編成地:東京 編成年:明治7年1月23日
日本陸軍最初の歩兵連隊、全国徴兵制に選び抜かれた模範青年で構成されている。明治十年西南の役では 田原坂、熊本、城山などの激戦の地を転戦、日清戦争では台湾,日露戦争では鎮南浦に上陸し第1軍に所属、 日中戦争は近衛混成旅団の一翼で広東で南寧作戦に参戦、開戦後は東京に帰り、皇居の守備と首都圏の防衛
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
編成地:東京 編成年:明治7年1月23日
近衛歩兵第1連隊と同様で最古の歩兵連隊のひとつである、初陣は佐賀の乱と西南の役,日清戦争は台湾平定 日露戦争は第1歩兵連隊と同じ広東に参加、太平洋戦争開戦時は東京で同様に皇居と首都防衛の任にあたる
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
編成地:甲府 編成年:明治20年5月24日
日清戦争は大連の戦後の警備、日露戦は第1軍末鴨緑江に進出、日中戦争は漢口から南寧・石岐の警備、 昭和16年7月仏印作戦開始でサイゴン付近に進駐。開戦時マレー作戦、第18師団とともにマレー侵攻開始、 シンガポール攻略後、スマトラ東海岸バトバラに上陸、メダン南方にて終戦
編成地:佐倉 編成年:昭和15年10月25日
タイに進出、マレー半島からシンガポール攻略に参加、その後スマトラへ転戦、近衛師団が近衛第2師団と改称し、 近歩2、4とともに編入されメダン付近のラビンチンギで終戦
その他の近衛歩兵連隊
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北海道地区連隊 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
編成地:札幌 編成年:明治33年12月22日
屯田兵を母体として創設され、明治36年中国山海関に派遺、日露戦争では乃木大将の第3軍の隷下 203高地で参戦開戦後は再度樺太(サハリン)の上敷香に移駐して国境警備にあたる。第125連隊の 進駐により、ソ連と応戦し終戦となるが、8月20日になって、ソ連軍の襲撃があり、迎え撃つが大勢の 兵士が犠牲、日本軍最後戦闘 所属部隊:第7師団-中国海開 連隊長:加納栄造 第3軍 - 酒匂純夫 第88師団-樺太 真岡 山沢 饒 編成地:旭川 編成年:明治33年12月22日
日露戦争では203高地総攻撃に参戦し、多大な損害、奉天会戦にも参戦 日中戦争時はチチハルに駐屯し徐州会戦、ソ連との交戦、大隊長以下7割を失う 開戦17年、穂積少佐を隊長とする北海支隊とする編成、19年には峯木少将を隊長とする東支隊の中核として 北千島に移駐、第27軍の千島作戦の援護する以後は北海道東部の防衛に専念 所属部隊:第7師団-千島-帯広 連隊長:21代 宮崎周一大佐(のち中将) 22代 内田辰雄大佐 1940.10.6 - 23代 山口定 大佐 1944.11.27 - 編成地:旭川 編成年:明治33年12月22日
第25、26連隊とは兄弟連隊で札幌で編成し、旭川に駐屯、日露戦争では203高地に,参戦後南満州鉄道の警備 満州事変では万里の長城で中国軍と喜峯口関門をめぐる戦闘で石を投げ合う激戦が展開したのは語り草と なって ノモハンではソ連との交戦で1690人参戦し400名が戦死傷、帰還は15年11月であった。 開戦後は北方警備、根室・網走・釧路に派遺、1個大隊が樺太でソ連進撃により派遺 昭和20年 8月27日 - 天寧高地にて軍旗奉焼 所属部隊:第7師団-千島-帯広 連隊長:安永篤次郎-長嶋秀雄大佐 (19代 根本 博(中将)) 編成地:旭川 編成年:明治33年12月22日
