陸軍中将総覧
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青木 重誠

 
陸士25期恩賜  石川県出身 昭和14年3月  少将
陸大32期恩賜 昭和14年8月  第11軍参謀長
昭和16年3月  習志野学校校長
昭和16年10月  中将
昭和16年11月  南方軍総参謀副長
ニューギニア戦線 昭和17年8月  第20師団長
昭和18年6月  戦病死(ニューギニア)
赤柴八重蔵 陸士24期  新潟県 昭和14年10月 陸士幹事
陸大37期 昭和16年10月 中将 第25師団長
昭和18年10月 近衛第1師団長
伊勢原で本土決戦に備えたが終戦を迎えた。 昭和20年4月 第53軍司令官
秋永 月三 陸士27期  大分 昭和14年8月 企画院調査官
陸大36期 昭和16年3月 少将
昭和16年 4月 企画院第1部長
ソロモン諸島方面の作戦 昭和18年 5月 第17軍参謀長
昭和19年10月 中将
昭和19年11月 軍需総監 中国軍需監理部長
昭和20年4月 総合計画局長官
秋永 力
あきなが つとむ
福岡県   陸軍士官学校(28期) 昭和12年)10月、第6師団作戦主任参謀
        陸軍大学校(38期) 昭和13年)7月、歩兵大佐
昭和16年)10月、陸軍少将
昭和18年)9月、第17軍参謀長
昭和20年)3月、陸軍中将
同年4月、第6師団長に親補され、米軍とブーゲンビル島で戦闘を交える中で終戦
阿部 平輔
あべ へいすけ

 
宮城、  陸軍士官学校(21期) 昭和10年)8月、歩兵大佐
昭和13年12月陸軍少将に進級。第8国境守備隊長
昭和16年)7月留守第20師団長に転じ朝鮮に赴任
    同年8月、陸軍中将   
昭和17年)7月、第41師団長
同年11月、師団はニューギニアに転用され、ニューギニアの戦いに参戦。苦戦を続ける中で、
1943年6月にウェワクで戦病死した。
安部 孝一
あべ こういち
宮城県  陸軍士官学校(26期)
       陸軍大学校(39期)
歩兵第29連隊中隊長、歩兵第4連隊大隊長などを経て、第9師団参謀として上海事変に出動した。
1938年3月、第9師団参謀長として日中戦争に出征。徐州会戦、武漢作戦に参加。
 歩兵第87連隊長として満州に駐屯 1940年12月、陸軍少将 第48歩兵団長
1944年5月、陸軍中将に進級。第107師団長
1945年8月、ソ連軍の進攻を受け、退却作戦を実行した。停戦命令が届かなかったため、
終戦後も戦闘を継続, その後シベリア抑留となり、1956年12月に復員した。
甘粕 重太郎
あまかす
 じゅうたろう
山形  陸軍士官学校(第18期
     陸軍大学校(第29期)
歩兵第32連隊中隊長、参謀本部員、歩兵第40連隊大隊長、
陸軍歩兵学校教官、第7師団参謀などを歴任 1930年8月、陸軍大佐
歩兵第15連隊長となり、上海事変転用され、馬占山軍の攻撃に従事。教育総監部庶務課長を経て、
1935年8月、陸軍少将 1
歩兵第9旅団長、陸士幹事、陸軍予科士官学校長を歴任し、
1938年7月、陸軍中将
陸軍戸山学校長を兼務した。1939年3月、新設の第33師団長に親補され、中国戦線で活動
1941年1月、駐蒙軍司令官となり、参謀本部付を経て1942年4月、予備役
荒木正二 大分、 陸大38期  昭和20年3月 独混32旅団長、歩兵79旅団長
安達二十三

 
 
陸士22期    石川県 昭和13年 3月  少将 関東軍附
陸大34期 昭和13年11月  第26歩兵団長
兄 十六(14)は陸軍少将 昭和15年 8月  中将 第37師団長
兄 十九(18)は陸軍中将 昭和16年11月  北支方面軍参謀長
ニューギニア方面の作戦を担当した 昭和17年11月  第18軍司令官
降伏後には戦犯として扱われ昭和21年)1月以降もムシュ島において服役を続けた
その後終身刑を宣告されながら部下の判決が全て下るのを待ち、
拘留中の部下8名の釈放が言い渡されると弁護団に礼を述べた後自決した
綾部 橘樹     きっじゅ   陸士27期  東京   昭和15年 8月  少将 第3軍参謀副長
陸大36期首席 昭和15年12月  ドイツ出張(山下使節団)
昭和16年 4月  参謀本部第4部長
昭和16年 7月  関東軍参謀副長
昭和17年 7月  第1方面軍参謀長
昭和17年12月  参謀本部第一部長
昭和18年10月  中将 南方軍総参謀副長
昭和19年 6月  第7方面軍参謀長
第7方面軍参謀長としてシンガポールで終戦を迎え
有末 次      やどる

 
陸士31期     北海道出身 昭和14年9月 関東軍作戦課長
陸大41期首席 昭和15年10月 大本営第20班長
長兄 有末精三(陸軍中将 昭和17年2月 香港占領地総督府参謀長
昭和17年11月 第8方面軍作戦課長
今村均大将を補佐する 昭和18年8月 少将 第8方面軍参謀副長
ラバウルへ飛行機で戻る途中で戦死 昭和18年8月 戦死(ラバウル) 中将
有末精三 北海道、 陸大36恩賜  昭和20年3月 参謀本部第2部長、北支那方面軍参謀副長
弟は有末次陸軍中将 戦死
雨宮巽
    
山梨、 陸大37期 第24師団長
支那駐在
青木成一 石川、陸大30期  昭和16年8月 第40師団長
大阪地区司令官
青木武三 山口、        昭和20年7月 第30戦闘飛行集団長、第20戦闘飛行集団
秋山義兌 予備 第137師団長
秋山豊次  
  
ぶんじ
石川、 陸大35期 昭和20年4月 第4航空軍参謀長、南方軍気象部長
英駐在
秋山義隆 岡山、陸大35期  昭和18年10月 留守55師団長、満州国軍政部最高顧問
仏駐在 シベリア抑留
秋山徳三郎 兵庫、 東大   昭和16年8月 燃料本部長
英駐在
朝野寅四郎 東京、 陸大38期 昭和20年4月 第308師団、支那派遺軍兵器部長
赤鹿 理  
  ただし
兵庫、       昭和17年8月 第122師団長、第13師団長
天谷直次郎 第40師団長
安部 孝一 宮城県出身, 陸軍大学校(39期) 1938年3月、第9師団参謀長として日中戦争
1944年5月、陸軍中将に進級 第107師団長
阿部定 大分、陸大31期  昭和15年8月 第51教育飛行師団長
相田俊二 山形、           昭和20年4月 第18歩兵団長、独混24旅団長
飯村 穣

  
陸士21期恩賜    茨城県出身 昭和14年8月 中将
陸大33期 昭和16年1月 総力戦研究所長
昭和16年10月  第5軍司令官
昭和18年10月 陸大校長 昭和19年3月 南方軍総参謀長
セレベス島 (オランダ領東インド東部) 昭和19年12月 第2方面軍司令官
昭和20年6月 東京防衛軍司令官 昭和20年7月 兼 東京師管区司令官
昭和20年8月 憲兵司令官
飯田 祥二郎
 
しょうじろう
山口県出身 、陸軍大学校(27期)
歩兵第44連隊大隊長、歩兵学校教官、第4師団参謀、歩兵学校教官、近衛歩兵第4連隊長
兵務局長、第1軍参謀長、台湾混成旅団長などを歴任 昭和12年)3月、陸軍少将
昭和14年)8月、陸軍中将 近衛師団長、第25軍司令官
第15軍司令官となり、ビルマ攻略を指揮  その前にタイ王国への平和進駐という任務を成功
防衛総司令部付、中部軍司令官を経て昭和20年)7月、関東軍隷下の第30軍司令官
ソ連軍と交戦、捕虜となる。終戦後5年間シベリア抑留,昭和25年)4月に復員
飯田泰次郎
 
千葉、陸大33期  昭和14年3月少将 昭和14年第35歩兵団長
 中将特進 日中戦争にて戦死 河南省
飯田 貞固 
  
さだかた
新潟県  陸軍士官学校(17期) 昭和3年)8月、騎兵大佐
      陸軍大学校(24期) 昭和8年)3月、陸軍少将、騎兵第3旅団長
昭和11年)12月、陸軍中将に進み騎兵監に就任。
昭和12年)8月、近衛師団長となり、第12軍司令官
参謀本部付となり、1941年(昭和16年)4月、予備役
飯沼 守
愛知、陸軍士官学校(21期) 昭和4年)3月、歩兵中佐
陸軍大学校(31期) 昭和8年)8月、歩兵大佐
(昭和12年)8月、陸軍少将
1937年8月、上海派遣軍参謀長に日中戦争に出征。第二次上海事変、南京攻略戦に参加。
昭和14年)10月、陸軍中将  第110師団長 昭和17年)8月、予備役
(昭和20年)2月に召集され、第96師団長となり済州島に赴任し終戦を迎えた
井桁 敬治

 
陸士27期     埼玉県出身 昭和14年 3月  第37師団参謀長
陸大37期 昭和16年 3月  少将 第11歩兵団長
満州海拉爾付近に駐屯した 昭和18年 2月  第6軍参謀長
トラック島 昭和19年 2月  第31軍参謀長
昭和19年 7月  自決(サイパン) 中将
磐井虎二郎
宮城、    昭和19年7月 第2歩兵団長、 第42警備司令官、 第108師団長
シベリア抑留
井上 貞衛
  
さだえ
熊本県  陸軍士官学校(20期)
同連隊大隊副官、第11師団司令部付、同師団副官、歩兵第12連隊大隊長、歩兵第10旅団副官、
横浜高等工業学校配属将校、独立守備歩兵第3大隊長、歩兵第5連隊長などを経て
1939年3月、陸軍少将 1942年4月、陸軍中将 第69師団長
1943年10月、第14師団長となり満州
1944年2月、南方に派遣されパラオ諸島方面の守備を担当した。
師団主力は米軍との交戦は無かったが空襲と飢餓で多くの損害を出し終戦を迎えた。
BC級戦犯指定を受けて逮捕された。容疑はパラオで捕虜になった米軍機搭乗員3名を処刑するよう
命じたというものである。グアム島で行われた戦犯裁判の結果、1949年4月、死刑判決を受けた。
1951年1月3日、終身刑に減刑された後に釈放された。
井上作巳
  
えなるみ
愛媛、 砲工校優等  昭和19年6月 飛行場設定練習部付、築城本部長、東京防衛軍付
諫山 春樹
いさやま はるき

 
陸士27期恩賜    福岡県出身 昭和15年 8月  少将 陸大附
陸大36期 昭和15年 9月  東部軍参謀長
昭和16年 6月  第25軍参謀長 昭和16年11月  第15軍参謀長
昭和17年12月  第26歩兵団長 昭和18年 3月  公主嶺校教導団長
昭和18年10月  中将 昭和19年 3月  第14軍参謀長
昭和19年 7月  台湾軍参謀長 昭和19年 9月  第10方面軍参謀長
1946年4月、戦犯容疑により逮捕され同年7月、終身刑の判決を受けた。
1955年9月に仮釈放となった
石黒 貞蔵 鳥取県  陸軍士官学校(19期) 大正13年)3月、歩兵少佐
昭和11年)3月、歩兵第2連隊長 昭和13年)3月、陸軍少将 歩兵第7旅団長
昭和15年)8月、陸軍中将 第28師団長 昭和18年)3月、第6軍司令官
第29軍司令官としてマレー半島に赴任し終戦
石本 寅三
兵庫  陸軍士官学校(23期)
     陸軍大学校(34期)を首席
騎兵第14連隊中隊長、陸軍省軍務局付勤務、ドイツ駐在、ドイツ大使館付武官補佐官を務める。
参謀本部付、陸軍兵器本廠付、参謀本部員兼陸大教官、兼軍令部参謀などを歴任
1933年4月、騎兵集団参謀となり、関東軍参謀、陸軍兵器本廠付
1936年8月、軍務課長に就任。以後、騎兵第25連隊長、駐蒙兵団参謀長を務め、
1938年3月、陸軍少将に
駐蒙軍参謀長、兵器本廠付、農林省馬政局次長、兵務局長など歴任。
1940年12月、陸軍中将
第55師団長に親補されたが、1941年3月、現職で死去
石井嘉穂   
  よしほ
山口、 陸大32期  昭和16年10月 第32師団長、昭和20年3月第2軍司令官代理
伊東 政喜
  
まさよし
大分県  陸軍士官学校(14期)
  陸軍大学校(24期)
野戦砲兵第17連隊中隊長、陸軍省兵器局課員、陸軍野戦砲兵射撃学校教官、
兵器局課員、第16師団参謀、
陸軍野戦砲兵学校教官、軍務局砲兵課長、同兵務課長、近衛野砲兵連隊長、
砲兵監部員などを歴任し、
1930年8月、陸軍少将に進級
野戦重砲兵第1旅団長、野戦砲兵学校教育部長、同校長などを経て、
1934年8月、陸軍中将
砲兵監、第3師団長を勤め、1937年8月、予備役に編入されたが、上海事変の勃発により
翌月に召集され、第101師団長となり出征。翌年9月に戦傷を受け帰国。
伊東 武夫 福岡、      昭和19年10月           第38歩兵団長 、独混40旅団長
稲村豊二郎 群馬、 陸大37期  昭和19年6月 樺太混成旅団長、 第153師団長
池田浚吉 福岡、  陸大37期 昭和18年10月 第35師団長
池田康二 愛知、       昭和12年4月 留守56師団兵務部長、 留守第56師団長
池田純久 大分、 陸大36期  昭和19年10月 関東軍総参謀副長、内閣総合計画局長
石本貞直 高知、       昭和19年5月 第50師団長
伊佐一男 東京、 陸大33期    昭和16年8月 留守56師団長、 第86師団長
井上芳佐 山口、 陸大33期    昭和19年10月 独混35旅団長、 第94師団長
岩永 汪
   
おう
福岡、 陸大35期  昭和18年6月 独混9旅団長、 第116師団長、第155師団長
井関 隆昌 広島、 陸大26期恩賜 昭和12年11月 昭和15年予備役から 17年陸軍司政長官
井関 仭    
  
みつる
兵庫、 陸大31期  昭和15年8月 昭和18年予備役から 東北軍兵務部長 第134師団長
  
井出鉄蔵 東京、 陸大29期   昭和14年10月 第32師団長  予備役
石河龍夫 愛媛、 東大火薬卒  昭和20年3月 燃料本部製造部長
今利龍雄 東京、         昭和19年10月 第8砲兵司令官 、 第125師団長
石川浩三郎 長野、 陸大35期  昭和19年10月 南方軍通信隊司令官、 第147師団長
石川愛 埼玉、 陸大39期  昭和20年3月 第9飛行団長、 第51航空師団長
岩切秀 鹿児島、        昭和20年4月 第206師団長
岩切義一
 
鹿児島         昭和20年6月少将 第4野戦輸送司令官  ウエワクにて戦死 
戦死にて中将
石田栄熊 鹿児島、 陸大39期  昭和20年3月 南方軍野戦鉄道司令官 、第303師団
石田乙五郎
 
広島、 東大政治卒  昭和20年4月 台湾憲兵隊司令官、 憲兵校長、憲兵司令部本部長
A級戦犯、米軍捕虜搭乗員殺害
  
石田 保忠      もりただ 東京、 陸大39期  昭和19年10月 第8国守隊長、 樺太混成旅団長
昭和19年11月没
石野芳男 千葉、 陸大38期  昭和20年4月 第229師団長
石原章三
 
大分、 陸大38期  昭和16年8月少将 第7野戦輸送司令官、 昭和18年5月 任中将
井原潤次郎 佐賀、 陸大39期  昭和13年3月 朝鮮軍参謀、 第17方面軍参謀長兼朝鮮軍管参謀長
磯田 三郎 陸士25期     群馬県出身 昭和14年 8月  少将 留守第14師団司令部附
陸大33期 昭和14年12月  アメリカ武官
昭和17年 8月  中将 帰国 参謀本部附 昭和17年11月  第22師団長
昭和19年 1月  南方軍遊撃隊司令官 昭和20年 1月  光機関長
磯村 武亮

 
陸士30期恩賜 東京 昭和15年11月  参謀本部ロシア課長
陸大39期首席 昭和16年10月  野砲第24連隊長
陸軍大将磯村年の長男として東京で生まれる 昭和17年10月  第15軍軍政監部総務部長
昭和18年 3月  少将 ビルマ方面軍参謀副長 昭和18年 8月  兼 ビルマ武官
ビルマ方面の作戦・防衛を担当した。 昭和19年 3月  第7方面軍参謀副長
南方軍隷下でシンガポール方面の作戦・防衛 昭和20年 7月  中部軍参謀副長
昭和20年 8月  殉職(飛行機事故) 中将 搭乗機が山梨県上空で撃墜され戦死
板花 義一 長野、 陸軍士官学校(23期) 昭和10年)3月、輜重兵大佐
陸軍大学校(35期) 昭和13年)7月、陸軍少将
昭和16年)3月、陸軍中将
昭和17年11月、新設の第6飛行師団長として出征。ラバウルに赴任し
東部ニューギニア方面での航空戦を指揮。
昭和19年4月、陸軍航空本部付に転じ、陸軍航空通信学校長を経て、
8月、第2航空軍司令官で満州に赴任
昭和20年)6月、予備役編入となった。
稲田正純

 

  
陸士29期      鳥取県日野郡 昭和16年7月 第5軍参謀副長
陸大37期恩賜 昭和16年10月 少将
兄は陸軍中将 坂西一良(23) 昭和17年7月 第5軍参謀長
インパール作戦実施に強硬に反対し更迭された 昭和18年2月 南方軍総参謀副長
昭和18年10月  第2野戦根拠地隊司令官 昭和19年8月 停職(第6飛行師団長心得)
昭和19年10月  第3船舶輸送司令官 昭和20年4月 中将
九州で本土決戦に備えていたが終戦を迎え 昭和20年5月 第16方面軍参謀長
昭和21年)8月、九州大学生体解剖事件及び油山事件の戦犯容疑で巣鴨プリズンに入所し
昭和23年)8月、横浜軍事法廷で重労働7年の判決を受けたが
昭和26年)6月に釈放された
岩崎 民男 山口県  陸軍士官学校(27期) 昭和9年)8月、歩兵中佐
       陸軍大学校(34期) 昭和12年)8月、朝鮮軍参謀 11月、歩兵大佐
東京帝国大学法学部 昭和15年)12月、陸軍少将 歩兵第39旅団長
昭和17年)11月、大東亜省張家口駐在公使に転じ
昭和19年)3月、陸軍中将 第111師団長
済州島で連合国軍の上陸に備えて防禦陣地の構築などを行っていたが、
戦闘を交えることなく終戦を迎えた。
岩仲 義治 陸士26期 昭和15年 8月  少将
陸大37期 昭和15年12月  第1戦車団長
昭和16年12月  千葉戦車学校長 昭和18年 6月  機甲本部長
昭和18年10月  中将
フィリピン ルソン島 昭和18年12月  戦車第2師団長
磯谷 廉介
いそがいれんすけ
 
