三重
編成地:津 編成年:明治31年3月24日
(レイテにて連隊の幕を閉じる )
当初第3師団に属し、日露戦争では第3軍に属し遼東半島に上陸、遼陽会戦、奉天会戦では三軒家付近で
壮烈な白兵戦を交え、吉岡連隊長以下戦死800名、負傷1180名を出した。大正14年、第16師団に編入され
連隊本部は 三重県一志群に移った。昭和4~6年は奉天、9年~11年はチチハルに駐屯した。
日中戦争では天津、石家荘、常熱 無錫、と転戦し、南京攻略に参戦、13年徐州作戦、14年襄東会戦に参加。
16年9月日米開戦を海上で聞き、12月12日フィリピン・レガスピーに上陸、マニラに向かい占領後、
タガイタイ付近に本部を置き、南部ルソンの警備に当たった。
ミンドロ島作戦、第2次バターン島攻略に参加、17年~18年間はルソン島で各戦闘に参加、
19年9月レイテ島に移り米軍の上陸を迎えた。連隊主力はタクロバン南側の522高地、第2中隊がオルモック、
大隊がドラッグ、第10中隊はアプヨグ南方22キロに展開し米軍の上陸を迎えた。
10月12日上陸、激戦が開始された。連隊は死力を尽くして高地の 奪還をはかったが、成功しなかった。
主力は40人余りに激減して、全員で敵陣地に切り込み玉砕、各隊も壮絶な 玉砕をした。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考 |
第16師団 |
レイテ島 |
鈴木辰之助 |
- |
歴代連隊長
板垣征四郎 |
15代 |
1928.3.8 - |
陸軍大将、関東軍参謀長、陸軍大臣、戦犯にて絞首刑 |
野田謙吾 |
19代 |
1936.8.1 - |
陸軍中将、第14師団長、第51軍司令官となり土浦で終戦 |
山田嘉蔵 |
21代 |
1938.1.20 - 1939.5.12 |
戦死 |
横田豊一郎 |
22代 |
1939.5.18 - |
- |
鈴木辰之助 |
末 |
1940.2.2 - 1944.10.23 |
レイテ島で戦死 |

編成地:津 編成年:昭和13年5月23日
(最後の攻勢、?江作戦に参加 )
編成間もなく、杭州、喜興地区の警備、9月安徽省揚子江沿い安慶に進出して、武漢攻略作戦参加、その後 |
黄白城を挟んでの戦いで将校2名と21名の戦死と89名の戦傷者を出し、占領する。その後は17年末まで |
安徽省銅陵に本部を置き、各戦闘に参加。17年12月連隊は第116歩兵団所属となり、常徳作戦、湘桂作戦で戦うが |
この湘桂作戦では衡陽城の占領の目的であったが、クロ高地占領時に、第1,2,3大隊長が相次いで |
戦死するという大激戦となった。第2大隊長足立大尉の戦死のあとを受けた東條大隊長も10日余りで戦死した。 |
8月8日衡陽城は陥落し、連隊は市街の掃討と警備に任じた。20年4月、湘西作戦が発令された。 |
岡村寧次支那派遣軍総司令官が熱望した重慶攻略を放棄させた代償として大本営が |
やむなく認めた作戦であった。フィリピン、硫黄島を失い、沖縄への攻撃準備している |
米軍に対し、そういう時期に中国大陸で大ががりな作戦を実施することは自体現実的であったが、老河口、や?江 |
など中国に建設された米航空基地を覆滅するということにあるとすれば、その意味も小さくないと判断された。 |
連隊は他の師団、連隊と共に?江の航空基地群の覆滅を目指して行動を開始した。多難多き戦闘に突入したが |
新装気鋭の中国軍に迎撃されて進退きわまる境地におちてしまった。米軍からの新鋭武器装備等で |
日本軍を圧倒ついに5月作戦中止となり、連隊も撤退し湖南省の宝慶で終戦を迎える。 |
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考 |
第116師団 |
湖南省(宝慶) |
加川勝永 |
- |

編成地:津 編成年:昭和16年11月21日
(インパール作戦に向かって )
太平洋戦争が勃発する直後に編成され、サイゴンに駐在していたが、19年3月、インパール作戦の増援部隊と
してビルマ方面軍に編入された。第53師団の主力は第33軍の戦闘序列に入り、5月11日連隊はシッタン河を
ビルマ平原に進出した。鉄道輸送により前線に向かうが、敵爆撃で線路破壊され、徒歩で進撃するが雨季に
入って渡河、いたために道は泥沼での行進である。5月16日モールに到着、そこにはマラリアや
アメーバ―赤痢によって雑巾のようになった兵士達が大勢倒れていた。連隊は第15軍の隷下に編入され、
イエウに集結。26日インパールに向かって 進撃を開始した。チンドウィン河を渡河し、アンカラ山脈を越え、
6月8日、チュラチャンプールに到着。第33師団の指揮 に入った。
21日、林陣地を攻撃し激戦のすれ占領。しかし敵の反撃が激しく、26日、健闘空しく奪取さてた。
7月3日、軍はインパール作戦を断念、撤退命令が下った。8月7日シンゲルに集結。
原所属部隊である第53師団に 復帰の命令が下がり、24日インドウに向けて出発した。アラカン山脈を越えて
インドウへ到着したのは、9月23日に なってからであった。ビルマ進攻時1600名を数えた連隊主力は
総員250名まで減少していた。その後イラワジ会戦・ シッタン作戦に参加。20年8月1日、編成改正により
第18師団第114連隊に統合を命じられた。 ミッチョニ三角地帯陣地で終戦を迎えた。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考 |
第53師団 |
ビルマ(シッタン) |
橋本熊五郎 |
- |

編成地:津 編成年:昭和10年2月10日
慮溝橋事件が勃発したあと、支那駐屯軍を救援して平津地方の作戦を担当し、チャハル作戦に従事した。
当初の 独立混成第11旅団から第26師団に編合され、大同南方地区の警備。19年秋、ルソン島に転出され
、一部はレイテ島 に上陸して米軍と交戦のうえ玉砕した。また連隊主力はルソン島で交戦し、ほぼ全滅に近い
打撃を受けたまま終戦
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考 |
第26師団 |
ルソン島 |
津田 佃 |
- |

編成地:津 編成年:昭和17年-月-日
満州勃利地区で訓練していたが、19年9月ルソン島に転出、20年1月クラーク飛行場周辺において
米軍と激戦を交わし 壊滅打撃を受けた。残存将兵はその後持久戦に入ったが、4月末全滅した。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考 |
戦車第2師団 |
ルソン島 |
高山好信 |
- |

終戦前の編成した部隊
連隊名 |
編成地 |
編成年 |
月 |
日 |
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
歩兵第269連隊 |
津 |
昭20 |
4 |
5 |
第123師団 |
中国(孫呉) |
後藤三平 |
歩兵第412連隊 |
津 |
昭20 |
6 |
7 |
第143師団 |
静岡(浜北) |
笠原善修 |
歩兵第339連隊 |
津 |
昭20 |
7 |
23 |
第303師団 |
鹿児島(川内) |
平井 定 |

和歌山
編成地:和歌山 編成年:明治38年8月8日
(コレヒドール島に敵前上陸を敢行 )
日露戦争の進展に伴い、作戦上の必要から創設された連隊で、第4師団と第10師団の各連隊の中から
抽出されて、 第16師団のもと満州に出動し、日露戦争終結後もそのまま満州の守備に就いていた。
明治41年に第4師団の隷下 日露戦争の進展に伴い、作戦上の必要から創設された連隊で、
第4師団と第10師団の各連隊の中から抽出されて、入り和歌山市に移る。昭和12年4月再び満州に渡って、
遼陽、佳木斯付近に駐屯、15年に華中に転進、湖北省 安陸地区にて警備しながら各作戦に参加する。
開戦するとすぐに上海に集結して、17年2月比島に転進、第2次パターン攻略作戦に参加、
第14軍の作戦主攻撃方面担当の第4師団右翼隊となり、4月3日、サマット山の陣地 を第7中隊が山頂を占領
4日後マリベレス山東南麗で、同連隊第3中隊がバターン半島米比島総指揮官・キング 少将を
投降させてしまった。引き続きはマニラ湾口にあるコレヒドール島攻撃にも参加。この島は大砲を200門を
備えた難攻不落の海洋要塞と言われていたが、同連隊は敵前上陸部隊として5月5日に到着、敵は10倍の
兵力で 一斉に射撃してくる中、崖を登って決死の攻撃を仕掛けるが、敵の反撃もものすごく、
日本軍の戦死者が続出。
弾薬も底をつき、肉弾をもって激闘、ついに敵将ウェンライト将軍は戦闘を断念し、6日正午、極東米軍を
全面降伏 まで追い込んだ。一時内地に復員するが、18年10月からは、中部スマトラの防衛に就き、
19年6月になるとビルマに 転戦して第15軍の指揮下に入った。連隊は山本支隊に属してパレルまで前進、
日本軍の撤退援護しつつ、最後尾に付き、死闘を繰り返した。しかし食糧不足で疲労とマラリア・赤痢などの
病魔で783名の病死者を出した。
そのために連隊は、次いでタイ国北部バンコック近郊のブラカノンにまで移動、連隊の再建を着手したが、
米軍の攻撃 を受けて、ナコンナヨクの北方ドリアン山にて終戦
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第4師団 |
タイ(ランバーン) |
門松正一 |
佐藤源八-門松正一-駒沢貞安 |