第25~27連隊は兄弟連隊であり、日露戦争では同じ203高地に参戦、連隊長の村上正路大佐は兄弟連隊から 900名の将兵を選抜して白襷隊(しろたすけ)を組織して奮戦した事は有名、その後奉天会戦で捕虜となり 村上大佐は2000名の捕虜の指揮官と過ごし、帰国後軍法会議に付されなかったとも言われており、 その後シベリア ノモハンでは1770名で戦死者568名、戦傷者675名と大損害で佐官級が責任で自決 開戦時は17年、大本営直轄の一木支隊(一木清直大佐・歩兵第28連隊長)としてガダルカナル島奪還命令を 受けた。 支隊は28連隊を主力に旭川工兵第7連隊第1中隊と、京都で編成された独立高射砲第8中隊を 加えた2507名であった。 ガダルカナル島は南太平洋の航空基地として使用され始めていた、 この飛行機奪還し守備せよとの命令であるが、 所詮無理な命令で、地図、武器等もなく、将兵も意気もなく 半日で玉砕する、他の部隊も侵攻するが惨敗し、 ガ島の撤退となる。連隊は帰国した将兵は140名余りであった。その後は北海道東部で防衛
編成地:旭川 編成年:昭和13年11月10日 満州島南部
88連隊と兄弟連隊で17年琿春守備隊の編成が改められ、第71師団が編成されると隷下に入る。20年2月に台湾南部 に布陣し、防衛態勢をとった、しかし米軍は台湾進攻せずに沖縄に上陸する。戦闘もなく終戦
編成地:旭川 編成年:昭和9年5月26日 満州
独立歩兵第1連隊が前進で独立混成第1旅団に編合された。旅団は陸軍初の機械化部隊である。日中戦争勃発と 同時に北京付近の掃討戦に参加、チャハル作戦に転戦し機動力を遺憾なく発揮する。13年に歩兵第88連隊に編成 17年に第71師団に編合され第87連隊と同様に台湾南部に布陣する。
編成地:旭川 編成年:昭和13年6月23日 満州
姫路で動員され、鳥取で編成を完結した第110師団の隷下連隊である。日中戦争時は華北で各地の作戦に参戦 17年5月満州間島省に駐留、琿春駐屯隊を基幹とする第71師団に編合され、満州のソ連守備しておる。 20年2月第87、88連隊と同じ台湾の台中へ
編成地:旭川 編成年:昭和14年10月25日 満州
14年11月満州東安に移駐し、ソ連との守備15年補充兵1425名が北海道から、初年兵440名は歩兵第17連隊へ 開戦後、日本軍の戦果が悪くなりが、同連隊の第3大隊は釜山港からサイパン島に、東南部のアスリート飛行場 辺の海岸付近に配備後、米軍上陸で激戦の末全滅する。89連隊の主力部隊2888名は満州より沖縄の那覇に 陸19年8月の頃である。米軍の空襲と上陸開始で首里が米軍の制圧下に入り、連隊もほとんどの将兵も戦死 連隊長金山均大佐は新垣の洞窟で自決する。
編成地:旭川 編成年:昭和15年12月4日 樺太、上敷香
札幌で編成されて樺太混成旅団に編合された。20年4月、樺太の上敷香のソ連国境方面の警備につく 8月13~17日まで激戦を展開する
編成地:旭川 編成年:昭和20年5月2日 樺太、上敷香
新設された本土防衛部隊
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
東北地区連隊 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
編成地:青森 編成年:明治11年12月29日
日清戦争に参加が第1歩である。明治35年1月対寒訓練の雪中行軍が八甲田山中行われたが、未曾有の 大吹雪 に巻き込まれて、将兵210名の内、199名が惨死するという軍事史に残る大事故に遭遇した。 日露戦争では奉天会戦の前哨戦、黒溝台の戦闘で約7倍のクロバトキン将軍の露軍を迎え撃ち、撃破する武勲 満州事変では各歩兵連隊から1個大隊が抽出され、鈴木混成旅団が編成された5連隊から相沢三郎大隊長が 強く希望していたが、(相沢は後に軍務局長の永田鉄山を斬殺した人物である)適わず・・ 日中戦争で満州移駐していて、太平洋戦争開始19年9月フィリピンに転用され、レイテ上陸の命令を受け 連隊主力は第35軍の指揮下に入り高階支隊と呼ばれ、12月20日南マタコブ付近の戦闘に参加し、殆ど全滅の 打撃を 受けた。20年6月カンキボット山頂で刀折れ弾丸尽きで総員3500名(内2455名は5連隊)は消えた。 青森への生還者は6名であった。