兵庫、陸大33期  昭和17年8月
米駐在 第22師団長、南方軍遊撃隊司令官
南京軍事法廷に戦争犯罪人終身刑昭和27年)8月に釈放
 
磯矢伍郎 三重、 陸大37期  昭和20年4月   第2軍参謀長、 船舶参謀長 、参謀本部第3部長
伊藤 忍 宮城、 陸大35期  昭和20年4月 第1船舶団長 、第2船舶輸送司令官
伊藤知剛
  
ともたか
京都、 陸大32期  昭和14年3月 昭和16年予備役から 20年4月弘前師管区司令官
伊藤範治
 
のりはる
福井、         昭和20年4月 中部防空旅団長、西部高射砲集団長
高射第4師団長
 
上村 利道
 
熊本県   、陸軍士官学校(22期)
  陸軍大学校(34期)
歩兵第48連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員、歩兵第13連隊大隊長、第9師団参謀、臨時上海派遣軍参謀
台湾軍参謀などを歴任し 昭和9年)8月、陸軍大佐
昭和13年)3月、陸軍少将 昭和15年)12月、陸軍中将 、第3軍参謀長
昭和16年)4月、第29師団長
昭和16年)4月、第29師団長 昭和18年)10月、第5軍司令官
第36軍司令官として浦和にあって本土決戦に備える中で終戦を迎えた。
上野源吉 山形、          昭和20年3月少将 独混86旅団長  戦死にて中将
上野勘一郎 和歌山、 陸大33期  昭和14年10月 開戦時予備役 後 和歌山地区司令官
鵜沢 尚信
うざわ なおのぶ
千葉  陸軍士官学校(28期)
     陸軍大学校(38期)を優等 1931年8月、歩兵少佐
1931年(昭和6年)5月から1933年(昭和8年)7月までドイツ駐在
昭和13年)7月、歩兵大佐 昭和16年)10月、陸軍少将 歩兵第130旅団長
昭和17年)12月、第17独立守備隊長 昭和20年)3月、陸軍中将
第129師団長に就任。恵州、淡水の警備に当たり終戦を迎えた
上村利通 熊本、 陸大34期    昭和15年12月 第5軍司令官 、 第36軍司令官
上村 幹男 山口、陸軍士官学校(24期) 大正15年)9月ドイツに駐在
  陸軍大学校(33期)
昭和6年)11月、陸大教官となり、近衛師団参謀、台湾軍参謀、陸大教官、歩兵第76連隊長
昭和13年)7月、陸軍少将に進級し歩兵第5旅団長
日中戦争に出征し武漢作戦に参加した。台湾軍参謀長、第64独立歩兵団長を歴任
昭和16年)8月、陸軍中将 昭和18年)3月11日、第57師団長
昭和20年)3月、第4軍司令官
ソ連軍と交戦を行う中、ハルビンで終戦を迎えシベリア抑留となった。
昭和21年)3月、ハバロフスク収容所で自決した。
内山 英太郎

 
東京、陸軍士官学校(21期) 昭和5年)5月までフランスに私費留学
陸軍大学校(32期) 昭和8年)8月、砲兵大佐
昭和12年8月、陸軍少将に野戦砲兵学校幹事 昭和14年)10月、陸軍中将
その後、第3軍司令官、第12軍司令官を経て、昭和20年4月に第15方面軍司令官に発令され
大阪で本土決戦に備えていたが終戦を迎えた。
1946年7月、戦犯容疑により逮捕され、1949年(昭和24年)1月に重労働40年の判決
昭和33年)4月に仮釈放
内田孝行 山梨、 陸大36期     昭和16年10月 第70師団長
内田銀之助
 
東京、 陸大34期   昭和19年7月 混成5旅団長、 第118師団長
戦犯
植山英武
 
大分、 陸大42期  昭和19年3月 少将 関東防衛軍参謀、 独立第1歩兵団長
  20.8.4戦死にて中将へ特進
牛島貞雄 熊本、 陸大24期    昭和6年8月 予備役より17.10 陸軍司政長官
絵野沢静一 埼玉、 東大機械卒 第2航技研所長、航本技術部長
英駐在
遠藤三郎 山形、 陸大34期恩賜 昭和17年12月  航士校長、航本総務部長、軍需省航空兵器総局長官
仏駐在
大須賀 応
   
まこと
 
北海道   陸軍大学校(39期) 昭和13年)7月、砲兵大佐 野砲兵第22連隊長
昭和15年)8月、第116師団参謀長 昭和16年)10月、陸軍少将
昭和17年)3月、基隆要塞司令官 昭和19年)2月、父島要塞司令官
同年5月、混成第2旅団長、同年12月、第109師団司令部付
硫黄島の戦いに参戦し、1945年(昭和20年)3月、最後の総攻撃で戦死
陸軍中将に特進
大場 四平
おおば しへい
宮城県 陸軍士官学校(22期) 昭和11年)8月、歩兵大佐
昭和14年)8月、陸軍少将、留守第10師団司令部付 昭和15年)8月、第10歩兵団長
昭和17年)8月、陸軍中将に進み第16師団長
昭和20年)6月、東京湾兵団司令官兼東京湾要塞司令官に発令され、アメリカ軍の上陸に備え終戦
尾崎 義春  北海道 陸士官学校23期・ 陸軍大学校31期 昭和10年12月 歩兵大佐・秋田連隊区司令官
関東軍に出仕し、1928年の張作霖爆殺事件には河本大作大佐の部下として実行部隊を指揮する。
その後、日中戦争では独立混成第13旅団長として出動し、淮南で新四軍と激戦を繰り広げた。
日米開戦後は第19師団長に親補され、北朝鮮からフィリピンへと転戦。リンガエン湾・
プロム山の戦闘では圧倒的兵力を誇る米軍相手に善戦敢闘した。 
圧倒的兵力を誇る米軍相手に善戦敢闘した。
昭和13年)12月 - 陸軍少将・歩兵第20旅団長 昭和16年8月 - 陸軍中将
大野広一 岐阜、 陸大38期   昭和20年4月 関東憲兵隊司令官、 第11師団長
大城戸三治 兵庫、 陸大36恩賜 昭和16年11月  第22師団長、北支那方面軍参謀長、憲兵司令官
大木繁 東京、      昭和18年8月 中支那派遺憲兵隊司令官、
関東憲兵隊司令官 シベリア抑留
太田勝海 第22師団長
太田貞昌 東京、           昭和19年10月 第79師団長
太田米雄 神奈川、 陸大33期   昭和18年6月 第65師団長、予備役
大賀茂 熊本、 陸大30期 第34師団長 後、予備役より第72師団長
独駐在
大迫通貞 鹿児島、陸大35期   昭和16年8月 第47師団長、予備役後、鹿児島地区司令官
及川源七 東京、 陸大32期    昭和16年3月 第23師団長、 予備役
岡田資
おかだたすく
  
鳥取、 陸大34期 戦車第2師団長、 第13方面軍司令官
戦犯(本土空襲B-29撃墜され捕虜となった米軍の搭乗員27名を自らの命令で処刑した
1949年9月17日、巣鴨プリズンにて絞首刑が執行された
岡本清福
 
石川、 陸大37期恩賜 南方軍総参謀副長、大本営参謀 、スイス駐在武官
独駐在 20.8.15 スイスのチューリッヒで自決自決
岡本保之 京都、          昭和17年4月 第36師団長、第10師団長
小川権之助 三重、          昭和20年3月 第5方面軍兵器部長、 第89師団長
落合忠吉 栃木、 陸大34期   昭和16年10月 第77師団長
落合鼎五 宮崎、 陸大37期 昭和20年4月 第225師団長
落合松二郎 島根、          昭和20年4月 第60師団長、第10師団長
小倉 達次
東京都  陸軍士官学校 明治43年)12月26日 陸軍少尉
昭和11年)8月1日 陸軍騎兵大佐 昭和15年)3月9日 陸軍少将・騎兵第4旅団長
昭和19年)3月1日 陸軍中将・留守第54師団長 昭和19年)7月8日 第84師団長
昭和20年)2月20日 第131師団長
新設の第131師団の師団長として粤漢鉄道沿線の警備に当たった。
大前憲三郎 奈良、 東大物理卒     昭和20年4月 陸地測量部長
岡崎 清三郎 島根県出身
1914年5月、陸軍士官学校(26期) 1925年5月、皇族(秩父宮雍仁親王)付武官
日中戦争に支那駐屯歩兵第2連隊長 1939年8月、陸軍少将
歩兵学校幹事、教育総監部第1部長、
歩兵学校幹事、教育総監部第1部長、 第16軍参謀長として出征
本土決戦に第2総軍参謀長として広島に駐在   1942年12月、陸軍中将
原爆投下により重傷を負い終戦 第2師団長、軍需官
1948年4月から二年間、戦犯容疑で拘留 1949年12月、オランダ法廷で無罪判決
小畑敏四郎 高知、 陸大23恩賜   昭和11年3月 戦後 国務大臣 
ロシア駐在      永田鉄山、岡村寧次と同期の三羽烏と称せられた偉人
小原一明 愛媛、 陸大36期  昭和20年4月 第145師団長
小田健作
 
福岡、       昭和15年8月 少将 南海支隊  18.1.21 自決
自決にて 中将特進 ポートモレスビー作戦(ニューギニア)
大谷修 山形、           昭和20年4月 兵本独国駐在官
大橋熊雄
 
新潟、 陸大39期    昭和17年8月 少将 山東省特務機関長、北支那方面軍特務部長 
戦死にて 中将 特進 19.4.14 戦死
緒方敬志
 
熊本、       昭和15年3月 大佐 テニアン 戦死
二階級特進で 中将
緒方辰義 鹿児島、 東大機械卒 第一航技研所長、航空審査部品部長
米駐在
岡部英一
 
東京、 陸大41期    昭和19年8月 少将 第29師団参謀長、 グアム島戦死
戦死にて 中将 特進
沖 静夫
 
宮崎、           昭和20年3月 少将 留守51師団参謀長 、第35軍司附
戦死にて中将 特進  20.7.3戦死
奥村半二 兵庫、 陸大35期    昭和20年3月 歩兵64旅団長、新潟輸送統制部長
小園江邦雄
おそのえ
茨城、 陸大38期    昭和16年8月 少将 第26歩兵団長、 第11軍参謀長 航総附
任 中将  19.5.20 没
 
萱嶋 高
かやしま たかし
宮崎県  陸士21期、陸大32期      昭和10年3月7日 陸軍歩兵大佐・天津駐屯歩兵隊長
昭和13年7月15日陸軍少将・歩兵第136旅団長 昭和14年11月15日 独立混成第18旅団長
昭和16年3月9日陸軍中将・留守第6師団長 昭和18年)6月10日 第46師団長
昭和18年10月15日 予備役 昭和18年11月1日 召集・留守第6師団長
昭和20年)6月29日 宮崎市長
影佐 禎昭

 

 
陸士26期      広島県沼隈郡 昭和13年 6月  軍務局軍務課長
陸大35期恩賜 昭和14年 8月  少将
昭和14年 9月  支那派遣軍附 昭和15年 4月  南京政府軍事顧問
軍務課長を歴任し日中戦争初期の戦争指導に当たった
昭和17年 5月  第7砲兵司令官 昭和17年12月  中将
ラバウルの第38師団長へ転任 昭和18年 6月  第38師団長
(昭和20年)12月に中国政府から戦犯指名を受け身柄を要求されたが肺結核のため
裁判に至らず昭和21年)5月復員し入院 昭和23年)55歳で獄死した
片村 四八
かたむら しはち
広島県出身   陸軍大学校(35期)
歩兵第41連隊中隊長、参謀本部付勤務、参謀本部員、陸大教官、歩兵第73連隊大隊長
昭和13年)7月、陸軍少将 昭和16年)8月、陸軍中将に進み第54師団長
インパール作戦後の戦力の再建に努力 昭和19年)9月、第15軍司令官
第15軍は第18方面軍に編入 ランパンにおいて終戦
片岡 董
かたおか ただす
 
兵庫、 陸軍士官学校(27期) 昭和13年)3月、騎兵大佐 第104師団参謀長
陸軍大学校(37期) 昭和16年)3月、陸軍少将に昇進し騎兵第3旅団長
昭和18年)2月、第5軍参謀長 昭和19年)8月、第1師団長心得
昭和19年)10月、陸軍中将に進級し第1師団長
レイテ島の戦いにおいて苦闘を続けたが敗退。終戦をセブ島
片桐 茂

 
愛媛県   陸軍士官学校(25期) 昭和12年8月、騎兵大佐、第1師団参謀長
陸軍大学校(36期) 昭和14年8月、陸軍少将 騎兵第1旅団長
昭和17年12月、陸軍中将 昭和18年第20師団長ニューギニア戦線に出征
1944年4月、ホーランジアの戦いの中、マダンからウェワクへ移動中に戦死した。
加藤怜三 東京、 陸大34期  昭和17年4月 第3工兵隊司令官 、第25師団長
加藤尹義 広島、       昭和14年8月 少将 航空整備校長、立川航空整備校長
任 中将
加藤泊治郎 山口、       昭和18年10月 関東憲兵隊司令官、
北支那派遺憲兵隊司令官 シベリア抑留 
河田末三郎 愛知、陸大35期   昭和18年6月 関東軍水上司令官、第73師団長
河野悦次郎 愛媛、 陸大36期  昭和18年6月中将 第53師団長、第12軍参謀長
金岡 ?    
  
たかし
佐賀、陸大34期   昭和18年10月 中部防空旅団長、高射第一師団長
鎌田銓一 東京、京大土木率  昭和20年3月 関東軍野戦鉄道司令官、第2野戦鉄道司令官
川久保鎮馬 東京、陸大40期   昭和20年4月 第6歩兵団長
川越守二 鹿児島、陸大36期  昭和20年4月 第1船輸司大阪支部長、兼大阪輸送統制部長
管 晴次 佐賀、砲工校優等  昭和16年11月 兵政本総務部長、技術部長事務取扱
東大造兵率、英仏駐在
笠原嘉兵衛 宮城、 陸大39期  昭和20年4月 第222師団長
笠原 幸雄

 
陸士22期恩賜    宮城県 昭和12年 8月  少将 関東軍参謀副長
陸大30期恩賜 昭和13年 1月  ドイツ出張
昭和13年12月  参謀本部総務部長
ロシア通の参謀として知られていた。 昭和14年 9月  北支方面軍参謀長
昭和14年10月  中将 昭和16年 3月  第12師団長
昭和17年 8月  関東軍総参謀長兼補給監
桂林や湖南省方面 昭和20年 4月  第11軍司令官
第11軍は、湘桂作戦発動の為に1944年(昭和19年)に新設され、10ヶ師団40万人の規模であった。
また、「焼くな・殺すな・盗むな」のいわゆる「三戒」にて、一人も戦犯を出さずに本土に帰還できた。
加藤 鑰平 陸士25期 昭和14年 9月  朝鮮軍参謀長
陸大36期 昭和16年 3月  南支方面軍参謀長
昭和16年 6月  第23軍参謀長 昭和16年 9月  参謀本部第3部長
昭和17年 8月  中将
ニューブリテン島ラバウルに司令部を置いた 昭和17年11月  第8方面軍参謀長
終戦まで
賀陽宮
 恒憲王

かやのみや
 つねのりおう
陸士32期 昭和15年12月  少将 騎兵第2旅団長
陸大38期 昭和16年 7月  近衛混成旅団長
昭和17年 3月  戸山学校長 昭和18年 3月  中将 留守第3師団長
昭和18年 6月  第43師団長 昭和19年 4月  留守近衛第2師団長
昭和20年 3月  陸大校長
昭和20年 3月  陸大校長 昭和53年)1月3日 死去 
川上 清志

 
陸士30期 昭和16年12月  第2飛行集団(のち師団)参謀長
陸大40期恩賜 昭和18年 1月  第2航空軍参謀副長
昭和18年 3月  少将 昭和18年 5月  第2航空軍参謀長
昭和19年 6月  浜松教導飛行師団長
両師団は南方方面に転出となった。 昭和19年11月  第3航空軍参謀長
昭和19年12月  戦死(マレー沖) 中将
川並 密
 
ひそか
茨城県 陸軍士官学校(24期)
  陸軍大学校(35期) 昭和11年)8月、歩兵大佐
南京攻略戦、徐州会戦、武漢作戦に参加 昭和14年)3月、陸軍少将
昭和16年)10月、陸軍中将に進み第14師団長 昭和17年)12月、通信兵監
昭和19年)7月、第44師団長
昭和19年)7月、第44師団長 昭和20年)3月、通信兵監に再任され終戦
川俣 雄人 第58師団長
河辺虎四郎
 
陸士24期       富山県出身 昭和13年 7月  少将
陸大33期恩賜 昭和13年10月  ドイツ武官
昭和15年 9月  第7飛行団長 昭和16年 7月  防衛総参謀長
昭和16年 8月  中将 昭和16年12月  航空本部総務部長
昭和18年 5月  第2飛行師団長 のち第2航空軍司令官
昭和19年 8月  航空総監部次長 昭和20年 4月  参謀次長
柏 徳 茨城、        昭和20年3月 第316師団
河原 利明 鹿児島、       昭和14年3月 少将    南方航空輸送司令
任 中将 17.10墜落にて戦死
河田 槌太郎 北海道上川郡 (明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)
昭和12年)8月、歩兵大佐 昭和15年)3月、陸軍少将
昭和16年)7月、近衛混成旅団長
イラワジ会戦などで苦戦 昭和19年)6月、陸軍中将
第31師団長
河村 参郎

 
陸士29期恩賜     石川県出身 昭和16年 3月  歩第213連隊長
陸大36期恩賜 昭和16年10月  少将 歩第9旅団長
陸軍中将 昭和17年12月  印度支那駐屯軍参謀長
鈴木重康(17)の弟
昭和19年12月  第38軍参謀長 昭和20年 3月  中将
昭和20年 7月  第224師団長 昭和20年 9月  中国軍管区兼第59軍参謀長
昭和21年)9月に戦犯容疑で逮捕された参謀長時のシンガポール華僑虐殺事件に関わったとの容疑
昭和22年)4月に死刑判決が出され、同年6月26日、シンガポールで刑が執行された。
河村 董 東京、陸大31期  昭和13年3月 予備役より20年岡山地区司令官
唐川 安夫 広島  陸軍士官学校(29期) 陸軍大学校(39期)
昭和16年)10月、陸軍少将     昭和17年12月1日、支那派遣軍総参謀副長
昭和19年)12月14日、第6方面軍参謀長 昭和20年)3月1日、陸軍中将
第205師団長に補され、高知県において本土決戦に備え終戦を迎えた
神田 正種

