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海兵(41期 )・海軍砲術高等科 千葉 大正15年)12月 海軍少佐 |
昭和12年)10月16日- 特務艦「鶴見」艦長 12月1日- 任 海軍大佐 |
昭和16年)11月1日- 支那方面艦隊司令部附第1遣支艦隊司令部附漢口海軍特務部長 |
昭和17年)1月 横須賀鎮守府出仕 海軍少将 |
昭和20年)1月 第4海上護衛隊司令官兼沖縄方面根拠地司令官 |
昭和20年 2月25日 沖縄方面根拠地隊司令官
昭和20年6月戦死 享年54 海軍中将に特別進級 |
沖縄戦では、海軍最先任者として沖縄根拠地隊司令官を務め米軍上陸時に
約1万人の部隊を率いて沖縄本島小禄半島での戦闘を指揮 |
太田 泰治
たいじ
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海兵(37期) 岡山 東郷平八郎元帥付副官 |
1936年12月、海軍少将 1940年11月、海軍中将 |
1941年5月、興亜院華中連絡部長官 |
942年12月、第3南遣艦隊司令長官に着任し、フィリピン方面の作戦指揮を行った。 |
大西 瀧治郎

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海軍兵学校40期。海兵同期に、多田武雄、海兵同期に、多田武雄、、宇垣纏、山口多聞、ら |
大正7年)にはイギリスへ留学 |
1937年8月21日、海軍航空本部参謀大佐として日中戦争中の最前線に赴き、
九六式陸上攻撃機6機による中国軍飛行場夜間爆撃に参加。ところが中国軍戦闘機に
迎撃されてしまい、陸攻4機が撃墜された
真珠湾攻撃の作戦計画の原案を作成したのも大西である。
連合艦隊司令長官山本五十六に非常に信頼されていた彼は第十一航空艦隊参謀長で
941年1月下旬、山本から「ハワイを航空攻撃できないか」という腹案を示され、
基本計画作成の依頼を受けた。
その時、彼は源田実中佐らと協力して真珠湾攻撃計画の作成にかかった。
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1945年5月、大西は海軍軍令部次長 |
大西は「二千万人の男子を特攻隊として繰り出せば戦局挽回は可能」という二千万特攻論を
唱えて豊田副武軍令部総長を支えて戦争継続を訴えた。
8月9日大西は最高戦争指導会議に現れ、後日米内光政海軍省大臣に「招かれもせぬのに
不謹慎な態度で入ってくるのはみっともない、
意見なら大臣に申し出ろ」と言われる。大西は涙を流し首をうなだれていた
大西は8月16日自刃した。「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書を遺して割腹自決
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一瀬 信一
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第25根拠地隊 - アンボン 1945年6月9日 - 終戦 |
第26特別根拠地隊 -ハルマヘラ島カウ 1944年5月25日 - 1945年5月29日解散 |
石井 芸江
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航空母艦:神鷹 艦長 1943年12月15日 - 1944年11月17日戦死 |
1944.10.15少将 巨済島や済州島の島影に避泊しながら舟山列島 |
戦死にて中将に特進 |
魚雷命中後30分で沈没した。生存者は全乗組員1160名中わずか60名であった。 |
井上 保雄 |
香港方面特別根拠地隊 - 香港 1941年12月26日 - |
大野 一郎 |
揚子江方面特別根拠地隊 - 漢口 1943年8月20日 - |
近藤泰一郎 |
第11特別根拠地隊 - サイゴン 1945年1月2日 - 1945年5月1日 |
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鎌田 道章
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海兵(39期)・海大専修・海砲 愛媛 海軍少尉に任官 |
昭和4年)11月、「保津」艦長 昭和10年)11月、海軍大佐 |
昭和16年 横須賀防備戦隊司令官 少将 昭和19年)1月、大竹海兵団長に就任 |
昭和19年)5月、海軍中将 戦後、BC級戦犯に指名 |
昭和18年10月24日、オーストラリア軍M特殊部隊のレナード・シファート軍曹ら3人を斬首に処し、
BC戦犯となる |
昭和22年)10月、ポンティアナックで絞首刑に処された |
金沢 正夫
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海兵(39期)・海大(甲種21期) 山口 1938年11月、海軍少将に進級 |
太平洋戦争では、第4艦隊司令部付として出征し、第8根拠地隊司令官など、
1942年海軍中将となった。
1945年5月、呉鎮守府司令長官就任
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角田 覚治

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海兵(39期)・海大乙種・海大校甲種23期 昭和3年中佐 第一艦隊参謀兼連合艦隊参謀 |
昭和8年)11月に大佐 昭和13年戦艦「山城」艦長兼戦艦「長門」艦長 |
昭和14年)に少将、佐世保鎮守府参謀長 昭和15年第四航空戦隊司令官 |
開戦時には第四航空戦隊は高橋伊望中将指揮下の第三艦隊のうち、フィリピン南部攻略の
南比支援隊に属し航空母艦「龍驤」でミンダナオ島ダバオ飛行場の空襲を指揮している |
昭和17年第四航空戦隊は第一南遣艦隊に編入され小沢治三郎中将指揮下に入る |
昭和18年)7月、基地航空部隊として再編された第一航空艦隊司令長官に就任 |
昭和19年連合艦隊に編入され、テニアン島に進出角田自身は自決せず、司令部壕から
手榴弾を抱えて戦闘に参加 戦死 最後はテニアン島の守備を任される |
太平洋戦争中の日本海軍の中でも屈指の闘将といわれる
艦隊主義者で源田実から批判される |
梶岡 定道

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海兵(39期)・海大乙種、専修科、航海科 愛媛県 1934年11月、海軍大佐に進級 |
1940年海軍少将 佐世保防備戦隊司令 |
第6水雷戦隊司令官として太平洋戦争を迎え、ウェーク島攻略作戦に参加 |
第18戦隊司令官、羅津方面特別根拠地隊司令官などを勤め、1943年10月に予備役 |
1944年1月に召集された。同年4月に第6護衛船団司令官に就任して
竹一船団、ヒ71船団などの指揮を執ったがヒ72船団を指揮中に乗艦の
海防艦「平戸」が撃沈されて戦死した。死後、海軍中将に進級した
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河瀬 四郎
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海大(甲種20期) 鳥取藩士、河瀬聰の四男 1937年12月、海軍少将、艦政本部第2部長 |
第7航空戦隊司令官、第1航空戦隊司令官 1941年10月、海軍中将 |
太平洋戦争を、第3遣支艦隊司令長官 |
第5艦隊司令長官となり、キスカ島撤退作戦の指揮にあたる |
第2南遣艦隊司令長官などを勤め、1945年3月、予備役に編入された |
