新潟 編成地:新発田 編成年:明治17年8月15日
日清、日露、シベリア出兵と立て続けに参加した、中でも日露では遼陽総攻撃、満州事変ではハルピン、チチハル 日中戦争でも華北の太原を攻撃、数々の武勲を立てる。第2師団主力15000名は17年9月29日ラバウルに到着 丸山政男中将率いる第2師団は11隻の輸送船団に乗り込んでガダルカナル島へ出発するが米軍の来襲で4隻 だけの上陸となり、兵員は全員上陸果たしたが、食料、弾薬は2割程度のみ陸揚できただけ、86キロ先にある ルンガ飛行場に向かうジャングルの中、雨にうたれながら進む、9月21日飛行場南方6キロにまでせまるが攻撃は 24日と決定、いざ攻撃の日、米軍兵力20000名以上で武器弾薬も大量にあり、物量の違い等で激しい白兵戦を 展開 するが敵の81ミリ砲弾が凄まじく次々と兵士は倒れる。第16連隊長:広安大佐も戦死、兵力補強、 食料補充もない、やむなく丸山中将も後退を余儀なくされるのであった。極限状態での戦闘を繰り返し16連隊は フィリピンを経てマニラ そこで再編成を行い、シンガポール、マライへ、連日の訓練と警備、19年1月出動命令で ビルマへ転進 ラングーンからバセインに出て連隊本部を設置、第33軍の司令下にはいる。16連隊の第2大隊は ミートキーナ防衛バーモを占領するが、ミートキーナは米支軍に占領、日本軍は意図するインドから中国への 遮断は不可能となり、敵の輸送はいっそう増大した。作戦の転換をはかり、ナンカン地区に集結、第2師団主力は 公路東側小松山南側地区で攻撃準備を完了、最終的には龍陵東北北側地区に前進せよとの命令を受けて、 9月3日いっせい攻撃を開始16連隊と29連隊は一山、二山を目指すが容易ではなく戦局は進展なく、第56師団と 交代し、第2師団はムセに向かって転進、その後16連隊は中部ビルマのイラワジ河畔作戦、メークテーラ会戦 などに参加、20年7月仏印で終戦
編成地:新発田 編成年:昭和12年9月16日
華中で行われた主要作戦では常に基幹部隊として参加、太平洋戦争では江南殲減作戦、常徳作戦に参加 中国における最大の湘桂作戦にも参加し680里にも及ぶ長距離を踏破しながら善戦し、 8年間にわたって戦い続ける
編成地:高田 編成年:明治38年8月8日
日露戦争は第15師団のもと大連に渡って鉄嶺西北方でだい2軍の戦闘序列に加わり、その後韓国平壌付近の 守備に就く、明治40年10月第13師団の隷下に編成替え後、一時連隊は廃止されたが、日中戦争で復帰する 上海に上陸して劉家陳東南地区の戦闘参戦と徐州会戦で活躍、太平洋戦争ではインパール作戦、 イラワジ河畔会戦、メイクテイラ付近の会戦などに活躍、特にインパール作戦での奮戦ぶりは玉砕覚悟で戦った 勇敢さには特筆すべきものがある。17年12月、連隊は第13師団を離れてマレー半島警備の後、第31師団の隷下に 入ってビルマに向かう。第31師団は、第15軍が策定したインパール作戦に参加、3月15日夜中間目標のウクルル に向けて前進、師団の戦法は各連隊を右突進隊・中突連隊・左突連隊の三縦隊制をとり、一気にコヒマを 占領する 作戦である。第58連隊は左突進隊の基幹となって参加しているが、左進突隊はさらに 右猛進隊(第1大隊) 中猛進隊(第2大隊)、左猛進隊(第3大隊)とに編成して突撃体制をととのえていた。 この時、まだ英軍はコヒマ付近 には戦闘部隊をほとんど配置してなかった。各猛進隊が突撃して失敗するが、 その後それぞれの猛進隊は 占領するが、敵側も兵力を強化し反撃してきて 6月3日師団は一斉に退却を開始する。
編成地:高田 編成年:明治31年3月24日
明治41年)10月 - 第2師団から第13師団へ所属変更 大正14年) - 宇垣軍縮により第13師団が廃止され第2師団に所属変更 昭和6年) - 満州事変に出動、ハルビン、北満爽信子付近の戦闘参加 昭和14年) - ノモンハン事件に出動 昭和15年)8月 - 第2師団から第28師団に所属変更 昭和19年) - 宮古島に移駐 昭和20年)8月 - 終戦
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山梨 編成地:甲府 編成年:明治38年4月15日
