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戦争犯罪裁判 |
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杉山 元 |
陸士12期・陸大22期 福岡県出身 |
陸軍大臣、参謀総長、教育総監の陸軍三長官を |
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昭和11年11月 大将 |
昭和12年 2月 陸軍大臣 |
昭和13年 6月 軍事参議官 |
昭和13年12月 北支方面軍司令官 |
昭和15年10月 参謀総長 |
昭和18年 6月 元帥 |
昭和19年 7月 教育総監・陸軍大臣 |
昭和20年 4月 第1総軍司令官 |
太平洋戦争開戦の立案・指導にあたる |
本土決戦を目的に設立された |
敗戦後の9月12日に司令部にて拳銃自決。 |
寺内 寿一 |
陸士11期 ・陸大21期 山口県出身 |
陸軍大将 寺内正毅の長男 |
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昭和 4年 8月 中将 独立守備隊司令官 |
昭和 5年 8月 第5師団長 |
昭和 7年 1月 第4師団長 |
昭和 9年 8月 台湾軍司令官 |
昭和10年10月 大将 |
昭和11年 3月 陸軍大臣 |
昭和12年 2月 教育総監兼軍事参議官 |
昭和12年 8月 北支方面軍司令官 |
昭和13年12月 軍事参議官 |
昭和16年11月 南方軍総司令官 |
昭和18年 6月 元帥 太平洋戦争期は編成時から一貫して南方戦線の全陸軍部隊を統括する |
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昭和21年) マレーシアのレンガムで拘留中に病死 |
畑 俊六 |
陸士12期・陸大22期首席 父は旧会津藩士 |
大正15年 3月 少将 野重4旅団長 |
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昭和 6年 8月 中将 砲兵監 |
昭和12年 8月 教育総監 |
昭和12年11月 大将 |
昭和14年 5月 侍従武官長 |
昭和14年 8月 陸軍大臣 |
昭和16年 3月 支那派遣軍総司令官 |
昭和19年 6月 元帥 11月 教育総監 |
昭和20年 4月 第2総軍司令官 |
広島市への原子爆弾投下により、国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。
昭和天皇は御前会議の開催に先立って元帥会議を召集し、俊六(第二総軍司令官)、
杉山元(第一総軍司令官)、永野修身(元軍令部総長)の3元帥より意見を聴取した際、
杉山と永野が主戦論を張るなか、畑のみは「担任正面の
防御については敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなしと申上ぐる外ありません」と
率直に現状を説明、これが本土決戦の不可能を昭和天皇に確信させることになった
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戦争犯罪の各国裁判と戦犯者 |
1,法廷一覧
総計2,235裁判、被告全総数5,724人(但し、同一人物が複数裁判を受けている場合があるので、
実際の人数はこれより減少する)。
アメリカ裁判 全461裁判、被告総数1,446人
横浜:331裁判、被告1,029人 1945年12月18日~1949年10月19日(アメリカ裁判終了)
・武士道裁判(アメリカ軍横浜裁判23号
・花岡事件(アメリカ軍横浜裁判230号)
・伊藤ケース(アメリカ軍横浜裁判233号)
・東海軍司令部B29搭乗員処刑事件(岡田ケース)(アメリカ軍横浜裁判261号)
・石垣島事件
・ドゥリットル・ケース
・グアム:29裁判、被告109人 1945年2月26日~1949年4月28日
・父島人肉食事件(アメリカ軍グアム裁判11号)
・海軍生体解剖事件(アメリカ軍グアム裁判17号)
・クェゼリン:3裁判、被告18人
・上海:10裁判、被告52人 1946年2月12日~
・マニラ:88裁判、被告総数238人 1945年10月8日~ 1947年にフィリピンに裁判を移管。
・山下ケース
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イギリス裁判 全316裁判、被告950人