 
陸士23期  愛知県出身 陸大31期 昭和13年 7月 少将 教育総監部第1部長
昭和14年10月  参謀本部総務部長 昭和16年 3月  中将
第6師団は快進撃を続け漢口一番乗りを果たし10月26日に占領する  昭和16年4月第6師団長
ブーゲンビル島の戦いに従軍し終戦を迎えた。 昭和20年4月 第17軍司令官
BC級戦犯容疑により起訴され1948年11月、禁固14年の判決を受け
1952年8月に釈放された
岸川健一 佐賀      昭和20年3月 独混17旅団長、第63師団長
北野 憲造
   けんぞう
滋賀、陸軍士官学校(22期) 陸軍大学校(31期)  教育総監部付勤務、教育総監部課員、ドイツ駐在、
教育総監部課員、歩兵第3連隊大隊長、教育総監部課員、陸軍省人事局課員などを歴任
(昭和8年)8月、歩兵大佐 昭和12年)8月、陸軍少将
昭和15年)7月、第4師団長 中国戦線で活動 昭和20年)9月、第12方面軍兼東部軍管区司令官
北川一夫 広島、陸大33期  昭和19年7月 歩56旅団長、第66師団長、予備役
北沢貞次郎 兵庫、       昭和19年10月 第3船舶輸送司令官、 第123師団長
北島卓美 佐賀、陸大37期  昭和14年8月 少将 東部軍参謀長、17.9.29
任 中将
北島熊男 岡山、陸大40期  昭和20年4月 第18飛行団長、第11飛行団長
北島 驥子雄
きたじま きねお
栃木県、  陸軍士官学校(20期) 1938年7月、陸軍少将
1939年8月、舞鶴要塞司令官 1941年3月陸軍中将 第1砲兵司令官
香港、フィリピンを転戦し、その後満州に移動した。
1944年3月、予備役に編入されたが、翌月に召集され高雄要塞司令官を務めた
1945年3月、最後の重砲兵学校長となり同校で四度目の務めを果たした。
木下 勇 福井県  陸軍士官学校(26期) 昭和12年)8月、騎兵大佐
       陸軍大学校(37期)を優等 昭和14年)8月、陸軍少将 、騎兵第3旅団長
昭和18年)6月、陸軍中将
第4飛行師団長、第2飛行師団長を歴任し 第4航空軍司令官・富永恭次中将と対立・更迭され、
昭和19年)11月、南方軍総司令部付となる
第55航空師団長に就任しシンガポールの防空を担当
昭和20年)6月、東部軍管区司令部付となった。翌月7日、山梨県上空で搭乗機が墜落し戦死。
没後、功一級金鵄勲章を受章
木下栄市 福岡、陸大37期  昭和20年4月 中支那派遺憲兵隊長、憲兵校長
木下 敏 陸士20期恩賜    和歌山藩士 昭和13年12月  航空士官学校長
陸大29期恩賜 昭和14年3月  中将
昭和14年9月 第3飛行師団長 昭和16年9月 航空士官学校長
昭和17年12月 関東防衛軍司令官 昭和18年12月  第3航空軍司令官
南馬来軍司令官としてシンガポールで終戦を迎えた
木村経広 京都、陸大32期  昭和17年4月 築城本部長、第110師団長
木村 松治郎
きむら まつぢろう
奈良県  陸軍士官学校(27期) 昭和12年)11月、歩兵大佐
  陸軍大学校(38期) (昭和13年)7月、歩兵第57連隊長
昭和15年12月2日、陸軍少将 昭和18年)2月11日、北方軍参謀長
昭和19年3月、陸軍中将 第5方面軍参謀長
同年12月26日、第4師団長に親補されスマトラ島に赴任。ビルマ方面の戦局悪化に伴い、
第15軍隷下となり、タイのランパンに進出したが、同地で終戦を迎えた。
公平 匡武

 
陸士31期恩賜 昭和15年 8月  野砲20連隊長
陸大39期 昭和16年 9月  第4軍高級参謀
昭和17年 8月  第4軍参謀長 昭和18年 8月  少将
ニューブリテン島ラバウルに司令部 昭和18年 9月  第8方面軍参謀副長
昭和19年 6月  第31軍参謀副長 昭和19年 7月  戦死(サイパン島) 中将
吉川 資      たすく 山口、       昭和20年3月 少将 留守56師司附 、歩53旅団長
戦死にて 任中将 20.5.7 戦死
久徳 知至
きゅうとくともよし
大阪、       昭和19年6月 中支那野戦兵器廠長、第1総軍兵器部長
行徳守治 福岡、       昭和18年6月 関東軍兵事部長
葛目 直幸

 
陸士25期 昭和14年 8月  丸亀連隊区司令官
昭和16年 4月  高松連隊区司令官 昭和16年 7月  歩第222連隊長
ニューギニア戦線における戦闘の1つ 昭和19年 7月戦死(ビアク島)中将 二階級特進
草場 辰巳
くさば たつみ
滋賀、  陸軍士官学校(20期) 1931年8月、歩兵大佐
 陸軍大学校(27期) 昭和11年)8月、陸軍少将  第19旅団長
昭和14年)3月、陸軍中将、関東軍野戦鉄道司令官 太平洋戦争を関東防衛軍司令官
昭和17年)12月、第4軍司令官
昭和19年)12月、予備役に編入された。同月、召集を受け大陸鉄道司令官となり終戦を迎えた。
昭和20年)9月からシベリア抑留 9月20日未明、隠し持った青酸カリを飲んで自殺した。
櫛淵 ?一
くしぶちせんいち
東京  、陸軍士官学校 陸軍大学校(33期)
大正14年)9月からイギリス駐在     大正14年)9月からイギリス駐在
大正14年)9月からイギリス駐在 昭和13年)7月、第1軍参謀副長
陸軍少将進級 第1軍参謀長
16年8月、陸軍中将に進級し、留守第3師団長 同年8月、陸軍中将に進級し、留守第3師団長
昭和18年)3月から第28師団長
昭和20年)年1月から第34軍司令官に就任する。終戦後シベリアに抑留
昭和25年)4月17日、引揚船で舞鶴に帰港し復員する
櫛淵の乗った引揚船「明優丸」には第30軍司令官だった飯田祥二郎中将外陸軍将官32名、
海軍将官8名を含む凡そ1600名が乗船していた
久保偵三 群馬、東大土木卒  昭和20年4月 防衛総司令部築城部長、第4野戦鉄道司令官
久野村桃代
くのむら とうだい
陸士27期     高知県出身 昭和15年12月  少将 第36歩兵団長
陸大37期 昭和16年10月  陸士幹事
インパール作戦では前任者の小畑信良少将に 昭和18年 5月  第15軍参謀長
代わって第15軍参謀長 昭和19年 3月  中将
スマトラ島守備に従事 昭和19年10月  近衛第2師団長
国武三千雄 福岡、陸大39期  昭和19年10月 第15方面軍参謀長兼中部軍管参謀長
国崎 登 広島、陸大32期  昭和14年3月  予備役より留守第7師団長、旭川師管区司令官
葛目直幸 高知、         昭和14年8月  大佐 歩222聯隊長
任 中将 (二階級特進) 19.7.2 ビアク島戦死
楠本実隆 東京、陸大33期   昭和16年10月 満州国軍政部最高顧問
楠山秀吉 和歌山、 陸大   昭和15年12月 少将 独混17旅団長 
昭和16年12月北支那にて戦死により 中将 16・12・3 殉職
来栖 猛夫

 
陸士27期 昭和16年 3月  歩第220連隊長
昭和18年 3月  公主嶺校教官 昭和19年 3月  少将 公主嶺校教導団長
昭和19年 6月  第68旅団長 昭和20年 8月  戦死(ルソン島) 中将
黒田 重徳

 
陸士21期   福岡県柳川市 昭和12年10月  第26歩兵団長
陸大28期 昭和13年11月  第4独立守備隊司令官
昭和14年 8月  中将 第26師団長 昭和16年 7月  教育総監部本部長
昭和17年 7月  南方軍総参謀長
昭和18年5月 第14軍司令官 フィリピン・ルソン島
昭和19年 7月  第14方面軍司令官 昭和19年12月  予備役
1945年9月、A級戦犯として逮捕され横浜刑務所に収監
1949年7月、BC級戦犯としてマニラ軍事裁判で終身刑の判決を受けた。
1951年10月23日、大統領の特赦をもらい仮釈放され、翌52年2月、帰国
黒岩義勝 高知、        昭和14年10月 予備役より高知地区司令官
久納 誠一
くのう せいいち
東京  陸軍士官学校(第18期)  陸軍大学校(第26期)を優等
陸軍省軍務局付勤務、伏見宮貞愛親王副官などを経てフランス駐在となり、1818年11月から一年間、
ルーマニアのフランス軍に従軍した。
1923年7月、陸相秘書官となり山梨半造大臣に仕えた。朝鮮総督秘書官、騎兵第28連隊長、陸大教官、
陸軍騎兵学校教官、第8師団参謀長 1935年3月、陸軍少将
1938年3月、陸軍中将
軍馬補充部本部長、第18師団長、第22軍司令官、参謀本部付などを歴任。1941年1月、予備役
小路 弥八 佐賀、          昭和20年4月 第2軍兵器部長、南方軍兵器部長
小池国英 長野、東大造兵卒  昭和17年12月 兵政本技術部長、千葉高射校長
小松光彦 高知、 陸大38期  昭和20年3月 駐独武官
小谷一雄
 
東京        20.6 馬政局事務官、広島聯区司令官
任 中将 20.8.6 原爆死
洪 思翔 朝鮮出身 陸士26期 陸大35期 昭和16年 3月  少将 歩108旅団長
昭和17年 4月  公主嶺学校附 昭和19年 3月  比島俘虜収容所長
昭和19年10月  中将 昭和19年12月  第14方面軍兵站監
マニラ軍事法廷で戦犯として1946年4月18日に死刑判決を受け、同年9月26日にマニラで処刑された。
古閑 健 陸士25期恩賜 昭和14年 8月  少将 歩7旅団長
陸大33期 昭和15年 8月  豊橋予備士官学校校長
昭和16年 9月  公主嶺学校教導団長 昭和17年12月  中将 第55師団長
昭和19年 1月  留守第51師団長 昭和19年 4月  第81師団長
駒村利三 新潟、東大航空卒  昭和20年3月 航技研総務部長、 航空兵器総局第1局長
小林浅三郎 陸士24期    兵庫県出身 昭和16年 7月  第4軍参謀長
陸大34期 昭和16年 8月  中将
昭和16年12月  防衛総参謀長
南方に転用され第35軍に編入 昭和18年 6月  第30師団長
フィリピン・ミンダナオ島守備を担当した。レイテ島の戦い 昭和19年3月 防衛総参謀長
昭和20年2月 支那派遣軍総参謀長  南京で終戦を迎えた
小林 隆 三重、陸大36期  昭和20年3月 第6国守隊長、 マニラ防衛司令官
20.8.8 戦死
小林 信男 大阪府 陸軍士官学校(22期) 昭和10年)8月、砲兵大佐
陸軍野戦砲兵射撃学校(乙種学生) 昭和15年)3月、野戦重砲兵第2旅団長
昭和16年)8月、陸軍中将 昭和17年)4月、第60師団長に親補され上海・蘇州
昭和20年)6月、第54軍司令官となり、愛知県新城に在って本土決戦に備えていたが、
交戦することなく終戦を迎えた
上月 良夫
こうつき よしお
熊本県、陸士21期、陸大29期 昭和12年)8月2日 陸軍少将
昭和14年)10月2日 陸軍中将    第19師団長
昭和17年)7月1日 第2軍司令官
昭和18年)5月28日 駐蒙軍司令官 昭和19年)11月22日 第11軍司令官
後藤 光蔵
大分県 陸軍士官学校(29期) 1938年7月、歩兵大佐
 陸軍大学校(38期)を首席 昭和16年)10月、陸軍少将 教育総監部総務部長
昭和19年)4月、第2方面軍参謀副長 昭和20年)3月、陸軍中将 第1総軍参謀副長
近衛第1師団長に就任し終戦処理を実行した。
近藤 新八
香川  陸士28期、陸大41期 昭和13年)7月15日 陸軍歩兵大佐・奉天憲兵隊長
昭和15年)12月2日 歩兵第224連隊長 昭和17年)3月11日 第37師団参謀長
昭和18年)10月29日 台湾軍参謀長 昭和19年)7月8日 独立混成第19旅団長
昭和20年)4月15日 陸軍中将・第130師団長
広東にて連合軍の中国南部上陸に備えた。戦後戦犯に指名され、昭和22年10月広東で死刑(銃殺)
古賀龍太郎 福岡、       昭和20年3月 歩52旅団長、 第127師団長
小泉恭次 山形、陸大27期         予備役より 東部軍管区兵務部長、第142師団長
21.12.10 自決
小柳津政雄 東京、東大化学卒 昭和20年4月 第6技研所長、近畿軍需監理部長
小倉達次 東京         昭和19年3月 駐蒙軍情報部厚知支部長、第131師団長
小倉 尚 茨城、東大建築卒 昭和17年12月 陸地測量部長
独駐在 18.9殉職 台湾
菰田康一 静岡、陸大30期恩賜 昭和14年10月 第104師団長、予備役後京城師管区司令官
河野 毅 山口、        昭和20年3月 第11独守隊長、独混31旅団長、歩77旅団長
マニラ 法務死
国分新七郎 三重、陸大35期  昭和19年10月 第1独歩守隊長、第16軍参謀長、第46師団長
権藤 恕   
  
はるか
宮崎、        昭和19年3月 少将 第13船舶団長、 兵政補給部長
20.6 任中将
 
斎藤 義次

 
陸士24期     宮城県出身 昭和13年7月 留守第5師団参謀長
陸大36期 昭和14年8月 少将 関東軍補充馬廠長
昭和16年10月 軍馬補充本部長 昭和17年12月 中将
昭和19年4月 第43師団長 昭和19年7月 戦死(サイパン島)
斎藤 弥平太
  
やへいた
香川県  陸軍士官学校(19期) 陸軍大学校(26期)  昭和5年)8月、歩兵大佐
昭和7年)8月、関東軍参謀となり、歩兵第6連隊長
昭和10年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第28旅団長
昭和10年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第28旅団長    昭和13年)3月、陸軍中将
第101師団長に親補され日中戦争に出征
昭和17年)7月、第25軍司令官
1943年8月、朝鮮総督府指導者養成所長に就任     昭和18年4月、参謀本部付となり、予備役
昭和21年5月14日、中共軍に抑留された後、消息不明となった。1953年9月28日に戦時死亡宣告がなされた。
佐伯 文雄 陸士23期 昭和13年 7月  少将
陸大33期 昭和13年11月  歩104旅団長
昭和15年 5月  第1船舶輸送司令部附
昭和15年 5月  第1船舶輸送司令部附 昭和15年 9月  船舶輸送司令官 兼運輸本部長
昭和16年 3月  中将 昭和18年 4月  第26師団長
昭和19年 7月  船舶輸送司令官 兼運輸本部長
酒井 直次

 
陸士23期    山形県西田川郡 昭和13年 7月  少将 歩19旅団長
陸大32期 昭和15年 2月  通信校長
酒井の第15師団は中国大陸で交戦するが 昭和16年 3月  中将
暗号通信の権威として知られる 昭和16年 8月  第15師団長
昭和17年5月28日乗馬が地雷を踏み戦死する 昭和17年 5月  戦死(中支)
酒井 隆

 
広島県   陸軍士官学校(20期 1932年大佐
陸軍大学校(28期) 1937年、少将任官と同時に歩兵第28旅団長
1939年中将 1941年11月、第23軍司令官
1943年4月、予備役
中国国民党政府に戦犯容疑で逮捕された。 1946年8月27日、南京軍事法廷で死刑判決
同年9月30日、南京雨花台で銃殺刑に処された。
坂口 静夫 熊本  陸軍士官学校(22期) 1937年8月、陸軍大佐
1937年11月、第16師団司令部付 1939年9月、陸軍少将に進級。歩兵第12旅団長
第56歩兵団長            
フィリピンの戦い、蘭印作戦、拉孟・騰越の戦いなどに従軍。
1943年6月、陸軍中将となり留守第55師団長に就任、さらに第65師団長に親補された。
1945年3月に待命となり、翌月に予備役となった。
坂口芳太郎 大阪、陸大32期  昭和16年11月 南方軍総参謀副長、 東海軍需監理部次長
坂戸直孝 石川、        昭和20年4月 第5航空技術研究所長
坂本末雄 熊本、陸大35期  昭和20年4月 第4船舶輸送司令官、独混39旅団長
桜田 武 宮城、陸大37期  昭和17年12月 船舶兵団長、
18.9.10 墜落死
桜庭子郎 青森、        昭和20年3月 独混82旅団長
桜井 省三

 
陸士23期恩賜 名古屋で生れる 昭和13年 3月  少将 中支碇泊場監
陸大31期恩賜  山口県萩市 昭和13年 7月  第22歩兵団長
昭和14年 9月  第13軍参謀長 昭和15年12月  中将
ビルマ攻略戦に従軍 昭和16年 1月  第33師団長
昭和18年 3月  機甲本部長
ビルマ西南海岸防衛を担当 昭和19年 1月  第28軍司令官
インパール作戦に連動して南ビルマで陽動作戦(第二次アキャブ作戦)を指揮する
終戦をモールメンで迎えた。
帰国までの約2年間、将兵と共に質素なキャンプ生活を送された。
佐々木 登   
   みのる
広島県  陸軍士官学校(26期)
      陸軍大学校(35期)を優等
騎兵第5連隊中隊長、陸軍省軍務局課員、ポーランド・ソ連駐在、軍務局課員、陸大専攻学生、
陸大教官兼参謀本部員、第3師団参謀、農林省馬政局資源課長などを経て、
1939年8月、陸軍少将に進級。
第6軍参謀長、陸軍機甲本部付、南東支隊長を歴任し、第8方面軍司令部付の
1944年10月、陸軍中将となりラバウルで終戦
佐々木 到一
 
  とういち 
愛媛 陸軍士官学校(第18期)同期に山下奉文大将・岡部直三郎大将・阿南惟幾大将
陸軍大学校(29期)
1922年、広東駐在武官拝命。当時広東は中国国民党の本拠であったため、
ここで国民党について研究し、その要人たちと交わり深い関係を持ち、後年国民党通と
言われる素地をつくった。間もなく孫文が陳炯明を追い 
払うと要請を受け、孫文の軍事顧問となる。佐々木はしばしば孫文の軍用列車に
便乗して国民党の戦いぶりを目の当りにした。列車の中で孫文から蒋介石を紹介された。
翌1925年、孫文は亡くなるが、佐々木は「国民党は一層破壊力を逞しくする」と予言。
1930年8月、大佐進級 歩兵第18連隊長 1935年3月少将
1937年12月、第16師団の歩兵第30旅団長として南京攻略戦に参加
1938年3月、中将に進級、独立混成第3旅団長、支那派遣憲兵隊司令官の後、第10師団長
1941年4月予備役
1945年7月召集され、第149師団長。終戦後、満州でソ連軍に捕えられ長きに渡りシベリア抑留となる。
その後中国に引き渡され、帰国も間もないと思われた1955年、撫順収容所で脳内出血のため没
佐々真之助 福岡、陸大37期  昭和19年6月 第19軍参謀長、第13軍参謀用、第39師団長
佐久間亮三 東京、陸大37期  昭和20年3月中将 第14方面軍参謀副長
第55師団長
作久間盛一      せいいち 茨城、        昭和16年10月 歩66旅団長、第5独警司令官
任 中将 20.1
佐久間為人 東京、        昭和17年8月 第68師団長、第84師団長
佐藤 賢了
 