兄 河瀬二郎(陸軍少佐) 弟 岸田五郎(陸軍大尉) |
金子 繁治
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海兵(42期)・海大(甲種24期) 長野県 (昭和5年)6月、イギリス駐在 |
昭和6年)12月、海軍中佐に進級 昭和10年)11月、海軍大佐 |
昭和12年)11月、「多摩」艦長 昭和16年10月、海軍少将 |
昭和18年)1月、連合艦隊司令部付、第1連合通信隊司令官、佐世保鎮守府参謀長 |
昭和20年1月、青島方面特別根拠地隊司令官に就任し、同年5月、海軍中将に終戦を迎えた |
河野 千万城
かわの ちまき
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海兵(42期)・海大(甲種24期) 山口 昭和6年)12月、海軍中佐 |
昭和12年)11月、大本営海軍参謀を兼務 |
昭和16年)10月、海軍少将に進級し太平洋戦争に出征。マレー作戦、フィリピンの戦い参戦 |
昭和17年)4月、横須賀鎮守府出仕となり、同月、第3潜水戦隊司令官に就任 |
昭和20年)5月、海軍中将に進み、海軍対潜学校長を兼務した。同年7月、 |
艦政本部造船造兵監督長、兼海軍省出仕、兼関東監理長、兼関東監査長に就任 |
岸 福治
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海兵(40期)・海大(甲種23期) 1939年11月、海軍少将 第4艦隊参謀長 |
太平洋戦争には第9戦隊司令官として出征。第8戦隊司令官を経て |
1943年5月、海軍中将となった。以後、海上護衛参謀長、第1海上護衛隊司令官
第1護衛艦隊司令長官、第7艦隊司令長官兼第1護衛艦隊司令長官、軍令部出仕を歴任し
1945年9月、予備役に編入
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木村 進
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海兵(40期)・海軍大学校航海 栃木 昭和6年)12月、海軍中佐 |
昭和11年)12月、海軍大佐 第19駆逐隊司令 |
昭和16年8月、水路部第1部長となり太平洋戦争を迎えた。 |
昭和17年、第一航空艦隊司令部付となり、第10戦隊司令官 同年5月、海軍少将 |
昭和18年)1月、横須賀鎮守府付となり、第11水雷戦隊司令官、第3艦隊司令部付を経て、
二度目の第10戦隊司令官に就任。
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昭和19年)11月、軍令部出仕となり、翌月、最後の海軍航海学校長に就任 |
昭和20年)5月、海軍中将に進み水路部長となり終戦を迎えた。 |
吉良 俊一
きら しゅんいち
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海兵40期 大分 海兵同期に、大西瀧治郎、多田武雄、宇垣纏、山口多聞、吉良俊一 |
日本海軍搭乗員として空母初着艦を成功させ着艦三羽烏の異名があった。 |
大正12年)3月16日、「鳳翔」で行われた一〇式艦上戦闘機の発着艦テストに成功 |
空母へ着艦した最初の日本人である。この時1回目の着艦テストでは
甲板を滑って海上に転落、大湊海軍航空隊司令を経て大佐へ進級、 |
空母「龍驤艦長、航空技術廠飛行実験部長など |
昭和17年)5月 第二二航空戦隊司令官に就任 |
昭和18年に生起した第1次ギルバート航空戦では、第七五五航空隊を指揮し
軽空母「インディペンデンス」を雷撃した |
第五十一航空戦隊司令官、横須賀海軍航空隊司令官などを歴任し、
1944年(昭和19年)7月10日から11月10日まで第三航空艦隊司令長官を務めた。 |
木村 昌福
まさとみ
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海兵(41期)静岡 実弟近藤一声(50期、戦死後大佐
大正9年)7月- 舞鶴鎮守府 任海軍大尉 |
昭和7年)1月28日 - 河川用砲艦「堅田」艦長 任 海軍中佐・河川用砲艦「熱海」艦長 |
昭和12年12月 任 海軍大佐・第8駆逐隊司令 昭和17年)11月1日 - 任 海軍少将 |
昭和18年)2月5日 - 第1艦隊司令部附 昭和19年)11月20日 - 第2水雷戦隊司令官 |
アメリカ軍に作戦を悟られず、味方に全く犠牲を出さずにキスカ島の守備隊5,200人を
短時間で救出する。この作戦成功により昭和天皇に拝謁する栄誉を受けた。
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栗田健男
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海兵38期・海軍大学校乙種 茨城 1932年12月 大佐。第十二駆逐隊司令官 |
1938年11月少将。第一水雷戦隊司令官 1940年11月 第七戦隊司令官 |
1942年中将。6月ミッドウェー海戦に参加 1943年第二艦隊司令長官兼第四戦隊司令官 |
1944年6月マリアナ沖海戦に参加 10月にはレイテ沖海戦で第一遊撃部隊を指揮 |
1945年 海軍兵学校校長 1977年12月19日兵庫県西宮市にて死去。享年88 |
1.エリートコースとされる海軍大学校甲種学生を経ずに司令長官に就任した数少ない人物 |
2.太平洋戦争開戦時は第七戦隊司令官として最上型重巡洋艦4隻を率い、
バタビア沖海戦、セイロン沖海戦に参加 |
3.ろ号作戦に伴いブーゲンビル島逆上陸支援のため第二艦隊主力を率いて
ラバウル入泊ラバウル空襲に遭遇 |
桑原 虎雄
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海兵37期 東京 寺内正毅元帥の甥 大正9年)6月18日、海軍大尉 |
横須賀航空隊までの距離を、水上機母艦「若宮」からパップ艦上戦闘機にて日本で
初めて艦上発進に成功した |
大正11年)、戦艦「山城」の2番主砲塔上に設けられた滑走台からの発進にも成功 |
支那事変(日中戦争)においては、第2・第1連合航空隊司令官として重慶爆撃に参加 |
昭和16年)9月、第3航空戦隊司令官 |
太平洋戦争)開戦後は、1942年(昭和17年)4月、青島方面特別根拠地隊司令官に着任 |
昭和18年)から1945年(昭和20年)まで軍需省新潟軍需管理本部長 |
草鹿 任一
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海兵(37期)海大乙種 石川 同期に井上成美大将、小沢治三郎、
岩村清一、小松輝久、桑原虎雄各中将 |
昭和17年10月第11航空艦隊司令長官 同年12月南東方面艦隊司令長官となり終戦まで |
草鹿は連合軍の攻撃に備え長期篭城の構えを取った。 第8方面軍司令官の
今村均陸軍大将と協力し、
ラバウルに洞窟設備を造り、兵器の開発、新戦法の考案を進めた
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草鹿 龍之介
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海兵(41期)・ 海大甲種 石川 昭和5年)12月1日:海軍中佐、第1航空戦隊参謀 |
昭和14年)11月15日:「赤城」艦長 昭和15年海軍少将、第4連合航空隊司令官 |
昭和16年1月:第24航空戦隊司令官 昭和19年)4月5日:連合艦隊参謀長 中将 |
真珠湾攻撃、ミッドウェイ海戦、南太平洋海戦、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦に参戦 |