編成地:和歌山 編成年:昭和13年6月23日
13年10月、第104師団の隷下でバイアス湾上陸作戦に参加、広東攻略のあと恵州に向かった。
平海占領後捻山?、 範和岡にまで進出した。その後、第21軍の隷下に入り、翁英作戦に参加。途中、英徳を
占領して韶州を攻撃するために 北進したが、目的地50キロと迫りながら南寧の戦況は思わしくなく、
各兵団は反転したのでった。のち良口作戦後 広東地区に集結し、米軍上陸に備えていたが、終戦となった。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第104師団 |
中国(広東省) |
清水 円 |
- |

編成地:和歌山 編成年:昭和14年3月23日
華中の武漢地区に出動、南昌地区の警備、各作戦に参加、15年5月襄陽作戦では宣昌を占領、
かなりの損害を出し ながらも奮戦した。開戦には第2次錦江作戦、、浙?作戦、湘桂作戦、
湘西地区反転作戦では友軍の撤退を援助する
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第34師団 |
中国(浦口) |
沢田亮 |
- |
(新設された本土防衛部隊)
連隊名 |
編成地 |
編成年 |
月 |
日 |
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
歩兵第94連隊 |
和歌山 |
昭19 |
4 |
26 |
第44師団 |
茨城(潮来) |
工藤豊雄 |
歩兵第415連隊 |
和歌山 |
昭20 |
5 |
5 |
第144師団 |
和歌山 |
白石通世 |
歩兵第416連隊 |
和歌山 |
昭20 |
6 |
7 |
第144師団 |
和歌山 |
大野次郎 |

奈良
編成地:奈良 編成年:明治31年3月24日
(連隊長と共に敵陣地へ決死の夜襲 )
明治29年、歩兵第38連隊は大津歩兵第9連隊の創設された。第4師団歩兵第19旅団に編入された同連隊は、
京都 に移駐した。明治34年台湾に派遣され、36年朝鮮に駐屯、翌年37年、日露戦争が勃発すると、
第2軍の戦闘序列に 入り、遼東半島上陸して、金洲、得利寺、遼陽の各作戦に参加、
38年3月奉天会戦に参加、明治40年第16師団隷下その後、満州への駐屯、日中戦争でも天津付近の
戦闘参加、12年23日上海派遣軍に編入され、無錫周辺の攻略南京攻略して占領。
河南省慰氏付近で水中の孤立してしまい、第10師団に救助される。漢口攻略作戦参加し、
14年4月南昌作戦に参加し、漢口に集結して帰還する。16年4月、関東軍隷下の第29師団の編合され、満州へ
19年2月、第29師団に南方マリアナ方面への派遣命令が下った。その頃、太平洋方面では米軍の
本格的反攻が開始されていた。ガダルカナル島の撤退、タワラの玉砕、制空権確保で日本軍は中国より
各南方への転進が続く
19年2月29日マリアナに向かう途中に米軍魚雷攻撃で輸送船団が壊滅するが、1日遅れてグアム島に上陸し、
陣地構築が開始された。6月より空襲が激しくなり。航空基地と港湾が機能失う。
7月21日米軍が上陸開始され、連隊はアガット湾地区に守備しており、上陸地点の真正面であり、
猛烈な艦砲射撃と爆撃で第1大隊と第2大隊はほぼ全滅
その夜、連隊の戦力は過半数を失っていて、末長常太郎隊長が自ら指揮して夜襲を決行するが
連隊長以下大半が戦死する。38連隊の中で第3大隊も夜間攻撃の命令を受け攻撃えお開始し、翌日まで続く
翌朝、海岸には死体が散乱していた。第3大隊も全滅。師団長をはじめとする指揮官は8月11日自決した。
生き残りの兵士はジャングルに
逃げ込んで戦い続けた。飢餓と病気と乏しい砲弾でジャングルをさまよって、20年9月15日になって投降する。
47年2月羽田飛行場に一人の日本人兵士が帰還した。その人は”横井庄一さん”であった。
まさしく第38連隊の聯重兵
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第29師団 |
グアム |
末長常太郎 |
”横井庄一さん”- |
歴代連隊長
久邇宮邦彦王 |
8代 |
1910.12.1 - |
元帥陸軍大将 |
近藤元 |
24代 |
1938.7.15 - |
- |
末長常太郎 |
末 |
1940.8.1 - 1944.9.30 |
グアム島にて戦死 |

編成地:奈良 編成年:昭和13年5月23日
編成地 |
編成年月日 |
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
奈良 |
昭13 |
5 |
23 |
第31師団 |
モールメン北方 |
鳥餌恒男 |
17年2月、編成改正により歩兵第26旅団に編合となる。18年2月シンガポールに上陸し、マレー半島の警備 |
3月22日、第31師団臨時編成の命令を受け、5月25日ビルマ・ベグーに集結、10月、チンドウィン河畔の警備につき |
インパール作戦に準備、19年3月15日、同連隊は北方を進み、インパール北の要塞コヒマ攻略の命を受けた。 |
アラカン山脈を進み、3月27日にはインド国境を越えた。4月6日、第1大隊がコヒマへ突入したがもぬけの空で |
新コヒマは蜂の巣状に隆起する高地につくられ、頑固な陣地で、第31師団隷下の各部隊は、攻略を急がなければ |
ならなかった。4月8日、第1大隊はイヌ高地に対する攻撃開始するが4月23日全滅に近い損害を受けた。5月14日 |
圧倒的な火力を誇る英印軍の前に、三又路高地を放棄。6月1日、第31師団長:佐藤幸徳中将はついにコヒマを放棄 |
撤退命令を下した。飢えと病気と疲労、敵からの攻撃。悲惨な撤退だった。その後 盤作戦、イラワジ会戦、 |
メーティクラ会戦と戦闘を続け、サルウィン河防衛戦の最中終戦となる |

|
京都
編成地:京都 編成年:明治7年12月18日
(リンガエン湾決死の敵前上陸 )
西南の役の田原坂などの激戦地で活躍、日清戦争にも参戦、日露戦争では、第2軍第4師団歩兵第19旅団
隷下の 部隊として遼東半島に上陸、金州、得利等、遼陽の各戦闘を経て、奉天会戦参加、日中戦争では、
北支那方面軍に 編入され、塘沽に上陸子牙河作戦参加、華中方面への転出を命じられ、
11月18日、南京攻略に参加し、再び華北方面に転戦し、徐州会戦、武漢攻略などに転戦。
太平洋戦争が勃発する。第14軍の戦闘序列に入り、16年12月22日ルソン島北部リンガエン湾に敵前上陸を
敢行し、マニラを目指して進撃を始めた。17年1月マニラを占領した。
第1次バターン攻略作戦では連隊は全滅に近い損害を受ける。第2次バターン半島攻撃は
4月3日から開始され、兵力は増強され、装備も強化した。米英比軍はあっさり降伏した。その後、同連隊は
南部ルソンとビサヤ地区諸島の警備 戦局が悪化してきた19年、連隊主力はサマール島へ転進。
7月19日にはレイテ島に進出した。10月20日、米軍のレイテ島上陸が始まった。カトモン山の洞窟陣地に在って、
米軍の砲火に耐えていた。27日、撤退命令が下りダガミに結集、ロビ山脈に後退し、
12月6日、ブラウエン飛行場を奪回する「和号作戦」を敢行するが、米軍の攻撃が激しく
連隊は壊滅状態となる。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第18師団 |
レイテ島 |
神谷保孝 |
連隊長戦死者多い- |
歴代連隊長
上島良雄 |
29代 |
1940.8.27- 1941.12.30 |
ルソン諸島戦死 |
武智漸 |
30代 |
1942.1.2 - 11.1 |
ルソン島戦死 |
神谷保孝 |
末 |
1942.11.11- 1944.12.8 |
レイテ島にて戦死 |

編成地:京都 編成年:明治38年8月8日
(飢えと疲労と疫病苦 )
大正14年宇垣軍縮によって第15師団含む4師団が廃止され、隷下の51連隊と共に
歩兵第60連隊も廃止となった。
昭和13年、日中戦争は拡大、長期化の様相を見せ始めていた。4月第15師団は再編成の下命が下った。
第60連隊は名古屋管区において編成され、第15師団に編合されたのである。華中方面の安徽省一帯の
警備から、宣昌、江南、浙?の作戦に参加する。19年第15師団は第15軍に編入され、南方ビルマ方面に転進、
インパール作戦 に参加することになった。3月15日、作戦はチンドウィン河の渡河で先頭部隊となり、進撃。
アラカン山脈を4日で突破しインド国内に進出、サンジャックの戦闘でかなりの兵力を失いながらも、前進続け、
インパール北方数十キロにまで進出 雨季になり、食料も絶たれ、第60連隊は完全に孤立してしまった。
7月7日退却命令が下り、悲惨な撤退だった。
飢えと病気と疲労、それに加えて敵からの攻撃。白骨街道と呼ばれた撤退路には兵士の死体が蒸すに
転がっていた。 ジビュー山脈のジャングルを抜け、イラワジ河畔に集結を終わったのは
12月28日になってからであった。7月からの 撤退開始から5ケ月で連隊の兵員は600名まで激減していた。
その後4ケ月続いたイラワジ河畔会戦を参加するが 8月6日ビルマ・タイ国境ニィーケを越え、
8月11日、タイ国バンポン・タモアン地区で終戦
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第15師団 |
バンコク西方 |
鈴田正忠 |
- |
歴代連隊長 2次
高品彪 |
1代 |
1938.7.16 - |
陸軍中将、第29師団長、グアムの戦い米軍との激戦 戦死 |
倉橋尚 |
2代 |
1940.3.9 - |
- |
松村弘 |
3代 |
1943.3.1 - |
- |
北部邦雄 |
4代 |
1944.11.27 - |
- |