 
陸士29期     石川県河北郡 昭和15年 2月  南支方面軍参謀副長
陸大37期 昭和16年 3月  軍務局軍務課長
昭和16年10月  少将 昭和17年 4月  軍務局長
昭和19年12月  支那派遣軍総参謀副長 昭和20年3月 中将
昭和20年4月 第37師団長
最年少のA級戦犯となり、極東国際軍事裁判で終身刑の判決を受けて服役し、いわゆる
A級戦犯では最も遅くまで拘留され、昭和31年)3月31日に釈放。
佐藤 幸徳 陸士25期   山形県出身 昭和14年 8月  少将 第23歩兵団長
陸大33期 昭和16年 8月  第54師団兵務部長
昭和16年10月  第67独歩兵団長 昭和17年12月  中将
昭和18年 3月  第31師団長 昭和19年 7月  ビルマ方面軍附
昭和19年11月  予備役 昭和20年 5月  東北軍附
インパール作戦において師団の独断退却を行ったことで知られる
佐藤は1959年(昭和34年)に病死するまで、自己の処置の正しさを主張し続けた
インパール作戦での抗命撤退によって命を救われた部下は、多くが四国出身者であった。
佐藤に感謝する元兵士らの戦友会によって香川県高松市に佐藤を悼む碑が建立された
佐藤正一 山形、陸大36期  昭和20年3月 第17飛行団長、第1飛行師団長
佐藤 質   
  ただす
宮城、         昭和19年10月 第4野戦鉄道司令官、東部軍附
佐藤虎太 鹿児島        昭和19年3月 第1国守隊長、第42師団長
佐野 忠義

 
陸士23期    静岡県出身 昭和13年 7月  少将 野重砲第4旅団長
陸大34期 昭和15年 8月  野戦砲兵校長
昭和16年 3月  中将
ジャワ島攻略に従事 昭和16年 6月  第38師団長
昭和18年 6月  防衛総参謀長
漢口に赴任 昭和19年 7月  第34軍司令官
昭和20年 1月  支那派遣軍附
1945年7月、仙台で戦病死した。 昭和20年 7月  死去
沢田 茂

 
高知県  陸軍士官学校(第18期) 大正11年)2月8日、砲兵少佐
       陸軍大学校(第26期) 昭和5年)8月1日、砲兵大佐
昭和10年)3月15日、陸軍少将
昭和17年)10月8日、参謀本部付となり、翌月16日予備役に編入された。
昭和21年4月、上海のアメリカ軍事法廷で重労働5年の判決を受け、巣鴨で服役、昭和25年1月に釈放
沢田保富 愛媛、陸大37期  昭和20年4月 第2船舶輸送司令官、第5船舶輸送司令官
教育船舶兵団長
猿谷吉太郎 群馬、          昭和20年3月 航空本部附
志摩源吉
 
長野、          昭和18年3月 少将 第71歩兵団長、歩57旅団長
任 戦死 19.8.7 戦死
志位正人 東京、          昭和18年8月 少将 ビルマ方面軍兵器部長、
任 中将 20.5.6.
重見伊三雄
 
山口、陸士27期 昭和14年8月 大佐 戦車第9連隊長
昭和15年 3月  四平戦車校教官 昭和16年12月 公主嶺戦車校教官
昭和19年 3月  少将 戦車第3旅団長 昭和20年1月 戦死(ルソン島) 中将
重田 徳松
しげた とくまつ
千葉県  、陸軍士官学校(24期) 昭和7年)8月、砲兵中佐
  陸軍大学校(第35期) 昭和11年)8月、砲兵大佐
昭和13年)3月、第6師団参謀長に就任し日中戦争 昭和14年)3月、陸軍少将、野戦重砲兵第1旅団長
昭和16年)10月、陸軍中将 昭和17年)3月、第35師団長に親補され中国
昭和18年)3月、砲兵監に就任し、第72師団長を経て、1945年(昭和20年)4月、第52軍司令官に
発令され、千葉県佐倉で本土決戦に備えていたが、交戦することなく終戦を迎えた
四手井綱正
しでい つなまさ
陸士27期     京都府山科 昭和15年 8月  少将
陸大34期恩賜 昭和15年12月 陸大幹事
昭和17年12月 第1方面軍参謀長 昭和18年10月 中将
マレー半島に赴任 昭和19年10月 第94師団長
昭和20年5月 ビルマ方面軍参謀長 昭和20年7月 関東軍総参謀副長
昭和20年8月 殉職(飛行機事故 台北)
塩沢清宣 長野、陸大37期  昭和18年6月 大東亜省北京駐在公使、 第119師団長
柴田 夘一
しばた ういち

 
福岡県出身 陸軍士官学校(21期)を卒業
昭和12年)8月、歩兵大佐に昇進
第15師団長に発令されインパール作戦 昭和15年)8月、陸軍少将に進級
歩兵第103旅団長 第12独立守備隊長
昭和19年)6月、陸軍中将
柴山兼四郎 茨城、陸大34期  昭和16年10月 第26師団長、陸軍次官、
七田 一郎
しちだ いちろう
佐賀県  陸軍士官学校(20期) 1932年8月、歩兵大佐となり歩兵第22連隊長
  陸軍大学校(31期) 1937年3月、陸軍少将 歩兵第24旅団長
1939年8月、陸軍中将 、第20師団長
駐蒙軍司令官、第2軍司令官、参謀本部付、陸軍科学学校長、兼陸軍戸山学校長を歴任し
1945年4月、予備役に編入
同月、召集を受け第56軍司令官となり、九州飯塚で本土決戦に備えていたが終戦を迎えた
清水 規矩
 
  のりつね
福井県  陸軍士官学校(23期) 大正12年)9月、リガ(ロシア)駐在
  陸軍大学校(30期) ドイツに駐在
昭和9年)8月、陸軍大佐 昭和12年)8月、侍従武官
昭和13年)3月に陸軍少将 昭和15年)12月、陸軍中将
昭和16年)3月、第41師団長に親補され中国に出征し太平洋戦争を迎えた。
昭和17年5月、予備役に編入され、同年7月、教育総監部本部長となり、南方軍総参謀長、
第7方面軍参謀長を経て、第5軍司令官として満州防衛に当たり、対ソ防衛戦を戦い終戦を迎え、
シベリア抑留となった。1956年(昭和31年)12月にソ連から復員
下野 一霍
  
いっかく
東京 陸軍士官学校(23期) 昭和9年)9月、砲兵大佐
     陸軍大学校(31期)を優等 昭和12年)3月、第6師団参謀長
昭和13年)3月、陸軍少将    第9飛行団長
昭和15年12月、陸軍中将  昭和17年)2月、漢口で新設された第58師団長
昭和19年)3月南方軍付となり、同年5月、同軍兵站監に就任したが、同年12月、東部軍付となり帰国。
下山 琢磨 福井  陸軍士官学校(25期)  陸軍大学校(33期)を優等
昭和3年)8月、歩兵少佐 昭和11年)8月、歩兵大佐
昭和12年8月、兵科を航空兵科に転じ航空兵大佐となり、北支那方面軍参謀に就任し日中戦争に出征
昭和14年)3月、陸軍少将 昭和16年)11月、陸軍中将
昭和17年)2月、第4飛行集団長に発令され満州
昭和18年)5月、第2飛行師団長に転じ、さらに第3飛行師団長に異動し南京に赴任。
昭和19年)2月、第5航空軍司令官に就任し京城で終戦を迎えた。
下川義忠 東京、   昭和15年8月 少将 留守1師団兵務部長、野戦補充隊長
任 中将 19.4.19 応城 没
下田宣力 宮城、東大機械卒  昭和14年8月 少将 第2鉄道監
任 中将 18.1.26 殉職
篠原誠一郎 第116師団長
篠塚 義男

 
陸士17期恩賜   東京都出身  昭和11年12月 中将
陸大23期恩賜 昭和12年3月 陸士校長
昭和13年 6月  第10師団長 昭和14年9月 第1軍司令官
昭和16年 6月  軍事参議官兼陸士校長 昭和17年6月 予備
昭和20年9月 自決
白銀 重二
しろかね ちょうじ
陸士28期恩賜 昭和17年2月 白城子教導飛行師団長
陸大36期恩賜 昭和18年9月 下志津飛行校長
昭和19年 2月  防衛兼東部軍参謀副長 昭和19年10月 中将
フィリピン攻防戦に従事 昭和20年2月 第7飛行師団長
スマトラ島のパレンバン油田地帯の防衛 昭和20年7月 第9飛行師団長
白銀義方 山口、陸大35期  昭和19年6月 第151師団長
椎名正健 千葉、       昭和19年6月 第7砲兵隊司令官、第124師団長
篠田 鐐   
   
りょう
愛知、東大応用科学卒 昭和20年3月 技本第9研究所長
庄下亮一
しょうげりょういち
山口、       昭和20年4月 第41歩兵聨隊長、第18軍附
 
末藤知文 福岡、陸大38期 第93師団長、第104師団長、第23軍附
ソ駐在
菅原 道大 陸士21期    長崎県出身 昭和14年10月 中将 航空総監部附
陸大31期 昭和14年12月 下志津飛行校長
昭和15年8月 第1飛行集団長 昭和16年9月 第3飛行集団長
マレー半島方面の航空戦を指揮した 昭和17年4月 第3飛行師団長
昭和17年7月 第3航空軍司令官 昭和18年5月 航空士官学校校長
昭和19年3月 航空総監部次長のち総監 昭和19年7月 教導航空軍司令官
陸軍特別攻撃隊の指揮を執り終戦を迎えた 昭和19年12月 第6航空軍司令官
鈴木貞次 静岡、         昭和17年8月 第104師団長、第142師団長
鈴木繁二 福井、陸大34期  昭和16年8月 少将 第19歩兵団長、独混44旅団長
任 中将 (沖縄)
鈴木鉄二
 
岐阜           昭和18年3月 少将 独混55旅団長
任 中将 20.8.1戦死 (ホロ島)
鈴木 貞一

 
千葉県  陸軍士官学校(22期)、 昭和13年)4月14日に第3軍参謀長
 陸軍大学校(29期) 昭和15年)8月1日、中将
「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた 昭和16年)4月4日、予備役
東條英機側近三奸の一人とされる。
第3次近衛内閣・東條内閣でそれぞれ国務大臣を務める。
昭和16年)10月-12月の御前会議において、日本の経済力と軍事力の
数量的分析結果に基づき、開戦を主張した。
A級戦犯に指定された終身禁固の判決を受け服役する。昭和33年)に赦免
鈴木啓久 福島、       昭和20年4月 独歩4旅団長、第117師団長
鈴木 率道
 
よりみち
広島  陸士22期、陸大30期(首席)
フランス駐在武官を勤め、欧米各国の航空隊の発展をつぶさにし、帰国後、陸軍航空隊の発展
に尽力した航空隊育ての親であるが、東條英機に疎まれ、1943年5月に第2航空軍司令官を解職され
昭和8年)8月1日 陸軍砲兵大佐 昭和12年)8月2日 陸軍少将・第2軍参謀長
昭和13年)6月10日 陸軍航空本部総務部長 昭和14年)10月2日 陸軍中将
昭和16年)12月1日 航空兵団 昭和17年6月1日から第2航空軍)司令官
昭和18年8月5日 没
須藤 栄之助 東京、 陸軍士官学校(25期) 昭和8年)3月、砲兵中佐
陸軍大学校(36期) 昭和12年)3月、航空兵大佐に昇進
昭和14年)8月、陸軍少将 (昭和17年)12月、陸軍中将
昭和18年)1月、第8方面軍(のち南方軍)第4航空軍第7飛行師団長として、南太平洋戦線を戦うも、
航空機の枯渇や第4航空軍司令官富永恭次の台湾への撤退(一般には逃亡とされる)によって、
戦力は壊滅状態となった。以後は、防衛総軍司令部、第1総軍両軍において本土決戦に備え
両軍の総参謀長として杉山元を補佐する地位に就いていた。
尾高 亀蔵
すえたかかめぞう
佐賀県  陸軍士官学校(16期) 1932年8月、陸軍少将に進級し陸軍兵器本廠付
       陸軍大学校(28期) 1936年4月、陸軍中将
第19師団長の際、張鼓峰事件が発生しソ連軍と交戦した。新設の第12軍司令官となり、
中国北部での任務に従事。次いで第3軍司令官となり、満州東部の警備を担った。
軍事参議官を経て、1941年6月、予備役に編入された。
1942年6月から終戦まで満州国建国大学副総長を務め、1946年9月に帰国した。
澄田来四郎 陸士24期恩賜  陸大33期首席 昭和13年7月 少将 野重砲第6旅団長
昭和14年10月 重砲校長 昭和15年9月 大本営参謀(仏印派遣団長)
昭和16年8月 中将 昭和16年9月 第39師団長
昭和19年11月 第1軍司令官
杉浦英吉 千葉、       昭和19年7月 第115師団長
杉浦辰雄 東京、東大電気卒 東京第1造兵廠長
末光元広 愛媛、          昭和19年10月 第148師団長
千田貞雄 熊本、          昭和18年6月 予備役より 独混109旅団長
千田貞季
 さだすえ
鹿児島、        昭和19年3月 少将 混成2旅団、
任 中将 20.3.8 硫黄島にて戦死
関 亀治
せき かめはる
兵庫県  陸軍士官学校(19期) 昭和6年)8月、歩兵大佐
       陸軍大学校(30期) 昭和11年)3月、陸軍少将に進級し歩兵第2旅団長
昭和14年)3月、陸軍中将、新設の第34師団長 昭和16年)9月、第20軍司令官
昭和18年)3月、参謀本部付となり、翌月、予備役に編入された。
昭和20年)4月に召集され、宇都宮師管区司令官を同年12月まで務め召集
関原六 新潟、 陸大30期 第34師団長予備役より宇都宮師管司令官
米駐在 度量の広い教育にすぐれた将軍 第4師団長
瀬谷 啓
せや ひらく
栃木  陸軍士官学校(22期)  陸軍大学校(30期)
陸軍省軍務局付勤務、陸大教官、アルゼンチン公使館付武官、奈良連隊区司令部付、
歩兵第70連隊大隊長、陸大教官、歩兵第13連隊長、近衛師団司令部付 1937年、陸軍少将
第3師団司令部付、歩兵第33旅団長などを歴任し、
1939年10月、陸軍中将 基隆要塞司令官 1940年8月、予備役に編入
1945年4月、召集を受け羅津要塞司令官となり終戦を迎えた。
同年9月、ソ連抑留となり、1954年5月に自決した。
相馬癸八郎
そうまきはちろう
新潟、砲工校24優 昭和19年6月 第1技術研究所長、大阪造兵廠長
十川 次郎
そがわ じろう
山口県  陸軍士官学校(23期) 陸軍大学校(33期)を優等
歩兵第57連隊中隊長、陸軍省軍務局付勤務、軍務局課員、フランス駐在、陸大教官、参謀本部課長、
昭和13年7月、陸軍少将、近衛歩兵第2旅団長 昭和14年)8月、中支那派遣憲兵隊司令官
昭和16年)3月、陸軍中将に進み第10師団長
昭和19年)1月、第6軍司令官に就任し、杭州で終戦
 
鷹森 孝
たかもり たかし
三重県  陸軍士官学校(20期) 昭和11年)8月、陸軍大佐
日中戦争に出征。南京攻略戦、徐州会戦などに参戦した
昭和14年)3月、陸軍少将 昭和16年)10月、陸軍中将 第11師団長
昭和20年)4月、第12軍司令官に就任し、華北での作戦に従事し終戦を鄭州で迎えた。
高品 彪
たかしな たけし

 
陸士25期   千葉県出身 昭和15年3月 少将 歩27旅団長
陸大34期 昭和15年9月 第14歩兵団長
昭和17年9月 独混17旅団長 昭和18年10月 中将 第29師団長
昭和19年7月 戦死(グァム島)
竹下義晴 広島、陸大33期  昭和16年3月 第27師団長 予備役より留守30師団長
竹原 三郎 熊本県出身 、陸軍大学校(33期) 昭和10年)8月、歩兵大佐
昭和14年)10月、陸軍少将 歩兵第36旅団長 昭和18年)3月、留守第20師団長
18年6月、陸軍中将 昭和19年)1月、新設の第49師団長
ビルマへ赴任。イラワジ会戦などで苦戦  終戦をタイのタトン
竹内 寛
   ゆたか
岡山県   陸軍大学校(31期) 昭和8年歩兵大佐
昭和12年)8月、津軽要塞司令官 12年11月、陸軍少将
昭和15年)3月、関東憲兵隊司令官
昭和15年)3月、関東憲兵隊司令官 1940年8月、陸軍中将
昭和16年)4月、第55師団長ビルマの戦いに従軍
昭和19年)9月から1945年(昭和20年)10月まで岡山市長
武田 馨
たけだ かおる
滋賀、、陸軍士官学校(25期) 昭和11年)4月、留守第12師団参謀
陸軍大学校(33期)     同年8月、砲兵大佐
昭和14年)8月、陸軍少将 昭和15年)12月、陸軍防空学校長に就任し開戦
昭和17年)5月、東部防空旅団長 昭和17年8月、陸軍中将
、ビルマの戦いに従軍 昭和19年)4月、第53師団長
昭和20年)2月、教育総監部付 同年3月、新設の高射兵監に就任し終戦
武田信男 兵庫、東大物理卒 昭和19年10月 南方軍兵器部長、兵政本造兵部長
武田寿 長野、陸大38期  昭和20年4月 第355師団
田坂 専一
たさか せんいち
陸士27期 愛媛県出身 陸大38期 昭和15年12月  輜重兵監部附
昭和16年3月 少将 昭和16年4月 第5軍参謀長
昭和17年7月 関東防衛軍参謀長 昭和19年5月第2方面軍兵站監セレベス島
昭和19年10月 中将 シンガポール防衛司令官
田副 登
たぞえ のぼる
陸士26期   熊本県出身 昭和14年8月  少将
陸大36期 航空技術研究所ハルピン支所長
昭和15年6月 第8飛行団長 昭和17年6月  第1航空軍参謀長
昭和17年12月 中将
ビルマの戦いに従軍 昭和18年5月 第5飛行師団長
昭和19年12月  航空本部総務部長 昭和20年4月 航空総軍参謀長
辰巳 栄一 陸士27期     佐賀県出身 昭和13年7月 参謀本部欧米課長
陸大37期恩賜 昭和14年12月 イギリス武官
昭和15年8月 少将 昭和17年7月 引揚帰国
昭和17年9月 東部軍参謀長 昭和18年10月 中将
昭和20年2月 第12方面軍参謀長    東日本の防衛任務に当る
昭和20年3月 第3師団長
谷 寿夫
 たに ひさお
 