・シンガポール:137裁判、被告490人 1946年1月21日~1948年3月12日
・カーコニコバル島住民虐殺事件(イギリス軍シンガポール裁判12号)
・泰緬鉄道F軍団事件(イギリス軍シンガポール裁判85号)
・シンガポール華僑粛清事件(イギリス軍シンガポール裁判118号)
・ジョホールバル:4裁判、被告5人
・クアラルンプール:50裁判、被告84人 1946年1月30日~ 1948年1月12日
・ネグリセンビラン州事件 ・パリッティンギ村事件 ・スンガイルイ村事件 ・イロンロン村事件
・タイピン:17裁判、被告36人
・アロルスター:2裁判、被告16人
・ペナン:1裁判、被告、35人
・7香港:45裁判、被告123人 1946年3月28日~1949年12月20日(イギリス裁判終了)
・ラブアン:6裁判、被告13人
・ジェッセルトン:14裁判、被告17人
・ビルマ:40裁判、被告131人 1946年3月22日~1947年11月21日
・カラゴン村事件 |
オーストラリア裁判 全292裁判、被告総数960人
・ラバウル:197裁判、被告408人
・ラブアン:16裁判、被告157人
・サンダカン死の行進(オーストラリア軍ラブアン裁判14号)
・香港:13裁判、被告42人 ~1948年12月13日
・ガスマタ豪軍飛行士介錯事件(オーストラリア軍香港裁判13号)
・シンガポール:24裁判、被告62人
・ウェワク:1裁判、被告1人
・ニューギニア人肉事件(オーストラリア軍ウエワク裁判1号)
・ポート・ダーウィン:3裁判、被告22人
・マヌス:26裁判、被告121人 1950年6月5日から1951年4月9日まで。6月11日で最後の
死刑執行。この裁判で事実上BC級裁判終了。
・アンボン島豪軍捕虜殺害軍件
・アンボン・モロタイ:12裁判、被告147人
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オランダ裁判 全448裁判、被告総数1,038人
・バタヴィア:109裁判、被告359人1946年8月5日~1949年12月14日(インドネシア独立により
オランダ裁判終了
・白馬事件(スマラン慰安所事件、スマラン事件とも)(オランダ軍バタビア裁判69号)
・メダン:59裁判、被告136人
・タンジョン・ピナン:6裁判、被告11人
・ポンティアナック:20裁判、被告38人
・ポンティアナック事件(西ボルネオ住民虐殺事件
・バンジャルマシン:10裁判、被告30人
・バリックパパン:20裁判、被告88人
・マカッサル:36裁判、被告92人
・クーパン:21裁判、被告24人 ・メナド:44裁判、被告59人
・アンボン:49裁判、被告79人 ・モロタイ:21裁判、被告65人
・ホーランディア:53裁判、被告57人
フィリピン裁判 全70裁判、被告総数169人
・マニラ:70裁判、被告169人 1947年8月1日~1949年12月28日(フィリピン裁判終了)
フランス裁判 全40裁判、被告総数231人
・サイゴン:40裁判、被告231人 1946年2月11日~1950年3月29日
・ランソン事件(フランス軍サイゴン裁判39号)
中華民国裁判 全605裁判、被告総数884人
無罪判決は40%にのぼるが、これは国共内戦における政策変換によるとされる
・漢口:79裁判、被告163人
・北京:89裁判、被告115人 1946年4月8日~
・広東:93裁判、被告170人
・瀋陽:115裁判、被告136人
・南京:28裁判、被告33人 1946年5月30日~
・百人斬り競争(中華民国南京裁判21号)
・済南:21裁判、被告24人 ・徐州:13裁判、被告35人
・上海:144裁判、被告181人 ~1949年1月26日(中華民国裁判終了)
・台北:12裁判、被告16人 ・太原:11裁判、被日告11人
中華人民共和国裁判 全3裁判、被告総数46人
(但し判明分のみ)。戦犯容疑者は処罰されるよりも「認罪学習」を受けることがおおかった
・瀋陽:3裁判、被告46人
ソ連による裁判
ソ連は連合国戦争犯罪委員会に参加しなかったため、ソ連での裁判の実態がわからない
ハバロフスク裁判
A級戦犯約200名が、巣鴨拘置所に逮捕監禁されたのと同時にBC級戦犯約5,600人が
各地で逮捕投獄された。
横浜、上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス島等々南方各地の50数カ所の牢獄に抑留され、
約1,000名が軍事裁判の結果、死刑に処された。 |
戦争犯罪人一覧(将校)陸軍 |
名前・将官名 |
職務 |
裁判国 |
判決/出所 |
出所・処刑月日・その他 |
畑 俊六元帥 |