編成地:青森 編成年:昭和14年3月23日
編成完結後、中国山西省東南部へ出動し治安工作に当たった。18年末、西部ニューギニアに転進し、サルミ付近 の沿岸防衛に当たる。20年初頭、サワル飛行場占領の為に米軍の猛攻撃を受け、反撃もむなしく弾薬不足で 山中に入り持久戦を続けるが、将兵は激減し、9月上旬に日本の降伏を知った。
編成地:青森 編成年:明治31年3月24日
明治編成当時の将兵はほとんど岩手県出身で、日露戦争では第8師団は黒溝台争奪の死闘し、奉天会戦に参戦 満州事変では錦州へ山海関を攻撃し、熱河省の承徳城を占領する。開戦時は満州ソ連国境で警備しており 19年7月第8師団はフィリピン戦線への転進命令を受ける。船団で行く途中で米軍による攻撃で戦死傷者が900名 マニラ上陸を諦めてルソン島ボヘカドル岬に上陸し、バタンガスへの難行軍、20年ころの軍は振武集団は第8師団 を中核部隊として第105師団がマニラ東方を拠点にそれぞれ布陣、米軍上陸すると火力、兵員の勝る米軍に対し 補給線を絶たれた日本軍は勝ち目ない、振武集団の兵員は、当初8万名から6000名に激減し、弾丸も食料も底を ついていた。兵は散り散りに後退し、地獄の様相を帯びた戦線では人肉事件の噂もささやかれた、このような中で 将兵は終戦を知る。ルソン島マヤビス山中である。31連隊の軍旗の最期を看取ったのは小林連隊長他残兵9名 連隊総兵員2997名、戦死者2516名で生きて祖国の土を踏んだ者は481名であった。
編成地:弘前 編成年:明治38年4月15日 北満州の黒龍江省
当初は第8師団に編合されていたが、日中戦争は第108師団に編合し山西省に3年間治安維持に努める。15年6月 いったん軍旗を奉還したが、9月再度軍旗拝受、第57師団に編合され、北満州の黒龍江省の国境警備 20年4月米軍本土上陸に備えて九州に転用され、福岡沿岸防衛の中心部隊として布陣
編成地:弘前 編成年:昭和14年3月23日
昭和14年北支那派遺1軍の隷下に入った。4月中国河北省へ三交鎮、呉城鎮地区の警備につく、5年間中国山西省等で 治安維持に任じたが、18年8月南方転進の内命を受け、12月ビアク島に上陸し、師団を離れ、第2軍直轄となり 装備、兵力はより増強され、飛行場の建設と築城を進めたが、19年5月米軍上陸作戦で3万名で、日本軍は 222連隊約3500名と海軍協力部隊2120名、後方勤務隊員3700名計12800名である。米軍上陸以来26日目 弾丸、食料もなく組織的抵抗不可能となり、軍旗を奉焼し支隊全員玉砕を申し合わせる。7月葛目支隊長は自決 各隊は食料を求めシャングルの中に散った。終戦を知ったのは9月であり、生存者は80名余り
編成地:弘前 編成年:昭和17年1月27日
編成当時は関東軍の直轄部隊であったが19年6月第107師団に編合された。満州西部国境の警備 20年8月9日ソ連の参戦で新京に向かった後退している中ソ連と交戦し損害を受ける。
編成地:弘前 編成年:昭和12年8月30日
日中戦争で満州に在る第8師団に替り第108師団が動員され、編合し華北に出動 18年第47師団に編合され 湖南省に大移動をする。20年5月から湘西作戦に参加し、ソ連戦の準備の為反転して北上の途中で終戦
編成地:弘前 編成年:昭和16年9月10日
北部軍の隷下にあったが18年5月に第47師団に編合され、19年11月中国湖南省に移動し、重広支隊として湘西作戦 に参加して中国軍と激戦を交えた。ソ連戦の準備の為反転して北上の途中で終戦
編成地:弘前 編成年:昭和19年6月28日
満州チチハルで編成を完結し、満州西部の国境アルシャン地区の防衛に当たっていた。20年8月ソ連軍の襲撃 を受け、苦戦しながら脱出する
編成地:弘前 編成年:昭和19年8月18日
熱河省南部の承徳で第9独立守備隊歩兵第13大隊を基幹として編成、1年間熱河省南部の承徳、古北口地区 一帯の治安工作に当たった。