第13師団翼下の連隊として新設し、樺太に向かい占領後、第1師団に移り、甲府に常駐地となる。 11年第1師団の 満州移駐に伴い、連隊は北満、北安に移る。19年まではソ連国境警備にあたるが、 この間日中戦争時、12年3月 町田等第6中隊長以下20名がの偵察部隊がバルチザンの攻撃を受けて 全員戦死、ノモハン事件ではノロ高原で ソ連戦車軍と交戦で20名が戦死する。19年2月第3大隊(600名)が グアムに派遺され、(独立混成第10連隊編成) 上陸した米軍をマンガン山で迎撃し、竹内大隊長以下全員戦死、連隊主力(2500名)は同時頃にレイテ島に 転進 11月4日、リモン東方高地で米軍と戦闘が始まった。12月20日まで続く、第1師団の勢力は13000名で あるが、 圧倒的な物量を誇る米軍の前に戦死者続出した。11月23日は第1、第3中隊が全滅、 28日通信隊全滅、30日第2中隊 全滅、こうして、カンギボット山麓への転進命令が出たときは、 師団は3000名、第49連隊は400名余りとなっていた。 連隊の残存者のうち208名は東方のセブ島に無事渡った。連隊は同島で「自活永戦」の態勢に入ったが、 20年3月 米軍が上陸し、激しい戦闘で、小浦次郎連隊長以下半数が戦死した。結局、終戦時に残存したのは わずかに58名である
編成地:甲府 編成年:昭和12年9月9日
当初、第101師団に属し、編成直後上海戦線に投入された。薀繰浜クリーク渡河戦で激戦となり、 わずか1週間で 兵力(3224名)は3分の一に激減した。連隊は上海から杭州までの400キロを南下、杭州城を 無血入城する。 13年7月~10月にかけての2ケ月半、南昌の北方廬山の敵を攻撃、漢口作戦の 前哨戦であった。10月25日徳安城 を落として終結した。連隊の死傷者1180名、14年3月南昌作戦に参加し 10日で南昌は陥落した。 連隊は南京に移動して、15年2月に甲府に帰還する。2年半で戦死者1400名、戦傷者5000名にのぼった。 15年12月に再び編成され、18年3月、第61師団に属して南京東方の鎮江一帯の警備や広徳作戦等に従事。 そして上海北方で陣地構築中に終戦となる。
編成地:甲府 編成年:昭和14年2月23日
編成後山東省に出動、19年4月まで数々の作戦に従事した。魯南作戦、淅?作戦であった。 19年4月ハルマへラ島 (インドネシア)へ転出、マニラに移動中バシー海峡において魚雷攻撃を受けて、 小池連隊長以下2700名が死亡した。 わずかな残存部隊は二手に分かれてハルマへラ島を目指すが、松永大慰指揮の部隊は同島目前で 海没し丸腰で 上陸した。また、渡辺大尉指揮の部隊はセレベス海で海没し。 3日間漂流後、セレベス島トモホンに上陸、同地の警備
編成地:甲府 編成年:昭和14年2月23日
編成は旭川だが、第210連隊と同様、山梨・神奈川の初年兵を教育した。最終補充担任部隊の所在地は 甲府である。 編成直後に出動、河南省新郷に派遺され、普東作戦、冀南作戦等に参戦して、19年3月南方へ 転進、ニュギニアに 向かったが輸送途中セレベス海で魚雷攻撃にあって海没、救助されて ハルマヘラ島ワシレへに上陸、後連隊本部 と第3大隊はニューギニアのソロンへ上陸 (第1大隊はマノクワリ)同地で終戦
編成地:甲府 編成年:昭和13年4月7日
粤漢打通作戦、等に参加し、広東から南京に向かう途中に終戦
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長野 編成地:松本 編成年:昭和12年10月18日
12年10月第10軍隷下に入る、11月杭州に上陸して第128師団と合流して南京攻略へ参戦、 13年2月には北支那方面軍の隷下に転用、14年帰還するが2年間中国での65回の戦闘に参加した。 連隊は解隊したが、16年5月再編成 第52師団に隷下するが司令部は金沢の置く、18年9月師団の一部は南洋諸島のポナペ島に向かい、 連隊の先遺隊 はトラック島に向かった連隊主力がトラック島に向かったのが19年2月、当時、中部太平洋は すでに制空、制海権 とも半ぱ失われており、ちょうど第150連隊主力を乗せた船団はトラック島西北方の エンダービー島の北方を南下 していたが米潜水艦により連隊の船2隻が撃沈され700名の将兵と全ての 装備を失う。補充兵が内地より到着し、 防衛担当とされた春島に陣地を構築するが、 米軍の上陸なく終戦を迎える。
編成地:松本 編成年:明治38年4月15日