支那派遣軍総司令官
第2総軍司令官
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東京裁判 |
終身禁固
畑は米内内閣倒閣などの罪状 |
昭和29年に仮釈放 |
寺内寿一元帥 |
南方軍総司令官 |
東京裁判 |
|
マレーシアのレンガムで拘留中に病死 |
(方面軍司令官) |
岡部直三郎大将 |
第6方面軍司令官 |
中国・上海 |
未決死亡 |
判決中病死 21.11.25 60歳 |
今村 均 大将 |
第8方面軍司令官 |
豪・ラバウル |
10年禁固 |
戦争指導者,一度は死刑にされかけたが
29年)11月 - 刑期を終え巣鴨拘置所を出所
|
安藤利吉 大将 |
第10方面軍司令官 |
米・上海 |
未決自決 |
裁判中自決 21.4.10 |
多田 駿 大将 |
軍事参議官 |
|
A級戦犯の容疑で逮捕 |
昭和23年)12月16日 - 胃癌で死去 |
小磯 國昭大将 |
内閣総理大臣 |
極東国際軍事 |
終身禁錮刑 |
1950年巣鴨拘置所内で食道癌により死去 |
後宮 淳 大将 |
第3方面軍司令官 |
|
A級戦犯 |
シベリア抑留 1956年12月に復員 |
梅津美治郎大将 |
参謀総長
関東軍総司令官 |
東京裁判 |
終身刑 |
昭和24年1月8日、服役中に直腸癌により病没 |
東条英機大将 |
内閣総理大臣 |
東京裁判 |
絞首刑 |
処刑:昭和23年12月23日 |
松井 石根 大将 |
内閣参議 |
極東国際軍事 |
絞首刑(中支那方面軍が南京) |
処刑:昭和23年12月23日 |
木村兵太郎大将 |
ビルマ方面軍司令官 |
極東国際軍事 |
絞首刑 |
処刑:昭和23年12月23日 |
荒木 貞夫大将 |
文部大臣 |
極東国際軍事 |
終身刑 |
昭和30年に病気のため仮出所 |
板垣征四郎大将 |
第7方面軍司令官 |
極東国際軍事 |
絞首刑 中国・シンガポール罪 |
処刑:昭和23年)12月23日 |
土肥原賢二大将 |
第1総軍司令官 |
東京裁判 |
絞首刑 |
特に中国が強硬に極刑を主張 |
南 次郎 大将 |
第22代陸軍大臣 |
東京裁判 |
終身禁固刑満州事変の責任 |
昭和29年仮出獄 |
嶋田 繁太郎大将 |
海軍大臣 |
極東国際軍事 |
終身禁固刑 |
1955年仮釈放後赦免 |
岡田資 中将 |
第13方面軍司令官 |
米・横浜 |
絞首刑 |
処刑:24.9.17 60歳 米軍のB-29爆撃機
搭乗員11名を処刑した責任 |
黒田重徳 中将 |
第14方面軍司令官 |
比・比島 |
終身刑 |
大統領恩赦 1952.5帰国部下の残虐行為の罪 |
山下泰文 大将 |
第14方面軍司令官 |
米・マニラ |
絞首刑 |
処刑:21.2.23 60歳マニラ大虐殺 |
内山英太郎中将 |
第15方面軍司令官 |
米・横浜 |
30年禁固刑 |
33.4仮釈放 |
横山 勇中将 |
第16方面軍司令官 |
米・横浜 |
終身刑 九州大学生体解剖事件 |
服役中病死:27.1.21 63歳 |
(軍司令官) |
豊島房太郎中将 |
第2軍司令官 |
米・横浜 |
3年禁固 1950年7月、無罪判決 |
橘丸事件の戦犯容疑で収容 |
本間雅晴 中将 |
第14軍司令官 |
米・マニラ |
銃殺刑 バターン死の行進 |
処刑:21.4.3 59歳 |
神田正種 中将 |
第17軍司令官 |
中国・上海 |
禁固14年 |
1952年8月に釈放 |
安達二十三中将 |
第18軍司令官 |
豪・ラバウル |
終身刑 |
服役中自決:22.9.10 |
田中久一 中将 |
第23軍司令官 |
中国・広東 |
銃殺刑 |
処刑:21.3.27 68歳 |
酒井 隆 中将 |
第23軍司令官 |
中国・南京 |
銃殺刑 |
処刑:21.9.13 59歳 |
田辺盛武 中将 |
第25軍司令官 |
蘭 ・メダン |
銃殺刑 |
処刑:24.7.11 60歳 |
馬場正郎 中将 |
第37軍司令官 |
豪 ・ラバウル |
絞首刑 サンダカン死の行進で拘留 |
処刑:22.8.7 55歳 |
横山静雄 中将 |
第41軍司令官 |
比 ・比島 |
銃殺刑 1953年12月巣鴨から釈放 |
大統領特別恩赦のて |
原田熊吉 中将 |
第55軍司令官 |
豪・シンガポール |
絞首刑 |
処刑:22.5.28 59歳 |
谷 寿夫 中将 |
第59軍司令官 |
中国・南京 |
銃殺刑 南京事件の責任者 |
処刑:22.4.26 65歳 |
|
(師団長) |
西村琢磨中将 |
近衛師団長 |
豪 ・マヌス
英・シンガポール