編成地:京都 編成年:明治38年4月15日
(1週間続いた絶食状態 )
第15師団隷下の部隊として編成された。大正14年宇垣軍縮によって第15師団含む4師団が廃止され、
隷下の16連隊と共に歩兵第51連隊も廃止となった。昭和13年、日中戦争が当初の不拡大方針とは裏腹に、
戦火は奥地と 拡大する一方だった。
首都南京を占領するも、中国軍は重慶に首都を移しさらに激しい抵抗を続ける。
4月第15師団は再編成の下命が下った。51連隊は京都師管区において再編成され、第15師団に編合された。
8月、第15師団は中支那派遣の命を受けてた。51連隊は江蘇省?陽地区に連隊本部を置き、各作戦に参加
17年5月浙?作戦その他、18年3月鎮江に移駐し、警備に入る。6月第15師団は第15軍に編入され、
南方ビルマ方面に転進、第51連隊の集結地 レウへの移動は19年2月に到着、
3月15日、作戦はチンドウィン河の渡河によって開始第1大隊と第3大隊は無傷で奇襲渡河に成功、17日には
一気に国境を突破しインド国内に進出。4月1日には、アラカン山脈を突破し、インパール北方数十キロにまで
進出、しかしインパール市街地を攻撃しているはずだった。第33師団が停滞しているために前に
進めなくなっており、逆に敵が総力を上げて攻撃してくる敵前に立往生している。
雨季になり、食料も絶たれ、第51連隊は完全に孤立してしまった。7月7日退却命令が下り、敵の砲火を
くぐり抜けながらの脱出であった。8月1日にウエマテに集結、病魔と疲労により損失が多く、
11月ウント―北部アマガンに集結
戦死傷者1800名を超えた。51連隊のインパール作戦は終了した。その後、イラワジ会戦、
マンダレー城攻防などを経て タイ国カンチャナブリ県で終戦
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第15師団 |
バンコク西方 |
山内清之 |
- |
歴代連隊長 2次
小磯國昭 |
1次11代 |
1923.8.6 - 1925.5.1 |
陸軍大将、内閣総理大臣(第41代) 戦犯終身禁錮刑 |
尾本喜三雄 |
3代 |
1941.5.16 - |
- |
折田一雄 |
4代 |
1944.10.14- 1945.2.18 |
戦死 |
上田孝 |
5代 |
1945.3.1 - 3.21 |
中佐、 戦死 |
山内清之 |
末 |
1945.4.7 - |
戦死 |

編成地:京都 編成年:昭和13年5月23日
日中戦争が勃発すると、第116師団隷下の部隊として中国出動。上海に上陸し、漢口と南京を結ぶ重要地域
安慶の警備に従事し、春季晥南作戦、晥浙作戦、大別山作戦などの戦闘に参加する。
開戦17年、浙贛作戦に参加、
18年、常徳作戦に参加、1号作戦では衡陽に進撃した。20年4月湘西作戦し米中軍と激しい戦闘
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第116師団 |
中国(湖南省 |
滝寺保三郎 |
- |

編成地:京都 編成年:昭和16年11月21日
18年12月、南方転進の命令が下り、19年2月10日サイゴンに上陸、ビンホア周辺の警備に就く、
4月、ビルマ方面 の指揮下に入り、モールの敵陣地攻撃から始り、ビルマ中部の様々な戦闘に参加する。
20年1月、イラワジ河畔の会戦に参加。キャウセ東南付近の戦闘、カロー・ピンヤンの戦闘を経て、
7月シッタンの戦闘に参加後終戦
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第53師団 |
ビルマ(シッタン) |
菊池芳之助 |
- |
(新設された本土防衛部隊)
連隊長 |
編成地 |
編成年 |
月 |
日 |
所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
歩兵第349連隊 |
京都 |
昭20 |
|
|
第316師団 |
神奈川(茅ヶ崎) |
神宮祐太郎 |
歩兵第442連隊 |
京都 |
昭20 |
5 |
5 |
第153師団 |
志摩半島 |
坂本喜四郎 |
歩兵第444連隊 |
京都 |
昭20 |
5 |
5 |
第153師団 |
宇治山田 |
西川正行 |
歩兵第522連隊 |
京都 |
昭20 |
6 |
11 |
第216師団 |
熊本(宇土) |
富田 実 |

編成地:福知山 編成年:明治18年7月21日
(死闘凄絶、レイテ島に玉砕す )
日露戦争では遼東城攻撃占領という功績を残し奉天戦にも参加、日中戦争は北支那方面軍に編入され、
塘沽に上陸 子牙河作戦に参加後、中支那方面軍への転出し、南京攻略では中山門を占領、
その後再度北支那軍へ転戦し、 徐州会戦、武漢攻略戦、襄東会戦で活躍し、帰還する。
開戦12月24日、第14軍の戦闘序列に入った、マニラを目指し 占領する。しかしバターン半島に陣取った
米比軍はほとんど無傷で待機しており、1月12日、パターン攻略開始されたが米比軍の攻撃が激しく日本兵の
死体が山のようになっていた。1月23日第2大隊は地図もなく、上陸地点を間違えて米比軍に囲まれてしまい、
2月7日全滅、900名のうち負傷した兵員は三十数人であった。吉岡頼勝連隊長以下
第3大隊は西岸バガック付近に進出、敵に囲まれてジャングルに孤立、2月15日ようやく脱出した時は、
生存者は 370名を数える程度に激減、第2次バターン攻略は4月3日に開始されたが、あっさり降伏する。
その後同連隊は18年11月25日レイテ島に上陸して警備に当たる。戦局が悪化した19年10月20日、米軍が
上陸し連隊はドラッグの海岸線に布陣していたが、艦砲射撃をもろに受けて、鉾田連隊長も戦死、
第3大隊も玉砕し、第2大隊は師団命令で ブラウエン飛行場の死守するが、3日間死闘が開始されたが、
26日にダガミへの転進命令が下った。その後も 減少する兵力でレイテ島を死守したが力尽きて玉砕する。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第16師団 |
レイテ島 |
鉾田慶次郎 |
- |
歴代連隊長
吉岡頼勝 |
32代 |
1941.7.17 - |
- |
鉾田慶次郎 |
33代 |
1944.3.1 - 10.20 |
レイテにて戦死 |
山森友吉 |
末 |
1944.12.11 - |
- |

編成地:福知山 編成年:昭和13年5月23日
(激闘!昭和の二〇三高地 )
日中戦争も長期に入り、同連隊は中国大陸の太湖の南方湖州付近の警備、武漢作戦に参加、
18年編成改変を迎える間、浙?作戦、大別山作戦などに参加、18年7月の編成改変により、第116師団は
重装備兵団となった。常徳殲減作戦に参加して、雨の中地雷により多大な兵力を失いながらの勝利。
19年6月27日から始った衡陽攻略は、昭和の二〇三高地と呼ばれるほどの激しい戦闘となる。猛暑の中
40日間昼夜の区別もなく戦闘が続く、戦死750名と負傷 2千数百名を越え、連隊としては戦闘力はほとんど
皆無に近い状態となった。その後、立て直し、20年4月湘西作戦に 参加するが、湖南省宝慶拓木田で終戦
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第116師団 |
中国(湖南省 |
児玉忠雄 |
- |

大阪
編成地:大阪 編成年:明治7年12月18日
(第2次バターン攻略戦に参加 )
編成後、萩の役、西南の役に出動し、日清戦争・日露戦争に従事。日露戦争では金州・南州攻略、遼東会戦、
沙河会戦、奉天会戦などに参加、大正3年の第一次世界大戦では第2大隊が青島攻略戦でドイツと戦う。
日中戦争では支那派遣 隷下に入り、漢水作戦・予南作戦・江北作戦・第2次長紗作戦に参戦。開戦は上海に
駐屯していたが、第2次バターン半島攻略のためフィリピンへ派遣される、17年3月6日、リンガエン湾に上陸し、
バターン北部のサーマル地区に集結 4月3日、連隊主力(第3大隊)、砲兵の攻撃と同時に、米比軍に突撃を
敢行したが、鉄条網にはまばれ、苦戦するが、川向こうに追いやる。敵砲撃で通信網が寸断され、攻撃時間が
伝わらなく敵からの猛攻撃で、前線の指揮官以下、多数の損害を出しながらも米比軍は降伏する。このあと
コレヒドール攻略戦に参加。その後帰還し、18年9月、再び動員されスマトラ島の警備に当たる。
20年に仏印に転進し 明号作戦 に参加、以後タイに転進して終戦となる。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第4師団 |
タイ(ランバーン) |
藤森 茂 |
- |
歴代連隊長
川上操六 |
3代 |
1879.5.11 - 1881.1.22 |
陸軍大将、桂太郎、児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」 |
奥津啓三郎 |
33代 |
1940.7.1 - |
|
森田春次 |
34代 |
1941.7.5 - |
|
藤森茂 |
末 |
1944.11.19 - |
|

