編成地:水戸 編成年:明治7年12月19日
西南の役から日清・日露戦争までさかのぼる。日露戦争時は第師団隷下部隊出征、明治41年新設の 第14師団に所属となる。大正7年シベリア出兵ではハバロフスク上陸、満州事変で呉淞に上陸し、 上海派遺軍の指揮下に入った。 第2連隊は熱河作戦等、昭和9年5月の帰還まで満州に地で大小55回に及ぶ戦闘に参加した。 日中戦争では山西作戦、徐州作戦に参加し、14年9月2年ぶりに帰還するが翌年満州永久移駐を命じられる。 関東軍の隷下に入って北満州はノンコウを駐屯地とする、しかし開戦後戦局が危うくなりや関東軍の 精鋭部隊は次々と南方の前線に転用され、第14師団も19年4月にパラオ諸島の守備についた。 第2連隊はべリリュー島守備に就く、その後、第15連隊の第3大隊、独立歩兵第346大隊、師団戦車隊が 増加され陸軍6200名、海軍3650名、合計約1万名 9月に入り米軍の空襲が激しくなり、連日艦砲射撃を加えた、サイパンやグアムと比べ日本軍兵力は3分の1と半分 であったが、米軍も50%の死傷者を出して撤退しはければならなかった。戦闘は11月まで続いたのだった。 サイパンやグアムのような万歳突撃は一切行わず、洞窟陣地を利用したゲリラ戦法で徹底抗戦した。 昭和19年11月、中川州男大佐は師団司令部に訣別の電報を送り自決、 栄光の歩兵第2連隊は70年の歴史に幕を閉じる
編成地:水戸 編成年:昭和12年10月18日 (年は昭和)
日中戦争の勃発で編成され、第14師団管下で第10軍隷下に入り、ただちに中国戦線に投入された。杭州上陸後 太湖、喜興、湖州、長興、宣興と戦闘を重ね南京攻略を開始、12月13日南京城占領「この時に南京虐殺」として 東京裁判で裁かれた。13年には北支那方面軍隷下となり徐州作戦、第2連隊と共に戦う。 14年7月帰還後連隊は解隊されたが15年8月に再編成16年8月第23軍転用となり、広東付近の警備の任に就く。 17年11月東部ニューギニア方面の作戦に参加、第18軍隷下に入った。18年1月連合軍機の猛攻撃の中、ラエ付近に 上陸を敢行した連隊は、サラモアの海軍部隊の救援に赴いたのだった。ワウ飛行場攻撃に参加し、 一時は突入成功 となったが、連合軍の反撃は凄まじく攻防2ヶ月、多くの死傷者出し18年3月下旬にムボに 撤退した、以後連隊は マラリアと栄養失調者続出の中で、標高4000メートル山系を超える「サラモア作戦」に 従事し、キアリに転進 19年4月最後の戦場となるセゼック付近で押し寄せる連合軍に全滅覚悟で最後の戦闘を挑むべく準備中、終戦
編成地:水戸 編成年:昭和14年3月23日
14年第14軍隷下に入って、中国武漢奪回を目指す?湘会戦参戦、以後江南の武寧に転進、16年5月中原会戦に 参加し、「普察冀辺区粛清作戦」に参加し、河南省、徐州へ着く、開戦必至の状況となった11月南方軍へ第33師団 は第15軍隷下に入って17年2月ビルマへ、タイのバンコクからシッタン河を渡り、プロ-ム付近で師団主力と合流 その後、英印軍と戦闘に入った。連合軍はビルマからインド、中国の雲南省に退いたが、17年9月ビルマ奪回を 計画して反撃に出てきた。連隊はアキャプ島の防衛に派遺され、第2大隊方面が急を告げてきたために、急遽 アラカン山脈を越え、合流するが第1大隊はアラカン山脈を50日間余りの難行軍の末18年2月カラダンに到着 同年3月にビルマ方面第15軍司令官牟田口中将の強引な要請で開始されたインド進攻作戦(インパール作戦)は 19年1月に発動されている。しかし前線部隊は作戦準備は前年8月始まっている。