橋本 群 |
広島県, 陸軍士官学校(20期) |
昭和11年)3月、陸軍少将 |
陸軍大学校(28期)を優等 |
支那駐屯軍参謀長 |
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昭和14年)3月、陸軍中将 |
ノモンハン事件が発生し、停戦後の同年9月に引責辞任し参謀本部付となった。 |
同年11月に待命、翌月予備役に編入された。後に北白川宮家別当を務めた。 |
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橋本秀信 |
愛媛、陸大36期 昭和19年6月 |
航空審査本部長、第5航空軍参謀長、 |
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第9飛行師団長、教導飛行師団 |
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秦 彦三郎 |
陸士24期 三重県 陸大31期 |
昭和14年3月 少将 |
昭和15年3月 関東軍参謀副長兼駐満武官 |
昭和16年10月 中将 |
華中に在り占領地の警備や治安作戦 |
昭和17年7月 第34師団長 |
昭和18年4月 参謀次長 兼兵站総監 |
昭和19年3月 兼陸大校長 |
昭和20年4月 関東軍総参謀長 |
極東ソ連軍総司令官)との停戦交渉を行った。 |
1945年12月、A級戦犯として連合国軍最高司令官より出された第3次逮捕命令のリストに |
名前があったが、既にソ連軍により捕らえられシベリア抑留の身であった。1956年12月26日に復員 |
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服部暁太郎 |
兵庫県 陸軍士官学校(24期 陸軍大学(35期) 昭和11年)3月、工兵大佐 |
昭和14年)3月、陸軍少将 昭和15年)10月北支那方面軍隷下の第2野戦鉄道司令官 |
昭和16年10月、陸軍中将 |
昭和17年)1月、南方軍鉄道隊司令官 |
昭和19年)3月、第1師団長 |
孫呉に駐屯。第1師団が南方に転用された1944年8月、教育総監部付となり、同月、孫呉で死去した。 |
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花谷 正 |
陸士26期 岡山県勝田郡 陸大34期 長男 花谷甫(陸軍大尉)弟 花谷浩(陸軍大佐、殉職) |
昭和14年 1月 満州国軍事顧問 |
昭和15年3月 少将 |
昭和15年8月 歩29旅団長 |
昭和16年7月 第29歩兵団長 |
昭和16年12月 第1軍参謀長 華北方面を作戦地 |
昭和18年 6月 中将 |
昭和18年10月 第55師団長 |
ビルマに出征し、第二次アキャブ作戦に従軍し |
タイ王国に赴任 |
昭和20年 7月 第18方面軍参謀長 |
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原田次郎 |
佐賀、陸大38期 昭和19年6月 |
独混30旅団長、 第100師団長 |
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原田 熊吉 |
大阪府出身。陸士22期、陸大28期 |
昭和8年)8月1日 陸軍歩兵大佐 |
昭和14年)10月2日 陸軍中将 第35師団長 |
昭和17年)3月2日 第27師団長 |
昭和17年11月9日 第16軍司令官 |
昭和20年)4月7日 第55軍司令官 |
戦後戦犯に指名され、シンガポールのチャンギーで絞首刑 |
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原田 貞憲 |
陸士31期 陸大42期 |
陸軍少将 原田憲義(26)の弟 |
昭和16年7月 航空本部庶務課長兼第三課長 |
昭和17年10月 航空本部整備部生産課長 |
昭和18年5月 航空本部整備部長 兼 野戦航空兵器長官 |
昭和18年8月 少将 |
昭和18年11月 軍需省航空兵器総局第1局長 |
昭和20年4月 航空総軍参謀副長 |
昭和20年4月 航空総軍参謀副長 |
昭和20年6月 第1航空軍参謀長 東京に移転し本土防空 |
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原田義和 |
福岡、陸大36期 昭和20年3月 |
第22歩兵団長、南洋第2支隊 |
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原田宇一郎 |
滋賀 陸軍士官学校(25期) 陸軍大学校(37期)を優等 |
和4年)12月、イギリス駐在 |
昭和7年)8月、歩兵中佐 |
昭和11年)8月、航空兵大佐 |
昭和12年)9月、第4飛行団司令部員となり、飛行第12連隊長、飛行第12戦隊長を歴任し |
昭和14年)8月、陸軍少将 |
昭和16年)12月、第14飛行団長 |
昭和17年8月、陸軍中将 |
昭和18年)1月、第1飛行師団長に親補され、第2航空軍司令官として満州新京で終戦 |
その後、シベリア抑留となり、1956年(昭和31年)12月に帰国した。 |
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馬場 正郎
まさお
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熊本、陸軍士官学校28期 陸大33期 |
昭和10年)8月1日に陸軍騎兵大佐 |
陸軍大学校33期 |
昭和13年7月15日、陸軍少将任官し騎兵第3旅団長 |
昭和16年)8月15日、陸軍中将 第53師団長 |
昭和18年)9月、第4師団長としてボルネオに派遣 |
昭和19年)12月、ボルネオ守備軍を前身とする第37軍司令官となり引き続き同地の守備を担当した |
昭和21年4月に復員したが、翌年1月にBC級戦犯容疑(サンダカン死の行進)で拘留、同年6月2日、 |
絞首刑判決。同年8月7日、ラバウルで刑が執行された。 |
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原 守 |
陸士25期 広島県 陸大34期 |
昭和14年3月 少将 歩23旅団長 |
昭和16年4月 関東憲兵隊司令官 |
昭和16年11月 中将 |
昭和17年8月 第9師団長満州掖河に駐屯した |