編成地:大阪 編成年:明治31年3月24日
(コレヒドール攻略の主力部隊 )
日露戦争では、第2軍に所属して、金州・南山攻略、遼東会戦、沙河会戦、奉天会戦に出撃、
15年7月より華中で行動 漢水作戦、16年予南作戦、長沙作戦等に参戦する。17年3月第2次バターン攻略の
ために、上海よりルソン島のリンガエン湾に上陸する。バターン半島への総攻撃が開始された。師団予備隊と
して行動。カポット台への攻撃し、占領する。バターン攻略が終了すると、連隊に突然に
コレヒドール島攻略命令が下された。5月6日コレヒドール島バッテリー岬付近に上陸開始して米比軍の掃討を
行いながら進撃し、翌日完全に島を占領する。7月に大阪に帰還18年9月、再び動員され、
インドネシア・スマトラ島で、パレンバンに上陸し、約2年間同島の西海岸地区の防衛を担当
20年2月、連隊はタイに転進、バンコク到着し、タイ・ビルマ国境の警備・防衛に当たり、同地で終戦を迎える。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第4師団 |
タイ(ランバーン) |
細川志道 |
林芳太郎-小浦次郎-中村淳次 |

編成地:大阪 編成年:昭和13年6月23日
(広東に8年間も駐留し続けた部隊 )
満州へ派遣、13年7月ソ連満国境で張鼓峯事件が発生、連隊は延吉に展開して警備に当たる。
その後連隊は第21軍に所属して華南を転戦した。13年10月広東攻略作戦に参加、北方飛行場を占領。
開戦は第23軍の指揮下で広東の警備を担当、19年大陸打通作戦に出動、10月29日、三江墟を占領したあと
武宣に向かって進撃を開始した。
途中、花蕾高原地付近で中国軍の抵抗によって進撃は停滞した。連隊は各中隊で向かえ撃つが、攻撃激しく
戦死者が多数出て、30日~1日にかけ、総攻撃を開始、まもなく中国軍は撤退、4日に武宣に入城する。
20年3月から連隊は米軍の上陸に備え、広東で陣地を構築中終戦となる。
8年間も同一地区で活動した部隊は数少ない。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第104師団 |
中国(恵州) |
上野源吉 |
松野尾勝明-上野源吉-青野三郎 |

編成地:大阪 編成年:昭和13年6月23日
編成後間もなくして、バイアス湾に上陸し、広東攻略に参加、以後同地の警備、
14年、翁英作戦・良口会戦に参加
太平洋戦争末期には米軍上陸に対する防衛準備する
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第104師団 |
中国(恵州) |
藤木末人 |
- |

編成地:大阪 編成年:昭和14年3月23日
編成後、漢口に派遣され、さらに南昌に移駐した。15年、宣昌作戦に参加、転進に次ぐ転進で
作戦期間中、684キロ の距離を走破した。その後、江北作戦、江南作戦、湘桂作戦に参戦し、
終戦まで中国大陸を転戦する
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第34師団 |
中国(浦口) |
石川 明 |
- |

編成地:大阪 編成年:昭和14年3月23日
漢口に上陸し交戦を続けて警備、その後、江西省新健県に移駐、16年の錦江作戦では1日で占領し、
その後も大きな作戦に参加、20年4月よりの湘西作戦、南昌方面で終戦
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第34師団 |
中国(浦口) |
木佐木清次 |
- |
終戦前編成連隊
連隊長 |
編成地 |
編成年 |
月 |
日 |
所属部隊 |
所在地 |
連隊長名 |
歩兵第256連隊 |
大阪 |
昭20 |
1 |
2 |
第94師団 |
マレー(クアラルン) |
羽生善良 |
歩兵第257連隊 |
大阪 |
昭20 |
1 |
2 |
第94師団 |
マレー(ペナン) |
乙守文策 |
歩兵第258連隊 |
大阪 |
昭20 |
1 |
2 |
第94師団 |
マレー(ペナン) |
山本 勇 |
(新設された本土防衛部隊)
歩兵第92連隊 |
大阪 |
昭19 |
4 |
26 |
第44師団 |
茨城(鉾田) |
伊奈重誠 |
歩兵第93連隊 |
大阪 |
昭20 |
1 |
2 |
第44師団 |
茨城(旭) |
大沢勝治 |
歩兵第413連隊 |
大阪 |
昭20 |
5 |
5 |
第144師団 |
和歌山 |
間野俊夫 |
歩兵第414連隊 |
大阪 |
昭20 |
5 |
5 |
第144師団 |
和歌山 |
松尾謙二 |
歩兵第343連隊 |
大阪 |
昭20 |
7 |
12 |
第225師団 |
兵庫(青野原) |
稲田安良 |
歩兵第344連隊 |
大阪 |
昭20 |
7 |
12 |
第225師団 |
姫路 |
中島敏雄 |
|
兵庫
編成地:姫路 編成年:明治31年3月24日
(バターン半島で十倍の敵と死闘 )
日露戦争では、第4軍に隷下に入り、遼東、奉天の各会戦に参加げ奮戦、昭和7年から2年間は
北満州警備の任に就く
日中戦争では、徳州攻略を敢行、済寧城陥落、嘉州占領など目覚ましい活躍をして、
15年8月からソ連国境の桂木斯に駐屯、その後台湾の警備の任務を終わると、第14方面軍(山下泰文中将)
の隷下に入り、第10師団の先遣隊として マニラに向かった。レイテ島を中止して、バターン半島に転進する、
米軍のリンガエン上陸が開始された20年1月9日、同連隊の永末支隊は、南下してくる敵に対して
2週間にもわたる激戦を展開。その後米軍は廻りの島に上陸し、同連隊は敵に囲まれた状態となり、
約十倍もの敵を相手に死闘を展開することになる。ついにナチブ山への転進を決意。
崩壊寸前の北守備隊、中守備隊がそれぞれ1ケ月かけナチブ山に集結を完了、そこで終戦を迎えた。
軍旗はバラバラにして本土に持ち帰り地元の見星寺に安置した。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第10師団 |
ルソン北部 |
永吉実展 |
- |
歴代連隊長
沼田多稼蔵 |
22代 |
1936.12.1 - |
陸軍中将、南方軍総参謀長、戦犯にて重労働7年 |
原田義和 |
24代 |
1939.8.1 - |
- |
坂井武 |
25代 |
1940.10.22 - |
- |
永吉実展 |
末 |
1944.8.14 - |
- |

編成地:姫路 編成年:昭和13年7月14日
編成後、直ぐに第17師団のもとで、華中に出動して、蘇州・徐州の警備、その後は宣昌作戦、魯南作戦などの
戦闘に参加、19年7月、第17師団を離れて独立混成第38旅団に入り、タロキナ戦に参加
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
独混成第38旅団 |
ブーゲンビル島 |
金子 篤 |
- |

編成地:姫路 編成年:昭和13年6月23日
編成後、河北省に出動し、石家荘地区の警備、19年春、京漢作戦に奮闘し武功をたてる。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第110師団 |
中国(河南省) |
槇林太夫 |
- |

編成地:姫路 編成年:昭和15年7月10日
18年4月、南方に転進して、4月10日、スラバヤ市に集結。ビルマに転進するまで東部ジャワの防衛に就く。
ンパール作戦の牽制作戦である第2次アキャブ作戦に参加、
カラカン山系の防御戦で敵に大きな打撃を与える
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第54師団 |
ビルマ(タトン県) |
矢木孝治 |
- |

姫路その他連隊
連隊名 |
編成地 |
編成年 |
月 |
日 |
所属部隊 |
所在地 |
連隊長名 |
歩兵第199連隊 |
姫路 |
昭19 |
7 |
20 |
第84師団 |
小田原 |
栗栖 普 |
歩兵第200連隊 |
姫路 |
昭19 |
7 |
20 |
第84師団 |
神奈川(国府津) |
川上芳雄 |
歩兵第201連隊 |
姫路 |
昭19 |
7 |
20 |
第84師団 |
沼津 |
松本鹿太郎 |
歩兵第345連隊 |
姫路 |
昭20 |
7 |
12 |
第225師団 |
姫路 |
鎌賀晴一 |
歩兵第429連隊 |
姫路 |
昭20 |
5 |
9 |
第150師団 |
朝鮮(木浦) |
曾我部元一 |
歩兵第430連隊 |
姫路 |
昭20 |
5 |
9 |
第150師団 |
朝鮮(木浦) |
栗谷 発 |
歩兵第431連隊 |
姫路 |
昭20 |
5 |
9 |
第150師団 |
朝鮮(木浦) |
三村親厚 |
歩兵第432連隊 |
姫路 |
昭20 |
6 |
7 |
第150師団 |
朝鮮(木浦) |
山崎孝三 |
歩兵第524連隊 |
姫路 |
昭20 |
6 |
11 |
第216師団 |
熊本(宇土) |
片岡太郎 |