第213連隊は18年9月タウンギ― を出発し、19年2月にはヤザキョウ、モーライク地区へと転進していた。第33師団は南方からインパールを攻撃する 各師団長及び軍参謀たちも大半が不賛成だった、物量の劣る日本軍は飢餓と病魔に覆われた戦線全域は戦死 であふれ、白骨街道であった。7月2日インパール作戦中止されたが総退却となった残された将兵は、さらに1年 英印軍と交戦しながら南へ、南へと地獄の撤退を続けた。第213連隊はビルマ南部パプン、ビリン、モールメンを 経てタイの国境に近いラマイン地区に到着したのは20年6月であった。新潟港を出て以来、連隊の延べ戦没者は 中国戦で260名、ビルマで4278名、合計4538名であった、大半はインパール作戦の犠牲者だった。
編成地:水戸 編成年:昭和14年9月13日
連隊は編成後14年10月華北山西省に進出、翼城東方12月攻勢反撃作戦、春季普南作戦、郷寧作戦、第15軍撃滅 作戦、中原会戦、第1次泌河作戦、第2次泌河作戦・・・の戦闘に参加し、南方の戦局が悪化により第41師団にも 東部ニューギニア転進が下令された。18年5月ウェワクに上陸し、第18軍の隷下に入った。ウェワクは東部ニューギニア 最大の航空基地で連隊は飛行機整備などの基地強化作業に従事していた。この時の兵員は4018名であったが 2年後に終戦を迎えたとき、連隊の生存者はわずか46名であった。8月16日ウェワク第空襲で基地の大半の 飛行機 が撃破され、以後制空権は連合軍に完全に握られた。18年12月アダン地区へ連合軍上陸が予想される ため 急遽アダンへ前進するが連合軍は19年4月ウェワクのはるか西方160キロのアイタぺ、ホランジアに大挙上陸 連隊のアイタぺ攻撃は7月10日より始まるが連合軍の物量に次々と戦死傷者が出て全滅大隊もある。 9月下旬、第18軍は隷下の残存部隊にトリセリ-山系の山南方面に転進し、迎撃と自活に入るように命じる。 連隊は海岸線のマルジップ・ゼルエン地区の確保を命じられ、陣地を構築して戦闘態勢を敷いていた。12月から 本格的 攻撃で第2大隊は全滅、20年に入り、増員しても病魔と物量不足で力付く 終戦
編成地:水戸 編成年:昭和19年6月24日
独立混成第68旅団は、米軍のサイパン島上陸後に関東軍の交主峯学校教導タイで急遽編成された精鋭部隊で ある 水戸は同連隊の補充担任部隊。19年米軍サイパンに投入予定であったがサイパン守備隊の玉砕で 中止となり 旅団は台湾軍の戦闘序列に編入され。当時の旅団の編制は司令部(旅団長:栗栖猛夫少将)125名、 歩兵第126連隊 (連隊長:沖静夫大佐後少将)3624名、旅団砲兵隊(守永晃中佐)1350名、旅団工兵隊 (後藤健一中佐)250名 旅団通信隊(窪田十三芳少佐)202名、旅団衛生隊(佐藤正大尉)239名 総計5791名 19年12月7日、レイテ島西岸のサンイシドロに強行上陸をした。 5800名の教導隊出身の精鋭といえども、圧倒的兵員と物量を誇る連合軍の前では太刀打ちできなく、 火力にまさる 連合軍と激戦を繰り返し、次第に兵力消耗、悪戦苦闘の末のビルアバ地区で持久戦に移るが 残存将兵も栄養失調 や戦傷で次々と倒れ、20年7月頃までに全滅したと言われている。
(新編成された決戦部隊)
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編成地:宇都宮 編成年:明治38年8月8日
