福岡 編成地:小倉 編成年:明治8年9月9日
秋月の乱、萩の乱、西南の役、朝鮮事変、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵などに参加、 軍旗は西南の役で1度失われた。昭和7年2月、上海事変勃発。第14,24,46、の各歩兵連隊から各1個大隊を 抽出して、混成第24旅団を編成 同連隊からは第2大隊が選ばれて参加する。日中戦争前には第12師団は 満州東部のソ連国境の警備に就く 16年7月、連隊は第12師団隷下を離れて、新設された第25師団に編入した。太平洋戦争は南方戦局が 不利となり第3大隊主力はサイパン島の守備に投入されて玉砕した。20年に入って満州の師団を本土防衛の 為に配置する。 第25師団の内地転用は20年3月、第16方面軍戦闘序列に編入される。満州を3月下旬に出発し、 宮崎県小林地区へ 以後、連隊主力は都城にて
成地:福岡 編成年:明治19年8月17日
「舞鶴連隊」ともいう。、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵などに参加、昭和7年2月、上海事変勃発。 第14,24,46、の 各歩兵連隊から各1個大隊を抽出して、混成第24旅団を編成 昭和11年)4月 - 満州駐剳、治安戦に従事 昭和19年)11月 - 台湾に移駐
編成地:福岡 編成年:昭和13年5月23日
編成後、第106師団隷下にあって武漢攻略、南昌作戦に参加、太平洋戦争開戦前に新設された 第56師団(龍兵団) 隷下となり、17年2月、ビルマのラングーンへ向かい、4月からのビルマ進攻作戦に 参加した。トングーを目指し、 4月28日シボウ占領、カーサ占領、ナンカンに集結して雲南省の龍陵・拉孟に 分駐して警備。以後19年5月上旬に至る までは、第3大隊は龍陵、第1大隊は鎮安街、主力を拉孟において連隊は龍陵南方から怒江岸付近の警備 その後、第1次怒江反撃作戦:19年5月11日、続けて6月11日第2次怒江反撃作戦、7月29日、第1次断作戦 昭和19年7月下旬 - 雲南遠征軍の総攻撃が開始され激戦の末にボウ市は放棄される。 12月下旬 - ワン町に転進する 昭和20年月 - ワン町東方高地一帯にて防戦するも同月中旬頃から撤退を始め、その後センウイ、ナムツ、 シボウなど 後退しつつ連合国軍と交戦を続ける
編成地:福岡 編成年:昭和12年9月--日
昭和12年9月 - 軍旗拝受、編成完結後ただちに華中に派遣され杭州湾から上陸し杭州作戦に参加 10月 - バイアス湾上陸 昭和16年) - 南方に転用される 昭和17年)1月9日 - 広東・虎門を出港、1月22日 - シンゴラに上陸、マレー作戦に参加。同地を占領後は ジョホール州の警備に就く、 3月4日 - 第18師団のビルマ転進のため移動を開始、マンダレーやシャン州の戦いに参加、 ミイトキーナの警備に就く 昭和19年)5月 - 空挺部隊を中心に連合国軍に包囲される。最終的に二千数百名が戦死する 8月 - ミイトキーナ守備隊は離脱を開始 9月15日 - 連隊の生き残りがバーモに到着する。再編成のためモンミットに移動する 昭和20年)2月末 - メイクテーラが連合国軍に占領される 3月1日 - 第18師団主力はメイクテーラ奪回作戦を開始、連隊はモンミットの警備を続ける 4月 - 師団は作戦を中止し後退を開始、本連隊も追及しシッタン川東岸へ向かう 5月12日 - 師団主力と合流する 7月 - ペグー山系に孤立した第28軍残余部隊の救援に向いシッタン川西岸地区にて作戦 孤立部隊を収容の後にシッタン川東岸に撤退する 8月終戦
編成地:福岡 編成年:昭和12年9月--日
中国戦線では第18師団隷下にあって杭州上陸作戦、バイアス湾上陸作戦に参加後、広東地区の警備、 その後も戦闘 太平洋戦争16年11中旬、第35旅団:川口清健少将の指揮下に入った。16年12月カムラン湾に集結した 35旅団は師団主力と別れて川口支隊となり英領ボルネオに上陸してミリー及びセリアの油田を占領。、 その後、セブ島攻略戦ミンダナオ島攻略などフィリピン各地を転戦。17年8月、一木支隊潰滅後 ガダルカナル島奪回に 向かう。 飢餓に瀬しながらの飛行場をめぐる攻防戦約半年続けられたのち、連隊は多大の損害を蒙って 18年2月、ガ島を撤退 ラバウルで再建の後、サイゴンにおいて第31師団に編入された。 ビルマ戦線においては、連隊はウ号作戦に参加 してコヒマをめぐる激戦を展開したが、佐藤幸徳師団長の 抗命事件等を残しながら作戦は失敗に終わった。 以後、連隊は盤作戦、イラワジ河畔会戦などを経て後退を重ね、マルタバン湾岸防衛作戦を展開中に終戦