編成地:篠山 編成年:明治41年5月8日
(敵も近寄らなかった丹波の鬼部隊 )
毎日のように山岳訓練を続けてきた連隊は、「山岳戦の篠山隊」「丹波の鬼」などといった異名をとっていた。
12年4月、日中戦争の前線要員として満州派遣、13年7月には第70連隊の留守部隊として170連隊が
結成され、広東の北方へ、その後17年11月、輸送船でラバウルに向かう途中に船は沈没して228名の将兵と
軍旗を失う。大本営は「軍旗を紛失した以上、全員この地で散る覚悟せよ」と訓示したほど、事実この連隊は
後に送られた。ニューギニアのジャングルの中で多くの将兵を失うことになり、実質上、連隊そのものの
存在まで消滅さて、第70連隊は15年8月新偏成された第25師団のもと桂木斯に集結、錦州に移駐、
11月林口に移駐して警備 8年間に及ぶ満州国内警備、治安維持を担当した。20年4月、本土防衛の任務を
課せられ内地に召集された。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(歴代連隊長) |
第25師団 |
宮崎(野尻) |
石川条吉 |
岩部重雄-川島正-石川粂吉 |

|
鳥取・島根
編成地:鳥取 編成年:明治31年3月24日
(戦い抜いてサイパン島に花と散る )
大阪から鳥取に移り編成した。日露戦争当時は第10師団に属し、遼東会戦、紗河会戦、等を参戦し、
満州事変は 松花江作戦、熱河作戦の長城線の攻防、東寧作戦、虎林作戦などに参加し、一時帰還するが、
日中戦争がはじまり 13年は徐州作戦、武漢攻略作戦、14年は魯西作戦、普東作戦、
15年は第25師団隷下となり、南満錦州に至り関東軍で国境警備となる。太平洋戦争が風雲急を告げるように
なってきた19年、第3大隊に抽出転用命令が下り、一隊は3月20日、サイパン島タナパク港に上陸、
6月米軍が目の前に上陸して全員が玉砕する
主力連隊は師団と共に本土防衛のために本土宮崎・都城に集結して終戦となる。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第25師団 |
宮崎(都城) |
愛甲立身 |
庄司巽-小山義巳-愛甲立身 |

編成地:鳥取 編成年:明治38年6月13日
(ラバウル島での玉砕相次いで )
初め大阪の第17師団隷下で編成され、乃木大将の指揮下に置かれるが、1ヶ月後休戦となる。
明治41年10月、第17師団から第16師団歩兵第19旅団の管下に入り、翌年奈良に軍営移転する。
大正14年5月1日をもって廃止された
同連隊が再び編成されたには昭和13年7月軍旗を再拝受した。ここで改めて第17師団の隷下、日中戦争が
激しくなり 同連隊も中国へ渡った。江蘇省無錫・常州・宣興などの警備、10月第3大隊が武漢攻略作戦に
参戦したのを皮切りに甘木関突破作戦、慈口鎮付近の戦闘に参加、太平洋戦争末期、19年9月、53連隊は
師団の第1挺団としてラバウルへ 第8方面軍司令官の指揮下に入り、12月からの戦闘はまさに死闘の
連続であった。シリマチ岬の守備隊と小隊は玉砕 それぞれの大隊、中隊等は玉砕相次ぐ、
連隊主力は12月31日残兵力をもってツルブ飛行場で持久戦を決意する
そしてビール川で死闘を繰り広げたいた20年8月、終戦を迎えた。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第17師団 |
ニューブリテン島 |
大島康治 |
緑川純治-角谷弘毅-大島廉治 |

編成地:鳥取 編成年:昭和15年9月27日
(イワラジ河を血に染めた大決戦 )
16年8月、第58兵站警備隊として東満・虎林へ派遣された。18年4月から上海よりジャワの
小スタング列島へと転ずる。9月ビルマ・ベンガル湾ダンカップに移動して、第54師団隷下に入って、
第1、第2大隊はラムレ島へ、第3大隊はチェトバ島の守備に就く。英海軍はラムレ島に初の攻撃を
12月31日に加えたので、主力を投入して持ちこたえ、
第1大隊はラムレ島よりダンカップと転進させると英印軍はラムレ島に上陸を敢行する。
第2大隊はもちろん果敢に応戦するが、3月にはビルマ独立義勇軍が日本軍への反乱を開始、
連隊はダンカップからの転進命令を下したが、すでに敵の勢力は強大すぎていた。
六甲山の守備隊は玉砕する。4月15日、第28軍に「邁作戦」の命令が下り、連隊はアラカン山脈を突破して
イラワジ河を渡河。第3大隊は主力の渡河を助けてここに大会戦を繰り広げる。
8月18日ピリンに向けて転進を開始したときである。9月24日、パウン付近で英軍に降伏。
当初兵力 46000名が17000名と半数以下となった。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第54師団 |
ビルマ(ナューラン |
馬場 進 |
- |

鳥取のその他連隊
連隊名 |
編成地 |
編成年 |
月 |
日 |
所属部隊 |
所在地 |
連隊長名 |
歩兵第341連隊 |
鳥取 |
昭20 |
- |
- |
第224師団 |
鳥取 |
不明 |
歩兵第445連隊 |
鳥取 |
昭20 |
5 |
5 |
第154師団 |
宮崎(妻) |
堀 龍市 |
歩兵第446連隊 |
鳥取 |
昭20 |
5 |
5 |
第154師団 |
宮崎(妻) |
瀬野 赳 |
歩兵第464連隊 |
鳥取 |
昭20 |
6 |
7 |
第160師団 |
朝鮮(群山) |
菅野 浄 |
歩兵第508連隊 |
鳥取 |
昭20 |
- |
- |
第205師団 |
高知 |
横山忠男 |

編成地:浜田 編成年:昭和14年9月13日
軍旗拝受後、華中に出動。黄波地区の警備、15年には新州・黄安・河口鎮付近の戦闘、宣昌作戦、漢水渡河
当陽・宣昌などに進攻、20年5月、対ソ連作戦準備で満州へ転進を開始。終戦後、シベリア収容所で
2年から5年 強制労働を余儀なくされた。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第39師団 |
満州(四平) |
山田正吉 |
- |
浜田のその他連隊
連隊名 |
編成地 |
編成年 |
月 |
日 |
所属部隊 |
所在地 |
連隊長名 |
歩兵第275連隊 |
浜田 |
昭20 |
3 |
28 |
第125師団 |
通化 |
瀬川正雄 |
歩兵第347連隊 |
浜田 |
昭20 |
7 |
12 |
第231師団 |
島根(日奈) |
朝倉 哲 |
歩兵第418連隊 |
浜田 |
昭20 |
5 |
5 |
第145師団 |
若松 |
黄葉 収 |
歩兵第462連隊 |
浜田 |
昭20 |
- |
9 |
第160師団 |
朝鮮(群山) |
市村正一 |

編成地:浜田 編成年:明治19年8月17日
(万里の長城に初めて日章旗を立てた部隊 )
日清戦争では朝鮮に仁川から上陸し、熾烈な戦い」を展開。この時戦死した木口小平叭卒(ラッパ吹き)は
死んでもラッパを口から離さなかったと言うのが小学校の教科書にまで取り上げた。
この木口小平がいた連隊として知られる。
日露戦争にも従事、日中戦争では長城作戦参加、万里の長城がそびえ立つ八達嶺の険へと投入された。
12年8月紗河鎮に着いた連隊は、料子台に向かう、すでに先遺の第5師団主力は料子台に前進中、
中国軍との交戦 し、8月23日万里の長城に日章旗が初めて翻る。
13年3月徐州作戦、10月は広東攻略戦、14年華中海州作戦、11月広西省南寧攻略等に参戦する。
開戦時は17年1月シンゴラからヨンペン・アエルヒタム・シンパレンガムの戦闘、2月シンガポールを攻略、
マレーの警備 17年11月、第3大隊だけが南海派遣第8方面軍下のガダルカナル島援護のため、第5師団の
他の連隊とともに目指す ガダルカナルの戦局は極めて憂慮すべき状況となっていた。
増援部隊はニューギニアへと向かう
第21連隊の第3大隊は第42連隊だい3大隊長の指揮下に入ってマダンに向かった。ラバウル港を
12月15日に出航 巡洋艦:天竜を母艦として、駆遂艦6隻で護衛するが米軍のB17の猛爆撃で直撃うけるが、
沈没はしなかった。
マダンに上陸するが戦闘はまさに死闘の連続だった。物量の違いによりサラワケット山脈を越えて撤退する。
セラム島で終戦
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第5師団 |
セラム島 |
佐々木慶雄 |
三木吉之助-原田憲義-佐々木慶雄 |

