阿南 惟幾


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陸士18期・ 陸大30期 大分県 |
昭和12年 3月 人事局長 |
昭和13年 3月 中将 |
昭和13年11月 第109師団長 |
昭和14年10月 陸軍次官 |
昭和16年 4月 第11軍司令官 |
昭和17年 7月 第2方面軍司令官 |
昭和18年 5月 大将 |
昭和19年12月 航空総監兼航空本部長 |
昭和20年 4月 陸軍大臣 |
昭和20年 8月 自決 |
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中支那派遣軍の戦闘序列に編入され武漢作戦セレベス(オランダ領東インド) |
昭和20年)8月15日未明、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で自刃(割腹) |
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安藤 利吉 |
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陸士16期・陸大26期恩賜・宮城県 |
昭和13年11月 第21軍司令官 |
昭和15年 2月 南支那方面軍司令官 |
昭和16年 1月 予備 |
昭和16年11月召集 台湾軍司令官 |
昭和19年1月 大将 |
昭和19年9月第10方面軍司令官兼台湾総督 |
昭和21年 4月 自決(上海収容所内) |
その後中華民国政府に拘束され、上海に抑留されたが1946年(昭和21年)に服毒自決した |
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板垣征四郎 |
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陸士16期・陸大28期・岩手県 |
昭和 7年 8月 少将 満州国執政顧問 |
昭和11年 3月 関東軍参謀長 |
昭和11年 4月 中将 |
昭和12年 3月 第5師団長 |
昭和13年 6月 陸軍大臣 |
和14年 9月 支那派遣軍総参謀長 |
昭和16年 7月 大将 朝鮮軍司令官 |
昭和20年 2月 兼 第17方面軍司令官 |
昭和20年 4月 第7方面軍司令官 |
弟 盛は海軍少将(39期 |
関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を決行 |
終戦は、第7方面軍司令官としてシンガポールで迎え |
連合国によりA級戦犯に指定昭和23年)12月23日、絞首刑に処せられた |
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今村 均 |
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陸士19期・陸大27期首席・宮城県 |
昭和13年 1月 兵務局長 |
昭和13年 3月 中将 |
昭和13年11月 第5師団長 |
昭和15年 3月 教育総監部本部長 |
昭和16年 6月 第23軍司令官 |
昭和16年11月 第16軍司令官 |
昭和17年11月 第8方面軍司令官(ラバウル) |
昭和18年 5月 大将 |
昭和43年)10月4日死去。享年82歳 |
弟 今村方策(33)は陸軍大佐 |
昭和21年)4月 - ラバウル戦犯者収容所 |
22年)5月 - オーストラリア軍による軍事裁判判決(禁錮10年 |
昭和28年)8月 - マヌス島刑務所閉鎖に伴い巣鴨拘置所に昭和29年)11月 - 刑期を終え |
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小畑英良 |
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陸士23期・陸大31期優等 大阪 |
大正12年)4月 イギリス駐在 |
昭和13年)3月1日 陸軍少将 |
昭和15年)12月2日 陸軍中将・第5飛行集団長 |
昭和18年)5月1日 第3航空軍司令官 |
昭和19年)2月25日 第31軍司令官 |
昭和19年8月11日 グアム島で戦死 |
昭和19年9月30日 陸軍大将に昇進 |
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河辺正三 |
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陸士19期 富山県 陸大27期恩賜 |
昭和14年 1月 教育総監部本部長 |
昭和14年 3月 中将 |
昭和15年 3月 第12師団長 |
昭和16年 3月 第3軍司令官 |
昭和17年 8月 支那派遣軍総参謀長 |
昭和18年 3月 ビルマ方面軍司令官 |
昭和19年12月 中部軍司令官 |
昭和20年 2月 第15方面軍司令官 |
昭和20年 3月 大将 |
昭和20年 4月 航空総軍司令官 |
(のち兼航空本部長) |
インパール作戦を指揮した第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の上官 |
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喜多 誠一 |