(新設された本土防衛部隊)
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編成地:久留米 編成年:明治38年6月13日
明治40年)10月 - 第14師団から第18師団へ所属変更、衛戍地は久留米となり転営 大正3年) - 青島の戦いに参加 正14年)5月1日 - 宇垣軍縮により本連隊は廃止 昭和12年9月 - 軍旗拝受、第18師団隷下となる、以後は上陸訓練を重ねる 10月8日 - 門司港を出港、杭州湾上陸作戦に参加、金山衛城、亭林鎮、嘉善、湖州での戦いの 末杭州にいたり、占領後は同地の警備に就く 昭和13年)10月 - バイアス湾上陸作戦に参加、華南各地で戦う 昭和16年)12月8日 - コタバルに上陸、マレー作戦に参加 昭和17年)4月 - ビルマに移動、マンダレーやシャン州を経由してメイミョウに到着、同地の警備に就く 昭和18年3月 - イギリス軍ウィンゲート空挺旅団の侵入に対処 10月 - ウ号作戦、九号作戦に参加 昭和19年6月 - 第一次断作戦に参加 昭和20 年2月 - フーコンやメイクテーラの戦いなどに参加、以後はシッタン方面へ移動し ニャンカン付近で防戦に努める
編成地:久留米 編成年:明治31年3月24日
明治31年)3月24日 - 軍旗拝受、明治37年) - 日露戦争に従軍、 明治40年) - 第12師団から第18師団に所属変更 大正期 - シベリア出兵に従軍、大正14年)5月1日 - 第18師団から第12師団に所属変更 昭和7年) - 第一次上海事変に第1大隊が出動 昭和11年)4月 - 満州駐剳、治安戦に従事 昭和19年)11月 - 台湾へ移駐 20年8月終戦
編成地:久留米 編成年:昭和15年9月27日
新設の第56師団の隷下となり、出動命令には接しなかった。マレー・スマトラ作戦に投入予定であったが、 見合わせた。17年2月21日、第15軍に編入し、ビルマに向かった。ラングーンに上陸して マンダレー攻略の途についた。トングーモチ鉱山、ロイコーと シャン高原の各地を進撃して4月29日ラシオ占領。5月24日、中国遠征軍による怒江正面 での反抗が開始されたために連隊は急遽、臚越に派遣され、当地の防衛に当たる。 兵站基地からラシオまでの距離約400キロ、この距離が後の悲劇の原因となる。 19年5月中国軍により総反撃が開始された。第1次、第2次反撃と約20倍の中国軍により全滅となり、 退却でチェンマイ付近にて終戦
新設された本土防衛部隊
編成地:大村 編成年:明治31年3月24日
長崎県で初めて編成された連隊で、郷土部隊である。第6師団に所属していたが、明治36年、第12師団に転属 日露戦争では、第1軍に属して朝鮮半島に仁川に上陸、遼陽会戦、紗河会戦、奉天会戦に参加する。連隊は久留米 第18師団に転属、第1次世界大戦で青島攻略に参加、大正12年に再び第12師団隷下となった。昭和7年第1次 上海事変で派遣され、呉淞付近で中国軍と戦闘を繰り広げた。11年4月、連隊は満州に駐屯命じられて、三江省勃利 に到着して、連隊主力(第2大隊)は勃利、第1大隊は依蘭、第3大隊は?木斯に分散して配置され、抗日ゲリラ部隊 と連日戦闘に明け暮れた。13年8月、ソ連国境の街、石門子に移駐、連隊はこの地域で訓練に明け暮れた。 19年11月、台湾への抽出が決定して鹿児島湾に集結して連隊は大隊ごとに3隻の輸送船に分乗して台湾へ、 連隊主力(第1大隊)は船故障で博多に戻り、第3大隊の船は枕崎沖、第2大隊の船は台湾沖にて米軍潜水艦にて 沈没される。台湾に到着した連隊は高雄の警備に当たり、その後岡山地区に移駐する。
編成地:大村 編成年:明治38年6月13日