編成地:松江 編成年:明治38年8月8日
(バレテ峠の戦闘で全滅状態 )
初めは、広島で第16師団歩兵第32旅団隷下に編成し、日露戦争へと出動、明治41年11月、
第17師団に移って松江へ 転営、大正14年5月、第10師団の隷下編入された。満州事変では松花江作戦や
馬占山軍討伐などに参加する。
日中戦争では子牙河々畔の戦闘、平原城攻略、黄河渡河作戦、済南城奪取、泰安・曲阜・界河・臨城など攻略
さらに漢口攻略作戦、中では13年3月の台児荘での戦いでは、十数倍からの中国軍を相手に大変な
死闘を展開 その後は満州の興山鎮に移駐し守備に任じた。19年、台湾に移り防衛に当たるが、
12月、ソウル島へ第3大隊は 輸送船が敵潜水艦により沈没し606名中、290名が死亡するが、他の2大隊は
無事入港を果たしたが、それからの 戦闘はまさに激烈。20年1月、リンガエン湾南岸に上陸、バターン半島を
分断、コレヒドールを占領。63連隊もバレテ峠での激戦では奮戦はしたが、物量を誇る敵兵の前で素手で
挑んでいくに等しい戦いで玉砕が相次ぎ、6月14日、全滅 状態となる、運よく生き残ったものは、
密林をさまよい歩くこと50日余り、8月5日にビチパガンに到着、兵力は90名 あまりであった。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第10師団 |
ルソン島北部 |
林 葭一 |
福栄真平-堤三樹男-林葭一 |
福栄真平:16代1937.10.5 -1939.3 その後陸軍中将、第102師団長セブ島で終戦、戦犯で銃殺刑

編成地:松江 編成年:昭和13年6月23日
第63連隊の補充隊として163連隊が編成され、直ちに中国・河北省へ向かう。7月11日、華北塘沽に上陸、保定に
入って第163師団隷下の部隊と警備を交代、以来、定県から石門、辛集鎮、新郷、浴陽などに移って治安維持
19年の京漢作戦では洛陽城を攻略し、さらに南部河南省戡定作戦、20年3月には予鄂作戦で魯山から南召を攻略
西安方面からの中国軍と対峙したが、ついに終戦となる
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第110師団 |
中国(洛陽) |
河野又四郎 |
- |
|
岡山
編成地:岡山 編成年:明治38年6月13日
(ニューブリテン島での死闘 )
日露戦争下に、姫路、福知山、善通寺、丸亀、松山、高知など、各地所在の歩兵連隊補充隊が、
それぞれ編成した。 部隊を合体して作られた。初めは第27師団第14師団、歩兵第27旅団に属して、直ちに
満州に派遣され第3軍の隷下
日露戦争では戦火を交えることなく、帰還、一時は鳥取にあったが、岡山に第17師団が新設されたのを機に、
明治41年4月新兵営に移る。太平洋戦争の18年11月、連隊主力はニューブリテン島のガスマタ、
第1大隊はガブの防衛に当たる。20年4月、主力はラバウル防衛のために移動を開始したが、第1大隊は
タラセア半島に残り、上陸米軍と戦う
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第17師団 |
ニューブリテン島 |
丸山 厳 |
沖静夫-平島周平-丸山巌 |

編成地:岡山 編成年:明治7年12月18日
(ルソン・バレテ峠での半年間の死闘 )
西南の役、日清戦争に参加し、明治31年10月、第10師団へと移り、以来この師団の中心的な連隊として、
まず日露戦争 遼陽会戦、紗河会戦、奉天会戦などに参加。
大正14年5月、姫路での51年間に及ぶ駐屯の歴史を閉じて岡山に転営満州事変では、松花江作戦、
東境作戦、熱河作戦などに参加する。日中戦争で漢口作戦の緒戦における光州攻撃の時で、
名を挙げた人物がいた。それは同連隊の第1大隊長:来栖武一少佐である。
戦闘については省略する。 15年から満州駐屯、太平洋戦争が急を告げるようになった19年2月、第3大隊が
サンパン島からヤップ島へ出動
連隊主力も7月になると台湾防衛から、後にはルソン島へ投入され、バレテ峠での決戦では、
実に半年間にもわたる 死闘を展開した。第1陣として第1大隊がバレテ峠に到着したのは20年3月10日のこと。
追って他の大隊も18日に師団のもとに到着する。敵軍と対峙するが物量には勝てずに、
第10連隊もここに最後のときを迎えたのである。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第10師団 |
ルソン島北部 |
岡山誠夫 |
下記 |
歴代連隊長
奥保鞏 |
2代 |
1879.4.28 - 1882.2.13 |
明治陸軍軍人、 元帥陸軍大将、陸軍参謀総長 |
小畑 敏四郎 |
22代 |
1928.8.10 - |
陸軍中将、陸軍三羽烏の一人、国務大臣 |
宮下 健一郎 |
29代 |
1939.12.6 - |
陸軍中将、、第157師団長 |
田島正男 |
30代 |
1940.12.19 - |
- |
岡山誠夫 |
末 |
1944.11.15 - |
- |

編成地:岡山 編成年:昭和13年6月23日
(大隊作戦で戦ってきた治安部隊)
姫路に第110師団が編成されたのにともなって誕生した部隊である。13年7月、塘沽に上陸、連隊本部は
保定に直行 していたが、第1、3大隊は魯北作戦参加のために徳県へ、第2大隊は高碑店に向かう。
第110師団は後方の治安部隊として編成された部隊であり、師団が到着したころに、徐州会戦はすでに
一段落しており、一線部隊は漢口に向かって攻略の歩を進めていた。
太平洋戦争でも中国にて大隊ごとに作戦に参加
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第110師団 |
中国(洛陽) |
中村武男 |
- |

編成地:岡山 編成年:昭和15年9月27日
(ウマ高地での英印軍との壮烈な戦い)
岡山に第54師団が置かれたのを機に創設された連隊で、18年2月ビルマに集結、当時ビルマの情勢は
容易ならぬ事態であった。チンドウイン河正面には英軍がインパールを中心に攻撃準備を進めていたし、
フーコン正面からは米支軍約2師団がレドを根拠地として、やはり攻撃準備を進めており、初め54師団は、
そんなビルマで海岸防衛の配置に就き、19年7月、それまでの任務だったチエドバ島の守備を
121連隊にまかせ、カンゴウ地区へと前進した。
20年1月21日、英軍が上陸して、同連隊の第2大隊はミエボン半島にあり、
第3大隊は第54歩兵団長:木庭少将いる
松支隊のもとにあって、第3中隊主力が英印軍対したが、やがてはウマ高地も占領された。ゾウ・クリ、
サギ・マキ地区も奪われてしまった。1月31日に連隊はウマ高地の奪回をはかるべく、第1大隊が手榴弾戦を
展開するが、敵機に阻まれ補給の無いまま攻撃を断念するが大隊の大半が戦死で11名の
生存者を残すだけであった。
その後、それぞれの大隊は戦闘に参加するが、連隊は8月20日、ついに矢折れ力尽きて南キャドウンに
集結するが391名だけの将兵だった。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第54師団 |
ナューランサクン |
村山一馬 |
- |
終戦前の連隊
連隊名 |
編成地 |
編成年 |
月 |
日 |
所属部隊 |
所在地 |
連隊長名 |
歩兵第342連隊 |
岡山 |
昭20 |
- |
- |
第224師団 |
岡山 |
不明 |
歩兵第447連隊 |
岡山 |
昭20 |
5 |
5 |
第154師団 |
宮崎(妻) |
佐々木高一 |
歩兵第448連隊 |
岡山 |
昭20 |
6 |
7 |
第154師団 |
宮崎(妻) |
永松享一 |
歩兵第509連隊 |
岡山 |
昭20 |
6 |
11 |
第205師団 |
高地 |
足立謙二 |
|
広島
編成地:広島 編成年:明治8年9月9日
萩の乱、西南の役、日清戦争、では平壌を攻略、さらに日露戦争、シベリア出兵した。日中戦争では北京から紗河鎮 |
石頭嶺付近の戦闘に参加、万里の長城内側作戦、太原を占領、徐州会戦後、しばらく警備に就くが、広東作戦に |
参加し虎門要塞を攻略。14年ふたたび北支那へ、魯北の治安粛正工作を担当。10月末、南支那に出て、チャオタン |
島東方に上陸して南寧付近の戦闘に参加、15年9月、仏印国境を突破して敵兵を追いつつランソンからハノイを経て |
ハイフォンへ。日中戦争下の11連隊は、戦史に残るいろいろな作戦に参加している。 |
太平洋戦争は、同連隊は機械化部隊となってマレー作戦に参加した。クワラルンプールへ、山下泰文中将の指揮下 |
にあり、即座ブキテマ高地を占領し、シンガポール島を目指す。競馬場をなんらく占領、ゴム林の丘陵地帯での戦闘 |
18年1月末、クワラルンプールの南方の地点で警備、その頃米軍はニューギニアのポートモレスピーに司令部を置き |
反撃に転じ、レイテ島、マニラ占領、ビルマ方面軍はほとんど潰滅状態に近い、やむなく、南方総軍は第5師団を起用 |
することに決定した。連隊もズラ港へ、輸送船は病院船に模したもので国際法には違反であった。さいわいにも |
転進中に日本が降伏し、終戦を迎えた。 |
編成地 |
|
編成年月日 |
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
広島 |
|
明8 |
9 |
9 |
第5師団 |
ケラ諸島 |
佐々木五三 |
歴代連隊長 |
|
|
|
草場辰巳 |
26代 |
1933.8.1 - |
陸軍中将、第4軍司令官、シベリア抑留、ソ連側証人青酸カリで自殺 |
上月 良夫 |
27代 |
1935.3.15 - |
陸軍中将、第2軍司令官、駐蒙軍司令官、第11軍司令官、第17方面 |
長野 祐一郎 |
28代 |
1937.7.22 - |
陸軍中将、第37師団長、第16軍司令官 |
山県 栗花生 |
29代 |
1939.3.9 - |
陸軍中将、第26師団長、レイテ決戦のためレイテ島に渡航 戦死 |
大橋熊雄 |
30代 |
1940.8.1 - |
|
渡辺綱彦 |
31代 |
1941.6.30 - |
|
高橋弁 |
32代 |
1942.5.14 - |
|
佐々木五三 |
末 |
1943.11.1 - |
|