昭和20年4月 教育総監部本部長 |
昭和20年8月 東部憲兵隊司令官 |
昭和20年11月 陸軍次官 |
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原 乙未生
はらとみお |
福岡、東大機械卒 昭和18年10月 |
技本第4研究所長、兼相模造兵廠長 |
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林 義秀
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和歌山県出身 陸軍大学校(35期) |
日中戦争に従軍 |
1941年10月、陸軍少将に進級 フィリピン攻略戦に参加 |
1945年2月、第53師団長 陸軍中将に進級 |
1946年8月、戦犯容疑で逮捕 |
1949年11月、マニラで終身刑の判決 |
1953年7月に釈放された |
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林芳太郎 |
京都、 昭和17年8月 |
第110師団長、近衛第3師団長、 |
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伴健雄 |
福岡、陸大 昭和16年11月 |
第34師団長 |
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早淵四郎 |
鹿児島、 昭和18年6月 |
独混13旅団長、豊橋第1予備士官校長 |
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坂西 一良 |
鳥取県 陸士学(23期) 陸大(30期) |
ドイツ大使館付武官 |
1934年8月、陸軍大佐 |
昭和13年)7月、陸軍少将 |
昭和16年)3月、陸軍中将 第35師団長 |
昭和19年4月、第20軍司令官となり衡陽で終戦 |
昭和21年)9月、上海で戦病死 |
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萩 三郎 |
石川、 陸大37期 昭和20年4月中将 |
第4軍参謀長 |
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第5方面軍参謀長 |
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浜田 平
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高知、 陸大37期 昭和20年3月 |
泰国駐屯軍参謀長、第39軍参謀 |
第18方面軍参謀副長 |
20.8.17 自決 |
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樋口敬七郎
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陸士27期 佐賀県唐津市 陸大39期 |
昭和16年2月 南支方面軍参謀副長 |
昭和16年6月 第23軍参謀副長 |
昭和16年10月 少将 香港の戦いに参加 |
昭和17年2月 台湾軍参謀長 |
昭和18年10月 久留米第1予備士官学校校長 |
昭和20年3月 中将 4月 第156師団長 宮崎県本庄で本土決戦に備える |
戦犯容疑により逮捕され香港に連行されたが、昭和22年6月に不起訴となり釈放された。 |
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樋口季一郎
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陸士21期 兵庫県淡路島 陸大30期 |
昭和12年8月 少将 ハルピン特務機関長 |
昭和13年7月 参謀本部第2部長 |
昭和14年10月 中将 イスラエル建国功労者 |
昭和14年12月 第9師団長 |
昭和17年8月 北部軍司令官 札幌に司令部を置く |
昭和18年2月 北部方面軍司令官 |
昭和19年3月 第5方面軍司令官 |
昭和20年2月 兼 北部軍管区司令官 |
司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。アッツ島玉砕、キスカ島撤退、敗戦後の占守島、 |
樺太における戦闘を指揮、占守島の戦いではソ連軍千島侵攻部隊に痛撃を与えた。 |
スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。 |
ダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否して、樋口の身柄を保護した |
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人見秀三
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山形、 昭和18年6月 |
久留米第1予備士官公共、 |
第12師団長 |
21.4.13 自決 (台湾) |
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人見与一 |
栃木、陸大30期 昭和15年8月 予備役より 第1国守隊長 第135師団長 |
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菱田元四郎 |
東京 昭和20年3月 |
歩84旅団長、 第116師団長 |
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平田正判
まさちか |
兵庫、陸大34期 昭和16年11月 |
留守51師団長 |
第22師団長 |
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平田勝治 |
島根、陸大36期 昭和20年4月 |
第6飛行団長、第3航空教育団長 |
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平岡 清 |
熊本、 昭和20年4月 |
第8野戦輸送司令官 |
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平野 ?