連隊本部と第2大隊が仙台、第1大隊が東京、そして第3大隊が村松で編成され、 独立第13師団の隷下に入った。 樺太に派遺され、一時台湾守備に任じたが、韓国に2年間派遺された。明治41年独立第13師団の編成が 解かれ 新潟県高田の第13師団の隷下に入った。初年兵が入隊し、「長野の連隊」として再スタートとなる。 満州事変では第14師団とともに上海へ各戦闘に参加し、松本に帰還、12年日中戦争4度目の中国派遺となる 河北省から河南省、山西省と転機を重ね、徐州会戦にも参戦、14年帰還後、新設の第29師団に編入となる。 16年4月満州へ、駐屯地は遼陽、第29師団は関東軍直轄の戦略予備兵団として対ソ連戦に備えるが、 19年2月 第29師団の50連隊、18連隊、38連隊は中部太平洋派遺命令でサイパンに向かう。マリアナ周辺の 制空、制海権は 米軍の手に帰しており、29日米潜水艦により18連隊乗船の崎戸丸は沈没、師団本部主力と 38連隊の安芸丸も沈没 歩兵第18連隊:門間健太郎大佐以下2200名が戦死、行方不明で救助は1722名、570名が重傷者である。 50連隊がサイパン、38連隊がグアム、18連隊がテニアンに上陸予定だったが、18連隊が壊滅状態になって 50連隊は急遽テニアンに上陸になった。テニアンには陸海軍兵力が8000名(50連隊、135連隊、18連隊の 戦車中隊 第1航空艦隊)であった。6月15日米軍は猛烈な事前艦砲射撃のあとサイパンに上陸7月7日玉砕し 、7月21日に グアムに上陸、24日はテニアン上陸約30000名で、米軍が初めて使用したナパーム弾で凄い 高炎熱を発射して 全てを焼き尽くす爆弾、戦闘10日目緒方連隊長は民間人を含め1000名による最後の 突撃して玉砕して戦死 米軍捕虜になった日本兵は313名
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岐阜 編成地:岐阜 編成年:明治41年5月8日
大正7年シベリア出兵で動員され、ザバイカル州各地で公戦、昭和12年7月櫨溝橋事件後動員され、 8月に呉淞に敵前上陸した。4500名の兵士が30000名の日本人居留民を保護しつつ、中国軍と交戦するが 抵抗激しく、日本軍は第9、13、101師団を派遺した。11月柳川平助兵団が杭州湾に上陸すると、中国軍の 勢いが一気に下落する。 第68連隊は、以後終戦まで中国各地での戦闘に従事した。 昭和12年:南京攻略作戦 昭和13年:広徳付近戦闘、徐州作戦、准南炭鉱・寿県付近の戦闘、大華山山系付近の掃討作戦、 揚子江太子磯~ 揚山磯間の上陸作戦、武漢攻略作戦(14年4月まで) 昭和14年:襄東作戦、7月攻勢撃砕作戦、?湘作戦、14年冬季作戦(15年2月まで) 昭和15年:漢水作戦 昭和16年:予南作戦、江北作戦、長沙作戦 昭和17年:第2次長沙作戦、浙?作戦、大別山作戦(18年1月まで) 昭和18年:湖北湘漢口北方の孝感地区(連隊の警備担当地区)の磨刀山の戦闘、 江南殲滅作戦、常徳殲滅作戦 昭和19年:湘桂作戦 昭和20年:都安作戦、湘桂反転作戦 これらの作戦の中で、最も長期で、かつ激烈だったのは19年の約9ケ月におよぶ湘桂作戦だった。 この作戦は、 日中戦争中の最大かつ最後の作戦といわれた大陸打通作戦の一環をなすものであった。 華中、華南の散在する 飛行場の破壊と奉天・北京・漢口・桂林・柳州・バンコク・シンガポールの約8000キロの道路と 鉄道を確保しようとするものであった。 連隊は第3師団とともに、崇陽・瀏陽・萍郷・茶陵と進み、南下して柳州に至り、八寨まで進出する。 シンガポール~奉天までの大陸打通は完成しても実際には自動車・鉄道の運行は出来なかった。 20年に入り、支那派遺軍は各部隊の湘桂沿線からの撤退を命令した。 第68連隊は撤収中に九江で終戦を迎えた。
編成地:岐阜 編成年:昭和12年8月30日
始めは第109師団に属し、中国・華北に出動し、山西省太原地区の警備、五台山の掃討し、 15年帰還後再び臨時 編成され中部軍の隷下で岐阜地区の防衛に就く、 18年5月、第43師団のもとに編合された、19年4月にサイパン島へ の転進命令が下った。5月19日にサイパン上陸ススぺ岬守備に任じていた。 6月15日米軍の大型輸送船団が ガラバン西方に突然姿を現れ猛烈な艦砲射撃を仕掛けてきた、 米軍はチャランカノアめがけて続々と上陸を開始 この攻撃で一線陣地の守備に当たっていた第136連隊の 大半は戦死したのだ。軍参謀長の:井桁少将はその夜 夜襲命令を下し、第136連隊第3大隊 (野々村大尉隊長)以下、第9戦車隊と第24歩兵団が参加した。米軍は沖に 停泊している駆遂艦から打ち上げる照明弾で日本軍夜襲部隊を機関銃や5インチ砲などで猛射してくる。 136連隊の 第3大隊は全員戦死したのである。また、第1大隊:福島大尉隊長、第2大隊:安藤大尉隊長の 大半も戦死、 7月に入って、日本軍玉砕でサイパン島は米軍占領して、 B29爆撃機の基地として日本本土空襲へと
編成地:岐阜 編成年:昭和10年2月8日