編成地:広島 編成年:昭和14年9月13日
編成時、直ぐに武漢に派遣され漢水、白河での戦闘に初陣ながら敵司令部を全滅させるなど勇敢な
戦歴をもつ、 17年末から四川省への関門・宣昌の警備している中、敵18師団の主力を撃滅、
20年5月、ソ連の進撃に備えて北上
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第39師団 |
満州(四平) |
福永勇吉 |
- |

広島:終戦前の編成連隊
連隊名 |
編成地 |
編成年 |
月 |
日 |
所属部隊 |
所在地 |
連隊長名 |
歩兵第274連隊 |
広島 |
昭20 |
3 |
28 |
第149師団 |
中国(ハルピン) |
宮岸初次 |
歩兵第340連隊 |
広島 |
昭20 |
|
|
第224師団 |
広島 |
不明 |
歩兵第346連隊 |
広島 |
昭20 |
7 |
12 |
第231師団 |
山口(菱海) |
温品博水 |
歩兵第417連隊 |
広島 |
昭20 |
5 |
5 |
第145師団 |
若松 |
青山良武 |
歩兵第420連隊 |
広島 |
昭20 |
6 |
7 |
第145師団 |
若松 |
小川 逸 |
歩兵第461連隊 |
広島 |
昭20 |
5 |
9 |
第160師団 |
朝鮮(?安) |
松田緩治 |

編成地:福山 編成年:明治31年3月24日
(激戦に明け暮れた悲運な部隊 )
日露戦争では得利寺、蓋平、大石橋、遼陽、紗河,黒溝台、奉天の各会戦に参加。日中戦争では第5師団下で
蒙彊作戦ののち国東支隊に入って徐州会戦では沂州城攻略に参加し、城壁に一角を占領する。
その後、第21軍下 でバイアス湾上陸作戦、さらに南支作戦。14年になって及川支隊に入って山東省の
匪団潰減作戦を戦ったあと、ノモハン事変で大連に渡って同地に駐屯。北支・中支・南支から満州・仏印にまで
転進した部隊であった。
太平洋戦争が始まると、山下泰文率いる第25軍に加わってマレー作戦に参加した参加師団は
近衛師団:18400名 第18師団:17300名、第5師団:25200名(同連隊含む)と群を抜いていた。
上海から23隻の輸送船で11月15日に出航 第2大隊がシンゴラ飛行場を占領、ジットラ陣地占領、続いて
クワラルンプール占領、17年2月、シンガポール占領 3月、になると川村支隊に入って、フィリピンの
バナイ島、ミンダナオ島に渡り平定作戦に参加。7月には南海支隊に加わりポートモレスピー攻略作戦に従った。
ラバウルからニューギニアに上陸、スタンレー山系のオーストラリア軍を 撃破してスタンレー山脈分水嶺を占領、
引き続きポートモレスピーに向かって前進中、突然の反転命令が下た。
その後退作戦中、敵に退路を閉ざされてしまった。病気と飢餓の為に多くの犠牲を出しながら
ギルワ陣地に辿り着く 全滅寸前にまで追い込まれた。この後、いったん復員し、
平壌の第30師団の隷下に入り、19年にはミンダナオ島から主力はレイテ島に上陸。米軍と遭遇し激戦の末、
20年1月からカンキポット山麓に集結して自活、その時点で100名
7月突撃を敢行して、投降したのが15名、残る全員が玉砕した。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第30師団 |
レイテ島 |
炭谷鷹義 |
-下記 |
歴代連隊長
岡部貫一 |
21代 |
1940.8.1 - |
- |
矢沢清美 |
22代 |
1942.2.8 - 1943.2.5 |
ニューギニアにて戦死 |
炭谷鷹義 |
末 |
1943.2.9 - 1945.6.17 |
レイテ島にて戦死 |

編成地:福山 編成年:昭和16年9月10日
(壮絶極めた三角山争奪戦)
広島、香川、高知などの予備役兵を集めて作られたのが第141連隊である。当初は占領地の
警備担当することを目的に設置された連隊である。17年1月、同旅団はジャワ・バターン半島の前線への出動を
命じられ、ここでいきなり 米比軍と対決した。18年末にはラバウルのツルブへと移動、ここでも米軍と対戦した。
19年1月3日、連隊主力は重点を三角山に向けて攻撃開始した。第2大隊:向井豊二少佐は中隊をそれぞれに
配置して一斉に攻撃を仕掛け一時は三角山奪取までと報が流れたが、時間の経過とともに米軍の巻き返しが
激しくなり、日本軍の損害は増加していった。
第7中隊は壊滅となる。攻撃中止となるが、米軍は一段と激しい攻撃を仕掛けてきた。やがて弾薬も底を
ついてきた中で、最後に持久戦にまで転移していった。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第65師団 |
ニューブリテン島 |
岸山憲四郎 |
- |
|
山口
編成地:山口 編成年:明治31年3月24日
(熾烈きわめたテンガ-飛行場争奪戦 )
日露戦争、シベリア出兵に参加、日中戦争の広東作戦では虎門に上陸して占領、
15年6月、龍州討伐、9月、仏印進駐、 11月ハノイ進駐、太平洋戦争では、シンガポール攻略参加、
マンダイ山高地付近の英砲兵は早朝よし攻撃しており日本軍は観測所に集中攻撃を敢行。
英軍も攻撃が衰え、42連隊は第2大隊、第3大隊を先頭に上陸に成功しつかさず進撃を開始、
9日テンガ-飛行場東南側付近まで進出した。42連隊はプキテマ高地も攻略して英軍を降伏
させており、11月になってはマレー半島の警備に当たった。20年、アル諸島への集結中に終戦を迎えた。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第5師団 |
タンニバル |
吉川 章 |
安藤忠雄-西原修三-吉川章 |

編成地:山口 編成年:昭和14年9月13日
日中戦争中に編成され、14年10月から湖北省に出動。宣昌作戦、長紗作戦に参加、
18年3月、には龍泉舗方面からの 敵を相手に天宝山下で激戦を演じたのをはじめ、10月に入っては常徳作戦
、一旦帰還後、対ソ連軍作戦のため 20年5月、満州・四平に到着したとき終戦
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第39師団 |
満州(四平) |
富永 一 |
- |
終戦前に編成された連隊
連隊名 |
編成地 |
編成年 |
月 |
日 |
所属部隊 |
所在地 |
連隊長名 |
歩兵第276連隊 |
山口 |
昭20 |
3 |
28 |
第125師団 |
中国(通化) |
岡野 薫 |
歩兵第419連隊 |
山口 |
昭20 |
5 |
5 |
第145師団 |
若松 |
森本誠四郎 |
歩兵第463連隊 |
山口 |
昭20 |
5 |
9 |
第160師団 |
朝鮮(群山) |
東 長生 |
歩兵第507連隊 |
山口 |
昭20 |
6 |
11 |
第205師団 |
高知 |
石橋幸人 |
歩兵第348連隊 |
山口 |
昭20 |
7 |
12 |
第231師団 |
山口(三隅) |
松原順一 |
|
愛媛
編成地:松山 編成年:明治19年8月17日
(沖縄で最後まで戦い続けた部隊 )
日清戦争に参戦して、日露戦争では乃木大将の第3軍のもと、旅順要塞攻撃では「肉弾連隊」の
異名をとどろかせた。 日中戦争では上海の激戦に参加、14年10月、第24師団の隷下に移って、満州の
国境守備した後、19年8月からは 沖縄の防衛に当たった。嘉手納方面に配備され陣地構築作業している中、
20年4月1日、米軍の1万6千名以上の 軍隊が次々に上陸している。同連隊は小録飛行場及び豊見城海岸で
戦闘態勢を整えており、米軍の戦力は増強し 夜間攻撃計画も敵装備で作戦失敗となり、首里城近くの陣地を
置く同連隊および他部隊も相当な損害を出しても 阻止していた。ついに司令部は首里を見切りをつけ、
南の喜屋武方面へと後退、1万名の負傷者うち半数以上が自決
6月10日、22連隊本部は破壊され、連隊長以下ほとんどが全滅、糸満海岸に配備されていた部隊も手榴弾で
最後の 一兵まで見事に戦い続けた。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第24師団 |
沖縄 |
吉田 勝 |
今関靖夫-田中幸憲-吉田勝(戦死) |