日露戦争で明治38年9月第15師団隷下部隊となり、大連に上陸、ただちに鉄嶺に前進したが、9月休戦令 帰還後新設の第14師団に編入、大正8年3月シベリア出兵、ウラジオストックに上陸、この時の連隊長:新任の 松尾伝蔵大佐で、のちの「2.26事件」の際、岡田啓介首相の身代わりとなって決起将校に惨殺された軍人である。 昭和2年から奉天に2年間駐在し、満州事変で第14師団は上海に、7年3月南翔付近のクリーク地帯の警備 日中停戦後満州へ、9年4月まで戦闘参加し、帰還するが昭和12年日中戦争が全面対決となり、 9月に北京の豊台 に集結し、北支那方面軍第1軍の隷下になり、永定河渡河作戦、保定会戦、徐州会戦など 華北での主要戦闘に参加し、多くに死傷者を出し、2年4ケ月ぶりに帰還する。15年8月に再々満州へ永久駐屯を 命じられ、チチハルで 満豪国境のハンダガイ地区の防衛に着く、米軍開戦はイルモで開いた。開戦3年目、 南方各地の日本軍は苦境に 陥って、中国、満州戦線から兵力を抽出して続々と南方へ転進させる。 第14師団も19年3月パラオへの転進決定する。 第59連隊はパラオ諸島の最南端の島アンガウル島の守備に就く、やがてサイパン、グアムの玉砕が伝えられ その後パラオ空襲が連日始って、ベリリュー島への米軍上陸必至の情勢となって第2連隊陣地構築に励むが 第59連隊の主力はアンガウル守備を第1大隊(後藤丑雄少佐)1194名を残し、パラオ本島へ転進する。 米軍はペルルュー島に上陸、17日にはアンガウル島に上陸するが、20倍の兵力(米軍21000名)に対し、 頑強に応戦 して、1ケ月間に及ぶ死闘の末、捕虜以外の後藤少佐以下全員玉砕した。連隊主力も相次ぎ 米軍の爆撃と飢餓で 多くの犠牲を出しながら終戦を迎えた。
編成地:宇都宮 編成年:明治41年5月8日
編成当初は第59連隊とともに兄弟連隊で第14師団の隷下にあったが、大正14年の軍縮にて一時廃止された。 12年10月特設第114師団が編成され、66連隊にも編成が下令される。中支那派遺軍の隷下に入り、11月10日 上海の杭州湾に上陸して南京攻略に参加し、華北に転じ徐州会戦に参戦、14年8月に帰還、翌年14師団が 満州に 永久駐屯するために、第14師団管下で新たに常設の第51師団が編成され、66連隊も隷下となる。 16年8月第51師団は再度中国に渡り、広東付近の警備にあたっていたが、17年11月第51師団の南方転用が決定 連隊はラバウルに進出し、第18軍はラエ、サラモアの航空基地設立地を守備して行かないと日本軍は一挙に 戦略拠点 を失うことになる。第51師団にラエ派遺を決定、連隊は4月上旬に着くが、ラエ、サラモアもすでに 地獄の戦場である。 6月30日サラモア南方のナッソー湾に米軍が上陸し、豪軍と連携して攻撃強めて来た。 連隊主力は8月半ぱまで激戦 繰り広げ、ついに軍令によって戦線を撤退する。その後連隊は師団とともに 1ケ月を越す ”魔のサラワケット越え” をし、次々に将兵を失いながらキアリに辿り着く。東部ニューギニアの 戦闘は第18軍下で第41・20・51師団の3個師団 を中心に戦われたが、戦闘力は失われたいたともいいって もいい、アイタぺの戦闘は19年7月10日から始り8月3日に 終止符を打ち、以後、軍の生存者は山岳地帯に入って ”自活と迎撃戦闘” に移った。兵員と食料、武器弾薬すら なくなった飢餓集団に、戦闘能力はなくなっていた。 20年8月15日セピック川の本支流沿いにいた生存兵たちは 敵機がバラ撒いたビラを手に 「平和来る!」と叫び終戦となる
編成地:宇都宮 編成年:昭和14年3月23日