太平洋戦争の主要な部隊で参謀長職を歴任、海軍中将特に
南雲機動部隊参謀長として有名 |
宇垣纏中将の後任として第五航空艦隊司令長官となるが、赴任中に終戦 |
剣道家でもあり、一刀正伝無刀流剣術第4代宗家
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小林 仁

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海兵(38期)・海大乙種・専修 1922年に少佐へ昇進 |
1927年に中佐へ昇進するまでの5年間上海に駐留する砲艦「比良」艦長を1年 |
アメリカ大使館附武官補佐官を1年間 |
1937年10月20日に第四艦隊が急遽編成されると初代参謀長に抜擢されて青島へ進出、
豊田副武長官を補佐 |
参謀長就任直後の同年12月1日に少将へ昇進 開戦半年前の1941年6月に水路部長 |
10月の定期昇進で中将へ昇進 |
1943年4月、小林に待望の最前線勤務が命ぜられた。内南洋防衛の主力である第四艦隊
トラック空襲、パラオ諸島等のミスのて予備役
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1943年10月、第四艦隊管区のウェーク島で捕虜虐殺が行われた事実が発覚したためである
巣鴨拘置所に収監された 1977年8月7日死去。享年87
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小松 輝久
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明治41年)8月:貴族院議員 明治42年)11月19日:海軍兵学校(第37期 |
大正4年:海軍大尉 海軍大学校乙種学生 大正8年)12月1日:海軍大学校甲種学生 |
大正14年)1月12日:英国留学 昭和5年:海軍大佐に任じられ、「厳島」艦長 |
昭和11年:海軍少将 第1潜水戦隊司令官 昭和15年:海軍中将 旅順要港部司令官 |
昭和16年)7月5日:第1遣支艦隊長官 昭和17年 第6艦隊司令長官 |
昭和18年)6月21日:佐世保鎮守府司令長官 |
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昭和23年):BC級戦犯として実刑判決を受け、昭和30年)まで巣鴨拘置所に収監 |
昭和45年)11月5日:歿 (北白川宮能久親王第4王子) |
後藤 英次
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海兵(37期)・海砲/海水学 秋田 1929年12月、第1掃海隊司令 |
横須賀海兵団長、「陸奥」艦長などを経て、 1937年12月、海軍少将 |
太平洋戦争を第24航空戦隊司令官として迎えた 1941年10月、海軍中将 |
鎮海警備府司令長官、北東方面艦隊兼第12航空艦隊司令長官、
大湊警備府兼第12航空艦隊司令長官 |
小林 謙五

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海兵(42期)・海大(甲種24期)滋賀 アメリカ大使館付武官補佐官 |
「球磨」「高雄」「陸奥」の各艦長などを歴任。 1941年10月、海軍少将に進級 |
第1艦隊参謀長として太平洋戦争を迎えた 呉鎮守府参謀長、連合艦隊参謀副長など |
1944年10月、海軍中将 旅順方面特別根拠地隊司令官として終戦を迎え、 |
ソ連軍の捕虜となった。シベリア抑留中の1948年に戦病死した。 |
小柳 富次
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海兵(42期)・海大(甲種24期) 新潟 金剛」艦長として太平洋戦争を迎えた |
ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、ガダルカナル島のヘンダーソン基地艦砲射撃などに参戦。 |
1942年11月、海軍少将に進級し、第2水雷戦隊司令官、第10戦隊司令官などを勤める。 |
1944年10月、第2艦隊参謀長として参加したレイテ沖海戦において戦傷を受け、
重傷のため連合艦隊司令部付 |
その後、横須賀鎮守府付、水雷学校長などを歴任。
1945年11月、海軍中将となり、同月、予備役に編入された。 |
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左近允
尚正
さこんじょう
なおまさ
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海兵40期 鹿児島 タイ王国大使館付武官の時太平洋戦争開戦を迎える |
1943年9月、第16戦隊司令官に就任し南方戦線へ渾作戦、レイテ島輸送作戦などを指揮 |
昭和19年10月、中将に進級。 2月、支那方面艦隊参謀長に就任し、終戦を迎えた |
ビハール号事件の戦犯として逮捕され、イギリス軍により香港スタンレー監獄で絞首刑に
事件は、昭和19年3月、臨時に第16戦隊の指揮下に入った重巡利根(艦長・黛治夫大佐)が
インド洋で英商船ビハール号を撃沈した際、捕虜80名を得たが、
後に65名を虐殺したというものであった
左近允の二人の息子も兵学校を出て太平洋戦争に従軍し、
長男正章(68期)は昭和19年10月、駆逐艦「島風」で
戦死,次男尚敏(72期)は生き残り、戦後海上自衛隊に入って海将となった。
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澤田 虎夫
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海兵(41期)・海大(甲種23期) 岡山 昭和5年)12月、海軍中佐 |
昭和10年)11月、海軍大佐 |
昭和16年)7月、南遣艦隊参謀長に就任。同年10月、海軍少将に進級し太平洋戦争を迎え
マレー半島方面の作戦を担当した。 |
昭和17年)1月、第一南遣艦隊参謀長となり、艦政本部出仕、艦政本部商船部長、 |
昭和19年)10月、海軍中将に進んだ。以後、支那方面艦隊司令部付を経て、
揚子江方面特別根拠地隊司令官として終戦を迎える |
左近司
政三
さこんじ
せいぞう |
海予備校・海兵(28期)・海大甲種 山形 大正8年)12月1日- 任 海軍大佐 |
大正12年)12月1日- 戦艦「長門」艦長 昭和7年)6月1日- 免 海軍次官 |
第3艦隊司令長官 昭和16年 第3次近衛文麿内閣商工大臣 |
昭和18年)1月14日- 勅撰貴族院議員 昭和20年)4月- 鈴木貫太郎内閣国務大臣 |
昭和44年)8月30日- 死去 享年90。叙正三位、賜銀杯一組 |
佐藤 康夫
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海兵(44期) 東京 1940年11月、海軍大佐に進級 |
太平洋戦争を第九駆逐隊司令として迎えた |
1943年3月3日、ビスマルク海海戦に参加、ダンピール海峡において乗艦と運命を共にした。 |
第九駆逐隊の駆逐艦「朝雲」と「峯雲」を率いて敵艦隊に接近戦を仕掛けた |
生前の軍功に報いる形で戦死後二階級特進、海軍中将に任ぜられている |
清水光美
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長野県 海軍兵学校第36期 同期に南雲忠一や沢本頼雄、塚原二四三 |
太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃では先遣部隊指揮官として麾下の潜水艦隊を
指揮して特殊潜航艇による