独立混成第11旅団のもとで南満州に駐屯、12年11月第26師団に編合され、大同地区の警備治安粛正 約7年間 普察翼宣辺区の粛正作戦、五原作戦等の討伐参加する。19年11月レイテ島上陸して激戦につぐ 激戦を重ね、 終始、戦線の決戦場で活躍するが、全滅する。
編成地:岐阜 編成年:昭和14年9月13日
14年10月、広東省へ、新会県江門の警備につく。開戦では、香港攻略、蘭印攻略戦、ガダルカナル島攻防戦 ムンダ攻防戦、ニューギニア作戦などに参加した。 香港攻略:では、第23軍佐野兵団(佐野忠義少将)に属し、まず九竜半島作戦参加し、12月12日石塚付近に 上陸 英軍ヤング総督に2回降伏勧告したが拒否された。連隊は左翼隊として官?仔付近香港東北部の湾に 上陸 連隊の折田大隊はニコルソン山南部の秘密の貯水池を発見し、給水弁を閉じと全島に渡って 断水となった。 また敵戦死者からの地図で兵力、火力の配置図が発見されて、 英軍は12月25日全面降伏した。 蘭印作戦:では、第38師団は17年1月第16軍に配属替えとなり、第16軍はインドネシアの石油資源要域を 占領する。 ために編成されたものである。第38師団は、パレンバン精油所のある南部スマトラを 攻略することになる。 第1大隊の折田部隊が南部スマトラに隣接するバンカ島を占領、連隊本部の主力(連隊長:田中大佐)は ムシ河 第2大隊の宮沢部隊がテラ河を進み、飛行場や精油所を次々に確保した。 ガ島攻防戦は、第38師団は17年17日、第17軍に所属変更しラバウルに進出、 当時第17軍はガダルカナル島で苦戦 第38師団は11月6日11隻の輸送船に分乗して出航、14日輸送船は ニュージョージア島南方で6隻撃沈、1隻航行不能、連隊の被害は辛うじて 本部、第2中隊、第3中隊の半分、歩兵砲中隊、第1機関銃中隊の1小隊がジャングルに上陸し、 その他はブーゲンビル島に引き返した。12月中旬になると駆遂艦のわずかな食糧を取りに40キロを 運ぶ、1日1合 以下の日が続く、ニュージョージア島のムンダ飛行機場を攻撃、玉砕覚悟で田中連隊長は 軍旗を師団司令部に預けた、ガ島撤収命令でブーゲンビル島へ向かう。 ブナ守備隊の玉砕:連隊本部と第1大隊がガ島へ派遣されると時を同じして、 第2大隊はニュージョージア東部の ムンダへ、第3大隊はニューギニア東部のブナへ派遣された。 ブナの守備隊陸軍は第3大隊と第144連隊の補充員が 基幹で、海軍は横須賀鎮守府特別陸戦隊、 佐世保鎮守府第5特別陸戦隊であつた。11月19日から連合軍の空襲が 始った。以後1ケ月の血みどろの 戦いが展開、1月1日全員突撃を敢行して玉砕する。 ガ島を撤退した連隊主力はブーゲンビル島で戦力を回復したあとムンダに進出、その後レンドバに派遣された 第7中隊が玉砕(18年7月)、アドミラル島守備隊の第1大隊も玉砕(19年3月)連隊本部が終戦を 知ったのはラバウル
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静岡 編成地:静岡 編成年:明治31年3月24日
日露戦争で名を馳せた軍神:橘中佐のいた部隊として知られる。その日露戦争では第2軍属し、遼東半島に 上陸 日中戦争では上海派遣軍に属して上海会戦、南京攻略戦に徐州会戦等に参加、 15年は宣昌、漢水作戦 16年は予南、江北等の作戦、第1次長沙作戦、開戦では第2次長沙作戦、17年は京漢沿線地区の掃討作戦 浙?作戦には連隊主力参戦し勲功を立てる。18年には大別山作戦、江南殲滅作戦,常徳殲滅作戦と続き 19年は湘桂作戦で1年間戦い続く、20年4月21日隆山に突入、8月18日 - 終戦を確認
編成地:静岡 編成年:昭和12年11月26日
連隊は中国で編成され、河曲作戦に初めて参加、開戦で魯中作戦、黄河南岸進攻作戦、浙?作戦経て、 19年激戦地のレイテ島へ転進、輸送船団は途中米軍の爆撃に会い、兵器・弾薬・食料が海没され携帯品だけ 持って上陸 第1、2大隊は独歩12連隊とともにアルブエラ南方のフリダット付近で米軍と対峙、火力の違いにより、 甚大な損害を受ける。一方、残る師団主力はブラウエン南飛行場への突撃目的を持って11月13日アルブエラに 転進、第13連隊 第3大隊は猛烈な敵逆襲により玉砕
編成地:静岡 編成年:昭和14年9月13日