   
岡山県 陸軍士官学校(第15期 大正4年)4月 イギリス大使館付武官補佐官
      陸軍大学校(第24期 昭和2年)3月 歩兵第61連隊長(大佐)
昭和3年)8月 第3師団参謀長 昭和8年)8月 近衛歩兵第2旅団長
昭和9年)8月 陸軍中将・東京湾要塞司令官
昭和12年) 11月 第6師団長として上海攻略戦に勝利
12月13日 南京攻略戦に勝利、その後いわゆる南京事件が発生
昭和20年8月 大戦末期召集され広島市への原爆投下により死亡した藤井洋治中将の後任として
第59軍司令官兼中国軍管区司令官に親補される
BC級戦犯として南京軍事法廷でBC級戦犯として死刑判決 4月 同地で銃殺刑
田中 新一 陸士25期   本籍新潟県 昭和11年8月 兵務局兵務課長
陸大35期 昭和12年3月 軍務局軍事課長
昭和14年 2月  駐満軍参謀長 昭和14年3月 少将
昭和15年10月  参謀本部第1部長
ガダルカナル島をめぐる船舶問題で東條英機と対立     昭和16年10月  中将
昭和17年12月  南方軍附 昭和18年3月 第18師団長
昭和19年9月 ビルマ方面軍参謀長 昭和20年5月 東北軍附(飛行機事故重傷
昭和51年(1976年)死去
田中 信男 広島県、東京府出身 明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)
昭和13年)3月、歩兵大佐 昭和17年)8月、独立混成第15旅団長
昭和19年)第33師団長心得にインパール作戦 陸軍中将に進み第33師団長
タイ、ナコーンナーヨックで終戦 イラワジ会戦などに従軍
田中 久一
   ひさかず

 
兵庫、陸軍士官学校(22期)  参謀本部付勤務、参謀本部員、アメリカ出張、参謀本部員、
陸軍大学校(30期)
歩兵第1連隊付、陸大専攻学生、陸大教官、陸軍省軍務局課員、陸軍歩兵学校教官、などを歴任
1937年12月、陸軍少将 1940年8月、陸軍中将  第21師団長
中国大陸を転戦。第23軍司令官兼香港占領地総督として終戦を迎えた。
1946年3月に戦犯指名を受け、同年10月9日に死刑判決が出され、翌年3月に広東で銃殺刑
田中勤 愛知、陸大35期  昭和17年12月 独混15旅団長、 第61旅団長、第61師団長
田中友道 山口、陸大36期  昭和20年4月 第7飛行団長、航空通信校長、
水戸教導航空通信師団長
高橋 坦 香川、陸大38期  昭和19年10月 朝鮮軍参謀長、 北支那方面軍参謀長
高橋多賀二 岡山、陸大35期  昭和16年3月 第3師団長、留守30師団長
高橋茂寿慶 新潟、陸大35期  昭和19年10月  第161師団長
田坂八十八 広島、        昭和20年4月 歩53旅団長、 独混75旅団長 、第9師団長
田上八郎
 
鹿児島、陸大38期 独混17旅団、第36師団長
23.10.6 法務死 ホーランジア
田島彦太郎
 
岩手、陸大37期  昭和20年4月 騎兵3旅団長、独混61旅団長
21.4 法務死 マニラ
田尻利雄 福岡、陸大31期  昭和16年3月 留守近衛師団長、予備役後福岡地区司令官
武内俊二郎 第116師団長
多田 保 愛知、      昭和20年4月 独歩6旅団、 第312師団
多田与一 石川、東大電気卒 昭和20年3月 多摩技研研究所長
高野直満 石川      昭和19年6月 留守4師団兵務部長、 第144師団長
田辺助友 青森、陸大35期  昭和19年10月 第2船舶団長、第1、第2戦船舶輸送司令官
田辺 盛武
 

   
陸士22期 昭和12年 8月  少将 陸士幹事
陸大30期 昭和12年10月  第10軍参謀長
旧加賀藩士・陸軍中佐、田辺盛親の長男 昭和13年 2月  戦車校長
第41師団長、北支那方面軍参謀長を歴任し 昭和14年10月  中将 第41師団長
昭和16年 3月  北支方面軍参謀長 昭和16年11月  参謀次長
ガダルカナル島の戦いの敗戦 昭和18年 4月  第25軍司令官
1946年10月、戦犯容疑によりオランダ軍に逮捕され
1948年12月に死刑判決が出され、翌年7月にメダンで刑死した
田村 義富

 
陸士31期恩賜 山梨県出身 昭和15年10月  関東軍作戦課長
陸大39期恩賜
昭和18年8月 少将 関東軍補給監部参謀長 兼 関東軍総参謀副長
昭和19年 3月  大本営参謀 兼 中部太平洋方面艦隊参謀副長
昭和19年7月 第31軍参謀長 昭和19年8月 自決(グァム島) 中将
田村節蔵 鳥取、陸大36期  昭和15年3月 少将 第7歩兵団長
任 中将 18.7.25
田村宣武 愛媛、東大冶金卒 昭和20年4月 第8技研所長、名古屋造兵廠長
玉田 美郎
   よしお
陸軍士官学校卒業(25期) (大正12年)-歩兵大尉
昭和13年歩兵大佐、独立混成第1旅団戦車隊長 昭和16年)-少将、陸軍少年戦車兵学校長
昭和19年)-海上機動第2旅団長 昭和20年)4月-中将  5月-第96師団長
立花芳夫

 
愛媛、     昭和20年3月 混成1旅団長、第109師団長
戦争裁判で小笠原事件の責任者による父島人肉食事件
22.9.24 法務死 グァム   
千葉熊治 宮城、陸大40期恩賜 昭和20年3月 第5特設鉄道司令官、第72師団長
長 勇
 
 
陸士28期   陸大40期 昭和16年 6月  第25軍参謀副長
昭和16年10月  少将 昭和16年11月  南方軍附(仏印機関長)
昭和17年11月  第10歩兵団長 昭和19年 7月  第32軍参謀長
昭和20年 3月  中将 昭和20年 6月  自決(沖縄)
1945年6月23日摩文仁丘の洞窟内にあった司令部で司令官の牛島満とともに割腹自決。
塚田 理喜智 石川県  陸軍士官学校(28期)  陸軍大学校(36期)
昭和13年)3月、航空兵大佐 飛行第7連隊長 昭和14年)12月、第1飛行集団参謀長
昭和16年)8月、陸軍少将 昭和17年)4月、第3飛行団長
第3航空軍参謀長、挺進練習部長を経て 昭和19年)11月、第1挺進集団長
昭和20年)3月、陸軍中将
辻 演武 佐賀、      昭和20年4月 中部軍兵器部長、兵器校長
津田美武 東京、      昭和19年6月 第105師団長
土橋 勇逸

 
陸士24期 佐賀県出身 陸大32期 昭和13年 7月  少将
和14年 8月  第21軍参謀長 昭和14年12月  参謀本部第2部長
昭和15年12月  支那派遣軍総参謀副長   兼 大使館附武官
第48師団長に親補され台湾に
駐屯
フィリピンの戦い、蘭印作戦に参加し、
その後、ティモール島の警備に従事した
昭和16年8月 中将
昭和16年9月 第48師団長
昭和19年11月 仏印駐屯軍司令官
昭和19年12月 第38軍司令官
昭和21年)4月、戦犯容疑により広東で抑留され昭和23年)1月、サイゴンで抑留となった。
昭和24年)7月、不起訴処分となり、翌年6月に復員
堤不夾貴
つつみふさき
山梨、陸大34期 昭和18年10月 留守65独歩団長、千島第1守備隊司令官
第68師団長
堤三樹男 宮崎、     昭和19年6月 歩55旅団長、留守51師団兵務部長
第81師団兵務部長、 第91師団長
坪島文雄 広島、陸大35期  昭和19年3月 第146師団長
寺倉 正三 陸士22期恩賜  陸大31期恩賜 昭和13年3月  第1飛行団長
昭和14年7月 航空士官学校校長 昭和14年10月 中将
昭和16年10月 留守第2師団長
第42師団長に親補され仙台に駐屯 昭和18年6月 第42師団長
第27軍司令官となり千島列島の防衛を担当した 昭和19年3月 第27軍司令官
昭和20年3月 予備役 昭和20年7月 東京師管区司令官
昭和20年8月 東京防衛軍司令官
寺田 雅雄 陸士29期  陸大40期首席 昭和15年8月 戦車第1連隊長
昭和16年8月 陸大教官 昭和16年10月 少将
昭和17年6月 機甲軍参謀長       昭和18年10月 第2方面軍参謀副長 セレベス島
昭和20年3月 中将 昭和20年5月 機甲本部長
寺田済一
  せいいち
東京、陸大35期  昭和19年10月 第3航空軍参謀長、第4航空軍参謀長
第2飛行師団長、航空総軍参謀副長
寺本 熊市

 
陸士22期 和歌山県  陸大33期 昭和15年 8月  中将 第2飛行集団長
昭和17年 4月  第2飛行師団長 昭和18年 5月  第1航空軍司令官
昭和18年7月  第4航空軍司令官  フィリピンの防衛に当たる
和19年10月  航空審査部本部長 昭和20年3月 航空本部長
昭和20年8月 自決
終戦を迎えた1945年(昭和20年)8月15日に自決した。
寺垣忠雄 石川、陸大40期  昭和20年3月 第12軍参謀長、第1方面軍参謀長、第142師団長
土居 明夫 陸士29期  高知県 陸大39期恩賜 昭和15年 9月  参謀本部作戦課長
昭和16年7月 第3軍参謀副長 昭和16年10月 少将
昭和17年7月 第3軍参謀長 昭和18年3月 関東軍情報部部長
昭和20年2月 第13軍参謀長
昭和20年3月 中将陸軍中将に進み上海で終戦を迎えた
昭和21年)7月、南京政府国防部顧問
豊嶋房太郎

 
陸士22期恩賜 山口県 陸大28期 昭和15年 8月  中将 憲兵司令官
昭和15年 9月  第3師団長 昭和16年12月  留守近衛師団長
昭和18年 6月  近衛第1師団長 昭和18年10月  第2軍司令官
第2軍司令官に発令され、ニューギニアの戦いなどで苦戦を続け、セレベス島で終戦を迎えた
橘丸事件の戦犯容疑で収容され、マヌス島で服役するが1950年7月、無罪判決を受けた。
寺垣忠雄 石川、 陸大40期  昭和20年3月中将 第12軍参謀長、第1方面軍参謀長
米駐在 第142師団長
当山弘道 東京、陸大40期  昭和20年4月 戦車第1旅団長、教導戦車旅団長
独立戦車8旅団長
富永 恭次

 
陸士25期  長崎県 陸大35期 弟 昌三(43)は海軍少将
昭和14年3月 少将 参謀本部第4部長 昭和14年9月 参謀本部第1部長
昭和15年10月 公主嶺戦車校長 昭和16年4月 人事局長
昭和16年11月 中将 昭和17年3月 人事局長兼功績調査部長
昭和18年3月 陸軍次官   東條内閣総辞職と共に失脚
昭和19年8月 第4航空軍司令官マニラに着任した    昭和20年2月 待命 予備役
昭和20年7月 第137師団長
フィリピン決戦において特攻隊を出撃させた。約400機の特攻を命令しパイロット達を全員戦死させた。
フィリピンのエチャーゲ南飛行場から台湾の台北へと続々と逃亡した
7月に召集し、第139師団の師団長として満州の敦化(とんか)に赴かせた。
8月、ソ連参戦、そして終戦ののち富永はシベリアのハバロフスク収容所に抑留された
禁固刑に処された。昭和30年)4月18日、引揚船「興安丸」で舞鶴港に帰国している。
遠山登 千葉、陸大36期  昭和17年4月 第71師団長
鳥田隆一 愛知、陸大34期  昭和16年10月 第51教飛師団長、東海軍需監理部次長
  
  
中 永太郎 陸士26期 北海道旭川市 陸大36期  昭和15年3月 少将
昭和15年12月 歩兵学校幹事 昭和16年7月 歩兵学校校長
昭和17年12月第15軍参謀長 緬甸方面軍参謀長に転じインパール作戦を指導
昭和18年3月 ビルマ方面軍参謀長 昭和18年6月 中将
昭和19年9月 第18師団長
シッタン川で戦闘を交えた。終戦をビルマ・チャイトで迎えた
中井増太郎 鳥取県   陸軍士官学校(29期) 昭和14年)3月、歩兵大佐
陸軍大学校(42期) 昭和15年)2月、第22軍高級参謀
昭和18年)1月、第20師団は東部ニューギニアに派遣され、ニューギニアの戦いに参戦。同年8月
陸軍少将に進級し第20歩兵団長に就任
昭和19年)4月、片桐茂師団長が戦死したため、翌月、師団長心得に就任。
昭和20年)4月、陸軍中将に進級し第20師団長に親補された
中川 州男
   くにお

  
陸士30期 熊本県出身 昭和14年 5月  独立混成第5旅団参謀
昭和16年10月  第62独立歩兵団参謀 昭和18年 3月  大佐
満州から南方へ転用されることとなり、パラオ諸島へ向かった。(ペリリュー島) 
昭和18年 6月  歩第2連隊長 昭和19年11月 戦死 中将 二階級特進
中沢 三夫
  
みつお 
山梨県 陸軍士官学校(24期)  陸軍大学校(32期)  大正12年)7月、ドイツに留学
昭和11年)3月、歩兵大佐 歩兵第18連隊長 日中戦争に第16師団参謀長
昭和14年)3月、陸軍少将 昭和16年)10月、陸軍中将となり第1師団長
昭和19年)3月、予科士官学校長に就任
さらに第40軍司令官となり鹿児島県伊集院で本土決戦に備えたが終戦を迎えた。
中薗 盛孝

  
陸士24期 鹿児島県 陸大34期 昭和14年3月 少将
昭和14年7月 第1飛行団長 昭和15年8月 水戸飛行校長
昭和16年10月 中将 航空技術校長 昭和17年7月 第3飛行師団長
搭乗機が広東上空で撃墜され戦死した。 昭和18年9月 戦死(広東)
永津佐比重 
   さひじゅう
陸士23期 愛知県西春日井郡 昭和16年 3月  中将
陸大32期 昭和16年 4月  第20師団長
昭和17年 8月  支那派遣軍総参謀副長 昭和19年 3月  第13軍司令官
昭和20年 4月  第58軍司令官
済州島で連合軍の上陸に備えていたが、交戦することなく終戦を迎えた。
長野祐一郎 島根県  陸軍士官学校(24期) 昭和11年)8月、陸軍大佐
      陸軍大学校(37期) 昭和14年)3月、陸軍少将
昭和16年)10月、陸軍中将に進み第37師団長 昭和20年)4月、第16軍司令官
ジャカルタで終戦を迎えた。1946年(昭和21年)5月に復員
昭和23年)4月まで橘丸事件の戦犯容疑により拘留されたが無罪となり釈放された。
中西 貞喜  
  さだよし
佐賀県  陸軍士官学校(29期) 昭和13年7月、砲兵大佐
陸軍大学校(37期) 昭和15年3月、野戦砲兵第23連隊長に日中戦争
昭和16年10月、陸軍少将 昭和17年)7月、北支那方面軍参謀副長
昭和20年)3月、陸軍中将 1945年6月、第230師団長に就任。
同年8月、広島市への原子爆弾投下により第59軍司令官・藤井洋治予備役中将が爆死したため、
8月6日から12日まで第59軍司令官代理を務めた。岡山県において本土決戦に備え終戦
中西 良介 兵庫  陸軍士官学校(28期)   陸軍大学校(38期)
昭和13年)3月、陸軍大佐 昭和16年)7月、第17飛行団長
昭和16年8月、陸軍少将
昭和17年)8月、第4飛行団長、ビルマ航空戦で活躍、東印ティンスキヤ空爆などを指揮
昭和18年)12月、陸軍航空審査部本部長。 昭和19年)10月、第5航空軍参謀長
昭和20年)3月、陸軍中将 朝鮮半島の京城で終戦
中野 良次 佐賀、陸大32期  昭和20年4月 大本営第18班長、第216師団長
永沢 三郎 岩手、        昭和20年7月 独混67旅団長、第221師団長
永田 直武 東京、        昭和20年4月 第2野戦輸送司令官、南方軍燃料本部長
永田亀一郎 高知、        昭和20年4月 独混34旅団長、第234師団長
永野祐一郎 島根         昭和16年10月 独混3旅団長、第16軍司令官
永野 叢人  
  むらと
東京、陸大37期  昭和20年4月 第57砲兵団長、兵器校長、下関要塞司令官
中島吉三郎 群馬、        昭和19年10月 第1国守隊長、 第66師団長
中山 惇   
  まこと
香川、陸大33期  昭和17年4月 第68師団長、留守第3師団長、第136師団長
中島鉄蔵 山形、陸大30期  昭和13年3月   予備役より陸軍司政長官
中島徳太郎
  
兵庫、陸大37期  昭和20年4月 第19旅団長、独混4旅団長、歩63旅団長
沖縄にて自決 20.6.22 自決 沖縄
中島要吉 佐賀      昭和20年4月 第3方面軍兵器部長、関東軍兵器部長
中山政康 茨城、        昭和20年4月 第24砲兵団長、第77師団長
中山 惇 香川、陸大33期  昭和17年4月 第68師団長、留守第3師団長、第136師団長
中西貞喜 佐賀、陸大37期  昭和20年3月 軍需省軽金属局長、第230師団長
英駐在
中村次喜蔵
 
東京、        昭和19年6月 独混19旅団長、第112師団長、
20.8.18 自決 (琿春)
中村誠一 石川、        昭和19年10月 通信校長、南方軍通信隊司令官惇
中村 明人
   
あけと

  
陸士22期  陸大34期恩賜 昭和13年 1月  第3軍参謀長
昭和13年 4月  軍務局長 昭和13年11月  兵務局長
昭和14年10月  中将 昭和15年 3月  第5師団長
昭和16年 3月  留守第3師団長 昭和16年10月  憲兵司令官
昭和18年 1月  泰国駐屯軍司令官 昭和19年12月  第39軍司令官
昭和20年 7月  第18方面軍司令官
1945年12月、連合国が出したA級戦犯の第三次戦犯指名の逮捕リスト
昭和21年)3月から巣鴨プリズンで拘留されたが、同年9月に不起訴釈放となり復員
中野 英光 佐賀、陸軍士官学校(24期) 陸軍大学校(32期)  昭和11年)8月、歩兵大佐
昭和14年3月、陸軍少将 昭和16年)10月、陸軍中将
1941年11月、第51師団長に親補され、広東の警備昭和17年)11月、ニューギニア戦線に
転用され第18軍に編入、ラバウルに進出
昭和18年)2月、ニューギニアの戦いに
参戦のため東部ニューギニアに派遣
輸送船が撃沈され多大の損害を被った。
その後、ラエ・サラモアの戦いに敗れ
サラワケット越えを敢行するなど苦戦を強いられた。
オーストラリア軍と戦闘を交える中
ニューギニアのクッシャムで終戦を迎えた。
名倉 栞
   しおり
 
陸士26期 東京出身 陸大36期 昭和15年12月  少将 公主嶺戦車学校監事
昭和16年 7月  関東軍附 昭和16年10月  第20軍参謀長
昭和17年 9月  公主嶺戦車学校校長 昭和18年 3月  兼 教導戦車学校校長
昭和19年 7月  中将 昭和19年 7月  戦車第4師団長
千葉県において本土決戦の準備中に終戦を迎えた。
那須 弓雄