明治40年)11月 - 第14師団から第18師団へ所属変更 大正14年)5月1日 - 宇垣軍縮により本連隊は廃止 昭和12年)9月 - 軍旗拝受、第18師団隷下となる、以後は五島列島富江付近で上陸訓練を重ねる 11月5日 - 上海に上陸、以降は嘉善を占領し続いて広徳、蕪湖に進む 昭和13年)10月 - 広東攻略戦に参加 昭和16年)12月28日 - コタバルに到着、マレー作戦に参加、終了後はジョホール州の警備に就く 昭和17年)4月 - ビルマに移動、ピンマナやマンダレーの戦いに参加 昭和18年)10月 - アメリカ軍・中国軍がフーコンから北部ビルマに進入、以後5ヶ月間、 防戦するもカマインへ撤退する 昭和19年)12月1日 - 連隊は山崎支隊として第56師団の指揮下に入りレド公路の遮断に務める 昭和20 年)2月 - フーコンを放棄しメイクテーラの戦いなどに参加 終戦
佐賀 編成地:大村 編成年:昭和15年9月27日
16年10月、混成第56歩兵兵団が編成され、連隊はその兵団の基幹部隊となった。 兵団長は坂口支隊と呼ばれた。 11月、門司を出港し、パラオ島コロールに上陸、開戦となり、フィリピン・ ミンダナオ島ダバオの在留邦人300名が監禁 されていたが、12月23日、米比軍との交戦で救出した。 坂口支隊は17年1月、ボルネオの油田地帯を占領する。 ジャワ攻略でオランダ軍と交戦して降伏させ、捕虜700名、17年4月、ビルマ、ラングーンに渡った。 同地で第56師団に 復帰した。坂口支隊は連隊を基幹として北ビルマのワンチンまで進出し、 芒市、龍陵東方などで英印軍を破り、 北ビルマと雲南省を繋ぐ唯一といった怒河の恵通橋付近を占領。 中国の雲南遠征軍の攻勢は18年8月、9月ごろから活発化していたが、19年5月、本格的反攻作戦を開始 第56師団は死力を尽くして対抗したが、米軍支援により押しまくられた。7月にはインパール作戦も 中止となり、日本軍敗勢の中で連隊は遂次各陣地から撤退し、タイの チェンマイへ撤退中に終戦
(新設された本土防衛部隊)
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熊本 編成地:熊本 編成年:明治8年9月9日
明治9年)10月 - 神風連の乱に出動 明治10年) - 西南戦争に従軍、緒戦は熊本城の守備に当たる 明治21年) - 第6師団が創設され隷下に入る 明治27年) - 日清戦争に従軍 明治37年) - 日露戦争に従軍 大正12年)4月 - 満州駐剳 大正14年)5月 - 帰還 昭和12年)7月 - 日中戦争勃発、華北に派遣され永定河、保定、石家庄で作戦する。その後華中に転戦 11月5日杭州湾に上陸し南京攻略戦に参加 昭和18年)1月 - ラバウルに上陸 6月末 - コロンバンガラ島の守備につく 7月9日 - ニュージョージア島バイコロに上陸、ムンダ飛行場の攻防戦を展開 9月下旬 - 撤退しブーゲンビル島の守備につく 11月 - アメリカ軍上陸、タロキナ攻防戦を展開
編成地:熊本 編成年:明治38年8月8日
明治38年7月 - 第16師団隷下となる 8月8日 - 軍旗拝受 大正14年)5月1日 - 宇垣軍縮により廃止される 昭和13年)7月 - 再編成され第23師団隷下となり、ホロンバイル地区の警備に当たる 昭和14年)5月13日 - ノモンハン事件発生 6月20日 - 第二次ノモンハン事件に参加。9月15日まで 8月29日 - 猛攻撃を受ける中、軍旗奉焼ののち連隊長は自決 昭和16年) - 再建された連隊は満州北部の守備に就く 昭和19年)11月 - 師団が第14方面軍に編成替え 11月12日 - 門司港を出港 11月15日 - 輸送船「吉備丸」が潜水艦の攻撃を受け沈没、連隊長以下多数が戦死した。 輸送船団は更に済州島沖、鹿児島沖でも魚雷攻撃を受ける 2月 - サンフェルナンド港に上陸 昭和20年)1月9日 - バレテ峠でアメリカ軍と戦う 1月25日 - 撤退命令が下される 2月 - バギオの防衛に当たる 8月 - 終戦
編成地:熊本 編成年:昭和13年5月23日
日中戦争では第106師団隷下に入り、武漢作戦、南昌作戦に参加、 18年5月、新編の第46師団に編合されマレー半島 に進出した。 19年1月、小スンダ列島スンバ島地区の防衛に転じ、のち、チモール島に約1年間駐留。 20年4月に至って南部マレー半島に転進し、クアンタン、ペナン等で陣地構築、ジョホールバールにて終戦