真珠湾突入を敢行した。1942年2月には、マーシャル諸島のクェゼリン環礁で
マーシャル・ギルバート諸島機動空襲に遭遇、空母「エンタープライズ」の艦載機による
攻撃を受けて負傷している
その後、治療のため軍令部出仕となった後に第一艦隊司令長官に親補される。
しかし、戦艦中心の第一艦隊には出撃の機会はなく、前線に出ることはなかった
1943年6月8日、呉港沖柱島泊地にて停泊中の戦艦「陸奥」が原因不明の爆沈事故を起こし、
責任を取らされる形で第一艦隊司令長官を罷免され、翌年予備役に編入された。
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鮫島 具重
さめじま
ともしげ
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海兵(37期)・海大(甲種21期) 昭和12年海軍少将に進級し、第4航空戦隊司令官 |
第13戦隊司令官、第2航空戦隊司令官、侍従武官を経て |
昭和16年)10月、海軍中将に進級 昭和17年、井上成美の後任として第4艦隊司令長官 |
第8艦隊司令長官となり終戦を迎え |
岩倉具経の四男として生れ、鮫島員規海軍大将の養嗣子、岩倉具視は祖父にあたる |
志摩清英
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海兵839期)・海大(21期) 東京 1923年2月 第2艦隊参謀 |
1929年2月 連合艦隊参謀 中佐 1933年11月 大佐進級。駐満州国海軍部参謀長 |
1939年11月 少将進級。舞鶴要港部参謀長 1942年10月 第16戦隊司令官 43年中将 |
1944年2月 第5艦隊司令長官 |
1945年5月 高雄警備府司令官兼第1航空艦隊司令長官 |
レイテ沖海戦における「志摩提督」として名高いが、もともとは通信術の専門家 |
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白石 萬隆
かづたか
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海軍兵学校42期・海大甲種(25期)、愛媛 同期生に大西新蔵、三戸寿、小柳富次ら |
第一艦隊第六戦隊所属の重巡洋艦「古鷹」艦長、戦艦「霧島」艦長を経て |
昭和16年8月、日本海軍の前進部隊で第二艦隊参謀長に就任、同年10月には少将へ昇進 |
昭和19年3月第七戦隊司令官に任じられ、この部隊は「熊野」、 「鈴谷」、「利根」、
「筑摩」から成り、白石はマリアナ沖海戦に参戦後に中将へ進級し、続いて
レイテ沖海戦を迎える。第七戦隊は「利根」のみが日本へ帰還した。
その後の白石は運輸通信省船員局長を経て、大本営海軍部附として終戦を迎えた
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渋谷 隆太郎
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海機関(18期)・海大機 福井県出身 |
1916年12月、海軍大学校機関学生となり、1918年12月、戦艦「比叡」分隊長に着任。 |
1919年12月から海軍大学校選科学生として学び、翌年12月、艦政本部員(第5部)となる。 |
1930年12月、機関大佐に昇進し艦政本部第4部員となった |
その後、横須賀工廠造機部長となり、1936年12月、海軍少将に進級した |
1940年11月、海軍中将となった。太平洋戦争を呉工廠長として迎えた |
最後の海軍艦政本部長を勤める |
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渋谷 紫郎
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海兵44期 長野 1934年(昭和9年)中佐 |
1939年(昭和14年)11月大佐、第一掃海隊司令、第七駆逐隊司令を経て第十六駆逐隊司令 |
太平洋戦争開戦を迎え、南方攻略作戦、スラバヤ沖海戦、ミッドウェー海戦で指揮をとった |
重巡洋艦「那智」艦長在任中の1944年(昭和19年)5月に少将昇進 |
南方攻略戦に参加、のち第百一戦隊司令官として戦死した海軍中将である |
柴崎 恵次
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海兵(43 )・海大航海 兵庫 大正10年任 海軍大尉 |
昭和16年5月- 海軍省水路部総務部長 昭和18年4月-呉鎮守府附呉防備戦隊司令官 |
昭和18年 第4艦隊附第三特別根拠地隊司令官 1943年11月にギルバート諸島タラワ島 |
アメリカ海兵隊をして「恐怖のタラワ」と言わしめた守備隊司令官である。
ただし柴崎自身はアメリカ軍の攻撃初日、昭和18年11月 享年49 戦死認定、
海軍中将に特別進級
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柴田弥一郎
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第24根拠地隊 - フロレス島 |
1943年11月30日 - |
鈴木 義尾
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海軍兵学校40期・海軍大学校航海・海大甲種23期 山形
海兵同期に、大西瀧治郎、多田武雄、 |
海兵同期に、大西瀧治郎、多田武雄、宇垣纏、山口多聞、吉良俊一ら |
昭和14年)11月15日、少将に昇進している 軍令部第二部長として太平洋戦争を迎え |
昭和18年)7月まで務めた。軍令部第二部は、日本海軍の戦備・補給などを担当する部署 |
第三戦隊司令官に就任し、高速戦艦「金剛」、「榛名」を率い、空母部隊の護衛として
マリアナ沖海戦に参戦 |
レイテ沖海戦では戦艦2、重巡4、軽巡1、駆逐艦6を率いて第二部隊指揮官として参戦した
海戦から日本へ帰還の途次に、バシー海峡にて乗艦「金剛」が雷撃を受け沈没。
鈴木は、艦長・島崎利雄らとともに戦死した。
鈴木は昭和18年5月に中将へ進級しており、特別進級はなかった。
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杉浦 嘉十
かじゅう
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海兵(46期)・海大(甲種28期)愛知 1930年12月、海軍少佐に昇進し「蓼」駆逐艦長に就任 |
昭和14年)10月、第5駆逐隊司令 昭和15年)11月、海軍大佐に昇進し横須賀鎮守府付 |
昭和18年)12月、最後の「羽黒」艦長 昭和20年)5月1日、海軍少将に進級 |
同月16日、ペナン沖海戦で「羽黒」は戦没し運命を共にした。没後、海軍中将に進んだ。 |
杉山 六蔵
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海兵(38期)海軍大学校(甲種22期) 東京 1936年12月、海軍少将に進級 |
支那方面艦隊兼第3艦隊参謀長、第11戦隊司令官、横須賀警備戦隊司令官、
第18戦隊司令官などを歴任 |
1940年11月、海軍中将、海軍機雷学校長を経て、太平洋戦争を第3遣支艦隊司令長官 |
第3南遣艦隊司令長官としてフィリピン方面作戦を担い、艦政本部長、兼電波本部長を経て、
最後の佐世保鎮守府司令長官となり、1945年11月、予備役に編入された |
千田 貞敏
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海兵40期。鹿児島 海兵同期に、大西瀧治郎、多田武雄、宇垣纏、山口多聞、吉良俊一ら |