連隊主力は静岡県内で、第3大隊は岐阜で編成された。第38師団隷下となって広東派遣され、 16年まで同地で警備 開戦は早速、香港攻略に参加し夜間香港島に渡り、英軍と交戦し、 降伏は25日、シンガポール陥落後17年2月13日 第16軍の指揮下インドネシア攻略に参加、連隊主力は ジャワ島、第3大隊はスマトラ島のバレンバンに上陸、進撃 開始、予想以上の速さでインドネシア攻略作戦は 終了した。10月にラバウルに進出した連隊は、一木支隊、川口支隊 に続くガダルカナル奪回部隊の 第3陣として、第2師団の指揮下に入り、15日夜、ガ島西海岸のタサファロングに上陸 ルンガ飛行場まで80キロを川口少将の指揮のもと、正面の米軍攻撃を企図した。24日飛行場への総攻撃が 開始され連隊は右翼に位置していたが敵陣地に突入できず、米軍の爆撃や砲撃で後退した。 失敗に終わった。第38師団と ともにラバウルに残っていた第2大隊が11月輸送船で補給物資を満載して ガ島に向かうが、米軍により沈没された。 師団主力はほとんど海没されたが、第2大隊は奇跡的に上陸し、独立混成第40旅団に編入 将兵たちは飢えと病気の為、戦死より病死・餓死する者が多かった、 18年1月、連隊はガ島を撤退しブーゲンビル島 へ、その後はラバウル・ニューアイランド島と転進して終戦
編成地:静岡 編成年:昭和16年5月21日
創設当時は中部軍の隷下におかれ、名古屋地区の防衛の任に当たる。18年5月、第43師団に編合されて、 19年6月 サイパンに転進した。横浜港を19年5月29日のことで師団主力7000名を乗せた7隻の船団は 一路サイパン島へ、 6月4日から米軍の潜水艦により4隻が撃沈された。70割の兵力は無事であったが、 装備は何もなくなってしまった。 第118連隊の被害が最も多く、連隊長:伊藤大佐以下2240名を海中に失う。第3大隊の大塚少佐が まとめることに なったが6月7日サイパン島に着いたときは1000名以下であった。兵器、 衣服の受領する間にも米軍が上陸 6月17日フィナスス山をめぐる戦闘には、連隊から第1大隊:山崎少佐が参加するが、大半が戦死、 22日チャチャが 攻撃を受け、大塚少佐も戦死、この時の連隊残存兵力は300名程度である。 その後タボチョに後退して、26日に 神田大尉が指揮する同連隊の27名も戦死、 事実上、連隊は玉砕した。
(新新設された本土防衛部隊)
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愛知 編成地:名古屋 編成年:明治7年12月18日
日本の近代陸軍草創期から歩みを共にした部隊で、西南の役、日清戦争、日露戦争までさかのぼる。 日露戦争では大連にて、得利寺、大石橋、遼陽等の激戦を重ね、沙河会戦に参加し、奉天会戦でも千洪屯で 激戦を展開、日中戦争では12年8月、上海線に投入、23日に呉淞鉄道桟橋前に上陸、直ちに戦闘に入り、 20年終戦まで中国各地 を転進するのである。南京攻略に参加し、13年1月丹陽~江鎮から楊州と移動し、 徐州会戦に参加する。17年には 連隊主力が参加した浙?作戦、18年2月から江北作戦、4月からの江南作戦、 11月常徳作戦、19年「大陸打通作戦」 湘桂作戦にも参加、こうして連隊は、華中・華南の戦場を次々と転進し 、20年8月終戦を湖北省大冶金牛鎮で知る
編成地:名古屋 編成年:昭和14年9月13日
第38師団が東海地区で編成されることになり、228連隊は隷下として、愛知県と岐阜県下で編成した。 14年10月広東の黄埔に上陸し、三水北方の黄埔城付近の戦闘、以後15年3月の中山攻略、良口会戦、 16年は東江作戦、北江作戦後、太平洋戦争開戦、大本営命令で香港攻略を準備すべしとの命令で 各隷下の部隊は中国と香港国境の深センを突破して、香港攻略開始となる。九竜半島の戦いから 香港島の戦いと激戦が続くが、12月25日英軍は降伏 第38師団は第16軍の隷下となり、 インドネシア諸島攻略に臨む、連隊は1月31日アンボン島東南海岸に無血上陸 2月3日豪蘭軍は降伏、その後ジャワ島攻略前進基地を確保するためチモール島攻略に参加、 17年4月中旬には ほぼ全島を制圧して、師団主力はジャワ島スラバヤに集結していた。 だが、このころソロモン群島のガダルカナルでは 反撃態勢が整えたマッカーサ―将軍の 連合軍が強撃上陸を敢行し、送り込まれる日本軍守備隊は次々玉砕していた。 歩兵第228連隊第1大隊(早川菊夫少佐大隊長)と第3大隊第10中隊は「コリ支隊」としてガダルカナルに 向かう計画 で、10月22日に上陸とされた。この日がガ島の第2師団を主力とした第17軍の総攻撃の日で あったからである。 駆遂艦に分乗して向かったが、米軍航空機攻撃の予想でブーゲンビルに引き返してしまった。 一方その頃、17年9月 に第17軍の戦闘序列に編入された38師団も、ガ島に強行上陸すべくソロモンに向か、 連隊主力(第1、第3隊欠)は 11月3日駆遂艦17隻に分乗してタサファロングに上陸した。だが、当時のガ島は 別名「餓島」というように、先着の 部隊は連合軍の猛攻撃と飢餓とマラリアに襲われて 戦闘集団は失われたいた。やがて当連隊も飢餓と病魔に冒され 18年2月に軍の総撤収によってブーゲンビルへ、228連隊の撤収人員は460名、ブーゲンビルでの病没者は100名 ガダルカナル撤収後3月28日、連隊はニューブリテン島ココボ海岸に上陸、ビスマーク防衛戦に参加し、ラバウルで 終戦を知る。軍旗は8月18日、雲が低く垂れめた椰子林の中で奉焼された。