  
陸士25期 栃木県  陸大34期 昭和13年 3月  歩59連隊長
昭和15年 3月  少将 歩兵第3旅団長 昭和15年11月  第2歩兵団長
第2歩兵団長としてジャワ島攻略作戦に参加 昭和17年10月  戦死(ガダルカナル島) 中将
ガダルカナル島の戦いに従軍し、1942年10月に戦死した
陸軍中将に特進した。
長嶺喜一 新潟、陸大36期  昭和18年3月 少将 留守55師団参謀長、第3歩兵団長、独混62旅団長
任 中将
西田 祥美

  
陸士25期 昭和16年 9月  京都連隊区司令官
昭和17年 8月  少将 昭和17年12月  第3独立守備隊長
和18年11月  海上機動第1旅団長 昭和19年 2月  戦死(メリレン島) 中将
西原 貫治 陸士23期 広島県 昭和13年12月  習志野校長
陸大30期 昭和16年 3月  中将 第23師団長 満州
兄 西原貫一(陸軍中佐) 昭和17年11月  化兵監
弟 西原一策(陸軍中将 昭和18年 5月  教育総監部本部長事務扱
昭和19年 2月  第4軍司令官
鹿児島県財部で本土決戦に備えていたが 昭和20年 4月  第57軍司令官
西原 一策
   
いっさく
陸士25期恩賜   広島 昭和15年6月 仏印監視団長
陸大34期恩賜 昭和15年12月 騎兵学校校長
次兄 西原貫治(陸軍中将) 昭和16年10月 中将 騎兵集団長
北支那方面軍の駐蒙軍に属した。 昭和17年12月 戦車第3師団長
昭和19年1月 機甲本部長 昭和20年1月 死亡
北部仏印進駐時の「西原・マルタン協定」の当事者として知られる。
西山福太郎 東京、陸大37期  昭和18年6月 パレンバン防衛司令官、 第23師団長
西村 琢磨

 

  
福岡県 、陸軍士官学校(22期 昭和11年)8月より)、野戦重砲兵第一旅団長
陸軍大学校(32期) 1940年12月2日陸軍中将
独立混成第二十一旅団長 昭和16年)6月24日より)、近衛師団長
第25軍の指揮下でシンガポール攻略戦に参加後、シンガポール周辺の残敵処理にあたった。
シンガポール華僑虐殺事件に絡み、戦後に戦犯指名を受ける原因となる。
昭和17年)7月15日に予備役 昭和18年)4月15日に陸軍司政長官
昭和19年)2月には蘭印、スマトラ州知事
オーストラリアのマヌス島裁判で死刑の判決を受け、昭和26年6月、マヌス島で処刑された。
沼田多稼蔵
  
たかぞう

  
 
陸士24期  広島県出身 陸大31期 昭和13年6月 第11軍参謀副長
昭和13年7月 少将 昭和14年1月 第11軍参謀
昭和14年8月 企画院第1部長 昭和16年3月 中将
昭和16年4月 第3軍参謀長 (満州) 昭和17年8月 第12師団長
昭和18年10月 第2方面軍参謀長  昭和19年12月 南方軍総参謀長 
第3軍の指揮下東寧に駐屯
オランダ領東インド東部)にオランダ領東インド東部)に南洋群島や、タイ王国(シャム)においても防衛
昭和22年)11月、戦犯容疑により巣鴨プリズンに収容された
昭和23年4月、橘丸事件で重労働7年の判決が言い渡されたが、昭和25年12月に仮釈放された。
橘丸事件(たちばなまるじけん)とは、昭和20年に日本陸軍が国際法に違反して病院船「橘丸」
(東海汽船、1,772トン)で部隊・武器を輸送した事件である。
根本 博

 
陸士23期   福島県  陸大34期 昭和13年7月 少将 北支方面軍参謀副長
昭和14年3月 華北連絡部次長 昭和14年12月 第21軍参謀長
昭和15年2月 南支方面軍参謀長 昭和16年3月 中将 第24師団長
昭和19年2月 第3軍司令官
昭和19年11月 駐蒙軍司令官
昭和20年8月北支方面軍司令官兼駐蒙軍司令官     1966年5月24日 死去
終戦後もなお侵攻を止めないソ連軍の攻撃から、蒙古聯合自治政府内の
張家口付近に滞在する邦人4万人を救った。復員後1949年に台湾へ渡り、金門島における
戦いを指揮して、中国人民解放軍を撃破、現在に至る台湾の独立自主に寄与した。
野田 謙吾  陸士24期  熊本県  陸大32期 二男 野田謙治(陸軍少佐、戦死)
昭和13年7月 少将 教育総監部第2部長  昭和14年10月 人事局長 
昭和16年4月 支那派遣軍総参謀副長中国に出征    昭和16年8月 中将
昭和16年9月 兼 支那大使館附武官   昭和17年12月 第14師団長満州チチハルに駐屯
昭和18年10月 教育総監部本部長 昭和19年7月 教育総監代理
土浦で終戦を迎えた 昭和20年4月 第51軍司令官
野悦次郎 第53師団長
野副昌徳 佐賀、         昭和18年6月 前橋予備士官校長、 第63師団長
能崎清次 第152師団長
納見 敏郎

 
広島 陸軍士官学校(27期) 陸軍大学校卒業(37期)
1935年、第14師団参謀、1937年、教育総監部庶務課長、陸軍大佐、
1938年、歩兵第41連隊長、1940年、憲兵司令部本部長、陸軍少将・上海憲兵隊長、
1942年、陸軍憲兵学校長となる。1944年1月、台湾憲兵隊司令官、同年6月、陸軍中将となる。
1945年連合国はA級戦犯として納見の逮捕命令を出すが、納見は宮古島に渡り、同月13日に自決。
太平洋戦争終戦時の先島群島(沖縄)日本軍司令官
野溝弐彦    
  かずひこ
大分、       昭和20年3月   歩51旅団長、 第126師団長
野地嘉平 宮城、     昭和20年3月 第39歩兵団長、独歩5旅団長、第133師団長
 
橋本 群 広島県, 陸軍士官学校(20期) 昭和11年)3月、陸軍少将
陸軍大学校(28期)を優等 支那駐屯軍参謀長
昭和14年)3月、陸軍中将
ノモンハン事件が発生し、停戦後の同年9月に引責辞任し参謀本部付となった。
同年11月に待命、翌月予備役に編入された。後に北白川宮家別当を務めた。
橋本秀信 愛媛、陸大36期  昭和19年6月 航空審査本部長、第5航空軍参謀長、
第9飛行師団長、教導飛行師団
秦 彦三郎  陸士24期   三重県 陸大31期 昭和14年3月 少将
昭和15年3月 関東軍参謀副長兼駐満武官 昭和16年10月 中将
華中に在り占領地の警備や治安作戦 昭和17年7月 第34師団長
昭和18年4月 参謀次長 兼兵站総監 昭和19年3月 兼陸大校長
昭和20年4月 関東軍総参謀長
極東ソ連軍総司令官)との停戦交渉を行った。 
1945年12月、A級戦犯として連合国軍最高司令官より出された第3次逮捕命令のリストに
名前があったが、既にソ連軍により捕らえられシベリア抑留の身であった。1956年12月26日に復員
服部暁太郎 兵庫県 陸軍士官学校(24期  陸軍大学(35期)     昭和11年)3月、工兵大佐
昭和14年)3月、陸軍少将    昭和15年)10月北支那方面軍隷下の第2野戦鉄道司令官
昭和16年10月、陸軍中将 昭和17年)1月、南方軍鉄道隊司令官
昭和19年)3月、第1師団長
孫呉に駐屯。第1師団が南方に転用された1944年8月、教育総監部付となり、同月、孫呉で死去した。
花谷 正 陸士26期  岡山県勝田郡 陸大34期  長男 花谷甫(陸軍大尉)弟 花谷浩(陸軍大佐、殉職)
昭和14年 1月  満州国軍事顧問 昭和15年3月 少将
昭和15年8月 歩29旅団長 昭和16年7月 第29歩兵団長
昭和16年12月 第1軍参謀長           華北方面を作戦地
昭和18年 6月  中将 昭和18年10月  第55師団長
ビルマに出征し、第二次アキャブ作戦に従軍し
タイ王国に赴任 昭和20年 7月  第18方面軍参謀長
原田次郎 佐賀、陸大38期 昭和19年6月 独混30旅団長、 第100師団長
原田 熊吉 大阪府出身。陸士22期、陸大28期 昭和8年)8月1日 陸軍歩兵大佐
昭和14年)10月2日 陸軍中将 第35師団長 昭和17年)3月2日 第27師団長
昭和17年11月9日 第16軍司令官 昭和20年)4月7日 第55軍司令官         
戦後戦犯に指名され、シンガポールのチャンギーで絞首刑
原田 貞憲 陸士31期  陸大42期 陸軍少将 原田憲義(26)の弟
昭和16年7月 航空本部庶務課長兼第三課長 昭和17年10月 航空本部整備部生産課長
昭和18年5月 航空本部整備部長 兼 野戦航空兵器長官
昭和18年8月 少将 昭和18年11月 軍需省航空兵器総局第1局長
昭和20年4月 航空総軍参謀副長 昭和20年4月 航空総軍参謀副長
昭和20年6月 第1航空軍参謀長  東京に移転し本土防空
原田義和 福岡、陸大36期  昭和20年3月 第22歩兵団長、南洋第2支隊
原田宇一郎 滋賀 陸軍士官学校(25期) 陸軍大学校(37期)を優等
和4年)12月、イギリス駐在 昭和7年)8月、歩兵中佐
昭和11年)8月、航空兵大佐
昭和12年)9月、第4飛行団司令部員となり、飛行第12連隊長、飛行第12戦隊長を歴任し
昭和14年)8月、陸軍少将 昭和16年)12月、第14飛行団長
昭和17年8月、陸軍中将
昭和18年)1月、第1飛行師団長に親補され、第2航空軍司令官として満州新京で終戦
その後、シベリア抑留となり、1956年(昭和31年)12月に帰国した。
馬場 正郎
  まさお


 
熊本、陸軍士官学校28期 陸大33期 昭和10年)8月1日に陸軍騎兵大佐
陸軍大学校33期 昭和13年7月15日、陸軍少将任官し騎兵第3旅団長
昭和16年)8月15日、陸軍中将 第53師団長 昭和18年)9月、第4師団長としてボルネオに派遣
昭和19年)12月、ボルネオ守備軍を前身とする第37軍司令官となり引き続き同地の守備を担当した
昭和21年4月に復員したが、翌年1月にBC級戦犯容疑(サンダカン死の行進)で拘留、同年6月2日、
絞首刑判決。同年8月7日、ラバウルで刑が執行された。
原 守 陸士25期   広島県  陸大34期 昭和14年3月 少将 歩23旅団長
昭和16年4月 関東憲兵隊司令官 昭和16年11月 中将
昭和17年8月 第9師団長満州掖河に駐屯した
昭和20年4月 教育総監部本部長 昭和20年8月 東部憲兵隊司令官
昭和20年11月 陸軍次官
原 乙未生
はらとみお
福岡、東大機械卒   昭和18年10月 技本第4研究所長、兼相模造兵廠長
林 義秀

 
和歌山県出身 陸軍大学校(35期) 日中戦争に従軍
1941年10月、陸軍少将に進級    フィリピン攻略戦に参加
1945年2月、第53師団長 陸軍中将に進級
1946年8月、戦犯容疑で逮捕 1949年11月、マニラで終身刑の判決
1953年7月に釈放された
林芳太郎 京都、       昭和17年8月 第110師団長、近衛第3師団長、
伴健雄 福岡、陸大  昭和16年11月 第34師団長
早淵四郎 鹿児島、    昭和18年6月 独混13旅団長、豊橋第1予備士官校長
坂西 一良 鳥取県  陸士学(23期)  陸大(30期) ドイツ大使館付武官
1934年8月、陸軍大佐 昭和13年)7月、陸軍少将
昭和16年)3月、陸軍中将 第35師団長 昭和19年4月、第20軍司令官となり衡陽で終戦
昭和21年)9月、上海で戦病死
萩 三郎 石川、 陸大37期 昭和20年4月中将 第4軍参謀長
第5方面軍参謀長
浜田 平
 
高知、 陸大37期  昭和20年3月 泰国駐屯軍参謀長、第39軍参謀
第18方面軍参謀副長 20.8.17 自決
樋口敬七郎

 
陸士27期  佐賀県唐津市 陸大39期  昭和16年2月 南支方面軍参謀副長
昭和16年6月 第23軍参謀副長 昭和16年10月 少将 香港の戦いに参加
昭和17年2月 台湾軍参謀長 昭和18年10月 久留米第1予備士官学校校長
昭和20年3月 中将  4月 第156師団長  宮崎県本庄で本土決戦に備える
戦犯容疑により逮捕され香港に連行されたが、昭和22年6月に不起訴となり釈放された。
樋口季一郎


 
陸士21期  兵庫県淡路島 陸大30期 昭和12年8月 少将 ハルピン特務機関長
昭和13年7月 参謀本部第2部長 昭和14年10月 中将 イスラエル建国功労者
昭和14年12月 第9師団長 昭和17年8月 北部軍司令官 札幌に司令部を置く
昭和18年2月 北部方面軍司令官 昭和19年3月 第5方面軍司令官
昭和20年2月 兼 北部軍管区司令官
司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。アッツ島玉砕、キスカ島撤退、敗戦後の占守島、
樺太における戦闘を指揮、占守島の戦いではソ連軍千島侵攻部隊に痛撃を与えた。
スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。
ダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否して、樋口の身柄を保護した
人見秀三
 
山形、        昭和18年6月 久留米第1予備士官公共、 
第12師団長 21.4.13 自決 (台湾)
人見与一 栃木、陸大30期  昭和15年8月   予備役より 第1国守隊長 第135師団長
菱田元四郎 東京      昭和20年3月 歩84旅団長、 第116師団長
平田正判
  まさちか
兵庫、陸大34期  昭和16年11月 留守51師団長
第22師団長
平田勝治 島根、陸大36期  昭和20年4月 第6飛行団長、第3航空教育団長
平岡 清 熊本、        昭和20年4月 第8野戦輸送司令官
平野 ? 
ひらのひろし
兵庫、        昭和20年3月 兵政本補給部長
20.4.5没
平林盛人 長野、陸大31期  昭和14年10月 第17師団長 予備 留守54師団長
百武 晴吉
   はるよし

  
陸士21期恩賜  佐賀県 陸大33期 兄 三郎(19) 源吾(30)はともに海軍大将
昭和12年3月 少将 昭和12年8月 通信校長
昭和14年3月 独立混成第4旅団長 昭和14年8月 中将
昭和15年2月 第18師団長 昭和16年4月 通信兵監
昭和17年5月 第17方面軍司令官ガダルカナル島奪回を目指す  ソロモン方面
昭和19年)12月に脳出血 昭和20年4月 第8方面軍附
広田 豊 愛知、陸大35期恩賜  昭和20年4月 水戸、仙台 飛行校長、第53航空師団長
福栄 真平
 
 
陸士23期  東京  陸大35期 昭和14年 3月  少将 留守第16師団附
昭和15年 2月  歩15旅団長 昭和17年 7月  マレー捕虜収容所長
昭和17年12月  中将 下関要塞司令官 昭和18年 6月  東京湾要塞司令官
昭和19年 6月  第102師団長   
レイテ島に渡りレイテ決戦に敗れ、セブ島で終戦を迎えた。
戦後、戦犯容疑により逮捕され、死刑判決を受け昭和21年、シンガポールにて銃殺刑が執行された。
藤田 進 石川県  陸士学16期 陸大(25期) 昭和3年)3月8日には陸軍大佐
昭和4年)8月1日に第19師団参謀長 昭和7年)12月7日陸軍少将 歩兵第32旅団長
昭和11年8月1日陸軍中将 昭和12年)8月2日第3師団長
昭和16年)1月20日待命となり、同31日予備役編入
昭和20年)4月1日金沢師管区司令官
藤井 洋治 広島県  陸士学(19期)陸大(28期) 1932年7月、歩兵第37連隊長
1935年8月、陸軍少将 歩兵第19旅団長、近衛師団司令部付
1938年7月、陸軍中将 留守第1師団長を経て、新設の第38師団長
1942年8月、予備役
その後、広島師管区司令官、第59軍司令官、兼中国軍管区司令官を勤める。
1945年8月6日、市内の官舎で出勤準備中、広島市への原子爆弾投下により夫人とともに被爆死した。
藤岡 武雄

  
東京  陸軍士官学校(23期) 昭和13年)3月、歩兵大佐 歩兵第7連隊長
昭和16年)3月、金沢連隊区司令官    同年8月、陸軍少将
昭和17年)3月、台湾軍兵務部長 昭和19年)2月、北支那方面軍隷下の
独立混成第9旅団長 河北省冀東の警備
昭和20年)3月、陸軍中将に進み第62師団長に親補され沖縄に赴任。沖縄戦に参加し、
嘉数の戦いなど激しい戦闘を続けたが、ついに1945年6月、撤退した摩文仁において自決した。
船引 正之 第64師団長
藤塚止戈夫  
   しかお
兵庫、 陸大36期 昭和19年6月中将 第2軍参謀長
19.12第6航空軍参謀長
藤田茂 広島、        昭和20年3月 騎4旅団長、 第59師団長
藤本鉄熊
 
山口、 陸大35期 昭和14年8月少将 英駐在、第2航空軍参謀長、南方航空輸送司令官
昭和19年10月戦死にて中将
深堀游亀
ふかぼりゆうき
東京、 陸大40期 昭和20年4月中将 第2軍参謀長, 第322師団長
藤沢繁三 滋賀、陸大37期  昭和20年3月 第2航空通信司令官
藤村 謙   
  ゆずる
東京、陸大38期  昭和20年4月 第8砲兵団長、 第1方面軍兵器部長、第351師団
第351師団
星野 利元  陸士25期  新潟県  陸大37期 兄 星野庄三郎(陸軍中将)
昭和14年8月 少将  昭和14年10月 教育総監部第二部長 
昭和16年4月 公主嶺戦車学校校長 昭和17年8月 中将
昭和17年9月 戦車第1師団長 満州に駐屯
昭和20年6月 第50軍司令官青森で本土決戦に備えた
細川 忠康 鳥取県 陸士学(24期) 陸大(第35期) 昭和4年)9月までフランスに駐在
   昭和10年)12月、砲兵大佐
昭和10年)12月、砲兵大佐       野戦砲兵第26連隊長
昭和14年)3月、陸軍少将に進級し砲兵監部付 昭和16年)10月、陸軍中将
昭和18年)3月、第59師団長      中国に出征し済南に駐屯
昭和20年)3月、第43軍司令官に発令され、済南で終戦を迎える
堀井富太郎
 

 
陸士23期  兵庫県   昭和15年3月 少将 留守第11師団附
東京外国語学校委託学生として中国語 昭和15年8月 第55歩兵団長
グアム島攻略、ラバウル攻略に従軍 昭和16年11月 南海支隊長
昭和17年11月 戦死(ニューギニア) 中将
昭和17年)7月に始まったポートモレスビー作戦で暗転する。
陸軍大学校を卒業していない所謂“無天組”でありながら、中将にまで栄進した人物としても知られる。
本郷 義夫