連隊は3月25日に会津若松の歩兵29連隊留守隊において編成を完結した。連隊は水戸、高崎の第32師団 所属の連隊と共に第11軍隷下に入り、4月4日に華中に出征した。中国戦線では韓湘会戦、昭和16年4月に 華北に転進し、中原会戦、その他の作戦に参戦、太平洋戦争に突入して第33師団はビルマに転進 昭和17年1月に連隊も南ビルマに侵攻する、その後インパール作戦に参戦し、餓死と疲労とマラリアの冒され 将兵は半減する。インパール作戦中止し撤退となるが、再び死の行軍が始まる、生存兵はイラジワ会戦に参加し ビルマ南部のモールメントに辿り着き終戦を知る。
編成地:宇都宮 編成年:昭和14年9月3日
連隊の各大隊はいずれも朝鮮で編成された。本部と第1大隊が大邸、第2大隊が大田、第3大隊が平壌である。 17年5月第41師団は河北省に移動し中原会戦、翼中作戦等に参加し、18年1月師団は南方転進が下り、2月に パラオを経由して東部ニューギニアのウエワク方面へ、まだ米軍戦闘は無く飛行機の整備や道路構築を行う 司令部のあるマダン地区グイビ付近に米軍上陸、第41師団にマダンへの転進を命じるが350Kmの難行軍のすえ 到着するが、どうしもなく、ウエワクとアダンの中間にあるハンサに向かて引き返すことになった。239連隊はアダンの 守備を命じられ連合軍を食い止めるが連日の猛攻撃で苦戦する。連合軍は4月23日アダンに上陸、アイダぺにも 上陸して日本軍を東西から挟み撃ちしようとする、こうして始まったのが19年6月~8月までの 「ア号作戦」=猛号作戦 日本軍はそれまでの戦闘で戦力は半減し、何キロもの距離移動で武器弾薬も 不足の中「坂東河渡河作戦」で連隊は 敵の大兵力と激戦を展開、歴戦の勇士・第1大隊長:原田大尉を はじめ多くの隊員を失った。以後各部隊はトリセリ― 山系に入り迎撃と自活をしながら終戦を迎える。 18年1月での連隊人員は4109名で、20年12月はわずか167名である 戦没者のうち1600名余りは「戦病死」である。
(新編成された決戦部隊)
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編成地:高崎 編成年:明治18年7月27日
第1師団の隷下で初陣は日清戦争、日露戦争では第2軍に編入され、金州城、南山攻略に参戦したが、 旅順攻略が 難行で乃木大将の第3軍に編成替えで203高地攻撃始め終始最前線で戦闘する。 大正8年「シベリア出兵」後第14師団は関東軍の隷下に入り、満州駐在する。満州事変では 上海派遺軍の指揮下り、呉淞に上陸し、南翔の警備 12年8月日中戦争では塘沽港に上陸し、 第1軍の隷下で永定河敵前渡河作戦~山西省作戦~徐州会戦と連戦を重ねた。 14年帰還する。15年軍備改編で第14師団は満州移駐となる。15連隊はチチハルで開戦で知る。 19年2月運命の南方派遺令が出る。4月パラオに到着、本連隊はパラオ本島に、歩兵第2連隊は飛行場があった ペリリュー島に派遣したが、米軍の攻撃目標に可能性有る為に、15連隊の第3大隊(千明武久大尉)は 2連隊の指揮 に下がった。9月15日米軍上陸し、4倍の兵力に対し2ケ月余りにわたって徹底抗戦、 第3大隊(千明武久大尉)の苦境 を知った、福井連隊長は、井上師団長に敵前逆上陸を上申するが 容れられず、飯田義栄少佐の第2大隊だけが 逆上陸を敢行したのだった。ベリリュー守備隊は19年11月24日、 中川州男大佐(ベリリュー地区隊長:歩兵第2連隊長 の自決後、生存者56名斬り込み攻撃によって 終止符を打った、まさに玉砕である。過半数を失った主連隊は、パラオ 本島で師団とともに米軍の空襲と 飢餓に襲われながら守備を続行し、終戦を知る。