編成地:丸亀 編成年:明治8年9月9日
(グアムに散った歴戦の兵(とわもの)たち )
西南の役、日清戦争の後、乃木希典大将が率いる第3軍に編入して日露戦争に参加。旅順要塞攻撃のときは
多くの犠牲者を出しながら勇敢に戦った。12連隊は東鶏冠山攻撃に参戦し、第1大隊:児玉少佐以下332名は
「白襷隊」 (3100名)による夜襲を敢行。敵の頑固な抗戦で退却、その後、203高地を攻略して占領、
東鶏冠山も占領 日中戦争では上海戦では宝山城付近で戦闘はじめ、浦鎮、羅店鎮付近の戦闘に参加。
太平洋戦争突入後しばらくは 演習に励みながら出動命令を待っていた。
17年9月、初年兵で入隊してきたのが後に読売巨人軍の水原茂投手である
その後、連隊主力は四国に転用され、高知南岸地区での防衛構築、第3大隊は19年3月、グアム島に出動し、
米軍 の上陸に備えるが、上陸を阻止することなく全員玉砕した。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第11師団 |
高知・グアム |
原田喜代蔵 |
- |
歴代連隊長
黒木 為楨 |
1代 |
1875.2.20 - |
明治の軍人、陸軍大将、薩摩武人 |
安達二十三 |
28代 |
1936.12.1 - |
陸軍中将、第18軍司令官、戦犯で終身刑決定後自決 |
多田保 |
31代 |
1940.8.1 - |
- |
松村千代喜 |
32代 |
1942.8.1 - |
- |
原田喜代蔵 |
末 |
1943.12.24 - |
- |

編成地:丸亀 編成年:昭和15年9月27日
(ビルマ戦線の精強部隊)
17年1月ビルマ攻略作戦に参加、第3大隊の基幹である沖支隊がタボイを占領、、その後モーラミャインを攻略
4月 - 援蒋ルート遮断のため緬支国境に進撃を開始しトングーを占領する。その後、ピンマナなどを占領する
11月 - 北部ビルマの警備に就いていたが南部に転進し第一次アキャブ作戦に参加、チズエとマユ河付近の
印軍を撃破しプチドンを突破。第1大隊はアレサンヨウ、モンドウを占領する
昭和19年2月 - 第二次アキャブ作戦に参加、激戦を繰り広げるも損害甚大、無線封鎖の上で独断で撤退をする
4月11日 - 連隊長は解任される。昭和20年)8月 - 終戦
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第55師団 |
プノンペン |
古谷朔郎 |
小原澤幸蔵-棚橋真作-古谷朔郎 |

その他の連隊
連隊名 |
編成地 |
編成年 |
月 |
日 |
所属部隊 |
所在地 |
連隊長名 |
歩兵第234連隊 |
丸亀 |
昭14 |
9 |
13 |
第40師団 |
中国(蕪湖) |
西川俊二 |
歩兵第245連隊 |
丸亀 |
昭19 |
8 |
17 |
第111師団 |
済州島 |
坂口方平 |
歩兵第259連隊 |
丸亀 |
昭19 |
12 |
23 |
第120師団 |
釜山 |
本 繁久 |
歩兵第262連隊 |
丸亀 |
昭20 |
3 |
28 |
第121師団 |
済州島 |
中西熊太 |
歩兵第352連隊 |
丸亀 |
昭20 |
7 |
12 |
第344師団 |
高知(宿毛) |
中島美光 |
歩兵第449連隊 |
丸亀 |
昭20 |
5 |
5 |
第155師団 |
高知 |
青山熊吉 |
歩兵第452連隊 |
丸亀 |
昭20 |
6 |
7 |
第155師団 |
高知 |
山本孝男 |
|
徳島・高知
編成地:徳島 編成年:明治31年3月24日
(第3大隊はグアム島で玉砕 )
明治37年) - 日露戦争に従軍 大正期 - シベリア出兵に従軍
昭和12年) - 日中戦争勃発、上海に上陸し羅店鎮の戦いなどに参加
昭和19年) - 中部太平洋の守備担当の第31軍向けに第6派遣隊が編成され第3大隊が抽出される
3月20日 - 第3大隊はグアムに到着、陣地構築を開始
7月21日 - アメリカ軍上陸、激戦の末マンガン山にて玉砕
昭和20年)4月 - 本土防衛のため満州から四国に移駐、高知沿岸にて陣地構築
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第11師団 |
高知 |
多田金治 |
- |
歴代連隊長
花谷正 |
19代 |
1937.11.1 - |
陸軍中将、第55師団長、第39軍参謀長 |
村田孝生 |
20代 |
1939.1.31 - |
陸軍中将、第231師団長 |
青山清 |
21代 |
1940.12.2 - |
- |
多田金治 |
末 |
1944.1.27 - |
- |

編成地:徳島 編成年:昭和15年9月27日
ビルマ攻略作戦で数々の攻略戦に参加、アキャブ方面に転進し、英印軍の南下を阻止、20年プノンペンへ
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第55師団 |
プノンペン |
木村雄一郎 |
- |
その他の連隊
連隊名 |
編成地 |
編成年 |
月 |
日 |
所属部隊 |
所在地 |
連隊長名 |
歩兵第235連隊 |
徳島 |
昭14 |
9 |
13 |
第40師団 |
中国(蕪湖) |
堀内勝身 |
歩兵第243連隊 |
徳島 |
昭19 |
8 |
17 |
第111師団 |
済州島 |
佐藤健吉 |
歩兵第260連隊 |
徳島 |
昭19 |
12 |
23 |
第120師団 |
釜山 |
橋本孝一 |
歩兵第263連隊 |
徳島 |
昭20 |
3 |
28 |
第121師団 |
済州島 |
井野八郎 |
歩兵第450連隊 |
徳島 |
昭20 |
5 |
5 |
第155師団 |
高知 |
下村 肇 |

編成地:高知 編成年:昭和15年9月27日
(東部ニューギニア戦線で苦闘)
太平洋戦争開始時、グアム島、ビスマーク諸島などの連合基地を攻略するため大本営直轄で誕生した
南海支隊で、「土佐の歩兵をぜひに」の要望で、歩兵第144連隊と、山包兵第55連隊第1大隊を基幹として、
16年10月8日編成 南海支隊は17年1月14日からラバウルに向かって出港した。ニューブリテン島滞在中は
火山灰で飲料水確保が不自由 マラリアが発生し、第1大隊は全員感染し、十数名が死亡する。こうした中、
同連隊第2大隊は東部ニューギニアの サラモアを占領、第2大隊の帰還したのを見届けてから南海支隊は
ラバウルを後にした。第1大隊を基幹とする
横山先遣隊が7月21日ブナに上陸して前進し、ココダと同飛行場占領に成功する。約360キロ先の
ポートモレスビー 攻略に向けて、8月18日からバサブァに上陸。一方、主力連隊の144連隊も連日の
豪雨の中ココダに到着し、さらに イスラバへと向かった。スタンレー山系を進み26日から敵地に攻撃を開始、
1週間後イスラバを占領するが、損害が多く 3分1の将兵が減少したが、雨の中で食料不足やジャングルでの
戦いで体力の消耗が激しく、マラリアに冒されて落伍者 が出始めていた。9月16日大奮戦の末、
イオリバイワの占領に成功する。18年初期から米軍の攻撃が激しくなり、支隊 は崩壊寸前にまで陥った
やむなく支隊長はクムシ河口に撤退命令。約300名の行動不能の患者は自決させられ、
南海支隊長:小田少将は部隊の転進開始を確認したのち自決して果てた。
その後サラモアで任務を解かれ、ラバウルに集結し、戦力回復した後、18年7月下旬、ビルマに至り、
第55師団に 復帰した。ビルマでは19年3月マユ半島防衛戦においてアキャブ作戦を戦い、
20年5月には第15師団に転属して トングーで英印軍と交戦するなど激戦を重ねた。のち第55師団に復帰、
モールメンに転進中終戦となる。
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第55師団 |
プノンペン |
吉田章雄 |
- |

編成地:高知 編成年:明治31年3月24日
日露戦争では乃木大将率いる第3軍に編入され、旅順攻略戦に参加、苦戦の末、東鶏冠北堡塁を占領
14年12月より新密山に駐屯して東満国境の警備担当。20年4月、本土防衛するために、高知に転任
最終所属部隊 |
最終所在地 |
最終連隊長名 |
備考(戦時中歴代連隊長) |
第11師団 |
高知 |
坂本俊馬 |
- |

その他の連隊
連隊名 |
編成地 |
編成年 |
月 |
日 |
所属部隊 |
所在地 |
連隊長名 |
歩兵第236連隊 |
高知 |
昭14 |
9 |
13 |
第40師団 |
中国(蕪湖) |
小柴俊男 |
歩兵第244連隊 |
高知 |
昭19 |
8 |
17 |
第111師団 |
済州島 |
中山 修 |
歩兵第261連隊 |
高知 |
昭19 |
12 |
23 |
第120師団 |
釜山 |
大西角一 |
歩兵第264連隊 |
高知 |
昭20 |
3 |
28 |
第121師団 |
済州島 |
森永 清 |
歩兵第353連隊 |
高知 |
昭20 |
7 |
12 |
第344師団 |
高知(宿毛) |
前田敏夫 |
歩兵第354連隊 |
高知 |
昭20 |
7 |
12 |
第344師団 |
高知(宿毛) |
道盛 清 |
歩兵第451連隊 |
高知 |
昭20 |
5 |
5 |
第155師団 |
高知 |
森田豊秋 |
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