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陸士19期・陸大31期 滋賀県 |
昭和11年 3月 少将 支那公使館附武官 |
昭和12年 9月 北支那方面軍特務部長 |
昭和14年 3月 中将 興亜院華北連絡部部長 |
昭和15年 3月 第14師団長 |
昭和16年10月 第6軍司令官 |
昭和18年 3月 第12軍司令官 |
昭和19年 9月 第1方面軍司令官 |
昭和20年 3月 大将 |
戦後シベリアに抑留される |
満州国敦化に司令部を置く第1方面軍司令官 |
1947年にハバロフスク近郊のホール野戦病院にて没。享年62。 |
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木村兵太郎 |
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陸士28期・陸大28期 東京 |
昭和12年11月 大本営野戦兵器長官兼兵器局長 |
昭和14年 3月 中将 第32師団長 |
昭和15年10月 関東軍参謀長 |
昭和16年 4月 陸軍次官 |
昭和18年 3月 兵器行政本部長兼軍事参議官 |
昭和19年 8月 ビルマ方面軍司令官 |
昭和20年 5月 大将 |
インパール作戦における戦死者は1万8千人木村は幕僚とともに飛行機でラングーンを脱出 |
A級戦犯として逮捕、極東国際軍事裁判にて死刑の判決を受け、絞首刑. |
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栗林 忠通 |
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陸士20期・陸大35期恩賜 長野 |
昭和15年 3月 少将 騎兵第2旅団長 |
昭和15年12月 騎兵第1旅団長 |
昭和16年 9月 第23軍参謀長 |
昭和18年 6月 中将 留守近衛第2師団長 |
昭和19年 5月 第109師団長 |
昭和20年 3月 戦死(硫黄島) 大将 |
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硫黄島の戦いの総司令官で玉砕する |
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下村 定 |

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陸士20期・陸大28期首席 高知 |
昭和12年 9月 参謀本部第1部長 |
昭和13年 9月 東京湾要塞司令官 |
昭和14年 3月 中将 |
昭和15年 8月 砲工校長 |
昭和16年 9月 陸大校長 |
昭和17年10月 第13軍司令官 |
昭和19年 3月 西部軍司令官 |
昭和19年11月 北支方面軍司令官 |
昭和20年 5月 大将 |
昭和20年 8月 陸軍大臣兼教育総監 |
参議院議員(1期)などを歴任した。 |
主に上海方面を作戦地域とした。(第13軍)/中国・四国・九州地方を管轄区域とする(西部軍司令) |
司令部は北京に置かれ、主に華北方面(北支方面軍司令官) |
昭和43年)3月24日 東京都文京区においてバスに轢かれ、翌日に交通事故死。 |
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鈴木 宗作 |
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陸士24期恩賜・陸大31期首席 愛知 |
昭和13年 7月 少将 中支派遣軍参謀副長 |
昭和14年 9月 支那派遣軍総参謀副長 |
昭和15年 3月 参謀本部第3部長 |
昭和16年 3月 中将 |
昭和16年11月 第25軍参謀長 |
昭和18年 4月 運輸本部長 |
昭和18年 9月 兼 船舶司令官 |
昭和19年 7月 第35軍司令官 |
昭和20年 4月 戦死(ミンダナオ海) 大将 |
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田中 静壱 |
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陸士19期・陸大28期恩賜 |
昭和10年 8月 少将 歩第5旅団長 |
昭和12年 8月 関東憲兵隊司令官 |
昭和13年 7月 中将 |
昭和13年 8月 憲兵司令官 |
昭和16年10月 東部軍司令官 |
昭和17年 8月 第14軍司令官 |
昭和18年 9月 大将 |
昭和19年 8月 軍事参議官兼陸大校長 |
昭和20年 3月 第12方面軍司令官 |
兼 東部軍管区司令官 |
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フィリピン平定中の第14軍司令官フィリピン方面を作戦地域とした |
昭和20年8月24日、最後の反乱となった川口放送所占拠事件を鎮圧した夜、 |
司令官自室で拳銃を用いて自殺した。享年57 |
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塚田 攻 |