新設された本土防衛部隊
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
編成地:仙台 編成年:明治8年9月9日
日清戦争参戦後、日露戦争では黒木第1軍に属し、鴨緑江渡河作戦に参加、奉天会戦を戦い抜いた。 満州事変は 長春~ハルピン各地域を転戦して昭和8年に仙台に帰国、日中戦争が勃発し、 チャハル作戦、北部山西作戦 開戦時は第2師団は第16軍の戦闘序列に入り、ジャワ島へ3月上陸し ジャカルタ、バンドン、6月はフィリピン、ダバオ 青葉支隊編入、8月ラバウル、9月は分散してガダルカナル島に 集結、第2大隊は川口少将の指揮下に入り 連隊主力はルンガ飛行場攻略を開始、猛烈な激戦で 連隊長:中熊直正大佐以下多くの犠牲者出した。ガダルカナル 撤退した連隊は18年5月マニラ到着、 9月連隊主力はジャワ島東部へ、第3大隊はバリ島の警備 19年3月に連隊主力 ビルマに転進し、 武兵団長(林少将)の指揮下に入り9号作戦を遂行、5月菊兵団指揮下にあってフーコン地区で 悲惨な戦闘を体験する。19年9月第2師団の指揮下に復帰、雲南省龍陵付近で第1次断作戦~第3断作戦まで 参加する。その後南部仏印に転進、第1大隊はビルマに残置して、連隊主力はサイゴンへ、第3大隊も復帰する ために6月巡洋艦 「足柄」に乗ったが米軍の潜水艦により撃沈され54名戦死、ビルマに残置された第1大隊は シッタン河渡作戦を敢行し奇跡的な成功をおさめる。
昭和19年)3月 - ビルマに転進、ビルマの戦い 歴代連隊長 27代:石原 莞爾陸軍中将(関東軍参謀長) 32代:福島久作 1941.3.1 - 28代:鈴木 宗作陸軍大将(戦死) 33代:中熊直正 942.4.1 - 11.3 ガダルカナル島の戦い戦死 34代:鈴木章夫 1942.11.16 - 編成地:仙台 編成年:昭和12年9月16日
編成完結後、上海付近の戦闘に参加し、徐州会戦、武漢会戦に参加する。第2軍総兵17万名で50%が 罹病にかかり 約1万名程度が戦病死、第104連隊はさらに15年は宣昌作戦に参加する。 開戦後17年3月済渓河付近の警備 18年2月は第3大隊を残し、主力は江北殲滅作戦、南殲滅作戦、 第3大隊も復帰し、常徳殲滅作戦に参加 19年5月応城、武漢を経て咸寧南方に集結し、桂林作戦後、衡陽に入り、貴州省まで追撃する。 20年4月都安作戦、桂林作戦に参戦後終戦、8月23日 - 衡陽郊外の三板橋にて軍旗奉焼し、 9月2日に長沙に到着
編成地:仙台 編成年:昭和13年7月14日
第22師団は中支那派遺の命令下り、華中浙江省に出動、杭州を中心に警備、19年2月第22師団は 第23軍に転属 九竜上陸し広東の中山大学に集結し、竜門作戦に参加後、南寧に入り警備する。 20年2月明号作戦で仏印国境 に向かう。越佳国境作戦に参加後、再び北仏印警備に当たり、終戦。 8月22日 - 軍旗奉焼
編成地:仙台 編成年:昭和15年2月4日
優良装備の部隊で、当初は千島に配置されたが、あとで北海道、稚内地区の防衛に当たる
編成地:仙台 編成年:昭和15年2月4日
満州牡丹江省で在満各部隊者をもって編成された。東寧正面地区で防衛、ソ連の襲撃を受ける
新設された本土防衛部隊
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
編成地:秋田 編成年:明治19年8月17日
日清戦争参戦、日露戦争は奉天会戦、満州事変では大連に上陸し熱河作戦の主動部隊として行動する。 12年7月支那事変勃発し満州へ、連隊としてこの出発が未帰還の旅立ちとなる、7年間にわたり第8師団は 関東軍 の中核師団として満州東部に任に付く、19年になると戦雲は急に告げ、関東軍の精鋭部隊も 南方戦線へ転用 第8師団も例外ではなく比島戦線へ派遺された。20年1月米軍上陸するが、振武集団の 左翼援護にあたる。4月 2,3、中隊を基幹に漁撈隊2個大隊だけで米軍の兵力は圧倒的で 玉砕は目に見えた。藤重支隊はバナハオ山を 下った、終戦である