 
陸士24期 兵庫県 陸大31期恩賜 昭和13年7月 少将
陸大31期恩賜 昭和13年12月 第4飛行団長
陸軍大将 本郷房太郎(旧3期) 昭和14年12月 第12軍参謀長
の長男 昭和15年12月 熊谷飛行校長
弟 忠夫(32)は陸軍少将 昭和16年8月 中将
山西省東部の警備 昭和18年6月 第62師団長
昭和20年3月 関東防衛軍司令官 昭和20年5月 第44軍司令官
ソ連軍と戦闘を交える中、奉天で終戦を迎えた。
終戦後、シベリア抑留となり、1950年(昭和25年)4月に復員した
本田 政材
   まさき
陸士22期 昭和12年8月 少将 歩第2旅団長
陸大29期 長野 昭和13年3月 歩校幹事
昭和14年8月 歩兵校長 昭和14年10月 中将
昭和14年12月 支那派遣軍総参謀副長 昭和15年10月 第8師団長
昭和17年6月 機甲本部長 昭和18年3月 第20軍司令官
昭和19年4月 第33軍司令官
本間 雅晴 

 
  
新潟、陸軍士官学校(19期)陸大(27期)優等 大正6年)8月 - 陸軍歩兵大尉
大正7年)4月 - イギリス駐在 昭和5年8月1日 - 陸軍歩兵大佐
昭和10年)8月1日 - 陸軍少将 歩兵第32旅団長 昭和13年7月15日 - 陸軍中将に昇進。第27師団長
身長は180cm強で堂々たる体躯を持ち、かつ日本人離れの彫りの深い顔をもつ美男子 
太平洋戦争においてフィリピン攻略戦時、軍司令官として第14軍を指揮した。当初の攻略は順調で、
第14軍はマニラ市を占領に成功する。マニラ進駐にあたり将校800名をマニラホテルの前に集めると
1時間に渡り「焼くな。犯すな。奪うな。」を徹底し違反者は厳罰に処すると訓示を行った
昭和17年)8月31日 - 予備役編入、予備陸軍中将 昭和21年4月3日 - 未明、マニラ軍事裁判において刑死
マニラ戦犯裁判で、バターン死の行進の責任者(戦犯)として召喚された。
本間は前述のとおり人道主義者であり、バターン死の行進での捕虜への
非人道行為は本間の責任ではなく、部下の責任であった。
 
前田 正実 岐阜、陸士25期) 陸大(34期) 昭和11年)8月、工兵大佐
昭和14年)3月、陸軍少将 昭和16年)1月、第13軍参謀長
昭和16年11月、陸軍中将 同時に第14軍参謀長
フィリピンの戦いに従軍するが、バターン半島での拙戦を理由に、1942年(昭和17年)2月、
西部軍司令部付とされ、同年12月、予備役に編入された。
牧野 四郎
 
 
陸士26期  鹿児島県 陸大34期 昭和15年3月 少将 第5軍参謀長
昭和16年4月 予科士官学校教授部長 昭和16年10月 予科士官学校幹事
昭和17年12月 予科士官学校校長 昭和18年6月 中将
昭和19年3月 第16師団長第35軍隷下となりレイテ島に移駐した
昭和20年7月 戦死(レイテ島)
当初13,000名で臨んだレイテ決戦も生還者は僅か620名で、3人の連隊長が戦死しており、
師団長牧野四郎中将も1945年(昭和20年)8月10日自決した。
松岡勝蔵 神奈川、       昭和18年10月 熊谷飛行校長、第51航空師団長
松田 厳 石川、陸大36期  昭和20年4月 第4船舶団長、第65旅団長
松井太久郎  陸士22期  福岡県出身  陸大29期 昭和14年 8月  満州国軍最高軍事顧問
昭和15年 8月  中将
昭和15年10月 第5師団長  マレー作戦・シンガポール攻略に従軍した  
昭和17年5月 南京政府最高軍事顧問 昭和18年3月 支那派遣軍総参謀長
昭和20年2月 第13軍司令官上海で終戦を迎えた
松山 祐三 青森県出身 、陸軍士官学校(22期) 歩兵第31連隊付、第8師団副官
1939年8月、陸軍少将 第64独立歩兵団長
1942年12月、陸軍中将 第56師団長 ビルマ戦線で苦戦
終戦をタイにおいて迎え
町尻 量基
まちじりかずもと
伯爵壬生基修の4男でもと壬生基綱。子爵町尻量弘の養嗣子となる。
妻は賀陽宮邦憲王の第一王女由紀子女王
陸軍士官学校(21期)、陸軍大学校(29期)第21期の同期には、
石原莞爾陸軍中将や飯村穣中将、百武晴吉中将
昭和14年8月1日に陸軍中将  第6師団長 昭和17年)11月10日印度支那駐屯軍司令官
末松 茂治 福岡県出身, 陸軍大学校(23期) 昭和9年)3月、陸軍中将
昭和10年)12月、第14師団長 第114師団長
正井義人 鳥取、陸大34期  昭和19年10月   下関要塞司令官、第121師団長
真崎満雄 佐賀、        昭和20年4月 第3航空通信司令官
真野五郎 兵庫、陸大35期  昭和17年12月 第41師団長
馬奈木敬信
まなきたかのぶ

 
陸士28期  福岡県  陸大36期 昭和16年 6月  泰・仏印 国境画定委員
昭和16年10月 少将 昭和16年11月 第25軍参謀副長兼軍政部長
マレー作戦、シンガポールの戦いに参加 昭和16年11月  第25軍参謀副長兼軍政部長
昭和17年 4月  ボルネオ守備軍参謀長 昭和19年 9月  第37軍参謀長
サイゴンに司令部を置き仏印の守備を担当し 昭和20年 3月  中将 第2師団長
終戦を迎えた
丸山 政男


 
 
長野県出身   陸軍大学校(31期)
参謀本部付勤務、参謀本部員、イギリス出張、イギリス大使館付武官補佐官、
参謀本部員、陸大専攻学生、
陸大教官、インド駐剳武官、参謀本部付、参謀本部員、東南アジア出張、
イギリス大使館付武官、参謀本部課長 近衛歩兵第4連隊長などを経て
1938年7月、陸軍少将に進級 1941年3月、陸軍中将
第2師団長として出征し、バタビア攻略
ガダルカナル島の戦いにおいて、第1次総攻撃の失敗を受けて、ジャワ島守備に着いていた
第2師団が第2次総攻撃に投入されたが、それも失敗に終わり、
1943年2月の撤退まで泥沼の戦闘を継続した。       1944年3月、予備役
戦後、戦犯容疑、1949年12月25日、バタビア裁判で無罪の判決が出された。
水原義重 愛媛、       昭和20年3月 福岡輸送統制部長、第128師団長
水上 源蔵

  
陸士23期 山梨県出身 昭和16年10月少将 留守第54師団兵務部長
兵庫・岡山・鳥取の三県を徴兵区とする 昭和18年6月 第56歩兵団長
昭和19年8月 戦死(ミートキーナ) 中将   
北ビルマの要衝ミイトキーナに援軍として派遣を命じられる
部下の渡河を見届けた後、一人でその責を負って自決した
宮下 健一郎 山形県 陸士(27期) 陸大(39期) 昭和13年)、陸軍歩兵大佐
昭和16年)、陸軍少将 昭和18年)6月、第32歩兵団長
中国で従軍した。独立歩兵第1旅団長、第1国境守備隊長を経て、
昭和20年)3月、陸軍中将
翌月、第157師団長に着任し、青森県三本木本土決戦に備えたが、交戦することなく終戦を迎えた。
三浦忠次郎 東京、陸大33期  昭和17年12月 第64独歩団長、第69師団長
三浦三郎 山口、陸大36期  昭和18年6月 関東憲兵隊司令官、第114師団長
三上喜三 広島、陸大38期  昭和19年6月 所沢航空整備校長、第4飛行師団長
峯木十一郎 新潟 陸大38期 昭和16年10月  少将 北海守備隊司令官
昭和18年10月  第7歩兵団長 昭和19年 3月  海上機動第4旅団長
昭和19年11月  樺太混成旅団長 昭和20年 3月  中将 第88師団長
本土決戦に備えて樺太にも師団の設置が図られ
宮川清三 第40師団長
三国直福 福井、陸大33期  昭和17年12月 第21師団長
宮崎繁三郎
 

 
陸士26期 岐阜県 参戦したノモンハン事件 昭和14年3月 歩16連隊長
陸大36期 日本陸軍の名将の1人 昭和15年12月 少将 上海特務機関長
昭和17年8月 歩26旅団長 昭和18年3月 第31歩兵団長
昭和19年6月 中将 昭和19年8月 第54師団長
インパール作戦では部下思いで指揮官・人格者・理性的軍人として賞賛されることになる
イラワジ河下流付近で防衛戦を展開した。
ビルマの収容所に収容され、イギリス軍の捕虜
宮崎 周一 陸士28期    長野県下伊那郡 昭和16年8月 少将
陸大39期    ソロモン諸島方面の作戦 昭和17年10月 第17軍参謀長
昭和18年 5月  参謀本部第4部長 昭和18年8月 陸大幹事
漢口に赴任 昭和19年8月 第6方面軍参謀長
昭和19年8月 第6方面軍参謀長漢口に赴任       昭和19年10月 中将
昭和19年12月 参謀本部第1部長
ミズーリ号の艦上で行われた降伏文書調印式
三島義一郎 福岡、陸大37期  昭和20年3月 壱岐要塞司令官、第150師団長
船舶砲兵団長
光成省三
 
広島、陸大43期  昭和19年8月 少将 第10飛行団長、独立10飛行団長
任 中将 20.6.21戦死
見秋三郎 第154師団長
麦倉俊三郎 陸士24期  陸大32期 昭和15年 8月  独立混成第9旅団長
昭和16年 3月  第62独立歩兵団長 昭和16年10月 中将
昭和16年11月 第52師団長 金沢に駐屯
第31軍司令官・小畑英良中将が戦死で  昭和19年8月 第31軍司令官代理
昭和20年1月 第31軍司令官トラック島で終戦を迎え
牟田口廉也


 
陸士22期  佐賀県出身 陸大29期 昭和11年5月 支那駐屯歩1連隊長
昭和13年3月 少将 関東軍附 昭和13年7月 第4軍参謀長
和14年12月 予科士官学校長 昭和15年8月 中将
昭和16年4月 第18師団長マレー作戦、シンガポール攻略戦の指揮
昭和18年3月 第15軍司令官 インパール作戦
昭和19年12月 予備役 昭和20年1月 召集 予科士官学校長
インパール作戦失敗の後、8月に第15軍司令官を罷免されて参謀本部附
A級戦犯容疑で逮捕 昭和21年)9月、シンガポールに移送され裁判。
昭和23年)3月、釈放     昭和41年)8月2日、没
武藤 章
 

 
陸士25期     熊本県白水村 昭和13年7月 北支方面軍参謀副長
陸大32期恩賜    対米英戦争に反対した 昭和14年3月 少将
昭和14年9月 軍務局長兼調査部長 昭和16年10月 中将
昭和17年4月 近衛師団長 スマトラ・メダン 昭和18年6月 近衛第2師団長
昭和19年10月 第14方面軍参謀長フィリピン)の参謀長に就任した
戦後、東京裁判で捕虜虐待の罪により死刑判決を受けた。
昭和23年12月23日に巣鴨プリズンで絞首刑に処された
開戦後は戦争の早期終結を主張し、東條や鈴木貞一、星野直樹らと対立
中村次喜蔵   第112師団長 琿春
停戦までソ連軍大兵力を阻止した。  
村井権治郎
 
陸士25期 昭和14年10月 歩第116連隊長
昭和17年12月 京都聯隊区司令官 昭和18年3月 少将
昭和19年6月 第14師団司令部附 第14師団派遣参謀  昭和19年7月 ペリリュー地区隊 作戦指導
昭和19年12月 戦死(ペリリュー島) 中将
村岡 豊 陸士24期  陸大32期 昭和14年3月 関東軍野兵廠長
昭和14年8月 少将 昭和16年3月 第1独立砲兵団長
昭和16年8月 科学学校幹事 昭和17年3月 東部軍砲兵隊長
昭和18年3月 第8砲兵司令官 昭和19年6月 中将 第103師団長
村上 啓作
 
 
陸士22期恩賜   栃木県 昭和11年8月 陸大研究部主事
陸大28期恩賜 昭和13年12月 関東軍附
宜昌作戦に従事した。 昭和14年10月 中将 第39師団長
昭和16年9月 科学学校 校長 昭和18年3月 総力戦研究所長
昭和18年12月 公主嶺学校 校長 昭和19年11月 第3軍司令官
延吉で終戦を迎えた
戦後、シベリア抑留となり、1948年9月、ハバロフスクの収容所で病死した。
村田 孝生  
  たかお
東京  陸軍士官学校(27期) 昭和13年)7月、歩兵大佐
     陸軍大学校(40期) 昭和15年)12月、第11軍隷下第33師団参謀長
昭和17年)8月、陸軍少将  関東軍隷下の第14歩兵団長 
  支那派遣軍隷下の独立歩兵第12旅団長       昭和20年)4月、陸軍中将
  第2総軍隷下の第231師団長
山口市付近で本土決戦に備えていたが、交戦することなく終戦
森 厳
 
愛知、陸大43期  昭和20年3月 少将 戦車第2師団長
任 中将 20.4.19 戦死
森 赳
もり たけし
 
陸士28期恩賜  高知県 陸大39期 昭和16年7月 第6軍参謀副長
和16年8月 少将 昭和17年7月 第6軍参謀長
昭和18年2月 憲兵司令部本部長
昭和19年1月 第19軍参謀長 ア  ンボンに進出、ジャワ島の守備などを担当。
昭和20年 3月  中将 参謀本部附 昭和20年4月 近衛第1師団長
ポツダム宣言受諾に際し8月15日未明、宮城事件が勃発する  昭和20年8月 死亡(宮城事件)
井田中佐に決起を迫られたが、クーデターへの参加を拒否したため、畑中少佐から発砲を受け、
更に航空士官学校の上原重太郎大尉に軍刀で斬りつけられ、殺害された。
両角 業作
もろずみ
 ぎょうさく
長野県 陸軍士官学校(22期) 陸軍歩兵学校で甲種学生
陸士生徒隊中隊長、教育総監部付勤務、豊橋陸軍教導学校学生隊中隊長、同校副官、
歩兵第59連隊大隊長、歩兵第59連隊付、歩兵第1連隊付(東京慈恵会医科大学配属将校)、
歩兵第29連隊留守隊長、歩兵第65連隊長、本郷連隊区司令官などを歴任し、1939年8月、
1939年8月、陸軍少将に進級
第39師団歩兵団長として太平洋戦争を迎えた。留守第5師団兵務部長を経て、
1944年3月、陸軍中将となり第30師団長
フィリピンのミンダナオ島北部の守備を担当し、1945年に上陸したアメリカ軍及び
現地人ゲリラとの間でミンダナオ島の戦いを遂行し、後退しての持久戦の最中で
終戦を迎えた。部下の多くを失った。
森 茂樹 徳島、陸大39期  昭和20年3月 馬政局次長、第65師団長
毛利末広 愛知、         昭和19年3月 第58師団長、中部軍兵務部長
物部 長鉾
もののべ
 ちょうほう
秋田県 陸軍士官学校(26期)  陸軍大学校(33期)
昭和12年11月、輜重兵大佐 昭和13年)2月、中支那派遣軍兵站参謀
昭和15年)8月、陸軍少将 第11野戦輸送司令官 昭和17年)7月、船舶参謀長
昭和18年)2月、船舶練習部長 同年10月、陸軍中将
昭和19年)4月、輜重兵監に就任し、留守近衛第2師団長に異動
昭和20年)4月1日に第140師団長となり、鎌倉で対着上陸作戦準備中に終戦を迎えた。
森岡 皐 広島、陸大32期  昭和15年12月 第16師団長、予備役、華北総合調査所長
森田 広 和歌山、       昭和19年10月 関東軍兵器部長、第2総軍兵器部長
森玉徳光
 
兵庫、        昭和19年3月 少将 白城子教導飛行団長
任 中将 19.7.21戦死
守屋精爾
  せいじ
岡山、陸大41期  昭和17年8月 少将 泰駐在武官、泰国駐屯軍参謀長
任 中将18.5.20
 
  
安田 武雄 陸士21期恩賜   岡山県出身  東大電気卒 昭和13年12月  航空技術研究所長
砲工校18期優等 昭和14年8月 中将
昭和17年6月 第1航空軍司令官 昭和18年6月 航空総監兼航空本部長
      兼 多摩技研所長
昭和19年3月 軍事参議官 昭和20年4月 第1航空軍司令官
安田利喜雄 香川、        昭和19年8月 少将 第16野航修廠長
任 中将  20.2.6
安井 藤治 富山県 陸軍士官学校(第18期) 陸軍大学校(第25期)を優等
1936年の二・二六事件の際には東京警備参謀長として戒厳司令部参謀長を務めた。
1937年に陸軍中将
1938年に第2師団長、1939年に第6軍司令官を歴任後、1941年、予備役編入。
1945年の鈴木内閣では国務大臣として入閣した。鈴木内閣で陸軍大臣を務めた阿南惟幾とは
陸士同期であり、和平へ進む鈴木内閣と本土決戦を叫ぶ陸軍中堅幹部の
板挟みとなって苦心する
矢野 政雄 大分、陸大39期  昭和20年3月 駐蒙軍参謀長、第3方面軍参謀長、 第57師団長
八隅錦三郎 福岡、        昭和20年4月 第1工兵隊司令官、 第320師団
柳川 真一 島根、        昭和19年10月 独歩2旅団長、 第120師団長
柳川 悌  
  やすし
香川、陸大36期  昭和16年8月  留守54師団長、 第132師団長
23.2.27 漢口
柳田 元三

 
陸士26期 長野県 陸大34期恩賜 昭和14年8月 少将 第11軍参謀副長
昭和15年3月 ハルピン特務機関長 昭和15年8月 関東軍情報部長
昭和17年12月 中将
昭和18年3月 第33師団長  インパール作戦失敗で牟田口廉也中将と対立
昭和19年6月 予備役 翌日召集 昭和19年6月 旅順要塞司令官
昭和20年5月 関東州防衛司令官首都防衛の任 1945年8月 敗戦によりソ連に抑留される。
山中 繁茂  
   しげる
高知、陸大38期  昭和19年10月 第25飛行師団長、航空路司令官、第52航空師団長
山瀬 昌雄 広島、陸大33期  昭和18年6月 第2飛行師団長、
山路 秀男 愛媛、陸大35期  昭和19年1月 東部軍兵務部長、戦車第3師団長
山県栗花生   
  つゆお

 
陸士23期  山口県出身 昭和15年 8月  少将 基隆要塞司令官
東部ニューギニアの諸作戦に参加 昭和16年 6月  独立混成21旅団長
昭和18年12月  留守53師団兵務部長
親補されマニラに赴任 昭和19年 7月  中将 第26師団長
昭和20年 2月  戦死(レイテ島)
山崎 保代
 