熊本のその他連隊
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大分・宮崎 編成地:大分 編成年:明治31年3月24日
明治37年) - 日露戦争に従軍 鴨緑江、遼東会戦、紗河会戦、奉天会戦等に参加 大正7年) - シベリア出兵に従軍 大正14年)5月1日 - 宇垣軍縮により歩兵第72連隊が廃止され代わりに大分に移駐し第6師団に所属変更 昭和3年)4月20日 - 第二次山東出兵、出動命令が下る 4月24日 - 門司港を出港 4月28日 - 青島に到着、済南へ向かう。5月3日から10日まで中国軍と交戦する 昭和6年)12月16日 - 満州事変のため門司港を出港する 昭和7年)2月 - 熱河作戦に参加 昭和12年)7月27日 - 動員下令 北京到着後は周辺の警備に当り、その後永定河渡河作戦に参加 10月 - 上海方面への転用が決まり南京攻略戦などに参加 昭和13年) - 徐州会戦などに参加 昭和15年)11月 - 第6師団から第48師団に所属変更 昭和16年)12月 - フィリピンの戦いに参加 昭和17年) - 蘭印作戦に参加、スラバヤを占領、その後は同地の警備に当たる
編成地:都城 編成年:明治19年8月17日
明治21年)5月 - 第6師団が創設 明治27年) - 日清戦争に従軍、摩天嶺付近威海衛南岸砲台を占領 明治37年) - 日露戦争に従軍、第2軍に属し、蓋平、大石橋、海域と順次戦闘を交え、遼陽会戦に臨んだ。 首山付近の戦闘で連隊の80%が損害を受けた。その後、沙河会戦、奉天会戦に参加 大正12年) - 満州駐留 大正14年まで 大正14年) - 帰還、宇垣軍縮により師団改編、都城へ転営 昭和7年)12月 - 満州事変により動員 昭和8年)2月 - 熱河作戦に参加 昭和12年)8月 - 動員下令、河北省黄村に進出、その後保定、石家荘などで戦う 11月 - 杭州湾に上陸、南京攻略戦などに参加 昭和13年) - 武漢作戦に参加 昭和14年) - 南昌などで戦う 11月 - アメリカ軍と交戦するも連隊は次第に損耗する。なお、ブーゲンビル島の戦いにおいて、 最初に米軍と交戦したのは、本連隊所属の中隊(堀之内正義中尉)であった。
編成地:都城 編成年:明治41年5月8日
大正7年) - シベリア出兵に従軍、第1大隊が全滅する戦闘も起きる 大正14年)5月1日 - 宇垣軍縮により廃止される 昭和13年)4月 - 再編成される 7月 - ハイラルに移駐 昭和14年)6月 - ノモンハン事件のため出動 7月23日 - 総攻撃に参加 、8月24日 - 総攻撃に参加 8月30日 - 師団長命令により撤退する 昭和19年)7月 - 第4中隊が独立歩兵第59大隊に編入し宮古島に移駐 10月 - 満州里に3,000名を残置し、連隊主力はフィリピンに移動。 移動中、輸送船が魚雷攻撃で沈没する 12月 - ルソン島サンフェルナンドに上陸 昭和20年)1月 - アメリカ軍上陸開始 1月9日 - 第8中隊の1個小隊が玉砕 1月13日 - 第4中隊が玉砕 2月25日 - 撤退命令が下る 4月中旬 - 第1大隊が玉砕 8月 - 終戦
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鹿児島 編成地:鹿児島 編成年:明治31年3月24日
明治29年) - 熊本城内にて連隊本部を設置 明治30年)3月 - 鹿児島市外の伊敷村に転営 明治31年)3月24日 - 軍旗拝受 明治37年) - 日露戦争に従軍、第2軍に属し、蓋平、大石橋、海域と順次戦闘を交え、遼陽会戦に臨んだ。 奉天会戦では第4軍に移って参加する。大正11年~13年にかけて遼陽に駐留する 昭和8年) - 満州事変後に熱河作戦や長城作戦に参加し11月に帰還 昭和12年)7月 - 盧溝橋事件の後に動員 8月 - 豊台に到着し永定橋で中国軍と交戦 10月 - 杭州湾作戦に参加 12月 - 南京攻略戦に参加 昭和13年)5月 - 徐州会戦に参加 昭和14年)3月 - 南昌作戦 9月 - カン湘作戦 昭和15年)5月 - 宜昌作戦 昭和16年)1月 - 陸水作戦 9月 - 第一次長沙作戦 12月 - 第二次長沙作戦 昭和17年)4月 - 浙カン作戦 ガダルカナル島救援のため第6師団が派遣されることとなるが、 輸送船団がトラック島付近に来たところでガダルカナル撤退が決まり、 急遽ブーゲンビル島に行くこととなる 昭和18年)1月 - ブーゲンビル島エレベンタに上陸し、島の中部キエタに駐屯する 11月 - アメリカ軍はタロキナ岬に上陸、以後本連隊はタロキナをめぐる攻防戦を展開する 昭和19年)3月 - 第二次タロキナ作戦を実施するも壊滅する