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陸士19期・陸大26期 茨城 |
昭和12年11月 中支方面軍参謀長 |
昭和13年 3月 陸大校長 |
昭和13年 7月 中将 |
昭和13年12月 第8師団長 |
昭和15年11月 参謀次長 |
昭和16年11月 南方軍総参謀長 |
昭和17年 7月 第11軍司令官 |
昭和17年12月 殉職(飛行機事故 中支) 大将 |
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土肥原賢二 |
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陸士16期・陸大24期 岡山 |
昭和11年 3月 中将 第12師団司令部附 |
昭和13年 6月 参謀本部附(土肥原機関長) |
昭和14年 5月 第5軍司令官 |
昭和15年 9月 軍事参議官兼陸士校長 |
昭和16年 4月 大将 |
昭和16年 6月 航空総監兼航空本部長 |
昭和18年 5月 東部軍司令官 |
昭和19年 3月 第7方面軍司令官 |
昭和20年 4月 教育総監 |
昭和20年 8月 第12方面軍司令官 |
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A級戦犯としてGHQに逮捕される特に中国が強硬に極刑を主張した |
最終的に死刑の判決が下され、巣鴨プリズン内で絞首刑が執行された |
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東條 英機 |
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陸士17期・陸大27期 東京 |
昭和10年9月 関東憲兵司令官兼 関東局警務部長 |
昭和11年12月 中将 |
昭和12年 3月 関東軍参謀長 |
昭和13年 5月 陸軍次官 |
昭和13年 6月 兼 航空本部長 |
昭和13年12月 航空総監兼航空本部長 |
昭和15年 7月 陸軍大臣兼対満州事務局総裁 |
昭和16年10月 大将内閣総理大臣(内相・陸相兼) |
昭和18年11月 兼 軍需大臣 |
昭和19年 2月 兼 参謀総長 |
昭和19年 7月 予備役 |
陸軍大臣、内閣総理大臣(第40代) |
内務大臣(第64代)、外務大臣(第66代) |
文部大臣(第53代)、商工大臣(第25代) |
軍需大臣(初代) |
連合国によって行われた東京裁判にて「A級戦犯」として起訴1948年12月23日、巣鴨拘置所で死刑執行された。享年65 |
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富永信政 |
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陸士21期・陸大32期 東京 |
昭和12年 8月 少将 広島幼年学校長 |
昭和13年 7月 第21歩兵団長 (中国徐州) |
昭和14年 8月 公主嶺校長 |
昭和14年10月 中将 |
昭和15年12月 第27師団長(中国天津) |
昭和17年 4月 予科士官学校校長 |
昭和17年12月 第19軍司令官(インドネシア) |
昭和18年11月 戦病死(アンボン) 大将 |
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東久邇宮稔彦王 |
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陸士20期・陸大26期 東京 |
昭和 8年 8月 中将 第2師団長 |
昭和 9年 8月 第4師団長 |
昭和12年 8月 航空本部長 |
昭和13年 4月 第2軍司令官 |
昭和14年 1月 軍事参議官 |
昭和14年 8月 大将 |
昭和16年12月 防衛司令官 |
昭和20年 4月 軍事参議官 |
昭和20年 8月 内閣総理大臣 |
昭和22年10月 皇籍離脱 |
平成2年)1月20日に102歳で死去 |
伏見宮邦家親王の第四王子で久邇宮朝彦親王の九男として明治20年に誕生東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた |
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藤江 恵輔 |
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陸士18期・陸大26期 兵庫 |
昭和 9年 8月 少将 野砲校幹事 |
昭和12年 8月 憲兵司令官 |
昭和12年11月 中将 |
昭和13年 7月 第16師団長 |
昭和16年 4月 西部軍司令官 |
昭和18年 2月 大将 |
昭和19年 3月 東部軍司令官 |
昭和20年 3月 予備役 |
昭和20年 6月 召集 第11方面軍司令官 |
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前田 利為 |
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陸士17期・陸大23期 |
昭和 8年 3月 少将 陸大教官 |
旧金沢藩主 侯爵 / 前田利嗣の養嗣子 |