編成地:名古屋 編成年:昭和16年11月21日
8年5月、第43師団に編合された、第31軍へ戦闘序列が下令され、サイパン派遣の動員令がだされたのが 19年4月 師団は118連隊、136連隊、135連隊の部隊で構成して、第1次輸送隊は5月14日に サイパンに上陸し、第1大隊は 5月末にテニアンに転用され、歩兵第50連隊長の指揮下に入った。 本格的砲爆撃は6月11日から始った。15日早朝 136連隊が布陣するオレアイ正面の海岸と 第31軍司令部の正面にあたるタナバク沖に殺到してきた。 壮烈な戦いで海岸線で全滅が相次ぎ、指揮官の戦死も多く、軍直轄にされた第135連隊だけは 無傷で残っていて 軍は師団に返し、最後の砦となったタッポーチョ山を死守されることになった。 6月24日ころより戦闘が激しくなり、抵抗 戦を行っていた。 兵力は180名足らずとなり、第3大隊長:長野義宏大尉は負傷し自決する。26日軍旗が行方不明と 鈴木連隊長は捜すように軍刀を振りがざし、大声で叫ぶが幸い軍旗は旗手の少尉が負傷を負いながら洞窟に 避難していたが、鈴木連隊長は米軍に洞窟で発見され戦死。生存者は7月、総攻撃を行って玉砕した。 テニアンに派遣された第1大隊もやがて上陸してきた米軍との戦闘で大半が戦死した。
(新新設された決戦部隊)
編成地:豊橋 編成年:明治17年8月15日
明治21年第3師団の隷下で日清戦争では元山に上陸、平壌攻略戦に参加、日露戦争では南山総攻撃、 遼東、沙河 奉天の各会戦に参加した。櫨溝橋事件では上海上陸作戦、南京攻略、13年は?陽作戦、 漢口作戦、14年は襄東作戦 ?湘作戦、15年~16年には宣昌作戦、長沙作戦、漢水作戦に参加する。 17年7月関東軍の第29師団に編入され 満州奉天省海域に駐屯する。19年3月サイパン島に進駐するが、 途中輸送船が米軍によって沈没され、同門連隊長 以下2200名が死亡する。サイパンに上陸できたのは 1800名ほどであった。5月、連隊はグアム島への移駐を命じられ 6月上旬までに、連隊本部、第2、3大隊は グアムに移った。第1大隊、第3迫撃中隊、衛生隊は出発予定先日の サイパン空襲、米軍上陸に遭遇した。 6月16~17日にかけての戦闘で、その兵力はわずか50名となり、6月20日の ガラパン神社前の夜襲にて全滅する。一方、師団とともにグアムへ向かった連隊は、7月21日米軍上陸したが、 その前には艦砲射撃と数百機による爆撃、連隊主力はマンガン山に立て籠もっていたが各地で終日戦闘に 従事した結果 大橋連隊長はここが第18連隊の最後と思い、師団長の許可を得て軍旗を奉焼し。 全員の攻撃にて玉砕する。 日本映画 「太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-」 - 2011年公開で大場大尉 この大場大尉は第18連隊の衛生隊であったが、7月21日の戦闘での生き残り兵を 集めてゲリラ戦法に出て、20年12月 上旬に降伏する。
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富山 編成地:富山 編成年:明治31年3月24日
日露戦争では、第9師団隷下で、乃木第3軍に所属して旅順攻略戦に参加、約1000名の戦死者が出た。 シベリア出兵 から大正14年帰還後に富山に移駐する。7年1月から第1次上海事変に出動し、 12年9月日中戦争勃発し、再び上海へ 27日呉淞に上陸し、進撃開始するが、中国軍の頑強な抵抗に 進撃できず、砲兵の支援を受け、突入して連隊長以下 第1大隊の3分2を失った。連隊は上海付近の戦闘で 中国軍の抵抗や無数のクリークに阻まれて。多大な犠牲を 払いながら11月19日、蘇州を占領する。 連隊は3000名将兵の内2000名の死傷者を出しながら常に第1戦で戦った。 12月13日南京完全占領する。その後も徐州会戦、武漢攻略作戦参加、15年満州に駐屯 19年7月沖縄へ転進したが11月台湾へ移転し終戦となる。
編成地:富山 編成年:明治38年8月8日