日中戦争開戦時以降は海軍第二連合航空隊 第13航空隊司令 |
昭和17年)11月第14連合航空戦隊司令官 昭和19年)5月1日、第28根拠地隊司令官 |
従来からの島嶼伝いでの「不沈空母構想」による飛行場建設、警備などに携わる
第2方面軍司令官・阿南惟幾陸軍大将の方針により到着早々根拠地隊のいるビアク島にて
米軍を迎え撃つこととなり,米軍の火焔放射攻撃に耐え、1ヶ月あまりの壕での交戦の末、
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戦死した。一階級特進の中将 弟 千田貞季(陸軍中将) 硫黄島の戦いで戦死 |
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田結 穣
たゆい みのる
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海兵( )・海大専修 優等 岐阜 昭和2年- 海軍中佐・第3戦隊司令部参謀 |
昭和6年-任 海軍大佐・特務艦「襟裳」艦長 昭和12年- 海軍少将・横須賀鎮守府参謀長 |
昭和16年)10月15日- 任 海軍中将 昭和17年支那方面艦隊参謀長 |
昭和20年)1月8日- 兼 第13航空艦隊司令長官 昭和52年)6月28日- 死去 享年87 |
田中 頼三
らいぞう
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海兵41期 山口 |
第二水雷戦隊司令官として日米開戦を迎え、スラバヤ沖海戦が、この時の遠距離魚雷戦を
敢闘精神に欠けるとして批判を浴びた。ガダルカナル島の戦いがはじまると、
連夜の過酷な輸送作戦に従事、米重巡洋艦部隊と遭遇戦に突入(ルンガ沖夜戦)。
不利な態勢からの水雷戦にも拘わらず大勝を収めた。第13根拠地隊司令官(ビルマ)に
任ぜられ終戦を迎えた。日本での評価は悪いが
アメリカ軍太平洋戦争における日本の名将の1人』として田中の名前を上げて賛辞した。
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高柳 儀八
たかやなぎ
ぎはち
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海兵(41期)・海大(甲種25期) 佐賀 重巡洋艦「鈴谷」・戦艦「伊勢」の各艦長 |
昭和16年)9月、呉鎮守府付となる 同年11月、戦艦「大和」の第2代艦長 |
昭和18年)1月、第1艦隊参謀長に発令され、次いで海兵副校長兼教頭に就任した |
昭和20年)5月、海軍中将に進み、同月、海軍省教育局長となる |
昭和20年8月20日、自決した大西瀧治郎中将の後任として最後の軍令部次長に就任 |
多田 武雄
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海兵(第40期 岩手 海兵同期に、大西瀧治郎、宇垣纏、山口多聞、福留繁、岡新、
千田貞敏、吉良俊一 |
昭和9年)10月、「鶴見」特務艦長に就任 海軍大佐 昭和13年)11月、戦艦「霧島」艦長 |
昭和16年)9月、第11航空艦隊第21航空戦隊司令官
昭和17年南西方面艦隊兼第二南遣艦隊参謀長 |
昭和18年)9月20日には第13航空艦隊参謀長も兼任する。同年11月1日、海軍中将に |
昭和19年)に入ってからは、航空本部総務部長、更に海軍省軍務局長に栄転。 |
海軍次官に、大西瀧治郎を軍令部次長にそれぞれ充てた、実質上最後の
海軍次官を務め、敗戦後に予備役に編入された |
高橋 伊望
いぼう
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海兵36期・海大17期 福島 昭和4年 任 海軍大佐 |
同期に南雲忠一、沢本頼雄、清水光美 昭和7年12月1日 - 重巡洋艦・愛宕艦長 |
昭和8年)11月15日 - 戦艦・霧島艦長 昭和10年11月 - 海軍少将、軍令部第二部長 |
昭和12年11月 連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長
昭和14年11月 海軍中将、馬公要港部司令官 |
昭和16年4月- 第三艦隊司令長官 昭和17年3月 第二南遣艦隊司令長官 |
4月10日 - 兼 南西方面艦隊司令長官 昭和19年12月20日 - 予備役 |
醍醐 忠重
だいご
ただしげ
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海兵(40)・海砲/海水学 東京 昭和9年11月 海軍大佐・軽巡洋艦「夕張」艦長 |
昭和13年)1月25日- 免 1等海防艦「八雲」艦長 昭和13年12月15日- 侍従武官 |
昭和15年)11月15日- 任 海軍少将 昭和16年)10月20日- 第5潜水戦隊司令官 |
昭和18年)4月1日- 第11潜水戦隊司令官 任 海軍中将・第2南遣艦隊附 |
昭和20年)5月1日-第6艦隊司令長官 昭和21年12月-オランダ当局により日本国内で逮捕 |
昭和22年)2月- インドネシアに身柄護送 12月6日- 刑死 享年56 |
寺岡 謹平
きんぺい
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海兵(40期)・海大(甲種24期) 山形 山形県羽黒町名誉町民 新庄中学校 |
「日向」水雷長、軍令部第2班第3課部員、第3戦隊参謀、皇族(高松宮)付武官、
横須賀海軍航空隊教官、中華民国海軍大学教官、「蒼龍」艦長、「赤城」艦長などを歴任し |
1939年11月、海軍少将に進級 第3連合航空隊司令官、海兵教頭 |
太平洋戦争期には、その多くを南京政府軍事顧問(支那方面艦隊司令部付)として勤め
1943年11月、海軍中将となった |
練習連合航空総隊司令官、第1航空艦隊司令長官、第3航空艦隊司令長官を歴任 予備役 |
戸塚
道太郎
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海軍大学校専修学生卒業後は航海畑 東京 |
終戦直前に横須賀鎮守府司令長官に就任
第1海軍聯合航空隊司令官在勤中に上海渡洋爆撃を指揮したことで知られる |
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中原
義一郎
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海兵(48期) 高知 昭和13年)11月、海軍中佐に進級 |
昭和17年)9月、第24駆逐隊司令に 昭和18年)5月、海軍大佐に昇進。第32駆逐隊司令 |
昭和19年)5月、最後の「長良」艦長となり、同年8月、天草諸島の西で
米潜水艦「クローカー」の雷撃により「長良」は沈没し、艦と運命を共にした没後、戦死
2階級特進し海軍中将となり、翌年4月、全軍布告された
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中澤 佑
たすく
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海兵43期、海大26期 長野 昭和5年)11月15日- 連合艦隊兼第1艦隊参謀 |
昭和7年- 在アメリカ日本大使館附海軍駐在武官府 スタンフォード大学留学 |
昭和15年)10月15日- 重巡洋艦「足柄」艦長 昭和17年)11月1日- 任 海軍少将 |
昭和18年)6月15日- 軍令部第1部長 昭和19年 第21航空戦隊司令官 |
昭和20年)2月5日- 台湾航空隊司令官 任 海軍中将 |