ひらのひろし |
兵庫、 昭和20年3月 |
兵政本補給部長 |
20.4.5没 |
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平林盛人 |
長野、陸大31期 昭和14年10月 |
第17師団長 予備 留守54師団長 |
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百武 晴吉
はるよし
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陸士21期恩賜 佐賀県 陸大33期 |
兄 三郎(19) 源吾(30)はともに海軍大将 |
昭和12年3月 少将 |
昭和12年8月 通信校長 |
昭和14年3月 独立混成第4旅団長 |
昭和14年8月 中将 |
昭和15年2月 第18師団長 |
昭和16年4月 通信兵監 |
昭和17年5月 第17方面軍司令官ガダルカナル島奪回を目指す ソロモン方面 |
昭和19年)12月に脳出血 |
昭和20年4月 第8方面軍附 |
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広田 豊 |
愛知、陸大35期恩賜 昭和20年4月 |
水戸、仙台 飛行校長、第53航空師団長 |
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福栄 真平
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陸士23期 東京 陸大35期 |
昭和14年 3月 少将 留守第16師団附 |
昭和15年 2月 歩15旅団長 |
昭和17年 7月 マレー捕虜収容所長 |
昭和17年12月 中将 下関要塞司令官 |
昭和18年 6月 東京湾要塞司令官 |
昭和19年 6月 第102師団長 |
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レイテ島に渡りレイテ決戦に敗れ、セブ島で終戦を迎えた。 |
戦後、戦犯容疑により逮捕され、死刑判決を受け昭和21年、シンガポールにて銃殺刑が執行された。 |
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藤田 進 |
石川県 陸士学16期 陸大(25期) |
昭和3年)3月8日には陸軍大佐 |
昭和4年)8月1日に第19師団参謀長 |
昭和7年)12月7日陸軍少将 歩兵第32旅団長 |
昭和11年8月1日陸軍中将 |
昭和12年)8月2日第3師団長 |
昭和16年)1月20日待命となり、同31日予備役編入 |
昭和20年)4月1日金沢師管区司令官 |
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藤井 洋治 |
広島県 陸士学(19期)陸大(28期) |
1932年7月、歩兵第37連隊長 |
1935年8月、陸軍少将 |
歩兵第19旅団長、近衛師団司令部付 |
1938年7月、陸軍中将 |
留守第1師団長を経て、新設の第38師団長 |
1942年8月、予備役 |
その後、広島師管区司令官、第59軍司令官、兼中国軍管区司令官を勤める。 |
1945年8月6日、市内の官舎で出勤準備中、広島市への原子爆弾投下により夫人とともに被爆死した。 |
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藤岡 武雄
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東京 陸軍士官学校(23期) |
昭和13年)3月、歩兵大佐 歩兵第7連隊長 |
昭和16年)3月、金沢連隊区司令官 |
同年8月、陸軍少将 |
昭和17年)3月、台湾軍兵務部長 |
昭和19年)2月、北支那方面軍隷下の |
独立混成第9旅団長 河北省冀東の警備 |
昭和20年)3月、陸軍中将に進み第62師団長に親補され沖縄に赴任。沖縄戦に参加し、 |
嘉数の戦いなど激しい戦闘を続けたが、ついに1945年6月、撤退した摩文仁において自決した。 |
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船引 正之 |
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第64師団長 |
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藤塚止戈夫
しかお |
兵庫、 陸大36期 昭和19年6月中将 |
第2軍参謀長 |
19.12第6航空軍参謀長 |
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藤田茂 |
広島、 昭和20年3月 |
騎4旅団長、 第59師団長 |
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藤本鉄熊
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山口、 陸大35期 昭和14年8月少将 |
英駐在、第2航空軍参謀長、南方航空輸送司令官 |
昭和19年10月戦死にて中将 |
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深堀游亀
ふかぼりゆうき |