4月24日 - パラオに到着、第3大隊(大隊長千明(ちぎら)大尉)のみペリリュー島の歩兵第2連隊に分遣 1月 - 第2大隊が激戦中のペリリュー島に逆上陸 昭和20年)8月31日 - 軍旗奉焼。 編成地:高崎 編成年:昭和12年10月18日
12年10月、日中戦争本格的戦闘に入って、第114師団は、第10軍の隷下に入り、杭州湾に上陸し、南京攻略に参加 13年師団の北支那方面軍の隷下に入り、河北省、山東省の警備し、徐州会戦に参加し、帰還し、将兵は召集解除 15年8月、新たに第51師団が編成されて、歩兵115連隊は再召集された。16年8月連隊は南支那派遺軍に転用され 広東付近の警備に就いた。太平洋戦線の悪化にともない、17年11月ニューブリテン島のラバウルに進出、 第18軍隷下、 18年2月真夜中、第18軍司令部の主力、総兵力7300名を乗せた8隻の大輸送船団に加わり、 ラバウルを出航 「魔のダンピール海峡」を東部ニューギニアのラエに向かった。本来船団の護衛は ラバウル航空隊100機を超える。 戦闘機であったが、ラバウル飛行場は連合軍の空襲を受け大半の戦闘機が 地上撃破された。暗号解読による情報 漏れだった。護衛は駆逐艦8隻だけだった。制空権を奪われた ダンピールは ”魔の海峡” であり3月2日から3日に 米軍機延べ120機の急襲を受け、 ことごとく撃沈されてしまった。第115連隊主力と大砲大隊を乗せた大井丸が被弾 し、誘爆を起こし、総員退去、 遠藤連隊長は銃弾が当たり即死、連隊旗手の近藤中尉も戦死して軍旗は漂流して回収 この大輸送作戦は 失敗し、7300名の乗員のうち3664名が海に消え、救助されてラバウルに戻った物は2427名、目的地のラエに 辿り着いた者は約1200名にすぎなかった。4月にはどうにかニューギニアの前線に立つことができた。 武器も弾薬も兵員も大半を海に失い、増援部隊の戦力はすでに半減していた。 連隊は初戦のラエ・サラモアの激戦で さらに戦力を失う。圧倒的な新着の連合軍を迎え、標高4000メートルの サラワケット山系を踏破する撤退行軍をして キアリに転進、戦闘しながらハンサからウエワクへと難行軍を続ける。 最後の組織的戦闘ともいえるアイタぺ攻撃を 敢行した。連隊はセピック地区に残存兵を集結して 遊撃戦を繰り返し、終戦となる。
編成地:高崎 編成年:昭和14年3月23日
中国戦線の拡大とともに新設師団が次々と誕生、第33師団は第11軍に隷下、12年4月華中の武漢に上陸し 陽新付近の江南地区の警備に就く、?湘会戦参戦、冬期攻勢戦参加、16年3月に錦江作戦、中原会戦参加 第33師団は南方軍の戦闘序列に編入され17年2月ビルマへ転進する。ラングーン攻略、北ビルマ侵攻と連戦 5月にはビルマ全域を制圧した。軍の参謀をはじめ、隷下の師団長たちも反対する中、第15軍司令官牟田口中将は 強引に作戦を通し、3個師団の将兵を壊滅の危機に陥れる悲劇の作戦開始となる。 2月25日、柳田師団長は配下の 連隊を左、中、右の三突進隊に分けて攻撃命令を下した。 第215連隊(笹原政彦大佐)は左突進隊としてマニプール河 を渡り、インパールへ1ケ月後ガランジャ-ル周辺で 英印軍の猛烈な攻撃にさらさわれ、損害が続出 、5月過ぎ 食料、弾薬もなく豪雨の中草木を食べ、泥水を飲み 肉弾攻撃を繰り返す以外なかった。7月7日退却命令が出るが 食料、弾薬もなく退却は容易ではない。 各部隊の退却路は ”白骨街道” と呼ばれたほど将兵の屍で埋まり、 そして、連隊長の笹原大佐が敵砲撃で戦死したのも、この退却行の19年9月19日のことである。 連隊はこのあとも、さらに悲惨な「盤」作戦、イラワジ会戦を戦い、南へ南へと下がりながらタイの国境を目指した。 モールメンをすぎタイ国境の目の前に終戦を知る