|
絞首刑
絞首刑 |
処刑:26.6.11
シンガポール華僑虐殺事件に絡み |
磯谷廉介中将 |
第10師団長 |
中国・南京 |
終身刑 |
昭和27年)8月に釈放 |
井上貞衛中将 |
第14師団長 |
米 ・グアム |
終身刑 米軍機搭乗員3名を処刑 |
1951年1月3日、終身刑に減刑された後に釈放 |
三国直福中将 |
第21師団長 |
中国・広東 |
終身刑 |
|
柴山兼四郎中将 |
第26師団長 |
中国・上海 |
禁固7年 |
昭和26年)8月、仮釈放 |
落合甚五郎中将 |
第27師団長 |
中国・上海 |
終身刑 |
・ |
伴 健雄中将 |
第34師団長 |
中国・漢口 |
禁固10年 |
・ |
田上八郎中将 |
第36師団長 |
蘭・ホーランジア |
銃殺刑 |
処刑:23.10.6 53歳 |
船引正之中将 |
第64師団長 |
中国・上海 |
終身刑 |
・ |
堤 三樹男中将 |
第68師団長 |
中国・漢口 |
終身刑 |
・ |
三浦忠次郎中将 |
第69師団長 |
中国・上海 |
禁固12年 |
・ |
内田孝行中将 |
第70師団長 |
中国・上海 |
終身刑 |
・ |
福栄真平中将 |
第102師団長 |
英・シンガポール |
銃殺刑 |
処刑:21.4.27 56歳 |
末藤知史中将 |
第104師団長 |
中国・広東 |
禁固10年 |
・ |
立花芳夫中将 |
第109師団長 |
米 ・グアム |
絞首刑 処刑:22.9.24 |
米軍捕虜を斬殺、その人肉を用いて酒宴を開く |
菱田元四郎中将 |
第116師団長 |
中国・上海 |
終身刑 |
・ |
内田銀之助中将 |
第118師団長 |
中国・北京 |
禁固10年 |
・ |
近藤新八 中将 |
第130師団長 |
中国・広東 |
銃殺刑 |
処刑:22.10.31 54歳 |
柳川 悌 中将 |
第132師団長 |
中国・漢口 |
終身刑 |
服役中病死:23.2.27 |
野地嘉平 中将 |
第133師団長 |
中国・上海 |
終身刑 |
・ |
河村参郎中将 |
第224師団長 |
英・シンガポール |
絞首刑 処刑:22.6.26 52歳 |
シンガポール華僑虐殺事件 |
寺田済一 中将 |
第2飛行師団長 |
米・横浜 |
終身刑 |
・ |
三上喜三中将 |
第4飛行師団長 |
米・横浜 |
禁固12年 |
・ |
|
(旅団長) |
東海林俊成少将 |
歩兵第4旅団長 |
蘭・バタビア |
禁固10年 |
死刑であったが、懲役10年に減刑 |
加藤 章 少将 |
独立歩兵第8旅団長 |
中国・台北 |
禁固7年 |
・ |
川口清健 少将 |
歩兵第35旅団長 |
比・比島 |
禁固6年 |
のち大統領特別恩赦 |
黒瀬平一 少将 |
歩兵第57旅団長 |
中国・上海 |
終身刑 |
・ |
河野 毅 少将 |
歩兵第77旅団長 |
米 ・マニラ |
絞首刑 |
処刑:22.4..24 |
平野儀一 少将 |
歩兵第92旅団長 |
中国・広東 |
銃殺刑 |
処刑:22.5.12 57歳 |
梶浦銀次郎少将 |
歩兵第97旅団長 |
中国・漢口 |
終身刑 |
・ |
下河辺憲二少将 |
独立混成第23旅団長 |
中国・漢口 |
終身刑 |
・ |
渡 左近 少将 |
独立混成第29旅団長 |
英・シンガポール |
禁固5年 |
・ |
佐藤為徳 少将 |
独立混成第35旅団長 |
英・シンガポール |
絞首刑 |
処刑:21.4.6 53歳 |
斎 俊男 少将 |
独立混成第36旅団長 |
英・シンガポール |
絞首刑 |
処刑:21.5.3 55歳 |
遠藤新一 少将 |
独立混成第57旅団長 |
豪
|
禁固5年 |
・ |
田島彦太郎少将 |
独立混成第61旅団長 |
米 ・マニラ |
絞首刑 |
処刑:21.4.3 |
梨岡寿夫 少将 |
独立混成第89旅団長 |
中国・上海 |
禁固20年 |
・ |
|
(各級参謀) |
|
|
|
|
沼田多稼蔵中将 |
南方軍総参謀長 |
米・横浜 |
禁固7年 橘丸事件で判決 |
昭和25年)12月に仮釈放 |
若松只一 中将 |
第2総軍参謀長 |
米・横浜 |
禁固2年 |
・ |
加藤?平 中将 |
第8方面軍参謀長 |
米・横浜 |
禁固18年 |
・ |
和知鷹二 中将 |
南方軍総参謀副長 |
米・横浜 |
禁固6年橘丸事件)で逮捕 |
昭和25年)8月に仮釈放 |
稲田正純 中将 |
第16方面軍参謀長 |
米・横浜 |
禁固7年 油山事件 |
昭和26年)6月に釈放 |
福島久作 少将 |