東京、 陸大40期 昭和20年4月中将 |
第2軍参謀長, 第322師団長 |
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藤沢繁三 |
滋賀、陸大37期 昭和20年3月 |
第2航空通信司令官 |
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藤村 謙
ゆずる |
東京、陸大38期 昭和20年4月 |
第8砲兵団長、 第1方面軍兵器部長、第351師団 |
第351師団 |
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星野 利元 |
陸士25期 新潟県 陸大37期 |
兄 星野庄三郎(陸軍中将) |
昭和14年8月 少将 |
昭和14年10月 教育総監部第二部長 |
昭和16年4月 公主嶺戦車学校校長 |
昭和17年8月 中将 |
昭和17年9月 戦車第1師団長 満州に駐屯 |
昭和20年6月 第50軍司令官青森で本土決戦に備えた |
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細川 忠康 |
鳥取県 陸士学(24期) 陸大(第35期) |
昭和4年)9月までフランスに駐在 |
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昭和10年)12月、砲兵大佐 |
昭和10年)12月、砲兵大佐 野戦砲兵第26連隊長 |
昭和14年)3月、陸軍少将に進級し砲兵監部付 |
昭和16年)10月、陸軍中将 |
昭和18年)3月、第59師団長 中国に出征し済南に駐屯 |
昭和20年)3月、第43軍司令官に発令され、済南で終戦を迎える |
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堀井富太郎
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陸士23期 兵庫県 |
昭和15年3月 少将 留守第11師団附 |
東京外国語学校委託学生として中国語 |
昭和15年8月 第55歩兵団長 |
グアム島攻略、ラバウル攻略に従軍 |
昭和16年11月 南海支隊長 |
昭和17年11月 戦死(ニューギニア) 中将 |
昭和17年)7月に始まったポートモレスビー作戦で暗転する。 |
陸軍大学校を卒業していない所謂“無天組”でありながら、中将にまで栄進した人物としても知られる。 |
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本郷 義夫
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陸士24期 兵庫県 陸大31期恩賜 |
昭和13年7月 少将 |
陸大31期恩賜 |
昭和13年12月 第4飛行団長 |
陸軍大将 本郷房太郎(旧3期) |
昭和14年12月 第12軍参謀長 |
の長男 |
昭和15年12月 熊谷飛行校長 |
弟 忠夫(32)は陸軍少将 |
昭和16年8月 中将 |
山西省東部の警備 |
昭和18年6月 第62師団長 |
昭和20年3月 関東防衛軍司令官 |
昭和20年5月 第44軍司令官 |
ソ連軍と戦闘を交える中、奉天で終戦を迎えた。 |
終戦後、シベリア抑留となり、1950年(昭和25年)4月に復員した |
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本田 政材
まさき |
陸士22期 |
昭和12年8月 少将 歩第2旅団長 |
陸大29期 長野 |
昭和13年3月 歩校幹事 |
昭和14年8月 歩兵校長 |
昭和14年10月 中将 |
昭和14年12月 支那派遣軍総参謀副長 |
昭和15年10月 第8師団長 |
昭和17年6月 機甲本部長 |
昭和18年3月 第20軍司令官 |
昭和19年4月 第33軍司令官 |
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本間 雅晴
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新潟、陸軍士官学校(19期)陸大(27期)優等 |
大正6年)8月 - 陸軍歩兵大尉 |
大正7年)4月 - イギリス駐在 |
昭和5年8月1日 - 陸軍歩兵大佐 |
昭和10年)8月1日 - 陸軍少将 歩兵第32旅団長 |
昭和13年7月15日 - 陸軍中将に昇進。第27師団長 |
身長は180cm強で堂々たる体躯を持ち、かつ日本人離れの彫りの深い顔をもつ美男子 |
太平洋戦争においてフィリピン攻略戦時、軍司令官として第14軍を指揮した。当初の攻略は順調で、 |
第14軍はマニラ市を占領に成功する。マニラ進駐にあたり将校800名をマニラホテルの前に集めると |
1時間に渡り「焼くな。犯すな。奪うな。」を徹底し違反者は厳罰に処すると訓示を行った |
昭和17年)8月31日 - 予備役編入、予備陸軍中将 |
昭和21年4月3日 - 未明、マニラ軍事裁判において刑死 |
マニラ戦犯裁判で、バターン死の行進の責任者(戦犯)として召喚された。
本間は前述のとおり人道主義者であり、バターン死の行進での捕虜への
非人道行為は本間の責任ではなく、部下の責任であった。
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