編成地:高崎 編成年:昭和14年9月13日
朝鮮の龍山で編成された連隊は第41師団隷下、すぐに山西省、臨汾に本部置く、 14年12月より翼城東方12月攻勢 反撃作戦、15年4月から春季普南作戦、16年中原会戦など各戦闘に参加 18年1月師団は南方転進が下令された。 2月24日東部ニューギニアのウエワクに上陸したが、ニューギニア戦場は米軍が主導権を握っていた。 6月末、連合軍はサラモア東方のナッソー湾に上陸、サラモアに総攻撃をかけてきた。第51師団はたちまち苦境に 追い込まれた。連隊主力はサラモアに向かう。ウエワク-サラモア間は直線距離にして700キロを超え、連隊は漁船 に乗り、40日後の8月中旬サラモア到着したが惨?たる状況だった。51師団は全兵力はすでに2500名まで激減 9月10日師団長は撤退命令出し、海岸線は連合軍に抑えられいて、日本軍は人跡未踏の山岳地帯を 通って山脈の 反対側・キアリに出る。これが”死のサラワケット山系越え”と言われた。19年3月マダン着く、 その後ウエワクへ転進 アイタぺの戦いをもって終止符が打たれた。連隊は18年1月3981名であったが 帰還兵はわずか75名だけだ
(新編成された決戦部隊)
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千葉県 編成地:佐倉 編成年:明治38年8月8日
編成は青森で、当初は歩兵第29旅団の属し、第15師団の隷下の置かれて、日露戦争では第2軍のもと 首山堡西地区 の守備に当たっていた。明治41年9月第1師団に加わり、習志野に凱旋、日中戦争では 同連隊の第3大隊は本多少将 率いる混成第2旅団に編成下に入って天津、張家口に応急派兵。 長城線攻撃作戦を皮切りに八角台、張家口に堅塁 を突破して山西省の大同に進攻その後、7年間 ソ連国境の孫呉で警備に当たる。開戦後の19年になると、同連隊から 第3大隊(谷島大尉)が 混成第48旅団(重松潔少将)の隷下に入ってグアム島に出征し、守備担当となる。 7月に米軍上陸し、大変な激戦が展開される。第3大隊628名はマンガン山で激闘するが、 旅団全将兵の8割が失われた。 谷島大隊も8月1日、ついに玉砕した。一方連隊主力(2500名)は 比島方面軍の指揮下に入ってルソン島に転進、途中 第1大隊はラポッグ島上陸し、残る部隊はレイテ島へ、 陸揚作業中米軍B29の爆撃を受けて沈没してほとんどの 積載荷物は焼失させたまま、連隊はリモン峠 付近での戦闘に参加、11月4日から始った戦闘は第57連隊が中心で ラポッグ島の第1大隊も到着、 40日間の持久戦を展開、リモン峠の派遺兵士は2500名で血戦後わずか91名であるが 負傷しても射撃を続けた。12月カンギポット地区へ転進命令を受け、さらに20年1月第1師団はセブ島への転進 この時の兵員は宮内連隊長以下、198名であったが、セブ島でも戦闘続くがついに終戦、さらに50名が戦死
編成地:佐倉 編成年:昭和12年9月9日