昭和11年 8月 陸大校長 |
昭和11年12月 中将 |
昭和12年 8月 第8師団長 |
昭和14年 1月 予備役 |
昭和17年 4月 召集 ボルネオ守備軍司令官 |
昭和17年 9月 死亡(飛行機事故) 大将 |
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山下 泰文 |
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陸士18期・陸大28期 高知 |
昭和 9年 8月 少将 兵器本廠附 |
昭和12年 8月 支那駐屯混成旅団長 |
昭和12年11月 中将 |
和13年 7月 北支那方面軍参謀長 |
昭和15年12月 ドイツ派遣航空視察団長 |
昭和16年 7月 関東防衛軍司令官 |
昭和16年11月 第25軍司令官(マレー半島-スマトラ島) |
昭和17年 7月 第1方面軍司令官(満州方面地域) |
昭和18年 2月 大将 |
昭和19年 9月 第14方面軍司令官(フィリピン) |
フィリピンのマニラにて軍事裁判 |
シンガポール華僑虐殺事件、マニラ大虐殺等の責任を問われ、死刑判決を受けた。1946年2月23日、絞首刑執行 |
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山田乙三 |
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陸士14期・陸大24期 東京 |
昭和5年8月少将 騎兵学校教育部長 |
昭和 9年 8月 中将 参謀本部総務部長 |
昭和10年12月 陸士校長 |
昭和14年10月 教育総監兼軍事参議官 |
昭和15年 8月 大将 |
昭和16年 7月 防衛総司令官 |
昭和19年 7月 関東軍総司令官(満州新京) |
終戦時、関東軍参謀長秦彦三郎や参謀副長松村知勝、作戦主任参謀草地貞吾らとともにソ連に抑留され
10年以上経って日本へ帰国した。 |
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山脇 正隆 |
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陸士18期・陸大26期 高知 |
昭和 9年 8月 少将 |
昭和10年11月 整備局長 |
昭和12年11月 中将 |
昭和13年12月 陸軍次官 |
昭和14年10月 第3師団長 |
昭和16年 4月 陸大校長 |
昭和16年12月 予備役 |
昭和17年 9月 召集 ボルネオ守備軍司令官 |
昭和19年 9月 大将 第37軍司令官(ボルネオ) |
昭和20年 5月 召集解除 |
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1945年5月召集解除。戦犯容疑で軍事裁判を受けるも数日で無罪になった 1974年4月21日に死去(88歳) |
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牛島 満 |
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鹿児島県 陸軍士官学校20期・陸大第28期生 同期には山下奉文、田中静壱、下村定 |
1918年年8月、シベリア出兵が始まり、シベリア派遣軍野戦交通部参謀としてウラジオストクに赴任 |
1936年2月26日に起こった226事件の際には、牛島は中国大陸に出張中だったため事件には遭遇しなかった |
1937年3月、少将に進級し、郷里鹿児島の第6師団歩兵第36旅団長に任ぜられる。 |
1937年12月8日真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦するが、牛島自身は政府・軍統帥部の無謀さと戦争の |
将来に強い懸念を示したとされる。牛島自身は平和主義者であり、日中戦争を早く終結させ、 |
北方の脅威であるソ連の脅威に対し万全の備えを講ずるべきというのが牛島の持論だったと言われている。 |
1942年4月、牛島は陸軍士官学校校長に就任する。 |
1944年9月、戦況が日々悪化する中、牛島は第32軍司令官に親補され、沖縄に赴任 |
6月23日午前4時30分、牛島は長勇中将、佐藤三代次大佐と摩文仁洞窟に置かれた司令部壕で割腹自決をした。 |
牛島は手に銘刀「来国俊」を持ち、刀を腹に突き当てた。 |
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梅津美治郎 |
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陸士15期・陸大23期首席 通称「無言の将軍」 |
1922年)2月8日 - 中佐 |
1924年)12月 - 大佐に昇進。歩兵第3連隊長 |
930年)8月 陸軍少将に昇進。歩兵第1旅団長 |
昭和9年 支那駐屯軍司令官 |
昭和9年8月 - 陸軍中将 第2師団長 |
昭和11年 - 陸軍次官 |
昭和13年5月 - 第1軍司令官 |
昭和15年}8月1日 - 陸軍大将 |
昭和17年10月1日 - 関東軍総司令官 |
昭和19年7月18日 - 参謀総長 |
昭和20年9月- 大本営全権として降伏文書調印式に出席 |