第16方面軍参謀副長 |
米・横浜 |
終身刑 |
・ |
谷萩那華雄 少将 |
第25軍参謀長 |
蘭・メダン |
銃殺 |
処刑:24.7.8 |
鏑木正隆 少将 |
第55軍参謀長 |
米・上海 |
絞首刑 |
処刑:21.4.22 49歳 |
田中良三 少将 |
第38師団参謀長 |
英・香港 |
禁固20年 |
・ |
|
(その他) |
洪 思翊 中将 |
比島捕虜収容所 |
米・マニラ |
絞首刑 捕虜収容所長時に食糧不足 処刑:21.9.26 57歳 |
奈良 晃 中将 |
西部軍兵務部長 |
中国・漢口 |
終身刑 |
・ |
木下栄市中将 |
中支派遣憲兵隊長 |
英・香港 |
終身刑 |
・ |
熊崎清次中将 |
南方軍予備士官学校長 |
蘭・バタビア |
禁固12年 |
・ |
磯矢五郎中将 |
参謀本部第3部長 |
米・横浜 |
禁固1年 |
・ |
額田 坦中将 |
参謀本部第3部長 |
米・横浜 |
禁固6年 |
昭和27年)2月出所 |
石田英熊中将 |
南方軍野戦鉄道 |
英・シンガポール |
禁固10年 |
・ |
佐々 誠少将 |
タイ捕虜収容所所長 |
英・シンガポール |
絞首刑 |
処刑:23.4.23 58歳 |
栗岩尚治少将 |
第1野戦輸送司令官 |
中国・上海 |
禁固3年6ケ月 |
・ |
藤重正従少将 |
歩兵17連隊長 |
米・マニラ |
絞首刑 |
処刑:721.7.17 |
伊藤章信少将 |
西部軍法務部長 |
米・横浜 |
終身刑 |
・ |
河根良賢少将 |
第14軍野戦輸送指揮官 |
米・横浜 |
絞首刑 |
処刑:24.3.12 60歳 |
浅海 誠 少将 |
近衛工兵連隊長 |
蘭・メダン |
禁固7年 |
・ |
大塚 操少将 |
第7方面軍法務部長 |
英・シンガポール |
絞首刑 |
処刑:22.4.17 |
山本省三少将 |
第25軍経理部長 |
蘭・メダン |
銃殺 |
処刑:24.7.8 |
日高己雄少将 |
南方軍法務部長 |
英・シンガポール |
絞首刑 |
処刑:22.4.17 53歳 |
田中 透 少将 |
台湾軍歩兵第2連隊長 |
豪・ |
銃殺 |
処刑:23.4.7 56歳 |
重藤憲文少将 |
南支派遣憲兵隊長 |
中国・広東 |
銃殺 |
執行前に病死:22.8.9 |
広田 明 少将 |
第8方面軍経理部長 |
豪 ・ラバウル |
禁固7年 |
・ |
(その他追加) |
影佐禎昭 中将 |
第38師団長 |
中国 |
・昭和23年)55歳で獄死 |
肺結核のため裁判に至らず |
黒田重徳 中将 |
比島方面軍司令官 |
マニラ軍事裁判 |
終身刑 部下の残虐行為の罪 |
1951年10月23日、大統領の特赦仮釈放 |
佐藤賢了 中将 |
支派遣軍総参謀副長 |
極東国際軍事 |
終身刑 |
昭和31年)3月31日に釈放 |
鈴木 貞一 中将 |
貴族院議員 |
極東国際軍事 |
終身禁固 昭和30年)9月17日仮釈放 |
御前会議において開戦を主張 |
富永 恭次 中将 |
第4航空軍司令官 |
ソ連当局 |
禁固刑 |
昭和30年)4月18日帰国 |
百武晴吉 中将 |
第17軍司令官 |
・ |
・ |
・ |
武藤 章 中将 |
第14方面軍参謀長 |
マニラ |
絞首刑 捕虜虐待の罪 |
昭和23年)12月23日に絞首刑 |
大島 浩 中将 |
駐ドイツ特命全権大使 |
極東国際軍事 |
終身刑 |
昭和30年)に仮釈放 |
川口 清健 少将 |
川口支隊 |
・ |
重労働6年 |
昭和28年)に釈放 |
四方諒二 少将 |
中支派憲兵隊司令官 |
・ |
|
昭和23年2月、無罪判決 |
諫山 春樹 中将 |
第10方面軍参謀長 |
・ |
終身刑 |
1955年9月に仮釈放 |
伊東 武夫 中将 |
独立混成第40旅団長 |
豪・ラバウル |
銃殺刑 間諜処刑事件 |
同年10月28日に無罪 |
安岡 正臣 中将 |
独立混成第1旅団長 |
蘭印 |
刑死 |
処刑:1948年4月 |
阿部 孝壮 中将 |
第6根拠地隊司令官 |
グアム島 |
|
1947年6月19日、刑 |
伊東 正康 |
・ |
・ |
「ああモンテンルパの夜は更けて」
に曲をつけた。 |
1953年に赦免をうけ復員 |
大谷敬二郎 大佐 |
東京憲兵隊長 |
・ |
重労働10年 昭和31年)-仮釈放 |
BC級戦犯容疑者 |
沢田 茂 中将 |
第13軍司令官 |
米・上海 |
重労働5年 |
昭和25年)1月に釈放 |
向井 敏明 少佐 |
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南京軍事 |