編成地:鹿児島 編成年:明治41年5月8日
明治41年)5月8日 - 広島にて編成、軍旗拝受 大正14年)5月1日 - 宇垣軍縮により廃止される 昭和14年)5月 - ノモンハン事件のため出動 7月24日 - 長野連隊長が戦傷 8月26日 - 森田連隊長が戦死 8月30日 - 軍旗奉焼、ソ連軍に対し総攻撃を実施するがほとんどが戦死する 10月30日 - 軍旗を再度拝受する。その後チチハルや免渡河に駐屯する 昭和15年)8月 - 第4師団から第25師団に所属変更、佳木斯に集結 9月 - 錦州に移駐、11月 - 林口県に移駐 昭和19年)12月 - フィリピンマニラに上陸 昭和20年)4月 - 連隊主力はバギオに移動、アメリカ軍と交戦 6月 - プロク山カバヤ高地に集結
編成地:鹿児島 編成年:昭和13年6月23日
第106師団に属し、華中に出動して第6師団の警備地区を引き継いだ。15年1月、広東省増城、三月汕頭の 警備に変わったが、15年5月帰還復員した。しかし、連隊主力は第54師団要員として残留した。 18年5月再び動員され第46師団に属したが、19年7月連隊主力は硫黄島に上陸し、小笠原兵団に属した。 硫黄島の戦闘には第109師団 栗林師団長)を中心の小笠原兵団が編成され、総勢力20000人と 歩兵連隊としては第145連隊だけであった。硫黄島の残兵は1000名であった。
編成地:鹿児島 編成年:昭和14年9月13日
第6師団、第12師団の現役兵で編成され、主として中国の山西省運城地区の警備に任じた。春季普南作戦 郷寧作戦、普中作戦、中原作戦、汾西作戦、山西粛正作戦などに参加。19年、京漢作戦、湖桂作戦で 中国大陸を 縦断し、そのまま仏印を経てタイに至った。
(新設された本土防衛部隊)
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編成地:羅南 編成年:大正4年4月18日
大正6年の朝鮮抗日暴動の鎮定事件に従事し、満州事変では昭和6年12月、錦州付近の戦闘に参加した。 太平洋戦争下の19年トラック島に出動して戦闘参加、12月には、比島に転進してリンガエン湾東岸地区の 陣地を占領 プログ山付近に布陣して持久戦を続けた。
編成地:龍山 編成年:大正4年4月18日
満州事変、日中戦争で活躍し、18年1月には東部ニューギニアに転進して悪戦苦闘を強いられた。 ことに9月から始った カイヤピットの戦いと、アイタぺ戦の活躍は有名だが、5月には第3大隊がウラウの 敵と激突、そして、20年になってミラクで戦闘のほか、7月末までもずっと戦闘を繰り返し、アリス付近で終戦
満州 (対ソ連に備えた部隊)
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台湾 成地:台北 編成年:明治41年11月7日
台湾守備隊隷下のもとで編成された連隊である。当初は、台北地区の警備などに当たっていたが、 12年の上海派遣 軍の動員下令によって、上海付近での会戦に参加、13年は揚子江付近の戦闘に 参加して武昌を占領 14年、海南島攻略作戦、南寧作戦にも加わって、15年になって初めて第48師団の隷下に編合された。 太平洋戦争が始まると、直ぐさま比島作戦に参加、12月22日、リンガエン湾に上陸した連隊は、 マニラへと快進撃ヘルモサの占領、ジャワ作戦ではスラバヤを占領し、バリ島を攻略。その後、しばらくは 両島の警備に当たったが チモール島に渡り、ここでの守備に任じていたとこで終戦
編成地:台南 編成年:明治41年11月7日
台湾歩兵第1連隊とほとんど同じで、終戦はチモール島で迎えた。
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