戦犯裁判に依り重労働10年の刑を受け仮釈放されるまで巣鴨刑務所に収監される |
中原 義正
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海兵(41期)・海大(甲種24期) 山口 「呂号第六四潜水艦」長、アメリカ駐在 |
1940年11月、海軍少将に進級 |
1942年12月、南東方面艦隊参謀長兼第11航空艦隊参謀長を歴任、1943年11月、海軍中将 |
南東方面艦隊司令部付となり戦傷を受け、軍令部出仕となる。1944年2月、戦病死した戦死 |
新見 政一
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海兵第36期・海砲術高等科 広島 昭和14年11月 海軍中将・海軍兵学校長 |
昭和16年)4月4日- 第2遣支艦隊司令長官 昭和17年 舞鶴鎮守府司令長官 |
砲術専攻士官であり、またオックスフォード大学で国際法を学んだ日本海軍有数の知英派
第2遣支艦隊司令長官としては、南部仏印進駐、香港攻略作戦に協力した。
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中村 俊久
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海軍兵(39期)・海大(甲種22期) 神奈川 昭和7年)12月、海軍大佐に進級し「厳島」艦長 |
昭和13年)11月、海軍少将に 昭和16年)4月、第3艦隊参謀長 |
太平洋戦争を迎え、フィリピン方面の諸作戦を遂行した |
昭和17年)4月、南西方面艦隊参謀長兼第2南遣艦隊参謀長 |
軍令部出仕を経て、19年10月、侍従武官に就任した。同年11月、海軍中将となり終戦を迎え |
西村 祥治
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海兵(39期) 秋田 昭和15年)11月 第四水雷戦隊司令官に就任 |
昭和17年6月25日 第七戦隊司令官に就任 昭和18年)11月1日 中将に昇進 |
昭和17年参戦:バリクパパン沖海戦、スラバヤ沖海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦 |
昭和19年9月10日 第二戦隊司令官に就任
10月22日 第一遊撃部隊第三部隊を率いブルネイを出撃
0月25日 スリガオ海峡夜戦において旗艦山城艦上で戦死
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三人の男子があったが次男、三男を失い、長男は海兵を卒業し戦死した |
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原顕三郎
けんざぶろう
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海兵(37期) 東京 坪井航三海軍中将の三男 大正11年)12月、海軍少佐に昇進 |
昭和2年)12月、海軍中佐に進級 昭和8年)11月、海軍大佐に昇進し第10駆逐隊司令 |
昭和14年海軍少将 横須賀防備戦隊司令官 第5水雷戦隊司令官就任し太平洋戦争 |
マレー作戦に従軍。バタビア沖海戦では味方酸素魚雷が今村均陸軍中将の
座乗艦を撃沈謝罪している 昭和17年3月、第16戦隊司令官(第2南遣艦隊) |
昭和19年1月まで旅順方面特別根拠地隊司令官 |
1944年3月に待命、そして予備役編入 |
早川 幹夫
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海兵(44期)・海大(甲種26期) 広島 |
1937年、第二次上海事変に際し博義王が第3駆逐隊司令、征乗艦の駆逐艦「島風」が
中国軍の射撃を受けて、博義王と共に戦傷を受けた1942年4月、第8艦隊旗艦となる
「鳥海」艦長として出征第1次ソロモン海戦を戦い、米重巡4隻を撃沈し
同1隻を大破させる快勝を演じた。1943年3月、「山城」艦長に転出し、
同年8月「長門」艦長となり、同年11月に海軍少将に進級 第2水雷戦隊司令官となり、
オルモック湾海戦により1944年11月11日戦死し、海軍中将に進級した |
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原田 覚
かく
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海兵(41期) 海水雷高等科 福島 中佐・大佐時代の6年間潜水隊司令 |
「大鯨」艦長、「高碕」艤装委員長、「鳳翔」兼「摂津」艦長を経て、「千代田」艦長として
太平洋戦争の開戦を迎える |
ミッドウェイ海戦に参戦し、その後キスカ島への輸送任務に従事した |
昭和17年11月、少将へ昇進。第七潜水戦隊司令官に就任し、ラバウルを基地に
半年間潜水艦戦の指揮をとった |
横須賀防備戦隊司令官を経て、昭和19年8月5日、第33特別根拠地隊司令官に就任。
フィリピン防衛の一翼を担ったが終戦を迎えた。その死は戦病死とも自決ともされる。 |
橋本信太郎
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海兵(41期)・海大(甲種24期) 和歌山 1927年12月 呉鎮守府参謀 |
1930年12月 海軍中佐 1935年11月 海軍大佐・第20駆逐隊司令 |
1940年11月 戦艦「日向」艦長。 1941年9月 第3水雷戦隊司令官 少将 |
1944年10月 海軍中将 |
ガダルカナル撤退作戦で駆逐艦部隊を率いて、3次にわたるガダルカナル島からの
日本軍部隊の救出に成功した。のちペナン沖海戦で戦死
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1945年5月太平洋戦争最後の水上戦闘であるペナン沖海戦で乗艦「羽黒」戦没により戦死 |
原 忠一
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海兵39期・海大甲種24期 島根 昭和4年)11月30日- 任 海軍中佐 |
昭和10年)11月15日- 旅順要港部参謀長 昭和14年任 海軍少将・第2遣支艦隊参謀長 |
昭和16年)8月13日- 第1航空艦隊司令部附 9月1日- 第四艦隊附第5航空戦隊司令官 |
昭和17年)7月14日- 第8戦隊司令官 11月1日- 任 海軍中将 |
昭和18年5月18日- 練習聯合航空総隊司令官 兼第11聯合航空隊司令官
6月24日- 兼 第12聯合航空隊司令官 |
昭和19年)2月1日- 兼 霞ヶ浦海軍航空隊司令 2月19日- 第4艦隊司令長官 |
第5航空戦隊司令官として、世界初の空母を主力とする海戦となった珊瑚海海戦を指揮 |
昭和24年)1月21日-米グアム軍事法廷 禁固6年判決 昭和26年)4月19日- 身柄仮釈放 |
昭和39年)2月17日- 死去 享年74 |
堀内茂礼
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第11特別根拠地隊 - サイゴン |
1942年12月4日 - 1943年9月1日 |
畠山耕一郎
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揚子江方面特別根拠地隊 - 漢口 |
1944年3月20日 - |
平田 昇
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海兵(34期)・海大(甲種18期) 東京 |
第1艦隊参謀 |
第6艦隊司令長官、南遣艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官、軍事参議官などを歴任 |