銃殺刑 「百人斬り競争」の
容疑者として逮捕 |
処刑:昭和23年)1月28日 |
石田乙五郎 中将 |
憲兵司令部本部長 |
・ |
A級戦犯・ |
米軍捕虜搭乗員殺害・ |
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戦争犯罪人一覧(将校)海軍 |
名前・将官名 |
職務 |
裁判国 |
判決/出所 |
出所・処刑月日・その他 |
井浦祥二郎大佐 |
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戦後B級戦犯に問われる |
昭和27年)2月28日- 身柄仮釈放 |
市岡 寿 中将 |
海軍潜水学校長 |
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重労働20年 |
1958年5月に釈放 |
大川内 傳七中将 |
南西方面艦隊司令長官 |
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無罪が確定して無事に復員 |
捕虜虐待等の容疑 |
岡田 為次少将 |
第25根拠地隊司令官 |
ラバウルで刑 |
死刑 |
処刑:昭和22年)9月 |
加藤 榮吉大佐 |
第87警備隊司令 |
豪・ラバウル |
絞首刑 住民7人の殺害 |
処刑:21年)8月1日 |
岡 敬純 中将 |
海軍次官 |
極東国際軍事 |
終身禁錮 |
1954年に釈放 |
鎌田 道章中将 |
第22特別根拠地隊 |
オランダ軍軍事 |
絞首刑 |
処刑:昭和22年)10月 |
小林 仁 中将 |
第四艦隊司令長官 |
グアム島 |
収監ウェーク島で捕虜虐殺 |
講和条約成立による仮出所 |
酒井原繁松少将 |
第65警備隊司令 |
グアム島 |
死刑ウェーク島で捕虜100名の銃殺 処刑:昭和22年)6月 |
小松 輝久中将 |
第6艦隊司令長官 |
BC級戦犯 |
昭和30年)まで巣鴨拘置所に収監 |
左近允尚正中将 |
支那方面艦隊 |
英・香港 |
絞首刑 捕虜65名をを虐殺 |
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実松 譲 大佐 |
軍令部第五課 |
BC年 |
昭和33年)3月に釈放銃殺刑 (ポンティアナ事件)の
容疑者処刑:昭和22年12月6日 56歳 |
醍醐 忠重 中将 |
第6艦隊司令長官 |
蘭 |
中澤 佑 中将 |
第21航空戦隊司令官 |
米・横浜 |
重労働10年 |
昭和27年)4月11日- 身柄仮釈放 |
原 忠一 中将 |
第4艦隊司令長官 |
米・グアム |
禁固6年 |
昭和26年)4月19日- 身柄仮釈放 |
福田 良三中将 |
高雄警備府司令長官 |
中華民国上海 |
禁固15年 |
昭和27年)3月1日- 身柄仮釈放 |
福留 繁 中将 |
第二航空艦隊司令長官 |
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1950年に復員 |
堀内 豊秋大佐 |
重巡洋艦「高雄」副長 |
蘭・メナド |
死刑 |
処刑:昭和23年9月25日 47歳 |
黛 治夫 大佐 |
「利根」艦長 |
英・香港 |
禁固7年 |
1951年9月まで拘留 |
三戸 寿 中将 |
海軍省人事局長
第四特攻戦隊司令官
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禁固8年 |
1955年2月に釈放 |
森 国造 中将 |
第7根拠地隊司令官 |
米・グアム |
死刑 |
セレベス島マカッサルで刑死 |
永野 修身元帥 |
軍令部総長
連合艦隊司令長官 |
極東国際軍事 |
裁判途中の1947年1月2日
性肺炎にかかり寒さのため急 |
1947年1月5日に死去した |
大西 新蔵中将 |
第7潜水戦隊司令官 |
豪・ラバウル |
起訴却下 |
ラバウルで発生した外国人殺害容疑 |
阿部 孝壮中将 |
第6根拠地隊司令官 |
米、グアム |
絞首刑 クェゼリンでの米兵捕虜処刑 処刑:1947年6月19日 |
犬塚 惟重大佐 |
支那方面艦隊司令部付 |
マニラ |
1946年3月から翌年7月まで、マニラにおいて戦犯容疑で拘留 |
黛 治夫 大佐 |
「利根」艦長 |
香港法廷 |
禁固7年ビハール号事件により戦犯容疑 1951年9月出所 |
和智 恒蔵大佐 |
硫黄島警備隊司令 |