編成地:秋田 編成年:昭和18年9月6日
満州牡丹江省で在満各部隊者をもって編成された。東寧正面地区で防衛、ソ連の襲撃を受ける
編成地:秋田 編成年:昭和12年8月30日
連隊編成当時は第108師団ぬ編合されて華北に出動し、15年6月帰還して9月には第57師団に編合され、 北満州 にてソ満国境地帯の防衛していたが、20年3月本土決戦部隊として北九州に転進し、 福岡地区を中心として防衛
編成地:秋田 編成年:昭和12年8月30日
歩兵第117連隊と同時に編成された兄弟連隊で、その戦歴も同じ
編成地:秋田 編成年:昭和19年6月28日
チチハルで編成され、弘前の第177連隊と兄弟連隊である。満州ハルピンで編成完結して、西部国境防衛 20年8月ソ連侵攻に伴って新京にいどうして交戦するが、脱出を果たす。
編成地:秋田 編成年:昭和14年3月23日
弘前の第222連隊、青森の第223連隊と同時に編成された兄弟連隊であり、その行動も同じである。 編成後華北へ、高平作戦、普南作戦、普南反撃作戦に参戦し、18年末にニューギニアに転進、上陸後米軍の 襲来され被害を受ける。19年4月クワデにて米軍と死闘を展開して終戦まで持久戦する。
編成地:秋田 編成年:昭和19年8月17日
弘前の第240連隊、後出の第242連隊とは兄弟連隊である。中国錦州省にあった第9独立守備隊歩兵17大隊を 骨幹として編成、熱河省南部地区の八路軍との戦闘はじめ、同地区の治安維持に従事
編成地:秋田 編成年:昭和19年8月17日
弘前の第240連隊、前の第242連隊とは兄弟連隊である。第9独立守備隊歩兵18大隊を基幹に現地編成された 臨時部隊である。
新設された本土防衛部隊
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
編成地:山形 編成年:明治31年8月17日
日露戦争で32連隊が勇名を馳せる、当時は弘前の第8師団の隷下で、乃木大将の第3軍の予備隊として 後方勤務 続く黒溝台戦へでは第2、3大隊は全滅に近いダメージを受けながら戦闘に耐え、 連隊の名を知らしめた。 連隊の将兵3000名のうち、無事帰還したのは1000名に満たなかった。 日中戦争では満州のソ連国境地帯の警備 その後は中国の奥地へと準備、14年10月第24師団に転属し、兵員構成も北海道出身者と入れ替わり、 山形出身者 はわずか幹部下士官と一部の古参兵のみとなった。郷土部隊として「雪部隊」「三原部隊」などに 分散して送り込まれた。 開戦時はソ満国境警備に当たったが19年3月1個大隊がサンパン島に送られ、 次いで7月に主力連隊は沖縄に転用 第24師団は沖縄防衛第32軍に編入、サイパン島が陥落し、第32連隊は10月糸満地区に転進し、 現地召集の新兵 1800名が配置された。20年7月司令官牛島中将の自決により沖縄戦の終結を告げる。 第32連隊は兵員と民間人 合わせて5000名いたが、200名足らずとなりながら国吉台の丘陵の洞窟に終戦も知らずに過ごしていた。 8月22日に敗戦を知り、投降し生き残り将兵50余名
編成地:山形 編成年:昭和13年7月14日
第22師団は中支那派遺の命令が下った。13年7月連隊第2大隊は会寧から仁川港、主連隊第1,3大隊は合流 14年12月は杭州に移動し警備、各大隊はそれぞれ別れ、第2大隊は江省平湖付近、連隊本部は 浙江省紹興城、 6月第3中隊太湖東方、開戦後は17年浙?作戦参戦で古賀連隊長、副官が負傷し 18年5月改編後、19年5月 第2,3大隊主力は杭州へ、連隊主力は呉浙に集結、第23軍隷下に入るために 6月連隊本部、第2大隊等は乗船し 広東省九竜へ向かうが途中米軍潜水艦により攻撃を受け、2隻失うが 広東省中山大学に到着 9月連隊主力は湘桂作戦に備え、広東を出て広西省に進撃し、ついで仏印に入った。 20年3月第22師団は第38軍 の隷下に入り印度支那ドンダンに入り、さらに進撃しテイエンに入る。 7月ハノイに集結、第22師団は第18方面軍 麾下に入る。8月15日、連隊はラオバーオで終戦の報を知る。 復員時の連隊人員3160名