1937年12月に海軍中将 |
1943年3月、予備役に編入 |
日比野正治
ひびの
まさはる
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海兵(34期)・海大(甲種) 愛知 1927年、「大井」艦長となり、さらに「浅間」艦長
海軍大学校校長、第四艦隊司令長官、呉鎮守府長官、軍事参議官を歴任し、
1942年に予備役 |
細萱戊子郎
ほそがや
ぼしろう
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海兵(36期)・海水雷高等科・海大(甲種18期)長野 「陸奥」艦長などを
1935年海軍少将に進級 |
第5水雷戦隊司令官、海軍通信学校長、海軍水雷学校長兼務、第4水雷戦隊司令官
第1航空戦隊司令官を務め1939年に海軍中将・旅順要港部司令官を拝命。その後、
第1遣支艦隊司令長官を経て、1941年7月第5艦隊司令長官となったが、
アッツ島沖海戦での指揮の不手際により更迭され、1943年予備役に編入された
。同年11月から1946年3月まで、最後の南洋庁長官を務めた。 |
福田 良三
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海軍兵38期・海大甲種(20期) 熊本 昭和7年)12月1日- 任 海軍大佐 |
昭和16年海軍軍令部出仕 昭和17年)5月1日- 任 海軍中将 |
第2南遣艦隊附第22特別根拠地隊司令官 昭和18年高雄警備府司令長官 |
昭和20年支那方面艦隊司令長官 昭和21年B級戦争犯罪人指定 身柄拘束 |
昭和23年中華民国上海裁判にて有期徒刑15年の判決を受ける |
昭和27年)3月1日- 身柄仮釈放 昭和55年)3月26日- 死去 享年90 |
福留 繁
ふくとめ
しげる
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海兵(40期)・海大甲種(24期・首席) 鳥取 昭和8年)11月 - 海軍大佐へ進級 |
(昭和13年)12月 長門艦長 昭和14年 海軍少将 連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長 |
昭和16年)4月 - 軍令部第一部長 昭和17年)11月 - 海軍中将へ進級する |
昭和18年)5月 連合艦隊参謀長 昭和19年3月 海軍乙事件 6月第二航空艦隊司令長官 |
昭和20年)1月 - 第十三航空艦隊兼第一南遣艦隊司令長官司令長官 |
2月 - 第十方面艦隊司令長官(第十三航空艦隊司令長官および
第一南遣艦隊司令長官を兼任 シンガポールで終戦を迎えた
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海軍乙事件による連合艦隊参謀長退任後、すぐに新設の第二航空艦隊司令長官に就任
フィリピンの戦いでの海軍航空作戦を、第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎とともに
中心となって指揮した。昭和46年)2月6日 - 死去 |
藤田利三郎
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第11特別根拠地隊 - サイゴン |
1943年9月10日 - |
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牧田覚三郎
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海兵(38期)・海大(甲種20期) 静岡 第1艦隊参謀、「長門」通信長、アメリカ駐在 |
1937年12月、海軍少将に進級 廈門方面特別根拠地隊司令官、第6戦隊司令官などを歴任 |
太平洋戦争開戦時には、上海方面根拠地隊兼上海海軍特別陸戦隊司令官であった |
1941年10月、海軍中将となり、第1遣支艦隊司令長官、大阪警備府司令長官 |
舞鶴鎮守府司令長官を歴任し、1945年3月、予備役に編入された |
松永 貞市
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海兵(41期)・佐賀 大和の戦国大名・松永久秀の子孫 |
昭和15年)11月 少将に昇進 昭和16年)1月 第22航空戦隊司令官に就任 |
昭和16年)12月10日 イギリス東洋艦隊(Z部隊)を航空部隊で撃滅(マレー沖海戦 |
昭和17年)5月 第12連合航空隊司令官に就任 |
昭和18年)9月 横須賀鎮守府参謀長 昭和18年)11月 中将に昇進 |
昭和19年)3月 第27航空戦隊司令官に就任 硫黄島に赴任 |
昭和19年)8月 練習連合航空総隊兼第11連合航空隊司令官に就任 |
昭和20年)6月 第2海軍技術廠長に就任 |
太平洋戦争初期、マレー沖海戦で英東洋艦隊を壊滅させた航空隊指揮官として名高い
戦争末期、硫黄島の海軍航空隊の指揮官に就任するが、病気を患い、
米軍上陸前に本土に帰還した |
丸茂 邦則
まるも
くにのり
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海兵(40期)・長野 大正13年12月海軍少佐 海兵教官兼監事 |
昭和4年)11月、海軍中佐に進級 昭和14年)11月、海軍少将に進級 |
昭和16年第18戦隊司令官 ウェーク島の戦い、珊瑚海海戦に参戦し奮闘 |
昭和17年)6月、舞鶴鎮守府付となり横須賀警備隊司令官兼横須賀第1海兵団長に就任 |
昭和18年)11月、海軍中将に |
昭和20年)7月、在満州国大使館附武官兼艦本造船造兵監督長に就任し終戦を迎えた |
松村 寛治
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海兵(50期)・水雷高等科、潜水甲種 山口 昭和10年)少佐、1940年(昭和15年)1月中佐 |
翌年10月に伊号第二一潜水艦長に就任し、太平洋戦争開戦を迎える。 |
昭和16年)11月26日、真珠湾攻撃に向かう南雲機動部隊の哨戒部隊として単冠湾を出撃した。 |
昭和18年)3月までに豪州方面などで9隻の船舶を撃沈破、特殊潜航艇による
シドニー湾攻撃に参加した |
潜水学校教官に転じ1944年(昭和19年)5月大佐に進級 |
同年9月12日、第三十四潜水隊司令に補され、伊号第一七七潜水艦に座乗し
パラオ方面に出撃したが消息を絶つ、太平洋戦争において潜水艦長として11隻の
連合国船舶を撃沈破。戦死後2階級特進、海軍中将 |
三戸 寿
みと ひさし
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海兵(42期)・海大(甲種25期) 広島 呂67潜水艦長、伊51潜水艦長、連合艦隊参謀など |
1931年海軍中佐。第7潜水隊司令などを歴任し、 1940年「香取」艦長 |
1941年第六艦隊参謀長 1942年第一潜水戦隊司令官・海軍少将 |
1945年5月第四特攻戦隊司令官、終戦を迎える
同年11月「ポツダム昇進」によって海軍中将に昇進 |
1948年12月、戦犯裁判において禁固8年の判決を受け、1955年2月に釈放された。 |
三川 軍一
みかわ
ぐんいち
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海兵38期・海大学(甲種22期) 広島 フランス大使館付武官としてフランスに駐在 |
1930年12月 - 海軍大佐へ進級 1940年11月1日 - 第五戦隊司令官に就任 |