 
陸士25期  山梨県南都留郡 昭和14年3月 第36師団兵器部長
昭和15年3月 大佐 歩130連隊長
昭和18年2月 北海守備第2地区隊長アッツ島に着任
昭和18年5月 戦死(アッツ島)
山崎は右手に軍刀、左手に日の丸の布を持って攻撃部隊の先頭に立ち激しい白兵戦を展開した
アッツ島の戦いを指揮し17日間の激しい抗戦の後戦死した。
中将 二階級特進
山崎 清次 東京都  陸軍士官学校(24期) 昭和13年)7月、砲兵大佐
昭和15年)8月、陸軍野戦砲兵学校教導連隊長 昭和16年)7月、第51砲兵団長
昭和16年10月、陸軍少将 昭和17年)8月、北支那方面軍付
昭和18年)6月、支那派遣軍砲兵教育隊長 昭和20年)1月、第52軍隷下の第8砲兵司令官
昭和20年4月、陸軍中将
同年5月、近衛第3師団長に親補され、千葉県成東で本土決戦に備えていたが、交戦することなく終戦
山崎三子治郎    みねじろう 東京、         昭和16年8月 少将 第52歩兵団長、留守第5師団附
任 中将 19.5.27
山田 清一

 
陸士26期  岐阜県出身 陸大35期恩賜 昭和14年8月 少将
昭和14年9月 陸軍省整備局長 昭和17年4月 南方軍燃料廠長
昭和18年6月 中将 昭和19年3月 南方軍燃料本部長
昭和19年10月 第5師団長 昭和20年8月 自決(セラム島)
カイ諸島の守備を担当し、セラム島で終戦を迎えた
山田国太郎 愛知、陸大40恩賜 昭和18年10月 泰国駐屯軍参謀長、第48師団長
山田 茂 茨城、        昭和16年10月 少将 台湾軍兵器部長、第4工兵隊司令官
任  中将
山本 敏 陸士32期  陸大41期 昭和14年1月 参謀本部附 ベルリン駐在
昭和15年8月 大佐 昭和17年12月 浜松飛行学校j教官
昭和18年3月 光機関長 昭和19年1月 南方軍遊撃隊参謀
昭和19年8月 少将 昭和19年11月 第13軍参謀長のち参謀副長
昭和20年3月 中野学校校長
山本 三男 熊本、        昭和17年4月 留守第20師団長、第3師団長、第93師団長
山本 健児 高知、陸大35期  昭和19年10月 浜松飛行校長、第8飛行師団長
台湾で終戦
山本 募 福岡、陸大34期  昭和20年7月 第33歩兵団長、独混72旅団長、第214師団長
山本 務 大分、陸大32期  昭和16年10月 第5師団長、予備役後、第138師団長
山本 清衛 高知県  陸士校(28期) 陸大(40期) 昭和7年)4月、砲兵少佐
昭和13年)7月、砲兵大佐 昭和16年2月、第3師団参謀長に就任し太平洋戦争
昭和17年)8月、陸軍少将 昭和18年)1月、第5特設鉄道司令官 ビルマに赴任
昭和19年)6月、第33軍参謀長 昭和20年)2月、第15師団長心得
    3月1日、陸軍中将に進み第15師団長
イラワジ会戦で苦戦を強いられ、同月20日に重傷を受けた。
山内 正文 滋賀県   陸軍大学校(36期)綾部橘樹、有末精三、斎藤義次、小畑信良らが同期
昭和7年)、カンザス米陸軍大学校を卒業 昭和11年)8月、歩兵大佐
昭和14年)3月、陸軍少将 昭和16年)10月、陸軍中将、第1独立守備隊司令官
昭和17年)6月、第15師団長に親補され、インパール作戦に参戦
同作戦中、多くの将兵と同じように自らもマラリヤに罹患し、柳田元三と共に、
上官である牟田口廉也に忌避され
昭和19年)6月10日、師団長を解任され参謀本部付となる。のち収容先の
メイミョウの兵站病院で病没する。
山口 信一 東京、陸大35期  昭和20年4月 留守近衛2師団兵務部長、第354師団
山脇 正雄 高知、 陸大37期  昭和420年4月 関東軍化学部長、 第160師団長
矢崎 勘十 第321師団 伊豆大島
横尾 闊
 ひろし
佐賀、         昭和18年3月 少将 第14方面軍兵器部長、
任 中将 20.4.16 戦傷死
横田豊一郎 徳島、         昭和20年4月 独混66旅団、第344師団長
横山 勇

 
 
陸士21期恩賜   福島県出身 陸大27期 昭和14年 4月  企画院第1部長
昭和14年 8月  中将 東部軍附 昭和14年 9月  第1師団長
昭和16年10月 第4軍司令官 満州北部の北安
昭和17年12月  第11軍司令官  日中戦争における桂林作戦を指導
昭和19年11月 西部軍司令官
昭和20年2月 第16方面軍司令官兼 西部軍管区司令官 福岡で終戦を迎えた。
昭和23年)8月、絞首刑の判決が下されたが
昭和21年)7月、九州大学生体解剖事件及び油山事件の責任を問われ逮捕 
昭和23年)8月、絞首刑の判決が下されたが、1950年7月、再審で減刑されて禁固刑となり、
巣鴨プリズンで病死した。
横山 静雄

  
陸士24期  千葉県  陸大37期 昭和13年3月 歩第2連隊長
昭和14年3月 少将 第2野戦鉄道司令官 昭和15年10月 関東軍野戦鉄道司令官
昭和16年10月 中将 昭和17年6月 第8師団長 満州の鶏寧県
昭和20年3月 第41軍司令官 兼 第8師団長事務取扱 フィリピンに派遣 
終戦後、戦犯として逮捕され、1949年5月、フィリピンのマニラ法廷で死刑判決
を受けたが減刑され、1953年12月、巣鴨プリズンから釈放された。
横山 武彦
 
陸士25期 昭和14年8月 歩第231連隊長
昭和16年3月 東部軍附 昭和18年8月 少将 歩第62旅団長
昭和19年6月 戦死(浙江省) 中将
吉田喜八郎 陸士29期恩賜 北海道出身 陸大38期恩賜 昭和15年 3月  第2飛行集団参謀長
昭和16年10月  少将 昭和16年11月  航空技術研究所総務部長
昭和17年 9月  大本営航空通信保安長官
昭和18年 5月  第1航空軍参謀長 司令部を岐阜に新設
昭和19年3月 第10飛行師団長心得  司令部を調布飛行場
昭和20年 3月  中将 第13飛行師団長南京で終戦を迎えた。
吉田 悳 山形県 陸士校(20期) 陸大(29期) 旧姓:渡辺     大正12年)8月、騎兵少佐
昭和6年)8月、騎兵大佐 昭和11年)8月、陸軍少将 陸軍騎兵学校幹事
昭和14年)1月、駐蒙軍隷下の騎兵集団長に就任  同年3月、陸軍中将
昭和17年)6月、新設の機甲軍司令官
昭和18年)10月、参謀本部付となり、同年12月、関東防衛軍司令官に着任。
(昭和20年)3月、予備役に編入され同月、満洲電信電話株式会社総裁に就任した。
吉田峯太郎 東京、陸大35期 西部軍兵務部長、留守57師団長、第13師団長
吉積 正雄 広島県  陸士校(26期) 陸大(35期) 昭和8年)8月、歩兵中佐
昭和14年)12月、第4軍参謀長 昭和15年)3月、陸軍少将
昭和17年)4月、陸軍省整備局長 昭和18年)6月、陸軍中将
昭和20年)3月、最後の軍務局長
吉岡 安直  大分県 陸士(25期) 陸大(37期) 昭和7年)12月、関東軍参謀
    昭和年8月、歩兵中佐
1932年3月の満州国建国後の昭和10年)3月に皇帝・愛新覚羅溥儀の御用掛
(関東軍司令部付)となり同国の首都・新京に赴任。
その後、日本の駐満州国大使館附武官などを兼務しながら同職を務める。
同国の首都・新京に赴任。その後、日本の駐満州国大使館附武官などを
兼務しながら同職を務める。
昭和17年)12月に陸軍中将
昭和20年)8月8日にソ連軍がソ満国境を越えて満州国に侵攻した際に、
溥儀ら満州国首脳とともに新京を放棄その後、溥儀らとともにソ連軍に捕まることを避けて
日本へ逃亡する途中、奉天の飛行場でソ連軍に捕らえられた。
その後ソ連領内に移送され、1947年(昭和22年)にモスクワの病院で死去した
吉岡善四郎 宮城、         昭和20年4月 駐蒙軍築城部長、工兵校長
芳村正義 奈良、陸大37期  昭和20年4月 第1船舶輸送司令官、第4船舶団長、第17軍附
船舶練習部長
芳仲和太郎 陸士27期  陸大37期 昭和15年3月 ハンガリー公使館附武官
昭和15年4月 兼 ユーゴスラビア武官 昭和16年3月 少将
昭和17年12月 西部軍参謀長 昭和19年6月 中将
昭和20年2月 第16方面軍参謀長 九州地方
昭和20年5月 第86師団長鹿児島に在って志布志湾沿岸の守備を担当
吉原 矩  陸士27期 陸大35期 昭和14年6月 北支方面軍作戦課長
昭和14年9月 工兵監部員 昭和15年12月 少将
昭和16年11月 第1工兵隊司令官 昭和17年7月 第2方面軍参謀長
昭和17年11月 第18軍参謀長 昭和19年3月 中将
米山米鹿 東京、         昭和16年8月 少将 第52歩兵団長、独混22旅団長
任 中将
李王 垠 
 り ぎん/
陸士29期 陸大35期 朝鮮王族  昌徳宮 朝鮮皇帝 李太王(高宗)の第4王子
昭和14年8月 近衛歩兵第2旅団長 昭和15年5月 留守第4師団長
昭和15年12月 中将 昭和16年7月 第51師団長
昭和16年11月 教育総監部附 昭和18年7月 第1航空軍司令官
昭和20年4月 軍事参議官 昭和22年5月 李王家廃止
     
若松 只一
  
ただかず

 
陸士26期   福島県 昭和14年 8月  少将
陸大38期          広東付近での諸作戦 昭和14年10月  第38歩兵団長
昭和15年 2月  第22軍参謀長
昭和15年12月  参謀本部第2部長
昭和16年 4月  参謀本部総務部長
昭和17年12月  中将 参謀本部第3部長
ジャワ島東部の小スンダ列島スンバワ島 昭和18年10月  第46師団長
東南アジア全域 昭和19年11月  南方軍総参謀副長
広島 昭和20年 4月  第2総軍参謀長
広島警備担任司令官に任命した 昭和20年 7月  陸軍次官兼兵站総監
  
和田 孝助

 
陸士23期恩賜   大分県出身 昭和14年 3月  第1軍兵器部長
兄 和田 亀治陸軍中将 昭和14年 8月  少将
二男 和田敬道(陸軍中佐) 昭和15年 8月  北支方面軍附
三男 和田信房(海軍中将) 昭和17年 4月  第5砲兵司令官
昭和19年10月  中将 昭和20年 6月  戦死(沖縄)
渡辺 正夫 大阪、 陸軍士官学校(21期) 1909年砲兵少尉に任官
陸軍大学校(31期) 陸軍砲工学校高等科を卒業
参謀本部付勤務、参謀本部員、陸軍野戦砲兵学校教官、広島湾要塞参謀、豊予要塞参謀、
近衛野砲兵連隊大隊長、野戦砲兵学校教官、野砲第10連隊長、第14師団参謀長を歴任
1937年8月、陸軍少将
中部防衛参謀長、陸軍造兵廠総務部長、陸軍兵器本廠長などを歴任し
1939年10月、陸軍中将 1940年8月、新編された第56師団長 
ビルマの戦いに従軍し侵攻作戦とビルマルート遮断に成功した
1944年3月、沖縄の第32軍初代司令官として沖縄の航空基地設営を行った
同年8月、心労のため、また過度に沖縄県民の不安を煽ったことで、参謀本部付となり、
10月に予備役編入となったが
1945年4月に召集され、大阪師管区司令官に就任
和知 鷹二
   たかじ
 

 
 
陸士26期  広島県  陸大34期 昭和15年3月 少将
昭和16年3月 台湾軍参謀長兼台湾軍研究部長
昭和17年2月 第14軍参謀長フィリピン・バターン攻略に参加し
昭和17年8月 兼 比島軍政監 昭和18年6月 中将
昭和19年3月 南方軍総参謀副長
昭和19年11月 第35軍参謀長レイテ島の戦いに参戦したが敗退
昭和20年4月 南方軍総参謀副長
昭和20年8月 中国憲兵隊司令官
昭和21年)1月、戦犯容疑(橘丸事件)で逮捕され巣鴨拘置所に拘留
昭和23年4月13日、重労働6年の判決を受け、昭和25年8月に仮釈放された。
鷲津 鈆平
  
しょうへい
愛知県   陸軍士官学校(第18期) 昭和4年)8月、陸軍大佐
陸大(第27期)を優等
アメリカ大使館付武官、参謀本部付、歩兵第13連隊長などを歴任し、昭和9年)8月、陸軍少将
歩兵第39旅団長、近衛師団司令部付、陸軍戸山学校長を歴任し、昭和12年)11月、陸軍中将
昭和15年)9月、第4軍司令官 昭和16年)12月、予備役
昭和20年)4月に応召、名古屋師管区司令官
渡辺雅夫 石川、陸大36期  昭和20年4月 留守近衛第2師団参謀長、南洋第3支隊長
独混52旅団長
渡辺洋 山口、 陸大36期 昭和19年10月中将 第4軍参謀副長、第12歩兵団長、第2方面軍参謀長
有川圭一
 
鹿児島、      昭和19年3月 少将 歩54旅団長
任 中将  20.6.30 戦死 (沖縄)
池田栄之助
 
和歌山、      昭和20年3月 少将 北海守備3地区隊長、海上機動3旅団長
任 中将  20.4.19 戦死
小川団吉
  
島根、陸大37期 昭和17年8月 少将 第5飛行団長、燃料第2工廠長
任 中将 20.6.15
加嶋三郎
 
山口、       昭和18年3月 少将 重砲校長、 独混47旅団長
任 中将  19.7.18 戦死
川上清志
 
鹿児島、陸大40期恩賜 昭和18年3月 少将 第2航空軍参謀、第三航空軍参謀長
任 中将  19.12.8 戦死
河島 修
 
東京、       昭和19年3月 少将 留守56師団参謀長、歩82旅団長
任 中将 20.5.22 戦死
栗栖盛夫
 
山口        昭和19年3月 少将 公主嶺校教官、第68旅団長
任 中将  20.7.17 戦死
重松 潔
 
愛媛        昭和18年3月 少将 第11歩兵団長、独混48旅団長
任 中将 19.7.26 戦死
末長常太郎
 
富山        昭和19年8月 少将 歩38聯隊長、
任 中将 19.7.21 戦死
高田清秀
 
富山 陸大41期 昭和18年3月 少将 第5野戦輸送司令官、ビルマ方面軍兵站監
任 中将 20.5.19 戦死
竹田鼎三
 
山口        昭和19年3月 少将 第78旅団長、
任 中将 19.10.25 戦死
外立岩治
 
熊本 陸大37期 昭和16年3月 少将 南方軍通信隊司令官
任 中将 18.1.16 戦死
本村千代太
 
佐賀        昭和17年8月 少将 歩59旅団長、
任 中将 19.6.11 戦死 (河南省)
横山武彦
 
広島        昭和18年8月 少将 歩62旅団長
任 中将 19.6.11 戦死 (浙江省)
 
      
市村善蔵 茨城、         昭和20年4月 第3軍経理部長、被服本廠長
渦川正義 和歌山        昭和19年6月   第12方面軍経理部長
管野真敝
  まさたか
宮崎、         昭和18年6月
栗橋保正 茨城          昭和16年8月 経理局長兼野戦経理長官
関東総軍経理部長
迫 栄吉 鹿児島        昭和16年8月 経理校長、第1総軍経理部長
佐藤勇助 東京         昭和19年3月 第1方面軍経理部長、中部軍経理部長
兼第15方面軍経理部長
清水菊三 長野         昭和17年4月 支那派遺軍経理部長
高木六郎 岐阜         昭和20年4月 朝鮮軍経理部長、需品廠長
多田勉吉 広島         昭和20年3月  第2方面軍経理部長
西原貢   
 
みずき
山口         昭和16年8月 支那派遺経理部長
八木光三 兵庫        昭和20年4月 第11軍経理部長
前川敬悦 石川        昭和17年4月 北支那方面軍経理部長
森 武夫 岡山        昭和17年12月 第2総軍経理部長
森田親三 埼玉        昭和19年12月 第8方面軍  、経理局長
矢代藤一 東京        昭和19年10月 第5方面軍
吉野 繁 長野、東大卒  昭和19年3月 北支那方面軍
和住吉三郎 石川        昭和20月3月 南方総軍
   
青木九一郎 東京        昭和16年10月 南方軍軍医部長
安藤快平 東京        昭和16年8月 ハルピン第1病院長
石井四郎 千葉        昭和20年3月 関東軍防疫給水部長、731部隊の創設者として
防疫活動に従事。細菌兵器を開発
  
井深健次 東京        昭和17年4月 軍医校長
植林昌四郎 東京        昭和20年4月 第5方面軍
上原 慶 東京        昭和19年6月 第8方面軍
押火権太郎 青森        昭和16年8月 香港病院長
喜悦三毅男 東京        昭和20年4月 ハルピン第1病院長
梶井貞吉 東京        昭和19年6月 第5方面軍
鎌田 調 香川        昭和16年8月 ビルマ方面軍  、第18方面軍
    みつぎ
神林 浩 長野        昭和16年11月 支那派遺軍
北野政次 兵庫        昭和20年4月 第13軍
後藤鐐枝 愛知        昭和19年10月 南京第1病院長
小宮山友則 山梨        昭和16年8月 第4軍 以後開戦後 予備役
篠田重徳 福岡        昭和20年6月 少将 第32軍
任 中将 20.7.30 没
進藤 升 岡山        昭和19年10月 朝鮮軍 、 兼第17方面軍
田中 厳 京都        昭和19年3月 第2方面軍 、 第15方面軍 、第2総軍
中嶌晴彦 長野        昭和19年3月 南方第12病院(マニラ)、第14方面軍
那梛 厳 新潟        昭和17年4月 北支那方面軍、南方軍
原田 豊 兵庫        昭和17年12月 東京第3、第1病院長
細見 憲 京都        昭和19年6月 第7方面軍
堀内清真 長野        昭和204月 西部軍 兼 第16方面軍
村上徳治 島根        昭和19年6月 新京第病院長
  追加
渡辺甲一 埼玉        昭和20年3月 第8航空技術研究所長
大島 浩

 

  
岐阜、陸軍大学校(27期) 昭和5年)8月1日 - 大佐
昭和9年)3月5日 - 駐ドイツ大使館付武官昇進 昭和10年)3月15日 - 少将
昭和13年)3月1日 - 中将
昭和14年)8月23日 - ヒトラー、独ソ不可侵条約を締結
昭和15年)9月27日 - 日独伊三国同盟調印
昭和23年)11月12日 - 極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身刑
昭和30年) - 減刑、出獄
日独伊三国同盟締結の立役者としても知られる
奈木敬信 第2師団長
 
 
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