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1946年4月25日から9月まで巣鴨プリズンに拘禁 |
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橘丸事件
昭和20年に日本陸軍が国際法に違反して病院船「橘丸」(東海汽船、1,772トン)で部隊・武器を輸送した事件である。
日本陸軍創設史上最も多い約1,500名の捕虜を出すこととなった。
起訴された人物と判決
沼田多稼蔵 中将(南方軍総参謀長):重労働7年
和知鷹二 中将(南方軍総参謀副長兼南方軍交通隊司令官):重労働6年
渡辺三郎 少将(第三船舶輸送司令官):無罪
長野祐一郎 中将(第十六軍司令官):無罪
豊嶋房太郎 中将(第二軍司令官):重労働3年
森康則 中佐(第5師団参謀):無罪
大森繁 軍医少佐(第五師団軍医):無罪
安川正清 少佐(歩兵第十一連隊第一大隊長):重労働1年半
安田喜四郎 軍属(橘丸船長):無罪
小笠原事件
昭和20年に日本軍が米軍の捕虜8名を殺害し、そのうち5名の人肉を嗜食したとされる事件で別名、父島人肉食事件。
当時の父島は住民を疎開させた上で要塞化(父島要塞)されており、陸軍の立花芳夫中将指揮する混成第一旅団と
海軍の森国造中将指揮する父島方面特別根拠地隊が駐留していた。連日の空襲を受ける中、酒乱で気性の荒い
脱立花芳夫中将と的場末男少佐が共謀して「日本刀の凄みを披露する絶好の機会」という理由で、撃墜した米軍機から
出して捕虜となった搭乗員を使って軍刀の試し切りをすることになった。そこで、大木に針金で括りつけた捕虜を
予備役応召の伊藤喜久二中佐に師団長命令を発して師団長命令を発して斬殺させるなどし、さらに軍医に遺体を
解体させて、その肉を戦意高揚のためとして焼いて酒宴の肴とした。後の証言によれば、立花は米兵の手足の肉や
内臓を食べると、「これは美味い。参謀だった堀江芳孝少佐は立花らの素行にかねてから不安を感じており、捕虜の
ウォーレン・アール・ボーン海軍中尉(グラマンF6F戦闘機パイロット、所属部隊、母艦は不明)を自分の英語教師として
身近に置くことで守っていたが、外出後に戻るとすでに処刑されて喰われた後だった。
当時少尉候補生として、父島に配属されていた土屋公献(元日弁連会長)は、ボーン中尉を殺したのは事実だが、
ボーンの遺体を損壊して食べた事実は無いと食人行為にについては、否定している
9月2日に父島に上陸した米軍は捕虜の行方を調査し、事実を知り驚愕する。酒宴に参加するなどした27名(29名説あり)
をBC級戦犯として起訴した。立花、的場、吉井、伊藤、中島昇大尉ら5名が絞首刑(森は終身刑、但し別途オランダによる
裁判で刑死)、終身刑5名、有期刑15名となった。
バターン死の行進
日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍捕虜民間人が、
収容所に移動するときに多数死亡したことを言う。全長は120キロで、その半分は鉄道で運ばれ、残りを3日で歩いた。
1日平均20キロの3日間の行進であった。
戦後のマニラ軍事裁判等において、本間や捕虜移送の責任者であった第14軍兵站監河根良賢少将は
死の行進の責任者として有罪の判決が下り処刑された。
サンダカン死の行進
1945年、太平洋戦争(大東亜戦争)中に大日本帝国が設置したマレーシア・サンダカン捕虜収容所における日本軍
によるオーストラリア・イギリス軍兵士捕虜に対する死の行進である。これに伴い1000人以上の捕虜が、
ラバウル豪軍総司令部軍法会議の豪側検事によれば、7人を除き全員死亡したとされる。
ただし、日本兵もこの移動により数百名が死亡している。
オーストラリア軍が行ったBC級戦犯裁判により収容所側将兵には下記のような極刑が科せられた。
星島進大尉 絞首刑 山本正一大尉 絞首刑
阿部一雄中尉 死刑 高桑卓男大尉 絞首刑
渡辺源三中尉 銃殺刑 室住久雄曹長 終身刑
馬場正郎中将(軍司令官)が絞首刑
菅辰次大佐は9月16日に自殺訴追される事はなかった
シンガポール華僑虐殺事件
昭和17年)2月に日本軍がシンガポールの戦いの際、約1ヶ月にわたって「親連合国」と目された一部の中国系
住民(華人、華僑)を殺害したとされる事件。中国語では粛清 と呼ぶ。日本でも「華僑粛清」ということがある。
またシンガポール大検証などともいう。
戦後、この事件の直接的な責任を問われ、昭南警備司令官であった河村参郎中将が戦犯として処刑されている。
第一次戦犯指名
1945年9月11日に逮捕命令(40名)。主に東條内閣閣僚が逮捕される。
東條英機(9月11日に自決未遂)、東郷茂徳、嶋田繁太郎、賀屋興宣、鈴木貞一、岸信介、岩村通世、