1940年11月15日 - 海軍中将へ進級 1942年7月14日 - 第八艦隊司令長官に就任 |
太平洋戦争開戦時は第三戦隊司令官として、真珠湾攻撃、
ミッドウェー海戦などの主要な海戦に参加 |
1942年7月に第八艦隊司令長官に着任 第一次ソロモン海戦を指揮し、勝利を収める |
その後、航海学校長、第二南遣艦隊司令長官、南西方面艦隊司令長官 |
第十三航空艦隊司令長官、第三南遣艦隊司令長官を歴任 |
三輪 茂義
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海兵(39期)・海大(甲種22期) 愛知 1938年11月、海軍少将に進級 |
太平洋戦争時第3潜水戦隊司令官 1942年11月、海軍中将 |
政本部第7部長、海軍潜水艦部長を歴任し
1944年7月、第6艦隊司令長官となり潜水艦戦を指揮した。 |
1945年5月、軍令部出仕となり終戦を迎える |
宮里 秀徳
みやざと
しゅうとく
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海軍兵学校(40期)・海大(航海学生) 昭和10年)11月、海軍大佐 |
「夕張」「那珂」の各艦長 |
昭和16年)9月、初代「大和」艦長兼艤装員長に就任、同10月、海軍少将に進級 |
昭和18年)3月、第11特別工作部長 19年)10月、海軍中将 |
船舶救難本部長に就任し、船舶警戒部長として終戦を迎えた |
森 国造
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海兵(40期)・静岡 大正14年)12月、海軍少佐に昇進 |
昭和11年)12月、海軍大佐に昇進した 昭和16年11月佐世保鎮守府連合特別陸戦隊司令官 |
開戦後、横須賀第1特別陸戦隊との協同作戦によりセレベス島メナドを占領。 |
昭和17年)3月、第23特別根拠地隊司令官に転じ、同年5月、海軍少将に進級 |
同年11月、横須賀鎮守府出仕となり、横須賀警備隊司令官兼横須賀第1海兵団長、
第8艦隊司令部付を経て |
昭和18年)9月、第7根拠地隊司令官となりニューギニアに赴任。
翌月には第8艦隊司令部付に復帰 |
昭和19年)2月、父島方面特別根拠地隊司令官に就任。 |
昭和20年)5月、海軍中将に進み終戦を迎えた。戦後、父島在任中に起こった
小笠原事件により戦犯指名され終身刑の判決を受けるが別のオランダ軍による裁判で
死刑判決を受けレベス島マカッサルで刑死した。 |
安田 義達


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海兵(46期) 昭和5年)12月1日、海軍少佐へ進級 |
昭和15年)11月15日、海軍大佐へ進級 |
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二・二六事件においては海軍省警備のため、横須賀鎮守府から派遣された陸戦隊の
参謀となり、事件当日のうちに東京に上陸している |
横須賀鎮守府第五特別陸戦隊司令に就任し太平洋戦争開戦を迎えた |
安田はニューギニア東部のブナの守備にあたる。横五特292名、
佐世保鎮守府第五特別陸戦隊110名第十四設宮隊399名[7]の指揮を執ったが
そのうち軍人は482名 |
昭和17年)11月16日、アイケルバーガー中将を指揮官とする米豪連合軍の上陸が
始まると安田は既設の本部施設を捨て、敵上陸地点近くに本部を設ける。
この安田の処置は部隊の士気を高めた。陸軍歩兵第144連隊長・山本重省大佐、
山本常一工兵少佐らと協力し、約50日にわたって連合軍に抗戦その最後は突撃によるとも
、敵兵を目の前にした自決ともされる
|
日本の海軍軍人。大田実と共に海軍を代表する陸戦の権威として知られた人物で、
太平洋戦争において戦死後2階級特別進級した海軍中将である。 |
矢野 英雄
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海大航海(首席)、甲種卒業第26期 香川 昭和7年)12月1日- 任 海軍中佐 |
昭和16年)8月11日- 戦艦「長門」艦長 |
昭和19年部太平洋方面艦隊参謀長 兼第14航空艦隊参謀長 |
サイパン司令部において南雲忠一司令長官とともに戦死した。
海軍中将に特別昇進 享年49 |
矢野志加三
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軍兵(43期)海大甲種(25期)次席 愛媛 昭和6年)12月1日- 任 海軍中佐 |
昭和15年 航空母艦「飛龍」艦長 昭和16年- 第4艦隊参謀長 ウェーク島沖海戦 |
昭和17年)11月1日- 任 海軍少将 昭和19年- 海軍省兼艦政本部兼航空本部 |
昭和20年 海軍総隊参謀長兼連合艦隊参謀長 任 海軍中将 |
昭和41年)1月24日- 死去 享年72 |
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山口 多聞
たもん

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海兵・海大甲種(24期)首席 東京 1921年 米国プリンストン大学に留学 |
1924年12月1日 少佐進級 1937年12月1日 戦艦「伊勢」艦長 |
1938年 少将。同年12月第五艦隊参謀長 1940年1月 第一連合航空隊司令官 |
1940年11月 第二航空戦隊司令官 海兵40期同期に大西瀧治郎、宇垣纏、多田武雄、岡新 |
第二航空戦隊司令官に就任し太平洋戦争を迎え、真珠湾攻撃に参加する |
1942年6月5日 中将進級、同月6日にミッドウェー海戦に
第二航戦司令官として「飛龍」で参加 戦死 |
太平洋戦争期の日本海軍を代表する提督として高く評価されている人物である
山本元帥に代わる後継者軍人は山口多聞だけとアメリカ側は言い切る |
山田 定義
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海兵(42期)・ 海大(甲種26期) 福岡
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連合艦隊参謀、軍令部第1班第2課参謀、同第2班第3課参謀、第1航空戦隊参謀
フランス大使館付武官、軍令部第3部第7課長、横須賀鎮守府付、
「蒼龍」「加賀」の各艦長などを経て |
1941年10月、海軍少将:太平洋戦争には第25航空戦隊司令官として出征した。 |
第3艦隊参謀長、横須賀航空隊司令、第51航空戦隊司令官などを歴任
|
1944年10月、海軍中将:第101航空戦隊司令官などを経て、
第3航空艦隊司令長官として終戦 |
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山崎 重暉
しげあき
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海兵(41期)・海大(甲種23期) 1934年11月、第14潜水隊司令 |
1940年11月、海軍少将に進級。 |
太平洋戦争を第2潜水戦隊司令官として迎えた。潜水艦作戦の不振を受けて
軍令部出仕として原因の究明にあたり、潜水艦の使用方法に誤りがあることを指摘した |
第1潜水戦隊司令官、潜水学校校長などを歴任 1944年5月、海軍中将 |
以後、海軍潜水艦部長を経て、特兵部長として終戦を迎える |
山口儀三朗 |
旅順方面特別根拠地隊 - 旅順 |
1944年1月15日 - |
若林清作 |
第4根拠地隊(II) - チューク諸島(トラック) |
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