編成地:山形 編成年:昭和16年9月10日
優良装備の連隊である。最初は千島に配置されたが、北海道に移駐し、ソ連軍の上陸に備えた。
満州(東寧)付近の守備していたが、ソ連軍の猛攻で撤退する
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
編成地:会津若松 編成年:明治31年3月24日
日露戦争は満州第1軍の管下で鴨緑江渡河作戦~奉天作戦まで参加して武勲を立てた。満州事変は 奉天付近 チチハル、ハルピンと転戦し昭和8年1月会津へ凱旋、日中戦争は徐州作戦、ノモハンの戦闘に 参加し15年10月 帰還する。開戦の17年1月10隻の輸送船に分乗して宇品港を出港するが、 行き先は知らせなかった。 船団はインドシナ・ジャワ島攻略命令したが戦闘もなく英仏蘭連合軍は全面降伏した。9月連隊主力は ニューブリテン島 ラバウルへ転進、この地で古宮連隊長は第17軍百武晴吉司令官からガダルカナル島攻略の 命令を受ける。 この戦場はではかって第7師団の第28連隊の将兵約3000名が全滅し、第124連隊基幹の 混成旅団及び歩兵第4連隊 青葉支隊も数日間の戦闘を繰り返し後、1500名の戦死者を残したまま敗退した 戦場である。第29連隊が進撃を受けた のは10月15日ジャングルへ第11中隊が敵陣に突入いたが、米軍の 火力の前に生存者は4,5名であった、次に 第9中隊、第7中隊も突撃したが失敗し、軍旗喪失事件は この戦闘で起こった。各連隊は多方面への転進して ムカデ高地の戦場は第29連隊だけが残った。 連隊長と軍旗は見つかり、連隊長と鈴木大尉は敵陣に突入 11月3日、連隊は師団予備となり警備に入る。 18年2月残存兵300名はガダルカナル島を撤退し、その後ルソン島警備 ここで連隊は再編成して11月シンガポールに上陸、19年2月までマレイ半島の警備に当たる。 この間に軍旗を修理し 連隊に到着(帰路、飛行機事故で連隊長以下が殉職)。 後任の三宅連隊長 3月ビルマに進出、サントウェイの防衛 20年1月仏領インドシナに転進し各作戦に参加、9月2日に終戦を知る。
編成地:会津若松 編成年:明治41年5月9日
大正12年の軍縮縮小で廃止されたが、昭和12年9月日中戦争の本格化で再編成が下令された。12年上海に上陸 すぐに、上海北西の老陸宅、馬老宅の攻撃で堅固な陣地と数倍の兵力の苦戦し戦死傷者が1719名、その後 南京防衛第1戦を戦い抜く、13年徐州会戦、14年は襄陽作戦、15年は第1、2次宣昌作戦に参戦、開戦後の17年も 湖北省の要衛の数々を巡る戦闘に明け暮れた。19年4月大陸打通作戦を目論んだ。湘西進攻作戦に参加するが この作戦はその規模、動員兵力においては世界戦史上希な大作戦であった。死傷者は1ヶ月で2900名に上がった。 20年5月関東軍増強と本土防衛するために中国戦線は縮小するために揚子江沿岸まで反転を指示するが、連隊は 軍反転作戦の最後方部隊として敵中に孤立してこの困難を百虎部隊の意地を示した。終戦は湖南省で迎える。
編成地:会津若松 編成年:昭和13年7月14日
仙台第84連隊、山形86連隊は同じ「原」の兄弟連隊、13年8月上海に上陸し浙江省杭州地区の警備 19年9月広東に転進し、湘西作戦に参加、20年2月南寧を経由して仏印に転進し、次にタイに移駐し、さらに ビルマに転進準備中に終戦となる
編成地:会津若松 編成年:昭和16年9月10日
装備の優良な部隊で当初は千島に配属されたが、北海道に移動し稚内の防衛専任となる。
(新編成された決戦部隊)
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||