小泉親彦(9月13日に自殺)、橋田邦彦(9月14日に自殺)、井野碩哉、本間雅晴(マニラの軍事法廷で死刑判決)、
黒田重徳(マニラの軍事法廷で終身刑判決)、村田省蔵、寺島健、長浜彰(マニラの軍事法廷で死刑判決)、
太田清一、上田良武、鈴木薫二、徳田久吉、飛田時雄、長内茂、三浦宗一、竹内寛、ジェームズ・W・佐々木薫一ら
1945年9月21日に逮捕命令(2名)
土肥原賢二、阿部信行
1945年10月22日に逮捕命令(1名)
安倍源基
第二次戦犯指名
1945年11月19日に逮捕命令(11名)
荒木貞夫、小磯国昭、松岡洋右、松井石根、南次郎、白鳥敏夫、本庄繁(11月20日に自殺)、
鹿子木員信、久原房之助、葛生能久、真崎甚三郎
第三次戦犯指名
1945年12月2日に逮捕命令(59名)
畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、星野直樹、大川周明、佐藤賢了、鮎川義介、天羽英二、安藤紀三郎
青木一男、有馬頼寧、藤原銀次郎、古野伊之助、郷古潔、後藤文夫、秦彦三郎、本多熊太郎、井田磐楠
池田成彬、池崎忠孝(赤木桁平)、石田乙五郎、石原広一郎、上砂勝七、河辺正三、菊池武夫、木下栄市
小林順一郎、小林躋造、児玉誉士夫、松阪広政、水野錬太郎、牟田口廉也、長友次男、中島知久平
中村明人、梨本守正(梨本宮守正王)、西尾寿造、納見敏郎、岡部長景、大倉邦彦、大野広一、太田耕造
太田正孝、桜井兵五郎、笹川良一、下村宏、進藤一馬、塩野季彦、四王天延孝、正力松太郎
多田駿、高橋三吉、高地茂都、谷正之、徳富猪一郎(徳富蘇峰)、豊田副武、津田信吾、後宮淳、横山雄偉
第四次戦犯指名
1945年12月6日に逮捕命令(9名)。国際検察局(IPS)が追加逮捕
木戸幸一、大島浩、近衛文麿(12月16日に自殺)、酒井忠正、大河内正敏
緒方竹虎、大達茂雄、伍堂卓雄、須磨弥吉郎
1946年3月16日に逮捕命令(1名)
永野修身
1946年4月7日に逮捕命令(1名)
岡敬純
1946年4月29日に逮捕命令(2名)
梅津美治郎、重光葵
その他
板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章は外地で逮捕。橋本欣五郎は国内で単独で逮捕。
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絞首刑(死刑)
板垣征四郎 軍人、陸相(第1次近衛内閣・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長
(中国侵略・米国に対する平和の罪)
木村兵太郎 軍人、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣)(英国に対する戦争開始の罪)
土肥原賢二 軍人、奉天特務機関長、第12方面軍司令官(中国侵略の罪)
東條英機 軍人、第40代内閣総理大臣(ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害罪)
武藤章 軍人、第14方面軍参謀長(フィリピン)(一部捕虜虐待の罪)
松井石根 軍人、中支那方面軍司令官(南京攻略時)(捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件))
広田弘毅 文民、第32代内閣総理大臣(近衛内閣外相として南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任)
終身刑
荒木貞夫 |
賀屋興宣 |
嶋田繁太郎 |
橋本欣五郎 梅津美治郎 |
木戸幸一 |
白鳥敏夫 |
畑俊六 |
大島浩 小磯国昭 |
鈴木貞一 |
平沼騏一郎 |
岡敬純 |
佐藤賢了 南次郎 |
星野直樹 |
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- |
不起訴により釈放
青木一男 |
岩村通世 |
須磨弥吉郎 |
本多熊太郎 |
安倍源基 |
岸信介 |
高橋三吉 |
真崎甚三郎 |
阿部信行 |
葛生能世 |
多田駿 |
里見甫 |
天羽英二 |
児玉誉士夫 |
谷正之 |
鮎川義介 |
後藤文夫 |
寺島健 |
安藤紀三郎 |
笹川良一 |
梨本宮守正 |
石原広一郎 |
正力松太郎 |
王 |
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西尾寿造 |
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