大正14年の軍備整理で一時廃止となったが、支那事変勃発で再び動員下命、松山で編成され、 13年9月天津に上陸、中原会戦では、第21師団の先陣として戦う。開戦時、第2次バターン半島攻略に 参加するため、連隊は永野支隊としてフィリピン島へ派遣する。17年2月、リンガエンに上陸した連隊は、 バターン半島に進出して、本格的攻略戦を準備、4月3日総攻撃が開始して、9日には米軍は降伏した。 その後連隊はルソン島での警備、ビサヤ諸島作戦に参加
編成地:富山 編成年:明治41年5月8日
第9師団隷下として、大正10年シベリアに出兵した。その後廃止したが、昭和12年8月再び動員され、 第109師団 の指揮下に入り、大陸に派遣太原攻略作戦で、連隊は昔陽支隊として作戦に貢献する。 14年11月帰還命令で 15年2月復員した。しかし、同年10月再び編成、12月4日軍旗を再々親授され、 第52師団に編合されて17年1月 大本営予備として待機、7月には戦時編成が解かれ内地に駐屯した。 18年戦局が大きく傾きだし、再び戦時編成に 戻りトラック島に進出し終戦かで自活する。
編成地:富山 編成年:昭和13年7月14日
明号作戦が実施され、中心部隊として参加し、仏印軍9万人の武装解除に成功
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石川 編成地:金沢 編成年:明治8年9月9日
日露戦争の旅順攻略戦で名をあげた第9師団の母体となったのが、金沢歩兵第7連隊である。 西南の役、日清戦争、日露戦争に従軍。日露戦争ではまず盤竜山砲台攻撃に従事。初日、突撃すること実に 6回 連隊長以下多くの将兵を失いながらも占領する。7年の第1次上海事変では、2月14日に上海郊外の 呉淞に上陸する。 第9師団に右翼隊として攻撃を開始、江湾競馬場西側の時計台を占領して、 高台がないために、砲兵の観測所として 時計台を使用し有利ならしめた。3月1日、前線の丘の上で 督戦していた、林連隊長は中国軍の放った1弾が下腹部を 貫通した。副官に介抱されながらも軍旗を 握りしめながら「前進」とと呼び、毅然とした態度で瞑目した。 林連隊長はこの指揮ぶりから、のち、”軍神” と称賜された。 12年日中戦争では再び上海の土を踏んだ。その後 南京攻略、徐州会戦、武漢作戦等に参加、開戦には 満州の駐屯、19年連隊は沖縄に転用されるが、11月台湾へ 移駐が決まり、台中で終戦を迎える。
編成地:金沢 編成年:昭和12年8月30日
日中戦争を契機に編成され、第109師団に所属し大陸出兵、山西省で治安維持、その後、第52師団隷下となり 19年初頭、甲支隊として中部太平洋に進出。クサイ島、ポナベ島、ミレ島などに分散して守備に就いた。
編成地:金沢 編成年:昭和13年7月14日
3年9月天津に上陸し、占領地域の治安警備に日本軍は追い付かなく、中国軍の拠点制圧の出動が幾度となく 繰り返された。17年仏印(ベトナム)に転進し、中国国境警備に当たる、20年3月仏印軍の武装解除を目的とした 明号作戦に参加、その後仏印中部のタンホアの警備に従事し、終戦を迎えた。
(新設された本土防衛部隊)
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福井 編成地:敦賀 編成年:明治19年8月23日
連隊は名古屋城内で編成され、日清戦争では金沢第7連隊とともに第3師団に属し、仁川に上陸、海城・ 牛荘の激戦 に参加、日露戦争では旅順要塞攻略は多くに犠牲出し、奉天会戦にも参加、 一時廃止(大正14年)となり、富山69連隊 の後任として再び第9師団の指揮下に入って、 7年の第1次上海事変に出動2年間満州駐留する。帰還するが直後 日中戦争勃発、 9月28日に上海の呉淞に上陸する。しかし網の目のようなクリークに阻まれ、行軍は停滞、中国軍の 攻勢で第2大隊長以下死傷者が続出、その後日本軍の杭州上陸と連隊の補充を整えて、11月26日無錫を 占領、南京攻略では雨花台を攻撃・占領、12月11日光華門で苦戦中の鯖江36連隊の応援に向かえ、 中国軍の抵抗は頑強で陣地突入して占領する。死傷者多く収容する。その後徐州会戦、武漢作戦等に参加、 14年内地へ帰還 5年、満州駐留で動員し、ソ連戦に備えるが、開戦19年7月、沖縄に移転したが、 突然に台湾へ抽出された。台湾新竹州で警備中に終戦 最後の連隊長は露口同中佐で1945.2.26 -終戦
編成地:敦賀 編成年:明治41年5月8日