この連隊は歩兵第57連隊の留守隊に動員令が下り編成されたもので、すぐさま第2旅団(工藤義雄少将)の配下 9月上海へ、蘊藻浜クリークの戦闘参加、13年には新年早々、杭州攻略戦、浦東に掃討作戦に参加し、上海付近の 警備に就く。14年は修水河渡河戦、南昌攻略戦、獅子口にて第1大隊は敵敗残兵を掃討しながら、南昌飛行場を占領 その後第1大隊主力は高安県城で敵大部隊に包囲されしまい大隊長の戦死で、連隊主力を得て戦闘い終止符を打つ 8月福井大佐から竹内大佐に連隊長が変わった。?湘会戦、瑞撫攻略戦に参加後、上海に転進 15年に帰還 3月になって軍旗を宮中に奉還した。その後、15年8月第2次歩兵157連隊が再編成されて、12月4日に軍旗を拝受 18年華中に出征、石白湖、西横山付近の討伐、広徳作戦、脳山作戦などに参戦、19年には南陵東岸地区討伐 青龍山付近新四軍討伐など参加、20年「光号作戦」のため上海に移駐で終戦となる
編成地:佐倉 編成年:昭和11年6月18日
櫨溝橋事件が起こると、その処理に追うわれ、全面武力衝突の展開で平津地区の掃討作戦や武漢攻略戦などに 参加、その後天津地区の治安に任じる、19年湘桂作戦に参戦、粤漢作戦、その後上海方面に転進中終戦
編成地:佐倉 編成年:昭和14年3月23日
19年5月、ハルマヘラ島に転進し、ワシレ湾北方地区に陣地を占領、以来、終戦まで同島の守備に任じていた。
編成地:佐倉 編成年:昭和14年3月23日
ソロン、ビアク 島の守備に当たり、米軍の上陸に備えて沿岸防衛に就いていた。
(新編成された決戦部隊)
ソ連と交戦して17日武装解除、ハイラルの残留兵は、ソ連の包囲攻撃で全滅された。 千葉県 編成地:市川 編成年:昭和17年 月 日
包頭地区 を警備し、討伐を実施、19年春に「1号作戦」が始まると京漢作戦、河南、湖北省などの 作戦に参加で活躍
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東京 編成地:東京 編成年:明治7年12月19日
西南の役では、九州地方を転戦し、田原坂の激戦、鹿児島城山攻撃に参加、連隊長は長谷川好道中佐 (後の元帥) から乃木稀助中佐に替って、乃木は5年間連隊長を勤める、日露戦争では奇しくも、 かっての連隊長、乃木大将率いる。 第3軍に属し旅順要塞攻略参加し、被害およそ2400名を数えた。 特に第3次総攻撃では203高地では主力がほとんど 失い、連隊長も重傷を負う。日露戦争では3人の 連隊長で戦ったことになる。昭和11年の2・26事件で連隊は多くの 関係者を出し、牛島満連隊長(太平洋戦争の 沖縄防衛第32軍司令官)に率いられて満州へ 連隊長はその他に東條英機、本間雅晴などが、 連隊長として名を連ねている。満州に移駐した連隊は孫呉を拠点と してソ連満州国境を警備、ソ連との衝突は 数回あり、米国との戦争では19年南方へ転進を命じられた。 マッカーサー将軍が「アイ・シャル・リターン」と呼んでフィリピンを脱出してからレイテ島に再上陸して フィリピンに帰って 来た日である。11月レイテ島オルモックに上陸した。山脈に向かって前進を開始米軍の 進撃を食い止めた。 時間経つにつれて食料不足で兵力の消耗は激しく将兵は上陸時には2500名であったが 350名までとなっていた。 20年1月レイテ島からセブ島に脱出したが、店隊長以下72名だけであった。 その後も遊撃戦して終戦となるが連隊の 生存者は39名で、一方上海から別れた第2大隊はマリアナ諸島の ロタ島に派遺され、同地の警備に任じる。 ここでは上陸はないが銃爆撃と食料事情が悪く、大隊の兵力は84名であった。 軍旗は焼却されたが、旗竿だけで、そこで将校たちは内地に持ち帰ろうと語らって隠し持ち帰る。
編成地:東京 編成年:昭和12年 月 日