東京裁判で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。 |
昭和53年(1978年)に靖国神社に合祀される。 |
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岡部直三郎 |
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陸士15期・陸大27期広島 同期は山下奉文、阿南惟幾 |
1930年、野戦砲兵第一聯隊長(大佐) |
1932年上海派遣軍高級参謀 |
1934年、陸軍少将 |
日中戦争の始まりで北支那方面軍が新設され、1937年、参謀長に就任。 |
軍司令官・寺内寿一大将を補佐し河北、山西、山東での作戦立案の中心となる。 |
1937年、陸軍中将 |
1942年、軍事参議官兼陸軍大学校校長就任 |
1943年、陸軍大将 戦局の切迫で関東軍隷下に新設された第3方面軍司令官として第4軍、第6軍をその隷下 |
に置き、第2方面軍が南方に転用された後を引き継いだ。 |
1944年、北支方面軍司令官、湘桂作戦統帥にあたるため第6方面軍司令官として転補 |
れ漢口で終戦を迎えた。戦後、戦犯容疑者として勾留され、1946年、上海で病死 |
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後宮 淳 |
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うしろくじゅん 陸士17期陸大29期 京都 |
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関東都督府付、第3師団参謀、第5師団参謀、(鉄道班)、欧州出張、関東軍司令部付(満鉄嘱託)、第4師団参謀長などを歴任し、 |
1934年3月、陸軍少将 参謀本部第3部長、陸軍省人事局長、同軍務局長を経て、 |
1937年8月、陸軍中将 第26師団長、第4軍司令官、南支那方面軍司令官、支那派遣軍総参謀長を歴任 |
1942年8月、陸軍大将 中部軍司令官、軍事参議官兼参謀次長、兼航空総監・航空本部長を経て |
第3方面軍司令官の在任中に終戦を奉天で迎えた |
A級戦犯に指名され、シベリア抑留を経て、1956年12月に復員した。 |
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松井 石根 |
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陸士17期(次席)・陸大29期 (首席) 愛知 |
明治37年)2月 - 歩兵第6連隊中隊長 |
明治37年4月 - 日露戦争に従軍 |
大正7年7月24日- 大佐、歩兵第39連隊長 |
大正12年3月17日- 少将、歩兵第35旅団長 |
昭和8年3月18日- 軍事参議官 10月 大将 |
昭和12年)8月15日 - 召集。上海派遣軍司令官 |
中支那方面軍司令官 |
日中戦争勃発前は予備役で、第二次上海事変が勃発すると軍務に復帰上海派遣軍司令官として上海に派遣された。、 |
昭和23年(1948年)12月23日に巣鴨プリズン内で処刑(絞首刑)が執行された。 |
昭和53年(1978年)年、他のA級戦犯と共に靖国神社へ合祀された。 |
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小磯 国昭 |
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陸士17期・陸大29期 栃木 |
大正11年 大佐 |
大正15年12月1日 - 少将 陸軍省軍務局長 |
昭和6年8月1日 - 中将 陸軍次官 |
昭和10年12月2日 - 朝鮮軍司令官 |
昭和12年)7月21日 - 大将 |
昭和14年)4月7日 - 第15代拓務大臣 |
昭和17年)5月29日 - 第9代朝鮮総督 |
昭和19年)7月22日 - 第41代内閣総理大臣 |
昭和20年11月 連合国軍最高司令官より戦犯として |
捕命令、A級戦犯として起訴極東国際軍事裁判で終身刑の判決 |
昭和25年11月3日 - 巣鴨拘置所内で食道癌により死去 |
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多田 駿 |
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陸士17期・陸大29期 宮城 |
昭和2年7月26日 大佐、野砲第4連隊長 |
昭和7年8月8日 - 少将、野重第6旅団長 |
昭和11年4月28日 - 中将 |
昭和12年)8月14日 - 参謀本部次長 |
昭和13年)12月10日 - 第3軍司令官 |
昭和16年)7月7日 - 大将に昇進 軍事参議官 |
昭和16年)9月 - 予備役に編入 |
昭和20年)12月2日 - A級戦犯の容疑 |
昭和23年)12月16日 - 胃癌で死去 |
東條英機と対立したため、東條が陸軍の実権を握り首相となってからは予備役から |
呼び戻されることなく終戦を迎えることになった。 |
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