大正14年、宇垣軍縮によって廃止されたが、日中戦争勃発によって13年4月再編成され、8月に上海に上陸、 南京 に進出して警備に当たった。18年8月南方派遣で9月サイゴンに上陸し、いちじは駐屯し 、同地の警備に携わる。 まもなくタイ北部に進出し、翌19年2月、連隊はインパール作戦参加のため、ビルマに進出した。 3月15日、第15師団は英印軍の攻撃を受けることなくチンドウィン渡河に成功した。 連隊から第3大隊:(本多宇喜久郎 大尉・以下本多挺進隊)が抽出され、攻撃に参加することになった。 柳沢寛次大佐率いる67連隊主力は4月になって 連隊は第15師団直属を解かれてインパールを目指す。 本多挺進隊は、アラカン山脈を越え、27日にはコヒマ・ インパール街道に到着した。 28日、同街道のミッション付近で橋梁と電線を破壊、コヒマ・インパールの連絡路を遮断した。 本多大尉は無線封鎖を解除して師団司令部に英印情報を伝えるものであった。その後ミッションを占領した 本多挺進隊 は、英印軍からの捕獲車両でインパールへの突入が命令されたが、十数キロと迫った地点で 中止命令され、 以後、インパール北部の高地に布陣して反撃を支えた。6月5日、主力連隊は15師団に 復帰したが(第3、1大隊 第33師団に派遣)を欠いていて、その戦力は1個大隊にも満たない、 3524高地の攻撃を開始したが、英印軍の 激しい抵抗の前に被害が大きく攻撃は頓挫した。 7月に入って退却命令チンドウィン河まで苦難の後退を続けた。 連隊の被害は戦死883名、戦病死661名、行方不明約300名、その後、イラワジ会戦に参加し、 ここでも被害多大20年8月ビルマからタイに転進して終戦となる
編成地:敦賀 編成年:昭和12年8月30日
第109師団所属で華北へ出兵、太原攻略作戦などに参加した。16年10月新設の第53師団の転属、 19年シンガポール に進出、マラッカに駐屯、4月に内地の留守部隊と合流してビルマ方面作戦の命じられて 連隊はマンダレーに陸路で 向かう。6月4日到着し、第1大隊(野中正雄少佐)は第56師団の増援として 龍陵に派遣され、連隊主力はさらに北進 してモガウン東方のポホックを確保して、フーコンより撤退中の 菊兵団(第18師団)の収容に当たった。このころ、 インパール作戦の中止命令が7月10日に出され、ビルマの 戦局は新たな段階を迎えた。19年8月、南下する連合軍の 攻撃を撃退する連隊であったが、空陸共同の 猛攻の前に撤退を余儀なくされた。20年1月連合軍をイラワジ河畔で 食い止めようとする 盤作戦(イラワジ会戦)が開始された。連隊は制空権は英印軍のてにあり、夜戦でクレ高地攻撃を 敢行するしかなかった。パゴダの一角を占領してから、敵軍の反撃が激しくなり連隊の死傷者が続出する およそ7日間の攻防のすえ連隊は攻撃を断念した。第1大隊が連隊に復帰した。 2月8日英印軍が圧倒的戦力(航空・砲力・戦車)で攻撃し、浅野連隊長は負傷し、残る力をふりしぼり 野中大隊長と共に戦車に体当たりして壮絶な最期 を遂げた。3月連隊はマンダレーに転進し、 菊兵団の指揮下に入ってメークテーラ奪回作戦に参加した。作戦中 新任の羽賀芳男大佐が着任し、 飛行場奪還を目指した連隊は戦車に対して肉弾攻撃しても戦局はもはや動かしく 難しく、イラワジ作戦は 中止された。4月23日、ビルマ方面軍司令官:木村兵太郎大将がラングーンから脱出すると 連隊はシッタン作戦に参加して終戦を迎える。
(新設された本土防衛部隊)
編成地:鯖江 編成年:明治31年3月24日
日露戦争では第9師団のもとで旅順攻略戦に参加した。この戦いで連隊長:三原重雄大佐が戦死、 将兵の多大な 損害を受けた。その後奉天会戦に出撃して、日露戦争後シベリア出兵、第1次上海事変など 参加し10年から2年間 満州に駐在後内地へ帰還してすぐ上海への派遣が決まり、以後上海から南京を 目指して追撃するが、上海付近の 戦闘で連隊の3分2を失ったが、11月11日、本土からの 補充兵約1000名が到着、17日昆山に入城。さらに19日に 蘇州に到着、23日無錫に到着した途端中国軍の 猛攻撃で堅固の陣地を攻略するのに3日間を要しており、さらに 南京へと猛烈な勢いで追撃を開始。南京城外での攻防で伊藤善光大隊長が戦死、連隊長が軍旗と共に 入城したとき 生存者はわずか13名であった。その後、徐州会戦、武漢攻略作戦などなどに参戦して 14年6月鯖江に帰還 第28師団に代わって満州へ。新京に駐屯して、続々と部隊が抽出されて戦場に 送られていくようになり、同連隊主力も 3月からチチハルに移駐(第3大隊は嫩江)。 さらに7月には大東島に移って守備の任に就く、一部は沖縄方面にも 抽出されておくられた。かくして連隊は散り散りになった中で終戦
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