編成と同時に第101師団として上海戦線に投入され、第2次上海事変で、これが初陣となった。苦戦しながら 上海の 西方の大場鎮まで進攻したが、初代連隊長、加納治雄大佐は戦死するなど損害が多い、 13年徐州会戦、武漢攻略 でも連隊長:飯塚五郎大佐が戦死するなど多数の損害出して九江から 南下して南昌を攻略し、帰還 15年12月第1連隊留守隊が第101連隊に改編され、再び軍旗を親奉された。17年神奈川県溝の口に転営して、 18年4月南京の警備にあたった。この間連隊から抽出された部隊が中支那方面で数々の作戦に参加 揚子江下流に転進し、初陣の地である、上海で終戦を迎えた。
編成地:東京 編成年:昭和14年3月23日
19年9月米軍がハルマヘラ島の北のモロタイ島に上陸した。第9中隊を基幹として斬込隊を編成し、モロタイ島へ 上陸を敢行するが失敗、再三の逆上陸するが、米軍の猛烈な砲火で隊長:岩崎門之中尉以下17名は戦死した。 モロタイ島の奪還を期す第32師団は連隊主力の投入を決め、連隊長:守田義雄大佐は11月16日無事上陸するが 守田連隊長は移動中に米軍と遭遇して最期を遂げた。その後の連隊は米軍に対して遊撃戦を展開。終戦を知る
編成地:東京 編成年:昭和14年3月23日
華北方面を転戦していた連隊に、南方派遺を命じたのは19年2月である。パラオ派遺されるはずがニューギニアに 変更されたことが伝えられた。第1大隊はセントアンドレウ諸島へ、主力連隊はヌンホル島へ上陸して陣地を構築 ビアク島には米軍上陸し、連隊から西岡登一大尉率いる第1大隊がビアク島北岸に最後の増援部隊として上陸 ビアク島の守備していた葛目支隊(葛目直幸大佐、第222連隊基幹の10400名:米軍上陸当時)20日玉砕覚悟の 決意 を固めたいたが、西岡大隊が支隊の指揮下に入ると持久戦で山中に移動したが、 葛目大佐は7月2日自決し、後任の大森正夫少佐も行方不明となり、西岡大隊長が指揮を取った。 しかし補給もなくついに西岡大隊長は自決した。 終戦時同島の生存者は83名だった。一方ヌンホル島にも7月2日カメリー地区に上陸した、 第3大隊長:西川大尉戦死 連隊長:清水大佐は第2方面軍に玉砕する旨を打電するが、持久戦の指示あり 山中での遊撃戦を展開するが、 8月18日自決する、その後各将兵は分散して抗戦するように指示された。
編成地:東京 編成年:明治7年12月19日
西南の役に従事し「麻布三連隊」と呼ばれて親しまれた。日露戦争では金州、南山の攻撃参加し、第3軍に属して 旅順要塞攻略に参加、奉天大会戦に従事、日露戦争で戦死者744名、負傷者2000余りで旅順攻略戦が 11年第1師団が満州に移転であったが、歩兵第1,3連隊を中心とする「二・二六事件」が起こる。 櫨溝橋事件勃発後8月連隊はチャハル作戦に参加のため張北に集結、万里の長城を越え 進撃11月駐屯地のチチハル に帰還する。ノモハン事件も第1個中隊参戦、15年連隊は第28師団へ転属し ハルピンの防衛に当たる。 19年沖縄方面の防衛を命じられ8月に宮古島に上陸し、防衛陣地を構築するが米軍は沖縄本島に上陸するが、 宮古島には艦砲射撃だけで上陸されずに終戦を迎える。
編成地:東京 編成年:昭和11年6月18日
日中戦争 で各地を転戦することになった。13年南京へ、武漢攻略作戦参加、開戦後18年8月満州へ 大陸打通作戦、 第11軍の隷下になり武漢方面へ転進し湘桂作戦に従事した。広東に向かって南下するが、 補給の途絶という困難 直面する。20年4月粤漢鉄道の打通に成功した。その後連隊は揚子江下流の防衛の ため北上し、南昌で終戦
(新編成された決戦部隊)
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